「塔」創刊60周年記念全国大会が8月23日に京都で開催された。
京都駅前のホテル会場には800人の聴衆がつめかけて満員であった。
亡くなった河野裕子の人気に加え、栗木京子・吉川宏志・江戸雪などの有力な歌人をかかえて発信力の強い「塔」ではあるものの、その集客力に驚いた。
第一部は高野公彦(「コスモス」)の講演「曖昧と明確のはざま」。
高野は現代短歌の中から「曖昧と明確」のはざまに揺れる短歌を紹介しながら、「短歌結社は読みをきたえるところ」という観点から「短歌の読み」を展開した。「曖昧」(ambiguity)という言葉から、昔読んだエンプソンの『曖昧の七型』を思い出した。
トンネルが多い列車と聞いたから夏目漱石誘って行った 松田梨子
あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる 永井祐
高野が例にあげた歌は、ふだん言葉の飛躍に腐心している川柳の現場から見ると、曖昧でもなんでもなく理解しやすい歌だと思った。
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 斎藤茂吉
茂吉難解歌として有名だが、上の句と下の句を一種の連句の付合と理解することもできる。
第二部は永田和宏・鷲田清一・内田樹の鼎談「言葉の危機的状況をめぐって」。
鷲田(ワッシー)は「言葉の危うさ」について、現代の言葉が「すべってゆく言葉」であると述べ、「なめらかな言葉ではなくて、心にざわめきを起こさせる言葉」の重要性を指摘した。テクスタイルにはテクスト(意味)とテクスチュア(感触)があるので、「その人が何を言っているのか」よりも「その人が何を聴きとろうとしているのか」が大切。その発話者が「自分の言葉」と「自分の身体感覚」との間にある「違和」を自覚することが、文芸が生まれる前提となる。
内田は「吃音」について述べたあと、「届く言葉と届かない言葉」について、「コンテンツがいくらよくても聞き手の知的好奇心を喚起できない」「テープレコーダーの言葉よりライブの言葉」「自分宛のメッセージだと思うと人は注意力のレベルを上げる」などと語った。内田の読者にとってはおなじみの言説だろうが、肉声で聞くと説得力がある。「ポエティックなものを理解しようとすると知性だけではなくて全身が必要」「一義的なものはポエティックではない」「言葉は生成するためにある」という発言もあった。
鷲田・内田の問題提起を、永田は実作を挙げながら短歌にひきつけて展開してゆく。
自分があらかじめ考えていることを歌にするのではなく、歌にすることによって自分の思っていることを発見する。永田はそれを「生成の現場性」と呼んだ。
わからへんなんぼ聞いてもわからへん平和のためにいくさに行くと 石川智子
この作品を永田は「わからないことをわからないままに伝える歌」として紹介した。あらかじめ分かっていることを歌にするのではなく、プロセスをプロセスのままに表現するところに、永田は可能性を見ているようだ。「いま私たちは分かりやすいところで理解しようとしているのではないか」「社会詠は自分の中にあるメッセージを伝えようとすると失敗する」とも。
「一読明快」や「断言」が言われる川柳の世界と比べて、興味深く聞いていた。
この夏はいろいろな本や雑誌を送っていただいた。
『続続鈴木漠詩集』(編集工房ノア)から、たとえば次のような一節。
言葉はまた鏡でもあるから
向い合せの鏡の中を
エコーする言霊の無限反映
母音たちは屈託なく
自己模倣を繰返すのだ (「愛染*」)
木よ 質問する
時間軸はどこまで動いたか
雨季が終り
藍よりも青いあの空が
人みなの倦んだ視野に
戻ってくるまでには? (「質問*」)
「解䌫」28号に鈴木は別所真紀子詩集『すばらしい雨』(かりばね書房)の書評を書いている。今春に刊行されたときにこのブログで紹介しそびれていた一冊なので、遅ればせながら書いてみる。
別所は『雪は今年も』などの俳諧小説の書き手であり、詩人・連句人でもある。
詩集の「句詩付合」は「解䌫」に発表されたものだが、まとめて読むことができる。たとえば、「骨(こつ)拾ふ」という作品はこんなふうに書かれている。
