2011年10月28日金曜日

岩井三窓著『川柳読本』を読む

9月22日、「番傘」川柳に大きな足跡を残した岩井三窓(いわい・さんそう)が亡くなった。89歳。インターネットで追悼文を探してみると、歌人の川添英一の「短歌日記」があった。「川柳のカリスマ、岩井三窓さん亡くなる」(2011年9月25日)という文章で、川添による弔辞が掲載されている。川添は岩井三窓の隣人で、親子のような付き合いだったという。私は生前の三窓とは一度しか会ったことがなく、しかもその場では三窓と知らずに、後になってからあれが岩井三窓だったかと気づいたというにすぎないから、追悼をする資格などないが、彼の著書『川柳読本』『川柳燦燦』が手元にあるので、静かに『川柳読本』(1981年9月発行、創元社)を読んでみたい。

『川柳読本』は句文集なので、句集とエッセイが収録されている。まず、句集の方から見ていくが、『三文オペラ』(昭和34年)は岩井三窓の代表的句集である。

医者の手の冷たさ胸をさぐられる
目の赤いことにも訳のある兎
綴方貧しき父は母を打つ
ターミナル幾人虹に気付きしや
走れどもキリン孤独にたえられず

一句一句が安心して読めるというか、川柳というものはこういうものだったんだなあということを改めて思う。時代性というものがあるから、たとえば、いまどきの女性に「貧しき父は母を打つ」などの行為をするととんでもないことになるだろう。いま同じような書き方をしようとは思わないが、ここにはかつて存在したはずの川柳の実体が確かに感じられる。作者が結婚する以前の作品を集めた句集なので、独身者の孤独と感慨がベースにある。「三文オペラ」というタイトルが、ブレヒトの戯曲とは無関係に、効果的である。

本閉じてロマンを酒にもとむべき
愛ゆらぐよしなき人の一言に
或る時は娶らぬひとの名を数え
北国を発って以来の人嫌い
飲みながら話そうつまり恋なんだ
たこ焼でのどやけどしたひとりもの

今回読み直してみて、当然のこととはいえ、『三文オペラ』以後にもよい句が多かった。たとえば、次のような句。

あわてたな枕を二度も踏んで行く
苦労せぬから人形に皺がなし
大阪を出ればはったり効かぬ人
君は知るまい吊り天井はいまもある
犬がどうして缶詰をあけますか
こころまで言わねばならぬことになる

本書にはまた大量のエッセイが収録されていて、その二三を紹介したい。三窓はこんなふうに書いている。

「作句力に修練がいるように、鑑賞力にも、それ相応の修練を要するのは、当然のことなのである。人の句を読む技術というものは、自分の句を作る技術などに比べて、数倍の努力が必要なのである。私には分らない、だから難解句、誰にでも分る句を、というのは、すこしせっかちであり、怠惰でもある」(「もののあわれ」)

「リズムが悪い、五七五でない、七七五である。と、真っ先に指摘する人がいます。その人は、まず五七五、それが第一条件である、と言います。公衆電話で十円硬貨を何度入れても、素通りして落ちてくることがあります。それは、0.何ミリかの磨滅か、歪みによるものです。句を読むときにも、まず、五七五のゲージを持って選別する。それは人間でなく、機械なのです。機械的人間には、人のこころが解る筈がありません」(「夢と現実」)

いま読んでも妥当な意見であり、伝統川柳にときどき見られる偏狭さがない。
いちばん印象的なのは「丸い豆腐」という断章である。本書を読むたびに、いつもこの部分に目が止まるのだ。

「先年、旅をして丸い豆腐を売っているのをみてびっくりしたことあった。豆腐というものは四角いものだと信じきっていた私には、それはまったく驚異そのものだった」

川柳人たちのエピソードも満載されている。伝統派の川柳人の中で私は大山竹二に関心があるので、やはり竹二の挿話が興味深かった。
あるとき摂津明治と大山竹二が並んで座り、三窓がその隣になった。二人の会話はおもしろく、ほとほと感心するものであったという。明治がいま作ろうとしている句材の情景を語りはじめた。友達が二階借をしている。主人公がそれを訪れる。ぎしぎし軋む段梯子、古びた仏壇がちらりと見える。夜具の一部も見える…
その時、突然、竹二がその話を遮った。「あかん、やめとけ」
温厚な竹二にしては珍しく乱暴な口調である。
すると、明治は竹二の一言で、親に叱られた子供のように、あっさりと話題を変えたというのだ。摂津明治という川柳人をこれまで私は知らなかったので、特に印象深い。

