9月28日(土)15:00~17:00、梅田蔦屋書店で「現代川柳と現代短歌の交差点」というイベントが開催される。歌人2名と川柳人2名によるトークに簡単な川柳句会とサイン会が付く。岡野大嗣・なかはられいこ・平岡直子・八上桐子という珍しい顔ぶれで、司会は小池正博。梅田蔦屋書店ではこれまでもさまざまなトーク・イベントが実施されてきたが、川柳が加わっての開催ははじめてとなる。
すでに旧聞に属するが、6月25日~7月7日に東京・高円寺で『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(ナナロク社)の展覧会があった。
私は連句協会理事会に出席のため7月5・6日に東京にいたが、時間の都合がつかずに会場へ行くことができなかったのは残念だった。ネット情報では、歌集に掲載された全217首とともに、詩人・谷川俊太郎の詩、小説家・舞城王太郎による小説、マンガ家・藤岡拓太郎によるマンガなど、コラボ作品が展示されたということだ。
この歌集は木下龍也と岡野大嗣がそれぞれ男子高校生に成り代わって、7日間を短歌で描いた、役割詩による物語だが、興味深いのはその7日間が7月1日~7日であって、展覧会の開催と重なることである。
よく知られている歌集だが、二人の作品を何首か引用しておこう。
まだ味があるのにガムを吐かされてくちびるを奪われた風の日 木下龍也
この夏を正しい水で満たされるプールの底を雨は打てない
ぼくはまたひかりのほうへ走りだすあのかみなりに当たりたくって
近づいて来ているように見えていた人が離れていく人だった 岡野大嗣
本当に言いたいことがひとつだけあるような気があると思います
自販機で何か一匹出てきました持ち帰ったら犯罪ですか
岡野は現代川柳にも理解のある歌人のひとりである。
特に飯田良祐の川柳作品を評価して、ネットで推していただいたことがある。それで2016年7月に「飯田良祐句集を読む集い」を開催したときに、岡野をゲストに招いて話をしてもらった。そのとき岡野が挙げた飯田良祐作品は次のようなものである。
下駄箱に死因AとBがある 飯田良祐
バスルーム玄孫もいつか水死体
ポイントを貯めて桜の枝を折る
母の字は斜体 草餅干からびる
吊り下げてみると大きな父である
「飯田さんのことは、イラストレーターの安福望さんに教えてもらって知りました。飯田さんの句が孕んでいる、早退の帰路にガラ空きの電車から見る夕焼けのような痛みに強く惹かれます」と岡野は語っている。
なかはられいこ句集『脱衣場のアリス』(北冬舎)はもう手にはいらないのかと聞かれることがあるが、もう一冊も余分がないそうで、古本とかアマゾンで買うしかない。
この句集は2001年4月発行で、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社、2000年7月)とともに現代川柳が話題になる契機となった。「WE ARE!」3号(2001年12月)に掲載された「ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ」という句は現在でもしばしば取り上げられている。
『脱衣場のアリス』の巻末対談「なかはられいこと川柳の現在」には石田柊馬・倉本朝世・穂村弘・荻原裕幸が参加していて、この時点における短歌と川柳の相互認識を浮き彫りにするものとなっている。特に「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」というなかはらの句に対する短歌側と川柳側の評価の違いは両ジャンルの考え方の差を如実にあらわしていたと記憶している。
その後、なかはらは「ねじまき」句会を発足させ、現在「川柳ねじまき」は5号まで刊行されている。また、『15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房)の編集もなかはらの大きな仕事である。
