2022年7月22日金曜日

小池康生句集『旧の渚』

俳誌「奎」には若手俳人の作品が掲載されているので、現代俳句の動向を知るのに便利だ。22号から同人三人の句を紹介する。

沈丁花病みても夜行性の母      中山奈々
行く春のあなたの声に角砂糖

煙ることにはじめから なっていた  細村星一郎
大木にいくつか窓がある恐怖

抜け落ちて五人囃子のだれかの鬢   木田智美
鳥ぐもり二次発酵の生地と寝る
ルピナスは摘めないそんな資格はない

「奎」の発行人・小池康生と知り合ったのは神戸で開催された「俳句Gathering」のイベントのときだった。2012年から3年連続で年末に神戸で開催されたもので、「俳句で遊ぼう」というコンセプトのもと、シンポジウムのほか地元アイドルとの句会バトルなどがあって、賑やかなイベントだった。全3回の日程と会場は以下の通り。

第一回 2012年12月22日 生田神社
第二回 2013年12月21日 生田神社
第三回 2014年12月20日 柿衞文庫

それぞれこの「川柳時評」で取り上げていて、第一回については2012年12月28日の時評、第二回については2013年12月27日の時評、第三回については2014年12月26日の時評で紹介している。小池康生と私が共演したのは第2回のときで、クロストーク「俳句vs川柳~連句が生んだ二つの詩型~」というコンテンツで、小池正博・小池康生のW小池による対談と連句実作のワークショップが行われている。事前の打ち合わせで、三宮センター街の地下の居酒屋に入り二人で飲んだことも思い出になる。
その後、小池康生は「奎」を創刊し、関西の若手俳人の求心力になった。第一句集『旧の渚』(ふらんす堂)は2012年4月に発行されているから、この時評は10年遅れの鑑賞となる。
『旧の渚』は「旧の渚」「風の尖」「新の渚」「風の骨」の四章にわかれているが、私のおもしろいと思った句は「旧の渚」の章に多い。

家族とは濡れし水着の一緒くた

家族とは何かという問いを洗濯機のイメージでとらえている。洗濯するときは親とは別々に洗ってほしいという向きもあるが、濡れた水着でも一緒くたに洗うのが家族だという。そうあってほしいという願望なのかも知れないが、句集の巻頭にこの句が置かれているのには作者の思い入れがあるのだろう。

滝壺を出て水音をやりなほす

滝壺の水音に最初・途中・最後という区別があるわけではないだろうが、滝の音をもう一度はじめからやり直そうという気持ちは、写生というより比喩的な状況を言い当てているようにも思われる。そういう気持ちになるのは、滝壺のなかにいたときではなく、滝壺を出たあとで振り返る余裕があるからなのだろう。

星飛んで人は痩せたり太つたり

流れ星と地上に生きる人間との対比。

竜胆のどこが嫌ひか考へる

どこが好きなのかではなく、嫌いなところを考えている。誰でも竜胆が好きとは限らなくて、好き嫌いは個人的なものである。ひとつの対象のなかには好きな部分があっても嫌いな部分も必ずあるから、そのことに意識的であるのは大人の態度と言うこともできる。

生まれつき晩年である海鼠かな

海鼠の句では「階段が無くて海鼠の日暮かな」(橋閒石)が有名だが、この句では日暮を通り越して晩年に至っている。それも生まれたときから晩年だと言うのだ。

セーターに出会ひの色の混ぜてあり

セーターに何を混ぜるか。デザインや模様や心情など、さなざまな発想が可能だろう。ここでは色を選んでいるが、「出会いの色」というかたちで人間関係のニュアンスを表現している。

蝶の名を黄泉の入口にて忘れ

現世で覚えた蝶の名を黄泉にゆく入口で忘れてしまう。次元の異なる世界では価値観も経験も通用しなくなる。現実世界で蝶の名が価値であるかどうかも疑問である。

生活の隣に枝垂桜かな

生活と枝垂桜がやや対立的にとらえられている。生活と枝垂桜は無関係ではないはずだが、現実の生活は力闘的なものだから、枝垂桜のことばかり考えて生活するわけにもいかない。けれども生活の隣には枝垂桜の姿が常に見えているのだ。
他の章からも何句か引用する。

