最初に川柳大会のご案内を二つ。
6月12日(日)に「全日本川柳2011仙台大会」が開催される。震災で開催があやぶまれるなか、予定通り実施されるという。主催は全日本川柳協会。
「川柳ステーション2011」は6月4日(土)開催。青森の「おかじょうき川柳社」創立60年記念大会。
先週書いたことを補足して「杜人」の物故川柳人に触れておく。大友逸星が菊池夜史郎について書いている(「杜人」187号)。昭和27年、「杜人」同人。古武士のような風貌のなかにある諦観的なものを言動の端々に感じさせる人だったという。「川柳で日記を書く。自己凝視、自己顕示に一生を賭ける」という作句姿勢。昭和46年3月、石巻の山林で自死。
透明の海へくらげの溶けんとす 菊池夜史郎
海の色くらげ溶けんとして溶けず
さて、青森から出ている川柳誌に「触光」(編集発行人・野沢省悟)がある。2009年6月には大友逸星川柳人生60年、高田寄生木川柳人生50年の記念大会が開催された。そして、今年、高田寄生木(たかだ・やどりぎ)賞が新設され、「触光」22号に発表されている。各選者の特選句を紹介する。このうち宮本めぐみの作品が「第一回高田寄生木賞」を受賞している。
樋口由紀子選 林檎はトマトとの関係性を否定する 木下草風
木本朱夏選 焼け跡の次のページにいる蛍 悠とし子
渡辺隆夫選 スーパーの屋根に三割引の月 小暮健一
梅崎流青選 水洗いしれば消えゆくほどの罪 嶋澤喜八郎
高田寄生木選 献体を決めて夕日の中にいる 宮本めぐみ
「川柳塔」5月号は「西尾栞・17回忌特集」。
「栞この一句」のコーナーで、小島蘭幸が次の句を取り上げている。
自我没却という泳ぎ方である 西尾栞
平成2年「第8回夜市川柳大会」の課題吟「泳ぐ」の天位の作品だという。西尾栞は麻生路郎に師事、「川柳塔」主幹をつとめた。次に挙げるような作品が彼の代表作であるが、「自我没却」のような句も作っていることをはじめて知った。
あの晩の風邪よと女嬉しそう 西尾栞
働いた色で夕陽も沈むなり
人恋し人煩わし波の音
川柳誌「バックストローク」34号から。本誌にも伝統的な書き方の句はけっこう多い。
コレクションのひとつ大粒なる泪 広瀬ちえみ
立ちこめる沼気いずれは浄閑寺 山田ゆみ葉
広瀬ちえみの作品は文句なく大衆性をもっている。
ゆみ葉の句は、これぞ古川柳の味である。花又花酔(はなまた・かすい)の「生れては苦界死しては浄閑寺」を踏まえている。
めでたくも飴一粒に収斂す 筒井祥文
抽斗にねむる鉱物はいやらしい 湊圭史
「めでたくも」「いやらしい」の感情語が使われている。
筒井の句。「飴一粒」に収斂する事態がある。それがどのような事態であるかはひとまず置くとしても、「めでたくも」は反語や皮肉とも受け取れる。私はこれを人間の行為はしょせん飴一粒に収斂する程度のものだという皮肉と読むが、飴一粒に収まってめでたいことだと肯定的に読む読者があってかまわないと思う。読みの両義性の問題である。
一方、湊の句について、「いやらしい」は反語ではなく、そのままの意味に受け取れる。
京都の川柳誌「ふらすこてん」(発行人・筒井祥文)15号から、井上一筒の作品をご紹介。
農協の裏の抜糸から戻る 井上一筒
御手付き中﨟ジオラマを掠める
カーナビの隅紅巾の乱終わる
雅楽頭殿めし粒が付いてます
以上の句では、時間と場所が齟齬するような二者があえて取り合わせられている。現代絵画の場合でも一つの画面に時空の異なるものが描かれることは珍しくない。川柳で同じことをやっていけないはずはない。「御手付き中臈」が何でジオラマを掠め取ったりするのだろうと悩まずに、漫画として受け取ればいいようだ。「めし粒が付いてます」は伝統的川柳の発想だが、「雅楽頭」のことにして新鮮味を出している。
高知の「川柳木馬」128号。
同人作品と前号批評、高知県短詩型文学賞受賞作品などで誌面構成されている。同大賞作品の山下和代(「木馬」同人)「かじられた林檎」から何句か紹介する。
きっぱりのできぬ兎の耳を切る 山下和代
かじられた林檎こっそり席に着く
ルート2をひらいて祇園祭かな
耳元のバイリンガルの蚊をたたく
内田万貴が「挑発する句語たち」で書いているように、昨年2010年は「第2回木馬川柳大会」や『超新撰21』への清水かおりの参加など特記すべきできごとがあった。今年になってもその勢いは続き、清水かおりは短歌誌「井泉」39号に巻頭・招待作品を発表している。
それはもう心音のないアルタイル 清水かおり
梅園の返書をなめている姉妹
とめどなく鳥 荒事は木のうしろ
爪を剪るとき水売りの記憶
「川柳木馬ぐるーぷ」は高知の地方集団にとどまらず、「作家群像」など、これまで全国の川柳人に対して発信してきたのが魅力であった。それにしては今号の木馬誌面はややグループ内で閉じている印象がある。よりオープンな発信を期待したい。
今週は川柳諸誌をあれこれ紹介してみた。
川柳は(俳句のルーツである俳諧も)庶民文芸として生成・発展してきたから、「大衆性」「庶民性」は切り離せないものであり、「共感性」「普遍性」がベースにある。詩性と大衆性の間で揺れ動きながら進んでいくのが川柳の宿命なのだろう。
過渡の時代にふさわしく、川柳もまた混沌としている。
2011年5月27日金曜日
2011年5月20日金曜日
大友逸星と「川柳杜人」の歩み
4月に仙台の川柳人・大友逸星がなくなった。
4月9日のブログでも触れた「杜人」初句会の記録で逸星さんの発言を読み、お元気でよかったと思っていた矢先のこと、4月17日に訃報が入ったのだった。中途半端なことを書くとかえってこの巨星の足跡に対して失礼かと思って控えていたが、いま書いておかないともう書く機会も失われてしまうことをおそれ、今回大友逸星の川柳を取り上げることにしたい。
まず『新世紀の現代川柳20人集』(北宋社)から作品を引用する。
血液が欲しくて並ぶ兵馬傭 逸星
炎天の蔦ずるずると日野富子
激安の卵を買えば鶏の貌
生臭いままで終わろう鰯たち
幽霊になった訳など忘れたわ
何をしたのか鉈を洗っている
泡立草のまっただ中の大丈夫
