2022年2月25日金曜日

川柳は「母」をどう詠んできたか

「文藝」2022年春季号は「母の娘」という特集をしている。イ・ランの「母と娘たちの狂女の歴史」、「物語化された『母』を解放するブックガイド20」、平岡直子の「お母さん、ステルス戦闘機」など興味深い内容になっている。
ところで川柳において「母」のテーマはどのように扱われてきたのだろうか。「母」は「父」や「妻」とならんで、しばしば詠まれてきた。今回は『近・現代川柳アンソロジー』(新葉館出版)から「母」を詠んだ作品を紹介してみたい。
その前に出発点となるのは『柳多留』の次の句である。

母親はもつたいないがだましよい  『誹風柳多留』初編619

「~は~」という文体の問答構造になっているから、川柳の基本形と言える。母親というものはどういう存在かについて二面的なとらえ方をしている。いわゆる「うがち」の句。アフォリズム(箴言)に通じるところもあり、母親に対する川柳人の見方の原点がここにある。では近代に入るとどうなるだろうか。以下『近・現代川柳アンソロジー』からの引用になる。

母老いて小さくなりし飯茶碗    井上剣花坊
はゝのする通りに座る仏の灯    西島〇丸
母の日の母が笑ってみな笑い    前田伍健
母一人子一人線香花火消え     濱夢助
母親の留守の鋏がよく切れる    小田夢路

井上剣花坊は明治の新川柳(近代川柳)の創始者のひとり。母のイメージが飯茶碗や仏壇と結びついている。古典的な家族の姿である。家庭の中心に母の存在があって、母が笑うとみんなが笑うのだ。近代になると「母」を客観的・批評的に眺めるのではなくて、「母」に対する「思い」や感情が入ってくる。本来、「思い」は個人的なものであるはずだが、川柳の場合は社交文芸の面があるので、個人の独自な感情というより、誰もが共感するような社会的感情が選ばれる。この中では小田夢路の句だけ、少し異質である。

世の中におふくろほどのふしあはせ 吉川雉子郎
母ある夜母も不幸をしたはなし   山路星文洞
お袋の一つ話はスリに会い     伊志田孝三郎
お袋も小手をかざせば腕時計    富野鞍馬
おふくろと駅から歩く秋祭り    進藤一車
初霜は母が見つけただけで消え   北村白眼子

男の子の母に対する視点から詠まれた句。吉川雉子郎は『宮本武蔵』を書いた吉川英治の川柳名。彼は川上三太郎の友人で川柳の作者としても著名。山路星文洞、伊志田孝三郎はそれぞれ母の語る話に焦点をあてている。 

母ひとり静けさにいるお元日    藤島茶六
ふと母の白髪へ映える陽を眺め   佐藤鶯渓
母と来たころの芦の湖小さい船   近江砂人
ほんとうに疲れた足袋を 母は脱ぎ 永田暁風
母いつか寝て月光の写真集     中川一

母の孤独や老い、母との思い出など、説明は不要だろう。

壕を出た無事な母子の手の温み   河村露村女
母と出て母と内緒の氷水      前田雀郎
母と一と言今朝沓下の新らしき   房川素生
母子ねむる勾玉のごと対い合い   光武弦太朗
母に聴くわがおひたちの蝶遠き   田辺幻樹

母子関係の句である。河村露村女の句は戦争中の防空壕を詠んだもの。前田雀郎の句は母と子の隠微な共犯関係。房川素生は新しい靴下を整えてくれた母と少ない言葉で感情が伝わっており、光武弦太朗は母子関係を勾玉にたとえている。田辺幻樹は川上三太郎の門下で、「川柳研究」の詩性派を代表する作者。現在では「蝶」を出した程度では詩性川柳と言えないかもしれないが、当時としては新鮮だっただろう。

母系につながる一本の高い細い桐の木  河野春三

この句は「母」をテーマとした句とは少し外れるかもしれないが、母系というパースペクティブで時間の流れを感じさせ、それを一本の桐の木で象徴している。現代川柳のなかで忘れることのできない作品のひとつである。

これはたたみか
芒が原か
父かえせ
母かえせ      松本芳味

松本芳味は多行川柳の代表的作者。母のテーマというより、父と母のペアの表現だが、ここで紹介しておく。

台所妻にもなれず母にもなれず     林ふじを
子供は母をためしつづける花畠     前田芙巳代
母はまだひとりでまたぐ水たまり    森中惠美子
てのひらの傷から湧いて母の水     児玉怡子
母からの手紙ひらけば酢の匂い     木本朱夏
老母よははよ急がねば鐘鳴り止まん   西条真紀