崖がさと崩れて土工胸を病み    摂津明治
馬われを視つむ馬には孤独なき
廃業の心傾く灯を洩らし

大山竹二は『三文オペラ』の句集評でこんなふうに書いている。「番傘の中にあって手足が伸びきっている人はたんとない。三窓さんはその少ないうちの一人でありましょう」
三窓は岸本吟一・阪口愛舟らと「河童倶楽部」を作り、「番傘」の中でも独自の動きを見せた。「番傘」の内部でさまざまな流れがあったことは、当時この大結社の可能性を示すものであったと思われる。川柳がひとつの実質をもっていた時代であった。

2011年10月21日金曜日

柳俳の違いはいかに説明されてきたか

川柳と俳句の違いについて、川柳入門書ではこれまでどのように説明されてきたのだろうか。川柳と俳句の本質的な差異を追求する「柳俳異同論」を蒸し返そうというのではない。今回はごく浅い意味で入門書的な説明を一瞥してみようというのである。

昭和30年前後に六大家による川柳入門書が相次いで刊行された。
川上三太郎著『川柳入門』(昭和27年、川津書店)では「川柳とは原則として人間を主題とする十七音の定型詩である」と定義されている。「原則として人間を主題とする」(内容)と「原則として十七音の定型詩」(形式)をふまえ、「原則」以外の「例外」も許容するものとなっている。また、「川柳と俳句の相違はどこにあるか」の章では「川柳は人間的、俳句は自然的」としたうえで、芭蕉の句に対して自句を川柳の実例として挙げている。

名月や池をめぐりて夜もすがら    芭蕉
名月にちちははならぶ久しぶり    三太郎

三太郎は、まず「川柳とは何か」を大雑把に説明する。続いて「俳句との違い」に触れ、前句付から発生した川柳の歴史を述べる。川柳入門書にはこのようなパターンが多い。

次に、岸本水府著『川柳読本』(昭和28年、創元社)では「川柳は俳諧から出ているだけに、俳句に似ているが、俳句が花鳥諷詠、季感(四季の感じ)を主としているに対し、川柳は社会、風俗を詠む人間諷詠というべき立場をもっている」(「川柳一分間手引」)という。また、「俳句と川柳」の章では、「川柳は、人間を描くのですが、俳句は自然を描くのです」として、川柳は自然を描いても、それを人間の世界におくと述べている。具体例として、「俳句では、相撲(人間)をみても、自然の風物として、秋の景物に入れ、川柳では桜(自然)をみても、人間との交渉を考えます」と説明されている。「もともとこの二つの短詩型文学は同じ俳諧からほとんど時を同じうして別々の道を進むようになった、いわば双児のようなものですから、生まれた時から似ていたのであります」
水府は、俳句は「花鳥諷詠」、川柳は「人間諷詠」と分けたうえで、表現領域の拡大によって柳俳の境界があいまいになってきていることについても述べている。初心者向けの説明として妥当なものではないかと思われる。

