1月19日、大阪・天満橋のスピン・オフで「川柳スパイラル」大阪句会が開催された。
スピン・オフは歌人の岡野大嗣が運営しているスペースで、歌会・句会・落語のイベントなどに利用されている。20数名が入れる快適な空間である。
この日は24名の参加者があったが、川柳人だけでなく、川柳に関心のある他ジャンルの表現者も集まった。川柳人が半分くらいで、川柳と連句を兼ねている者が3名、俳人が3名、歌人が2名のほか詩人や短歌と川柳を兼ねている者などであった。けれども、こういう分け方そのものがあまり意味のないことだと、いま書きながら思った。ジャンルはともかく、川柳に関心のある人々が川柳の読みと実作のために集まったということだ。
最初にゲストの瀬戸夏子に話を聞いたが、瀬戸の「現代詩と川柳が近い」という発言にはびっくりした。この発言については、八上桐子も自分のブログで触れている。
従来、川柳は「私性の表現」という点で短歌に近いと言われてきた。川柳と俳句は同じ五七五定型なのでその区別がやかましいが、短歌と川柳は形式が違うので安心して内容の共通性を言うことができる。詩性を追求するなら川柳ではなくて俳句だろうという意見も飛び交っている。かつて柳俳異同論の際に、川柳が俳句に近づいているという言説に対して、そうではなくて俳句が川柳に近づいているので、川柳は詩に近づくのだという反論があった。その場合、「詩」こそが上位のジャンルであるというヒエラルキー意識(あるいは「詩」に対するコンプレックス)がなかったとは言えない。瀬戸の発言はそういうヒエラルキー意識とは無縁だろうが、他ジャンルの読者にとって川柳が一行の詩として読まれることがようやく可能になってきたのだ。こういう議論はめんどうくさいね。これまでの経緯があるので、ついそんなことを思ってしまう。
さて、会場にはウェブ川柳に投句している人も何人か参加していたので、森山文切に話を聞いてみた。森山の運営している「毎週web句会」では毎回約50名の投句があり、そのうち約30名は短歌も作っている人だそうだ。森山は「川柳にはプレーヤーがいる」「川柳は簡単にプレーヤーになれる」と語り、川柳に欠けているのはセールスだという。
川柳人は従来、「流通」ということにあまり熱心ではなかったが、川柳句集の数が増えてきた現在、流通の手立てを開拓することも必要となってきている。サラリーマン川柳などを除けば、川柳のマーケットはそれほど大きくはないので、個々の川柳人の地味な努力が必要だろう。クリエーター、エディター、プロデューサー、キューレーターなどの役割分担ができれば、安心して作品を作ることに専念できるのである。
川柳の句会にはいろいろなやり方があるが、当日は互選。一人一句出句で雑詠と兼題「滲む」が各24句ずつ。それぞれ4句ずつ選び、高得点順に句の読みを語り合った。無点の作品については作者名を明らかにしない。短歌の歌会にはあまり行ったことがないが、点は入れても高得点順に取り上げるというのではなく、無点の作品も全部作者名を開いて語り合うようだ。
川柳の句会で参加人数が多くなれば一句について話し合う時間は短くなる。明治のはじめごろは川柳でも互選句会が多かったようだが、時間がかかりすぎるので任意選者制に変った。互選から任意選者制への移行については尾藤三柳『選者考』(新葉館)にくわしい記述がある。
今回は時間の制限もあり、それぞれの句について十分話し合うことができなかった。句会は生き物であり、そのときのメンバーや条件にも左右される。完璧な句会というものはありえず、参加者のそれぞれが何らかの収穫を得て帰ってもらうことができれば満足するべきだろう。句の読みについて、リアルに読むのか言葉から読むのか、スタンスの違いが感じられ、句会に出す作品についても、動かない完成作品として出すのか、出席者の反応を見るための実験として出すのかで、若干の認識の違いがあった。
当日の作品は「川柳スパイラル」の掲示板に掲載してあるのでご覧いただきたいが、最高点の二句だけ紹介しておく。
雑詠 ホチキスが知らない住所から届く 鳥居大嗣
「滲む」 にじみながら海は七つと決められる 兵頭全郎
(付)短句の四三について
短句の四三問題というのは、連句の短句(七七句)における四三調の結句を良くないものとして禁じることで、日本語の基本的リズムが四拍子であるため、三音で終わるのが不安定であることを根拠とする。芭蕉連句において短句に四三調が一句も見られないことも有力な理由とされる。