林ふじをは「ベッドの絶叫夜のブランコ乗る」で有名な川柳人。良妻賢母型の女性観に対する異議申立てである。あとの作品は、子ども、特に娘の視点から見た母の像である。娘の母に対する関係はふつうエレクトラ・コンプレックスと呼ばれるが、ここではそのような深層心理は表現されていない。

亡母の闇この世は雨が降っています   橘高薫風
花野より亡母来て父の浮かれよう    伊藤律
母が死に母が飼ってた鳥も死ぬ     新家完司
母死んで天高々と葱を吊る       酒谷愛郷

亡き母を詠んだ句。「亡母」と書いて「はは」と読ませる。川柳の句会では選者の披講を耳で聞いて理解するので、選者は「はは」と読んだあと、「亡き母」の「はは」ですと説明を入れたりする。橘高薫風の句は亡き母とこの世に生きる私との対話。男性視点に対して伊藤律は女性視点から浮かれる父に対して冷静な目を向けている。新家完司はユーモアと笑いを得意とする作者だが、この場合は逆に冷徹に母の死を受け止めている。酒谷愛郷の場合も感情に流れていないが、母と葱のイメージが結びついているところが古風。

軽い女で母で死にたし 沖ゆく舟よ   金山英子
母だった記憶が欠けて行く夕陽     滋野さち
母を誹れば肉のこすれる音がする    高鶴礼子

女性の作者の句である。「軽い女=母」という金山の句、母だったことを過去形で語る滋野の句、母を誹ることが自己をそしることにつながる高鶴の句。それぞれ、自己の内なる母と対峙している。

代理母に白湯を注げば午後のキオスク  きゅういち

ここまで来れば、母に対する感傷性とは無縁になる。「母」をテーマとした川柳はもっと多様であるはずで、すでに『近・現代川柳アンソロジー』の範囲を越える。たとえば『はじめまして現代川柳』に収録されている次の句などはどうだろう。

かあさんを指で潰してしまったわ    榊陽子

「母親はもつたいないがだましよい」の「うがち」の句からはじまった「母」のテーマは榊のこの悪意ある句によってひとつの結末を迎えている。「母」を詠む川柳はさらなる新機軸を打ち出すことができるだろうか。

2022年2月18日金曜日

「川柳ねじまき」と「川柳木馬」

最近では川柳のネット句会も増えてきて、暮田真名の「ぺら句会」、湊圭伍の「海馬川柳句会」、川柳スープレックスの「七七句会」など、あちこちで開催されている。昨年の夏には「川柳ねじまき」による「十七人の選者による十七題のネット句会」が開催された。「ねじまき句会」十七周年を記念したもので、123名の参加者、1996句の投句があったという。その選考会の記録が「川柳ねじまき」8号に掲載されているので紹介する。大賞は次の句である。

七ってさたまに突風混ざるよね  尾崎良仁

討論では次のような発言がある。
「非常に感性がいいなという気がします」
「この句はすごく突破力のある句だと思いました。耳で聞いてすぐわかるんだけれども、意味はすぐにはわからない。意味はわからないんだけれども何だかおもしろい」
「わりと意味性を外した句が多いと思いましたが、世の中でやっている普通のつくり方でつくった意味性のある句の中にかなりいい句が多いなと思ったので、何となく意味を飛ばすという句には目がいかなかったですね」
「場には、飛ばすという場とロジカルにつくる場があって、ロジカルな句の中にもいい句がいっぱいあるじゃないかと最近思うんですよ」
「川柳を読んでいて、ちっとも突飛なことじゃないんだけど、そこから新しい切り口っていうか、今まで自分が意識してなかったこととか、どっかにあったけどまだ言葉にしてなかったことが見えてくるとうれしい気持ちになりますよね」

いろいろな川柳観が交錯していて興味深い。「感性」「突破力」「意味性」「飛ばすこととロジカルなこと」「新しい切り口」など、評価の基準はさまざまである。「普通のつくり方」「一般的なつくり方」というのも時代や集団によって変わってくるものだし、意味性のある句が良い場合もあれば詩的飛躍の句がおもしろい場合もある。川柳の書き方は作者によって異なるし、同じ作者でも場合によって異なることもあるが、読み手の方はそれぞれの書き方のなかで成功しているか失敗しているかを判断することになるのだろう。
大賞句以外の作品について、既成の構文を使う場合はよほど新しさが感じられないといただけないという意見や、十七音の中で何かを対比させるときに、構文は有効なんじゃないかという意見があった。固有名詞に関しては「俳句で言う季語のようなもの」と捉えているという発言もあり、突っ込んだ議論がなされていることがうかがえる。

