2013年6月28日金曜日

芭蕉に聞きたいこと―橋閒石と非懐紙連句

白燕濁らぬ水に羽を洗い 荷兮

燕が街を低く飛んでいるのを見かける。掲出句は芭蕉七部集の『冬の日』のうち「炭売の巻」にある付句である。白燕は瑞鳥である。
橋閒石が創刊した俳誌「白燕」は苛兮の句に拠っている。「白燕(しろつばめ)」を音読みして「びゃくえん」としたようだ。「白燕」は昭和24年5月に創刊、平成21年6月に終刊した。私の手元にあるのは終刊号(425号・創刊60周年記念号)だが、創刊号の復刻が挟み込まれているので、創刊当時の雰囲気を知ることができる。特に寺崎方堂・橋閒石による両吟の百韻と歌仙が収録されているのが嬉しい。閒石の「方堂先生と連句のことなど」では次のように述べられている。

「方堂とは義仲寺に住む無名庵十八世寺崎方堂宗匠のことである。私が俳諧文学の原理に通暁することの出来たのは、長年先生の膝下にあって連句の実作に精進した御蔭である。今日連句に於いても俳句に於いても、みづから信ずるところのあるのは、全くその間に於ける修業の賜である。方堂先生は、連句にかけては当代最高峯の一つである。二十年の昔、図らずも先生との間に縁の糸の結ばれたことから、今日の私が生れ出たと云っても過言でない」

閒石は寺崎方堂に嘱望されながら、結局は無名庵を継がなかった。そういう形式的な継承関係を嫌う気持が閒石にはあったのかも知れない。「白燕」の創刊は方堂との距離を決定的にしたことだろう。
「白燕」の三本柱は俳句と連句と随筆である。閒石の本業は英文学者であり、チャールズ・ラムの研究者であった。エッセイに力を入れるのは当然であった。彼の文学の中には日本的な俳諧の伝統と西洋文学の教養が渾然一体となっているのである。
まず俳句であるが、閒石には十の句集があり、『橋閒石全句集』(沖積社)に収録されている。『雪』『朱明』『無刻』『風景』『荒栲』『卯』『和栲』『虚』『橋閒石俳句選集』『微光』の十句集である。『全句集』から10句を抽出してみよう。

故山我を芹つむ我を忘れしや
遠回りして夕顔のひらきけり
空蝉のからくれないに砕けたり
階段が無くて海鼠の日暮かな
三枚におろされている薄暑かな
椿の実瀧しろがねに鳴るなべに
たましいの暗がり峠雪ならん
蝶になる途中九億九光年
露の世に吉祥天女在しけり
銀河系のとある酒場のヒヤシンス

閒石が俳壇的に有名になったのは『和栲』が第18回蛇笏賞を受賞したことによる。上掲の句も『和栲』収録の句が多い。「階段が無くて海鼠の日暮かな」は閒石の中でもよく知られている作品だろう。閒石は孤高の俳人なので、『和栲』が受賞したとき、選考委員のうち閒石の顔を知っている者が一人もいなかったという話が伝わっている。
私が最も愛唱するのは「銀河系のとある酒場のヒヤシンス」で、『微光』に収録されている。「銀河系の」という宇宙的なスケールからはじめて酒場のヒヤシンスをクローズアップさせるところが心地よいのである。

先日、「大阪連句懇話会」で橋閒石について話をする機会があった。「大阪連句懇話会」は関西連句人のネットワークの構築と連句の研鑽を目的として2012年2月に発足し、今年6月に第6回目の例会を開催することができた。関西連句人の遺産の継承という意味で橋閒石のことは当初から私の頭の中にあったが、俳諧は人から人へ伝わるという面が強く、本を読んで研究しただけではなかなか真髄に迫ることができない。けれども、だからといって敬遠したままでは閒石が創始した「非懐紙」という形式が廃れていってしまう。思い切って取り上げてみることにしたのだ。
当日はテクストとして橋閒石非懐紙連句集『鷺草』(秋山正明・澁谷道共編)を読むことにした。澁谷道の序文によると、閒石は「僕は芭蕉に会ったら聞きたいことがある」としばしば語っていたという。閒石の真意はどこにあったのだろうか。
芭蕉七部集『ひさご』の歌仙「花見の巻」は問題性を孕んだ一巻である。その全部を引用することはできないが、問題となるのは次の箇所である。

