現代川柳が短詩型文学の読者の目に触れるかたちで取り上げられることは、従来少なかったのだが、岡井隆・金子兜太の共著『短詩型文学論』(紀伊國屋書店、1963年)はその貴重なケースであった。この本は岡井の短歌論と金子の俳句論から構成されているが、現代川柳に触れているのは金子の俳句論の方である。本文ではなくて(附)と記された注のような扱いで次のように書かれている。
河野春三は「現代川柳への理解」で、俳句と川柳が最短詩としての共通性をもち、現在では内容的にも一致している点を指摘し、「短詩」として一本のジャンルに立ち得ることを語っているが、一面の正統性をもっていると思う。ただ、両者の内容上の本質的差異(川柳の機知と俳句の抒情)は越えられない一線であると思う。
「俳句と川柳の本質的差異」についての捉え方が今日の眼から見て妥当かどうかは別として、この時点での金子兜太の考え方が示されている。
河野春三の『現代川柳への理解』(天馬発行所、1962年)は現代川柳の理論水準を示すもので、その後長い間これを越える川柳書は現れなかった。
岡井隆は金子兜太を通じて現代川柳のことも知っていたはずである。そのことを後年になってから、岡井隆は「金子兜太といふキーパースン」(『金子兜太の世界』角川学芸出版、2009年)で次のように書いている。
昭和三十年代あるいは四十年代のはじめだつたか、前衛川柳の何人かの人と、私とを、金子さんは引き合わせてくれた。今はやりの風俗的な、口あたりのいい川柳とはちがう川柳。今、心ある新鋭たちが柳壇の再興をねがつて論をかさね、作品を書いてゐるのを読むと、この人たちの先輩にあたるのが、金子さんが引き合わせてくれたかれらだつたのだと思ふ。あの謎のやうな一群の川柳人たちと、私は、巣鴨か大塚あたりの小さなホテルで合議したことがある。あれは一体何なんだつたのだらう。大方は私の方の事情で、この会議は続かなかつたが、金子兜太の、俳壇を超越した動きの一端はあのあたりにもあつた。
岡井が述べているのは昭和40年前後の柳俳交流についてである。「柳俳交流」について私はこれまでに何度も書いたことがあるが、金子兜太・岡井隆と関連のありそうなデータだけ示しておきたい。ご興味のある方は拙文「柳俳交流史序説」(『蕩尽の文芸』所収)をご覧いただきたい。
〇「川柳現代」15号(発行・今井鴨平、昭和39年1月号)
特集は山村祐著『続・短詩私論』(森林書房)の書評で、金子兜太「短詩と定型」・林田紀音夫「共通の場に立つて」・加藤太郎「『続・短詩私論』を読んで」・石原青龍刀「『続・短詩私論』を読む」・秋山清「『続・短詩私論』私観」・高柳重信「『続・短詩私論』に関するわが短詩私論」を掲載。
〇「俳句研究」昭和39年10月号
河野春三「川柳革新の歴史」・松本芳味「現代川柳作品展望」・山村祐「川柳という名の短詩」
〇「俳句研究」昭和40年1月 座談会「現代川柳」を語る
司会・金子兜太、川柳界から河野春三・山村祐・松本芳味、歌人の岡井隆、俳人の高柳重信による座談会
特に〈「現代川柳」を語る〉という座談会は興味深いので、この時評(2014年8月22日)でも小説風にアレンジして紹介したことがある。
その後、岡井と現代川柳との接点は途絶えたようだが、「今はやりの風俗的な、口あたりのいい川柳とはちがう川柳。今、心ある新鋭たちが柳壇の再興をねがつて論をかさね、作品を書いてゐるのを読むと、この人たちの先輩にあたるのが、金子さんが引き合わせてくれたかれらだつたのだと思ふ」というような部分を読むと、後輩である現代川柳人のことも岡井の視野に入っていたのだと思われる。『注解する者』のなかに佐藤みさ子の川柳が引用されたこともあった。