封開ける時にハサミは嗚咽した   尾崎良仁

次に同人の作品も紹介しておく。あと、連句作品として二十韻「梅二月」の巻が掲載されている。

撫でてやる日本列島きゅーと鳴く   なかはられいこ
あふれない水でいましょう いよう  瀧村小奈生
S席で立ち上がる半跏思惟像     中川喜代子
こしあんになっても空を忘れない   米山明日歌
たましいはなべてすずしいえびかずら 八上桐子
ナスカより星降る音の生中継     青砥和子
しばらくはチラシを食べる空家の戸  安藤なみ
せせらぎの大きな青にむせている   妹尾凛
コンビニで四時間遊ぶのも辛い    丸山進
変身するときは背中から割れる    岡谷樹
大仏の研究室から来た扉       二村典子
息継ぎにうっかり浮いて掬われる   猫田千恵子

「川柳木馬」171号、巻頭で内田万貴が高知県立文学館で開催された「生誕150年幸徳秋水展」について書いている。秋水は四万十市に生れた社会主義者で「平民新聞」を創刊、大逆事件で処刑された。高知は自由民権運動の盛んな土地で、「間島パルチザンの歌」で有名なプロレタリア詩人・槙村浩もここで生れている。連句関係では寺田寅彦のゆかりの地で、寺田寅彦記念館もある。文学・思想の面でも興味深い土地柄である。
「川柳木馬」同人作品から紹介しよう。

牛乳をこぼして猫を呼んでいる     古谷恭一
舌足らず自分をしゃぶるハーモニカ   大野美恵
貉藻も咲いたことだし許してあげる   萩原良子
深呼吸ひとつであらかたが開く     内田万貴
英国史薔薇の名札を見て怒る      畑山弘
百均で「これはいくら」と訊いている  小野善江
玉手箱売る自販機があるらしい     森乃鈴
昨日から肉感のある広辞苑       清水かおり
やあ!なんて言ってみたけどあれは誰? 山下和代
過ぎたこと木の裂けることありやなしや 岡林裕子
浜木綿の痛みほどではないけれど    立花末美
最低賃金の下っ腹を喰う        田久保亜蘭
ネバネバしてる 勇気とか感動とか   高橋由美

高橋由美が10年ぶりに本誌に復帰していることに注目した。

集めてみたよ でも君の蛍じゃなかった  高橋由美
君のパスワード 僕の設計図に見える

君と僕の関係性はさまざまで、求めていたような「君の蛍」ではなかったと失望することもあれば、君のパスワードと僕の設計図が重なって見える場合(幻影にすぎないとしても)もある。一時期の「木馬」誌で「君」「僕」などの人称代名詞が多用されていて、その代表的な作者が高橋由美だった。作風は10年前と基本的にはかわっていないようだが、今後の作品の展開が楽しみだ。

2022年2月11日金曜日

自由律川柳誌「視野」

『近・現代川柳アンソロジー』(新葉館出版)は堺利彦・桒原道夫の編集による労作だが、そのなかに觀田鶴太郎(かんだ・つるたろう)と石川棄郎(いしかわ・すてろう)が収録されている。この二人は川柳における自由律の作者である。自由律川柳についてはあまり語られることがないので、少し詳しく紹介しておこう。
觀田鶴太郎は「ふあうすと」の同人だったが、1930年代に入って「ふあうすと」内部に自由律川柳が台頭し、論争が行われたようで、鶴太郎は同人を辞退し、1934年に自由律川柳誌「視野」(孔版8ページ)を創刊する。 詩川柳を志していた彼は井泉水・放哉・一石路などの自由律俳句運動に刺激を受けていた。「視野」には鶴太郎のほか大野了念、石川棄郎、枝松規堂、伊良子擁一などが集まった。
1941年に視野発行所から出された『自由律川柳合同句集Ⅰ』(編集・伊良子擁一、発行・石川棄郎)という冊子がある。私が持っているのは墨作二郎による復刻版だが、そこに鶴太郎が「『視野』小史」を書いている。
「『視野』は昭和十年三月、『ふあうすと』自由律派の觀田鶴太郎、大野了念、石河棄郎、枝松規堂、それに自由律短歌から来た伊良子擁一らの手によって、謄写版8頁と云う貧しい出発がなされた。規堂の編集手腕は、翌十一年一月には活版24頁にまで成長せしめ二十人に近い自由律作家を擁するに至らしめた。その間『芥子粒』の鈴木小寒郎、河西白鳥らの来り援くるあり、なお柳壇の各方面から寄稿を得るなど、極めて活発な動きを見せていたが、惜しくもその十一月には規堂を亡い、ここに一頓座を呈するに至ったが、石河棄郎、鈴木正次と編集を承けつぎ、昭和十四年四月一回の休刊もなく五十号を迎うるに至った」「昭和十~十二年の間殷盛を見せた自由律川柳誌も十三年頃には殆ど姿を没し去って、『視野』は残る唯一の自由律川柳誌となってしまった。五十号より擁一が編集に当り、自由律川柳運動再建のため奮闘が続けられている」(石河棄郎は石川棄郎と同じ)
『自由律川柳合同句集Ⅰ』から「視野」の作品を引用しておく。