あいさつの終わりにちょっとつける雪 なかはられいこ
おい森田、そこが夏だよ振りぬけよ
サボテンに赤い花咲くそうきたか
平岡直子は「率」の活動のほか『桜前線開架宣言』(左右社)の収録作品でも注目された。
彼女の批評の冴えは昨年連載の「日々のクオリア」(砂子屋書房)で認められ、最近では短歌同人誌「外出」に参加している。
平岡も現代川柳と交流のある歌人のひとりで、「川柳スパイラル」東京句会にも何度か参加し、実際の句会・実作を通じて交流がある。「川柳とは何か」という抽象的な議論ではなくて、実作を通じて川柳の手ざわりや特性を語り合うことのできる段階にきているのだ。瀬戸夏子と平岡直子、我妻俊樹などの川柳作品集『SH』は文フリでも販売され、川柳としてクオリティの高いものになっている。
蟻の巣に蟻のサクセス・ストーリー 平岡直子
口答えするのはシンクおまえだけ
さかさまの壺が母系にふさわしい
魔女のおふたりご唱和ください
いいだろうぼくは僅差でぼくの影
すぐ来て、と水道水を呼んでいる
雪で貼る切手のようにわたしたち
星の数ほど指輪のいやらしい用途
八上桐子句集『hibi』についてはこの欄で何度も紹介したが、句集を発行したあと八上はさらに活動領域を広げている。八上桐子、牛隆佑、櫻井周太による川柳と短歌と詩のユニット、フクロウ会議が結成され、最初の作品集『蕪のなかの夜に』が8月末には発行されるという。葉ねかべには現在、八上と升田学のコラボが展示中である。
句集『hibi』は広く話題になり、増刷もされたので、周知のことだろうが、何句か掲載しておく。
そうか川もしずかな獣だったのか 八上桐子
くちびると闇の間がいいんだよ
ふくろうの眼に詰めるだけ詰めて
向こうも夜で雨なのかしらヴェポラップ
歩いたことないリカちゃんのふくらはぎ
その手がしなかったかもしれないこと
藤という燃え方が残されている
からだしかなくて鯨の夜になる
以上四人の表現者たちが短歌・川柳について語り合うことになる。どういうことになるかは当日のお楽しみ。第一部はトーク、第二部は短時間だが川柳句会も行われる。事前投句作品をパネラーが選句して講評する予定。
参加申し込みは梅田蔦屋書店のホームページから。9月28日までにイベントがいろいろあるので、すぐには該当ページが出てこないかもしれないが、9月の分をクリックすればこのイベントが出て来るはず。申し込みのときに、よろしければ雑詠一句を投句してください。念のため、蔦屋書店のアドレスは次の通り。
https://store.tsite.jp/umeda/event/humanities/7751-1431560626.html
2019年8月17日土曜日
2019年8月11日日曜日
地域川柳史への試み
「川柳スパイラル」6号は「現代川柳の縦軸と横軸」という特集で、藤本秋声「京都柳壇伝統と革新の歴史」、桒原道夫「『川柳雑誌』発刊までの麻生路郎」を掲載している。現代川柳の通史はほとんど見られず、地域に特化した川柳史となると斎藤大雄『北海道川柳史』など少数のものしか思い浮かばない。もちろん『番傘川柳百年史』『麻生路郎読本』『札幌川柳社五〇年史』など結社を中心としたものはまとめられており、各地の結社誌にはその地域の川柳史が掲載されているのかも知れないが、なかなか管見に入らない。「川柳カード」8号(2015年3月)には浪越靖政「北海道川柳の開拓者たち」を掲載し、各地域の川柳史に繋げたかったが、あとが続かなかった。現代川柳は通時的・共時的にとらえる必要があると私は思っていて、そのことによって川柳人それぞれの「いま」(現在位置)が自覚されることになる。
藤本秋声は「京都番傘」に所属、個人誌「川柳大文字」を発行し、京都の柳社と柳誌、川柳家列伝などを連載している。「川柳大文字」についてはこの時評でも紹介したことがある(2018年2月25日)が、川柳史の掘り起こしとして貴重な作業であり、「川柳スパイラル」に寄稿をお願いしたところ、さっそく原稿を送っていただいた。ところが、彼は6月に急逝された。4月の「筒井祥文を偲ぶ会」では短時間だったが言葉を交わしたのに、思いがけないことだった。彼の残した仕事に改めて向きあいたいと思っている。