岡井隆は現代川柳についてまとまった発言を残していないが、現代川柳のことも遠くから見ていたはずである。これからの20年代の川柳のことも引き続き見ていてほしかったと思う。岡井は昭和40年ごろの川柳人について「あの謎のやうな一群の川柳人たち」と言ったが、現代川柳が「謎のような存在」ではなくなってゆくことを願っている。
2020年7月24日金曜日
2020年7月10日金曜日
井上信子と女性川柳(新興川柳ノートⅡ)
瀬戸夏子が柏書房のwebマガジンに連載している「そしてあなたたちはいなくなった」からは多くの刺激を受けているが、特に「女人短歌」の創刊をめぐって、北見志保子と川上小夜子について書かれた文章は興味深かった。
「彼女たちはなんども試みた。当然のようにそれは厳しい戦いだった。彼女たちの最後の賭けが『女人短歌』だった」
こういう文章が瀬戸の魅力だが、ひるがえって川柳における女性作家、女性川柳はどうだったかと考えたときに、まず思い浮かぶのは井上信子の存在である。
信子は井上剣花坊の妻であり、剣花坊の没後「川柳人」を復活させ、鶴彬を庇護したことでも知られている。
国境を知らぬ草の実こぼれ合い 井上信子
この句は信子の代表作であり、昭和に詠まれた名吟のひとつである。
さて、新興川柳運動の渦中に組織された女性作家集団に「川柳女性の会」がある。
「川柳人」昭和5年1月号に掲載された「川柳女性の会」のメンバーは15名であるが、翌年2名を加えて17名となる。そのうち人物と作品が比較的分かっている7名について紹介しておく。
市来てる子
井上信子
井上鶴子
吉田茂子
近藤十四子
三笠しず子
片岡ひろ子
市来てる子は消費組合運動の活動家で、階級意識をもったプロレタリア川柳家。
どつと出た赤い血だ犬にぶつかけろ 市来てる子
阿片だよ社会政策に眩まされるな
井上信子の作品は後回しに。井上鶴子は剣花坊と信子の次女。結婚後は大石鶴子の名で知られている。
さつくりとほうれん草の青い音 井上鶴子(大石鶴子)
ギュッと捻る水道栓の決断
閑寂の庭に小鳥の尾のリズム
絶対の否定空いっぱいに立つ
巣立たんとして大空の持つ魅力
吉田茂子は山口県萩の生まれで、井上剣花坊とは同郷。柳尊寺句会に出席したのがきっかけで、川柳をはじめる。浄土真宗の信者で、のちに「川柳人」から遠のく。
持てるもの皆奪はれて冬木立 吉田茂子
淋しさを抱いて取り残されてゐる
ぢつと見る目路に仏陀の笑みがある
ゆれ動く秤の上に立つこころ
抱き合つた刹那仮面をぬいでゐる
近藤十四子(こんどう・としこ)は最年少の川柳少女で、号から推定されるように、参加当時は十四歳だったようだ。ただ、二、三年後には「川柳人」への投句を止めてしまったのが残念だ。『「死への準備」日記』で有名な千葉敦子は近藤十四子の娘である。
底の無い悩みを神に責めたてゝ 近藤十四子
知ることの寂しさ今日も本を読み
水水とひでりにあえぐ草の声
あえぎつゝたどり着けば断崖
稲妻となつて雲間を突つぱしる
三笠しず子は「大正川柳」「川柳人」「氷原」「影像」などに作品を発表し、井上信子とともに新興川柳の女性作家の双璧である。
軟らかに抱いた兎の息づかい 三笠しず子
これ以上人形らしくなり切れず
ひそやかに触れてはならぬものに触れ
いろいろな女の息を吸ふ鏡
ぐるりと変な猫の眼男の眼
片岡ひろ子は岡山県津山市の生まれ。津山における近代川柳史に名を残し、「岡山の明星」と言われた。
添乳する女房は腮で返事をし 片岡ひろ子
霜天に満ちて蠣船火を落とし
蜂の巣のやうな心の日が続き
オレンジの木立へ帰る夕鴉
いつそもう蛇の心になつてやれ
次に、「女人芸術」の川柳欄について、まとめておこう。
長谷川時雨の「女人芸術」は昭和3年(1928)から昭和7年(1932)まで全48冊を発行。女性を中心とした文芸誌として社会的役割を果たした。昭和5年7月号から井上信子の作品が川柳欄に掲載され、昭和6年7月号からは「新興川柳壇」が登場、選者は井上信子。誌面では二、三ページだったようだが、翌7年6月の「女人芸術」終刊まで丸一年続いた。
