2018年3月30日金曜日

現俳協勉強会・「里」寒稽古・「奎」座談会

2月に金子兜太が亡くなった。
遅まきながら、『金子兜太の世界』(『俳句』編集部編、2009年9月)を引っ張りだして、その中の岡井隆の文章を読んでいる。「金子兜太といふキーパースン」で岡井はこんなことを書いている。

「昭和三十年代あるいは四十年代のはじめだつたか、前衛川柳の何人かの人と、私とを、金子さんは引き合わせてくれた。今はやりの風俗的な、口あたりのいい川柳とはちがう川柳。今、心ある新鋭たちが柳壇の再興を願って論をかさね、作品を書いてゐるのを読むと、この人たちの先輩にあたるのが、金子さんがひき合わせてくれたかれらだつたのだと思ふ。あの謎のやうな一群の川柳人たちと、私は巣鴨か大塚あたりの小さなホテルの一室で合議したことがある。あれは一体なんだつたのだらう。大方は私の方の事情で、この会議は続かなかつたが、金子兜太の、俳壇を超越した動きの一端はあのあたりにもあつた」

岡井の言っているのは「俳句研究」昭和40年1月に掲載された座談会〈「現代川柳」を語る〉のことである。金子兜太・岡井隆・高柳重信のほか、川柳側からは河野春三・山村祐・松本芳味が参加した。
金子兜太はすでにいないが、岡井のいう「謎のやうな川柳人たち」の末裔は世代交代をくりかえしながら「現代川柳」を書いており、いまや若い歌人や俳人にとって謎でも何でもない存在になっているはずである。

3月25日、現俳協青年部の勉強会で助詞の「を」をめぐる議論があった。
「を」はどこから来たのか、「を」は何者か。「を」はどこへいくのか。
パネリストは大塚凱・堀切克洋・柳本々々。司会・黒岩徳将。
私は聞きに行けなかったが、レジュメだけもらったので、特に柳本のレジュメについて紹介しておきたい。
柳本が取り上げたのは鴇田智哉の俳句である。

「鴇田智哉の俳句は、〈を〉で対象化するものを宙づりにするところがある。俳句は、対象をみつめる行為だが、そのみつめる行為自体を問題化してゆく」
「鴇田智哉の俳句は、対象化しながらも対象化そのものを解体してゆくことを考える。「を」で対象化しながら、どうじに「を」を解体してゆく」

うすぐらいバスは鯨を食べにゆく   鴇田智哉
人参を並べておけば分かるなり
箱庭を見てゐるやうな気になりぬ

柳本はベケットの演劇『ゴドーを待ちながら』やアラン・レネの映画『二十四時間の情事』、特撮シリーズ「ウルトラセブン」などを取り合わせる。ウルトラマンでは対象である敵・怪獣がはっきりしているのに対して、ウルトラセブンでは星人が多くなり敵味方がはっきりしなくなるというのだ。
さらに柳本は「現代川柳はあらかじめ対象を喪失している」と述べ、その例として樋口由紀子の作品を挙げている。
勉強会に直接参加していないので、詳しいことは分からないが、興味深い集まりだったようだ。ちなみに次の句の作者名は前田勝郎ではなくて前原勝郎である。

を越えてたんぽぽいろの今日そして   前原勝郎

今月届いた川柳誌・俳誌をいくつか読んでゆきたい。
「川柳杜人」257号は高橋かづきフォト句集『ふあんのふ ふしぎのふ』について特集している。この句集は「川柳杜人」に連載された写真と川柳、エッセイを一冊にまとめたもの。松永千秋・水本石華・丸山進が鑑賞を書いている。

あすなろあじさいアイスクリーム明日が来る  高橋かづき
ストラップにしようあの日の失言は
春なれど動かしがたき助詞ひとつ

この連載は現在も続いていて、今号には「すんなりと春になったりしない春」の句と写真。エッセイには八坂俊夫が昨年四月に亡くなったことが書かれている。私はそれを知らなかったので、少しショック。「もう春が近い夜汽車を聴いている」(八坂俊夫)
同人作品からも紹介しておく。