木のもとに汁も膾も桜かな(発句)
千部読花の盛の一身田( 裏十一句目)
花薄あまりまねけばうら枯て( 名残の裏一句目)
花咲けば芳野あたりを欠廻 ( 名残の裏五句目)

発句に「桜」とあるが、これは花の座ではなく、裏十一句目が花の座となる。
また、名残の裏の一句目「花薄」は秋の季語で、名残の裏五句目が花の座なのである。しかし、文字としては名残の裏に「花」という字が二箇所出ることになり、このようなことは避けるのが普通である。この点について芭蕉はどのように考えていたのだろうか。更に橋閒石はどのように解釈していたのだろうか。
澁谷道は次のように書いている。

「閒石先生の胸中には、先生独自の解釈があり、詩の真実に生きようとすると古式に則りつつも泥まぬことを旨とし、それはまた背馳の部分がそのままに矛盾の尾を引き、時代の文芸の中心人物としては大いなる悩みとなりつつ、形式に対してつとめて自由であろうとした芭蕉が、どうしても解決しきれず又実行もし得なかった、と洞察された、芭蕉の懊悩の行きつく先を、先生はある程度の推測の域にまで達しておられたのではないか、と私はおもう。
芭蕉の軽みのあとにくるものが、閒石先生には見えていたのではないか。『僕は芭蕉に会ったら聞きたいことがある』という先生の呟きを、私は何度耳にしたことか、しかしそのあと必ず口籠って、『聞きたいこと』の中味を話してはくださらなかった」

そして、澁谷は次のように推測するのだ。
「『花見の巻』の名残の裏に花の字が二つ見えることを気にしなかったのだろう、との先生の言葉を聞いた時から、もしかしたらこの辺りが非懐紙形式への思考に繋がるところかも知れないと私はおもった。『非』懐紙であるから懐紙は用いない。従って当然折はなく、表も裏もない。つまりこれは巻物形式なのだ。それが本来の姿だったのだから、或る意味では原始にかえる、ということになる」

敷衍して言えば、非懐紙という形式は連句精神と連句形式の相克から生まれたことになる。連句形式による制約と連句精神とがぎりぎりのところで抵触した場合、歌仙形式ではなく、非懐紙形式であれば、矛盾は解消される。けれども、形式の制約がないということは、逆に連句精神の強度が試されることでもあるのだ。非懐紙実作の困難さがそこに生じる。
当日は閒石の次の句を発句として非懐紙を巻いてみた。実作によってしかわからないことがいろいろあるものだ。

人になる気配も見えず梅雨の猫    橋閒石

(余談)
閒石が作ったという「ありがたぶし」なるものが伝わっている。酔余の戯れと見えるけれども、けっこう閒石は本気だったようだ。

 わたしゃ冥利に生きながらえて
  今日もお酒で暮れまする
 低いまくらを高くもせずに
  あなたまかせの仮枕
 細いからだを軽みというて
  やがて消えます春の雪

2013年6月21日金曜日

失われた二十年をどう詠むか

短歌誌「かばん」6月号で編集人の飯島章友が川柳人・やすみりえと対談している。
飯島章友は短歌と並行して川柳も書いていて、「川柳カード」の同人でもある。やすみりえは昨年『50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書』(土屋書店、坊城俊樹・東直子と共著)を出して川柳の普及につとめている。
掲載されている参考資料のうち「やすみりえの好きな川柳五句」を紹介する。

