2021年11月26日金曜日

ポスト現代川柳―「川柳スパイラル」13号

「文学界」12月号、巻頭のグラビアページに平岡直子の短歌10首が掲載されている。「パラパラ漫画」というタイトルで、岡田舞子の写真とのコラボになっている。

花ひとつひとつの裏に小さな装置 踏切を待つあいだだけ  平岡直子
努力家を自称する全方向に全方向に落ち葉が降るの

平岡は『短い髪も長い髪も炎』(本阿弥書店)を上梓して今もっとも注目される歌人のひとりだが、彼女の短歌はすでに第一歌集以後の新たな展開を見せつつあるようだ。

ネットプリント「当たり」21号から、大橋なぎ咲の短歌。

混沌と出会ってはじまる私たちただの同級生じゃなくなる  大橋なぎ咲
姫といない知らない間の王子 女学校で王子が王子に恋をすること

女子校の感覚は私にはわからないところもあるが、「混沌」は『荘子』の有名な一節であるし、暮田真名が新たに立ち上げたネット句会の名でもある。先日発行された「ぬばたま」6号は大橋なぎ咲の特集。また大橋は「川柳スパイラル」13号に〈暮田真名と「当たり」の裏話〉を執筆している。「当たり」21号の暮田真名の川柳から。

万難を排してさびれだす港   暮田真名
眼福がつまって墨が流れない
町おこしに使った舌は草むらへ

「川柳スパイラル」13号の特集は「ポスト現代川柳の作者たち」。特集の前にゲスト作品を紹介しておこう。

捻子吹いて踏みだせ下戸のファランクス  しまもと莱浮

しまもと莱浮は熊本在住の若手川柳人。Zone川柳句会を運営している。「連れんこらるばい早よほー洗わんば」という方言作品や「瞑っていよう(註)で埋めて」のような句もあり、多彩な表現になっている。掲出句の「ファランクス」は古代ギリシアの歩兵などが槍をもって進撃する密集隊形。トロイ戦争などの映画のシーンで見かけることがある。下戸が隊形を組んで進んでゆくというのもおもしろい。

吐瀉物を舐める地球のデトックス    二三川練

二三川連は短歌では『惑星ジンタ』(新鋭短歌シリーズ、書肆侃侃房)の作者。

うつくしい島とほろびた島それをつなぐ白くて小さいカヌー 二三川練

連句の心得もあり、川柳も書く人なので、今回ゲスト作品を依頼した。掲出句の「デトックス」は有害物質を排出する解毒。ほかに「一万の眼鏡に落ちてくる宇宙」「花冷の犬の卵を茹でておく」など。

次に同人作品から各1句ご紹介。浪越靖政は今号お休み。

今ここを封じた雪が手に溶ける  飯島章友
拒めば拒むほど皮膚を産むはず  湊圭伍
妄想の雀が蓋をしていない    川合大祐
木菟とやたら目が合う観覧車   一戸涼子
完璧に病んで模様になってます   石田柊馬
追いかけて島のかたちになっている 畑美樹
言霊をスプーン一杯静かに湯   悠とし子
構造上夜霧は店になりません   兵頭全郎
言いさしのまばゆさあるいはただの人 清水かおり