藤本の原稿は次のように書き出されている。
「京都は伝統と革新が共存する町と言われてきた。伝統と革新は対立したものとして捉えがちだが、両者は密接に関係し合い文化は成長発展する。川柳も例外ではない」
「伝統と革新」という捉え方は今日ではあまり使われなくなったが、川柳史を整理するときには必要な視点である。
関西の新川柳(近代川柳)は大阪の小島六厘坊からはじまるが、斎藤松窓(六厘坊の学友)や藤本蘭華などが京都における草創期の川柳人である。大正期に入り「京都川柳社」が創立され、以後「平安川柳社」による統合まで、京都柳壇の本流となる。「京都番傘」は昭和初期に創立され、紆余曲折を経て現在に至る。藤本は伝統系・革新系のさまざまな柳社と川柳誌の消長を丁寧に記述している。
私が特に興味をもったのは、川井瞬二を中心とする戦前の革新系の川柳人の動向である藤本はこんなふうに書いている。
「舜二は伝統川柳からの脱却を訴え、詩性川柳を唱えた。舜二の試みはまったく新しいもので『木馬』の川柳革新運動は揶揄する者、賛同する者ある中、概ね京都柳界では将来への希望として歓迎されたようだ。昭和7年『川柳街』は『木馬』『川柳タイムス』らと合併して『更生・川柳街』となり、京都川柳社、京都番傘を凌ぐ京都で最大の柳社となる。舜二は革新の先鋒となり多くの若い作家に影響を与えるが、翌年病死する」
「最も舜二の影響を受けたのは宮田(堀)豊次であった。舜二の川柳観は宮田兄弟らの『川柳ビル』に受け継がれる。戦後は新興の結社を巻き込み、昭和32年の京都柳界統合の『平安川柳社』に至る」
藤本の個人誌「川柳大文字」のすごいところは、川柳史の記述だけではなくて、そのもとになった資料(川柳誌のコピー)が添えられているところにある。以前私は堀豊次に「川柳ビル」は手元にありますかと尋ねたことがあるが、一冊も残っていないということだった。それが、藤本にもらったコピーで一部だけではあるものの、目にすることができたのは嬉しかった。
ここでは川井俊二と安平陸平の作品を紹介しておこう。陸平は「川柳ビル」同人で、33歳で夭折した川柳人である。
口笛にふと寂しさが吹けてゐる 川井瞬二
断髪のある日時計が動かない
壁にゐる俺はやつぱり一人かな
時計屋の十二時一時九時六時
戦争の悲惨さを知り恋を知り
恋人の背中をたたけば痩せてゐる五月
蜥蜴颯つと背筋に白い六月よ
子猫が足らんと親猫泣いている 安平陸平
その鞭はその鞭は我が鼻の先
蛇の舌あくまで嫌はれやうとする
大きな蜘蛛は大きな巣を作り
馬―カツと馬子を蹴るかも判らない
長い指短い指で五本ある
散る櫻私は何も思はない
次に大阪の川柳史に移ろう。
桒原道夫の文章は次のように始まっている。
「麻生路郎は、社会を対象とする『川柳雑誌』を大正13年2月に発刊し、川柳の社会化に邁進した川柳人である。本稿では、『川柳雑誌』を発刊するまでの路郎の歩みを、路郎が関わった雑誌や人物を通して概観する」
川柳塔社からは『麻生路郎読本』がまとめられているが、『麻生路郎読本』については2010年11月12日の時評で取り上げている。
桒原の原稿は麻生路郎の交友関係をたどることによって、大阪川柳史をカバーするものとなっている。地域川柳史といっても、大阪・京都・神戸は影響しあっており、人的交流も分けられない面がある。斎藤松窓の名は藤本と桑原の文章の両方に出てくる。
大阪の川柳史は比較的なじみのあるもので、川上日車や木村半文銭は私好みの作家である。
桒原の引用している作品を挙げておく。
マツチ擦つてわづかに闇を慰めぬ 青明
堪へ難し野に入り森を出て又野 半文銭
よりかゝる鉄柵に湧く淋しさよ 路郎
日曜を秋となり行く日のさびし 五葉
鐘の音に夏と秋とが離れゆく 由三
戀せよと薄桃色の花が咲く 龍郎
