2026年1月30日金曜日

四ッ谷龍の横井也有研究

四ッ谷龍の編集発行している「むしめがね」26号が届いた。田中裕明をめぐる論考と横井也有についての講演が収録されていて、100ページに及ぶ充実した内容になっている。ここでは也有と連句の方を紹介しよう。
横井也有は俳文『鶉衣』で知られる江戸時代、名古屋の俳人。「百蟲譜」などが有名である。『連句年鑑』(令和7年版)に四ッ谷龍は「横井也有と連句」を寄稿している。連句の座でよく巻かれるのは歌仙(36句形式)で、時間のないときは半歌仙(18句形式)となるが、美濃派では短歌行(24句形式)が使われ、国民文化祭岐阜でも短歌行が募集された。横井也有は美濃派の俳諧文化圏にいたようだが、二十八宿(28句形式)を創始した。四ツ谷の評論ではその理由をこんなふうに紹介している(也有の原文の現代語訳)。
「即興で連句を巻く場合、歌仙は句数が多いのが面倒くさがられるので、最近では短歌行の新形式が導入され、少人数の集いには役立っている。ただそれでも、短歌行では月や花を詠み季を当てはめるのに追われて、好句ができにくいという難点がある。そこで春と秋は二句で捨てる新ルールも行われているという。これは、三句連続の雑の句を作れるようにするためであろう。しかるに、二十八宿は春秋三句という古来のルールを守ったままで、雑を四句多く詠めるのである」
「それだけではなく、短歌行は表に月が出ないのが残念である。表に月が入らず、裏に月と花を押し込めるよりも、裏には花の美があるのだから、五句目の月は表としたほうが、月と花をじっくり賞玩する本来の意図に叶うのではないか。二十八宿では表は六句にして月を入れて歌仙同様とする。裏は八句で、裏に月がないのは百韻形式の四の折に例が見られるから問題ない」
短歌行はオモテ4句・ウラ8句・名残りのオモテ8句・名残りのウラ4句で二花二月。二十八宿は6句・8句・8句・6句で二花二月。短歌行ではオモテに月がでないので、二十八宿ではオモテ6句にして月を出している。
次は二十八宿の実作。オモテ六句のみ引用する。

夢も見じ鹿聞までは肱枕    也有
 月も居待を過て遅き夜    三止
こゝろなき竿稲舟に指捨て   也陪
 さてもわらぢに道はこねたり 文樵
元服の顔に商人見そこなひ   三止
 朝日に簾掛る西側      也有

『鶉衣』についても触れられている。也有には出版の意図はなかったが、大田南畝(蜀山人)が写本を目にして、その面白さに驚き、蔦屋重三郎のところに持ち込んで刊行したということだ。

2025年6月14日に愛西市佐織公民館で横井也有顕彰会主催のイベントがあり、四ッ谷龍が講演をした。「むしめがね」に掲載されているのはその記録である。四ツ谷はまず横井也有伝説から語りはじめている。現代語訳で引用する(原文・饗庭篁村)。
「隠棲した知雨亭からは東に美しい山なみが見えるので、それを眺める窓を設けたのだが、ふだんはこの窓に錠をおろしていた。人からその理由を聞かれると也有はほほえみながら『どんなにうまいものでも毎日食べていれば飽きる。美しい景色も同様で、あまり目が慣れてしまうと面白くなくなるので、たまにしか窓を開けて眺めないのだ』と答えたという」
この話を枕として、坪内逍遥、尾崎紅葉、川上眉山、永井荷風、落合太郎、石川淳、司馬遼太郎、杉本秀太郎、高遠弘美と也有を愛した文人たちのことが語られる。詳細は「むしめがね」誌をご覧いただきたいが、四ツ谷はこれらの文人たちを、明治の小説家たちとフランス文学者たちの大きく二通りに分けているのは興味深い。
講演記録の最後のページに『連句年鑑』(令和7年版)の宣伝まで掲載していただいているのはありがたい。『連句年鑑』は残部僅少だが、日本連句協会のホームページからも購入申し込みいただける。
昨年11月8日には横井也有顕彰会の主催で春日井・多治見方面のバス旅行があり、地元のボランティアによる内津村の歴史や神社についての説明もあったようだ。

夢も見じ鹿聞までは肱枕   也有
ひえびえと枕の中を瀬音かな  龍

2026年1月23日金曜日

宮井いずみ句集『理数系のティーポット』

1月12日、「文鳥散歩会」主催で宮井いずみ句集『理数系のティーポット』(青磁社)を読む会が大阪・梅田で開催された。司会・まつりぺきん。最初に八上桐子の挨拶があった。「川柳スパイラル」25号に八上桐子は『理数系のティーポット』の句集評を書いている。八上は①リズム感②固有名詞の多さ③取り合わせ、三つの切り口を設定している。それぞれ次のような例句が挙げられている。

