新しい年がスタートしました。今年も「川柳カード」をよろしくお願いします。
年末・年始は比較的ゆっくりと本を読むことができた。芭蕉や蕪村、『柳多留』などの句集を耽読して、川柳の発祥について改めて振り返る機会があった。年頭にあたり、時評というのではなく、少し古典にさかのぼって考えてみることにしたい。
与謝蕪村と柄井川柳は同時代人である。川柳の発祥と蕪村の俳諧は重なる部分があるのだ。『セレクション柳人6小池正博集』の解説で石田柊馬は、吉本隆明の「蕪村詩のイデオロギイ」(『抒情の論理』所収)を引用している。吉本はこんなふうに書いている。
「たとえば、つぎのような蕪村の詩
紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞
地車のとどろとひびく牡丹かな
こういう背景には、地獄絵のような現実社会がよこたわっている、というふうに蕪村を理解したものはいない。(中略)蕪村は、いわばこの現実的な危機を上昇的に感受することによって、風刺的な風俗詩の創始者である柄井川柳と対極的な位置にたったのである」
考えてみれば、私の連句の出発点は蕪村連句に取り組むことから始まった。その一方で現代川柳にも興味をもち、川柳の実作をはじめた。ふだんあまり意識することがなかったが、蕪村と川柳とがほぼ同じ時代であることは、私自身のルーツとして重要なことかもしれない。
宝暦七年(1757)は柄井川柳がはじめて点者として開きをした年である。このとき蕪村が何をしていたかを年譜で調べてみると、宝暦七年に蕪村は丹後から京に戻っている。丹後時代には画業に専念していたようである。明和二年(1765)は『柳多留』が刊行された年である。明和七年(1770)には夜半亭二世を継承して、俳諧師としての活動が目立ってくる。吉本は蕪村と川柳を対極的にとらえているが、両者は根っこの部分でつながっているとも言える。
たとえば『蕪村句集』と『柳多留』から「藪入り」の句を並べて引用してみる。
やぶ入は中山寺の男かな(蕪村句集42)
藪入の二日は顔をよそに置き(栁多留・初編371)
蕪村句では作中人物は中山寺の寺男である。まだ独身なのだろう。嬉しそうに藪入りで里に帰ってゆく。
柳多留では藪入りで帰ってきたのは娘である。三日間の藪入りなのに、よそへ出歩いて家にいるのは一日だけだという。
いずれも人物の姿が浮かび上がってくる。
犬に吠えられるというような状況はどう詠まれているだろうか。
商人を吼る犬ありもゝの花(蕪村句集158)
関寺で勅使を見ると犬がほえ(柳多留初編163)
源左衛門鎧を着ると犬が吠え(柳多留初編194)
川柳では犬に吠えられる句がよくある。
落ちぶれた小野小町を見慣れている犬は、衣冠束帯姿の勅使を見ると吠えたてるというのだ(謡曲「鸚鵡小町」)。また、佐野源左衛門が「いざ鎌倉」とおんぼろ鎧を着こむと、犬が吠え立てる(謡曲「鉢の木」)。
川柳が古典を踏まえたパロディになっているのに対して、蕪村句では「ももの花」との取り合わせで俳諧化をはかっている。
むし啼や河内通ひの小でうちん(蕪村句集520)
蕪村句にも古典をふまえた句は多い。掲出句は『伊勢物語』の河内越えの場面をふまえているが、「むかし男」ではなくて提灯をさげて河内へゆくというのである。川柳子はどう詠んでいるだろうか。
風吹かばどころか女房あらし也(柳多留16編38)
立ち聞きをせぬと一首はすたるとこ(柳多留23編6)
「風吹けば…」は筒井筒の女が夫の身を案じて詠んだ歌だが、古川柳では女房が怒りまくっている。
蚊屋の内にほたる放してアア楽や(蕪村句集294)
蚊を焼いた後を女房にいやがられ(柳多留初編13)
蚊帳の内を詠んだ俳句と川柳を並べてみた。
後者では、蚊を焼いたあとの紙燭で女房の寝顔をじっと見ている亭主が嫌がられているのである。
芭蕉去てそののちいまだ年くれず(蕪村句集868)
『蕪村句集』の最後に置かれている句である。
「年くれず」といっているのは芭蕉の「年暮れぬ笠きて草鞋はきながら」を踏まえているからだ。川柳人・木村半文銭には「芭蕉去って一列白き波がしら」という句がある。
俳句は発句をルーツとし、川柳は平句(前句付)をルーツとするのだが、発句と平句の区別について蕪村は「発句と平句のわいだめをこころ得ること、第一の修行なり」(『新花つみ』)と書いている。「わいだめ」とは「区別」である。
鍋提て淀の小橋を雪の人
近江のや手のひらほどな雪おこる
蕪村は前者を「平句の姿なれども発句に成る也」、後者を「発句に似たる平句也」と述べている。後者には切れ字が使われているが、それは形だけのことで発句にはならないという。
若き日の蕪村は関東を遊歴して、江戸座の俳諧師たちとの交流が深かった。
そう言えば、『柳多留』というタイトルは婚礼の祝儀に用いる柳樽にちなんだものだった。いったい誰と誰の婚礼なのであろうか。注釈によると、川柳評の前句付と江戸座の俳諧とを妹背の仲になぞらえているということだ。