日本語の韻律については別宮貞徳『日本語のリズム』(講談社現代新書)、菅谷規矩雄『詩的リズム』(大和書房)、坂野信彦『七五調の謎をとく』(大修館書店)、松林尚志『日本の韻律』(花神社)などの研究があり、すでに語り尽くされている。
短歌においては斎藤茂吉が「短歌における四三調の結句」(岩波文庫『斎藤茂吉歌論集』)という歌論を書いて、近代短歌では四三調の使用は何ら問題がないことを論じて以来、四三の禁をとなえるものはいない。
四三がいけないというのは連句界だけであり、最近は一部の川柳人が連句の知識を教条的に仕入れて十四字(七七句)における四三の禁を唱えている。
現代日本語において四三のリズムを一律に禁じるのは無理があり、連句の短句でも四三のリズムは可能なら避ければよいが、無理に三四などのリズムに直すのは逆に不自然である。たとえば不安定な心情を表現するには四三の方がぴったりする場合もある。芭蕉連句のリズムをそのまま現代連句に当てはめるのは無理であり、ましてや現代川柳のルールとすることには疑問がある。
自由律俳句においても山頭火の七七句などには四三調が見られる(「うしろすがたのしぐれてゆくか」など)。「一句一律」の自由律で四三がだめだというのは無茶な話である。
連句における短句の韻律についてはもっと丁寧な議論が必要だが、ネットなどで七七句が発信されるようになってきたので、取り急ぎ私見を書きとめてみた。
2019年1月26日土曜日
2019年1月20日日曜日
本間かもせりにおける七七句の再発見
本間かもせりは以前から七七句に関心をもっていて、「川柳スパイラル」の会員欄でも七七の実作が多かったが、このところネットでも発信が目立っている。彼がツイッターで「#かもの好物」として七七句を募集したところ、64名、130句の作品が集まったそうだ。潜在的に関心のある人を掘りおこすことに成功したと言えよう。詳しいことは彼のツイッターをご覧いただきたいが、たとえばこんな作品がある。
店長らしくないから鎖骨 たぶん
無意識尽きて村上春樹 川合大祐
コラム膨れの偽史を平積み 羽沖
モノクロームの子宮と右手 亀山朧
銀河星雲神話体系 IZU
また家出して海を見に行く 天坂
私は「川柳スパイラル」4号の「ビオトープ―現代川柳あれこれ」で本間の作品について次のように書いている。
「連句や前句付にもある短句(七七句)を独立させたのが武玉川調。本間かもせりは七七句の現代的可能性を精力的に追求中のようだ。『入道雲の遺書に打たれる』は突然の雷雨をもたらす入道雲と遺書とを連想で結びつけている。『再利用する午後の肉体』はやや抽象的で場面が想像しにくいが、肉体を物体化してとらえているところにおもしろさがある。連句の短句は前句に付かなければならないが、川柳の七七句は一句で独立することが求められるので、どのようにして他にもたれかからずに一句独立するかというところにおもしろさと困難さがある」
私自身、十四字(七七句・短句)への関心は深く、拙著『蕩尽の文芸』(まろうど社)には「十四字の可能性」という章を収録している。そこでも述べていることだが、『武玉川』には次のような完成度の高い七七句が多い。
鳶までは見る浪人の夢
二十歳の思案聞くに及ばず
手を握られて顔は見ぬ物
腹のたつ時見るための海
夫の惚れた顔を見に行く
肩へかけると活る手ぬぐい
恋しい時は猫を抱上げ
猟師の妻の虹に見とれる
これらの句は今でも古くなっていない。では、近代川柳の世界ではどんな七七句が書かれているだろうか。
白粉も無き朝のあひゞき 川上三太郎
はつかしいほど嬉しいたより 岸本水府
いつものとこに坐る銭湯 前田雀郎
時計とまったまゝの夜ひる 鶴 彬
クラス会にもいつか席順 清水美江
うるさいなあとせせらぎのやど 下村 梵
無理して逢えば何ごとも無し 小川和恵
監視カメラはオフにしていた かわたやつで
佐藤美文編集・発行による川柳雑誌「風」は、五七五形式の川柳とは別に十四字の投句欄を設けている。彼の師である清水美江にも十四字作品があることから「風」誌は十四字を川柳の遺産とする視点を受け継いでいる。
『風・十四字詩作品集』(2002年12月、新葉館出版)が発行された。この句集には22人の作品が各50句ずつ収録されており、何人かの作品を紹介してみよう。
記念写真へ今日は晴れの日 阿部儀一
紫の夜むらさきに咲く 泉 佳恵
隣と競い派手な豆まき かわたやつで
鳥の素顔を見てはいけない 小池正博
ドミノ倒しへ誰が裏切る 佐藤美文
姫が不在で欠伸する騎士 瀧 正治
中原中也連れて居酒屋 中山おさむ