 熱帯夜熱帯夜ボレロボレロボレロ
 抱きつきモンキーシャッフェンベルク式
 幽霊の足かもボーカロイドかも

「伝統川柳を入口に、現代川柳は私性川柳から革新川柳まで多彩な場で活動してしてきただけあり、書き方のバリエーションも豊富で、句風も広い」と八上は書いている。また読書会で八上は、句集の各章の独立性に触れ、多声的で断片的な世界を表現していると指摘した。
この会では参加者に事前のアンケートをとっていて、前半は「わたしの感想」、後半は「作者への質問」というかたちで進行した。司会のぺきんはアンケートにもとづいて、参加者それぞれに句集の感想を聞いていった。細かいメモはとっていないが、特徴的な名詞の使用について、「ことばの博物館」とか、食物関係の語がよく出てくるとか、名詞から句を作っていくのではないか、選ぶワードに世代感があるが句になると違う効果がある、などの感想が述べられた。
最後まで読み通せない句集もあるが、この句集は停滞なく読めたという感想もあり、全体のテーマとか強い主張がなく、根底に流れるものを垣間見るような句もほしいという意見もあった。各章が独立していて、句の配列も作句年代順ではなくて、再構成されているようだ。章のタイトルも、その章を統一するようものではなく、またその章の中の一句から取られたものでもない。収録句とは無関係な言葉をタイトルにしているが、このタイトルがけっこうおもしろい。
私がいいと思った句を一句挙げると、次の句になる。

うっかりの連鎖いもうとまで消える

作者自身が挙げた「宇宙の門ひらく葉月のピラミッド」も、あとで読み返してみておもしろいと思った。「心象句はあまり出したくない」という宮井の発言も印象に残った。句集の装幀についても話題になって、表紙絵は鯨のように見えるが、帯を外すと足があって歩いている。装幀は濱崎実幸。

第30回杉野十佐一賞が発表された。杉野十佐一は昭和26年に「おかじょうき川柳社」を設立。川上三太郎と親交が深かったことでも知られる。杉野草兵は彼の長男。
今回の題は「相」。大賞作品は

とんかつソースこぼれたみたいな寝相やな  木下香苗

入選作品から、五句挙げておく。詳しいことは「おかじょうき川柳社」のページから読める。

マチュピチュになんて相応しいくちびる  八上桐子
相談というより玉蜀黍のひげ       宮井いずみ
相談をすれば卵が孵るかも        笠嶋恵美子
色相環 黄色にすわる人の負け      桜庭紀子
もう鶴の相談は聞かないだろう      nes

2026年1月16日金曜日

夏目漱石『行人』の周辺

1月11日、和歌山城ホールにて「第23回わかやま連句会」開催。今年の初句会である。折から寒波来襲で雪のちらつく一日となった。
まず行きつけの和歌山ラーメン店で昼食。しょうゆラーメンが美味い。寒いので散策はやめて会場に直行する。和歌山城ホールの4階からお濠をはさんで天守閣が見える。
毎回、連句実作の前に和歌山にちなんだ話題をとりあげていて、この日は会員の青木さんが〈夏目漱石『行人』の周辺〉について報告。漱石は明治44年8月に和歌山で「現代日本の開化」の講演をした。これは漱石の文明論のうちでも代表的なもの。
朝日新聞主催の講演旅行で、漱石は和歌山、堺、大阪で三つの講演を行った。堺では「中味と形式」、大阪では「文芸と道徳」と内容を変えている。修善寺の大患後の仕事である。
「現代日本の開化」で漱石はこんなふうに言っている。
「私は昨晩和歌の浦へ泊りましたが、和歌の浦へ行って見ると、さがり松だの権現様だの紀三井寺だのいろいろのものがありますが、その中に東洋第一海抜二百尺と書いたエレヴェーターが宿の裏から小高い石山の巓へ絶えず見物を上げたり下げたりしているのを見ました。実は私も動物園の熊のようにあの鉄の格子の檻の中に入って山の上へ上げられた一人であります」
8月14日、漱石は和歌の浦の望海楼に泊まり日本初と言われる屋外用エレベーターに乗っている。旅館裏の奠供山の上から和歌の浦を一望したあと紀三井寺も訪れた。
翌15日は東照宮、片男波などを見たあと、県議会議事堂で「近代日本の開化」の講演。会場は現在の和歌山中央郵便局のあたりで、現在この建物は移築されて根来寺境内にあり、重要文化財になっている。
『行人』では語り手の二郎と兄の一郎がエレベーターに乗る場面がある。(このエレベーターは客足が伸びなかったためか数年後に廃止) 「二人は浴衣掛けで宿を出ると、すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方位のもので、中に五六人這入ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事の出来ない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に鬱陶しい感じを起した」
その後、二人は静かな場所を求めて権現様(東照宮)に行き、重要な話をする。
漱石は講演終了後、近くの風月庵での慰労会に出席したが、折からの台風で風雨が激しくなり、富士屋旅館に宿泊する。この体験も『行人』に生かされ、二郎と兄嫁の直は風雨で母や兄がいる和歌の浦に帰れなくなり、和歌山で一泊することになる。

