2021年12月24日金曜日

2021年回顧(川柳篇)

昨年は『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)が発行されて、現代川柳に対する関心がある程度高まってきた。今年はその続きとして、注目すべき川柳句集が何冊か上梓された。

川合大祐の第二句集『リバー・ワールド』(2021年4月、書肆侃侃房)
湊圭伍『そら耳のつづきを』(2021年5月、書肆侃侃房)
飯島章友『成長痛の月』(2021年9月、素粒社)

道長をあまりシベリアだと言うな  川合大祐
そら耳のつづきを散っていくガラス 湊圭伍
あれが鳥それは森茉莉これが霧   飯島章友

1970年代生まれの三人である。現代川柳界では中堅というところだろうか。このなかでは川合がいちばん実験的であり、湊は先鋭な作品と伝統的な作品の両方が書けるひと、飯島は短歌・川柳・十四字など短詩型文学のさなざまな詩形に通暁している作者である。この三人について私はこれまでにもそのつど取り上げてきたので、今回は他の川柳人や表現者たちが彼らのことをどう評価しているか、という観点から述べてみよう。
「川柳スパイラル」13号の特集は〈「ポスト現代川柳」の作者たち〉で、柳本々々が川合の句集について次のように書いている。
「句集『リバー・ワールド』を考えるにあたり大事なテーマとして上がってくるのが、圧倒的な過剰さです」「川合さんから『じぶんは世界を書きたいと思っているんです』と聞いたことがあります。世界を書きたいと思っているなんて、とわたしはその時正直思ったのですが、しかし今回川合さんのこの『ワールド』と世界が銘打たれた句集を読んでいて感じたことがあります。この句集が提示するものは、圧倒的な世界にひとがコンタクトすることそのものを表しているんじゃないか」「ひとりの人間が世界を、世界について、世界にふれたことを、書くということ」(『リバー・ワールド』の世界 いつ、泣くの)
柳本は『リバー・ワールド』の句集の編集にもかかわっているから、川合の作品については知悉している。そして柳本は川柳について「ことばをとおしてなにかを語る、のではなくて、ことばをとおしてことばそのものを語る、のが川柳なのではないかとおもうのです」と述べている。ここには柳本自身の川柳観が語られているが、川合の「道長を」の句の場合でも、言葉を通して言葉そのものを語る、ということがうなずける。そもそも道長をシベリアだと言う人はいないのだし、この一句は川柳のことばとしてだけ成立している。

逆に、川合は柳本をどう見ているだろうか。「川柳木馬」170号の作家群像は「柳本々々篇」で、川合は「伝道の書に捧げる薔薇、あるいは柳本々々氏の〈語り〉を〈読む〉ということ」という柳本論を書いている。
「何を今さらだが、川柳とは『誰』に向けられた発話なのだろうか。いや、発話という用語は適切ではないかもしれない。これを語る、と言い換えたとして、語っていない句作品もあまたある。ただ、『誰』かに対して語ろうとしている作品を、ひたすら作り続けている作家も間違いなくいる。柳本々々はそんな作家だ」

夏目漱石(CV:柳本々々)    柳本々々

川合はこの作品について、「CVとはキャラクターヴォイス、すなわち声優の意味だが、ここにおいて『誰』に『何』が『語られている』のか」と問う。「夏目漱石」の声を「柳本々々」が語っている。しかし、「柳本々々」は声優なのだから、語られているのは「柳本々々」の言葉ではない。ここではいったい「何」が語られているのか。そして「誰」に語られているのか。この句は「『語る』ということ、『誰』ということの重要性を端的に示した句である」と川合は書いている。 川合の作品も柳本の作品も「言葉/ことば」に対する先鋭な意識がベースにあるが、川合の場合は世界とどのようにコンタクトするか、柳本の場合は誰に語るかというコミュニケーションの問題が浮かび上がってくる。