猫帰る空から落ちてきたように    加藤久子
許せない私を許す猫のにおい     加藤久子
どうどうとしている鳴き声をもらい  広瀬ちえみ
開封をしたら急いでうずめてね    広瀬ちえみ
家具たちが身じろぎをするさあ逃げて 佐藤みさ子
「家」が泣くので笑うほかない    佐藤みさ子

次に京都の川柳誌「凜」73号から。桑原伸吉の巻頭言は今年1月4日に亡くなった村井見也子の追悼。同人作品と投句欄から何句か紹介する。

草を食む牛を見ている哲学者     こうだひでお
バラストの足らぬ男にぶれがあり   こうだひでお
丁寧に音とる春の首         辻嬉久子
音感のままにしばらくの春      辻嬉久子
幸せなんて赤・青・黄色・麦畑    本多洋子
鍵をなくしてからのまといつく風   前田芙巳代
フロイトとろとろまぶたから融ける  内田真理子
ゴーギャンの女性にふっと会う渚   井上早苗

4月22日には「凜 20年記念のつどい」が京都商工会議所で開催される。選者は八上桐子・こうだひでお・中野六助・前中知栄・徳永政二・小池正博・辻嬉久子。

俳誌「里」3月号。「2018寒稽古in軽井沢入選全568句」、2月11日・12日に軽井沢で行なわれた吟行会・作句会の記録。参加者21名。二日間でひたすら百句を作っている。読みごたえ十分である。

泡立ってをり春泥の駐車場     中山奈々
恋を語らず歯の奥のセロリかな
絵はすべて少女よ鴨を残らせて
メンバーが悪い雪女が来ない
さくらいろいろ本名を告げずゐる

鴨博士曰く大きな鴨がゐる     柳元佑太
ぽんかんがぼくをほどけておかない

血は春に骨はわけてもあばらぼね  田中惣一郎
凧で遊ばう時間も性別も超えて
夢の稚魚さん春の麥さんきて話す

鶺鴒は針金なのでこゑなので    青本柚紀
びにーるの視界で鴨が浮き上がる
雪の日をかさねて木々が家になる
めたふぁーは蝶ですかゐないね夢だ

句会の場において即興で作っているので完成度に難点がある作品もあるかもしれないが、作者の特質がストレートにうかがえるという面もあるようだ。
青本は「寒稽古顛末記」を書いていて、「もの」を見るということについて次のように書いている。
〈言葉への思慕を支えに書く見にはずいぶん痛いはなしだった〉
〈言葉はあまり顔を変えずにいつもそこにあるが、ものがあるのは時折で、いつも違う顔をしている。言葉で書く人間にこそ「もの」への思慕が必要なのだろう〉
ずいぶん微妙なことだが、私はこれを読んだときに「言葉への思慕」という点で共感し、「ものへの思慕」という点で俳句と分かれるのかもしれないと思った。

俳誌「奎」5号。巻頭座談会「若手俳人の動向を見渡す」がおもしろい。
「奎」編集部とゲスト・黒岩徳将が「俳句をどう続けるか」「若手作家の群像」などについて語り合っている。そこでいろいろ名前があがっているなかで木田智美の句に注目した。

川涸れて蹴上の地図はまじ卍       木田智美
あっ、姉の袖ひっぱって六花
あした穴を出ようとおもう熊であった

俳句であれ川柳であれ、句を読むときに、自分とも何らかの関係があると感じる作品の前に立ち止まることが多いようだ。

2018年3月24日土曜日

「信治&翼と語り尽くす夕べ」から「俳誌要覧」まで

3月20日、大阪・梅田で「信治&翼と語り尽くす夕べ」が開催された。上田信治と北大路翼という相反する作風の二人の対談ということで、60人を超える参加者があった。幹事・島田牙城、司会・中山奈々。参加者のなかで半数以上は初めて会う人たちだった。特に今までテレビ番組とか活字でしか知らなかった屍派の人たちも来ていて強烈な存在感を見せつけていた。俳句のイベントには珍しく、ボルテージの高い集まりだった。対談の内容はとても紹介しきれないし、参加者のブログやツイッターなどで当日の様子をうかがうことができると思う。