これが川柳の骨法をふまえた逸星の実力である。「炎天の蔦ずるずると」から「日野富子」への詩的飛躍。「卵」から「鳥の貌」への気味悪さ。「幽霊になった訳など忘れたわ」という自在な口語。そして作品の根底にあるメッセージ性。
大友逸星(おおとも・いっせい)は大正13年、仙台生まれ。昭和23年、「川柳杜人社」同人に。前年の昭和22年にはすでに添田星人が同人になっていた。星・星コンビの誕生。
逸星の川柳は「杜人」と切り離しては語れない。
「杜人」は昭和22年(1947)10月、新田川草(にった・せんそう)によって創刊された。創刊同人は、川草のほかに渡辺巷雨、庄司恒青、菊田花流面(かるめん)。杜人の句会は川草の経営するパン屋の2階でやっていたという。
『現代川柳ハンドブック』(雄山閣)の新田川草の項は逸星が書いている。それによると―
〈川柳の自在性と来たるべき光芒を求めて若い同人を糾合研鑽し、石原青竜刀との「川柳詩、非詩」論争を展開した田畑伯史、スタンダード的名著『現代川柳のサムシング』(昭和62年)の著者今野空白等を輩出する〉
豪放にして繊細、ふてぶてしいまでの行動力と評された新田川草は、深酒の果てに昭和47年死去。
逸星は「杜人」200号記念号(2003年12月)に、かつての同人たちに対する追悼句「弔句曼荼羅」を掲載している。すでに過去となってしまったそれぞれの川柳人の風貌や内面のドラマが一瞬よみがえるようである。
新田川草(ビール党) 川草戻れよ冷やっこいビールだよ
菊田花流面(膀胱癌) 放尿をしに行ったきり空の果て
渡辺巷雨(ジャン名人) マージャンの音を零してゆく車
菊池夜史郎(日和山で自殺) ともしびを消し早春の風が逝く
田畑伯史(海峡で自殺) 津軽海峡竜巻を登る馬
今野空白(外科医) ひまわりのどっと崩れて神無月
さて、「杜人」224号に広瀬ちえみが「杜人の星―大友逸星小論―」を書いている。
〈「杜人」創刊号から読んだとき、まっさきに感じたのは逸星の句が強烈なパワーを持ち始めたのは60歳頃からだということだった。ここ20数年の句が輝いているということを逸星に言うと「若いときは食うのに追われていたからな」と返ってくる。〉
広瀬は逸星の句を年代順に紹介している。次に挙げるのは20代から40代の句。「杜人」のバックナンバーから添田星人が抄出したものだという。
(20代)
膝抱けば膝も己といふぬくみ
鳥といふ悲しきばかり気を配り
冬眠すすべては大地の脈となり
娶ろうよ人形ふわり緋をこぼす
犬の尿意が一本杉を廻る
(30代)
缶ビール吹上げた夜汽車の女
此の顔 鋳造されて都会の襞
乳配れば雪に牙あり壜を噛む
如何なる星の下か子を叩く手となりぬ
群盗の一人となりて暁の雲に乗る
(40代)
金、吾、暦、三題噺に笑わぬ妻
夜の螺旋を転げた無理算の顔よ
階段をも一つ降りた握手など
七色の噴水急に嘘をつく
匕首の形に化石する愛か
逸星個人の川柳史と同時に、彼が生きてきた川柳状況の変遷をも同時に感じさせる。
石田柊馬は〈「杜人の星―大友逸星小論―」につづけて〉(「杜人」225号)で、広瀬ちえみの逸星論に続けるかたちで、逸星の20代の川柳について、「まっすぐに、作者の現実の感動がことばとなって、読者の感動に対応している」と述べている。「膝抱けば」の句の「ぬくみ」は、他者と通い合う、誰もが求めていたこの時代特有の「ぬくみ」だったと言うのだ。それは現在の川柳の書き方とは随分異なった位相にある。
30代の逸星は7年間東京へ出たらしい。
この時期の川柳は案外(?)おもしろい。「此の顔 鋳造されて都会の襞」。そして、柊馬が絶唱だという「乳配れば雪に牙あり壜を噛む」。
40代の句。「匕首(あいくち)」「化石」ときて「愛か」につなげる書き方は、現在ではもう書きにくくなっている。現在では言葉がフラットになっていて、一句の中でこういう重たい言葉を三つも使うことができない。ただ、この書き方の遠い残響・ヴァリエーションとして「バックストローク」34号の広瀬ちえみの句「コレクションのひとつ大粒なる泪」を連想することはできるかもしれない。
そして広瀬の言う60代以降の豊饒。
坂を生み続けるいざなぎいざなみ
天才を水に流したかもしれぬ
戦争は一つの卵しか生まぬ
蠅一匹と弔問に駆けつける
老斑の一つは正倉院らしい
戦争と地震のどちらかに○を
逸星の功績のひとつは後進を育てたことにある。
添田星人と大友逸星による対談「杜人創成期の活気」(「杜人」213号)で、両人は次のように発言している。
星人 考えてみると、杜人というか川草の偉いところは、いわゆる「先生」を作らなかったことだね。ワイワイやりながらも自分が殿様にならないで、みんなと同じ仲間だという意識が強かったんじゃないか。
逸星 杜人はそういう伝統が連綿と60年間続いてきたんだ。同じ目的達成のために上意下達式の組織を作るというグループではなかったね。それぞれ川柳は作るが目的はみんな違うという純粋な「同人誌」なんだよ。
主宰なき自由な川柳グループの精神は残された者たちに受け継がれていくことだろう。
泡立草のまっただ中の大丈夫 逸星
女の子が一人寺からついてくる
4月9日のブログでも触れた「杜人」初句会の記録で逸星さんの発言を読み、お元気でよかったと思っていた矢先のこと、4月17日に訃報が入ったのだった。中途半端なことを書くとかえってこの巨星の足跡に対して失礼かと思って控えていたが、いま書いておかないともう書く機会も失われてしまうことをおそれ、今回大友逸星の川柳を取り上げることにしたい。
まず『新世紀の現代川柳20人集』(北宋社)から作品を引用する。
血液が欲しくて並ぶ兵馬傭 逸星
炎天の蔦ずるずると日野富子
激安の卵を買えば鶏の貌
生臭いままで終わろう鰯たち
幽霊になった訳など忘れたわ
何をしたのか鉈を洗っている
泡立草のまっただ中の大丈夫
これが川柳の骨法をふまえた逸星の実力である。「炎天の蔦ずるずると」から「日野富子」への詩的飛躍。「卵」から「鳥の貌」への気味悪さ。「幽霊になった訳など忘れたわ」という自在な口語。そして作品の根底にあるメッセージ性。
大友逸星(おおとも・いっせい)は大正13年、仙台生まれ。昭和23年、「川柳杜人社」同人に。前年の昭和22年にはすでに添田星人が同人になっていた。星・星コンビの誕生。
