遅ればせながら、「現代詩手帖」3月号を読んだ。
特集「これから読む辻征夫」。「辻征夫代表詩選」(松下育夫選)の中に入っている「かぜのひきかた」をまず引用したい。この詩は私も大好きな詩である。
かぜのひきかた 辻征夫
こころぼそい ときは
こころが とおく
うすくたなびいて
びふうにも
みだれて
きえて
しまいそうになる
こころぼそい ひとはだから
まどをしめて あたたかく
していて
これはかざをひいているひととおなじだから
ひとは かるく
かぜかい?
とたずねる
それはかぜではないのだが
とにかくかぜではないのだが
こころぼそい ときの
こころぼそい ひとは
ひとにあらがう
げんきもなく
かぜです
と
つぶやいてしまう
すると ごらん
さびしさと
かなしさがいっしゅんに
さようして
こころぼそい
ひとのにくたいは
すでにたかいねつをはっしている
りっぱに きちんと
かぜをひいたのである
詩人たちの対談でもこの詩について「こころぼそさ」に寄り添う詩として取り上げられている。辻征夫は2000年1月に亡くなっているから、すでに19年が経過したことになる。私は詩集というものをあまり買わないのだが、『俳諧辻詩集』(1996年6月、思潮社)は手元にもっている。
辻の俳句について。
行く春やみんな知らない人ばかり
噛めば苦そうな不味そうな蛍かな
《蝶来タレリ!》韃靼ノ兵ドヨメキヌ
《蝶来タレリ!》は言うまでもなく安西冬衛の韃靼海峡の一行詩を踏まえている。
「噛めば苦そうな」は室生犀星に「杏あまさうな人は唾むさうな」という句があるそうだ。
辻は「作者はじつはぼくじゃなくて猫なんだ」と言ったという。主語が省略されているときは一人称を補って読むというような「私性」のルールを蹴飛ばして、猫が蛍を噛んでいる。『俳諧辻詩集』ではこんなかたちになる。
蛍
噛めば苦そうな不味そうな蛍かな
(誰だいこんなの作ったのは
土手の野良猫です?
ま いいや
鰹節で一献さしあげたいと
そいって呼んでおいで)
短歌や俳句のような定型や韻律をもたないことが「現代詩」の誇りだった。『俳諧辻詩集』はそこから風向きがかわって、定型とのコラボが試みられはじめたころの詩集である。
「現代詩手帖」に戻ると、海外詩レポートとしてパット・ボランの俳句が紹介されている。アイルランドの詩人で、タイトルは「波のかたちの群れなす俳句」(栩木伸明訳)。ダブリン湾、ブル島にて、とある。2句だけ紹介する。
揚げヒバリ名乗り出で
早起きの虫を探す
さえずりを片耳に君は君の仕事
空っぽかよ、と見るうちに
それこそがメッセージだと気づく
光のボトル
原文は五音節・七音節・五音節で書かれた三行詩。季語はない。
「新人作品」のコーナーでは柳本々々の「おはよう」が掲載されている。
連載では外山一機が村上昭夫の俳句を、井上法子が田口綾子の『かざぐるま』(短歌研究社)を取り上げている。ここでは田口綾子の短歌の方を紹介しておく。
すきなひとがいつでも怖い どの角を曲がってもチキンライスのにおい 田口綾子
あのひとの思想のようなさびしさで月の光がティンパニに降る
あの年の冬の日、今年の夏の水 君が年下なるは変はらず
今回は引用ばかりになってしまったが、辻征夫の「かぜのひきかた」からの連想で、石原吉郎の詩を紹介して終わりにしたい。
世界がほろびる日に 石原吉郎
世界がほろびる日に
かぜをひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ
2019年3月22日金曜日
2019年3月15日金曜日
短句七七句と自由律
『芭蕉七部集』を読んでいると、はっとするほど美しい短句、思わず微笑を浮かべてしまうようなユーモラスな句に出会うことがある。たとえば次のような句である。
かぜひきたまふ声のうつくし 越人
能登の七尾の冬は住うき 凡兆
浮世の果はみな小町なり 芭蕉
こんにゃくばかりのこる名月 芭蕉
馬に出ぬ日は内で恋する 芭蕉
連句は五七五の長句と七七の短句とを繰り返す詩形だが、五七五の方は俳句や川柳として独立したが、七七句の方も一句独立して作句・鑑賞に耐えるものだろう。
七七句の美しさに注目されるのが『武玉川』である。『武玉川』は江戸座の高点付句集である。高点付句は本来連句一巻のなかの付句で、長句と短句の両方が収録されている。特に短句に注目して「武玉川調」と呼ばれることがある。「武玉川調」のなかでも、次のような句はよく知られている。
鳶までは見る浪人の夢
二十歳の思案聞くに及ばず
手を握られて顔は見ぬ物
腹のたつ時見るための海
夫の惚れた顔を見に行く
肩へかけると活る手ぬぐい
猟師の妻の虹に見とれる
この『武玉川』の七七句の美しさは近代の川柳人の注目するところとなった。川柳のフィールドでは七七句を「十四字」と呼んでいる。近代川柳における「十四字」の歴史は阪井久良岐が明治38年に柳誌「五月幟」に『武玉川』の句を抄出したことにはじまる。その翌年の明治39年、大阪では小島六厘坊が「葉柳」を刊行、大阪における新川柳の草分けとなった。久良岐が十四字を川柳の一体としたのに対して、六厘坊は別種の詩形とした点で両者の考え方は異なっている。六厘坊の周辺で十四字に熱心だったのが藤村青明である。
恋はあせたり宿直のよべ 藤村青明
恋かあらず廿五の春
闇の大幕世を覆ひゆく
六厘坊は「十四字ばかりつくる青明」とからかったという。
久良岐以後の十四字作品を次に挙げてみよう。
白粉も無き朝のあひびき 川上三太郎
はつかしいほど嬉しいたより 岸本水府
いつものとこに坐る銭湯 前田雀郎
女のいない酒はさみしき 麻生路郎
時計とまったままの夜ひる 鶴彬
クラス会にもいつか席順 清水美江
うるさいなあとせせらぎのやど 下村梵
無理して逢えば何ごともなし 小川和恵
よく「五七五の最短詩形」と言われるが、こうして見ると最短詩形は七七であると思われる。ところで、俳句のフィールドにおける七七句は自由律俳句のなかに多く存在する。自由律における七七定型である。
善哉石榴を食ひこぼし座し 中村一碧楼
酢牡蛎の皿の母国なるかな 河東碧梧桐
めしをはみをる汗しとどなり 荻原井泉水
シャツ雑草にぶっかけておく 栗林一石路
入れものがない両手で受ける 尾崎放哉
うしろすがたのしぐれてゆくか 種田山頭火
つかれた脚へとんぼとまった 山頭火