佐藤文香は現代川柳にも理解のある俳人のひとりだが、3月17日の中日新聞の夕刊、「佐藤文香の俳句展望台」に現代川柳のことが取り上げられた。まず引用されているのは次の二句である。

空腹でなければ秋とわからない    樋口由紀子
寄せ鍋の寄せ方エクセルが上手い   丸山進

前者は樋口が編集発行人の「晴」1号から、後者はなかはられこが発行人の「川柳ねじまき」4号の掲載作品である。「季語がない五七五が川柳」と言われるのに対して、逆に佐藤は「秋」「寄せ鍋」という言葉が入った川柳を挙げてみたと言う。
次に佐藤が取り上げているのは八上桐子句集『hibi』(港の人)の三句である。

向こうも夜で雨なのかしらヴェポラップ   八上桐子
その手がしなかったかもしれないこと
藤という燃え方が残されている

八上の作品は「川柳」の一般的なイメージとは異なるところで書かれている。佐藤は「八上の川柳は社会から距離があり、必ずしも笑いをもたらさない。しかし、静かな生活のおこないひとつずつが十七音のかたちにほどけてゆき、心を揺さぶられる」と書いている。

佐藤は「川柳スパイラル」創刊号のことも紹介しているが、このほど「川柳スパイラル」2号が発行された。ゲストに我妻俊樹・中山奈々・平岡直子・平田有を迎えて川柳作品を掲載している。

昆虫がむしろ救いになるだろう    我妻俊樹
縊死希望かねそんなちょび髭をして  中山奈々
口答えするのはシンクおまえだけ   平岡直子
振り上げたならそののちは下ろされる 平田有

我妻は5月5日に「北とぴあ」で開催される「川柳スパイラル」東京句会で瀬戸夏子との対談が予定されている。中山の句はつげ義春をふまえて、前の句の最後が次の句の頭に来る尻取り式の連作になっている。平岡は砂子屋書房の「日々のクオリア」に短歌鑑賞を連載中。平田はBL短歌誌「共有結晶」で知られている。他ジャンルを主なフィールドとする表現者が「川柳とは何か」というような抽象論ではなくて、実作によって川柳と交流してゆく機会が増えてゆけばいいと思う。
「川柳スパイラル」2号には飯島章友と睦月都(第63回角川短歌賞受賞)の対談のほか、上田信治の『成分表「声」』も掲載されている。「里」に連載されている「成分表」の川柳版である。

「俳誌要覧2018年版」(東京四季出版)が発行されている。
【俳文学の現在〈川柳〉】を飯島章友が執筆している。昨年この欄を担当した柳本々々は2017年版で次のように書いていた。
「川柳というジャンルのなかでいろんな人間がそれぞれの場所からこれまでとは違った光を灯そうとしている。2017年がその光を迎えとるだろう」
では2017年は現代川柳にとってどのような年だっただろうか。
飯島は物故作家のことから書きはじめている。
2016年から2017年にかけて、これまで現代川柳を牽引してきた人々が相次いで亡くなった。墨作二郎・渡辺隆夫・海地大破・脇屋川柳などである。飯島はたとえば墨作二郎について、形式の変遷を通じた作二郎の作品の変遷を丁寧に紹介している。
さらに飯島は現代川柳の新世代の作者について今後の期待を寄せている。『現代川柳の精鋭たち』や『セレクション柳人』以降の作者たちが台頭してきており、新たなアンソロジーや句集が待望されるという。
「俳誌要覧」の〈連句〉のコーナーは浅沼璞が執筆している。
浅沼はまず、日本連句協会・前会長の臼杵游児の追悼からはじめ、俳誌「オルガン」での浅沼と柳本々々との往復書簡に触れ、往復書簡という形式がきわめて連句的だったことを述べている。