どれもさびしさうな羅漢の顔のあちら向きこちら向き  觀田鶴太郎
刻々の水あくまで赫く限りあるものの目前       鈴木小寒郎
姉弟の鼻が似てゐる話きいてゐる顔          大野了念
かさりと枯葉の郵便受に一枚きてゐる         石河棄郎
これで眠れるねむり薬の軽い音さへ          枝松規堂
炎天のだだつぴろい橋桁をむんずと渡る兵       河西白鳥

鈴木小寒郎の「自由律川柳小史」によると、自由律川柳は自然発生的には井上剣花坊や川上日車などによる「破調」の試みがあったが、意識的な出発は河野鉄羅漢などによる「街燈」(大正七年一月創刊、岡山)によってなされた。その後、分散的な時期を経て、第二期がはじまったのが「視野」(昭和十年、神戸)の創刊である。「視野」は自由律専門誌であって、柳誌の一部分に自由律作品が掲載されるというかたちではない。自由律の川柳誌としては他に、「手」(大阪)「紫」(名古屋)「川柳ビル」(京都)などがあった。「視野」の主張は「現代口語の短詩的活用」「生活真実描写」「自然諷詠の積極的許容」などであったという。
『近・現代川柳アンソロジー』に収録されている觀田鶴太郎の作品を五句挙げておこう。

わが家へ近い月夜のステツキをふる   觀田鶴太郎
菊のせて人力車がゆく
広告が傾いてゐて菜の花の盛り
バスちらと海見せてそれからの揺れよう
わたしに似た羅漢さんをみつけてだまつてゐる

鶴太郎の死後、1952年に石川棄郎は「視野」を復活させる。雑誌ではなくハガキ版で、印刷されたハガキをそのまま送るようになっている。
1952年11月号から、二句ずつ紹介しておく。

白い霧が流れる青い月に吹く風        大野了然
赤とんぼ陽なたぼっこの絵本にくる

小荷物は蕎麦の袋、添えてある姉の候文   山本浄平
夢に見て雪樹につまず道にもつまず消える

濡れてレインコートのルーデサックのようなお嬢さんで    石川棄郎
それだけのことだとくるりと女へ背を向けて寝る

家内みな出払って、ほこりをそっと寝ている    三村洪翠
昼風呂、首だけが留守番している

パチンコ屋の花輪も雨で、ヤットン節のレコード  及川文福
どっしり仏具屋の重い火鉢でお年寄りばかり

わたしにはわたしの夢がありますミシンの音    重福草洋
麦少しのびて風のとむらいの列の後につづく

興味深いのは時実新子の自由律作品が「視野」に散見されることである。新子には自由律作品はないと思っている人がいるかもしれないが、そんなことはない。資料的な意味もあるので、新子の「視野」掲載作品をいくつか抜き出しておく。

夫が封を切っている私へ来た手紙(1956年12月)
落葉の道シモーヌを想う私は子連れ
ここにかなしき夫婦像あり闇は脈打ち(1958年8月)
思慕の限りなければ釜底光らす
やがて朝の心が宿る獣欲の木偶
テレビ番組の山下清絵はこう画くとマジックのすでに無中で(1958年12月)
触覚に問いつめられてゆく汗の指紋に壁が崩れる
魚臭、三等車は息切れの窓に景色を映さない(1959年1月)
スチームは嘔吐を続け車内灯悉く朝の陽に抗う
雨の舗道に片恋の吸盤押しつけられて卯の花開く(1959年6月)
拾った恋を白い林に埋めて五月、青衣の孤独