秘密をかくす葉牡丹の渦 林マサ子
さて、七七句にはどうしても未完の感じがつきまとうところがある。一句独立する根拠は何だろうか。前掲の拙著では暫定的に次の三点を「十四字が一句で独立する根拠」として挙げておいた。これが現在どの程度妥当かわからないが、新しい作品の展開によって整理しなおす機会があればいいと思っている。
1 スナップショット
2 メタファー
3 詩的飛躍
1は印象の鮮明な情景描写の句。屹立感はなくても、写生やイメージの鮮明さによって完結する場合。
2は隠喩の力を借りて意味性を際立たせる場合。これは五七五形式でも同じだろうが、十四字の場合は特にメタファーの力を借りることが有効な場合がある。
3は十四字という最短詩型でポエジーを表現するには生命線ともいうべきもの。ただし、詩情などというものは計算して表現できるものではないので、失敗した場合は非常に独善的なものとなってしまう。
さて、本間は七七句からさらに連句へと関心を進めているようだ。ネットでも作品が若干発表されはじめているが、今後の進展が楽しみだ。
最後に本間の自由律作品を「海紅」から紹介しておこう。
本間は本来自由律の俳人であるが、自由律→七七句(短句)→連句という道筋は私にはごく自然な展開のように見える。短詩型文学の世界は、どの入口から入ってもすべて繋がっている。
土筆校庭跡ヲ制圧ス 「海紅」平成30年7月
目印はかつて商店だった
紅い風の端っこに座る 「海紅」平成30年8月
あの夜も寝苦しかったディエゴ・マラドーナ
月それ自体耳である 「海紅」平成30年12月
無駄使い月痩せてしまった
店長らしくないから鎖骨 たぶん
無意識尽きて村上春樹 川合大祐
コラム膨れの偽史を平積み 羽沖
モノクロームの子宮と右手 亀山朧
銀河星雲神話体系 IZU
また家出して海を見に行く 天坂
私は「川柳スパイラル」4号の「ビオトープ―現代川柳あれこれ」で本間の作品について次のように書いている。
「連句や前句付にもある短句(七七句)を独立させたのが武玉川調。本間かもせりは七七句の現代的可能性を精力的に追求中のようだ。『入道雲の遺書に打たれる』は突然の雷雨をもたらす入道雲と遺書とを連想で結びつけている。『再利用する午後の肉体』はやや抽象的で場面が想像しにくいが、肉体を物体化してとらえているところにおもしろさがある。連句の短句は前句に付かなければならないが、川柳の七七句は一句で独立することが求められるので、どのようにして他にもたれかからずに一句独立するかというところにおもしろさと困難さがある」
私自身、十四字(七七句・短句)への関心は深く、拙著『蕩尽の文芸』(まろうど社)には「十四字の可能性」という章を収録している。そこでも述べていることだが、『武玉川』には次のような完成度の高い七七句が多い。
鳶までは見る浪人の夢
二十歳の思案聞くに及ばず
手を握られて顔は見ぬ物
腹のたつ時見るための海
夫の惚れた顔を見に行く
肩へかけると活る手ぬぐい
恋しい時は猫を抱上げ
猟師の妻の虹に見とれる
これらの句は今でも古くなっていない。では、近代川柳の世界ではどんな七七句が書かれているだろうか。
白粉も無き朝のあひゞき 川上三太郎
はつかしいほど嬉しいたより 岸本水府
いつものとこに坐る銭湯 前田雀郎
時計とまったまゝの夜ひる 鶴 彬
クラス会にもいつか席順 清水美江
うるさいなあとせせらぎのやど 下村 梵
無理して逢えば何ごとも無し 小川和恵
監視カメラはオフにしていた かわたやつで
佐藤美文編集・発行による川柳雑誌「風」は、五七五形式の川柳とは別に十四字の投句欄を設けている。彼の師である清水美江にも十四字作品があることから「風」誌は十四字を川柳の遺産とする視点を受け継いでいる。
『風・十四字詩作品集』(2002年12月、新葉館出版)が発行された。この句集には22人の作品が各50句ずつ収録されており、何人かの作品を紹介してみよう。
記念写真へ今日は晴れの日 阿部儀一
紫の夜むらさきに咲く 泉 佳恵
隣と競い派手な豆まき かわたやつで
鳥の素顔を見てはいけない 小池正博
ドミノ倒しへ誰が裏切る 佐藤美文
姫が不在で欠伸する騎士 瀧 正治
中原中也連れて居酒屋 中山おさむ
秘密をかくす葉牡丹の渦 林マサ子
さて、七七句にはどうしても未完の感じがつきまとうところがある。一句独立する根拠は何だろうか。前掲の拙著では暫定的に次の三点を「十四字が一句で独立する根拠」として挙げておいた。これが現在どの程度妥当かわからないが、新しい作品の展開によって整理しなおす機会があればいいと思っている。