龍郎は岸本水府。引用句に「淋しさよ」「さびし」などの語が出てくるのは、主観句の時代だったからだろう。
日車と半文銭は、大正12年2月、「小康」を発刊する。路郎も誘われたが、断っている。桑原がその理由を挙げている部分が興味深い。
・「雪」「土團子」「後の葉柳」と雑誌を出して失敗した苦痛を繰り返したくない。
・川柳を知っているという社会の一部の人達を相手にして雑誌を出すことは不賛成である。
・短歌や俳句の域にまで芸術的価値を認めさせるべく、川柳を知らない人に川柳を読ませる必要がある。
・芸術的なものを残そうとするなら、日車、半文銭、森田森の家、路郎の四人だけの作品を発表する雑誌でよい。
・立場の違う人まで引き込んで「小康」を発刊するのは、結果が分かっているので、行動を共に出来ない。
以上、藤本と桒原の文章によって京都と大阪における近代川柳史を見てきたが、関西に限っても結社と川柳誌の興亡はより多岐にわたっている。ベテランの川柳人は手持ちの客観的資料に基づいて記録を残しておく必要があるし、若き研究者による近現代川柳史の探求が待ち望まれている。
藤本秋声は「京都番傘」に所属、個人誌「川柳大文字」を発行し、京都の柳社と柳誌、川柳家列伝などを連載している。「川柳大文字」についてはこの時評でも紹介したことがある(2018年2月25日)が、川柳史の掘り起こしとして貴重な作業であり、「川柳スパイラル」に寄稿をお願いしたところ、さっそく原稿を送っていただいた。ところが、彼は6月に急逝された。4月の「筒井祥文を偲ぶ会」では短時間だったが言葉を交わしたのに、思いがけないことだった。彼の残した仕事に改めて向きあいたいと思っている。
藤本の原稿は次のように書き出されている。
「京都は伝統と革新が共存する町と言われてきた。伝統と革新は対立したものとして捉えがちだが、両者は密接に関係し合い文化は成長発展する。川柳も例外ではない」
「伝統と革新」という捉え方は今日ではあまり使われなくなったが、川柳史を整理するときには必要な視点である。
関西の新川柳(近代川柳)は大阪の小島六厘坊からはじまるが、斎藤松窓(六厘坊の学友)や藤本蘭華などが京都における草創期の川柳人である。大正期に入り「京都川柳社」が創立され、以後「平安川柳社」による統合まで、京都柳壇の本流となる。「京都番傘」は昭和初期に創立され、紆余曲折を経て現在に至る。藤本は伝統系・革新系のさまざまな柳社と川柳誌の消長を丁寧に記述している。
私が特に興味をもったのは、川井瞬二を中心とする戦前の革新系の川柳人の動向である藤本はこんなふうに書いている。
「舜二は伝統川柳からの脱却を訴え、詩性川柳を唱えた。舜二の試みはまったく新しいもので『木馬』の川柳革新運動は揶揄する者、賛同する者ある中、概ね京都柳界では将来への希望として歓迎されたようだ。昭和7年『川柳街』は『木馬』『川柳タイムス』らと合併して『更生・川柳街』となり、京都川柳社、京都番傘を凌ぐ京都で最大の柳社となる。舜二は革新の先鋒となり多くの若い作家に影響を与えるが、翌年病死する」
「最も舜二の影響を受けたのは宮田(堀)豊次であった。舜二の川柳観は宮田兄弟らの『川柳ビル』に受け継がれる。戦後は新興の結社を巻き込み、昭和32年の京都柳界統合の『平安川柳社』に至る」
藤本の個人誌「川柳大文字」のすごいところは、川柳史の記述だけではなくて、そのもとになった資料(川柳誌のコピー)が添えられているところにある。以前私は堀豊次に「川柳ビル」は手元にありますかと尋ねたことがあるが、一冊も残っていないということだった。それが、藤本にもらったコピーで一部だけではあるものの、目にすることができたのは嬉しかった。
ここでは川井俊二と安平陸平の作品を紹介しておこう。陸平は「川柳ビル」同人で、33歳で夭折した川柳人である。
口笛にふと寂しさが吹けてゐる 川井瞬二
断髪のある日時計が動かない
壁にゐる俺はやつぱり一人かな
時計屋の十二時一時九時六時