私は十年以前に十四字を作っていたことがあり、セレクション柳人『小池正博集』に実作を収録している。『蕩尽の文芸』にも十四字について触れた文章がある。最近は十四字から遠ざかっているが、本間かもせりがツイッター「#かもの好物」で七七句を募集したところ、たくさんの七七句が集まったと聞くので、この詩形に関心をもつ人は潜在的に多いと思われる。以前からのファンのひとりとして十四字のことを取り上げてみた。4月6日の「大阪連句懇話会」では連句とも関連させながら、もう少し詳しいことを話してみたいと思っている。
かぜひきたまふ声のうつくし 越人
能登の七尾の冬は住うき 凡兆
浮世の果はみな小町なり 芭蕉
こんにゃくばかりのこる名月 芭蕉
馬に出ぬ日は内で恋する 芭蕉
連句は五七五の長句と七七の短句とを繰り返す詩形だが、五七五の方は俳句や川柳として独立したが、七七句の方も一句独立して作句・鑑賞に耐えるものだろう。
七七句の美しさに注目されるのが『武玉川』である。『武玉川』は江戸座の高点付句集である。高点付句は本来連句一巻のなかの付句で、長句と短句の両方が収録されている。特に短句に注目して「武玉川調」と呼ばれることがある。「武玉川調」のなかでも、次のような句はよく知られている。
鳶までは見る浪人の夢
二十歳の思案聞くに及ばず
手を握られて顔は見ぬ物
腹のたつ時見るための海
夫の惚れた顔を見に行く
肩へかけると活る手ぬぐい
猟師の妻の虹に見とれる
この『武玉川』の七七句の美しさは近代の川柳人の注目するところとなった。川柳のフィールドでは七七句を「十四字」と呼んでいる。近代川柳における「十四字」の歴史は阪井久良岐が明治38年に柳誌「五月幟」に『武玉川』の句を抄出したことにはじまる。その翌年の明治39年、大阪では小島六厘坊が「葉柳」を刊行、大阪における新川柳の草分けとなった。久良岐が十四字を川柳の一体としたのに対して、六厘坊は別種の詩形とした点で両者の考え方は異なっている。六厘坊の周辺で十四字に熱心だったのが藤村青明である。
恋はあせたり宿直のよべ 藤村青明
恋かあらず廿五の春
闇の大幕世を覆ひゆく
六厘坊は「十四字ばかりつくる青明」とからかったという。
久良岐以後の十四字作品を次に挙げてみよう。
白粉も無き朝のあひびき 川上三太郎
はつかしいほど嬉しいたより 岸本水府
いつものとこに坐る銭湯 前田雀郎
女のいない酒はさみしき 麻生路郎
時計とまったままの夜ひる 鶴彬
クラス会にもいつか席順 清水美江
うるさいなあとせせらぎのやど 下村梵
無理して逢えば何ごともなし 小川和恵
よく「五七五の最短詩形」と言われるが、こうして見ると最短詩形は七七であると思われる。ところで、俳句のフィールドにおける七七句は自由律俳句のなかに多く存在する。自由律における七七定型である。
善哉石榴を食ひこぼし座し 中村一碧楼
酢牡蛎の皿の母国なるかな 河東碧梧桐
めしをはみをる汗しとどなり 荻原井泉水
シャツ雑草にぶっかけておく 栗林一石路
入れものがない両手で受ける 尾崎放哉
うしろすがたのしぐれてゆくか 種田山頭火
つかれた脚へとんぼとまった 山頭火
私は十年以前に十四字を作っていたことがあり、セレクション柳人『小池正博集』に実作を収録している。『蕩尽の文芸』にも十四字について触れた文章がある。最近は十四字から遠ざかっているが、本間かもせりがツイッター「#かもの好物」で七七句を募集したところ、たくさんの七七句が集まったと聞くので、この詩形に関心をもつ人は潜在的に多いと思われる。以前からのファンのひとりとして十四字のことを取り上げてみた。4月6日の「大阪連句懇話会」では連句とも関連させながら、もう少し詳しいことを話してみたいと思っている。
2019年3月8日金曜日
筒井祥文における虚と実
筒井祥文についてはこの時評でも触れたことがあるが、次の祥文論がいちばんまとまったものである。
旧稿なので、データは以前のものだが、基本的な考えは変わっていない。
初出は「MANO」17号(2012年4月)。
筒井祥文における虚と実 小池正博
1 読みの衰弱
文芸に限ったことではないが、現代日本人の読みの力は確実に衰弱している。サブカルチャーについて言うと、たとえば漫画を読むにも読解力は必要であって、コマとコマの間の飛躍を想像力によって埋めることでストーリー展開はスピード感を増すはずである。ところが、一九七十年代後半あたりから、コマとコマのつながり方が理解できないというクレームが読者から寄せられるようになったと石ノ森章太郎が嘆いているそうだ。
「こうしたコマとコマの飛躍については、過去さまざまな評論家が考察をめぐらせてきた、コマとコマの飛躍を結びつけるもの、それはマンガの読書経験の積み重ね=知覚の習い(リテラシー)であることに疑いはない。『慣れ』は、より正しい『理解』をもたらすのである」(竹内オサム『マンガ表現学入門』)
コマとコマの間に飛躍がありすぎると読者が付いてゆけない。それを補うために漫画家が説明的になると、さらに読者の想像力が鈍磨していく。この循環によって読者の読みの力は確実に落ちてゆく。
これを連句にたとえれば、前句と付句の関係がべったりと付きすぎている句(親句・しんく)が好まれ、前句から遠くに飛ぶような付句(疎句・そく)は嫌われることになる。親句・疎句はどちらが良いというような優劣ではなくて、両方とも必要なのだ。その一方しか理解できないということは、文芸・文化の幅を狭めてしまうことになってしまう。映画のカットとカットのつなげ方にも同じことが言えるだろう。
話芸である落語を聞く場合でも事態は同様である。落語家は何もかも説明するのではなくて、簡潔な言葉によって場面を聴衆に想像させる。あまりに説明過多になってしまうと聞き手は逆に退屈してしまう。特に、最後のオチの部分は短く語らなくてはいけない。長々としたオチ、説明しなければならないオチなんてオチにならないのだ。もちろん、古典落語に出てくる生活情景は現代人の生活とは随分違うから、落語家はマクラとか話の途中で周到に説明的部分を用意しておくだろう。そういうことも含めて落語の場合でも聴く力は必要なのだ。
以上のようなことを前置きとして、これから筒井祥文の川柳について語ってゆきたい。筒井祥文は京都在住の川柳人である。関西のあちこちの句会回りに明け暮れ、自身では川柳結社「ふらすこてん」を主宰する。
まず、セレクション柳人『筒井祥文集』(邑書林)から彼の代表作と思われる五句を挙げてみよう。
御公儀へ百万匹の鱏連れて
カッポレをちょいと地雷をよけながら
弁当を砂漠にとりに行ったまま
殺されて帰れば若い父母がいた
夜景へ三度「カマイタチ」と叫ぶ
このような川柳が書かれるためにはそのルーツがあるはずである。普通、川柳人には師系があって、その川柳の系譜がたどれるのだが、本稿では祥文のルーツを彼が親しんできた落語にあると見て、落語言語から彼の作品を眺めて見たい。