さて、三月もそろそろ終わり新年度がはじまろうとしている。
現代川柳の世界を見渡してみると別に何も新しい動きはないようにも思えるが、何もないように見えて川柳も少しずつ変化している。
四月から生活環境が変わったり、新しいスタートを切る人も多いことだろう。それぞれの場でそれぞれの表現者が発信している言葉に耳を傾けてゆきたい。

2018年3月17日土曜日

短歌と川柳の日々―「井泉」80号のことなど

3月×日
短歌誌「井泉」が届く。創刊80号記念号となっている。
特集「表現の現在を截る」、各ジャンルの現在の状況が書かれている。加藤治郎は木下龍也・岡野大嗣『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』を取り上げている。小池正博「アニメとアイドルと川柳」は川合大祐・飯島章友・兵頭全郎・柳本々々などの現代川柳を紹介しているが、兵頭全郎の句の引用が間違っているので、訂正させていただく。正しくは「たぶん彼女はスパイだけれどアイドル(兵頭全郎)」。蜂飼耳「詩の現在をめぐって」は北川透からはじまり野崎有似『長崎まで』・杉本真維子『裾花』までを論じる。
江村彩「表現の現在、社会の現在」の中で飯田有子について次のように書かれているのを読んで、ちょっと驚いた。

《 『錦見映理子は「66」(ロクロクの会、2016年)において、飯田有子の『林檎貫通式』(2001年)を、「はっきりとフェミニズムの思想に貫かれた一冊」と読み解き、歌集冒頭の歌「のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢」は〈女性がのしかかられつづける性〉であることの提示であると指摘している 》

急いで『林檎貫通式』を読んでみると、巻頭歌の二首あとに次のような歌もあった。

女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて   飯田有子

「飛雄馬の姉さん」「枝毛姉さん」ばかりが印象に残っているが、この歌集をきちんと読めていなかったのだなと改めて思った。「短歌ヴァーサス」5号を取り出して、入交佐妃が撮った飯田有子の表紙写真をしばらく眺めていた。

3月×日
砂子屋書房のブログ「日々のクオリア」がおもしろい。
3月5日の一首鑑賞で平岡直子は染野太朗の歌を取り上げている。

隠さずにどうしてそれを告げたのかはじめはまるでわからなかった  染野太朗

平岡は、どうして「それ」が隠されているのかがはじめはわからなかったと述べたあと、次のように書いている。

《 一首だけを取り出して読むと、なにか普通隠すべきことを率直に告げた人がいて、それに対して困惑している、ということしかわからないし、「隠さずに告げた」の主語が「私」である可能性も消せない。文脈や具体性を欠落させるのは短歌ではある手法だけど、そういった歌として読むためには、最低限必要な情報の七割くらいしかない、という印象 》

おもしろいと思ったのは、文脈を欠落させる手法が短歌にあるという指摘で、私は同じ手法が川柳にもあると思っているので、短歌もそうなのかと興味深かった。意図的に主語を隠した川柳作品があり、読みが多義的になる。そういう例が挙げられるような気がするが、いま適当な作品が思いつかない。川柳の読みがわからないという声をよく聞くのは、文脈がわからないということで、ある文脈のなかに置けば、意味はある程度とれるのである。
掲出の染野の歌は連作の一首であり、「それ」が何であるかは他の歌や歌集全体からわかるのだが、詳しいことは平岡の鑑賞をお読みいただきたい。