かいつぶり沈みし空を見にゆけり
水仙に途切れとぎれの風の尖
きつかけはパセリが好きといふところ
筋書きのくるくる変はる水遊び

「竜胆のどこが嫌ひか考へる」「きつかけはパセリが好きといふところ」このような狭間で生活に自足するわけでもなく、文学に逃避するわけでもなく、折り合いをつけながら僕らは生きていくのだろう。

2022年7月15日金曜日

平岡直子句集『Ladies and』

朝日新聞の「短歌時評」に山田航の「歌人が川柳に驚く訳」が掲載されたのは2021年4月18日だった。山田は「最近、若手歌人のあいだに現代川柳ブームが訪れている」と述べ、その理由として次のようなことを挙げている。「短歌の中の〈私〉と作者が同一視される近代的な読まれ方に窮屈さを覚えていた現代の歌人たちにとって、それをすでに軽々と乗り越えていた川柳のメタ・フィクションは魅力的なものとして映ったのだろう」
この流れのなかで、川柳の読者にとどまらず、現代川柳の実作を発表する作者が増えてきている。平岡直子句集『Ladies and』(左右社)はその良質の成果である。
私は平岡の川柳句集を「歌人が書いた川柳」というような捉え方をしておらず、本格的な川柳句集だと思っているのだが、ここでは歌人が表現手段のひとつとして川柳を選んでいる潮流のなかで取り上げておく。
私が平岡直子の川柳をはじめて読んだのは『SH』(2015年5月)に掲載された20句だった。『Ladies and』では「12人」の章に収録されている。平岡の川柳歴が7年というのはこの時から数えてのことだろう。私は「12人」の章では「金色に泣かないで知らない女の子」という句が好きなのだが、なかはられいこがすでに句集の栞で取り上げているので、ここでは他の何句かを引用しておく。

一年とはロックスターが12人   平岡直子

一年12か月を12人のロックスターに置き換えている。具体名は挙げられていないので、読者は一月から十二月までお好みのシンガーの名を当てはめてみるのも一興だろう。「~とは」という題を呈示しておいて、それに想定外のものを取り合わせるのは川柳の基本形である。

右胸のあなたが放火したあたり
食べおえてわたしに踏切が増える

一句目は恋句とも読めるし、悪意やルサンチマンの方向でも読める。二句目はすこし手がこんでいて、食べる前に踏切があるのではなくて、食べ終えてから踏切が増えていることに気づいている。踏切は常にあったのだが、それが状況によって増えていくのだ。「踏切」は意味や隠喩として読まれやすい言葉だが、「食べおえて」との関係性で安直な意味に陥っていない。「あなた」「わたし」という人称代名詞が使われているところに、うっすら短歌的な匂いがする。

殴られた地球最後のつけまつげ

殴られたのは地球なのか、つけまつげなのか。あるいは両方なのか。地球がつけまつげをしているような変なイメージも思い浮かんで、おもしろい句だ。

階段になれたら虹をこぼれたい      平岡直子
サルビヤ登る 天の階段 から こぼれ  細田洋二

どちらも不思議な句だが、細田洋二が二つの文脈を混交させて詩的なイメージを生み出しているのに対して、平岡の方は「私」または作中主体の意志や願望をあらわしている。「虹」と「サルビヤ」のイメージも異なる。

平岡直子の句集については、今後いろいろ語られることと思うが、紀伊國屋国分寺店で開催された「こんなにもこもこ現代川柳」フェアにフリーペーパーとして我妻俊樹の『眩しすぎる星を減らしてくれ』にも触れておこう。これは川柳作品100句が収録された冊子である。

沿線のところどころにある気絶  我妻俊樹
足音を市民と虎に分けている
いいんだよ十二時ばかり知らせても
おにいさん絶滅前に光るろうか

佐伯紺はネットプリント「Ink」vol.2(7月1日発行)で川柳を発表している。

花びらにまぎれて強くなり方を    佐伯紺
仕上げてもいいよ五月の霜柱
かき揚げのアイデンティティ・クライシス
試供品で暮らして家が旅になる
目には目の歯にははるかなパンまつり

橋爪志保のネットプリント「千柳」vol.1から。

天使にはFのコードと寝煙草を    橋爪志保
かわいそう鳥の翼の列島は
「嫌なこと次々と思い出しマーチ」

7月2日に青森の「おかじょうき川柳社」の主催で「川柳ステーション2022」が開催された。句会は「祭」の題で、なかはられいこ、二村典子、瀧村小奈生が選をしている。すでにおかじょうきのホームページなどで入選句が発表されているので、何句か紹介しておく。