2 落語言語トレーニング
私は特に落語に詳しいわけではないから、まず自分自身のためにもトレーニングを必要とする。『筒井祥文集』の中からこんな句を取り上げてみよう。
有りもせぬ扉にノブを付けてきた
半分は嘘半分は滑り台
「有りもせぬ扉」にどうしてノブを付けるのかと問うことは野暮である。半分はウソ、では残りの半分の「滑り台」は何かの隠喩だと考えることもやはり野暮なことである。そもそも、ないものをあるように見せるのが落語の芸ではなかったのか。
上方落語の二代目桂枝雀は落語の本質を「緊張と緩和」ととらえ、オチを四つに分類したことでよく知られている。落語入門書には必ず紹介されている枝雀の四分類は次のようなものだ(野村雅昭著『落語の言語学』平凡社ライブラリー、による)。
①ドンデン…ウソが基調となっているが、最後にかくされていた状況があらわれ、キキテの予期していた結末と反対の方向におとすパターン。「ドンデン返し」の略。
②謎解き…ウソを現実のことのように演じ、キキテになぜそういうことがおこるのかという疑問をいだかせ、やはりウソだったとおとすパターン。
③へん…実際にあることのように演じ、話をすすめ、最後に変なことがおこって、全体がウソだったということがわかるパターン。
④合わせ…〈へん〉と同様の展開をもつが、オチの部分が作為的にうまくこしらえてあり、キキテを納得させるパターン。
私はこの四パターンを筒井祥文の川柳に当てはめて分類してみせたいわけではない。それこそ最も野暮な批評であろう。そうではなくて、祥文の川柳を読むときにウソと現実との緊張関係くらいは意識しておきたいだけである。文芸用語で言えば「虚と実」ということになる。
筒井祥文がはじめて川柳に出会ったとき、その世界は彼のよく知っていた世界だと思われたことだろう。そして、彼は自分なら既成の川柳人よりもっとうまくやれると直観したことだろう。川柳の穿ちと落語のオチとはそれほど異質なものではない。
しかし、問題はその先にある。
「そば清」(あるいは「蛇含草」)という落語がある。蕎麦好きの清兵衛が旅の途中でウワバミが人を飲み込むのを見た。その後、ウワバミが道端の草を舐めると、ふくれた腹がみるみるひっこんだ。これは役に立つと思った清兵衛はその草を江戸に持ち帰った。江戸で彼は百杯の蕎麦を食べる賭けをする。例の草の効果をあてにしてのことだ。五十杯食べたところで、彼は草を舐めに部屋の外へ出たまま、いつまでたっても戻ってこない。
「清兵衛さん、こっちへいらっしゃい。返事がないね?逃げちまったのかな。来ないと、あけるよ」
―がらっとあけてみるってえと、お蕎麦が羽織を着て座っていました。
これが「そば清」のオチである。
ところが、現代の聞き手にとってはこれだけでは意味がわからない。困った落語家は説明を入れざるをえない。
「こりゃ、どういうわけで、おそばが羽織をきてすわってたてえと、ウワバミのなめた草は、人解草てえましてナ、人間のとける草をなめた。そいつを清兵衛さん、腹のへる薬だとまちがえて、こいつをなめたから、清兵衛さんがとけて、おそばが羽織をきてすわってました」(三代目三遊亭小円朝「そば清」)
この説明をよしとするかどうか。「お蕎麦が羽織を着て座っている」というグロテスクで不条理なイメージが説明によって壊れてしまうのだ。意味を伝えることと落語美学との二律背反。祥文の戦いが始まるのはここからである。
3 どくだみノートから
では、そろそろ筒井祥文の川柳を読んでみることにしよう。
御公儀へ百万匹の鱏連れて
「御公儀」とは時代がかっているが、時の政府ということだろう。そこへ「百万匹の鱏」を連れて行くのだから何らかの抗議行動というふうに読める。
「金曜日の川柳」で樋口由紀子はこの句を取り上げて、「鮫ならば来る理由もわかるし、来られる方も対処の仕方がありそうだが、鱏ではどうしようもない」と書いている。確かに「鱏」が「鮫」だったらこの句はもっと分かりやすくなる。「鮫」がメタファーとなり、意味性が匂い出すのである。けれども、樋口の言うように、鱏を連れた男の行動は理解不能なのだ。
私はこれを一種のキャラクター川柳と見て、作中主体を「鱏連れ男」と呼んでみたことがある。ただし、そんなことを言ってみても、何も明らかになるわけではない。
「百万匹の鱏」は川柳によく見られる「誇張法」である。そもそも、抗議される政府、抗議する大衆という図式をこの句ははるかに越えているのではないか。抗議される方が悪で抗議する方が善というのでもない。立場はいくらでも逆転するし、何が正しいかも不明確な現代社会である。そのような世界の中で、いっしょに連れていくとしたら鱏しかいないのではないかと思わせる奇妙な説得力がこの句にはある(おっと、私もつい説明に走ってしまったようだ)。
カッポレをちょいと地雷をよけながら
一読して分かりやすい句である。人を食ったようなところもある。実景というより、ある状況をとらえているのだろう。地雷地帯で本当にカッポレを踊るやつはいない。危機的状況に置かれても遊び心を失わない精神の姿勢。「首が飛んでも動いてみせまさあ」というところだろうか。ウソを現実のように見せるやり方がここにも見られる。
弁当を砂漠にとりに行ったまま
出ていったまま、いつまでたっても帰ってこない人がいる。煙草を買いに行ったまま帰ってこないなら演歌の世界であるが、なぜこの男(女でもよいが)は弁当を砂漠なんぞにとりに行ったのか。よく考えてみると変な状況である。そこで読者は「なんだ、これはウソの世界だったのか」と気づくのだ。弁当をとりに行った男がその後どうなったのか心配する必要はまるでなかったわけだが、人がいなくなったヒヤリとした感覚は妙に心に残る。
殺されて帰れば若い父母がいた
誰が殺されたのだろう。被害者が仏になって家に戻る。その家の父母は意外に若かった。そのように読めば現実の状景であるが、この読みには何か違和感がある。死者は時間を遡って過去の家にたどり着いたのだろう。そこには彼がまだ生れる以前の若いときの父母がいた。それを死者の眼が見ている。
夜景へ三度「カマイタチ」と叫ぶ
ビートたけしが昔つかっていた「コマネチ」のギャグのようなものだろうか。夜景に向かって三度も叫ぶ男は攻撃的である。
黒門町の師匠と呼ばれた桂文楽に『あばらかべっそん』という本がある。文楽の語ったことを安藤鶴夫が記録してできた本だが、書名の意味が何だか分からない。文楽の口癖だった言葉らしい。そういえば筒井祥文の主宰する「ふらすこてん」も意味が分からない。また、同誌の同人作品欄(祥文選)のタイトルは「たくらまかん」。別に砂漠の名前でもなさそうだ。