悲しみはつながっているカーブする    徳永政二
こどもの日母の日 五月って嫌い     庄司登美子
うばうことうばわれることがかがやけり  大西泰世
三月に死ねたらしばらくは春ね      時実新子
くちびるの哀しいまでの記憶力      川上富湖

「川柳と俳句」「川柳と短歌」などについて対談が続くが、飯島の「川柳は五七五の形式こそ俳句と同じなんですが、実は短歌と親和性があるのではないか」という発言に対して、やすみは「そうですね。短歌をやっている友人からも川柳に対してそんな風に言ってもらうことが度々ありますよ。それは本当にうれしい意見です」と答えている。
このあたりが川柳人と歌人が交流する際の出発点だろう。「私性」の表出という点で短歌と川柳には確かに共通性があるが、「私性」をめぐる議論にはそれぞれのジャンルにおける経緯があるから、ここから先にどう対話を進めていくかが今後のテーマとなるだろうと思う。
飯島の問題意識がよく表れているのは、「川柳に若手がいない」「失われた二十年をどう詠む」などの部分である。飯島はこんなふうに発言している。

「罵倒されようが無視されようが、川柳人としては若い世代が、同人誌をどんどん出していかないと駄目かなと。そして偉い方々も、若い世代に『場』を作ってあげることくらいはしたほうがいいと思います」
「僕もやすみさんも第二次ベビーブーマー(昭和46年~昭和49年生まれ)です。ここがバブル以後の最初の世代なんじゃないかと思います。氷河期世代とも言いますよね。で、結社川柳界には第二次ベビーブーマー以降がほぼいません」

「失われた二十年をどう詠む」という飯島の問題意識は重要である。先行世代が今を詠んでも新聞の見出しみたいに見えてしまうと飯島はいう。今をとらえる実感が異なるのである。

4月20日に開催された「石部明追悼川柳大会」の記録誌が届いた。
石田柊馬の「石部明を語る」は当日の話の再録である。石田は映画の話からはじめている。
「若い頃に社会性川柳にあこがれていた私は、何事によらずリアリズムを大切なものとしていましたので、勧善懲悪のチャンバラ映画で、生白くて腰の据わらない青年俳優のふにゃふにゃのチャンバラが大嫌いでした」
ところが石部明は「白塗りの美青年でいいのだ、勧善懲悪の主人公は非現実、リアリズムから離れている方がいいのだ」という見方だったという。
「勧善懲悪だけの思想をチャンバラでつくることは、それなりに人間や世界を抽象化して善と悪とのストーリーを単純化することと、手法として白塗りの美剣士を造ることが必要でした。明さんはこれをよく認識していたから、白塗りの美青年でいいのだという見方をしていたのです。勧善懲悪のヒーローは非現実の存在でなければならないこと。リアリズムと勧善懲悪の思想とはズレルことを明さんは知っていたのでした」
このことから石田柊馬は「石部明の川柳は、常に、現実と造り物との関係をわきまえて書かれていたのでした」と結論する。石部明は「造り物と現実との違い、そのあいだ、距離、をよく知って居なければ、創作行為が虚しくなることを心得ている川柳人だった」というのである。石部明のことをもっともよく理解するひとりである柊馬の石部明論である。
追悼大会の際に、各選者が特選に選んだ句を挙げておく。

柴田夕起子選  三日月はガーゼを掛けてから握る   本多洋子
前田一石選   ひめやかに湾の崩れゆく真昼     内田真理子
松永千秋選   いつまでも山羊であなたはオルガンで 徳永政二
徳永政二選   遮断機の向こうへ顎がはいります   たむらあきこ
広瀬ちえみ選  潜水艦の中のポルノグラフィー    安原博
筒井祥文選   妖怪は字幕とともに現れる      徳永怜子
樋口由紀子選  ポケットの指は鯨が噛んでいる    兵頭全郎