続いて、麻生路郎著『川柳とは何か―川柳の作り方と味い方』(昭和30年、学生教養新書・至文堂)を読んでみよう。「川柳とは人間及び自然の性情を素材とし、その素材の組合せによる内容を、平言俗語で表現し、人の肺腑を衝く十七音字中心の人間陶冶の詩である」というのが麻生路郎の定義である。「川柳と俳句の相違点と類似点」という章では、「川柳と俳句とどう違うかと云うことをよく訊かれる。それは形式が同じ十七音字であるから門外にいる人達には判別が出来難いからであろう」と述べたあと、「形式から云えば川柳も俳句も同じく十七音字中心の短詩であるが、用語が俳句の方は韻文であり、川柳の方は主として平言俗語であるため一読した時に、形式まで違っているのではなかろうかと思うほどに違った感じがする」「川柳は俳句にくらべて表現上かなりに自由ではあるが、無制限に自由ではない」「川柳と俳句とは共に一行詩であるが、俳句は『名月や』と『池をめぐりてよもすがら』のように二つの観念に分けることが出来るが、川柳は『母親はもつたいないがだましよい』のように詠まれて二つの観念に別けることが出来ないから、俳句は二呼吸詩であり、川柳は一呼吸詩であると云うように分類している人もあるが、これとて例外もあるので、そういう違いもあると云うに過ぎない」「俳句は叙情詩であるが、川柳は単なる叙情詩ではなく批判詩である。時に多少の例外はあるとしても、この物尺によれば俳句と川柳との区別はそうむずかしいものではない」などと説いている。
このあたりから異論が出てくることが予想されるが、路郎が比較しているのは定型派の俳句と定型派の川柳であって、自由律や無季俳句は考慮に入れていない。「十七音字」というのは字数のことではなく「十七音」の定型という意味だろう(たぶん「十四字・七七句」と区別する意味で使っている)。俳句は韻文、川柳は俗語というのも注釈がいるところだろう。一歩踏み込むとさまざまな議論になるだろうが、川柳入門書としてはけっこう突っ込んだところまで書いているという印象を受ける。路郎の説明の要諦は「川柳は批判詩」というところにあり、この方が「人間陶冶の詩」というモラルをふくんだ定義よりもすっきりするのではないだろうか。

以上、六大家の中から三人の本を取り上げたが、それ以後のものとして斎藤大雄著『現代川柳入門』(1979年、たいまつ社)を見てみよう。「川柳の定義」で斎藤は次のように述べている。「川柳とは短詩型文芸のひとつの形式に与えられた呼称で、その形は五音、七音、五音、すなわち十七音字を基本として成り立っているということがいえる。その内容は『可笑しみ』『穿ち』『軽味』を主流とした人間探求詩、または批判詩であるといわれている」
斎藤は麻生路郎の定義をほぼ踏襲、また内容的には三要素を受け入れている。そしてサトウ・ハチローの詩を引用している。

五・七・五でよむ
悲しみをよむ
さびしさをよむ
母の声をよむ
友だちの姿をよむ
待ちどうしい おやつをよむ
はらぺこをよむ
ふくれるしもやけをよむ
風にひりつくあかぎれをよむ
ありのままをよむ
五・七・五でよむ

人間の「喜怒哀楽」に限定されているが、サトウの詩は初心者にも分かりやすいだろう。渡辺隆夫の「何でもありの五七五」を連想させる。
斎藤は川上三太郎の『川柳入門』を踏襲して、「名月や池をめぐりて夜もすがら」(芭蕉)と「名月にちちははならぶ久しぶり」(三太郎)を例に挙げて次のように説明する。俳句の「名月」は句の主題であるが、川柳の「名月」は句の主題ではなくて副題であり、「ちちははならぶ」の方が主題なのだという。「川柳は人間を主題にしているが、俳句は自然を主題としている。ここに川柳と俳句の主な相違がある」
次の例はややレベルアップしている。

行きくれてなんとここらの水のうまさは   山頭火
行倒れどろどろ水に口をやり        剣花坊

「両方の句とも咽喉の渇いた状態を詠っているのであるが、俳句は感覚的に捉えているのに対し、川柳は主知的、生命的に捉えているのである。現代川柳と俳句の根本的な違いは、川柳の主知性と俳句の感覚性にあるといえよう」
このあたりになると必ずしも対照性が明確ではない。自由律俳句・無季俳句と川柳を比べると、両者の違いを言語化するのは難しくなる。