骨拾ふ人に親しき菫かな 蕪村
めつむると 頭蓋のなかで
海馬が泳ぎだす 耳の奥では
からからと鳴る蝸牛の殻
みひらけばうす紫のゆうぐれ
膝の裏からしずしずと半月が昇る
たのしいじゃない? ひとのからだも
句詩付合、現代川柳や古川柳に別所の詩を付けたものを読んでみたいと思った。
詩集の中で最も印象に残ったのは「ひと夏を」という詩である。
役に立たない生きものになって
ひと夏をすごした
わたしは世界に用がない
世界はわたしに用がない
会えないまま遠くへ去ったひとへの手紙に
「古今集巻十二、六一二」と添えた
「古今集巻第四、一七八」
とのみのはがきひとひら
「巻第八、三七三」往く葉
「巻第十一、四八三」還る葉
ある夜 おびただしい流星群が墜ちて
秋 そして冬へ
「わたしは世界に用がない」という部分、多田智満子「告別」よりの引用。『古今集』も交えた引用の織物でありながら、その思いは心に沁みるものがある。
七月に「川柳ねじまき」創刊号が出た。
名古屋で毎月開催されている「ねじまき句会」のメンバーによる。発行人・なかはられいこ。とても好評でネットを中心に多くのコメントが寄せられている。
らいねんの桜のことでけんかする なかはられいこ
敬老の日にいただいた電気椅子 丸山進
わたしたち海と秋とが欠けている 瀧村小奈生
そうか川もしずかな獣だったのか 八上桐子
地図で言う四国あたりが私です 米山明日歌
交番でモーゼの長き旅終わる 青砥和子
用意しておいた手足を呼んでみる ながたまみ
このボタン押さずに傘を開いてよ 二村鉄子
墜落中ちょっと質問いいですか? 魚澄秋来
港には頼らず日本を出入りする 荻原裕幸
詩歌のさまざまなジャンルでそれぞれの表現者が言葉を届けようとしている。その中には届く言葉もあり届かない言葉もある。川柳の言葉は外部になかなか届かないものとあきらめる気持ちもあったが、案外、届く人には届いていたりする。鷲田清一や内田樹も言っていた「宛名」の問題である。
2014年8月29日金曜日
2014年8月22日金曜日
川柳小説「座談会―《「現代川柳」を語る》」
昭和39年の晩秋、金子兜太は「俳句研究」の座談会に出席するために、都内のホテルへ向かった。その日の座談会は俳人同士の集まりではなく、俳人・歌人・川柳人の合同座談会だった。俳句からは金子自身のほかに高柳重信、短歌からは岡井隆、川柳からは河野春三・松本芳味・山村祐が参加する。座談会の記録は《「現代川柳」を語る》というタイトルで「俳句研究」昭和40年1月号に掲載されることになっていた。
前年の昭和38年に金子は岡井隆との共著『短詩型文学論』(紀伊国屋新書)を上梓しており、河野春三や山村祐などの川柳人との交流が始まっていた。金子を通じて岡井も川柳人と交流するようになっていた。高柳の師は富澤赤黄男であるが、赤黄男の周辺からは岡橋宣介などの川柳人が出ており、高柳は河野春三の出版記念会にも出席していた。
一同が集ったあと、司会の金子兜太はまず川柳人の紹介から始めた。
「ご出席いただいた河野春三さんは、『現代川柳への理解』、山村祐さんは『続短詩私論』という、それぞれの著書を持っておられる。又、松本芳味さんは今度の『俳句研究』誌の企てに応じて一文を草しておられる。まあ我々の今まで接しえた限りでの現代川柳派の方々が此処にお集まり下さっておる訳ですが、先ず話の糸口として、今申し上げた三つの文章などを参照しながら、私、現代川柳についての横におる者としての素直な感想を述べさせて貰おうかと思います」
当時「現代川柳」という言葉がしばしば使われていたが、これは単に「現代の川柳」という意味ではなく、「伝統川柳」に対する「革新川柳」というニュアンスが強かった。
金子の言う三つの文章のうち、河野春三の『現代川柳への理解』は『短詩型文学論』の注で引用されていた。山村祐の『続短詩私論』は「川柳現代」昭和39年1月号に金子兜太・林田紀音夫・高柳重信などが書評を掲載している。また、松本芳味は「俳句研究」昭和39年10月号に「現代川柳作品展望」という文章を発表しており、そこで芳味は現代川柳を「抒情について」「社会性について」「哲学派その他」に分類して紹介していた。