福助の頭で列車事故がある
改札を駆け抜けたのは原始人
「福助」の句は落語の「あたまやま」を連想させる。ある男がさくらんぼを食べたところ、頭から芽が出てきたので困る話である。芽は育って桜の大樹になり、花見客がこの男の頭に押し寄せる。うるさくてかなわないので樹をひっこぬいたあとに穴があき、池ができた。今度は釣人がきたり舟遊びをしたりするので、とうとう男はノイローゼになり、自分の頭に身を投げた…ナンセンス落語だが、幻想的なところもある。SF落語と言ってもよい。
「改札を」の句では異なった時代がミックスされている。初代権太楼の小咄にこんなのがあるそうだ。剣の達人が刀を抜いて果たし合いをしている。その間をすーっと自転車が通っていったというのだ。意識的に時代錯誤的演出をするのはいろいろな芸術ジャンルでよく見られることである。
沖にある窓に凭れて窓化する
動議あり馬の眉間へ馬を曳く
「沖にある窓」とは何だろう。作中主体と窓との位置関係に読者は幻惑される。しかも「凭れている人」自体が窓になってしまうというのだ。アポリネールの「オレノ・シュブラックの失踪」では男が壁化するが、この句は「窓化する男」という不条理なキャラクターである。
「馬の眉間」に馬を曳いていくという。馬を曳くのは現実の行為であっても、「馬の眉間」は現実の場所ではない。
筒井祥文の川柳及び「ふらすこてん」の同人作品を前にするとき、難解だという感想がよく聞かれるようである。けれども、「難解」にもいろいろな次元がある。読者は意味を問う前に自分の読みを問う必要があるのではないだろうか。落語のオチの意味が分からないときに、それを落語家に問うのは随分味気ない行為であろう。
祥文と書くどくだみが咲くノート
4 川柳の伝統ということ
祥文はなぜこのような句を書くのであろうか。
もともと筒井祥文は伝統派の川柳人に近いところから出発している。年譜によると、昭和五十六年ごろ、京都市内のスナックで「都大路川柳社」の会誌を見たのが川柳の世界に入る契機となったようだ。「都大路」のほか京都・大阪の「番傘」句会を渡り歩き、神戸の「ふあうすと」にも出向いて句会回りをしている。「都大路」が解散したあと、自ら「川柳倶楽部パーセント」を立ち上げ、さらにそれを発展的解消して現在の「ふらすこてん」に至っている。
いわゆる「伝統川柳」とは六大家を中心とした流れをさしている。岸本水府は「伝統川柳」という呼び方を嫌って「本格川柳」と称したが、内実は同じことであろう。「伝統」と「革新」という対立はもう無効になっていると私は思っているが、話を歴史的に整理する場合は、この言葉を使うしかない。私自身は伝統川柳の結社に所属したことがないが、「伝統川柳」ではなくて、「川柳の伝統」には忠実でありたいと思っている。しかし、筒井祥文の行き方は少し違う。祥文は「伝統川柳」にこだわり、衰弱した「伝統川柳」を下支えしようとする。「ふらすこてん」十三号の「常夜灯」(巻頭言)で祥文は「川柳が文芸である以上、オリジナルでなければならないことは当然です。しかしそれは句材が古いものは総てダメだということになりません。逆に古くても句として立ち上げ得るから文芸なのです」と述べている。伝統川柳に対する彼の考えをよく表していると思う。
はやらない旅館がむかしあった坂
夕焼けが城を正しい位置に置く
こんな手をしてると猫が見せに来る
どうしても椅子が足りないのだ諸君
花屋も閉めた白薔薇を売りすぎた
歳時記の裏の屋台で軽くやる
人魂が今銀行に入ったが
鼻唄で拾い集める壇の浦
本名をハリマヤ橋で誰か呼ぶ
栗咲いてセールスマンは尾根伝い
「はやらない旅館」は単なるノスタルジーではないだろう。古典落語にせよ新作落語にせよ、落語を演じるのは現在の話者である。そういう意味では、落語は古典ではなく現在ただいまの話芸なのだ。川柳においても「伝統川柳」の体現者がいるとすれば、彼は最も現代的でなければならない。「正しい位置」などもうどこにもない現代で、なお川柳を書き続けていく行為とはどういうものだろうか。祥文はふと観客をいじってみせる。「どうしても椅子が足りないのだ諸君」と。「ふらすこてん」に祥文は「番傘この一句」という連載を続けている。『番傘』誌に掲載された作品を丹念に拾い、読み続けていく作業である。それはきわめて孤独な営為とも言えるだろう。
『筒井祥文集』に収録の「芸人宣言」という文章で、祥文は「川柳家は『芸人』や『職人』である」と宣言したあと、次のように述べている。
「卑下することもない。かの桂枝雀は命懸けで『桂枝雀』をこの世に演りに現れたし、かたや古今亭志ん生は見せる芸を超えて『晒す芸』をやってのけた。人間国宝には桂米朝さんがいる。『職人』になって機能美を追求することも悪くないのではないか。何も恐れることはない。狂句もバレ句も噛み砕く力があればよいのだ。居直れば小生意気な芸術家の一人や二人は喰えようというものである」
第二芸術論に対して高濱虚子は「俳句もようやく芸術になりましたか」と述べたという。第二芸術論の際に取り上げられすらしなかった川柳は、これまで芸術になろうと必死の努力を続けてきた。川柳に「詩」を導入したり、「私」を導入したりするのはその証である。けれども祥文は平然としてこんなふうに言い放つ。
オヤ君も水母に進化しましたか
なら君も文学論と情死せよ
旧稿なので、データは以前のものだが、基本的な考えは変わっていない。
初出は「MANO」17号(2012年4月)。
筒井祥文における虚と実 小池正博
1 読みの衰弱
文芸に限ったことではないが、現代日本人の読みの力は確実に衰弱している。サブカルチャーについて言うと、たとえば漫画を読むにも読解力は必要であって、コマとコマの間の飛躍を想像力によって埋めることでストーリー展開はスピード感を増すはずである。ところが、一九七十年代後半あたりから、コマとコマのつながり方が理解できないというクレームが読者から寄せられるようになったと石ノ森章太郎が嘆いているそうだ。
「こうしたコマとコマの飛躍については、過去さまざまな評論家が考察をめぐらせてきた、コマとコマの飛躍を結びつけるもの、それはマンガの読書経験の積み重ね=知覚の習い(リテラシー)であることに疑いはない。『慣れ』は、より正しい『理解』をもたらすのである」(竹内オサム『マンガ表現学入門』)
コマとコマの間に飛躍がありすぎると読者が付いてゆけない。それを補うために漫画家が説明的になると、さらに読者の想像力が鈍磨していく。この循環によって読者の読みの力は確実に落ちてゆく。