あと、第32回「川柳北田辺」の句会報より、川柳性を発散させる女性たちの作品を紹介しておきたい。

たがが外れて鰓呼吸はじまる      酒井かがり
瓜売りが瓜売りに来て大嫌い      酒井かがり
ぶらんこのきしみ気管に押しあてる   榊陽子
仲良しクラブにひげが生えてくる    榊陽子
閂をかけてよくないことします     久保田紺
東大阪のぎらぎらの水たまり      久保田紺

2013年6月14日金曜日

第4回兼載忌記念連句会With八重の桜

会津がいま注目されている。
NHKの大河ドラマの影響は大きなものがあるが、会津ゆかりの連歌師に猪苗代兼載(いなわしろ・けんさい)という人がいる。2009年は兼載の生誕500年だったが、会津在住の連句人・俳人の田中雅子さんによって「兼載忌記念連句会」がスタートしてから今年で4回目になる。6月8日(土)に「学びいな(猪苗代体験交流館)」で開催された連句会にはじめて参加することができた。
兼載について少し触れておくと、『新撰莵玖波集』に兼載の句がある。岩波古典文学大系39『連歌集』から恋句を紹介しよう。

わすれがたみになれる一筆
かりそめのとだえをながきわかれにて

かりそめの一時的な別れだと思っていたのに、そうではなかったのである。

とはむとおもふこころはかなさ
この世だにかれぬるものを草の原

恋しい相手を訪れようと思う心もはかないことである。草原もやがて枯れてしまうこの世の中ではないか。

うづみ火きえてふくる夜の床
人はこでほたるばかりの影もうし

埋火は冬だから、火が消えた夜の床は寒々としていることだろう。恋人は来ないので、蛍のような影というのは恋人の影ではなくて作中主体の影になる。「うし」は「憂し」。

兼載は宗祇とともに『新撰莵玖波集』を編纂し、京都の北野天満宮連歌会所の宗匠をつとめた連歌人である。
「学びいな」でもらった『猪苗代兼載のふるさとを訪ねて』というパンフレットによると、兼載は亨徳元年(1452)、小平潟(こびらかた)村に生まれた。兼載の母は小平潟天満宮に祈願して兼載を生んだという伝承がある。父は猪苗代盛実と言われる。
兼載は六歳のとき現在の会津若松市、自在院に引き取られ連歌の会で頭角をあらわしてゆく。自在院に隣接していた諏訪神社には連歌会所があり、月次連歌会が催されていた。兼載の才能は他を寄せ付けず、その才能を嫉妬されたために彼が来るのを拒んで一室に閉じ込めたとか門扉を閉じようとして指を折ってしまったとか伝えられている。やがて関東に来ていた心敬や宗祇との出会いを経て、連歌師として大成する。晩年は会津に帰ったが、戦乱を避けて那須野に移り、古河に没した。
句会前日の8日(金)の夕方、新幹線で東京に出て、夜行バスで会津若松に向かう。午前5時に若松駅前に到着。雨が降り出して、早朝の会津は少し寒い。喫茶店もまだ開いていないので、街を歩きながら鶴ヶ城へ向かう。
人気もなく、静かな雰囲気を味わうことができた。土井晩翠の「荒城の月」の詩碑がある。荒城の月のモデルになった城は会津の鶴ヶ城と仙台の青葉城がミックスされたものだと言われる。さらにお城近くの山本覚馬・八重の生誕の地に向かう。生誕の地は駐車場になっていた。
8時になって喫茶店が開く時間だ。野口英世青春通りにある英世記念館の一階の喫茶店に入る。ガイドブックに載っているレトロな喫茶店のひとつで、こういう喫茶店をいくつも回るのを楽しみにしていたが、会津滞在中に結局2軒しか行けなかった。
会津若松から磐越西線に乗る。午前11時20分に磐越西線の猪苗代駅に集合。連衆のみなさんと合流して貸切バスで兼載ゆかりの地へ向かい、兼載の母・加和里の墓、旧天満宮跡の幹の梅、小平潟天満宮などを回る。
「猪苗代の偉人を考える会」の方のガイドも楽しく、猪苗代の三偉人として猪苗代兼載・保科正之・野口英世の三人が挙げられている。