戦争の悲惨さを知り恋を知り
恋人の背中をたたけば痩せてゐる五月
蜥蜴颯つと背筋に白い六月よ
子猫が足らんと親猫泣いている 安平陸平
その鞭はその鞭は我が鼻の先
蛇の舌あくまで嫌はれやうとする
大きな蜘蛛は大きな巣を作り
馬―カツと馬子を蹴るかも判らない
長い指短い指で五本ある
散る櫻私は何も思はない
次に大阪の川柳史に移ろう。
桒原道夫の文章は次のように始まっている。
「麻生路郎は、社会を対象とする『川柳雑誌』を大正13年2月に発刊し、川柳の社会化に邁進した川柳人である。本稿では、『川柳雑誌』を発刊するまでの路郎の歩みを、路郎が関わった雑誌や人物を通して概観する」
川柳塔社からは『麻生路郎読本』がまとめられているが、『麻生路郎読本』については2010年11月12日の時評で取り上げている。
桒原の原稿は麻生路郎の交友関係をたどることによって、大阪川柳史をカバーするものとなっている。地域川柳史といっても、大阪・京都・神戸は影響しあっており、人的交流も分けられない面がある。斎藤松窓の名は藤本と桑原の文章の両方に出てくる。
大阪の川柳史は比較的なじみのあるもので、川上日車や木村半文銭は私好みの作家である。
桒原の引用している作品を挙げておく。
マツチ擦つてわづかに闇を慰めぬ 青明
堪へ難し野に入り森を出て又野 半文銭
よりかゝる鉄柵に湧く淋しさよ 路郎
日曜を秋となり行く日のさびし 五葉
鐘の音に夏と秋とが離れゆく 由三
戀せよと薄桃色の花が咲く 龍郎
龍郎は岸本水府。引用句に「淋しさよ」「さびし」などの語が出てくるのは、主観句の時代だったからだろう。
日車と半文銭は、大正12年2月、「小康」を発刊する。路郎も誘われたが、断っている。桑原がその理由を挙げている部分が興味深い。
・「雪」「土團子」「後の葉柳」と雑誌を出して失敗した苦痛を繰り返したくない。
・川柳を知っているという社会の一部の人達を相手にして雑誌を出すことは不賛成である。
・短歌や俳句の域にまで芸術的価値を認めさせるべく、川柳を知らない人に川柳を読ませる必要がある。
・芸術的なものを残そうとするなら、日車、半文銭、森田森の家、路郎の四人だけの作品を発表する雑誌でよい。
・立場の違う人まで引き込んで「小康」を発刊するのは、結果が分かっているので、行動を共に出来ない。
以上、藤本と桒原の文章によって京都と大阪における近代川柳史を見てきたが、関西に限っても結社と川柳誌の興亡はより多岐にわたっている。ベテランの川柳人は手持ちの客観的資料に基づいて記録を残しておく必要があるし、若き研究者による近現代川柳史の探求が待ち望まれている。
2019年8月2日金曜日
「川柳カモミール」第3号
青森県八戸市で発行されている川柳誌「カモミール」(発行人・笹田かなえ)のことは創刊号のときに紹介したが、このほど第三号が発行された。三浦潤子・守田啓子・細川静・滋野さち・笹田かなえの各20句に吟行の記録が付く。また、一句評を羽村美和子と飯島章友が書いている。結社ではなく、数人のグループによる川柳の発信として注目され、いま川柳の世界でどのような作品が書かれているかを知る手がかりとなる。以下、五つの観点から紹介してみたい。
1 私性の表現
夏の私はスイカとキミで出来ている 三浦潤子
私のふちにご注意こわれます 守田啓子
僕が子宮にいたころの話だよ 細川静
ベンガラ塗って下さい 私の骨らしく 滋野さち
わたしにはりんごをくれるひとがいる 笹田かなえ
「私性川柳」という言い方がいまどのような範囲で使われているか分からないが、「私」の表現はかつて現代川柳の一角を占めていた。作者の生活や人生の直接的表白として重視されていたのである。ただ、「私」の表現といってもそのカバーする領域は広いから、日常生活の一場面における感慨からはじまり、病気や貧困などの深刻な苦悩の表現、心の深部へ向かう探求、「虚構の私」を用いた作品に至るまで、さまざまなレベルが考えられる。掲出の作品が従来の境涯句としての「私」をどのように乗り越えているかが読みどころだろう。