次に飯島章友から見た湊圭伍について取り上げてみよう。
飯島は「川柳スープレックス」2021年8月16日に「湊圭伍著・現代川柳句集『そら耳のつづきを』を読む」を掲載している。
〈湊圭伍さんの第一句集『そら耳のつづきを』が出ました。わたしと湊さんは、2009年から柳誌「バックストローク」に投句を開始しました。その後「川柳カード」を経て、現在も「川柳スパイラル」で一緒なのですから、言ってみれば「同じ釜の飯を食ってきた」間柄です〉〈「とは言え、当時の湊さんは俳句や現代詩を通過してきたからかも知れませんが、五七五(前後)の長さで表現する力量がわたしよりもありました。ずっと短歌をやってきたわたしではありますが、川柳は下の句のない短歌みたいなもの。その短さには正直、困惑するばかりだったのです〉〈五七五に四苦八苦していた当時のわたし。他方、湊さんは、2010年3月7日の週刊俳句【川柳「バックストローク」まるごとプロデュース】(バックストローク30号)、2011年4月9日の「第4回BSおかやま川柳大会」での選者(バックストローク35号)、同年9月17日の「バックストロークin名古屋シンポジウム」でのパネラー(バックストローク36号)、短詩サイト「s/c」での「川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞」など、新人ながらその句作センスと批評力にみあった役目が与えられ、みごとその期待にこたえていたのでした。こうして文章で記すだけだと何とも簡単ですが、リアルタイムで見た者からするとまさに飛ぶ鳥を落とす勢い。現代川柳界に出現した新星でありました〉
続きは「川柳スープレックス」をご覧いただきたいが、ここには川柳界に登場した当時の湊の姿がとらえられている。その後、湊には川柳に対する関心が少し薄らいだかに見える時期があったが、第一句集の発刊を機に再び意欲的に川柳に取り組む気配を見せている。

飯島章友の句集については「川柳スパイラル」13号に久真八志が「上向きの蛇口の空を渡る」を書いている。久真は飯島と同じ歌人集団「かばん」のメンバーだから、飯島のことはよく知っている。

上向きにすれば蛇口は夏の季語  飯島章友

久真はこの句や飯島の十四字作品などをあげながら、飯島章友の作家性について次のように言っている。
「詩型を横断的に扱うこと自体、作者の文学的姿勢を問われるものである。『成長痛の月』から受ける印象は、色々な詩型の良さを愛で、それぞれの良さを楽しんでいる雰囲気だ。蛇口の句にはその点が特によく表れていて、三つの詩型を渡り歩きながら、機知で締める。その懐の広さが飯島さんの作家性なのだ」
飯島の川柳はこれまでにもさまざまに論じられてきた。「川柳カード」11号(2016年3月)では小津夜景が「ことばの原型を思い出す午後」を書いて、「私という質感/世界という質感」「変質と生命」「逼迫する時間性」「螺旋的起源へ」という切り口で飯島作品を論じた。「川柳木馬」160号(2019年4月)の「作家群像」は飯島章友篇で、川合大祐、清水かおりが飯島の句を読んでいる。そのときの「作者のことば」で飯島はこんなふうに語っている。「もともと私は前衛歌人の寺山修司や春日井建が大好きで、彼らの短歌に通じるような川柳を書きたいと考えていました」「前衛短歌を意識した川柳を作句し始めて以来、伝統川柳の句会では入選率がぐっと下がりました。しかし、自分の好みには素直でありたい」
飯島の強みは伝統川柳の世界もよく知っていて、そのうえで自分の川柳作品を自覚的に追求しているところにある。この点は湊圭伍や川合大祐も同じで、彼らの先鋭的な作品はこれまでの現代川柳の伝統を踏まえたうえでの冒険であって、恣意的な思いつきによる作品ではない。

