2020年12月6日日曜日

素粒社の二冊の本(鴇田智哉・小津夜景)

湯川秀樹のエッセイに「知魚楽」というのがある。一時期、高校の教科書にも掲載されていたので、よく知られていることと思う。
荘子と恵子が川のほとりを散歩していた。
荘子「魚がのびのびと泳いでいる。これこそ魚の楽しみだ」
恵子「君は魚ではない。どうして魚の楽しみが分かるのか」
荘子「君は僕ではない。どうして僕が魚の楽しみを分かっていないと分かるのか」
恵子「僕は君ではない。だから君のことは分からない。君は魚ではない。だから君には魚のことが分からない」
荘子「僕は川のほとりで魚の楽しみが分かったのだ」
この話を紹介したあと、湯川は素粒子の話につなげている。

さて、素粒子にちなむのかどうかわからないが、今年の7月に「素粒社」という出版社が立ち上げられた。
「オルガン」23号に素粒社設立に祝意を表して巻かれたオン座六句が掲載されている。出版などを記念しての連句興行は連句の世界ではよくあることだ。

すゝきからすこし出てゐるからだかな  北野抜け芝
 雲払はれし素顔たる月        福田若之
大皿にうつるラベルのなめらかに    宮本佳世乃
 テープ起しの声のさゝめく      鴇田智哉
空気より冷たい鳥の樹を祝ふ      田島健一

発句の北野抜け芝が素粒社を設立した北野太一で、彼は浅沼璞に学んだ連句人としても知られている。引用部分は全体に祝意に満ちたもので、発句と脇は編集者として先へ進もうとすることへの挨拶のやり取りとも読める。

素粒社からは新刊が立て続けに出ているが、鴇田智哉の句集『エレメンツ』から読んでみたい。『こゑふたつ』『凧と円柱』に続く第三句集である。たとえばこんな句がある。

手の書きし言葉に封をする手かな  鴇田智哉
太陽が蠅の生れてからもある

なぜこういう句を書くのだろう。
手が書いた手紙を手で封をする。蠅が生まれたあとも太陽は存在している。考えてみれば当たり前のことだが、それをあえて言葉にすることによって立ち上がってくるものがある。「手」というものの存在、太陽と蠅の無関係的な関係。

かなかなといふ菱形のつらなれり
風船を結びつけて木の衰ふる
すみれ目のひとたちが自転車で来る
秋の蚊つかめば前を見てをりぬ
蓑虫を自分の鼻のやうに見る

かなかなは蜩だが、この蝉が菱形だと言っている。菱形と言えばいえるかも知れないが、この句をじっと見ていると、俳句の切れ字のことのようにも思えてくる。
木が衰えたのは風船を結びつけたからなのか。別の原因があったのではないか。
「すみれ目のひと」ってどんな人だろう。しかも、自転車に乗っている。
秋の蚊が前を見ているなんて虚構にちがいない。
蓑虫に対しては自分の身体の一部のような視線で見ている。
写生というより言葉によって世界を構築している句だろう。
作者はいつからこのような句を書くようになったのだろう。気になったので、今までの句集を取りだしてみた。

こゑふたつ同じこゑなる竹の秋  (『こゑふたつ』)
人参を並べておけば分かるなり  (『凧と円柱』)

ふたつの声が同じだという。それに「竹の秋」という春の季語を取り合わせている。
人参の句は何が分かるのかが省略されているが、それは読者の読みに任せる書き方である。
一句目は季語の力が強すぎるし、二句目は川柳でもよくやる省略の効いた書き方。川柳人の私にはあまり関係がないと思っていたが、今度の第三句集は分かりにくい部分も含めて興味深かった。川柳は世界を批評的な目で眺めるが、物に即しつつ言葉によって世界を構築するやり方がおもしろいと思った。

もう一冊、小津夜景『いつかたこぶねになる日』は前著『かもめの日の読書』に続いて漢詩について書いている。
たこぶねとは?
蛸のなかで分泌物を出して貝殻のようなものを作る種があるらしい。
リンドバーグ夫人の『海からの贈り物』にも出てきて、本書にも引用されている。確か須賀敦子がリンドバーグ夫人のこの本を絶賛していたと記憶している。
たこぶねのことから江戸時代の女流詩人・原采蘋の話になって、彼女が故郷の筑前から江戸へ旅立つときの漢詩が紹介されている。采蘋二十七歳。ここでは現代語訳の方で引用。

夜あけに起き 父母に礼をして
新年 郷里を出発する
門の前では手ずから植えた柳が
ひときわ別れを惜しんでゆれる

中村真一郎の『頼山陽とその時代』では「女弟子たち」の章で平田玉蘊、江馬細香の次に三番目に簡単に紹介されている采蘋だが、ここでは彼女の姿が生き生きと立ち上がってくる。
次の章では李賀の「苦昼短」(昼が短すぎる)が登場。「飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒を勧めん」ではじまる詩である。詩人で連句人でもある鈴木漠も李賀のファンだが、彼の連句集のなかに『飛光抄』(編集工房ノア)がある。横道にそれるが、中国・蘇州での発句で巻かれた歌仙「黄砂」の冒頭部分を紹介しておこう。

天と地の交合(まぐは)ひて降る黄砂かな  永田圭介
 鯤といふ名の魚の日永さ         鈴木漠
山葵擂り蕩児孤独に手酌して        梅村光明

『たこぶね』に話を戻すと、杜甫の「槐の葉のひやむぎ」の説明に青木正児の『華国風味』を引用したり、アイザック・ウォルトンの『釣魚大全』が出てきたり、散りばめられている書物が本好きの人間にとってはたまらなく魅力的だ。文学の楽しみ、読書の楽しみを満喫させてくれて嬉しい。

冒頭の「知魚楽」のエピソード。荘子の言葉をもう少し詳しく書いておく。
荘子「君は『君にどうして魚の楽しみが分かるのか』と言ったが、それはすでに僕が魚の楽しみを知っていることを知って私に訊いたのだ。僕は川のほとりで魚の楽しみが分かったのだ」
恵子が形式論理学者なのに対して荘子は斉物論者である。

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