1 スナップショット
2 メタファー
3 詩的飛躍
1は印象の鮮明な情景描写の句。屹立感はなくても、写生やイメージの鮮明さによって完結する場合。
2は隠喩の力を借りて意味性を際立たせる場合。これは五七五形式でも同じだろうが、十四字の場合は特にメタファーの力を借りることが有効な場合がある。
3は十四字という最短詩型でポエジーを表現するには生命線ともいうべきもの。ただし、詩情などというものは計算して表現できるものではないので、失敗した場合は非常に独善的なものとなってしまう。
さて、本間は七七句からさらに連句へと関心を進めているようだ。ネットでも作品が若干発表されはじめているが、今後の進展が楽しみだ。
最後に本間の自由律作品を「海紅」から紹介しておこう。
本間は本来自由律の俳人であるが、自由律→七七句(短句)→連句という道筋は私にはごく自然な展開のように見える。短詩型文学の世界は、どの入口から入ってもすべて繋がっている。
土筆校庭跡ヲ制圧ス 「海紅」平成30年7月
目印はかつて商店だった
紅い風の端っこに座る 「海紅」平成30年8月
あの夜も寝苦しかったディエゴ・マラドーナ
月それ自体耳である 「海紅」平成30年12月
無駄使い月痩せてしまった
2019年1月13日日曜日
川合大祐と川柳の仲間
21世紀のはじめ、ゼロ年代最初のころの川柳作品はどのようなものだっただろうか。
手元に「川柳の仲間 旬」115号(2002年1月)があるので開いてみた。
「新旬招待21世紀の川柳」のコーナーに15人の川柳人の作品が10句ずつ掲載されている。そこから任意に抜き出しておく。
誰かれと付き合い花を散らさんや 細川不凍
背開きにされて魚は飛ぶかたち 阿住洋子
唇から唇へ海底トンネル 北沢瞳
生真面目な海月と約束したのだが 北野岸柳
来るものへ桜の枝をビュンと振る 情野千里
二十世紀が沼の底から呼んでいる 津田暹
地下道を走る地下道ついてくる 徳永政二
それぞれが発行体を買ってゆく 峯裕見子
つきつめればあんたもわたしもせつない水 吉岡富枝
国歌として青い山脈唄いたい 渡辺隆夫
今から17年ほど前にこのような作品が書かれていて、現在とそれほど大きな変化はない。それぞれの作者によって主題と方法は異なるが、テン年代が終わろうとしている現在では川柳作品はさらに多様な展開を見せている。
私が「旬」のこの号を保存しているのは、「人物クローズアップ」の欄に川合大祐が登場したからである。私は川合大祐の作品にこのときはじめて出会った。
川合については今までもこの時評で取り上げている(「川合大祐の軌跡」2015年3月13日、「川合大祐句集『スローリバー』」2016年8月20日)。初期から句集発行までの川合の軌跡についてはそちらを参照されたい。
今回取り上げるのは、川合の最近の活動で、その領域は多彩に広がっている。
「旬」221号(2019年1月)は最新号だが、「せせらぎ」(220号より)というコーナーがあり、川合が「旬」の前号から選句している。このグループの現在位置を示すものとして紹介しておく。
寒くないですか。メールを送りましょうか。 千春
よって黒黒一目を置きましょう 小池孝一
謎めいたちくわパンだけ残ってる 桑沢ひろみ
やめるって棘の痛みを伴うね 樹萄らき
百円林檎大きな方を一個買う 池上とき子
大蜘蛛となって大きな巣を掛けよ 大川博幸
老人とロダンは風を考える 丸山健三
川合は「ストリーム220号より鑑賞」という文章を書いている。作品鑑賞のかたちを借りているが、テーマは「川柳とは何なのか」という問いである。
「川柳とは何なのか。
この問いに答えられるならば、その人はとっくに川柳を止めているだろう。と、いう仮定に添うとして、『川柳とは何なのか』と問いつづける行為自体が、『川柳をし続ける』ことであるとは、とりあえず言うことは出来る。無論、それは『川柳とは何なのか』という問いへの答えではない。
だが、『川柳とは』と問い続けることは、すなわち川柳を作るということである。たとえそれを意識しているいないにかかわらず。川柳を作っている、あるいは作ってしまった瞬間に、すでに『川柳とは何なのか』という問いが投げ出されているのだと、私は思う。
だからこそ、『川柳は〇〇である』と答えてしまった時点で、その人の川柳は否応なしに止まってしまうのだ」