私は雑誌のバックナンバーを見ていないので、日本プロレタリア文学全集40『プロレタリア短歌・俳句・川柳』(新日本出版社)から掲載句を抜き出しておく。
まず、井上信子の作品から。
明快な渦で世相は新まり 1930年7月号
飢えた眼の底に賢さ燃え上り
青空へ枝が伸びゆく生(せい)の首
官服の案山子となって餌を貰い 1931年7月号
暴圧へむく感情の弾道
信子には芸術派とプロレタリア派の両要素があるが、ここではプロレタリア文学の傾向が前面に出ている。
次は信子の娘の井上鶴子の作品。
横列も縦列も一つ心臓 1931年6月
それぞれの着物にデモのありったけ
青空と地獄を結ぶ煙突
あとは任意に抜き出しておく。
口紅を拭いて明日へ立ち上り 小池梅子 1931年7月
そちこちに踏まれた草が伸びている 小出弘子 1931年7月
真裸で働けば涼しいとは何んだ 小出弘子 1931年7月
ブラ下がる児をサイレンにもぎとられ 岡本光恵 1931年7月
暴圧の中にひそひそ咲いた恋 岡本光恵 1931年7月
黙々と恥心を包む握り飯 日浦澄子 1931年8月
軽々と五尺の玩具弄び 近藤十四子 1931年10月
血みどろの手がアジビラを撒いてゆく 近藤十四子 1931年10月
公然の秘密人間屠殺業 近藤十四子 1931年11月
断末の双手が太陽をヒン摑んだ 新谷輝子 1932年3月
メーデーへつばめも気勢上げて飛び 伊藤好子 1932年5月
横列縦列ガッチリとして隙もなし 銭村葉子 1932年6月
女工の眼父のたよりへうずく胸 疋田栄 1932年6月
凱旋の兵士ヒッソリカンといる 疋田栄 1932年6月
近藤十四子は「女人芸術」にも投句していたようだ。十四子は非合法の労働運動に携わり、検挙されて拷問を受けたこともあるという。彼女以外はほとんど無名の作者である。
最後に井上信子の文章と川柳作品を紹介しておく。
「永い間、殆んど男子の手に握られて居た柳壇に、女性と云へば暁天の星よりも、なほ微々たるものであった。それが近頃、新興川柳の本質を理解し、これこそ時代の詩であることに企望を抱いて、女性の作家が、私達の毎月催す女性の會へ一回毎に数を増すやうになったことは心から嬉しい。たとひ微々たるまどひにせよ、この繊細な足には弾力が秘められて居る。堅実な一歩一歩は、お互ひに呼び交はされて進むであらう。私達の努力が報ひられて、やがて次ぎの時代の川柳詩人の間に多数の女性を見出すことの出来るのを、こひねがってゐる」(「新入の女性作家を得て」、「川柳人」217号、昭和5年11月)
一ぱいの力で咲けばすぐ剪られ 井上信子
よく光るさても冷めたい長廊下
踏まれても地下へはびこるあざみの根
一人去り 二人去り 佛と二人 (剣花坊追悼吟)
民権のレッテルの代りにヱプロンをかけさせ
燃えながら冷えながら冬を灯して明日を待つ
貞操のむくひは同じ墓の中
詩に痩せぬ友の集り風は初夏
悪政をもみくちやにして詩が生れ
国境を知らぬ草の実こぼれ合い
女性川柳人の活躍する現在とくらべると今昔の感があるが、現在の隆盛は井上信子たちが先駆的に切り開いた道だ。女性連句については別所真紀子の仕事があるけれど、女性川柳についてはまだ研究の余地がありそうだ。
参考文献
谷口絹枝『蒼空の人・井上信子‐近代女性川柳家の誕生』(葉文館出版)
平宗星『繚乱女性川柳』(緑書房)
日本プロレタリア文学全集40『プロレタリア短歌・俳句・川柳』(新日本出版社)
坂本幸四郎『新興川柳運動の光芒』(朝日イブニングニュース社)
一叩人編『新興川柳選集』(たいまつ社)
「彼女たちはなんども試みた。当然のようにそれは厳しい戦いだった。彼女たちの最後の賭けが『女人短歌』だった」
こういう文章が瀬戸の魅力だが、ひるがえって川柳における女性作家、女性川柳はどうだったかと考えたときに、まず思い浮かぶのは井上信子の存在である。