これを連句にたとえれば、前句と付句の関係がべったりと付きすぎている句(親句・しんく)が好まれ、前句から遠くに飛ぶような付句(疎句・そく)は嫌われることになる。親句・疎句はどちらが良いというような優劣ではなくて、両方とも必要なのだ。その一方しか理解できないということは、文芸・文化の幅を狭めてしまうことになってしまう。映画のカットとカットのつなげ方にも同じことが言えるだろう。
話芸である落語を聞く場合でも事態は同様である。落語家は何もかも説明するのではなくて、簡潔な言葉によって場面を聴衆に想像させる。あまりに説明過多になってしまうと聞き手は逆に退屈してしまう。特に、最後のオチの部分は短く語らなくてはいけない。長々としたオチ、説明しなければならないオチなんてオチにならないのだ。もちろん、古典落語に出てくる生活情景は現代人の生活とは随分違うから、落語家はマクラとか話の途中で周到に説明的部分を用意しておくだろう。そういうことも含めて落語の場合でも聴く力は必要なのだ。
以上のようなことを前置きとして、これから筒井祥文の川柳について語ってゆきたい。筒井祥文は京都在住の川柳人である。関西のあちこちの句会回りに明け暮れ、自身では川柳結社「ふらすこてん」を主宰する。
まず、セレクション柳人『筒井祥文集』(邑書林)から彼の代表作と思われる五句を挙げてみよう。
御公儀へ百万匹の鱏連れて
カッポレをちょいと地雷をよけながら
弁当を砂漠にとりに行ったまま
殺されて帰れば若い父母がいた
夜景へ三度「カマイタチ」と叫ぶ
このような川柳が書かれるためにはそのルーツがあるはずである。普通、川柳人には師系があって、その川柳の系譜がたどれるのだが、本稿では祥文のルーツを彼が親しんできた落語にあると見て、落語言語から彼の作品を眺めて見たい。
2 落語言語トレーニング
私は特に落語に詳しいわけではないから、まず自分自身のためにもトレーニングを必要とする。『筒井祥文集』の中からこんな句を取り上げてみよう。
有りもせぬ扉にノブを付けてきた
半分は嘘半分は滑り台
「有りもせぬ扉」にどうしてノブを付けるのかと問うことは野暮である。半分はウソ、では残りの半分の「滑り台」は何かの隠喩だと考えることもやはり野暮なことである。そもそも、ないものをあるように見せるのが落語の芸ではなかったのか。
上方落語の二代目桂枝雀は落語の本質を「緊張と緩和」ととらえ、オチを四つに分類したことでよく知られている。落語入門書には必ず紹介されている枝雀の四分類は次のようなものだ(野村雅昭著『落語の言語学』平凡社ライブラリー、による)。
①ドンデン…ウソが基調となっているが、最後にかくされていた状況があらわれ、キキテの予期していた結末と反対の方向におとすパターン。「ドンデン返し」の略。
②謎解き…ウソを現実のことのように演じ、キキテになぜそういうことがおこるのかという疑問をいだかせ、やはりウソだったとおとすパターン。
③へん…実際にあることのように演じ、話をすすめ、最後に変なことがおこって、全体がウソだったということがわかるパターン。
④合わせ…〈へん〉と同様の展開をもつが、オチの部分が作為的にうまくこしらえてあり、キキテを納得させるパターン。
私はこの四パターンを筒井祥文の川柳に当てはめて分類してみせたいわけではない。それこそ最も野暮な批評であろう。そうではなくて、祥文の川柳を読むときにウソと現実との緊張関係くらいは意識しておきたいだけである。文芸用語で言えば「虚と実」ということになる。
筒井祥文がはじめて川柳に出会ったとき、その世界は彼のよく知っていた世界だと思われたことだろう。そして、彼は自分なら既成の川柳人よりもっとうまくやれると直観したことだろう。川柳の穿ちと落語のオチとはそれほど異質なものではない。
しかし、問題はその先にある。
「そば清」(あるいは「蛇含草」)という落語がある。蕎麦好きの清兵衛が旅の途中でウワバミが人を飲み込むのを見た。その後、ウワバミが道端の草を舐めると、ふくれた腹がみるみるひっこんだ。これは役に立つと思った清兵衛はその草を江戸に持ち帰った。江戸で彼は百杯の蕎麦を食べる賭けをする。例の草の効果をあてにしてのことだ。五十杯食べたところで、彼は草を舐めに部屋の外へ出たまま、いつまでたっても戻ってこない。
「清兵衛さん、こっちへいらっしゃい。返事がないね?逃げちまったのかな。来ないと、あけるよ」
―がらっとあけてみるってえと、お蕎麦が羽織を着て座っていました。
これが「そば清」のオチである。
ところが、現代の聞き手にとってはこれだけでは意味がわからない。困った落語家は説明を入れざるをえない。
「こりゃ、どういうわけで、おそばが羽織をきてすわってたてえと、ウワバミのなめた草は、人解草てえましてナ、人間のとける草をなめた。そいつを清兵衛さん、腹のへる薬だとまちがえて、こいつをなめたから、清兵衛さんがとけて、おそばが羽織をきてすわってました」(三代目三遊亭小円朝「そば清」)
この説明をよしとするかどうか。「お蕎麦が羽織を着て座っている」というグロテスクで不条理なイメージが説明によって壊れてしまうのだ。意味を伝えることと落語美学との二律背反。祥文の戦いが始まるのはここからである。
3 どくだみノートから
では、そろそろ筒井祥文の川柳を読んでみることにしよう。
御公儀へ百万匹の鱏連れて
「御公儀」とは時代がかっているが、時の政府ということだろう。そこへ「百万匹の鱏」を連れて行くのだから何らかの抗議行動というふうに読める。
「金曜日の川柳」で樋口由紀子はこの句を取り上げて、「鮫ならば来る理由もわかるし、来られる方も対処の仕方がありそうだが、鱏ではどうしようもない」と書いている。確かに「鱏」が「鮫」だったらこの句はもっと分かりやすくなる。「鮫」がメタファーとなり、意味性が匂い出すのである。けれども、樋口の言うように、鱏を連れた男の行動は理解不能なのだ。
私はこれを一種のキャラクター川柳と見て、作中主体を「鱏連れ男」と呼んでみたことがある。ただし、そんなことを言ってみても、何も明らかになるわけではない。
「百万匹の鱏」は川柳によく見られる「誇張法」である。そもそも、抗議される政府、抗議する大衆という図式をこの句ははるかに越えているのではないか。抗議される方が悪で抗議する方が善というのでもない。立場はいくらでも逆転するし、何が正しいかも不明確な現代社会である。そのような世界の中で、いっしょに連れていくとしたら鱏しかいないのではないかと思わせる奇妙な説得力がこの句にはある(おっと、私もつい説明に走ってしまったようだ)。