さて特集の「ポスト現代川柳の作者たち」では、川合大祐、湊圭伍、飯島章友、暮田真名の四人を取りあげている。
『はじめまして現代川柳』のあと、川合大祐の動きは早く、今年の4月には句集『リバー・ワールド』(書肆侃侃房)を出している。「川柳スパイラル」では柳本々々、畑美樹の文章のほか、「小遊星」のコーナーに飯島章友と川合の対談が掲載されている。
柳本は『リバー・ワールド』の編集にも協力していて、まずこの句集の「圧倒的な過剰さ」に注目している。「この過剰さは、ソフト面、内容面だけではありません。大事なのは、かたち、ハードとしても現れているということです」と柳本は述べている。1001句収録のぶ厚い句集なのだ。「ことばをとおして何かを語る、のではなくて、ことばをとおしてことばそのものを語る、のが川柳なのではないか」など、柳本の川柳観も語られている。また、畑美樹は「川柳の仲間 旬」の初期から川合のことを知っていて、〈予見〉というキーワードを使って川合の川柳を語っている。川合と飯島の対談は、まあ読んでみてください。
湊圭伍『そら耳のつづきを』(書肆侃侃房)については、正岡豊が寄稿している。「勾玉のつづきを」というタイトルで、〈私は「そら耳」に対して「勾玉」を思ってみたりした〉〈短詩型の一作品というのは、ひとによっては「御守り」のようなものとして抱きかかえられるように愛されることがある〉という一節は句集の書評を越えて魅力的。石部明、石田柊馬以降をどう書くか、なお「以降」を書いていかなければばらない、というのも現代川柳についてよく知っている正岡ならではの視点だ。
飯島章友『成長痛の月』(素粒社)については「かばん」の久真八志が「上向きの蛇口の空を渡る」を書いている。飯島の作品は多彩で、いろいろな方向性をもっているが、飯島の作家性について、久真が飯島の川柳と次の短歌を並べて引用しているのは興味深い。

上向きにすれば蛇口は夏の季語  飯島章友
しろがねの洗眼蛇口を全開にして夏の空あらふ少年 光森裕樹
水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ 山田航

暮田真名については、この時評でもその都度取り上げてきたし、現在いろいろな試みをしている最中なので、暮田の表現活動がまとまったかたちをとったときに改めて論じてみたい。

瀬戸夏子編『はつなつみずうみ分光器』(左右社)は「現代短歌クロニクル」の副題にある通り、2000年以降の歌集のアンソロジーで、ゼロ年代とテン年代の短歌シーンが分かるようになっている。またコラムの欄で瀬戸は「ニューウェーブ」と「ポストニューウェーブ」について書いている。川柳では残念ながら短歌のようなエコールの明確な展開は見られないが、現代川柳の新しい展開を感じさせる作品がぼつぼつ生まれてきているようだ。

2021年11月19日金曜日

川柳の入門書

今回は手元にある川柳入門書を紹介してみたい。現在書店では手に入らないものが多いが、古本や通販などで流通していると思う。
私が初心のころによく利用したのは尾藤三柳著『川柳の基礎知識』『川柳作句教室』(雄山閣カルチャーブックス)の二書である。前者は「川柳の成り立ち」(川柳史)にはじまって「川柳の構造」「川柳の技法」と続き、「川柳創作の実際」では句会の概略まで詳細に説明している。後者は作句のための実践的な内容で、「入門編」では「ことばのトレーニング」「課題による作句」などにはじまり用語・形式・比喩にいたるまで説明、「応用編」では印象吟・嘱目吟・慶弔吟・時事吟などに分けて例句を挙げている。川柳史をより詳しく知りたいという向きには、同じく尾藤三柳の『川柳入門‐歴史と鑑賞—』(雄山閣、1989年)がお勧め。歴史篇では江戸期、明治期、大正期、昭和前期、昭和後期に分けて展望が示され、鑑賞篇では古典期(江戸)、新川柳期(明治以降)の作品が鑑賞されている。
最近では川柳入門書を開くこともなくなったが、今回手元にある川柳書を改めて眺めてみて、よくできていると思ったのが、野谷竹路(のや・たけじ)の『川柳の作り方』(成美堂出版、1994年)。「川柳のルーツ」では「川柳も俳句も俳諧から生れた」ということが強調されている。「川柳は俳諧の付句を学ぶ方法として考えられた前句付から生れた文芸なので、俳諧に至るまでは、現在の俳句の成り立ちと同じです。ですから、俳句と川柳は俳諧という文芸から生れた同根の文芸と言ってよいと思います」
俳諧というのは連句のこと。六大家のなかで俳諧(連句)と川柳の関係を正確にとらえていたのは前田雀郎であったが、川柳史をひもとけば両者の関係がよく分かる。また、川柳と雑俳との関係も知っておく必要がある。
野谷の本に戻ると、「鑑賞教室」の章では六大家のほか「現代のおもな作家と作品」が取り上げられている。