こんにゃくを担ぐよ貧血のぼくら     中山奈々
長靴が東映まんがまつり型        西沢葉火
ニンニクの芽が出て祭.com        笹田かなえ
「つらいのはきみだけじゃない」を流鏑馬 はちご仔拾
シャーマンはタナカさん似で憑依中    四ツ谷いずみ

彦坂美喜子は「井泉」104号の「評論の世界を拓く若い歌人たち」でこんなふうに書いている。「作品は批評にさらされ、論じられなくては、意味がない。特に若い世代の作品を論じる若い批評家が必要である。最近、短歌総合誌などに若い歌人の座談会や、評論などを読む機会が増え、教えられることが多々ある」 若い世代の作品を先行世代が論じたり評価したりすることがあってもいいと思うが、若い世代の感性は若い世代でないとわからない部分もあり、現代川柳においても新たにあらわれてきている表現を同時代の感性で論じてゆくことが必要になってくることと思う。

2022年7月9日土曜日

滋野さちと兵頭全郎―「現実」と「拡張現実」―

第12回高田寄生木賞は千春の「川柳とパートナーと私」が受賞した。この賞は野沢省悟の編集発行している「触光」が募集しているもので、当初は川柳作品が対象だったが、第7回から「川柳に関する論文・エッセイ」を募集するようになった。千春のエッセイは川合大祐句集『スロー・リバー』や千春自身の『てとてと』出版の経緯を述べたものである。選考は野沢自身が行っているが、傾向としては評論よりもエッセイに重心が置かれているようだ。千春の文章は「触光」74号に掲載されているので、そちらをお読みいただきたい。私もこの賞に二度応募したことがあり、今回は第8回(2018)のときに書いたものを再録しておきたい。少し以前の文章なので若干古くなっている部分があるが、基本的な問題意識はいまも変わっていない。

滋野さちと兵頭全郎―「現実」と「拡張現実」―

時代の変化が激しい。
グローバル化、金融資本主義、ネオリベなどによって格差や紛争が世界規模で広がっている。現実の急激な変化についてゆくことはむつかしい。また、インターネットやSNSの普及によって、従来の書物を中心とした教養体系が崩壊し、サブカルチャーだと思っていたコミックやアニメはいまや若者の常識となっていて、コミックやゲームの話についてゆくことが困難になった。
それではデジタルや仮想現実の世界だけが優位なのかというと、一方で現実回帰も進んでいる。たとえば、CDではなくてLPレコードが静かなブームになっているという。ジャケットを含め「情報」ではなくて「物」としての所有感を得ることができるからだそうだ。アイドルも以前のようなテレビやレコードで遠くから眺め憧れている存在ではなくて、ライブアイドルは握手したり実際に触れあったりすることができる存在になっている。虚構ではなくて現実の時代がやってきたのである。
文学は現実から独立した虚構の世界を構築するものだと私は思っていた。川柳が文学であるならば、川柳においても作者や環境から自立したテクストとして作品を作り、読むべきである。これがテクスト論の立場である。けれども、現実は虚構を超えて予想できないスピードで進んでいる。いま世界の各地で戦争や飢餓や病気によってたくさんの人が死んでいる。日本に住んでいるとそのような現実を直接目にする機会はない。けれども、インターネットやSNSからは悲惨な現実の映像が流れ込んでくる。ネットやSNSは現実から逃避する働きをすることもあるが、拡大された現実と向き合うツールでもある。現実は目に見えるものだけではなく、その上にバーチャルな情報を重ねることによって拡大される。このような現実を「拡張現実」と呼ぶ。
このような時代に川柳は現実と虚構をどうとらえ直すべきだろうか。本稿では滋野さちと兵頭全郎という二人の対極的な川柳人の作品を取り上げて考えてみたい。この二人に何の関係があるのかと思われる向きもあるだろう。けれども、この二人の対極的な表現者の作品を通して現代川柳の最先端の課題をさぐろうというのが本稿のテーマである。