それでは、現在ただいま書かれている入門書では、柳俳の違いはどのようにとらえられているだろうか。サンプルとして南野耕平著『川柳という方法』(2010年、本の泉社)を取り上げてみよう。「川柳と俳句の違い」の章ではこんなふうに書かれている。
「これから川柳を作ろうとされる人は、川柳と俳句の違いについて、あまり強く意識する必要はないと私は思います。極論をすれば、アナタが作った五・七・五が、この時代に川柳と呼ばれるものであろうが、俳句と呼ばれるものであろうが、構わないと思っています。『わたしの五・七・五と思える手応えある作品』が出来ること。これが一番重要で、あとはその作品を川柳の場で評価してもらうか、俳句の場で評価してもらうかの違いだけの話だと思います」
作品が第一で、川柳の場で評価されるか(その場合は「川柳」と呼ばれる)、俳句の場で評価されるか(その場合は「俳句」と呼ばれる)は次の問題であるというのだろう。南野は「川柳と俳句のボーダーライン」の項ではもう少し深めて、「こちらからあちら側に掴みに行く方向」が川柳、「あちらからこちらに来るものを受け止める方向」が俳句だと述べている。「こちら」とは作り手の立ち位置、「あちら」とは表現の対象を指すようだ。

以上、柳俳の違いがこれまでどう説明されてきたのかを見てきた。川柳人は意外に川柳を定義することに熱心だったのではないだろうか。これまで柳俳の違いを説明することを求められてきたのは川柳人の側であって俳人側ではなかった。俳人は自己のアイデンティティについて問われることはなかった(例外的存在として日野草城の場合が思い浮かぶ)。
川柳人は「川柳と俳句の違い」の説明を求められてきただけではない。もうひとつ、「川柳と狂句との違い」を説明することを負わされてきた。むしろこちらの方に精力を注いできたと言ってもよい。時代の変わり目には常に「川柳性」についての問い直しが生じる。川柳の先人たちはむしろこの問いによく応えてきたのではないだろうか。ただ、その発信が微弱だったために、一般読書人には届きにくかったのである。
川柳には川柳のアイデンティティを問いつめる他者が周囲にいろいろ存在する。川柳は他者を取り込みつつ、自らの存在感を高めていかなくてはならない。ジャンルを純粋化すればするほど、逆にそのジャンルの免疫力は弱まっていくことになる。ジャンルの純粋化ではなく、形式の恩寵に安住できない「川柳」のプラス面をそろそろ声高に唱えてもよい時期が来ているのではないだろうか。

2011年10月14日金曜日

北海道川柳史

チャタレイ裁判などで知られる伊藤整はかつて一時代を代表する文学者であった。彼の評論『小説の方法』は受験国語の定番であって、高校生のとき『火の鳥』を読みながら、これが組織と人間論というものかと思った記憶がある。伊藤はジョイスの翻訳など先端的な仕事をしていたが、文学的出発は『雪明りの路』という詩集である。

ああなぜ わたしひとり
かうしてひつそり歩いてゆくのだらう。
道は
落葉松のみどりに深くかくれて
どうなつて行くか解りはしない。
何処かの谷間には
すももが 雪のやうに咲き崩れてゐたが
人ひとりの影もなかつた。
それに こんなに空気の冷えてゐるのは
きつと雨あがりなのだらう。
なぜ 私ひとり かうして
鶯の聲ばかり こだまする
海のやうな 野から林へと歩いてゆくのだらう。
みんなは
なぜ私をこんな遠い所までよこしたのだらう。
ああ 誰も気づかない間に
私はきつと
この下で一本の蕗になるのだ。 (伊藤整「蕗になる」)

ところが、伊藤の友人の妹に左川ちかという女性詩人がいて、伊藤よりもっと進んだ詩を書いていた。伊藤の詩が近代詩だったのに対して、左川は現代詩を書いていたのだ。左川は24歳で夭折する。

馬は山をかけ下りて発狂した。その日から彼女は青い食物をたべる。
夏は女達の目や袖を青く染めると街の広場で楽しく廻転する。
テラスの客等はあんなにシガレットを吸ふのでブリキのやうな空は
貴婦人の頭髪の輪を落書してゐる。
悲しい記憶は手巾のやうに捨てようと思ふ。恋と悔恨とエナメルの
靴を忘れることが出来たら!
私は二階から飛び降りずに済んだのだ。
海が天にあがる。 (左川ちか「青い馬」)

