2015年8月28日金曜日

晩夏の妄言―『松田俊彦句集』と「川柳木馬」

『松田俊彦句集』が「葉ね文庫」に置かれるようになって、改めて句集を読む人があったようだ。川柳人・松田俊彦は2012年8月10日に亡くなった。没後三年が経過したことになる。句集は2013年10月に発行された。表紙は大学ノート仕立てで、句集名はなく、「松田俊彦」の署名だけが印刷してある。松田は「バックストローク」の大会にも参加していたし、「浪速の芭蕉祭」川柳の部にも投句していたので、伝統派の川柳人でありながら、現代川柳全体にも目配りできる人だった。

待っている大きなものの名を忘れ   松田俊彦
きりんの死きりんを入れる箱がない
大至急会おう私であるうちに     
他人ならここで手をふるだけでいい
海から先を考えていなかった

私は生前の松田とあまり接点がなかったが、「バックストロークin名古屋」で松田は特選をとっている。また平成24年・浪速の芭蕉祭の作品は彼の没後に応募葉書が届いたことを覚えている。

きっとならさっき誰かがもってった  バックストロークin名古屋
ぎりぎりのところで水になっている  平成22年・浪速の芭蕉祭
間違えて押した小道具出てしまう   平成24年・浪速の芭蕉祭

「川柳木馬」145号(2015・夏)から何句かピックアップしてみる。

隈取りを描いて辞表を出しにゆく   畑山弘

仕事を辞めて第二の人生がはじまる。
誕生・結婚などと並んで退職は一種の通過儀礼である。大げさに言えば人はそこで変身するのだ。在職中は嫌なことやストレスがたまることもあっただろうが、辞表をたたきつけるのはさぞ快感だろうし、歌舞伎のように見得を切りたくもなるだろう。「ポケットの中のポケットより哄笑」「蓑虫の天地無用という姿勢」

排卵日有精卵の黄身を呑む      大野美恵

体内から出て行く卵と体内に取り入れる卵。
女の身体と自ら向き合って作句している。
今号の中ではこの作者に最も衝撃を感じた。
「突き上げる産道よりのレモン水」「逆上がり口から垂れる性癖」

林檎をおくと遅れはじめる時間    内田万貴

林檎をおくとなぜ時間が遅れはじめるのかという問いは無効である。
説明すればできるかも知れないが、句をつまらなくしてしまう。
物と意識の関係なのだろう。
「ああ人はむかしむかし鳥だったのかもしれないね」(中島みゆき「この空を飛べたら」)というフレーズが人の共感を得るのは、「鳥は空を飛ぶもの」というプロトタイプがあるからである。ペンギンはこの歌に疎外感を感じている。
「出自を問われ鳥図鑑あけている」(内田万貴)

どこからか雅楽 徘徊老人も     古谷恭一

「採桑老」という雅楽がある。
俵屋宗達の「舞楽図」にも描かれている。
不老不死を求める老人の姿。人は誰でも死にたくはないのだ。
かつて古谷恭一は「三姉妹」の句を書いた。今回は「老年」と向かい合っている。
「うつ伏せに眠る辺りは花畑」「老人を放つ残酷ゲームです」

ここに来て黙って座っていればいいのよ   西川富恵

何もしゃべることがない沈黙と語り出せばきりがないための沈黙とがある。
西川富恵は「川柳木馬」の創刊メンバー。
『現代川柳の群像』を開くと西川の次の句に出合った。

こころざし高く麦藁帽子一つ

石部明はこの句を西川富恵論のタイトルにあげている。

数日を群れてみせしめのダリア     清水かおり

ダリアが群生している。
数日経過すると中には枯れたり衰えたりするものも出てくる。
それだけなら単なる風景だが、「みせしめの」と入れることによって川柳にしている。
「みせしめ」と感じたのは作者の主観だが、何が(誰が)何に対する(誰に対する)見せしめなのかは微妙だ。
清水は巻頭言でこんなことを書いている。
「現代川柳は読者の読みに委ねられる部分が大きい。作者が読者の読みを否定することは、自身の力量を問われることでもある。しかし、一方で、作者は読者への委ねに凭れることのない意識を持って書くことが大切である。言葉と言葉を置けばそこに何かが生まれるだろうと思うのはあまりに楽観的すぎるからだ。理念などと大げさなものではないが、ただ、自分の中の核を意識して作品を創ることは忘れないでいたい」
正論であるが、こういう意識が逆に表現を縛ったり、作者にはね返ってきたりすると生産的でなくなるかも知れないと思った。
「万物の声に埋もれるまで神楽」「本音なら黒いズボンを穿いて来る」

2015年8月14日金曜日

小さな物語をつなぐ〈と〉

先週は栃木県に旅行した。那須高原の温泉を巡り、『奥の細道』にも出てくる殺生石を見ることができた。芭蕉はこんなふうに書いている。

「殺生石は、温泉の出づる山かげにあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど、かさなり死す」

硫化水素が発生するので虫や小動物が死ぬのだが、今はそれほどでもなく、硫黄のようなにおいがするだけである。地元の人の話では以前はもっと蒸気・煙が出ていたということだ。九尾の狐の伝説があり、玉藻の前に化けているのを陰陽師によって見現わせられて、那須野まで逃げて石になったということだ。石は三つに割れ、ひとつは岡山に、ひとつは会津に飛んだという。残りの一つが那須にあるのだが、注連縄を張られているのでそれと分かる。「奥の細道」関連では遊行柳にも行きたかったが、芦野温泉は少し離れたところにあるので果たせなかった。あと、猪苗代兼載のゆかりの地も那須にあるのだが、これは行きにくいところにあるのであきらめた。
大阪では文楽11月公演で「玉藻前」を上演するようなので、今から楽しみにしている。