ソマリアのだあれも座れない食卓 滋野さち

「杜人」創刊七十周年記念大会(2017年11月)での作品である。兼題「席」、選者は高橋かづき。
ソマリアは日本からは遠い国で、内戦とか海賊とか断片的な情報は入ってくるものの、この国の現実に向かいあう機会はほとんどない。けれども、滋野は川柳のかたちでソマリアの現実と向き合った。焦点は食卓にしぼられている。食卓に家族や人々が集まって食事をする。それは人間として生きる基本的に必要な情景である。まず食事ができるということが生存の出発点なのだ。けれども、ここでは食卓に誰も座れない。不在なのである。戦争や飢えや社会の混乱がその背後に提示され、「だあれもいない」という不在が強調される。
ソマリアに実際に行って現実を見ることはむつかしい。だから、川柳人は想像力をはたらかせて現実をとらえようとする。日本のテレビでは放映されなくても、海外のメディアやSNSなどによって、現代ではいろいろな映像を見ようとすれば見ることができるだろう。新聞の見出し程度のことばで残酷な現実をとらえようと思えれば、安易で薄っぺらな表現になってしまう。滋野さちはそのような陥穽におちいることなく、時事的なテーマを書くことのできる数少ない川柳人である。
滋野さち句集『オオバコの花』(2015年5月、東奥文芸叢書)から彼女の作品を抜き出してみよう。

川 流れる意味を探している   滋野さち
米を研ぐ昨日も今日も模範囚
落人の家系どこまで不服従
十本の指を何回生きるのか
相討ちの顔で朝食食っている
杉はドーンと倒れ私のものになる

滋野は川に託して流れる意味、人生の意味を問うている。米を研ぐ毎日を「模範囚」ととらえる感覚は、毎日の生活に対する違和感から生じるのであり、「不服従」の感覚をどこかで抱えていることになる。
日常の中に生きながら、日常を超える生の意味を問う、それが滋野の「私性」である。現実に埋没するのではなく、現実を見据え、現実を超える視線が社会や世界に向けられるとき、滋野の批評性が発揮されることになる。

雨だれの音が揃うと共謀罪    滋野さち
親知らず抜くと国家が生えてくる
戦争は卵胎生ときどきアルビノ
ペットです軍用犬に向きません
自分史が有害図書の棚にある
ステルスが来るってよゲンパツ飛び越えて

時事句は「消える川柳」と呼ばれることが多い。詠まれた時点ではインパクトがあるが、時間の経過とともに古くなり、忘れられてゆく。射程距離のきわめて短い作品になってしまうのだ。時事を詠みながら、普遍性をもつ作品を書くのは至難の業だといえる。
滋野の時事句が普遍性をもつのは、それが作者の「私性」とわかちがたく結びついているからだろう。第三者的な視点ではなく、滋野は「私」の視点から出発する。

着地するたび夢精するオスプレイ 滋野さち

この句が発表されたとき、私は秀句として注目した。人によっては「オスプレイ」の「オス」を「メス」に引っ掛けた言葉遊びと捉えて否定的に見る向きもあるかもしれない。けれども、私はそういうふうには受け取らなかった。一見するとオスプレイという凌辱する側の視点から書かれているように見えるが、この句は凌辱される側から書かれているのだ。受身形で書くとインパクトが弱くなるので能動形で書かれているが、決してオスプレイの側に立った句ではない。冷徹に詠むことによって基地の不条理さが際立つところに政治性と文学性を両立させる滋野の到達点がある。
このような滋野さちの川柳とは対極的な作品を書いているのが兵頭全郎である。

たぶん彼女はスパイだけれどプードル    兵頭全郎

「川柳スパイラル」創刊号(2017年11月)掲載の作品で、〈『悲しみのスパイ』小林麻美MVより〉というタイトルの十句のうちの一句である。 小林麻美は「雨音はショパンの調べ」などの曲で知られ、70年代から80年代にかけて活躍したアイドルである。全郎の句は彼女のミュージック・ビデオから連想して作った句になる。この句の作中主体である「彼女」は現実の彼女ではなく、「映像としての彼女」、「アイドルとしての彼女」である。だから、彼女がスパイであると同時にプードルであることに何の不思議もないのだ。
現実から出発するのではなくて映像などから触発されて作品を書くのは全郎のひとつの特徴である。全郎句集『n≠0 PROTOTYPE』(2016年3月、私家本工房)から何句か抜き出してみよう。