伊藤整は小樽高等商業学校の出身であるが、上級に小林多喜二がいた。伊藤整の『若き詩人の肖像』に次のような一節がある。伊藤が図書館で本を借りようとすると、必ず図書カードに小林の名が記入されている。小林に先に読まれることによって、その本のエッセンスが抜き取られてしまっているように伊藤には感じられた。嫉妬のあまり伊藤は小林の名を覚えてしまったというのだ。ここには伊藤整の小林多喜二に対する屈折した感情がうかがえる。

昨年、小樽文学館へ行く機会があり、田中五呂八の写真パネルを見て、感慨にふけった。昭和3年9月23日、小樽・丸高屋における『新興川柳論』出版記念大会の写真である。五呂八の短冊2句も展示されていた。

神が書き閉づる最後の一頁    田中五呂八
人の住む窓を出て行く蝶一つ

さて、「バックストロークin名古屋」で選者をつとめた浪越靖政氏から斎藤大雄著『北海道川柳史』(北海道新聞社)を送っていただいた。北海道の川柳についてはそれほど詳しくはないが、新興川柳運動が小樽から始まったことなどから、関心をもっていた。本書によって、北海道とひとくくりにはできず、札幌・小樽・函館・旭川などそれぞれの川柳活動があることについて認識を新たにした。

新興川柳以前の北海道の川柳はどのような状態だったのか。
尾藤三柳著『川柳入門―歴史と鑑賞―』(雄山閣)の大正期のページには、明治43年に最初の川柳会(札幌)が開かれた北海道の創刊誌ラッシュは、ことにめざましいものがあった、として、「仔熊」「アツシ」「柳の華」「筒井筒」「草の露」「鏑矢」などの川柳誌の名が挙げられている。これらは一体どのような雑誌だったのだろう。『北海道川柳史』によって概略を素描してみたい。

北海道で「新川柳」の名称で句が募集されたのが明治41年(1908)のこと(それまでは「狂句」として募集されていた)。「北海タイムス」(現北海道新聞)1月11日付で懸賞「新川柳」が募集され、1月24日に入選句が発表された。課題は「芸者」。天位を取ったのが西島○丸(にしじま・れいがん)で、彼は布教僧として北海道に来ていた。また、「小樽新聞」が「狂句」を廃して「川柳」という名称を使ったのは明治42年8月のことである。小樽新聞の選者として佐田天狂子が知られている。
大正3年9月、川柳誌「仔熊」がはじめて刊行された。「仔熊」は残念ながら創刊号だけで休刊となったが、やがて川柳誌「アツシ」が刊行され、札幌川柳界の充実期を迎える。

「アツシ」は大正6年5月創刊。札幌川柳会とオホツク会が団結し、盟主に神尾三休(かみお・さんきゅう)をいただいた。「発刊に当りて」の神尾三休の文章は格調高いものである。

「川柳は最も入り易くして、最も達し難い詩である。往時の堕落した川柳に慣れた無理解な世間は旧態依然、川柳を遊戯文学視し、其作家を侮蔑の眼を以て見てゐる。何といふ悲しいことだろう。アツシは此の難しい川柳を学び、真面目に之を研究し、而して我が北海の柳壇を開拓すると共に、広く天下に呼号しなければならぬ貴く重い使命を有って生れたのだ」

三休は川柳の文学性を高め、北海道を理想の川柳王国にすることを夢見ていた。そのため井上剣花坊を招待して北海道川柳大会を開催しようとする。それは創刊後一年あまりの「アツシ」にとって大きな企画であった。
大正7年8月、北海道川柳大会が札幌で開催された。しかし、降り続く雨のためか、会場を急遽変更したためか、参加者は31名と少なかった。剣花坊は彼一流の大きな声で絶叫するように講演をおこなった。この講演が三休たちアツシの同人に大きな悲しみと怒りを与えたという。講演内容が低俗であって、三休の理想とは遠かったのである。
ここで三休はひとつの決意をする。「アツシ」を終刊して、新誌「鏑矢」を創刊するのだ。「吾々は深く感ずる処あってアツシ会の大改革を断行する。敢て混沌たる川柳界を廓清しやうと云ふのではなく、唯吾々の結束を一層鞏固にして、威武に屈せず、富貴に淫せざる理想の川柳王国を造らんが為めである」(「アツシ」終刊)この神尾三休は本書のなかで、最も私の心に残った川柳人である。