以上、今年発行された三冊の句集を取りあげたが、そのほかにも現代川柳のさまざまな動きがあったことは言うまでもない。リアルの川柳句会も復活してきているし、来年は思いがけないところから現代川柳に新しい渦が生まれることを期待したい。
(次回は1月7日に更新します。)

2021年12月18日土曜日

2021年回顧(連句篇)

今年は国民文化祭『連句の祭典・入選作品集』が二冊発行された。第35回国文祭みやざきは昨年開催されるはずだったのが一年延期になり、結局今年もコロナ禍で開催できなかった。第36回国文祭わかやまは予定通り今秋開催することができた。宮崎は『入選作品集』のみ発行。そんな事情で二冊の作品集ができているが、その中からいくつかピックアップして紹介してみよう(以下、宮崎の作品集を『宮崎』、和歌山の作品集を『和歌山』と略記する)。

寂しさのグラデーションや秋夕焼
 各駅停車やがて月の出
残菊のなほ誇らしき姿して
 一羽の雀いつも顔見せ
ランドセルカタカタ鳴らし小学生
 厚着にかすかナフタリンの香

『宮崎』の歌仙「グラデーション」の巻(文部科学大臣賞)から表六句。印象的な発句に続いて、脇は月の座。第三「残菊」に四句目「一羽の雀」を付けて次につなげる。五句目には擬声語を入れ、六句目は冬に。破綻なく穏やかな表六句になっている。

宇宙のみこんだか鯉幟
 無重力の麦笛
すべての遺伝子情報細胞に
 おとぎ話が好きな父
月を待ちかねる龍頭船は蕭条と
 金木犀が香り

『宮崎』の歌仙「宇宙のみこんだか」の巻(国民文化祭実行委員会会長賞)から表六句。自由律である。連句はふつう五七五の長句と七七の短句という定型を繰り返すが、この歌仙は36句自由律。オン座六句の第三連で自由律の連を設けたり、部分的に破調にしたりすることはあるが、全巻を通して自由律というのはめずらしい。発句・脇の極大から第三の極小に転じ、四句目の「おとぎ話」で日常に戻したあと月の座と金木犀の取り合わせで引き締めている。冒険的な意欲が評価された作品である。

薔薇の香に体内の水呼応して
 ひとつに結ぶ玉繭のごと
指揮棒が振られ始まる交響詩
アプリの地図に右往左往す

『和歌山』の二十韻「薔薇の香に」の巻(上富田町長賞)から表四句。宮崎が歌仙の募吟だったのに対して、和歌山の形式は二十韻。表4句、裏6句、名残りの表6句、名残りの裏4句の形式である。表が4句で終わるから展開が早くなる。発句が薔薇の香と体内の水の呼応、脇は発句を玉繭の比喩で応じる挨拶。第三では始まりを告げる指揮棒を詠み、四句目のアプリで軽やかに次につなげている。

逃避行琵琶湖湖畔の隠れ宿
 もぐらがひよいと頭もたげる
出る杭は打たれるものと知りながら
 職を賭けたる接待の席

『和歌山』の二十韻「指先の」の巻(文部科学大臣賞)の裏の部分から。表が穏やかに進行するのに対して、裏は序破急の破の部分になり、多彩な変化が求められる。俳諧性や世俗的な題材も詠まれるので、掲出部分は裏ぶりがよくあらわれている。
日本連句協会が毎年発行している『連句年鑑』は各結社や連句グループのメンバーの総花的な作品となる傾向があるのに対して、国民文化祭の応募作品は入賞を目指しているので、よくも悪くも連句人の秘術を尽くす場となっている。

コロナ禍で座の文芸としての連句が危機に瀕しているが、打開策としてリモート連句が浸透してきている。6月6日「第1回全国リモート連句大会」が日本連句協会の主催で開催され、東京、関西だけではなく新潟、北陸、大分、岡山など全国の参加者79名が15座に分かれて連句を巻いた。尻取り半歌仙「冷汗」の巻から。