一人称の「私」や「僕」が頻出するのは現代川柳の特徴のひとつだが、「私」にもさまざまなニュアンスがある。作者自身と重なるような私小説的「私」は本誌ではもはや見られない。
2 ペアの思想
樹木希林と内田裕也とまぜご飯 三浦潤子
枝垂れ桜だからセクハラじゃないから 守田啓子
抱いていたのは女だったか火蛾だったか 細川静
名月やレトルトですかナマですか 滋野さち
カラスウリ熟れたか指狐泣いたか 笹田かなえ
AとBという二つのものが対になっている表現も現代川柳ではよく見られる。これを私は「ペアの思想」と呼んでいる。何と何をペアにするか。また、「AですかBですか」という川柳ではよく使用される文体をどのように崩してゆくのか。そういう観点か読むと「AだからBじゃないから」という文体には新鮮味があった。いずれにしてもAとBの取り合わせに飛躍感がないとおもしろくなくなる。
3 批評性
文民統制出来ても怖いミルクチョコ 滋野さち
てぶくろ買いにシリアに行ったままの子は
王子の陰謀油まみれで漏れてくる
五人の中でもっとも批評性のある作者が滋野さちだ。ここでいう「批評性」とは「社会性」ということで、時事川柳の文芸性をどのように維持するかという課題に向き合うことになる。鶴彬の名を挙げるまでもなく、社会性は川柳の本道のひとつだ。
滋野は「川柳スパイラル」6号のゲスト作品でも、次のような作品を発表している。
まっさきに巧言令色と叫ぶ 滋野さち
恩赦かな車の傷が治っている
爆買いのステルス一機竜宮へ
4 ことば遊び
ヤリイカまいかユリイカの川上弘美 守田啓子
リンゴゴリララジオここからは侵入禁止 守田啓子
これがこぶしのこぶしなんだというこぶし 笹田かなえ
いささかのいさかいあって午後の坂 笹田かなえ
従来の現代川柳では「狂句の否定」の歴史から「ことば遊び」が忌避されてきたが、最近では言葉のおもしろさを主とする作品も書かれるようになった。
語頭韻や脚韻、尻取りなどは雑俳の手法だが、これを遊戯的なものとして排除することは、逆に川柳を痩せたものにしてしまうことになる。
三句目は漢字を使って書くと「これが辛夷の拳なんだという小節」とでもなるのだろうか。
5 詩的飛躍の現在
飛びますか摺ますか 冬 守田啓子
スサノヲノミコト重機のアーム 夏 笹田かなえ
ひんやりと桃の果肉が喉へ そして 三浦潤子
ヒトになる途中で産まれたの あたし 三浦潤子
一字あけの部分に飛躍があるはずである。守田の句の「冬」は二字あけ、笹田の句の「夏」は一字あけとなっている。守田は空白部分の距離感を視覚化したいのだろう。
三浦の句の「そして」「あたし」のような書き方も川柳ではよく見かける。題詠で「そして」とか「きっと」とかいうような題が出ることもある。ただ、こういう書き方が思わせぶりであったり、問いにたいする答えであったり、季節の状況説明であったりすると、それが効果的かどうかは疑問だ。
私はこういう一字あけには否定的である。
マヨネーズの逆立ち もうちょっと生きる 三浦潤子
この一字あけが成功しているかどうかは微妙だ。
「マヨネーズの逆立ち」という物に即して「もうちょっと生きる」という思いを陳べていて、両者がぴったり重なるところが共感されたり、もの足りなかったりする。意地悪な読者には多少のズレがあったほうがおもしろい。
詩的飛躍は一字あけなしでも表現できるはずである。
青空の痛み外反母趾の青 守田啓子
この夜の向こうに鶴の恩返し 笹田かなえ
1 私性の表現
夏の私はスイカとキミで出来ている 三浦潤子
私のふちにご注意こわれます 守田啓子
僕が子宮にいたころの話だよ 細川静
ベンガラ塗って下さい 私の骨らしく 滋野さち
わたしにはりんごをくれるひとがいる 笹田かなえ