山は雲海は氷をかがみかな

この句碑は平成22年、没後500年記念に建立された。
明治20年に建立された「葦名兼栽碑」(猪苗代兼載碑)の横にある。猪苗代氏は葦名氏と同族。小平潟の人々はかつては「葦名兼載」の名で呼んでいたという。

さみだれに松遠ざかるすさきかな  

兼載が小平潟天満宮で詠んだ発句である。
小平潟は湖につき出た洲崎になっていた。かつて天満宮の社前には湖の波が打ち寄せていたという。今は樹木が遮っていて見えないが、猪苗代湖がよく見えたのだろう。
この句碑は昭和34年(1959年)の猪苗代兼載没後450年記念の際に建立された。このときの記念行事の記録が自在院に残っているというが、確認されていない。また、記念句会が会津若松の御薬園・重陽閣で開催されたともいう。具体的な連衆の名も不明なので、何か情報をお持ちの方はご教示いただければありがたい。

兼載ゆかりの地を巡ったあと、「学びいな」で連句会。5座に分かれ、約30名の参加。私の座では次の発句で、歌仙を巻き上げた。

夏燕連歌の徳を慕い飛ぶ   正博

連句会の翌日は貸切バスで観光した。まず午前8時30分から大河ドラマ館に入館。人気があるので、朝一番の予約になったという。ここで大河ドラマのセットや衣装、映像などを体験。その後、鶴ヶ城、会津酒造歴史館などを回る。作家の早乙女貢は毎年の会津まつりには必ずやって来て、西郷頼母に扮していたという。
午後は日新館へ。
会津藩の藩校・日新館は司馬遼太郎が『街道を行く』の中で、当時としてはもっとも進んだ学校であったかもしれないと述べたものである。入口を入って正面にある大成殿が湯島聖堂とよく似ている。
天文台のあとからは磐梯山がよく見えた。以前は日新館は閑古鳥が鳴いていたそうだが、大勢の観光客が詰めかけている。やはりドラマの影響は大きい。
水練池に泳ぐ夥しいあめんぼをしばらく見ていた。
日新館のあとは、恵日寺の金堂と資料館を見学。
恵日寺を創建した徳一(とくいつ)については関心をもっていた。
30年以前に勝常寺を訪ねたことがある。勝常寺も徳一の創建した寺である。薬師三尊には迫力があった。京都・奈良の古寺巡礼をひととおり終わったあと地方仏に興味があったのだ。

会津を旅してみて、会津と関西との関係が深いことを知った。
たとえば、会津と京都との関係。
山口昌男の『敗者の精神史』(岩波現代文庫)に山本覚馬のことが出てくる。
「会津の敗者たちの中でひときわ際立っているのは山本覚馬の場合である。維新後、遷都の際、京都の能力ある人士は挙げて東京に移ったあと、京都は人材という点では全く空虚になってしまった。このとき京都を再建し、西欧的近代化に適応するのを助けたのは、外ならぬ敗者の会津藩の生き残り、山本覚馬であった」
私はこの本を鞄に入れて会津へ行ったのだが、会津の立場にしてみれば、逆にこの時期に人材は会津から去ったということになるのだろう。

私が事務局をしている「浪速の芭蕉祭」は大阪天満宮を拠点としており、今回、会津の「兼載忌記念連句会」との交流ができて嬉しかった。7月には郡上八幡で「連句フェスタ宗祇水」が開催され、こちらにも出席したいと思っている。
心敬・宗祇・兼載などの連歌は短詩型文学の遺産である。そこには俳句の取り合わせや川柳の詩的飛躍の遠源をなすLinked Poetry(付合文芸)の精神がある。