青時雨リモート連句の一会かな
 仮名を打ち込む顔に冷汗
あせるなと新米教師励まして
 指摘鋭く冴えてくる脳
能面に月の光がふりかかり
 雁の鳴く音のひびく里山

尻取りになっていて、「かな」→「仮名」のように前句の最後の言葉を、別の語に詠みかえて付句の最初にもってきている。遊戯的な要素も連句の幅広さだろう。

今年はweb上の新しい試みとして、若手連句人の高松霞と門野優による「連句新聞」が立ち上げられた。すでに春夏秋冬の4号が公開されている。コラム、全国の連句作品(10グループ)、トピックス、連句カレンダーという構成で、ネット検索するとすぐ出てくるので、ご覧いただきたい。私が特に注目したのは夏号、堀田季何のコラムである。堀田は次のように書いている。
「連句は変容しつつある。
こう書くと、専門連句人の何割かは眉を顰めるに違いない。どういう意味だと。連句は常に時事や現代語を取り入れてきているが、それは新しさとは違うし、況して変容とは言わない。最近の連句本でも、そこに書かれている式目は、何十年前の連句本のそれとはほぼ変わらない。形式にしても、新しいものはたまに生まれるが、歌仙、短歌行、半歌仙が相変わらず多い。では、こう書こう。
連句は変容しつつある。少なくとも、流行は変わりつつある」
この続きは直接お読みいただきたいが、「現代連句のこれから」を考えるときに、向かいあわなければいけない課題が指摘されている。

現代連句作品は全国各地の連句人・連句グループによって日々量産され、ネット連句も盛んになってきているが、座の文芸の閉鎖性と連句界の発信力の弱さによって一般の文芸愛好者に届くことが少ない。日本の短詩型文芸は和歌・連歌・連句・俳句・川柳という歴史的な系譜があり、どこから入ってもつながっているところがある。連句文芸、付合文芸のさらなる発展が望まれるところだが、最後に今年15周年を迎えた「浪速の芭蕉祭」について触れておきたい。「浪速の芭蕉祭」は毎秋、大阪天満宮で開催されているが、今年はコロナ禍で見通しが立たなかったため、宣伝は控えて参加者限定の会員制で実施された。10月3日にプレ・イベントとしてZoomミーティングによる「現代連句のこれから(短歌・俳句・川柳、そして連句)」を開催。ゲストに平岡直子(短歌)、安里琉太(俳句)、暮田真名(川柳)を迎えてそれぞれのジャンルと連句について話し合った。10月10日は大阪天満宮梅香学院でリアルの実施。トーク「現代連句のこれから」(金川宏)に続いて、連句実作会が行われた。連句と他ジャンルとの交流はこれからの課題である。

2021年12月10日金曜日

冬には冬の会い方があり

「東京新聞」11月20日の夕刊、「俳句のまなざし」の欄で外山一機が〈「女性」の句とは〉という文章を書いている。
〈「川柳スパイラル」12号が「『女性川柳』とはもう言わない」と銘打った特集を組んでいる〉と紹介したあと、外山は時実新子について〈時実新子とは、いわば主語を男性の手によって幾度も奪い去られすげ替えられてきた作家〉と評価し、俳人の杉田久女が〈虚子というひとりの男性によって歪な形でもたらされたこと〉(松本てふこ「俳句史を少しずつ書き換えながら、詠む」)と同様の問題だとしている。
「川柳スパイラル」12号は川柳界では特段の反響がなかったのだが、掲載された松本てふこの文章がこのようなかたちで取り上げられたのは嬉しいことである。

これからの赤を約束して結ぶ  峯裕見子

年末になり、来年のカレンダーをどれにしようかと迷う時期である。掲出句は「峯裕見子オリジナルカレンダー2022」より、1月の句。峯裕見子は「川柳スパイラル」12号のゲスト作品では「五月の滝後ろから入ってください」「あと少ししたら欄間の鶴も鳴く」などの句を書いている。「川柳木馬」86号から彼女の旧作を抜き出しておく。