信子は井上剣花坊の妻であり、剣花坊の没後「川柳人」を復活させ、鶴彬を庇護したことでも知られている。
国境を知らぬ草の実こぼれ合い 井上信子
この句は信子の代表作であり、昭和に詠まれた名吟のひとつである。
さて、新興川柳運動の渦中に組織された女性作家集団に「川柳女性の会」がある。
「川柳人」昭和5年1月号に掲載された「川柳女性の会」のメンバーは15名であるが、翌年2名を加えて17名となる。そのうち人物と作品が比較的分かっている7名について紹介しておく。
市来てる子
井上信子
井上鶴子
吉田茂子
近藤十四子
三笠しず子
片岡ひろ子
市来てる子は消費組合運動の活動家で、階級意識をもったプロレタリア川柳家。
どつと出た赤い血だ犬にぶつかけろ 市来てる子
阿片だよ社会政策に眩まされるな
井上信子の作品は後回しに。井上鶴子は剣花坊と信子の次女。結婚後は大石鶴子の名で知られている。
さつくりとほうれん草の青い音 井上鶴子(大石鶴子)
ギュッと捻る水道栓の決断
閑寂の庭に小鳥の尾のリズム
絶対の否定空いっぱいに立つ
巣立たんとして大空の持つ魅力
吉田茂子は山口県萩の生まれで、井上剣花坊とは同郷。柳尊寺句会に出席したのがきっかけで、川柳をはじめる。浄土真宗の信者で、のちに「川柳人」から遠のく。
持てるもの皆奪はれて冬木立 吉田茂子
淋しさを抱いて取り残されてゐる
ぢつと見る目路に仏陀の笑みがある
ゆれ動く秤の上に立つこころ
抱き合つた刹那仮面をぬいでゐる
近藤十四子(こんどう・としこ)は最年少の川柳少女で、号から推定されるように、参加当時は十四歳だったようだ。ただ、二、三年後には「川柳人」への投句を止めてしまったのが残念だ。『「死への準備」日記』で有名な千葉敦子は近藤十四子の娘である。
底の無い悩みを神に責めたてゝ 近藤十四子
知ることの寂しさ今日も本を読み
水水とひでりにあえぐ草の声
あえぎつゝたどり着けば断崖
稲妻となつて雲間を突つぱしる
三笠しず子は「大正川柳」「川柳人」「氷原」「影像」などに作品を発表し、井上信子とともに新興川柳の女性作家の双璧である。
軟らかに抱いた兎の息づかい 三笠しず子
これ以上人形らしくなり切れず
ひそやかに触れてはならぬものに触れ
いろいろな女の息を吸ふ鏡
ぐるりと変な猫の眼男の眼
片岡ひろ子は岡山県津山市の生まれ。津山における近代川柳史に名を残し、「岡山の明星」と言われた。
添乳する女房は腮で返事をし 片岡ひろ子
霜天に満ちて蠣船火を落とし
蜂の巣のやうな心の日が続き
オレンジの木立へ帰る夕鴉
いつそもう蛇の心になつてやれ
次に、「女人芸術」の川柳欄について、まとめておこう。
長谷川時雨の「女人芸術」は昭和3年(1928)から昭和7年(1932)まで全48冊を発行。女性を中心とした文芸誌として社会的役割を果たした。昭和5年7月号から井上信子の作品が川柳欄に掲載され、昭和6年7月号からは「新興川柳壇」が登場、選者は井上信子。誌面では二、三ページだったようだが、翌7年6月の「女人芸術」終刊まで丸一年続いた。
私は雑誌のバックナンバーを見ていないので、日本プロレタリア文学全集40『プロレタリア短歌・俳句・川柳』(新日本出版社)から掲載句を抜き出しておく。
まず、井上信子の作品から。
明快な渦で世相は新まり 1930年7月号
飢えた眼の底に賢さ燃え上り
青空へ枝が伸びゆく生(せい)の首
官服の案山子となって餌を貰い 1931年7月号
暴圧へむく感情の弾道
信子には芸術派とプロレタリア派の両要素があるが、ここではプロレタリア文学の傾向が前面に出ている。
次は信子の娘の井上鶴子の作品。
横列も縦列も一つ心臓 1931年6月
それぞれの着物にデモのありったけ
青空と地獄を結ぶ煙突
あとは任意に抜き出しておく。
口紅を拭いて明日へ立ち上り 小池梅子 1931年7月
そちこちに踏まれた草が伸びている 小出弘子 1931年7月