耕して心の草を取り続け     神尾三休

三休の片腕的存在が河内岐一で、川柳誌「わがまま」「筒井筒」を発行する。

大正7年、札幌での川柳大会を終えた井上剣花坊は函館に向かう。函館での剣花坊歓迎大会は盛会であった。これを契機として函館川柳界は大きく発展する。ところが、この大会終了後、世話役の亀井花童子(かめい・かどうじ)と山村都ね尺が衝突して、花童子は函館川柳会を脱退し、川柳誌「忍路(おしょろ)」を創刊する。まことに川柳とは人間臭いものだ。

父さんかなと破れから子が覗き    亀井花童子

こんな調子で書いていても切りがないので、次に北海道の川柳人の作品を幾つか挙げてみる。

座布団にのこる乙女の膝は春     田中五呂八
ふるさとではもう死んでいる売春婦  高木夢二郎
金屏風今日は酔ってはならぬ酒    直江無骨
干鱈の骨の凍ててる北の冬      斎藤大雄
うそぶいて砂絵のまちに来てしまう  桑野晶子
喪服から蝶が生れる蛇が生れる    細川不凍
人生へあてる定規の右ひだり     北夢之助

『北海道川柳史』は斎藤大雄の残した大きな仕事である。これほどの本を書いた彼がなぜ晩年に「大衆川柳論」を唱え、「川柳は幕の内弁当のようなものである」などの俗論を繰り返したのか、私には理解できない。そこで手元にある『現代川柳入門』(1979年11月発行、たいまつ社)も読んでみた。そこには「川柳の作句リズムは五・七・五を基本形にしたもので、この基本を修得しなければ、他のリズムでいきなり詠っても説得力が弱くなってしまう。だが、五・七・五のリズムは、あくまでも基本形であって、絶対に基本を守らなければならないという理由はない」とあって、木村半文銭の句も掲載されている。高橋新吉の詩や雑俳も取り上げられていて、広い視野から川柳を論じていることが分かる。「あとがき」で大雄は次のように書いている。

「川柳界は動いている。最近、その動きは激しく、音をたてはじめてきた。これは川柳の歴史のなかのひとつの過程であり、さけることのできない流れでもある。そのなかにあっての『現代川柳入門』は、歴史の流れのなかからとらえていかなければ、明日の川柳を見失ってしまう結果を招く恐れがある」

現在の時点から見ても説得力のあるスタンスであり、実に正統的な考え方のように思える。新興川柳の遺産を評価する点において、私は人後に落ちないつもりである。ただ、私は木村半文銭を評価し、斎藤大雄は田中五呂八を評価する。五呂八の新興川柳を評価することと川柳大衆化論の奇妙な結びつき。川柳人にとって、「大衆」とは一種の魔物であり躓きの石であるのかも知れない。

2011年10月7日金曜日

そのリンゴは本当にリンゴなのか

大阪市立美術館で「岸田劉生展」が開催されている。劉生といえば麗子像で、会場には麗子をモデルにした絵がいっぱいであった。劉生の自画像など見せられても嬉しくないが、麗子には顔がほころぶのである。菊慈童麗子、二人麗子、麗子曼荼羅、寒山風麗子まである。特に寒山風麗子には驚いた。道釈人物画によく出てくる「寒山拾得」の寒山である。髪は蓬髪で爪は長くのび、不気味に笑っている。麗子は劉生によって寒山に見立てられたのである。この父は娘に対して何ということをするのだろう。麗子はモデルとして箱の上に数時間も坐らされ、身動きすることも許されない。娘の苦痛に父親の画家が気づくことはなかった。けれども、麗子は性格がゆがむこともなく、『父・岸田劉生』(中公文庫)という本を書いている。
劉生の描いた「林檎三個」という油絵がある。この絵について麗子はこんなふうに書いている。