「私性川柳」という言い方がいまどのような範囲で使われているか分からないが、「私」の表現はかつて現代川柳の一角を占めていた。作者の生活や人生の直接的表白として重視されていたのである。ただ、「私」の表現といってもそのカバーする領域は広いから、日常生活の一場面における感慨からはじまり、病気や貧困などの深刻な苦悩の表現、心の深部へ向かう探求、「虚構の私」を用いた作品に至るまで、さまざまなレベルが考えられる。掲出の作品が従来の境涯句としての「私」をどのように乗り越えているかが読みどころだろう。
一人称の「私」や「僕」が頻出するのは現代川柳の特徴のひとつだが、「私」にもさまざまなニュアンスがある。作者自身と重なるような私小説的「私」は本誌ではもはや見られない。
2 ペアの思想
樹木希林と内田裕也とまぜご飯 三浦潤子
枝垂れ桜だからセクハラじゃないから 守田啓子
抱いていたのは女だったか火蛾だったか 細川静
名月やレトルトですかナマですか 滋野さち
カラスウリ熟れたか指狐泣いたか 笹田かなえ
AとBという二つのものが対になっている表現も現代川柳ではよく見られる。これを私は「ペアの思想」と呼んでいる。何と何をペアにするか。また、「AですかBですか」という川柳ではよく使用される文体をどのように崩してゆくのか。そういう観点か読むと「AだからBじゃないから」という文体には新鮮味があった。いずれにしてもAとBの取り合わせに飛躍感がないとおもしろくなくなる。
3 批評性
文民統制出来ても怖いミルクチョコ 滋野さち
てぶくろ買いにシリアに行ったままの子は
王子の陰謀油まみれで漏れてくる
五人の中でもっとも批評性のある作者が滋野さちだ。ここでいう「批評性」とは「社会性」ということで、時事川柳の文芸性をどのように維持するかという課題に向き合うことになる。鶴彬の名を挙げるまでもなく、社会性は川柳の本道のひとつだ。
滋野は「川柳スパイラル」6号のゲスト作品でも、次のような作品を発表している。
まっさきに巧言令色と叫ぶ 滋野さち
恩赦かな車の傷が治っている
爆買いのステルス一機竜宮へ
4 ことば遊び
ヤリイカまいかユリイカの川上弘美 守田啓子
リンゴゴリララジオここからは侵入禁止 守田啓子
これがこぶしのこぶしなんだというこぶし 笹田かなえ
いささかのいさかいあって午後の坂 笹田かなえ
従来の現代川柳では「狂句の否定」の歴史から「ことば遊び」が忌避されてきたが、最近では言葉のおもしろさを主とする作品も書かれるようになった。
語頭韻や脚韻、尻取りなどは雑俳の手法だが、これを遊戯的なものとして排除することは、逆に川柳を痩せたものにしてしまうことになる。
三句目は漢字を使って書くと「これが辛夷の拳なんだという小節」とでもなるのだろうか。
5 詩的飛躍の現在
飛びますか摺ますか 冬 守田啓子
スサノヲノミコト重機のアーム 夏 笹田かなえ
ひんやりと桃の果肉が喉へ そして 三浦潤子
ヒトになる途中で産まれたの あたし 三浦潤子
一字あけの部分に飛躍があるはずである。守田の句の「冬」は二字あけ、笹田の句の「夏」は一字あけとなっている。守田は空白部分の距離感を視覚化したいのだろう。
三浦の句の「そして」「あたし」のような書き方も川柳ではよく見かける。題詠で「そして」とか「きっと」とかいうような題が出ることもある。ただ、こういう書き方が思わせぶりであったり、問いにたいする答えであったり、季節の状況説明であったりすると、それが効果的かどうかは疑問だ。
私はこういう一字あけには否定的である。
マヨネーズの逆立ち もうちょっと生きる 三浦潤子
この一字あけが成功しているかどうかは微妙だ。
「マヨネーズの逆立ち」という物に即して「もうちょっと生きる」という思いを陳べていて、両者がぴったり重なるところが共感されたり、もの足りなかったりする。意地悪な読者には多少のズレがあったほうがおもしろい。
詩的飛躍は一字あけなしでも表現できるはずである。
青空の痛み外反母趾の青 守田啓子
この夜の向こうに鶴の恩返し 笹田かなえ
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