真裸で働けば涼しいとは何んだ 小出弘子 1931年7月
ブラ下がる児をサイレンにもぎとられ 岡本光恵 1931年7月
暴圧の中にひそひそ咲いた恋 岡本光恵 1931年7月
黙々と恥心を包む握り飯 日浦澄子 1931年8月
軽々と五尺の玩具弄び 近藤十四子 1931年10月
血みどろの手がアジビラを撒いてゆく 近藤十四子 1931年10月
公然の秘密人間屠殺業 近藤十四子 1931年11月
断末の双手が太陽をヒン摑んだ 新谷輝子 1932年3月
メーデーへつばめも気勢上げて飛び 伊藤好子 1932年5月
横列縦列ガッチリとして隙もなし 銭村葉子 1932年6月
女工の眼父のたよりへうずく胸 疋田栄 1932年6月
凱旋の兵士ヒッソリカンといる 疋田栄 1932年6月
近藤十四子は「女人芸術」にも投句していたようだ。十四子は非合法の労働運動に携わり、検挙されて拷問を受けたこともあるという。彼女以外はほとんど無名の作者である。
最後に井上信子の文章と川柳作品を紹介しておく。
「永い間、殆んど男子の手に握られて居た柳壇に、女性と云へば暁天の星よりも、なほ微々たるものであった。それが近頃、新興川柳の本質を理解し、これこそ時代の詩であることに企望を抱いて、女性の作家が、私達の毎月催す女性の會へ一回毎に数を増すやうになったことは心から嬉しい。たとひ微々たるまどひにせよ、この繊細な足には弾力が秘められて居る。堅実な一歩一歩は、お互ひに呼び交はされて進むであらう。私達の努力が報ひられて、やがて次ぎの時代の川柳詩人の間に多数の女性を見出すことの出来るのを、こひねがってゐる」(「新入の女性作家を得て」、「川柳人」217号、昭和5年11月)
一ぱいの力で咲けばすぐ剪られ 井上信子
よく光るさても冷めたい長廊下
踏まれても地下へはびこるあざみの根
一人去り 二人去り 佛と二人 (剣花坊追悼吟)
民権のレッテルの代りにヱプロンをかけさせ
燃えながら冷えながら冬を灯して明日を待つ
貞操のむくひは同じ墓の中
詩に痩せぬ友の集り風は初夏
悪政をもみくちやにして詩が生れ
国境を知らぬ草の実こぼれ合い
女性川柳人の活躍する現在とくらべると今昔の感があるが、現在の隆盛は井上信子たちが先駆的に切り開いた道だ。女性連句については別所真紀子の仕事があるけれど、女性川柳についてはまだ研究の余地がありそうだ。
参考文献
谷口絹枝『蒼空の人・井上信子‐近代女性川柳家の誕生』(葉文館出版)
平宗星『繚乱女性川柳』(緑書房)
日本プロレタリア文学全集40『プロレタリア短歌・俳句・川柳』(新日本出版社)
坂本幸四郎『新興川柳運動の光芒』(朝日イブニングニュース社)
一叩人編『新興川柳選集』(たいまつ社)
2020年7月3日金曜日
曲線立歩句集『目ん玉』(新興川柳ノートⅠ)
コロナで何もできず、先へ進めないので、過去の川柳遺産を振り返ることが多くなってしまう。書架を整理していると、曲線立歩の句集『目ん玉』(2003年)が出てきた。曲線立歩(きょくせん・りっぽ、1910年~2003年)は新興川柳期に川柳をはじめ、長い柳歴をもっている。今日はこの川柳人を紹介したい。
曲線立歩は本名・前田忠次。明治43年、北海道の斜里町に生れる。大正14年、小樽新聞の川柳欄に投句、翌15年に川柳氷原社に参加した。このころ小樽には田中五呂八がいて新興川柳運動のメッカであった。小樽新聞の選者は五呂八。立歩が投句をはじめたのは14歳のときだった。「氷原」に投句するようになってから句会にも出席し、五呂八に可愛がられたようだ。
田中五呂八の『新興川柳論』に次のような一節がある。