3月×日
「川柳スパイラル」2号の校正終了。
今号はゲストとして我妻俊樹・平岡直子・中山奈々・平田有の四人の川柳作品を掲載。
飯島章友の連載「小遊星」は第63回角川短歌賞を受賞した睦月都との対談である。
あと、上田信治にエッセイを書いていただいた。「里」に連載されている「成分表」の川柳版である。
川柳人だけでなく、他ジャンルの読者にもお楽しみいただけることと思う。3月下旬に発行予定。

3月×日
奈良で連句会があったので、そのあとお水取り(修二会)を見に行った。
2017年に奈良で国民文化祭が開催され、数年前から奈良県連句協会が立ち上げられたが、国文祭が終わった後も引き続き定例の連句会が行なわれている。
お水取りはこれまでにも何度か見たことがある。午後七時に松明の儀式がはじまるけれど、午後六時までに二月堂前の広場に入らないと混雑して見ることができない。
六時少し前に場所を確保したが、すでに混雑していて立錐の余地もない。回廊を登って行くところが良弁杉の影になって見えない位置だが、それも仕方がないことだろう。宗教行事だということを理解していない人がいて、「こんなに集まっているのだから時間を早めてはじめたらいいのに」などと無理をいう声が聞こえた。練行衆の籠松明の火はそれなりにおもしろかったが、以前見たときの震えるような感動は覚えなかった。聖なるものに対する感覚が薄れてしまったのだろう。

3月×日
「現代短歌」3月号を読む。特集「分断は越えられるか」。瀬戸夏子「非連続の連帯へ」、山田航「『貧困の抒情』のために」、佐藤通雅「リセットということ」、大田美和「分断と文学の可能性」、屋良健一郎「分断をもたらすもの~沖縄の現在~」、パネルディスカッション「分断をどう越えるか~福島と短歌~」(斎藤芳生・高木佳子・本田一弘)。
瀬戸は俵万智の『あなたと読む恋の歌百首』のことから話をはじめている。この本は短歌作品と作者を調べるのに便利なので、ときどき私も参照している。瀬戸は大田美和の次の短歌についての俵万智の鑑賞に異議を唱えている。

チェロを抱くように抱かせてなるものかこの風琴はおのずから鳴る  大田美和

それでは瀬戸が俵万智を全否定しているかというと、そうではなくて、次の歌を評価してこんなふうに言う。「根本的なところで俵万智の歌の詠みぶりも方向性も方法論にも賛成できないわたしが、それでも、その歌を愛し、暗唱してしまうこと。」

「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃないなら勝たせてほしい 俵万智

「恒常的な連帯」はむずかしいと言いながら「非連続的な、瞬間、瞬間の連帯には可能性がある」という瀬戸の文章は、特集テーマ「分断は越えられるか」にまっすぐにつながっている。

3月×日
「里」180号が届く。
3月20日は上田信治と北大路翼のトークを聞きにゆく予定。楽しみにしている。

2018年3月2日金曜日

川柳のVOICE (声)

新潮文庫で「村上柴田翻訳堂」と銘うって村上春樹と柴田元幸による翻訳シリーズが発行されている。英米文学の翻訳者と言えば、古いところでは中野好夫とか大橋健三郎とか思い浮かぶが、いま柴田元幸が第一人者なのだろう。その柴田訳による『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)が話題になっている。中学生くらいの少年であるハックが語り、書いているということを意識した訳になっていて、タイトルも「冒険」という漢字がハックには書けないだろうという想定で「冒けん」となっている。
先日、梅田の書店で柴田のトークと朗読があったので聞きにいった。『ハックルベリー・フィン』の原稿のうちM・トゥエインが本にするときには削った部分の朗読も聞くことができておもしろかった。トークのうち特に注目したのは「voice(声)」という捉え方である。柴田は作中人物のvoiceや「どう語られているか」を重要視して翻訳するというが、それとは別に作者のvoiceということも考えるという。それが作中人物のvoiceなのか、作者のvoiceなのかは明確に区別できないが、区別して考えられる場合もあるという。この部分は作者のvoiceだと思われる個所があるというのだ。柴田の話を聞きながら、これはたいへんデリケートな問題だが、作品の読みを考えるときに重要な視点だと思った。