逸星の川柳は「杜人」と切り離しては語れない。
「杜人」は昭和22年(1947)10月、新田川草(にった・せんそう)によって創刊された。創刊同人は、川草のほかに渡辺巷雨、庄司恒青、菊田花流面(かるめん)。杜人の句会は川草の経営するパン屋の2階でやっていたという。
『現代川柳ハンドブック』(雄山閣)の新田川草の項は逸星が書いている。それによると―
〈川柳の自在性と来たるべき光芒を求めて若い同人を糾合研鑽し、石原青竜刀との「川柳詩、非詩」論争を展開した田畑伯史、スタンダード的名著『現代川柳のサムシング』(昭和62年)の著者今野空白等を輩出する〉
豪放にして繊細、ふてぶてしいまでの行動力と評された新田川草は、深酒の果てに昭和47年死去。
逸星は「杜人」200号記念号(2003年12月)に、かつての同人たちに対する追悼句「弔句曼荼羅」を掲載している。すでに過去となってしまったそれぞれの川柳人の風貌や内面のドラマが一瞬よみがえるようである。
新田川草(ビール党) 川草戻れよ冷やっこいビールだよ
菊田花流面(膀胱癌) 放尿をしに行ったきり空の果て
渡辺巷雨(ジャン名人) マージャンの音を零してゆく車
菊池夜史郎(日和山で自殺) ともしびを消し早春の風が逝く
田畑伯史(海峡で自殺) 津軽海峡竜巻を登る馬
今野空白(外科医) ひまわりのどっと崩れて神無月
さて、「杜人」224号に広瀬ちえみが「杜人の星―大友逸星小論―」を書いている。
〈「杜人」創刊号から読んだとき、まっさきに感じたのは逸星の句が強烈なパワーを持ち始めたのは60歳頃からだということだった。ここ20数年の句が輝いているということを逸星に言うと「若いときは食うのに追われていたからな」と返ってくる。〉
広瀬は逸星の句を年代順に紹介している。次に挙げるのは20代から40代の句。「杜人」のバックナンバーから添田星人が抄出したものだという。
(20代)
膝抱けば膝も己といふぬくみ
鳥といふ悲しきばかり気を配り
冬眠すすべては大地の脈となり
娶ろうよ人形ふわり緋をこぼす
犬の尿意が一本杉を廻る
(30代)
缶ビール吹上げた夜汽車の女
此の顔 鋳造されて都会の襞
乳配れば雪に牙あり壜を噛む
如何なる星の下か子を叩く手となりぬ
群盗の一人となりて暁の雲に乗る
(40代)
金、吾、暦、三題噺に笑わぬ妻
夜の螺旋を転げた無理算の顔よ
階段をも一つ降りた握手など
七色の噴水急に嘘をつく
匕首の形に化石する愛か
逸星個人の川柳史と同時に、彼が生きてきた川柳状況の変遷をも同時に感じさせる。
石田柊馬は〈「杜人の星―大友逸星小論―」につづけて〉(「杜人」225号)で、広瀬ちえみの逸星論に続けるかたちで、逸星の20代の川柳について、「まっすぐに、作者の現実の感動がことばとなって、読者の感動に対応している」と述べている。「膝抱けば」の句の「ぬくみ」は、他者と通い合う、誰もが求めていたこの時代特有の「ぬくみ」だったと言うのだ。それは現在の川柳の書き方とは随分異なった位相にある。
30代の逸星は7年間東京へ出たらしい。
この時期の川柳は案外(?)おもしろい。「此の顔 鋳造されて都会の襞」。そして、柊馬が絶唱だという「乳配れば雪に牙あり壜を噛む」。
40代の句。「匕首(あいくち)」「化石」ときて「愛か」につなげる書き方は、現在ではもう書きにくくなっている。現在では言葉がフラットになっていて、一句の中でこういう重たい言葉を三つも使うことができない。ただ、この書き方の遠い残響・ヴァリエーションとして「バックストローク」34号の広瀬ちえみの句「コレクションのひとつ大粒なる泪」を連想することはできるかもしれない。
そして広瀬の言う60代以降の豊饒。
坂を生み続けるいざなぎいざなみ
天才を水に流したかもしれぬ
戦争は一つの卵しか生まぬ
蠅一匹と弔問に駆けつける
老斑の一つは正倉院らしい
戦争と地震のどちらかに○を
逸星の功績のひとつは後進を育てたことにある。
添田星人と大友逸星による対談「杜人創成期の活気」(「杜人」213号)で、両人は次のように発言している。
星人 考えてみると、杜人というか川草の偉いところは、いわゆる「先生」を作らなかったことだね。ワイワイやりながらも自分が殿様にならないで、みんなと同じ仲間だという意識が強かったんじゃないか。
逸星 杜人はそういう伝統が連綿と60年間続いてきたんだ。同じ目的達成のために上意下達式の組織を作るというグループではなかったね。それぞれ川柳は作るが目的はみんな違うという純粋な「同人誌」なんだよ。
主宰なき自由な川柳グループの精神は残された者たちに受け継がれていくことだろう。
泡立草のまっただ中の大丈夫 逸星
女の子が一人寺からついてくる
2011年5月14日土曜日
渡部可奈子の川柳と短歌
「詩歌梁山泊」によるサイト「詩客」(SHIKAKU)が立ち上げられ、毎週金曜日に更新されている。作品だけでなく、時評が充実していて、「短歌時評」「俳句時評」「自由詩時評」のほか「戦後俳句を読む」のコーナーも設けられている。短歌・俳句・自由詩の三詩型を共時的・通時的に俯瞰しようという壮大な試みである。川柳からは吉澤久良と清水かおりが執筆者に参加している。
「戦後俳句を読む」第1回の1(4月29日)では吉澤が時実新子を、第1回の2(5月6日)では清水が渡部可奈子を取り上げている。ジャンルの移動という点から見れば、新子が短歌から川柳へ移ったのに対して、可奈子が川柳から短歌へと移ったことは興味深い。
清水かおりは「詩客」創刊準備号(4月21日)で次のように書いている。
「昨年、『超新撰』に参加させていただいたことで、一つの自己目標のようなものができた。シンポジウムの資料で触れた、川柳史の縦線と横線の交わりを認識しなおすことである。自分たちの書いているカタチがどこから来たのかを知ることは、現在の川柳作品と向き合う大きな手がかりにもなる。六大家以降、近代史の枝葉が私たちのルーツとなっていく過程を探る必要性を持たずに作品を書いてきた柳人は多い。すでに拓かれた表現であったものに馴染んで書いているといえる。そうした多くの川柳作品に、時間軸という角度のアプローチ点を見つけたい」