カッポレをちょいと地雷をよけながら
一読して分かりやすい句である。人を食ったようなところもある。実景というより、ある状況をとらえているのだろう。地雷地帯で本当にカッポレを踊るやつはいない。危機的状況に置かれても遊び心を失わない精神の姿勢。「首が飛んでも動いてみせまさあ」というところだろうか。ウソを現実のように見せるやり方がここにも見られる。
弁当を砂漠にとりに行ったまま
出ていったまま、いつまでたっても帰ってこない人がいる。煙草を買いに行ったまま帰ってこないなら演歌の世界であるが、なぜこの男(女でもよいが)は弁当を砂漠なんぞにとりに行ったのか。よく考えてみると変な状況である。そこで読者は「なんだ、これはウソの世界だったのか」と気づくのだ。弁当をとりに行った男がその後どうなったのか心配する必要はまるでなかったわけだが、人がいなくなったヒヤリとした感覚は妙に心に残る。
殺されて帰れば若い父母がいた
誰が殺されたのだろう。被害者が仏になって家に戻る。その家の父母は意外に若かった。そのように読めば現実の状景であるが、この読みには何か違和感がある。死者は時間を遡って過去の家にたどり着いたのだろう。そこには彼がまだ生れる以前の若いときの父母がいた。それを死者の眼が見ている。
夜景へ三度「カマイタチ」と叫ぶ
ビートたけしが昔つかっていた「コマネチ」のギャグのようなものだろうか。夜景に向かって三度も叫ぶ男は攻撃的である。
黒門町の師匠と呼ばれた桂文楽に『あばらかべっそん』という本がある。文楽の語ったことを安藤鶴夫が記録してできた本だが、書名の意味が何だか分からない。文楽の口癖だった言葉らしい。そういえば筒井祥文の主宰する「ふらすこてん」も意味が分からない。また、同誌の同人作品欄(祥文選)のタイトルは「たくらまかん」。別に砂漠の名前でもなさそうだ。
福助の頭で列車事故がある
改札を駆け抜けたのは原始人
「福助」の句は落語の「あたまやま」を連想させる。ある男がさくらんぼを食べたところ、頭から芽が出てきたので困る話である。芽は育って桜の大樹になり、花見客がこの男の頭に押し寄せる。うるさくてかなわないので樹をひっこぬいたあとに穴があき、池ができた。今度は釣人がきたり舟遊びをしたりするので、とうとう男はノイローゼになり、自分の頭に身を投げた…ナンセンス落語だが、幻想的なところもある。SF落語と言ってもよい。
「改札を」の句では異なった時代がミックスされている。初代権太楼の小咄にこんなのがあるそうだ。剣の達人が刀を抜いて果たし合いをしている。その間をすーっと自転車が通っていったというのだ。意識的に時代錯誤的演出をするのはいろいろな芸術ジャンルでよく見られることである。
沖にある窓に凭れて窓化する
動議あり馬の眉間へ馬を曳く
「沖にある窓」とは何だろう。作中主体と窓との位置関係に読者は幻惑される。しかも「凭れている人」自体が窓になってしまうというのだ。アポリネールの「オレノ・シュブラックの失踪」では男が壁化するが、この句は「窓化する男」という不条理なキャラクターである。
「馬の眉間」に馬を曳いていくという。馬を曳くのは現実の行為であっても、「馬の眉間」は現実の場所ではない。
筒井祥文の川柳及び「ふらすこてん」の同人作品を前にするとき、難解だという感想がよく聞かれるようである。けれども、「難解」にもいろいろな次元がある。読者は意味を問う前に自分の読みを問う必要があるのではないだろうか。落語のオチの意味が分からないときに、それを落語家に問うのは随分味気ない行為であろう。
祥文と書くどくだみが咲くノート
4 川柳の伝統ということ
祥文はなぜこのような句を書くのであろうか。
もともと筒井祥文は伝統派の川柳人に近いところから出発している。年譜によると、昭和五十六年ごろ、京都市内のスナックで「都大路川柳社」の会誌を見たのが川柳の世界に入る契機となったようだ。「都大路」のほか京都・大阪の「番傘」句会を渡り歩き、神戸の「ふあうすと」にも出向いて句会回りをしている。「都大路」が解散したあと、自ら「川柳倶楽部パーセント」を立ち上げ、さらにそれを発展的解消して現在の「ふらすこてん」に至っている。
いわゆる「伝統川柳」とは六大家を中心とした流れをさしている。岸本水府は「伝統川柳」という呼び方を嫌って「本格川柳」と称したが、内実は同じことであろう。「伝統」と「革新」という対立はもう無効になっていると私は思っているが、話を歴史的に整理する場合は、この言葉を使うしかない。私自身は伝統川柳の結社に所属したことがないが、「伝統川柳」ではなくて、「川柳の伝統」には忠実でありたいと思っている。しかし、筒井祥文の行き方は少し違う。祥文は「伝統川柳」にこだわり、衰弱した「伝統川柳」を下支えしようとする。「ふらすこてん」十三号の「常夜灯」(巻頭言)で祥文は「川柳が文芸である以上、オリジナルでなければならないことは当然です。しかしそれは句材が古いものは総てダメだということになりません。逆に古くても句として立ち上げ得るから文芸なのです」と述べている。伝統川柳に対する彼の考えをよく表していると思う。
はやらない旅館がむかしあった坂
夕焼けが城を正しい位置に置く
こんな手をしてると猫が見せに来る
どうしても椅子が足りないのだ諸君
花屋も閉めた白薔薇を売りすぎた
歳時記の裏の屋台で軽くやる
人魂が今銀行に入ったが
鼻唄で拾い集める壇の浦
本名をハリマヤ橋で誰か呼ぶ
栗咲いてセールスマンは尾根伝い
「はやらない旅館」は単なるノスタルジーではないだろう。古典落語にせよ新作落語にせよ、落語を演じるのは現在の話者である。そういう意味では、落語は古典ではなく現在ただいまの話芸なのだ。川柳においても「伝統川柳」の体現者がいるとすれば、彼は最も現代的でなければならない。「正しい位置」などもうどこにもない現代で、なお川柳を書き続けていく行為とはどういうものだろうか。祥文はふと観客をいじってみせる。「どうしても椅子が足りないのだ諸君」と。「ふらすこてん」に祥文は「番傘この一句」という連載を続けている。『番傘』誌に掲載された作品を丹念に拾い、読み続けていく作業である。それはきわめて孤独な営為とも言えるだろう。
『筒井祥文集』に収録の「芸人宣言」という文章で、祥文は「川柳家は『芸人』や『職人』である」と宣言したあと、次のように述べている。