昨年発表された川柳作品のなかで石田柊馬の次の句が気になっている。

その森にLP廻っておりますか    石田柊馬 (「川柳スパイラル」創刊号)

何となくわかるような気がするし、いろいろな状況を思い浮かべることのできる句だが、説明するとなるとむつかしい。
「その森」とはどこか。なぜ「LP」なのか。LPが廻っているのか、いないのか。廻っていることがよいことなのかどうか。
とにかく、どこかの森でCDではなくLPが廻っている。LPの回転は時間の経過を感じさせるから、時間とか記憶とかいうものと関係するだろう。私がこの句に感じるのは、LPが廻らなくなるような状況をよしとしない価値観である。止まらずに廻り続けているのかどうかを問うところに批評性を感じるのだ。

別れ際「笑止」のひと声落ちてくる   内田万貴 (「川柳木馬」155号)

誰とどういう状況で会ったのかは分からないが、別れるときに厳しい全否定の言葉を浴びせられたのである。実際に「笑止」という言葉を投げつけられたのではなくても、そう言われたかのように受け止めたのかもしれない。言われて作中主体がどう思ったか。それについては何も書いていないところに潔さがある。

散る時も力を貸してくれますね   松永千秋 (「晴」1号)

ここには「いや、嫌だ」とは言えない、相手を巻き込んでゆく語りがある。それは相手に対する信頼なのか、悪意なのか。どのような人物がこれを語っているかによって、語り方が変わってくるし、文脈も変わってくるのだ。

桃色になったかしらと蓋をとる   広瀬ちえみ (「晴」1号)

蓋のなかには何があったのか。それは桃色になるようなものなのか。いろいろなことが省略されていて、それが読みの魅力になっている作品である。

缶コーヒー掴むと消える地下の街   悠とし子 (「触光」56号)

不思議な句である。私は消えたのは地下の街だと読んでいる。ふっと消えてしまって、手のなかには缶コーヒーだけが残っている。けれども一瞬消えた街はふたたび元の姿で蘇ってくるかも知れない。消えたのは缶コーヒーの方とも読めるが、それだとスケールが小さくなってしまう。

エイがひとりで運営水中博物館    西川富恵 (「川柳木馬」155号)

これも不思議な句だが、おもしろい句でもある。
「水中博物館」というのは水族館のことだろうか。それをエイがひとりで運営しているというのは何だか変だ。エイが水槽をひとりで泳いでいるとも読めるが、それだと「運営」とは言わないだろう。おかしな味わいを楽しめばいいのかもしれない。

林檎それぞれ水平線を持っている   野沢省悟 (「触光」56号)

林檎は垂直のイメージだろうか。林檎の樹を思い浮かべるし、ニュートンの引力の話を連想すれば林檎はどうしたって垂直に落ちる。そうすると垂直と水平のコントラストの句なのか。
林檎の果実の一個一個が水平線を持っているのだと読むと、イメージが広がってくる。山に実っている林檎がそれぞれ水平線を持っているのだ。

無抵抗主義でガス室まで歩く     古谷恭一 (「川柳木馬」155号)

ホロコーストを題材にした句だが、ここまで詠みきるのは作者の力量だろう。
淡々と書かれているだけに、危機意識は強力である。

一片の鱗剥がれて砂を吐く    大野美恵 (「川柳木馬」155号)

「鱗」というのだから魚の類だろう。主語は意識的に省略されている。
一句全体で内面の状況を比喩的に表現しているとも読める。

迎えに行くよ梨よりあたたかい身体  服部真里子(「川柳スープレックス」2月1日)

「梨よりあたたかい身体」という表現が魅力的。
身体は梨よりちょっぴりあたたかいという感覚である。絶望することもなく、希望を持ちすぎることもなく、人と人との関係性が適度な距離感をもって表現されている。