遊びではない旅に出る十二月    越郷黙朗
雨の避け逢いたい人はみな遠し   斎藤大雄
百万の味方コップの中にいる    神田仙之助
意識してからの両手の置きどころ  佐藤正敏
手品師を消してしまった弱気な鳩  尾藤三柳
そうだったのか若き日の花言葉   渡邊蓮夫
蟹の目に二つの冬の海がある    大野風柳
捜すなと無理なこと書く置手紙   山田良行
売った絵をいまさら惜しむ春のうつ 磯野いさむ
名を捨ててひとりの机ひとつの書  去来川巨城
二階から一日おりず詩人とか    西尾栞
蝶になる前を語れば嫌われる    吉岡龍城
恋人の膝は檸檬の丸さかな     橘高薫風
宰相の帽子は鳩も鷹も出る     田口麦彦
ここで動けばレッテルを貼られそう 小松原爽介
もう幕にしろと傍観者の欠伸    寺尾俊平

「番傘」系の入門書も紹介しておこう。岸本水府の『川柳讀本』はさておいて、近江砂人に『川柳実作入門』(大泉書店)がある。「現代川柳と古川柳」の章で川柳史を通観したあと、「川柳の表現と着想」に及び「川柳の作り方と考え方」を解説している。「前進もよいが、本来の川柳の姿を見失っては、元も子もなくなるので、私はその行き過ぎを警戒しなければならないと思う」「特に川柳で注意したいのは、人の意表をつくために着想を伸ばしてゆくのはいいのですが、一歩誤ると、暗い面、不吉な面へ足を入れます」などの伝統派(本格川柳)の川柳観が見られる。砂人が挙げている「革新川柳」とは次のような作品で、彼の「革新」に対するイメージがうかがえて、それなりに興味深い。

火燃やす胸の暗転広場をさがして歩く  俊介
別れてからの泪はひろわない黒い鳩   芙巳代
妻病む一家が渡ると丸木橋喋る     一吠
終わった旅のベッドルームにある告示  冬二
風の列車を全部発たせた胸に寝つく   淳夫

番傘川柳本社創立85周年を記念して出版された川柳書に『川柳 その作り方・味わい方』(創元社、1993年)がある。「川柳の歴史」「川柳の基礎知識」「川柳の作り方」のほか「添削と選評」「作家とその作品鑑賞」「句会の心得と楽しみ方」という実践的な内容が掲載されている。執筆者のひとりである亀山恭太が本書の刊行と同時期に亡くなったことが強く印象に残っている。

他にも川柳入門書は山ほどあるが、入門書の一般的なパターンとしては、まず川柳史を概観し(歴史)、川柳の構造と発想(本質論)を解説、実践的な作句法(技術論)に及んだあと、その結社やグループの作品を掲載する(アンソロジー)というものが多い。川柳史を語る場合でも俳諧(連句)や雑排にまで目配りしているものもあり、古川柳から現代川柳までどのような比重で語るかに著者の見識があらわれる。「俳句と川柳の違い」が川柳史に即して説明される場合もあるし、構造と発想に関連してとりあげられることもある。実践的な技法としては比喩、省略などが話題になるが、たとえば何を省略ととらえるかについて、あげられている例句に疑問を感じる場合も見られる。アンソロジーの部分はその時代に活躍した作者の句を断片的に知ることができるが、それぞれの著者の川柳観が反映されているから、現在の目から見て限界もあるだろう。とくに「女性川柳人」にスポットを当てているものもある。
川柳入門書は初心のうちは便利なものだが、結局自分の思うように川柳作品を書いてゆくほかはないということだろう。

2021年11月12日金曜日

こんな顔ではなかったかい?