こういう正攻法だけでなく、川合は小説のかたちでも川柳についての思考を展開している。「川柳スパイラル」に連載中の「川柳小説」である。登場人物はふたりで、中学生の百合乃とその父親。川柳をめぐって珍妙な対話が続く。第一話「いかに句を作るか」、第二話「世界が終わるまでは…」第三話「地球の長い五七五」、第四話「存在と字間」。連載の最初の原稿が送られてきたとき、私は笑い転げて読んだが、川合の小説にはけっこうファンが多いようだ。第一話の冒頭だけ紹介する。
「川柳をはじめようと思う」
と父が言った。
「もちろん、『腹が出た 上司のほうが パワハラだ』みたいなサラリーマン川柳じゃないぞ。もっとこう芸術として追求された、革新的な文学作品を書いてみたいんだ。ついては、聖ピカデリー学園中等部文芸部部長であるお前の意見も聞きたい、百合乃」
最近の川合はネットやSNSでの活躍も目立っている。森山文切が運営している「毎週web句会」のことは前回も紹介したが、「第2回毎週web句会いちごつみ川柳」(平成30年8月18日)の最初の6句は次のようになっている。
怪物の宴にもある爪楊枝 文切
怪物の生理の妻とラリアット 大祐
リア充を装っている腕時計 文切
腕時計ガラス砕ける癌の城 大祐
タラちゃんがガラスの靴を履きたがる 文切
履きたがる焼け跡戻るロビンソン 大祐
ところで、『川柳サイドSpiral Wave』第2号(2017年9月)に樹萄らきは次のような句を掲載している。
大祐くんに汝名がでしゃばる比率 樹萄らき
「汝名(なな)」は「大祐」の別人格である。さまざまな川合大祐がいる。次はどんな川合大祐を見せてくれるのか。その展開をこれからも楽しみにしている。
手元に「川柳の仲間 旬」115号(2002年1月)があるので開いてみた。
「新旬招待21世紀の川柳」のコーナーに15人の川柳人の作品が10句ずつ掲載されている。そこから任意に抜き出しておく。
誰かれと付き合い花を散らさんや 細川不凍
背開きにされて魚は飛ぶかたち 阿住洋子
唇から唇へ海底トンネル 北沢瞳
生真面目な海月と約束したのだが 北野岸柳
来るものへ桜の枝をビュンと振る 情野千里
二十世紀が沼の底から呼んでいる 津田暹
地下道を走る地下道ついてくる 徳永政二
それぞれが発行体を買ってゆく 峯裕見子
つきつめればあんたもわたしもせつない水 吉岡富枝
国歌として青い山脈唄いたい 渡辺隆夫
今から17年ほど前にこのような作品が書かれていて、現在とそれほど大きな変化はない。それぞれの作者によって主題と方法は異なるが、テン年代が終わろうとしている現在では川柳作品はさらに多様な展開を見せている。
私が「旬」のこの号を保存しているのは、「人物クローズアップ」の欄に川合大祐が登場したからである。私は川合大祐の作品にこのときはじめて出会った。
川合については今までもこの時評で取り上げている(「川合大祐の軌跡」2015年3月13日、「川合大祐句集『スローリバー』」2016年8月20日)。初期から句集発行までの川合の軌跡についてはそちらを参照されたい。
今回取り上げるのは、川合の最近の活動で、その領域は多彩に広がっている。
「旬」221号(2019年1月)は最新号だが、「せせらぎ」(220号より)というコーナーがあり、川合が「旬」の前号から選句している。このグループの現在位置を示すものとして紹介しておく。
寒くないですか。メールを送りましょうか。 千春
よって黒黒一目を置きましょう 小池孝一
謎めいたちくわパンだけ残ってる 桑沢ひろみ
やめるって棘の痛みを伴うね 樹萄らき
百円林檎大きな方を一個買う 池上とき子
大蜘蛛となって大きな巣を掛けよ 大川博幸
老人とロダンは風を考える 丸山健三
川合は「ストリーム220号より鑑賞」という文章を書いている。作品鑑賞のかたちを借りているが、テーマは「川柳とは何なのか」という問いである。
「川柳とは何なのか。
この問いに答えられるならば、その人はとっくに川柳を止めているだろう。と、いう仮定に添うとして、『川柳とは何なのか』と問いつづける行為自体が、『川柳をし続ける』ことであるとは、とりあえず言うことは出来る。無論、それは『川柳とは何なのか』という問いへの答えではない。
だが、『川柳とは』と問い続けることは、すなわち川柳を作るということである。たとえそれを意識しているいないにかかわらず。川柳を作っている、あるいは作ってしまった瞬間に、すでに『川柳とは何なのか』という問いが投げ出されているのだと、私は思う。
だからこそ、『川柳は〇〇である』と答えてしまった時点で、その人の川柳は否応なしに止まってしまうのだ」