そして「社会の変遷を生き抜いた言葉たちを読むことが、どのように現在の作句作業に活かされていくのか、そして、同じ線上で近代川柳史が語られるような、そういう場に少しでも繋がるものを求めていきたい」とも述べている。こういう認識に清水が立っていることは歓迎すべきことだ。
一般に、川柳人の関心は「今・ここ」で作品を書くことに集中していて、川柳形式と自己との関係、川柳史のなかでの自己の位置などに関しては意識的ではない。「川柳史」の流れのなかで「川柳形式」に支えられて作品を書いていることが実感できないのだ。
「戦後俳句を読む」というフレームの中であるとはいえ、現在につながる「戦後川柳」の見取り図を清水がどのように構築してゆくのかが楽しみだ。
第1回で清水が取り上げたのは渡部可奈子の次の句である。
揶揄らしい揶揄一輪 頭の夜明け 渡部可奈子
「叶うなら抽象の一句で具象万句を超えたい」という可奈子の言葉を紹介したあと、清水は「可奈子が川柳界を離れた理由は計り知れないが、現代川柳の問題点として挙げられる私性についてこの頃すでに感じるところがあったのかもしれない。私性(自己)と言葉(喩)の密着度を個人の思いの強さとする流れは、自己へ求める喩の厳しさと一見地続きであるようで、そうではない。時代を駆け抜けて行った可奈子作品を慕う、私達川柳人が思うのは、そのあたりの彼女の苦悩と可奈子作品が今なお放ち続けている言語の可能性だ」と述べている。
渡部可奈子は昭和13年松山市生まれ。昭和32年児島一男の門に入りデッサンを習い、創元会入選。18歳で発病した肺結核が、昭和41年、27歳のときに再発して愛媛療養所に入る。昭和42年、川柳と出会い、川柳グループ「晴窓」に入会。その後「ふあうすと」「川柳ジャーナル」「縄」などを経て「川柳展望」に。句集『欝金記』(昭和54年)を川柳展望社から出している。やがて可奈子は短歌へ。
松山の川柳人に山本耕一路(1906~2005)がいる。昭和20年代に詩性川柳を目指した先駆者だが、川柳界に受け入れられず、現代詩に転向した。昭和60年(1985)に第18回小熊秀雄賞を受賞している。耕一路にしても可奈子にしても川柳という自己表現の器を捨てて他ジャンルに移行したことは残念である。
『現代川柳の群像』(川柳木馬ぐるーぷ)の「作者のことば」で可奈子は次のように書いている。
「川柳のことばと作者の間に隙間があるだろうか。作者のこころとことばを貫通する現実的で肉体的なものが、露わになるほど、両者の密着性が高く、大地へ達するほどの原初性を持ち得るだろうか、と私は考えてみたい」
生姜煮る 女の深部ちりちり煮る
くらやみへ異形の鈴はかえりたし
目撃者 蝉の破調を握っている
物の怪も木の実も四囲をにぎわする
いつかこわれる楕円の中で子を増やす
吊橋の快楽をいちどだけ兄と
小面よ よよと笑えばほどかれん
このときの作家論は細川不凍と行本みなみが書いている。
細川は「痛みの作家・美の作家」で可奈子の境涯句に重点をおいて書き、行本は「言葉の中の女(ひと)」というタイトルで言語論に終始している。
可奈子の作品は境涯派と言葉派の両方から評価されるだけの実質をもっていた。どちらの面を評価するかによって評者の川柳観が問われることにもなる。強固な実存と詩的な言葉の両者を兼ね備えるのは至難のことである。
「川柳ジャーナル」時代、可奈子は2度受賞している。まず、1971年に年度賞を受賞。
致死量とおぼしき暁の真水
雉撃ちの一歩一歩の肉剥がれ
かたぐるま媚びるものらを地に増やす
終末のひとつはりんごひとつは樹
さらって来た子よりも重い髪が罪
みなごろしの唄まんえんの虫世界
1974年には「水俣図」で第三回「春三賞」を受賞している。
弱肉のおぼえ魚の目まばたかぬ
抱かれて子は水銀の冷え一塊
夜な夜なうたい汚染の喉の 必ず炎え
覚めて寝て鱗に育つ流民の紋
つぎわけるコップの悲鳴 父が先
ぬめるは椀か あらぬいのちか夜を転がる
手から手へ屍はまみれゆくとしても
やわらかく骨享くいまし苦海の子
天までの月日の価 襤褸で払う
裸者のけむり低かれ 不知火よ低かれ
この連作について、細川不凍は次のように書いている。
「他者の痛みに接近し、それを理解するには、自らの痛みを通してこそ可能となるものだ。水俣の痛みを、可奈子は自分の中の痛みとして、深く感じ取ったのだ。だからこそ書き得た『水俣図』十句なのである。彼女には、自分の痛みばかりでなく、他者の痛みをも受容し共有できる心的土壌が備わっているのだ」
このような評価の一方で、この連作の社会的テーマと可奈子の資質との間に乖離を感じる批評も当然あってよいだろう。「川柳の言葉と作者とのあいだの隙間」はそう簡単に埋まるものではないのであり、また密着していることが優れた川柳の証しとも言い切れないのだ。清水かおりが指摘している「私性(自己)と言葉(喩)」の問題は一筋縄ではいかない。
そういう意味では、可奈子の資質とモティーフとが完全に一致したものとして、「飢餓装飾」を挙げてみたい。
呱々と祝ぐ 雪片みるみる阿国
名も闇に覚ます 十指の一匹ずつ
手から手へ息せき切ってこがらし 阿国
雪片楽土 手舞い足舞うからす徒党
虫らあがり 手拍子のついぞ哭かぬ
風百夜 透くまで囃す飢餓装束
舷の添い寝のひとつおぼえの青曼陀羅
はやり阿国 はやり神楽のうかうか死す
塚無尽 唯々諾々といのち印す
阿国ぼかしの白き鉄癒ゆきさらぎ裡
「水俣」という社会性が一種のフレームであるとすれば、「阿国」もフレームである。現実とフィクションの差こそあれ、表現者は自己表現の契機を必要とする。ではなぜ「水俣」よりも「飢餓装束」をよしと評価するか。それはひとえに「飢餓装束」という言葉の力にかかっている。
「飢餓装束」は阿国のイメージを用いながら自己の内面性を表現しきっている。フィクションと自己表現が渾然と溶け合っていて、可奈子の代表作と言えるだろう。「風百夜」は屹立した句であるが、この連作の中の一句として読めば更に味わい深いものがある。
短歌に移行してからの可奈子について私はよく知らない。ただ、川柳誌に発表された短歌作品をいくつか読むことができた。「川柳サーカス」「コン・ティキ」から何首か引用しておこう。