とりあえず今はダチョウに乗ってゆけ   樹萄らき

「あざみエージェント」(冨上朝世)が発行しているオリジナルカレンダーの2022年版1月の掲載句。応募作35名の中から6人の選者が佳作・準特選・特選を選び、さらにその中からカレンダーに載せる12句が選ばれている。掲出句は柳本々々選の佳作から。
樹萄らきは川柳の仲間「旬」所属。啖呵の効いた威勢のいい句を書く人だ。「とりあえず」だから、いろいろ面倒なことがあり他に手段があるかもしれないが、とにかく出発しようということだろう。それも電車や車ではなくて、ダチョウに乗るのだという。ダチョウは時速60キロのスピードで走るから、乗り心地はともかくけっこう遠くまでゆけるかもしれない。高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」をはじめ、ダチョウには私たちにさまざまな連想を誘うイメージがある。ダチョウに乗る人のほかに、「乗ってゆけ」と言っているもう一人の人がいるのだと考えると、出発する人と送り出す人の姿も浮かんでくる。ダチョウになど乗れない現実のなかで、一瞬の爽快感が生まれる。
そろそろ来年の手帳を買うことにしよう。

ふつうです特殊ケースのほとんどは  佐藤みさ子

10月に創刊された川柳誌「What`s」vol.1(編集発行人・広瀬ちえみ)から。
佐藤みさ子は箴言(アフォリズム)のような句をいくつも書いている。「正確に立つと私は曲がっている」などはその代表的な作品だが、掲出句も「ふつう」と「特殊」の関係を独自の川柳眼で言い当てている。世間で特殊だと言われていることも当人にとっては「ふつう」なのであって、それを「特殊」だと言う世間の方が実はふつうではない。「ふつう」と「特殊」の関係が逆転し、問い直される。ベースにあるのは、人間はひとりひとり違うのであり、違いのなかに譲れない大切なものがあるという認識である。
ほかにも佐藤は「死ぬはずはないさ生まれていないもの」「空気には音があるのよねむれない」などの句を書いている。

体のなかの音組み立ててから起きる   加藤久子

同じく「What`s」vol.1から。この雑誌には終刊になった「杜人」のメンバーが多く参加している。加齢や低血圧、心身の不調などさまざまな事情で起きられないことがある。そんなとき体内で不安定に鳴っている音を組み立ててから、さあ起きるぞと自分を奮い立たせて起き上がる。「体のなかの音」という表現が魅力的で、考えてみれば体内には血液やリンパ液などが流れているのだし、それぞれの器官が動いている。そういう体内感覚と同時にデリケートな心の働きもある。この句では目覚めのときの感覚をまず音としてとらえている。「海岸線おいしい音をたてている」「雪の日の椅子に積もってゆくバッハ」などの句も掲載されている。

コロナ振り向く「こんな顔ではなかったかい?」  小野善江

「川柳木馬」170号から。小泉八雲の「むじな」の話を踏まえている。
コロナ禍の生活もほぼ二年に及ぶ。川柳でもコロナを詠んだ句はいろいろあるが、まとまった形で読む手立てがない。短歌誌「井泉」102号の〈リレー小論〉のテーマは「日常の歌を考える―コロナ禍に何をみるか」で、今井恵子と彦坂美喜子が執筆している。両人が取り上げているのは現代歌人協会が編集した『二〇二〇年コロナ禍歌集』という冊子。引用されているのは次のような歌である。

リモートの会話はどこかぎこちなく中の一人の画面が消える 佐藤よしみ
扉を開けてしばしためらうマスク越し判然としないあなたはどなた 松山馨
「手指酒精消毒液」が染み込んであなたに触れた事実も消える 松村正直
自粛ポリスとふ新語おそろし過剰なる監視者となる普通の人が 結城千賀子
陽性者は恥じよ恥じよと迫りくる舌を持たざる声群がりて  吉川宏志