どうせ煮られるなら視聴者参加型 兵頭全郎
付箋を貼ると雲は雲でない
地球のない時代の青のインク壺
へとへとの蝶へとへとの蕾踏む
おはようございます ※個人の感想です

一句目、テレビなどの映像の世界を「視聴者参加型」と言っている。受動的に映像を見るのではなく、こちらからも参加しようというのだが、それはどっちみち煮られてしまうというペシミスティックな認識があるからだ。二句目、「雲」は「雲」であるはずなのに、付箋を貼ると別のものに変容するという。ここでは実体と名前が乖離している。三句目は「地球のない時代」に飛躍している。そんな時代にインク壺があるはずがないのだが、これは言葉のなかでだけ成立する世界である。四句目はナンセンスのようだが、「いろはにほへと」の「へと」を使った句であって、作句の出発点が現実ではなく言葉である。五句目はテレビ・ショッピングなどでよく聞くフレーズだが、「おはようございます」という挨拶さえ個人の感想に解消されてしまっている。
全郎の作品においては世界を批評する根拠である「私」というようなものはすでに解体・消失しており、むしろ「私性」というフィルターを通さないことによってとらえがたい現実の一端を切りとることに成功しているように見える。
現実を現実のままとらえる従来の方法ではすでに拡張された現実をとらえきることはできない。現実と虚構との関係は常に問われなければならないし、虚構を書けばそれですむというものでもない。変転する世界を川柳はどのように書くのかを考えるときに、滋野さちと兵頭全郎を統一的にながめる視線のなかに現代川柳の可能性があるのではないだろうか。

2022年7月1日金曜日

Z世代の川柳と短歌―暮田真名と初谷むい

暮田真名の『ふりょの星』と平岡直子の『Ladies and』が左右社から発行され、現代川柳の季節がやって来たという感じがする。これまでも先人たちの努力によって川柳は継承・発信されてきたのだが、従来の川柳界の枠を越えて現代川柳が盛り上がりを見せている。その直接的な転機となったのは2017年5月に中野サンプラザで開催されたイベント「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」かもしれない。このときの句会で私ははじめて暮田真名に出合ったのだが、参加者の中には初谷むいもいた。

東京ははんこにどと会えないのかな  初谷むい
印鑑の自壊 眠れば十二月      暮田真名

兼題は「印」。小池正博と瀬戸夏子の共選で、上掲の二句は選者二人ともに選ばれている。暮田はこの少し前に現代川柳に関心をもったようだが、このイベントに参加したときのことを次のように書いている。
「そんな折、タイミング良く瀬戸夏子と小池正博の『川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな』が開催された。後半は瀬戸、小池に加え兵頭全郎、柳本々々という四名のパネリストが、各々の選んだ現代川柳の十句をもとに現代川柳の可能性を探るという内容だった。ここで川柳の鑑賞が扱われていたことは、川柳への抵抗を軽減させてくれた。特に柳本々々のスリリングな語りに惹きつけられたことを記憶している。また、このときミニ句会のために初めて川柳を作った。ビギナーズラックというべきか、その句が瀬戸、小池の両氏に抜かれ、調子に乗って句作を続けている」(「川柳人口を増やすには」、「杜人」263号、2019年9月)
その後の暮田真名の活躍はネットや雑誌などでよく知られている。暮田の句集『ふりょの星』はZ世代の川柳句集と言われているが、それでは暮田真名のどこが新しかったのだろうか。Z世代とは1990年代半ばから2000年代はじめにかけて生まれた世代をさすようで、ネットを駆使した情報収集・発信を得意とすると言われている。暮田は川柳をはじめてから二年後の2019年に句集『補遺』(私家版)をだしているし、ネットプリント「当たり」の発行、「こんとん句会」の参加者をネットで募るなど、従来の川柳人とは異質な発信の仕方をしている。それだけに句会を主戦場とする川柳人にはまだ十分認知されていないが、『ふりょの星』がベテランの川柳人たちによってどう評価されるかは、今後のことになるだろう。
今回はそういう発信の仕方についてではなくて、暮田の作品が従来の川柳と比べてどこが新しいのかを問うことにしたい。作品の新しさにもいろいろあって、川柳とは無関係の世界からいきなり川柳の世界に登場して作品を書き出すような表現者の新しさもあれば、川柳の遺産を知悉したうえで新しい作品領域を切り開いていくような表現者もある。ここではいささか恣意的ではあるが、暮田の作品と先行世代の川柳作品とを比べてみることにしたい。