私の脚を見ている男を見ている    峯裕見子
猫の仇討ち金目銀目を従えて
そうさなあ手向けてもらうならあざみ
夕顔の種だと言って握らせる
わかれきて晩三吉が膝の上
菊菊菊桐桐桐とうすわらい

とりあえず今はダチョウに乗ってゆけ  樹萄らき

「あざみエージェント・オリジナルカレンダー2022」から、一月の句。
樹萄らきは「川柳の仲間 旬」に所属。彼女の作品は他誌では読めないので、少し紹介しておく。

凧上げる夢見た頃が見えるかい  樹萄らき
いろいろあるさ方向音痴だもん
お引き取り願いましょうかスッと立つ
むかしむかし柘榴は怖いものだった
そんなにも明るいものは楽しいか
じゃあねって君が残したのは刹那

11月3日に開催された「2021きょうと川柳大会」の作品集が届いた。入選句のなかから一句だけ紹介しておく。

バスを待つ指の形を変えながら   富山やよい

バスを待つという状況を詠んだ句はよくあって、たとえば「バスが来るまでのぼんやりした殺意」(石部明)が思い浮かぶ。石部の句ではバスを待つあいだの内面が詠まれているが、富山の句では「指のかたち」という身体に焦点があてられている。けれども、それは身体だけとも言えなくて、指のかたちを変えるのは心の微妙な動きとも連動していることになる。それが不安とか恋情とかいう具体的な何かではなくて、指の形という含みのある表現をしているのが巧みだ。「川柳木馬」125号より富山の旧作を抜き出しておく。

コロラドに夕陽あなたは猫ですね    富山やよい
こんにちはジャングルジムが咲きました
格闘技花の形で逃げる兄
逃げ込んだ街だ消防車の赤だ
背中からオンブラ・マイ・フおんぶら鬼

「水脈」59号に一戸涼子が「フロンティアスピリット 飯尾麻佐子に捧ぐ」を書いている。飯尾麻佐子の「魚」については何度か書いたことがあるので、ここでは繰り返さない。一戸が紹介している麻佐子の作品を抜き出しておこう。

野に伏せる死魚一塊の唇に撃たれ  飯尾麻佐子
ゆうぐれの烏一族なまぐさし
渚にて指曼荼羅は散乱す
遠い喪の 一騎を刎ねし穢土の羊歯
文学論 すこし地獄を呼んでみる
眠れぬ大気 ゆわーんと にし ひがし

「朝日新聞」12月5日の「うたをよむ」の欄で水原紫苑が「今年も女性歌人の優れた歌集が次々に世にでた」と書いている。平岡直子の第一歌集『みじかい髪も長い髪も炎』から。

冬には冬の会い方がありみずうみを心臓とする県のいくつか  平岡直子

(注)「しかし、それでもなお、女性というものは存在しています。女性一般というものがなく、また、それがどのような文脈で語られるにせよ、女性は存在しています」(川上未映子『早稲田文学増刊 女性号』)

2021年12月3日金曜日

天使の腋臭―川柳・俳句・短歌逍遥

12月に入った。今年も残り少なくなってきたが、短詩型の諸ジャンルでは途切れることなく活発な表現活動が続いている。その全てに目配りすることなどはとてもできないが、管見に入ったものについて川柳、俳句、短歌の順に触れてゆくことにしよう。

日本現代詩歌文学館主催の「第7回現代川柳の集い」は9月19日開催の予定だったが、コロナ禍で中止になった。事前募集の入賞作品が「詩歌の森」(館報93号)に掲載されているので紹介する。