「オンライン会議やリモート授業、またZoom歌会などが、一年のうちに、ごく当たり前のようにわたしたちの日常のなかに取り込まれていった」「遠隔地に接続できるので、物理的な距離を解消し、少ない労力で多くの情報が得られる便利さはある。人的交流が苦手の人にとっては楽に感じられるかもしれない」(今井恵子「これからの暮しと言葉」)しかし、やむをえずオンラインに切り替えた多くの人たちは不安定感をかかえているのであり、対面する会話の言葉との質的な違いは、よく覚えておきたい体感だと今井は言う。
川柳ではオンラインへの切り替えが限定的で対応のスピードも鈍いが、夏雲システムやZoomを利用した句会も徐々に現れてきている。川柳は時事や時代の反映を得意とするはずなので、まとまった形でコロナ禍の生活と向き合った句集があればいいのにと思う。小野善江の掲出句はCOVID‐19を擬人化して、のっぺらぼうのような無気味さを感じさせている。

家出するには古本が多すぎる   古谷恭一

同じく「川柳木馬」170号から。家出できない理由は古本が多いからというのは、本の置き場に困っている者には実感としてよく分かる。すべて捨ててしまえば出発できるのだろうが、本に対する愛着が強いのだ。
本誌の巻頭言で古谷恭一はこんなふうに書いている。「コロナ禍で、土佐では、二年続けてよさこい祭りが中止になった。よさこい祭りが無いと、高知の町もひっそりである。それに加えて、八月は長雨が続き、はりまや橋もさみしく濡れそぼっていた」そして恭一は北村泰章の句を引用している。

 朱に染めてはりまや橋に雨が降り  北村泰章

北村泰章没後14年。時代の変化のなかで、それぞれの土地で川柳活動が続けられている。

ねえ似てるんだけど、ではじまる手紙   柳本々々

「川柳木馬」170号の「作家群像」は柳本々々篇である。真島久美子と川合大祐が作家論を執筆している。
掲出句は「ねえ」という呼びかけで始まっている。誰に対して呼びかけているのか。「ねえ似てるんだけど」が手紙の書きだしだから、手紙を送る相手なのだろう。そもそも何が似ているのかも書かれていない。書き手と相手との共通性だとすると、何か話が通じあい共感できるところがあるという関係性。たとえば、リチャード・ブローティガンが好きだとか、フギュアを集めるのが趣味だとか、お互いが同じタイプの人間であるというところから交流がはじまる。友情であれ恋愛であれ、異なったタイプ、正反対の性格だからうまくいくという場合もあるが、ここでは「似ている」ということが大切になっている。あるいは、そういうことではなくて、手紙の書き手が自分とそっくりな第三者と出会ったという報告かもしれない。自分と外見が似ているが正体不明の人物が不意にやってくる。そういう状況だとミステリーの発端になる。
柳本の句のなかでよく知られているものに「ねえ、夢で、醤油借りたの俺ですか?」があって、同じように「ねえ」で呼びかけられていてもこの句の場合は句意が読みとりやすい。掲出の手紙の句は読みの範囲が限定されずに、読者に放恣な想像を誘うところがある。誰に呼びかけているのかというのは「宛名」の問題である。この手紙はいったい誰に宛てて書かれているのか。宛名は手紙の相手というより、架空の誰かかも知れないし、川柳の読者なのかも知れない。
川合大祐は作品論で「川柳とは『誰』に向けられた発話なのだろうか」「柳本は『誰』に向けて作句しているのだろう?」(「伝道の書に捧げる薔薇、あるいは柳本々々氏の〈語り〉を〈読む〉ということ」)と書いている。今月末に発行される「川柳スパイラル」13号では逆に柳本々々が川合大祐の『スロー・リバー』について書いているので、あわせて読めば興味深いと思われる。