2013年6月7日金曜日

異熟とは阿頼耶識のことだった

先週紹介した海堀酔月の『両忘』は禅語のようだが、今週も仏教用語をタイトルにした句集について触れてみたい。斉田仁(さいだ・じん)の『異熟』(西田書店)である。
「現代詩手帖」の「俳句時評」で関悦史がこの句集を取り上げていて、「異熟」が唯識論でいう阿頼耶識のことだと知った。「時熟」ならハイデガー。

「異熟はアーラヤ識と称せられる識で、一切の種子をもつものである」(『唯識三十頌』)

そういえば『異熟』の「あとがき」には次のように書かれている。
「大方、聞きなれない言葉だろうし、薄気味の悪い語感ともいえるが、れっきとした仏教語である。原典にある梵語の、意訳というか、いま流行りの言葉でいえば、超訳というか。発音して読んだときの響きが気に入って、題名とした」

唯識論を大成したヴァスバンドゥはフロイトより1600年も前に深層心理を探究した。
また、井筒俊彦は言葉が生成する意識のゼロポイントを「言語アラヤ識」と呼んだ。
そこでは、さまざまな言葉が生成・消滅しているわけである。

あまり句集のタイトルにこだわるのもよくないので、句集の作品を見ていくことにしよう。

山の蛾のひとつ網戸に体当たり

蛾は意志をもって体当たりしているわけではない。光に誘われる蛾の本能に従っているだけである。しかし、蛾の力は案外に大きなもので体当たりしているような衝撃が網戸に起こったのである。

ヘッセ忌の標本箱の黒い蝶

ヘッセの小説に蝶を盗む話がある。友人の持っている珍しい蝶の標本を彼は欲しくてたまらない。その気持は昆虫マニアならとてもよく理解できるものだ。彼は友人の標本を盗んでしまう。そのことを知った友人の反応は … 軽蔑だった。友人に軽蔑されて彼は自分の集めた蝶の標本をひとつひとつ指で潰してしまう。

夏の峠忠治と一茶すれ違う

国定忠治と小林一茶が夏の峠ですれ違った。二人は無言ですれ違ったのだろうか。
「おまえさん、俳諧をおやりなさるのかね」
「はい、やせ蛙が好きでございます」
そんな会話を交わしたかもしれない。無言の方がいいかな。

胃の漱石肺の一葉時雨来る

漱石は胃弱だった。そのくせ甘いものが好きだった。胃潰瘍なのに、目の前の饅頭をぱくりと食べてしまう。「食べる俺も悪いが、こんなものを目の前に出しておく家人も悪い」
漱石と一葉の間には縁談話があったとも言われている。

鬼籍の兄まだ竹馬を貸し渋る

兄は弟に竹馬を貸してやらなかった。兄の死後、弟は自由に竹馬を使えたかというと、そうではない。ここには兄弟の間の心理的なドラマがある。

もう一歩花野に踏み込まねばならぬ
熊撃ちしその夜の浴びるような酒
牡丹散りまだ生臭きままの思惟
やあ蝶々やあ蒲公英と歩きけり
童貞や池にびっしりあおみどろ

斉田仁は現在、俳誌「麦」同人。「塵風」代表。1982年に八幡船社から『斉田仁句集』を出している。津久井理一の「八幡船」(ばはんせん)から発行されていた「短詩型文学全書」は川柳人にとっても記憶に残るものだ。その川柳篇として『中村冨二集』『時実新子集』『林田馬行集』などが出されている。

さて、唯識論の完成者であるヴァスバンドゥは日本では世親の名で知られている。
奈良の興福寺では4月から6月2日まで南円堂と北円堂が同時公開された。法相宗は唯識論のメッカであり、北円堂には運慶作の無着・世親像が安置されている。
無着(アサンガ)が兄、世親(ヴァスバンドゥ)が弟。この兄弟の像が本尊の弥勒菩薩を挟んで屹立している。無着は人格的であり、世親は論争的である。
先日、無着像を見ていて、左手の親指が失われていることに気づいた。無着像は30年以上前から見続けているが、きちんとものを見るのは難しいことである。