こういう正攻法だけでなく、川合は小説のかたちでも川柳についての思考を展開している。「川柳スパイラル」に連載中の「川柳小説」である。登場人物はふたりで、中学生の百合乃とその父親。川柳をめぐって珍妙な対話が続く。第一話「いかに句を作るか」、第二話「世界が終わるまでは…」第三話「地球の長い五七五」、第四話「存在と字間」。連載の最初の原稿が送られてきたとき、私は笑い転げて読んだが、川合の小説にはけっこうファンが多いようだ。第一話の冒頭だけ紹介する。
「川柳をはじめようと思う」
と父が言った。
「もちろん、『腹が出た 上司のほうが パワハラだ』みたいなサラリーマン川柳じゃないぞ。もっとこう芸術として追求された、革新的な文学作品を書いてみたいんだ。ついては、聖ピカデリー学園中等部文芸部部長であるお前の意見も聞きたい、百合乃」
最近の川合はネットやSNSでの活躍も目立っている。森山文切が運営している「毎週web句会」のことは前回も紹介したが、「第2回毎週web句会いちごつみ川柳」(平成30年8月18日)の最初の6句は次のようになっている。
怪物の宴にもある爪楊枝 文切
怪物の生理の妻とラリアット 大祐
リア充を装っている腕時計 文切
腕時計ガラス砕ける癌の城 大祐
タラちゃんがガラスの靴を履きたがる 文切
履きたがる焼け跡戻るロビンソン 大祐
ところで、『川柳サイドSpiral Wave』第2号(2017年9月)に樹萄らきは次のような句を掲載している。
大祐くんに汝名がでしゃばる比率 樹萄らき
「汝名(なな)」は「大祐」の別人格である。さまざまな川合大祐がいる。次はどんな川合大祐を見せてくれるのか。その展開をこれからも楽しみにしている。
2019年1月5日土曜日
現代川柳 今年の方向性
新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
この時評は2010年8月にスタートしたから、多少の中断はあるものの、今年で足かけ10年ということになる。
昨年末、12月23日に柿衞文庫で現俳協青年部による企画「戦後俳句を聞く(1)坪内稔典と片言の力」という集まりが開催された。案内文に曰く。
「昭和から平成へ。戦後俳句から、現代の俳句へ。
俳句の可能性をひろげてきたトップランナーたちに、その歩みを聞く。
第一弾は、正岡子規研究やユーモアあふれるエッセイでも知られる坪内稔典氏。
俳句史と切り結び、軽やかな口語俳句で魅了する、坪内氏の原点を探る」
ということで、坪内自身の口からまとまった話を聞くことができた。聞き手は久留島元と野住朋可。坪内の講演はこれまで何度か聞いたことがあるが、「僕はふり返るのは好きじゃない」と本人が言うように、坪内が自らの俳句史について語るのは珍しい。「声に出して読む言葉」「雑誌を作るのが好き」「俳壇とは距離を置く」などの発言のほか、金子兜太が若き坪内に語った「君たちは高島屋から飛び降りろ」という言葉など、印象に残った。
この企画、ゲストをかえて今後も続くというから楽しみだ。
さて、川柳のフィールドでは今年どのような動きがあるだろうか。
昨年、目についた方向性のひとつにWeb句会の活発化がある。
Web句会は従来からあるが、いま特に注目されるのは森山文切が運営している「毎週web句会」である。「川柳スパイラル」3号の特集「現代川柳にアクセスしよう」で飯島章友は「便利なウェブサイトの紹介」として次のように取り上げている。
【毎週web句会】(http://senryutou-okinawa.com/)
川柳塔社の森山文切氏が運営するウェブサイト。同サイトの「川柳ブログリンク」の欄は、全国の川柳ブログやホームページが県ごとに纏められている。同じく「WEB句会リンク」の欄は、ウェブで参加できる句会や、ラジオ・テレビの川柳コーナーで、結果がウェブサイトで確認できるものが纏められている。
詳しいことは森山のサイトをご覧いただきたいが、「天」に選ばれた句を任意に紹介してみる。
柚子ひとつ残して地球平面化 ( 川合大祐) 133回
ぬかるみを缶ぽっくりのまま進む ( 秋鹿町 ) 134回
なしくずし的に丘などやってます ( 杉倉葉 ) 137回
ゆっくりと燃えないパフェを食べている ( 笹川諒 ) 138回
みつけようどうぶつえんの密猟者 ( 愁愁 ) 140回
また、「いちごつみ川柳」というのもある。