2021年11月5日金曜日

連句の大会と川柳の大会

10月30日
「紀の国わかやま文化祭2021」の「連句の祭典」吟行会のため白浜へ。JR白浜駅からバスツアーで、まず稲葉根王子へ向かう。熊野古道を本宮大社まで行くツアーで、ガイドさんも同行している。次の滝尻王子では熊野古道館の展示によって熊野古道の全体像が少し理解できた。古道館の横の細い道に「この道は熊野古道ではありません」という立札があるのがおもしろかった(その後、このような表示に何度も出会うことになる)。
滝尻王子のあとは一直線に本宮大社へ。本宮には来たことがあるので、私が行きたかったのは大斎原(おおゆのはら)である。ここに元の熊野本宮大社があったのだ。本来の聖地だから、何かアニミズムやスピリチュアルな雰囲気を感じることができるかと思って、感覚を開放して何かが降りてくるのを待ってみたが、都会生活者の私には聖域の感覚はそれほど得られなかった。同行の人々から少し離れたところに佇んでいたのは一種のポーズで、見苦しいことである。
本宮は一遍が参籠したときに夢に熊野権現が現れて阿弥陀信仰に導いたところだ。本宮の主祭神の本地仏は阿弥陀如来である。熊野と松山(一遍の誕生地)がつながる。

10月31日
「連句の祭典」当日。上富田文化会館で開催。
午前の部は開会式。表彰のあと記念公演「市ノ瀬夢芝居」と続く。当日配布された入選作品集から、まず一般の部・文部科学大臣賞受賞の二十韻「指先の」の巻(捌・名本敦子)のオモテ四句を紹介する。

指先の傷にはじまる春うれひ
 籠にこんもり蕗の姑
入学式制服制帽まぶしくて
 ペダルを踏めばこころ軽やか

ジュニアの部の文部科学大臣賞は表合せ六句「三が日」の巻(指導・鈴木千惠子)。中学生の兄弟の両吟。

はがき待ちポストに通う三が日  
 ポッケの左右入れる年玉    
こち亀がずらりと並ぶ本棚に
 猫の足跡続く裏庭
ソーダ水月といっしょに一気飲み
 汗のにおいはクラスのにおい

午前の部の様子はYouTubeで同時配信された。限定公開なので事前に上富田町と日本連句協会のホームページにURLが掲載される。大会に参加できなかった方も楽しめたようだ。上富田町市ノ瀬の春日神社では毎年10月に奉納芝居が行われ、江戸時代中期から続いている伝統あるものらしい。歌舞伎のようなものかと思っていたが、大会当日上演された「置泥(おきどろ)」は落語のネタをアレンジしたもので、最後の方で「和歌山県の連句を育てる会」の会長も役者として登場、会場を湧かせていた。
昼食のあと午後の部は連句の実作。リアルの座が9座、リモートの座が1座で、計48名の参加。コロナ禍で会えなかった方々とも久しぶりに対面して連句を巻くことができた。Zoomを使ったリモートの座の方も、会場にパソコン2台を設置して、リモートの参加者と連絡をとった。実作の進行はリモート連句の参加者だけで行ったが、会場の連衆とリモートの連衆とが一座を組むハイブリッド連句も十分可能かと思った。