「人間が、ただ単に喜怒哀楽のままに動いている間はまだ、自然の配下にある受動的な通俗生活に過ぎないのである。そうした受動的な他律生活から一歩踏み出して、能動的に人生を統一し、自然を理想化するのには、どうしても吾々は、自律的な思想を持たねばならないのである。そこに、思想の深さは自己の深さとなり、思想ににじみ出した感情の深さが詩の深さであり、それがやがて自然の深さであり宇宙の深さでもある。自然も人生も畢竟芸術家にとっては、自己の深さのままに改造し得る相対的な自己創造の対象に過ぎないのである。
私達新興川柳家は、この信条の上に個々の思想を深化する事によって、最も近代的な日本の自由短詩を創造しなくてはならない」(「新興川柳への序曲」大正14年4月)
曲線立歩はこのような五呂八の川柳観に大きな影響を受けたことだろう。新興短歌、新興俳句に先駆けて起こった新興川柳運動の真っただ中から、曲線立歩の川柳は始まったということになる。
句集『目ん玉』の「鋭光」の章には昭和3年~昭和12年の句が収録されている。これがほぼ新興川柳期の作品だろう。
十字架を のぼる泥人形の 笛の音
変らない眼だうっかりと乗せられる
車輪また車輪を追うてゆくばかり
人間でない気で休む午前二時
響かんとすれど地盤のたよりなく
境遇の水平線に生きている
幻想を衝いて摑めば無光星
北ばかり指して磁石の死に切れず
弓絃を切る人冬のあわてよう
天才の猫老いたれど夜を歩く
小樽文学館には一度行ったことがあるが、伊藤整などとともに田中五呂八の展示があって、文学都市という印象を受けた。大正末年から昭和初年にかけては新興川柳運動の大きなうねりがあって、小樽はその発信地だった。曲線立歩にとっては時代の青春と個人の青春が一致したことは幸運だった。
句集の二つ目の章は「花の首」(昭和13年~昭和50年)である。
雪また雪 神話が嘘になっている
滝壷の飛沫モーゼは恋をした
乳房喰い破って青い蝶の羽化
洪水の石の男女が流れている
火を吐くまで海の深部の侵略
一族の吹雪のなかの ぬくい母系
花の首死の直前をせめぎあう
彼が曲線立歩の号を用いたのは昭和5年からである。「氷原」では星寂子という雅号だったようだ。「氷原」は昭和12年で終刊になったから、上掲の作品は「氷原」以降の句ということになる。立歩は昭和23年に東京川柳人の同人になっているから、「川柳人」に発表した句なのかもしれない。
句集の三番目の章は「垂天」(昭和25年~平成6年)。
草笛吹く 片眼の顔を 忘れて吹く
大麦の粒 がくぜんと 一つあり
洞窟を拡大する海が地上で 痺れるまで
不快指数の 穴から民族が氾濫する
濃縮ジュース 吐く炎天に灼けた 蟻の仮眠
一字あけを多用する表記から見ると、戦後の現代川柳の時代に書かれた作品のようだ。
次は「自筆の墓碑」(昭和47年~平成8年)。
鯨骨の杖に叩かれ舌たらず
滝壷の飛沫は夢の傀儡師
ふところで歩く失明のピラミッド
神の手のながさで足の爪を剪る
地球が重なろうとする敵である
天才の獏が童話を聞いていた
連綿の血を吸う虫の一匹たり
最後に「青炎抄」(平成8年~平成13年)から。
五呂八の 風は微妙な哲学者
遺伝子の首の枯木が水を呼ぶ
全道の少年少女一人ずつ
海底の巻貝しだいに血を浴びる
飛沫の芯を歩いている
晩年、田中五呂八を思うことがあったのだろう。「人間を摑めば風が手に残り」は五呂八の代表句である。
曲線立歩は「点鐘」にも投句していたし、句集『目ん玉』は墨作二郎を通じて手に入れることができた。北海道における新興川柳の作家が平成まで現役で活躍していたことを改めて思う。句碑が空知野に建立されているという。
噫々尊し 自然の土に霊祈る
曲線立歩は本名・前田忠次。明治43年、北海道の斜里町に生れる。大正14年、小樽新聞の川柳欄に投句、翌15年に川柳氷原社に参加した。このころ小樽には田中五呂八がいて新興川柳運動のメッカであった。小樽新聞の選者は五呂八。立歩が投句をはじめたのは14歳のときだった。「氷原」に投句するようになってから句会にも出席し、五呂八に可愛がられたようだ。