錠剤のひとつふたつは寒からむ無数となりて豊饒の致死 「川柳サーカス」18号
動物の死骸(むくろ)を腋にかかへくる男とすれちがいざまの遊魂
机上に置かれ軟体化する帝国の臓腑のやうな夏帽子かな 「川柳サーカス」19号
白塗りの世紀にゲルニカを泛かべ 一ヌケ二ヌケヒト抜ケニケリ
小さき澤こそ深き患部に思ほへて傷より噴くはほうたるの膿 「コン・ティキ」1号
わが気管より翔びたちにけむいっぴきの蛍ほろほろ世に咲くがかに
月球の片欠けの白澤を浸し病蛍など出でましにけり
豊饒のいびつに賭けて今日をかける君にも吾にもふりしきる蛍
「揶揄…」の句を含む、「縄」7号(昭和53年2月)に発表された可奈子の「ほたる狩り」から引用しておこう。
揶揄らしい揶揄一輪 頭(ず)の夜明け
歯牙をも越ゆ 青きつづらの夢みるゆめ
迂闊に魚たりし 背の落暉
発砲つづくかぎり両棲の耳のやから
枯死と決まればつまびき通すほたる狩
「ほたる」を詠んだ可奈子の短歌と川柳を並べておきたい。並べてみたところで、可奈子がなぜ短歌に行ったのかは私にはわからないのだが。
豊饒のいびつに賭けて今日をかける君にも吾にもふりしきる蛍
枯死と決まればつまびき通すほたる狩
確かクレーの日記の一節だったと思うが、「世界が恐怖に充ちていればいるほど、芸術は抽象的になるのだ」という言葉が何だか思い出されるのである。
「戦後俳句を読む」第1回の1(4月29日)では吉澤が時実新子を、第1回の2(5月6日)では清水が渡部可奈子を取り上げている。ジャンルの移動という点から見れば、新子が短歌から川柳へ移ったのに対して、可奈子が川柳から短歌へと移ったことは興味深い。
清水かおりは「詩客」創刊準備号(4月21日)で次のように書いている。
「昨年、『超新撰』に参加させていただいたことで、一つの自己目標のようなものができた。シンポジウムの資料で触れた、川柳史の縦線と横線の交わりを認識しなおすことである。自分たちの書いているカタチがどこから来たのかを知ることは、現在の川柳作品と向き合う大きな手がかりにもなる。六大家以降、近代史の枝葉が私たちのルーツとなっていく過程を探る必要性を持たずに作品を書いてきた柳人は多い。すでに拓かれた表現であったものに馴染んで書いているといえる。そうした多くの川柳作品に、時間軸という角度のアプローチ点を見つけたい」
そして「社会の変遷を生き抜いた言葉たちを読むことが、どのように現在の作句作業に活かされていくのか、そして、同じ線上で近代川柳史が語られるような、そういう場に少しでも繋がるものを求めていきたい」とも述べている。こういう認識に清水が立っていることは歓迎すべきことだ。
一般に、川柳人の関心は「今・ここ」で作品を書くことに集中していて、川柳形式と自己との関係、川柳史のなかでの自己の位置などに関しては意識的ではない。「川柳史」の流れのなかで「川柳形式」に支えられて作品を書いていることが実感できないのだ。
「戦後俳句を読む」というフレームの中であるとはいえ、現在につながる「戦後川柳」の見取り図を清水がどのように構築してゆくのかが楽しみだ。
第1回で清水が取り上げたのは渡部可奈子の次の句である。
揶揄らしい揶揄一輪 頭の夜明け 渡部可奈子
「叶うなら抽象の一句で具象万句を超えたい」という可奈子の言葉を紹介したあと、清水は「可奈子が川柳界を離れた理由は計り知れないが、現代川柳の問題点として挙げられる私性についてこの頃すでに感じるところがあったのかもしれない。私性(自己)と言葉(喩)の密着度を個人の思いの強さとする流れは、自己へ求める喩の厳しさと一見地続きであるようで、そうではない。時代を駆け抜けて行った可奈子作品を慕う、私達川柳人が思うのは、そのあたりの彼女の苦悩と可奈子作品が今なお放ち続けている言語の可能性だ」と述べている。
渡部可奈子は昭和13年松山市生まれ。昭和32年児島一男の門に入りデッサンを習い、創元会入選。18歳で発病した肺結核が、昭和41年、27歳のときに再発して愛媛療養所に入る。昭和42年、川柳と出会い、川柳グループ「晴窓」に入会。その後「ふあうすと」「川柳ジャーナル」「縄」などを経て「川柳展望」に。句集『欝金記』(昭和54年)を川柳展望社から出している。やがて可奈子は短歌へ。
松山の川柳人に山本耕一路(1906~2005)がいる。昭和20年代に詩性川柳を目指した先駆者だが、川柳界に受け入れられず、現代詩に転向した。昭和60年(1985)に第18回小熊秀雄賞を受賞している。耕一路にしても可奈子にしても川柳という自己表現の器を捨てて他ジャンルに移行したことは残念である。
『現代川柳の群像』(川柳木馬ぐるーぷ)の「作者のことば」で可奈子は次のように書いている。
「川柳のことばと作者の間に隙間があるだろうか。作者のこころとことばを貫通する現実的で肉体的なものが、露わになるほど、両者の密着性が高く、大地へ達するほどの原初性を持ち得るだろうか、と私は考えてみたい」
生姜煮る 女の深部ちりちり煮る
くらやみへ異形の鈴はかえりたし
目撃者 蝉の破調を握っている
物の怪も木の実も四囲をにぎわする
いつかこわれる楕円の中で子を増やす
吊橋の快楽をいちどだけ兄と
小面よ よよと笑えばほどかれん
このときの作家論は細川不凍と行本みなみが書いている。
細川は「痛みの作家・美の作家」で可奈子の境涯句に重点をおいて書き、行本は「言葉の中の女(ひと)」というタイトルで言語論に終始している。
可奈子の作品は境涯派と言葉派の両方から評価されるだけの実質をもっていた。どちらの面を評価するかによって評者の川柳観が問われることにもなる。強固な実存と詩的な言葉の両者を兼ね備えるのは至難のことである。
「川柳ジャーナル」時代、可奈子は2度受賞している。まず、1971年に年度賞を受賞。
致死量とおぼしき暁の真水
雉撃ちの一歩一歩の肉剥がれ
かたぐるま媚びるものらを地に増やす
終末のひとつはりんごひとつは樹
さらって来た子よりも重い髪が罪
みなごろしの唄まんえんの虫世界
1974年には「水俣図」で第三回「春三賞」を受賞している。