11月1日
熊野古道をひとりで歩く。タクシーで稲葉根王子まで行き、そこからバスで牛馬童子口まで。山道を登って箸折峠に着く。かねて憧れの牛馬童子と対面することができた。思っていたより小さな石仏で、左右に並んでいる馬と牛にまたがっているユニークな造型である。ここからは下りになり近露の里に出る。この日のコースのなかでは牛馬童子口から近露までが熊野古道らしい雰囲気があった。近露には民宿があり、中辺路を全部歩くなら、ここで一泊するのがよさそうだ。入ってみたいと思う喫茶店もあった。ここからの道はアスファルトが多く、歩いていてもそれほど楽しくない。楠山登り口から再び古道らしくなり、継桜王子まで行く。境内の野中一方杉は見事なものだ。ここで古道からリタイアしてバス道に下り、バスで本宮まで。途中、湯の峰温泉や川湯温泉を通過。川湯温泉には数十年前に宿泊したことがあるが、そのときの旅館が窓から見えた。
本宮のひとつ手前の大斎原でバスを降りる。一昨日とは別の入り口から大斎原に入る。再びここに来たのはいまひとつ納得できない気持ちがあったからで、聖地の雰囲気を感じとれるかどうか試してみたかった。けれども、参拝所の前の芝生のところで寝転んで話している若者の群れがいて、神聖な雰囲気は一昨日以上になかった。超越的なものに無縁な人間がいることは、それはそれで仕方のないことだ。河原の方におりてしばらく流れを見ていた。

11月3日
「`21きょうと川柳大会」に参加するため、ラボール京都へ。久しぶりの川柳の大会になる。
事前投句(雑詠)112人、一人2句投句だから224句を四人の選者が共選する。高得点句の一部を紹介する。

そうよねと話を聞いてくれたパン  新保芳男
弟がアベノマスクをつけている   福尾圭司
七割は風で有言不実行      斉尾くにこ
アリバイを程よく寝かす冷蔵庫   中林典子
赤い紐引けば口角上がります  長谷川久美子
熟さないトマトのように黙り込む  上西延子
オルゴールひらけば津波注意報   高橋レニ
傾けたワイン半音ずれている    矢沢和女
尻尾だけ揺れる弓張り月の猫    藤本鈴菜
風鈴も静かになって多数決     亀井明
バスを待つ指の形を変えながら  富山やよい
情報はそこまで湯切りさっとする  木戸利枝

当日の課題は「メニュー(蟹口和枝選)」「だます(岩根彰子選)」「手紙(ひとり静選)」「喉(笠嶋恵美子選)」「働く(藤山竜骨選)」。抜句数は平抜きが50句、秀句2句、特選1句の計53句。私の句はあまり抜けなかったが、久し振りに川柳大会の雰囲気を味わうことができた。川柳の句会は「題」という共通の土俵で腕を競い合うもので、自作が選者の好みに合う・合わないということはあるが、そこをねじ込んででも選者に取らせるだけの句を出すのが作者の力量である。選者の方も自分の好みの範囲で句を取る人もいれば、バランスよくさまざまな句を取る人もいる。句を読みあげる披講の仕方にも上手・下手があり、取った句には賛成できないが披講は上手だったり、選は納得できるが披講がイマイチだったりする。石部明は選も披講もすぐれていたなあと改めて思った。
会場での立ち話でウェブ句会「ゆに」の話を聞いた。芳賀博子のブログで立ち上げの案内を読んだことがあり気になっていたが、30数名の会員が集まったという。ゆに公式サイトもできていて、句会も行われているようだ。11月の会員作品から紹介しておく。

踏まれ邪鬼あの日の蝶を恋しがる   山崎夫美子
女子大の門をくぐると冥王星      朝倉晴美
今が大事ゴールポストの右狙い    海野エリー
還暦の顔がなんだかカマドウマ  おおさわほてる
右手前に引けば鬱に戻る予感      岡谷 樹
狂わない時計を捨てに花野まで    笠嶋恵美子
落葉松の林抜ければ短詩型      川田由紀子
鎖骨から上は本音を語らない      菊池 京
呼応するように誤読をしてしまう   斉尾くにこ
林檎の皮のいつまでつづくバス通り  澤野優美子
少し向こうへ誠実な線を引く      重森恒雄
くるしみの中に一筋ある梨よ      千春
バッグにはスマホ、ハンカチ、秋銀河  西田雅子
頬杖を伝染し合ってはラフランス    芳賀博子