「正直なところ姉さんは兄さんが好きなんですか、又嫌いなんですか」
「二郎さん」
「ええ」
「貴方何の必要があってそんな事を聞くの。兄さんが好きか嫌いかなんて。妾(わたし)が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」

講演旅行の経験が実に巧みに小説に利用されている。小説を読んでいて疑問に思ったのは、和歌の浦から和歌山中心部(和歌山城周辺)へ行くのを「和歌山へ行く」と言っていることだ。県外の人間の感覚では和歌の浦も和歌山ではないのか。これは当時、和歌の浦から和歌山市街までは電車が通っていて(現在はバス路線)、「和歌山」行きという感覚だったことが、現地での話を聞くと納得される。和歌山にも路面電車が走っていた時代があったのだ。
和歌山での漱石の俳句を『漱石全集』第十七巻「俳句・詩歌」から紹介する。

涼しさや蚊帳の中より和歌の浦
四国路の方へなだれぬ雲の峰

漱石は和歌山のあと、堺、大阪と講演が続いて、大阪講演のあと血を吐いて大阪の湯川胃腸病院に入院する。そのときの俳句も挙げておこう。

   三階の隅の病室に臥して
稲妻に近くて眠り安からず
灯を消せば涼しき星や窓に入る

『行人』では「友達」の章で、二郎の友人の三沢が胃腸の不調で入院する。ここでも漱石の実体験が小説に利用されている。
和歌山城の天守閣を窓外に眺めながら、漱石『行人』の話を聞くのは貴重な経験で、地元ならではの地理感覚も実感できた。当日はときどき雪がちらついたり、風花が激しく舞ったりして、刻々と風景の表情が変わっていくのを連句会の間ずっとながめていた。記憶に残る天守閣の姿であった。
さて、当日は半歌仙「ふたたびの開化」を巻いた。発句だけ挙げておく。

ふたたびの開化はありや春隣   宏

2026年1月9日金曜日

批評の現在性と歴史性

元日や晴てすゞめのものがたり 嵐雪

2026年の新春を迎えた。昨年、深川の「芭蕉記念館」に出かけたときに嵐雪ゆかりの要津寺に立ち寄った。元禄四年、駒込より移転して、雪中庵一門の拠点となった寺である。境内に嵐雪墓、雪中庵供養塔、芭蕉百回忌発句塚がある。芭蕉の江戸の弟子のうち其角についてはある程度親しんできたが、嵐雪については「蒲団着て寝たる姿や東山」「梅一輪一輪ほどの暖かさ」くらいしか知らなかった。『蕉門名句選』(岩波文庫)を読んでみると、おもしろい句がいくつもある。

正月も身は泥(ひぢりこ)のうなぎ哉  嵐雪

『荘子』の「秋水篇」には泥のなかに尾をひく亀のことが出てくるが、この句では自らを泥中の鰻だと言っている。「泥」に「ヒヂリコ」とルビがついている。亀であれ鰻であれ、年頭に当たって身につまされる句だ。
「芭蕉記念館」では「収蔵資料からみる昭和の俳人」の展示があって、次の句がもっとも印象に残った。

凧何もて死なむあがるべし  中村苑子

「凧」には「いかのぼり」のルビ。中村苑子の句集『水妖詞館』では「翁かの桃の遊びをせむと言ふ」「春の夜やあの世この世と馬車を駆り」などが思い浮かぶ。
このところ俳句よりは短歌を読む機会が多い。川柳や連句に関心をもつ表現者は俳人よりも歌人の方に多いからだ。けれども、年末年始、久しぶりに何冊か句集を開いてみた。
年末12月28日の朝日新聞朝刊「俳句時評」に岸本尚毅が「二つの六林男論」を書いていた。川名大の『昭和俳句史』と高橋修宏の『暗闇の眼玉』を取り上げ、「川名の俳句史は、表現史と俳壇史を包括したところに妙味がある」「高橋の六林男論は、時代的背景も踏まえつつ、六林男という俳人を『個』として深く掘り下げた」と評している。高橋の六林男論は手元にあったので読んでみたし、句集も開いてみたが、一番印象的だったのが次の句である。

数え日の『三冊子』また『去来抄』  鈴木六林男

「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」もいいが、六林男には『去来抄』の句もあったのだと気づいた。

三木清がどこかで「批評の現在性」ということを言っている。批評は現在と向かい合わないといけないということだろう。けれども、現代川柳の先端部分が多様に展開しはじめていて、フォローするだけのモチベーションが保てない。
「現代短歌新聞」に昨年8月から「現代川柳散策」の連載をしていて、これまで石田柊馬、渡辺隆夫、桜庭紀子、佐藤みさ子、飯田良祐を取り上げた。今年の1月号には「新年の川柳」について書いている。本欄の「週刊川柳時評」の方は川柳に限らずに、その時々に関心をもったことを自由に書いてみたいと思っている。もともとこの欄には川柳以外のことも書いてきたのだが、時評は現在と向かい合うべきだという観念に縛られてしまうと停滞してしまうので、過去のことも振り返りつつ歩いてゆければいいと思っている。