ぎゅっと押しつけて大阪のかたち 久保田紺
県道のかたちになった犬がくる  暮田真名

「かたち」を詠んだ二句。久保田紺の「大阪のかたち」は具体的には表現されていないが、「大阪のかたち」からたとえば大阪寿司のイメージを思い浮かべることができる。暮田の「県道のかたち」は具体的な像を結ばないし、ましてその犬がどんな姿をしているのか分からない。言葉だけで成立しているナンセンスな世界なのだ。

多目的ホールを嫌う地霊なり     石田柊馬
本棚におさまるような歌手じゃない  暮田真名

この二句は発想が似ている。柊馬の句には強烈なメッセージ性があり、どんな目的にでもこだわりなく対応できるような存在に対する嫌悪感が顕わである。暮田の作品ではそのような自己主張は薄められている。

さびしくはないか味方に囲まれて  佐藤みさ子
恐ろしくないかヒトデを縦にして  暮田真名

発想ではなく文体が似ている。佐藤の作品には箴言に似た普遍性を感じるのだが、暮田の句からは感覚の独自性を感じる。本来ヒトデは横なのかどうかも定かではないが、それを縦にすることが楽しいか、それとも恐ろしいか。そんなことを考えた人は今までいなかっただろう。

都鳥男は京に長居せず       渡辺隆夫
京都ではくびのほきょうを忘れずに 暮田真名

暮田の作品にはめずらしく批評性を感じる句である。渡辺隆夫は句集『都鳥』で京都を諷刺対象にしたあと、さっさと関東に帰っていった。この場合は首の補強の方が嫌味の度合いはきついかもしれない。
恣意的に二句を並べてみただけなので確かなことは言えないのだが、暮田が先行する川柳作品を読み込んでいることが感じられる。「OD寿司」は石田柊馬の「もなか」連作と比較されるだろうが、その止めの句(最後の句)は次のようになっている。

山の向こうにやさしいもなかが待っている 石田柊馬
もし寿司と虹の彼方へ行けたなら     暮田真名

連作の最後をオプティムズムでしめくくりたいという気持ちはよくわかる。けれども、「虹の彼方」は暮田にしては甘すぎる。もし、この止めの句が柊馬の句のパロディであり、そこまで意識して詠まれているとすれば相当なものだ。

初谷むいの方に話を移そう。「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」のあと、初谷は「川柳スパイラル」4号のゲスト作品に川柳10句を発表しているが、ここでは「ねむらない樹」6号に掲載された作品(川柳5句・短歌5首)のなかから二組紹介しておこう。

終末論うさぎに噛まれた跡がある
うさぎ屋さんがめっきり開店しなくなる 終末のうわさを信じてる

会いたくなるからおれは人には戻らない
変だよ 手紙も電話も手話も花火も会いたくなるからだめなんて変

初谷は川柳も書けるが、やはり歌人なのだなと思う。突き放した断言よりも「私性」の表現の方が彼女の本領なのだろう。掲出の二首は歌集『わたしの嫌いな桃源郷』では「終末概論」の章に収録されている。別の章にはこんな歌がある。

知らない町でパン屋を探すなきゃないでよかったけれどパン屋はあった 初谷むい

探しているパン屋はないならないでかまわない。けれども、あるならそれはちょっと嬉しいことだ。絶対的なものはすでになく、希望が実現することも特に期待されていない。桃源郷といえば陶淵明の「桃花源記」が有名で、李白の「桃李園」などが思い浮かぶ。文人たちは文芸の理想の場を求めたが、そのような場所は言葉の世界においても構築することがむずかしい。ユートピアとはどこにもない場所という意味だそうだ。

「川柳スパイラル」次号15号(7月25日発行予定)では暮田真名と平岡直子について特集する。『ふりょの星』句集評は我妻俊樹が執筆、一句鑑賞は柳本々々・榊原紘・笹川諒・湊圭伍・三田三郎・大塚凱・瀬戸夏子・中山奈々の8人が書いている。また、「川柳スパイラル」創刊5周年の集い(8月6日、東京・北とぴあ)では暮田と平岡の対談のほか、飯島章友・川合大祐・湊圭伍の座談会が予定されている。