抱いているいつか壊れるものなのに  守田啓子
挽歌弾く一本松のヴァイオリン    菊地正宏
哀しみの海を分け合う慰霊祭     荻原鹿声

「触光」72号(編集発行・野沢省悟)では第12回高田寄生木賞を募集している。川柳に関する論文・エッセイで、締切が2022年2月28日。「触光」掲載作品から。

三叉路は雪の匂いがする方へ   滋野さち
蜘蛛の糸昇って着いたのも地獄  津田暹
この薔薇を剪るその傷を残しおく 小野善江

「川柳北田辺」121号(編集発行・竹下勲二朗)から。

油滴天目茶碗で彼を泡立てる    笠嶋恵美子
眠っている窓のとなりに窓を描き  湊圭伍
マンモスをペリリュー島へ派遣した 井上一筒
ツンドラの検温 熱帯の検温    きゅういち
右肩あたりに一人称サナダムシ   山口ろっぱ
指差した爪の先にて蝶が舞う    酒井かがり

佐藤智子句集『ぜんぶ残して湖へ』(左右社)。佐藤文香の帯文に「現代を生きる主体と現代語の文体が抱き合うダイナミズムを感じるにふさわしい、2020年代を象徴する一冊」とある。佐藤智子は『天の川銀河発電所』の公募作家としてデビューした。同書で佐藤文香は「〈じゃんけんで負けて蛍に生れたの〉の池田澄子が、かつての日常口語俳句を開拓したとして、佐藤智子は現在の口語の人だ。短歌でいえば永井祐か」と書いている。川柳は江戸時代からずっと口語なのだが、俳句や短歌では文語か口語かということとジャンル内のエコールの変遷がからみあっているようだ。山田航は「現代詩手帖」10月号の鼎談「俳句・短歌の十年とこれから」で短歌の歴史をリアリズム(写実)と反リアリズム(幻想)の繰り返しととらえ、次のように発言している。「それまではリアリズムは文語で、反リアリズムはそれに対抗するために口語でやるものだという図式があった。しかしそれは単なる思いこみに過ぎず、口語を使うリアリズムも可能だという方法を、2000年代に永井祐が鮮やかに打ちだして見せました」―この見方の当否はともかく、短歌における文語・口語の角逐と平行するようなかたちで佐藤文香が現代俳句史をとらえていることが想像できる。

明けない夜だよ伊予柑の香がやたら  佐藤智子
炒り卵ぜんぶ残して湖へ
新蕎麦や全部全部嘘じゃないよ南無

短歌誌「ぬばたま」6号の特集は大橋なぎ咲。巻頭作品「ミューズ」から。

話したいときは女子校だと告げるわかってもらいやすくなるから   大橋なぎ咲
みーちゃんのカレシと聞いてチェックした硬式テニス部の人たらし
全員で顧問に謝罪したらしいJを試合に連れていくため

「ぬばたま」は大橋のほか乾遥香、初谷むいなど1996年生まれの歌人が集まった同人誌。今号には大橋なぎ咲、瀬戸夏子、乾遥香の鼎談「オタクである私の話」も掲載されている。

『葛原妙子歌集』(書肆侃侃房)、「ねむらない樹」7号の特集で高橋睦郎が葛原のことを語っているインタビューがおもしろかったので取り寄せた。栞を大森静佳、川野芽生、平岡直子が書いていて、三人ともおもしろい。見ることが世界に乗り移ることになるという大森、真実を視るためには目を閉じなくてはならない(幻視)という川野、見慣れた景色と言葉を見慣れないものとして再構成することが葛原にとっての写生だという平岡。それぞれのアプローチが刺激的である。

水かぎろひしづかに立てば依らむものこの世にひとつなしと知るべし 葛原妙子
寺院シャルトルの薔薇窓をみて死にたきはこころ虔しきためにはあらず
水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき
この子供に絵を描くを禁ぜよ大き紙にただふかしぎの星を描くゆゑ
天使まざと鳥の羽搏きするなればふと腋臭のごときは漂ふ