弱肉のおぼえ魚の目まばたかぬ
抱かれて子は水銀の冷え一塊
夜な夜なうたい汚染の喉の 必ず炎え
覚めて寝て鱗に育つ流民の紋
つぎわけるコップの悲鳴 父が先
ぬめるは椀か あらぬいのちか夜を転がる
手から手へ屍はまみれゆくとしても
やわらかく骨享くいまし苦海の子
天までの月日の価 襤褸で払う
裸者のけむり低かれ 不知火よ低かれ
この連作について、細川不凍は次のように書いている。
「他者の痛みに接近し、それを理解するには、自らの痛みを通してこそ可能となるものだ。水俣の痛みを、可奈子は自分の中の痛みとして、深く感じ取ったのだ。だからこそ書き得た『水俣図』十句なのである。彼女には、自分の痛みばかりでなく、他者の痛みをも受容し共有できる心的土壌が備わっているのだ」
このような評価の一方で、この連作の社会的テーマと可奈子の資質との間に乖離を感じる批評も当然あってよいだろう。「川柳の言葉と作者とのあいだの隙間」はそう簡単に埋まるものではないのであり、また密着していることが優れた川柳の証しとも言い切れないのだ。清水かおりが指摘している「私性(自己)と言葉(喩)」の問題は一筋縄ではいかない。
そういう意味では、可奈子の資質とモティーフとが完全に一致したものとして、「飢餓装飾」を挙げてみたい。
呱々と祝ぐ 雪片みるみる阿国
名も闇に覚ます 十指の一匹ずつ
手から手へ息せき切ってこがらし 阿国
雪片楽土 手舞い足舞うからす徒党
虫らあがり 手拍子のついぞ哭かぬ
風百夜 透くまで囃す飢餓装束
舷の添い寝のひとつおぼえの青曼陀羅
はやり阿国 はやり神楽のうかうか死す
塚無尽 唯々諾々といのち印す
阿国ぼかしの白き鉄癒ゆきさらぎ裡
「水俣」という社会性が一種のフレームであるとすれば、「阿国」もフレームである。現実とフィクションの差こそあれ、表現者は自己表現の契機を必要とする。ではなぜ「水俣」よりも「飢餓装束」をよしと評価するか。それはひとえに「飢餓装束」という言葉の力にかかっている。
「飢餓装束」は阿国のイメージを用いながら自己の内面性を表現しきっている。フィクションと自己表現が渾然と溶け合っていて、可奈子の代表作と言えるだろう。「風百夜」は屹立した句であるが、この連作の中の一句として読めば更に味わい深いものがある。
短歌に移行してからの可奈子について私はよく知らない。ただ、川柳誌に発表された短歌作品をいくつか読むことができた。「川柳サーカス」「コン・ティキ」から何首か引用しておこう。
錠剤のひとつふたつは寒からむ無数となりて豊饒の致死 「川柳サーカス」18号
動物の死骸(むくろ)を腋にかかへくる男とすれちがいざまの遊魂
机上に置かれ軟体化する帝国の臓腑のやうな夏帽子かな 「川柳サーカス」19号
白塗りの世紀にゲルニカを泛かべ 一ヌケ二ヌケヒト抜ケニケリ
小さき澤こそ深き患部に思ほへて傷より噴くはほうたるの膿 「コン・ティキ」1号
わが気管より翔びたちにけむいっぴきの蛍ほろほろ世に咲くがかに
月球の片欠けの白澤を浸し病蛍など出でましにけり
豊饒のいびつに賭けて今日をかける君にも吾にもふりしきる蛍
「揶揄…」の句を含む、「縄」7号(昭和53年2月)に発表された可奈子の「ほたる狩り」から引用しておこう。
揶揄らしい揶揄一輪 頭(ず)の夜明け
歯牙をも越ゆ 青きつづらの夢みるゆめ
迂闊に魚たりし 背の落暉
発砲つづくかぎり両棲の耳のやから
枯死と決まればつまびき通すほたる狩
「ほたる」を詠んだ可奈子の短歌と川柳を並べておきたい。並べてみたところで、可奈子がなぜ短歌に行ったのかは私にはわからないのだが。
豊饒のいびつに賭けて今日をかける君にも吾にもふりしきる蛍
枯死と決まればつまびき通すほたる狩
確かクレーの日記の一節だったと思うが、「世界が恐怖に充ちていればいるほど、芸術は抽象的になるのだ」という言葉が何だか思い出されるのである。
2011年5月7日土曜日
多武峰連歌ルネサンス
多武峰では山吹の黄が鮮やかだった。
5月1日(日)、奈良県桜井市の多武峰・談山神社で権殿修理落慶大祭が行われ、その関連行事として「多武峰連歌ルネサンス」に参加した。
永正17(1520)年10月16日の「多武峰法楽連歌」(百韻「賦山何連歌」)の懐紙が残っている。それ以来ほぼ500年ぶりの連歌復興を唱えて、談山神社・総社拝殿で歌仙2巻が巻かれたのが3年前の平成20年10月であった。翌21年には「多武峰連歌ルネサンス」と称して5月に開催。昨年は與喜天満宮に場所を移して実施したので、談山神社での連歌(連句)会としては今年で3度目になる。
テレビや新聞などでよく取り上げられる春の蹴鞠祭は4月29日に終わっている(秋にも蹴鞠祭があるようだ)。30日夜は社務所に宿泊させてもらい、法楽連歌にそなえる。多武峰だから連歌と名乗っているが、私たちのは実質的に連句(俳諧之連歌)である。
当日は雨になる。午前11時、権殿からトランペットが鳴り響いた。
落慶した権殿は能の「翁」の発生とかかわる芸能史において重要な場所である。そういうところでジャズの演奏を聴くのはなんだか前衛的だ。
神社でもらった新しい絵馬には翁の面が描かれていて、「摩多羅神」の名が書かれている。摩多羅神は天台宗系寺院の常行堂の後戸(うしろど)に祀られた神で、慈覚大師(円仁)が請来したと言われる。
摩多羅神の名を聞きなれない人でも、京都・太秦の「牛祭」の祭神といえばピンとくるだろう。「後戸の猿楽」という言葉が古来伝えられており、世阿弥の『風姿花伝』にもその伝承が書きとめられているという。
服部幸雄著『宿神論』は芸能信仰の根源にせまる画期的な論考である。宿神といえば、夢枕漠の小説『宿神』を連想する方もあるだろう。
服部幸雄は次のように言う。
「後戸には何か神秘的な神、秘すべきであるがゆえに、その強力な霊の発動を懼れなければならないと観念される秘仏が祀られていたのではなかったであろうか」(「後戸の神」)
そして、金春禅竹の『明宿集』に言う多武峰の「六十六番ノ猿楽」こそ翁面(摩多羅神面)を中心とする行法であったらしい。
私たちはそのような芸能の根源に触れる場のまっただなかにいる。そこにジャズの音が鳴り響いたのである。トランペットとベース、エレクトリック筝によるライブである。