「卑下することもない。かの桂枝雀は命懸けで『桂枝雀』をこの世に演りに現れたし、かたや古今亭志ん生は見せる芸を超えて『晒す芸』をやってのけた。人間国宝には桂米朝さんがいる。『職人』になって機能美を追求することも悪くないのではないか。何も恐れることはない。狂句もバレ句も噛み砕く力があればよいのだ。居直れば小生意気な芸術家の一人や二人は喰えようというものである」
第二芸術論に対して高濱虚子は「俳句もようやく芸術になりましたか」と述べたという。第二芸術論の際に取り上げられすらしなかった川柳は、これまで芸術になろうと必死の努力を続けてきた。川柳に「詩」を導入したり、「私」を導入したりするのはその証である。けれども祥文は平然としてこんなふうに言い放つ。
オヤ君も水母に進化しましたか
なら君も文学論と情死せよ
2019年3月1日金曜日
彦坂美喜子『子実体日記』(思潮社)
雑事が重なって二月は時評を更新できなかった。三月に入り、気分一新して時評に取り組みたい。
休んでいる間に読んだものの中から、彦坂美喜子の詩集『子実体日記 だれのすみかでもない』(2019年2月、思潮社)を取り上げることにする。彦坂は短歌誌『井泉』のメンバーなので、歌集かと思って本を開いてみると詩集なのだった。
冒頭の詩「つれてゆきたい」はこんなふうにはじまっている。
つれてきてやりたいつれてゆきたいと男同士の道行きである
両手で湯のみを抱く
たぶん理由なんてないよナァ
からだがなだれてくずれていく
帰ってきて笹川のほとりへ
石と水の接触点に
解凍した魚から流れる液汁
きれいに拭いてやってください
マニキュアの剥がれた爪と長い髪どこで私をすてたのだろう
頭からハナサナギタケが生えている夜はゆっくり起だしてきて
このあとまだ続くのだが、五七五七七の短歌形式と自由詩形式がミックスされていて、全体として現代詩になっていることがわかる。作品の成立過程については、栞の倉橋健一の文章「口語自由律のあらたな地平へ」で詳しく説明されている。倉橋は次のように書いている。
〈 詩集として編まれることになったこの『子実体日記』は、主な初出は私たちの同人誌「イリプス」で、2009年4月刊の三号にはじまって2017年6月刊の二十二号まで、二十回に亘って、一貫して短歌として発表された。詩として別に発表した作品もあったから、私自身短歌であることを訝しげに思ったことなど一度もなかった。〉
〈 それが今回ゲラ校を見ておどろいた。そのまま姿をかえて詩集となり、三十のタイトルがつけられて、それぞれ連作詩のたたずまいをとりながら独立した詩篇となり、そのための大幅な、改稿というよりは、編むための手順そのものを喩的な了解事項としつつ、ま新しい装いをもって、こうして私たちの前に姿をあらわしてきたからである。〉
短歌として発表されたものを現代詩として再編する。あるいは、読者が短歌と受けとった作品を現代詩のかたちにリサイクルする。これは大胆な試みに違いない。
最初の一行が「男同志の道行き」とあるからにはことは恋愛にかかわっている。「どこで私をすてたのだろう」というフレーズは「私性」との関連を思わせる。ハナサナギタケ(花蛹茸)は実在する菌類で、セミに寄生するいわゆる冬虫夏草の一種である。
タイトルの「子実体(しじつたい)」とは聞き慣れない用語なので、調べてみると菌類のキノコのことなのだった。キノコは菌類の本体ではなくて、地下に隠れている菌糸体が本体なのだそうだ。キノコの部分は胞子を発射するための装置にすぎない。菌類の生態はけっこうおもしろくて、子実体と菌類についての知識を仕入れるのに数日を費やして回り道をした。子実体のイメージを使って彦坂は何を表現しようとしているのだろうか。
彦坂美喜子とはけっこう以前からの知り合いである。
2004年6月に「短詩型文学における連句の位置」というイベントをアウィーナ大阪で開催したことがあるが、そのとき彼女に短歌のパネラーを依頼した。彦坂は「現代短歌における私性の変化」について語った。『井泉』のことはこの時評でも時々紹介しているが、私がこの短歌誌を毎号読むことができるのは彦坂との縁による。
第一歌集『白のトライアングル』(1998年4月、雁書館)は「あ」の歌から始まっている。
記せないきみとの時間かさねつつただ抱きしめているだけの「あ」
粉々に割れてきらめく三角のミクロの世界で君にあう
まっしろな時間の底に降りてゆくきみとわたしの「あ」がかさなって
キミハキミヲアイする連鎖限りなく作動しているアンチ・オイディプス
三角が白くかがやく海にいて果てまでワタシといきますか
「あ」は「アイ」へと変容してゆき、そこに「白」と「三角(トライアングル)」のイメージが加わってゆく。キイ・イメージを連鎖させ、重ねあわせてゆく方法のようだ。テーマは愛。そこにオイディプス・コンプレックスがからまっている。
短歌の定型に対する疑いが彦坂には見られる。五七五七七の最後の七を五音にするのは、塚本邦雄ばりの「五止め」の手法だろう。
彦坂には最初から短歌形式をはみ出すものがあった。「短歌は私にとって常に『問い』の詩型でした」(あとがき)と彼女は書いている。彦坂には短歌と並行して現代詩に対する強い関心があったのだ。
第一歌集で「白のトライアングル」というモティーフを用いた彦坂は、今度の詩集では「子実体」のモティーフを駆使している。
関係を問い返しているその度にベニテングタケが増えてゆく (「つれてゆきたい」)
わたくしがわたくしを産む瞬間の叫びは土のなかに響いて (「身体は途中から折れ」)
ざっくりと言えばがっつりいくような人がサクッってこどもを産んだ(「執拗に愛する」)
いつでもどこにでもいるいなくてもいることさえもわからないオレ(「ここにいるのに」)
吸根をあなたの身体に刺し入れて枯れるまで一緒にいてあげる
(お礼いうてええのんかしら (「変態をくりかえし」)
関係のない関係を続けてる擬足のような手をのばしあう(「移動する」)
この詩集のなかから短歌形式の部分だけを抜き出すのは邪道だろうが、詩全体を引用するのは大変なので、やむなくこのようにしている。
子実体は胞子を飛ばし、移動し発芽して増殖、宿主を食い尽くし、「私」を解体する。菌糸は思いがけないところにまでネットワークを伸ばし、そこで新たな子実体を生成する。
「何かを分類し体系づけようとするときに、いつもその枠組みから外れるものたちがあります。それは異質な魅力を持っています。『子実体』は、菌類の生殖体で、胞子を生ずる器官。菌類は分裂し、飛散し、ランダムにアトランダムに拡散増殖し生成を続けます」
「詩とか歌とかも一度その枠組みを外してみたい。春日井建のもとで短歌の世界に関わり、詩も書いてきた私にとって、言葉の表現はジャンルを超えて自由な世界を持っていると思われました」