「林檎三個」という絵は机の上に三つの林檎が並んでいる絵で、構図からいえば何のへんてつもないものであるが、この絵は病と闘う父が、自分の一家三人の姿を林檎に託して描いたときいているので、なお私にはそんな気がするのかも知れないが、この絵をみていると三つの林檎は互いに、いたわりあい、愛の歌をつつましく奏で、たがいに耳を澄ませてその歌にきき入っているような気がする。(『父・岸田劉生』)

これは私にとって軽いショックであった。
リンゴはリンゴであるはずだ。セザンヌのリンゴはリンゴそのものだろう。
けれども、麗子にとってリンゴが三人の家族に見えてしまうということは、麗子の側にそう見るだけの文脈(コンテクスト)があったからである。

さて、もう10月に入っているのだが、今回は9月に送っていただいた諸誌を逍遥してみる。まず、「ふらすこてん」17号(9月1日発行)から。

愛に至らず猫は臨時の筆なりき    きゅういち
少年琴になりたりし日傘廻しをり

鑑真和尚のクローンではないか    井上一筒
四十個入りのお安い海だった

馬になるものを拡げる午後一時     筒井祥文
情報のひとつに入れる鮭の貌

現代川柳の世界では、猫が「臨時の筆」であったり、鑑真和尚がクローンであったりする。目に見える現実とは次元の異なる言葉の世界である。一方で、筒井は同誌に「番傘この一句」を連載して、伝統川柳の評価を試みている。この号では「銃身を磨くと浮いてくる血糊」(隅田外男)を取り上げ、「鳥獣を愛でながら殺すという矛盾を犯すのが人間。その矛盾を具象として見事に取り出している」と評している。また「番傘」誌が震災句で溢れていることについて、「如何せん『恐怖、悲惨、絶句、命の重さ、想定外、牙』等の言葉の繰り返しだ。つまり震災に対する感想、もしくは新聞の見出し止まりなのだ」と述べている。そんな中で筒井が評価するのは次のような句である。

文明を飲んで吐き出す大津波    松岡真子
なにもかも流され残ったのは明日  小寺竜之助

「津波の街に揃ふ命日」(『武玉川』)を越える句は、なかなか書けそうもない。震災の当事者、仙台の川柳人たちはどのような作品を書いているだろう。「杜人」231号(9月25日発行)から。

戦争を日に晒しても晒しても       加藤久子
天の邪鬼同士で顔が伸びている

拾ってきたものでワタシが出来上がる   広瀬ちえみ
きつねさんたぬきさんがいて波が立つ

水面のどれも花びらではないの      佐藤みさ子
土蔵崩れて千年分のきものたち
無いと言え目に見えぬから無いと言え

私は「消える川柳」としての震災句を否定するものではないが、直截的な震災句より、このような作品の方が射程距離は長いだろう。
川柳誌ではないが「かむとき」25号(9月20日発行)。平成3年に「日本歌人」の有志が「鬼市」の誌名で創刊した。表紙題字は山中智恵子。途中で誌名を変更して本号に至る。編集発行人・佐古良男。本号から樋口由紀子が参加して、「短歌誌」から「詩歌文藝誌」を目指すという。

綿菓子は顔隠すのにちょうどいい    樋口由紀子
ああそれは借りっぱなしの算数ドリル
白菜に豚肉挟むときトラブル

うずくまる癖がなければ死んでいた   猫麻呂
横縞の服のひとだけ救われる
「あっ今日は」とつぶやき消えた友の霊

樋口は「なくもんか」というエッセイも書いている。「なくもんか」という映画の話からはじめて、「川柳は喜怒哀楽をよく題材にする。特に『哀』は人の心を捉えやすく、容易く感情移入できるので、共感と感動を呼び込むキーワードである」と述べる。映画「なくもんか」がありきたりのパターンの筋に怪優・阿部サダオを放り込むことによって支離滅裂化したように、川柳の言葉と言葉との関係性の上に「阿部サダオ」が登場してほしい、と述べている。

暗がりに連れていったら泣く日本  樋口由紀子

マグリットの絵に「これはリンゴではない」というのがある。カンヴァスにはまぎれもなくリンゴの絵が描かれている。けれどもタイトルには「これはリンゴではない」と書かれている。シニフィアンとシニフィエとの不一致。いろいろな表現があるものだ。