ところで、天台系寺院の常行堂の後戸の神である摩多羅神がなぜ談山神社に?と疑問をもたれる向きもあろう。明治の神仏分離令まで談山神社は多武峰妙楽寺という寺院だった。現在の談山神社の権殿こそ妙楽寺の常行堂にほかならない。
かつて多武峰にひとりの聖が隠棲していた。増賀上人である。
比叡山で修行した増賀は五歳年長の師・慈慧(元三大師)にめぐりあった。慈慧は山門の復興のために権門と手を結び、やがて天台座主の地位に上りつめる。名利を嫌う増賀はそのような師を批判し続けた。
馬場あき子は『発心往生論・穢土の夕映え』で次のように書いている。
「慈慧が任官の悦びを奏上しに参内するという噂をきいて、多武峰に隠棲していた増賀は、まさにすっくと立ち上がった。そして増賀は、その行列の前駆は自分をおいてつとめるものはないとばかりに山を下りた」「ひとたびは訣別した慈慧のもとに、増賀は最後の愛をふりしぼって駆けつけた」
「腰には大きな乾鮭を一尾、太刀のかわりにぶちこみ、これ以上は痩せられない骨と皮ばかりの女牛にまたがり、よたよた、ふたふたと、威儀を正した参内の行列の中に駆けこんできたのである」
痩せた女牛の乗り物は慈慧の居すわった仏界であり、乾鮭の刀は堕落した仏法を守護するための象徴であるという。増賀は慈慧の車わきに寄り添いながら叫び続けた。
「我こそ幼きときよりの御弟子なれ。誰か今日のやかたぐち(車添い)仕まつらん」
牛車の中で慈慧はこれを「かなしき哉。わが師悪道に入りなむとす」と聞き、しかし「これも利生(仏の利益)のためなり」とつぶやいた。
慈慧と増賀。人間の二つのタイプである。
大祭前日の夕刻、社務所から坂を登って増賀堂の跡を訪れた。十年以前に来たときはお堂の柱におびただしい空蝉がぶらさがっていて、いかにも増賀上人の旧蹟であることを偲ばせたが、いま増賀堂はとり壊されてすでになくなっている。
多武峰に天台が広まったのは増賀の影響もあるだろう。
法相宗の興福寺とは対立を繰り返した。
受付の女性との立ち話で、神社の向こう側の高台から神社一帯がよく見える。しかし、神社側からは高台が見えないと言うことだった。
「僧兵が高台からこちらを偵察するためかもしれません」と彼女は言った。
僧兵?
多武峰に僧兵がいたのだろうか。
高台の方へ登ってみた。確かに談山神社が一望できる。花の季節にはもう遅いが、樹齢600年という小つづみ桜(薄墨桜)もある。
延暦寺の末寺だった多武峰は、何度も興福寺から攻められた。その歴史は今も生々しい。
さて、5月16日(月)には権殿内で能の「翁」が奉納される。翁・観世清和、千歳・観世淳夫。「まさに温故の響きが蘇える 能楽の原点を見直す 歴史的な現場に立ち会う」と宣伝ビラにある。入堂料有料(限定100席)。
談山神社発行の「談」(かたらい)のバックナンバーによると、15面の古面が伝存し、そのうち桃山時代のものとされる翁面は特別に面箱があつらえられていて、箱書には「摩多羅神面箱」と墨書がある。絵馬に描かれている面はこれだったわけだ。また、伝承では「六十六番猿楽」で使用する翁面は、能が演じられたあと衆徒が酒に酔うと、それにつれて翁面も自然に赤く染まるという。大量の酒がふるまわれるのは、いかにも多武峰らしい。
談山神社には近畿迢空会が折口信夫没後五十年を記念して建立した歌碑がある。折口には「翁の発生」という文章があり、『古代研究』に収録されている。「私は、日本の演芸の大きな要素をなすものとして、もどき役の意義を重く見たいと思ひます。近代の猿楽に宛てて見れば、狂言方に当るものです」
「三番叟」は「翁」の「もどき」である。
翁に対する三番叟。能に対する狂言。そのような「もどき」の役割を果たすものが芸能や文芸の世界で生れてきたことは興味深い。
その折口が関東大震災の直後に書いた「砂けぶり」という詩がある。
折口は大正12年、2度目の沖縄旅行に行き、その直後に関東大震災が起こった。神戸の海岸で波の色を見ていたとき、不意に次の一節が浮かんできたという。
横網の 安田の庭
猫一匹ゐる ひろさ―。
人を焼くにほひでも してくれ
さびしすぎる
吉田文憲は〈「砂けぶり」体験の語るもの〉(『顕れる詩』)で、折口の「まれびと」観念の生成と「砂けぶり」を関連づけて論じている。
さて、私たちが巻いた歌仙は神社に奉納されたが、その発句と脇。
口あけて落花を喰(くら)ふ漢(をとこ)かな
青きを踏めば出づる言の葉
発句は談山神社の宮司による。
連歌と連句。
RengaとRenkuを総称するものとして英語ではLink Poetry という言葉があるそうだ。
短詩型文学を統一するものは何であろうか。
多武峰というトポスに立つと日本の芸能・文芸の歴史が曼荼羅のように脳裏に生なましく浮かんでは消えて行く。私たちはその末端に生き、文芸を明日につなげていこうとしているのである。もっとも伝統的であることがもっとも前衛的であるという逆説が大和では奇妙に成立している。
5月1日(日)、奈良県桜井市の多武峰・談山神社で権殿修理落慶大祭が行われ、その関連行事として「多武峰連歌ルネサンス」に参加した。
永正17(1520)年10月16日の「多武峰法楽連歌」(百韻「賦山何連歌」)の懐紙が残っている。それ以来ほぼ500年ぶりの連歌復興を唱えて、談山神社・総社拝殿で歌仙2巻が巻かれたのが3年前の平成20年10月であった。翌21年には「多武峰連歌ルネサンス」と称して5月に開催。昨年は與喜天満宮に場所を移して実施したので、談山神社での連歌(連句)会としては今年で3度目になる。
テレビや新聞などでよく取り上げられる春の蹴鞠祭は4月29日に終わっている(秋にも蹴鞠祭があるようだ)。30日夜は社務所に宿泊させてもらい、法楽連歌にそなえる。多武峰だから連歌と名乗っているが、私たちのは実質的に連句(俳諧之連歌)である。
当日は雨になる。午前11時、権殿からトランペットが鳴り響いた。
落慶した権殿は能の「翁」の発生とかかわる芸能史において重要な場所である。そういうところでジャズの演奏を聴くのはなんだか前衛的だ。