8月2日に大阪・中崎町の「とととと展」に行った。
岡野大嗣の歌集『サイレンと犀』と安福望の『食器と食パンとペン』にちなんだイベントである。二冊のタイトルに含まれる〈と〉がキイ・ワードらしい。
イラストレーターの安福望はツイッターの「食器と食パンとペン」で現代短歌に自らのイラストを添えて発表している。毎日更新というのがすごい。それがキノブックスから一書にまとめられて出版された。
岡野大嗣歌集『サイレンと犀』(新鋭短歌叢書)の表紙とイラストも安福が担当していて、当日は岡野・安福・柳本々々によるクロストークがあった。
進行役の柳本は「ことばのプロ(岡野)」と「絵のプロ(安福)」の間にはさまれて、自分が語れるのは漫画の話だというふうに切り出して、岡野・安福の好きだという漫画と通底するものを彼らの作品の中にさぐりながら話を進めた。
たとえば、岡野の好きだという新井英樹の『ザ・ワールド・イズ・マイン』を紹介したあと、「バイオレンスとデジタル」という観点から岡野の短歌を取り上げていく。

【岡野バイオレンス短歌集】
まだだ のり弁掻き込んでいるときに後頭部から撃たれる夢だ
雨やみに遊具から血の香りしてほんものの血のにおいに混じる
近づけば踏み潰す気で見ていたら鳩は僕との距離を保った
【岡野デジタル短歌集】
ジーザスがチャプター2まで巻き戻し平時を取り戻す5番街
This video has been deleted. そのようにメダカの絶えた水槽を見る

こんな調子で進行していったが、句と漫画・映像とを結びつけた説明は分かりやすい。活字作品を活字や言葉から説明するのではなくて、別の映像と取り合わせることによって新たな光を当てる。そのあたりに〈と〉の効果がある。当日の柳本の言葉によると「大きな物語ではなく、小さな物語を〈と〉でつないでいって、小さな物語をたくさん作ってゆく」ということだろう。
絵川柳の試みとしては、御前田あなたのブログ「いつだって最終回」があり、これはツイッターでも見ることができるが、同様の試みをする人がもっと出てきたらおもしろいと思う。

「子規新報」171号の「次代を担う俳人たち」、中山奈々が取り上げられている。
文中に「川柳カード」誌上大会での中山の句が紹介されている。

世界制服のカフスが鶏冠なり    中山奈々

中山の言葉として「俳句の良し悪しを言うときに『川柳だ』と評することがあるが、そもそも川柳はどう捉えられているか。単に俳句らしくないイコール川柳と安易に考えてしまうひとが多いこと」という発言が引用されている。子規新報の紹介を書いているのは三宅やよい。三宅も川柳のことをよく理解している俳人のひとりである。

8月10日、朝日新聞朝刊の俳壇・歌壇のページ、「うたをよむ」の欄に西村麒麟が八田木枯の俳句について書いている。西村麒麟は「川柳カード」9号に寄稿してもらっている若手俳人。西村が引用しているのは次のような句である。

戦友にばつたりとあふ蟬の穴    八田木枯
戦中をころげまはりしラムネ玉

川柳に興味をもった人がインターネットで検索しようとしても、サラリーマン川柳などのページしか出てこない。全日本川柳協会のホームページは地域別に川柳結社を一覧化しているが、協会に入っている結社だけであり、また結社のページに飛んでもアドレスが古くて行き着けなかったり、欲しい情報が手に入らないことが多い。「川柳マガジン」のブログのなかでは新家完司のブログがいろいろな大会案内を比較的よく掲載している。リンクをたどって求める場所にたどりつくしかないのだが、私としては「川柳カード」のホームページや「週刊川柳時評」「金曜日の川柳」などを読んでくださいと言っておこう。入口としての情報発信のあり方は重要。連句の場合も川柳と似た状況だが、最近、「日本川柳協会」のホームページがフェイスブック対応になり、少しは利用しやすくなった。

必要があって、橋閒石の句集と非懐紙について調べている。

蝶になる途中九億九光年       橋閒石
銀河系のとある酒場のヒヤシンス

これらの句を私は凄いなと感心するばかりなのだが、20代の俳人に言わせると、「九億九光年」「銀河系」はアニメ系・SF系の言葉であり、今では別に珍しくないということだ。また、私は「橋閒石の俳句は連句的」という言い方をしているが、では「連句的」とはどういうことか、俳句の取り合わせ・二句一章とどう違うのか、と問われると説明するのは難しい。ジャンルや感性の違いを認めあいながら、それぞれの創作活動を深化させてゆくことが大切だ。

立秋を過ぎたが残暑が厳しい。みなさん、この暑さを乗り切ってください。