同じ時期に墨作二郎も出句している。作二郎らしい長律作品である。

シンドバッドの眼は黄色い灯をともしている。その満員電車の未知の男女(1958年8月)
黄牛のふくらみが昇天する訓え。トマトの溢血を傷のように噛むのか
これは浴室の跡の水色のタイルの一枚に、短い影の茂りに詩人の活字
風の神は飴をしゃぶりながら恋の仕事をする。詩人は荒々しさを書くのに(1958年12月)
ニンフが好きになっても溜息の大きさが笑われます。風の神様の骨折れること
静かに呼吸しているのに波が白くなって風の神の鼻先に桜貝、蝶は寒いのです
北風と西風の昔話しは美しい秋の夕景に輝やいています。祝福されるフロラ
自画像の裏に黒い疲れが坐っている。マッチのラベルの並んだ灯(1959年1月)
霧の中から糖化したいのち。ザボンの熟れた寒い光りを知っていたが
指先の海が光る 吊された糸は焼場へ行った蝶の悲しいヒゲなのか

あと河野春三「遮断木おりる 牛の盲従のいつまでか」「銀行から死を抽出すより外はない」「夕陽射られて知だらけの運河のすべて」や清水美江「陽と微風に誘い出されたはちが僕を呼んでる」「疎林の入日踏みつつ帰棟する白衣」「風媒花の確率の中で種がふくらむ」などの作品も掲載されている。
棄郎の句が最後に掲載されているのは、1975年9月の次の句である。ハガキ版「視野」は1978年1月で終わっている。

階段を昇る ふたつのまなこ ひとつのいき   石川棄郎

2022年2月4日金曜日

上田信治の『成分表』と俳句

上田信治のエッセイ集『成分表』(素粒社)が好評である。
俳誌「里」に連載されたものだが、裏表紙の部分に掲載されているので、「里」が届くと裏表紙から読み始める人が多かったのではないだろうか。俳誌に連載されたときと比べて、本書では俳句の要素を少し抑えてより一般読者を対象としているようだ。
上田自身が「定義」の章で触れているように、これはアランのプロポや定義集と同じような試みである。たとえば、次のような一節がある。

「私たちはきっと、言うほど他人に興味がない」(「フェイスブック」)
「アイロニーは『やられたらやりかえす』ための武器ではない。むしろ逆に『やられている』状況を味わいつくすための、自己本位の道具だ」(「アイロニー」)
「表現が進歩しなければいけない理由の一つは、飽きるからだ」(「発泡酒」)
「表現において『分かる』『分からない』の区別などは、わりとどうでもいいことだ。分かるも分からないも、表玄関の話であって、言葉にならないものは、いつも、裏口を開けて勝手に入ってくるから」(「あふれる」)
上田は「あふれる」の文章の最後に次の俳句を引用している。

遅き日の手にうつくしき海の草  田中裕明

現代川柳についても「成分表」のスタイルで何か書いてもらえないかと思って、上田に原稿を依頼したことがある。「川柳スパイラル」2号に掲載された「成分表『声』」というエッセイで、そこで取り上げられたのは次の句だった。

その森にLP廻っておりますか   石田柊馬

私が本書『成分表』に少し不満なのは、帯に「『あたしンち』の共作者にして俳人、漫画家のオットでもある著者の日常と思索」あることだ。私にとって上田信治は「漫画家のオット」ではなくて「俳人・上田信治」である。
上田信治句集『リボン』(邑書林)から抜き出しておこう。

朝顔のひらいて屋根のないところ
鶏頭に西瓜の種のやうな虫
中くらゐの町に一日雪降ること
紅葉山から蠅がきて部屋に入る
絨毯に文鳥のゐてまだ午前
夢のやうなバナナの当り年と聞く
山にいくつ鹿のさびしい鼻のある

意味性と作意に満ちた現代川柳の書き方とは異なるが、ふつうなら見過ごしてしまうような情景を言葉で言い留める上田独自の世界である。私には波多野爽波の俳句のよさがよく分からないのだけれど、例えば空なら空について、何かの言葉を当ててみることによって、初めてここはこんな場所だったのかと気づく、と上田は述べている(「似合う」)。引用されているのは爽波の次の句である。

冬の空昨日につづき今日もあり  波多野爽波

句集『リボン』が出たとき「あとがき」も評判になった。上田はこんなふうに書いている。
「さいきん、俳句は『待ち合わせ』だと思っていて。
言葉があって対象があって、待ち合わせ場所は、その先だ」
「せっかくなので、すこし遠くで会いたい」
「いつもの店で、と言っておいて、じつはぜんぜん違う店で。
あとは、ただ感じよくだけしていたい」
『リボン』の栞は中田剛、柳本々々、依光陽子が書いていて、柳本は上田の句「今走つてゐること夕立来さうなこと」に注目している(「今、走っている」)。

2018年3月に「信治&翼と語り尽くす夕べ」というイベントが大阪・梅田で開催されて、上田信治と北大路翼という異色の顔合わせだった。語られた内容はもう忘れてしまったが、屍派の誰かが酔って床に転がっているなど、濃くて衝撃的な集まりだった。