田中五呂八の『新興川柳論』に次のような一節がある。
「人間が、ただ単に喜怒哀楽のままに動いている間はまだ、自然の配下にある受動的な通俗生活に過ぎないのである。そうした受動的な他律生活から一歩踏み出して、能動的に人生を統一し、自然を理想化するのには、どうしても吾々は、自律的な思想を持たねばならないのである。そこに、思想の深さは自己の深さとなり、思想ににじみ出した感情の深さが詩の深さであり、それがやがて自然の深さであり宇宙の深さでもある。自然も人生も畢竟芸術家にとっては、自己の深さのままに改造し得る相対的な自己創造の対象に過ぎないのである。
私達新興川柳家は、この信条の上に個々の思想を深化する事によって、最も近代的な日本の自由短詩を創造しなくてはならない」(「新興川柳への序曲」大正14年4月)
曲線立歩はこのような五呂八の川柳観に大きな影響を受けたことだろう。新興短歌、新興俳句に先駆けて起こった新興川柳運動の真っただ中から、曲線立歩の川柳は始まったということになる。
句集『目ん玉』の「鋭光」の章には昭和3年~昭和12年の句が収録されている。これがほぼ新興川柳期の作品だろう。
十字架を のぼる泥人形の 笛の音
変らない眼だうっかりと乗せられる
車輪また車輪を追うてゆくばかり
人間でない気で休む午前二時
響かんとすれど地盤のたよりなく
境遇の水平線に生きている
幻想を衝いて摑めば無光星
北ばかり指して磁石の死に切れず
弓絃を切る人冬のあわてよう
天才の猫老いたれど夜を歩く
小樽文学館には一度行ったことがあるが、伊藤整などとともに田中五呂八の展示があって、文学都市という印象を受けた。大正末年から昭和初年にかけては新興川柳運動の大きなうねりがあって、小樽はその発信地だった。曲線立歩にとっては時代の青春と個人の青春が一致したことは幸運だった。
句集の二つ目の章は「花の首」(昭和13年~昭和50年)である。
雪また雪 神話が嘘になっている
滝壷の飛沫モーゼは恋をした
乳房喰い破って青い蝶の羽化
洪水の石の男女が流れている
火を吐くまで海の深部の侵略
一族の吹雪のなかの ぬくい母系
花の首死の直前をせめぎあう
彼が曲線立歩の号を用いたのは昭和5年からである。「氷原」では星寂子という雅号だったようだ。「氷原」は昭和12年で終刊になったから、上掲の作品は「氷原」以降の句ということになる。立歩は昭和23年に東京川柳人の同人になっているから、「川柳人」に発表した句なのかもしれない。
句集の三番目の章は「垂天」(昭和25年~平成6年)。
草笛吹く 片眼の顔を 忘れて吹く
大麦の粒 がくぜんと 一つあり
洞窟を拡大する海が地上で 痺れるまで
不快指数の 穴から民族が氾濫する
濃縮ジュース 吐く炎天に灼けた 蟻の仮眠
一字あけを多用する表記から見ると、戦後の現代川柳の時代に書かれた作品のようだ。
次は「自筆の墓碑」(昭和47年~平成8年)。
鯨骨の杖に叩かれ舌たらず
滝壷の飛沫は夢の傀儡師
ふところで歩く失明のピラミッド
神の手のながさで足の爪を剪る
地球が重なろうとする敵である
天才の獏が童話を聞いていた
連綿の血を吸う虫の一匹たり
最後に「青炎抄」(平成8年~平成13年)から。
五呂八の 風は微妙な哲学者
遺伝子の首の枯木が水を呼ぶ
全道の少年少女一人ずつ
海底の巻貝しだいに血を浴びる
飛沫の芯を歩いている
晩年、田中五呂八を思うことがあったのだろう。「人間を摑めば風が手に残り」は五呂八の代表句である。
曲線立歩は「点鐘」にも投句していたし、句集『目ん玉』は墨作二郎を通じて手に入れることができた。北海道における新興川柳の作家が平成まで現役で活躍していたことを改めて思う。句碑が空知野に建立されているという。
噫々尊し 自然の土に霊祈る
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