前の人の句から「一語」とって自分の句に入れて作り、次の人も同様に一語取り、規定の句数になるまで順々に繰り返すもの。最初は短歌で始まったものらしいが、川柳でも行われるようになった。第3回(2018年8月25日、ツイッター)海月漂と森山文切による「いちごつみ」の最初の6句を紹介する。
夏だから勇気を出してみたクラゲ (文切)
骨ありのクラゲ探してローソンへ (漂)
ローソンで立ち読みをする猫娘 (文切)
猫娘寝込んでいたら八頭身 (漂)
ぬりかべを八頭身にするヤスリ (文切)
ヤスリかと思っていたら兄だった (漂)
海月漂(くらげただよう)はbotも運営している。前掲の飯島による紹介を引用しておく。
【現代川柳bot】(https://twitter.com/tadayou575)
現代川柳の作品が一定間隔で自動ツイートされている。川柳にはアンソロジーが少ないだけに有用なbotだ。
WEBやSNSが万能というわけではないが、現代川柳発信のための有効な手段のひとつとして今後も活用されてゆくだろう。句会や紙媒体に掲載される作品とweb上の作品とは重なる部分と異質な部分があり、両者がうまく循環してゆくことが望まれる。
川柳人と他ジャンルの表現者との交流は以前からも断続的に続けられてきたが、「川柳とは何か」「俳句と川柳はどう違うか」というような机上の議論が多かった。超ジャンルの合同句会を経て、川柳に関心をもつ他ジャンルの作者が川柳の実作を通じて川柳性を体感する段階にきているようだ。
「川柳スパイラル」2号では我妻俊樹・平岡直子・平田有・中山奈々などの川柳がゲスト作品として掲載され、4号では初谷むい・青本瑞季・青本柚紀が登場した。
昆虫がむしろ救いになるだろう 我妻俊樹
縊死希望かねそんなちょび髭をして 中山奈々
口答えするのはシンクおまえだけ 平岡直子
振り上げたならそののちは下ろされる 平田有
愛 ひかり ねてもさめてもセカイ系 初谷むい
右足がどんどん雨に置き換はる 青本瑞季
世界史のねむると長くなる廊下 青本柚紀
それぞれの主とするフィールドは別にあり、川柳に対する関心度もそれぞれだが、実作を通じてジャンル・形式の違いと手ざわりが感じられ、川柳の表現領域が拡大したり川柳性が変容したりする可能性が生まれる。「詩」の表現という面からも、たとえば「俳句における詩の表現」と「川柳における詩の表現」とでは現れ方が異なり、背負っている史的背景も異なるのである。
従来の川柳は句会と結社誌・同人誌を中心に推移してきた。そこから「句会作者」と「文芸としての川柳をめざす作家」が乖離する傾向が見られることもあった。
以前に比べて川柳句集が多数発行されるようになり、狭い範囲かもしれないが流通もはじまっている。「文学フリマ」や川柳に理解のある書店との連繋など、川柳の流通・販売を考えないといけない時期にきている。物質としての句集を出すだけではなく、それがどう読まれていくかまで視野に入れて川柳を発信していくことが必要だろう。
現代川柳を取りまく環境は変化してゆく。固定した何かがあるわけではないのだ。川の流れ、水の流れのようなものだろう。ヒト・モノ・コトバの関係性も変化する。そのなかでそれぞれの精神的・身体的・経済的条件に応じて表現活動を続けてゆければよいと思うのだ。
この時評は2010年8月にスタートしたから、多少の中断はあるものの、今年で足かけ10年ということになる。
昨年末、12月23日に柿衞文庫で現俳協青年部による企画「戦後俳句を聞く(1)坪内稔典と片言の力」という集まりが開催された。案内文に曰く。
「昭和から平成へ。戦後俳句から、現代の俳句へ。
俳句の可能性をひろげてきたトップランナーたちに、その歩みを聞く。
第一弾は、正岡子規研究やユーモアあふれるエッセイでも知られる坪内稔典氏。
俳句史と切り結び、軽やかな口語俳句で魅了する、坪内氏の原点を探る」
ということで、坪内自身の口からまとまった話を聞くことができた。聞き手は久留島元と野住朋可。坪内の講演はこれまで何度か聞いたことがあるが、「僕はふり返るのは好きじゃない」と本人が言うように、坪内が自らの俳句史について語るのは珍しい。「声に出して読む言葉」「雑誌を作るのが好き」「俳壇とは距離を置く」などの発言のほか、金子兜太が若き坪内に語った「君たちは高島屋から飛び降りろ」という言葉など、印象に残った。
この企画、ゲストをかえて今後も続くというから楽しみだ。
さて、川柳のフィールドでは今年どのような動きがあるだろうか。
昨年、目についた方向性のひとつにWeb句会の活発化がある。