神社でもらった新しい絵馬には翁の面が描かれていて、「摩多羅神」の名が書かれている。摩多羅神は天台宗系寺院の常行堂の後戸(うしろど)に祀られた神で、慈覚大師(円仁)が請来したと言われる。
摩多羅神の名を聞きなれない人でも、京都・太秦の「牛祭」の祭神といえばピンとくるだろう。「後戸の猿楽」という言葉が古来伝えられており、世阿弥の『風姿花伝』にもその伝承が書きとめられているという。
服部幸雄著『宿神論』は芸能信仰の根源にせまる画期的な論考である。宿神といえば、夢枕漠の小説『宿神』を連想する方もあるだろう。
服部幸雄は次のように言う。
「後戸には何か神秘的な神、秘すべきであるがゆえに、その強力な霊の発動を懼れなければならないと観念される秘仏が祀られていたのではなかったであろうか」(「後戸の神」)
そして、金春禅竹の『明宿集』に言う多武峰の「六十六番ノ猿楽」こそ翁面(摩多羅神面)を中心とする行法であったらしい。
私たちはそのような芸能の根源に触れる場のまっただなかにいる。そこにジャズの音が鳴り響いたのである。トランペットとベース、エレクトリック筝によるライブである。
ところで、天台系寺院の常行堂の後戸の神である摩多羅神がなぜ談山神社に?と疑問をもたれる向きもあろう。明治の神仏分離令まで談山神社は多武峰妙楽寺という寺院だった。現在の談山神社の権殿こそ妙楽寺の常行堂にほかならない。
かつて多武峰にひとりの聖が隠棲していた。増賀上人である。
比叡山で修行した増賀は五歳年長の師・慈慧(元三大師)にめぐりあった。慈慧は山門の復興のために権門と手を結び、やがて天台座主の地位に上りつめる。名利を嫌う増賀はそのような師を批判し続けた。
馬場あき子は『発心往生論・穢土の夕映え』で次のように書いている。
「慈慧が任官の悦びを奏上しに参内するという噂をきいて、多武峰に隠棲していた増賀は、まさにすっくと立ち上がった。そして増賀は、その行列の前駆は自分をおいてつとめるものはないとばかりに山を下りた」「ひとたびは訣別した慈慧のもとに、増賀は最後の愛をふりしぼって駆けつけた」
「腰には大きな乾鮭を一尾、太刀のかわりにぶちこみ、これ以上は痩せられない骨と皮ばかりの女牛にまたがり、よたよた、ふたふたと、威儀を正した参内の行列の中に駆けこんできたのである」
痩せた女牛の乗り物は慈慧の居すわった仏界であり、乾鮭の刀は堕落した仏法を守護するための象徴であるという。増賀は慈慧の車わきに寄り添いながら叫び続けた。
「我こそ幼きときよりの御弟子なれ。誰か今日のやかたぐち(車添い)仕まつらん」
牛車の中で慈慧はこれを「かなしき哉。わが師悪道に入りなむとす」と聞き、しかし「これも利生(仏の利益)のためなり」とつぶやいた。
慈慧と増賀。人間の二つのタイプである。
大祭前日の夕刻、社務所から坂を登って増賀堂の跡を訪れた。十年以前に来たときはお堂の柱におびただしい空蝉がぶらさがっていて、いかにも増賀上人の旧蹟であることを偲ばせたが、いま増賀堂はとり壊されてすでになくなっている。
多武峰に天台が広まったのは増賀の影響もあるだろう。
法相宗の興福寺とは対立を繰り返した。
受付の女性との立ち話で、神社の向こう側の高台から神社一帯がよく見える。しかし、神社側からは高台が見えないと言うことだった。
「僧兵が高台からこちらを偵察するためかもしれません」と彼女は言った。
僧兵?
多武峰に僧兵がいたのだろうか。
高台の方へ登ってみた。確かに談山神社が一望できる。花の季節にはもう遅いが、樹齢600年という小つづみ桜(薄墨桜)もある。
延暦寺の末寺だった多武峰は、何度も興福寺から攻められた。その歴史は今も生々しい。
さて、5月16日(月)には権殿内で能の「翁」が奉納される。翁・観世清和、千歳・観世淳夫。「まさに温故の響きが蘇える 能楽の原点を見直す 歴史的な現場に立ち会う」と宣伝ビラにある。入堂料有料(限定100席)。
談山神社発行の「談」(かたらい)のバックナンバーによると、15面の古面が伝存し、そのうち桃山時代のものとされる翁面は特別に面箱があつらえられていて、箱書には「摩多羅神面箱」と墨書がある。絵馬に描かれている面はこれだったわけだ。また、伝承では「六十六番猿楽」で使用する翁面は、能が演じられたあと衆徒が酒に酔うと、それにつれて翁面も自然に赤く染まるという。大量の酒がふるまわれるのは、いかにも多武峰らしい。
談山神社には近畿迢空会が折口信夫没後五十年を記念して建立した歌碑がある。折口には「翁の発生」という文章があり、『古代研究』に収録されている。「私は、日本の演芸の大きな要素をなすものとして、もどき役の意義を重く見たいと思ひます。近代の猿楽に宛てて見れば、狂言方に当るものです」
「三番叟」は「翁」の「もどき」である。
翁に対する三番叟。能に対する狂言。そのような「もどき」の役割を果たすものが芸能や文芸の世界で生れてきたことは興味深い。
その折口が関東大震災の直後に書いた「砂けぶり」という詩がある。
折口は大正12年、2度目の沖縄旅行に行き、その直後に関東大震災が起こった。神戸の海岸で波の色を見ていたとき、不意に次の一節が浮かんできたという。
横網の 安田の庭
猫一匹ゐる ひろさ―。
人を焼くにほひでも してくれ
さびしすぎる
吉田文憲は〈「砂けぶり」体験の語るもの〉(『顕れる詩』)で、折口の「まれびと」観念の生成と「砂けぶり」を関連づけて論じている。
さて、私たちが巻いた歌仙は神社に奉納されたが、その発句と脇。
口あけて落花を喰(くら)ふ漢(をとこ)かな
青きを踏めば出づる言の葉
発句は談山神社の宮司による。
連歌と連句。
RengaとRenkuを総称するものとして英語ではLink Poetry という言葉があるそうだ。
短詩型文学を統一するものは何であろうか。
多武峰というトポスに立つと日本の芸能・文芸の歴史が曼荼羅のように脳裏に生なましく浮かんでは消えて行く。私たちはその末端に生き、文芸を明日につなげていこうとしているのである。もっとも伝統的であることがもっとも前衛的であるという逆説が大和では奇妙に成立している。
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