「五句三十一音だけが短歌ではない、という自由な発想を敷衍して、型を少し崩せば表現は詩にも歌にもなります」(『子実体日記』あとがき)
彦坂は意識的な表現者である。これに私が付け加えることは何もない。ルーツは違うとしても私が彦坂に共感するのはジャンルを相対化する視点である。
休んでいる間に読んだものの中から、彦坂美喜子の詩集『子実体日記 だれのすみかでもない』(2019年2月、思潮社)を取り上げることにする。彦坂は短歌誌『井泉』のメンバーなので、歌集かと思って本を開いてみると詩集なのだった。
冒頭の詩「つれてゆきたい」はこんなふうにはじまっている。
つれてきてやりたいつれてゆきたいと男同士の道行きである
両手で湯のみを抱く
たぶん理由なんてないよナァ
からだがなだれてくずれていく
帰ってきて笹川のほとりへ
石と水の接触点に
解凍した魚から流れる液汁
きれいに拭いてやってください
マニキュアの剥がれた爪と長い髪どこで私をすてたのだろう
頭からハナサナギタケが生えている夜はゆっくり起だしてきて
このあとまだ続くのだが、五七五七七の短歌形式と自由詩形式がミックスされていて、全体として現代詩になっていることがわかる。作品の成立過程については、栞の倉橋健一の文章「口語自由律のあらたな地平へ」で詳しく説明されている。倉橋は次のように書いている。
〈 詩集として編まれることになったこの『子実体日記』は、主な初出は私たちの同人誌「イリプス」で、2009年4月刊の三号にはじまって2017年6月刊の二十二号まで、二十回に亘って、一貫して短歌として発表された。詩として別に発表した作品もあったから、私自身短歌であることを訝しげに思ったことなど一度もなかった。〉
〈 それが今回ゲラ校を見ておどろいた。そのまま姿をかえて詩集となり、三十のタイトルがつけられて、それぞれ連作詩のたたずまいをとりながら独立した詩篇となり、そのための大幅な、改稿というよりは、編むための手順そのものを喩的な了解事項としつつ、ま新しい装いをもって、こうして私たちの前に姿をあらわしてきたからである。〉
短歌として発表されたものを現代詩として再編する。あるいは、読者が短歌と受けとった作品を現代詩のかたちにリサイクルする。これは大胆な試みに違いない。
最初の一行が「男同志の道行き」とあるからにはことは恋愛にかかわっている。「どこで私をすてたのだろう」というフレーズは「私性」との関連を思わせる。ハナサナギタケ(花蛹茸)は実在する菌類で、セミに寄生するいわゆる冬虫夏草の一種である。
タイトルの「子実体(しじつたい)」とは聞き慣れない用語なので、調べてみると菌類のキノコのことなのだった。キノコは菌類の本体ではなくて、地下に隠れている菌糸体が本体なのだそうだ。キノコの部分は胞子を発射するための装置にすぎない。菌類の生態はけっこうおもしろくて、子実体と菌類についての知識を仕入れるのに数日を費やして回り道をした。子実体のイメージを使って彦坂は何を表現しようとしているのだろうか。
彦坂美喜子とはけっこう以前からの知り合いである。
2004年6月に「短詩型文学における連句の位置」というイベントをアウィーナ大阪で開催したことがあるが、そのとき彼女に短歌のパネラーを依頼した。彦坂は「現代短歌における私性の変化」について語った。『井泉』のことはこの時評でも時々紹介しているが、私がこの短歌誌を毎号読むことができるのは彦坂との縁による。
第一歌集『白のトライアングル』(1998年4月、雁書館)は「あ」の歌から始まっている。
記せないきみとの時間かさねつつただ抱きしめているだけの「あ」
粉々に割れてきらめく三角のミクロの世界で君にあう
まっしろな時間の底に降りてゆくきみとわたしの「あ」がかさなって
キミハキミヲアイする連鎖限りなく作動しているアンチ・オイディプス
三角が白くかがやく海にいて果てまでワタシといきますか
「あ」は「アイ」へと変容してゆき、そこに「白」と「三角(トライアングル)」のイメージが加わってゆく。キイ・イメージを連鎖させ、重ねあわせてゆく方法のようだ。テーマは愛。そこにオイディプス・コンプレックスがからまっている。
短歌の定型に対する疑いが彦坂には見られる。五七五七七の最後の七を五音にするのは、塚本邦雄ばりの「五止め」の手法だろう。
彦坂には最初から短歌形式をはみ出すものがあった。「短歌は私にとって常に『問い』の詩型でした」(あとがき)と彼女は書いている。彦坂には短歌と並行して現代詩に対する強い関心があったのだ。
第一歌集で「白のトライアングル」というモティーフを用いた彦坂は、今度の詩集では「子実体」のモティーフを駆使している。
関係を問い返しているその度にベニテングタケが増えてゆく (「つれてゆきたい」)
わたくしがわたくしを産む瞬間の叫びは土のなかに響いて (「身体は途中から折れ」)
ざっくりと言えばがっつりいくような人がサクッってこどもを産んだ(「執拗に愛する」)
いつでもどこにでもいるいなくてもいることさえもわからないオレ(「ここにいるのに」)
吸根をあなたの身体に刺し入れて枯れるまで一緒にいてあげる
(お礼いうてええのんかしら (「変態をくりかえし」)
関係のない関係を続けてる擬足のような手をのばしあう(「移動する」)
この詩集のなかから短歌形式の部分だけを抜き出すのは邪道だろうが、詩全体を引用するのは大変なので、やむなくこのようにしている。
子実体は胞子を飛ばし、移動し発芽して増殖、宿主を食い尽くし、「私」を解体する。菌糸は思いがけないところにまでネットワークを伸ばし、そこで新たな子実体を生成する。
「何かを分類し体系づけようとするときに、いつもその枠組みから外れるものたちがあります。それは異質な魅力を持っています。『子実体』は、菌類の生殖体で、胞子を生ずる器官。菌類は分裂し、飛散し、ランダムにアトランダムに拡散増殖し生成を続けます」
「詩とか歌とかも一度その枠組みを外してみたい。春日井建のもとで短歌の世界に関わり、詩も書いてきた私にとって、言葉の表現はジャンルを超えて自由な世界を持っていると思われました」
「五句三十一音だけが短歌ではない、という自由な発想を敷衍して、型を少し崩せば表現は詩にも歌にもなります」(『子実体日記』あとがき)
彦坂は意識的な表現者である。これに私が付け加えることは何もない。ルーツは違うとしても私が彦坂に共感するのはジャンルを相対化する視点である。
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