Web句会は従来からあるが、いま特に注目されるのは森山文切が運営している「毎週web句会」である。「川柳スパイラル」3号の特集「現代川柳にアクセスしよう」で飯島章友は「便利なウェブサイトの紹介」として次のように取り上げている。
【毎週web句会】(http://senryutou-okinawa.com/)
川柳塔社の森山文切氏が運営するウェブサイト。同サイトの「川柳ブログリンク」の欄は、全国の川柳ブログやホームページが県ごとに纏められている。同じく「WEB句会リンク」の欄は、ウェブで参加できる句会や、ラジオ・テレビの川柳コーナーで、結果がウェブサイトで確認できるものが纏められている。
詳しいことは森山のサイトをご覧いただきたいが、「天」に選ばれた句を任意に紹介してみる。
柚子ひとつ残して地球平面化 ( 川合大祐) 133回
ぬかるみを缶ぽっくりのまま進む ( 秋鹿町 ) 134回
なしくずし的に丘などやってます ( 杉倉葉 ) 137回
ゆっくりと燃えないパフェを食べている ( 笹川諒 ) 138回
みつけようどうぶつえんの密猟者 ( 愁愁 ) 140回
また、「いちごつみ川柳」というのもある。
前の人の句から「一語」とって自分の句に入れて作り、次の人も同様に一語取り、規定の句数になるまで順々に繰り返すもの。最初は短歌で始まったものらしいが、川柳でも行われるようになった。第3回(2018年8月25日、ツイッター)海月漂と森山文切による「いちごつみ」の最初の6句を紹介する。
夏だから勇気を出してみたクラゲ (文切)
骨ありのクラゲ探してローソンへ (漂)
ローソンで立ち読みをする猫娘 (文切)
猫娘寝込んでいたら八頭身 (漂)
ぬりかべを八頭身にするヤスリ (文切)
ヤスリかと思っていたら兄だった (漂)
海月漂(くらげただよう)はbotも運営している。前掲の飯島による紹介を引用しておく。
【現代川柳bot】(https://twitter.com/tadayou575)
現代川柳の作品が一定間隔で自動ツイートされている。川柳にはアンソロジーが少ないだけに有用なbotだ。
WEBやSNSが万能というわけではないが、現代川柳発信のための有効な手段のひとつとして今後も活用されてゆくだろう。句会や紙媒体に掲載される作品とweb上の作品とは重なる部分と異質な部分があり、両者がうまく循環してゆくことが望まれる。
川柳人と他ジャンルの表現者との交流は以前からも断続的に続けられてきたが、「川柳とは何か」「俳句と川柳はどう違うか」というような机上の議論が多かった。超ジャンルの合同句会を経て、川柳に関心をもつ他ジャンルの作者が川柳の実作を通じて川柳性を体感する段階にきているようだ。
「川柳スパイラル」2号では我妻俊樹・平岡直子・平田有・中山奈々などの川柳がゲスト作品として掲載され、4号では初谷むい・青本瑞季・青本柚紀が登場した。
昆虫がむしろ救いになるだろう 我妻俊樹
縊死希望かねそんなちょび髭をして 中山奈々
口答えするのはシンクおまえだけ 平岡直子
振り上げたならそののちは下ろされる 平田有
愛 ひかり ねてもさめてもセカイ系 初谷むい
右足がどんどん雨に置き換はる 青本瑞季
世界史のねむると長くなる廊下 青本柚紀
それぞれの主とするフィールドは別にあり、川柳に対する関心度もそれぞれだが、実作を通じてジャンル・形式の違いと手ざわりが感じられ、川柳の表現領域が拡大したり川柳性が変容したりする可能性が生まれる。「詩」の表現という面からも、たとえば「俳句における詩の表現」と「川柳における詩の表現」とでは現れ方が異なり、背負っている史的背景も異なるのである。
従来の川柳は句会と結社誌・同人誌を中心に推移してきた。そこから「句会作者」と「文芸としての川柳をめざす作家」が乖離する傾向が見られることもあった。
以前に比べて川柳句集が多数発行されるようになり、狭い範囲かもしれないが流通もはじまっている。「文学フリマ」や川柳に理解のある書店との連繋など、川柳の流通・販売を考えないといけない時期にきている。物質としての句集を出すだけではなく、それがどう読まれていくかまで視野に入れて川柳を発信していくことが必要だろう。
現代川柳を取りまく環境は変化してゆく。固定した何かがあるわけではないのだ。川の流れ、水の流れのようなものだろう。ヒト・モノ・コトバの関係性も変化する。そのなかでそれぞれの精神的・身体的・経済的条件に応じて表現活動を続けてゆければよいと思うのだ。
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