これらの川柳人の著作や文章を踏まえて、金子は俳句と川柳の共通性と相違について話を切り出した。
「まず、現代川柳と我々のやっている俳句とでは内容上のスレ違いということは殆どない。ただ、両者を発生から現状へという経緯の面で考えて来ると、一つの相違が感じられる。川柳の歴史には民衆に密着した自由な発想、ほしいままな風刺作りが一貫して感じられるけれども、俳句の場合、短歌の伝統を一応踏んだ所で発句という形式を生かして育ってきた、ややアカデミックな色合を持つ。もう一つ、川柳が口語短詩であったという事、従って最短定型という事に対して、文語短詩としての俳句ほど厳格でなかったという事、この違いが非常に重要だと思う。其の違いが内容上の差まで、或いは決めてくるのではないかと僕は考えるんです」
金子は『短詩型文学論』で「河野春三は『現代川柳への理解』で、俳句と川柳が最短詩としての共通性をもち、現在では内容的にも一致している点を指摘し、『短詩』として一本のジャンルに立ち得ることを語っているが、一面の正当性をもっていると思う。ただ、両者の内容上の本質的差異(川柳の機知と俳句の抒情)は越えられない一線であると思う」と述べているから、このあたりのことについて、もう一度確かめておきたかったのだろう。
この座談会を部屋の隅でそっと聞いている二人の女性がいる。彼らはタイムトラベラーで、昭和40年前後の柳俳交流について研究している20代の俳人である。座談会の参加者からは二人の姿は見えない。この二人を仮にA子・B子と呼んでおこう。
タイムトラベラーの守るべき原則は、歴史を変えてはいけないということである。どんなにフアンであっても、金子の髪をひっぱったりしてはいけない。座談会の内容に不満があったとしても、それに口を挟んではいけないのである。
「兜太ってずいぶん若いのね」とA子が言った。
「このときまだ45歳だもの」とB子。
「川柳人とも交流があったのね」
「『海程』は加藤楸邨の系統でしょ。人間探求派だから、きっと人間諷詠の川柳とも共通点があるのよ。あっ、春三が答えるわよ。静かに」
兜太の問題提起を受けて、河野春三が答えはじめた。
「十七音文語定型という事ですがね。発生からみて、和歌から生まれた俳句は、之に非常にふさわしい、極言すれば俳句は定型、文語に拠らねばならぬと言えるでしょう。川柳の場合、定型でしかも口語に拠ったという事ですね。之が何故かという事になると、僕は大した根拠を持っていなかったと思うんです。形式のやどかり…だったんじゃないかと考える訳です」
春三の口からヤドカリ説が飛び出した。川柳人は比喩的表現をよく使う。春三の話はなお続く。
「(川柳の)伝統派は殆ど口語ですが、現代川柳の方は革新の途上から文語を採用している訳です。この辺が俳句と逆ですね。俳句の方では文語定型が伝統派で、口語で定型基準破調又は自由律というと革新派という事になりますが、川柳の方では、伝統の方が口語で、しかも定型、革新派の方が、文語許容で、しかも破調又は自由律という訳です」
春三の発言を受けて山村祐が話しはじめた。山村は現代詩から川柳へと進んだ人で、人形劇団プークに所属していた。
山村は江戸期の庶民の単純化された発想・思考が五七五のリズムに乗って、原因・展開・結果という考え方で成立したこと、春三のいう「ヤドカリ説」にすること、前句付の付句として自然に返答の順序ができてしまう、という三点を述べた。
さきほどから議論の方向に不満そうな顔つきだった松本芳味が、たまりかねて話を切り出した。
「史的な面からの事ばかりだと、ここにいる方々とは話があわないんじゃないか。発想とか、表現とか、もっと内容的に入って行かないと」
松本は春三に嘱望されている若手川柳人で、のちに句集『難破船』を発行する。川柳における多行書きの書き手としても知られている。
金子が最初に紹介したように、松本芳味はちょうど「俳句研究」に「現代川柳作品展望」という文章を発表したばかりで、現代川柳を内容的に分類して紹介していた。「現代川柳が、現代詩の一分野―短詩を志向したとき、抒情の回復と高唱が示されたことは、短詩の本質からみて、極めて当然の現象と云えよう。人間詩・川柳―ということの再認識。そこから川柳革新の頁は始まったと云っていい。この行き方が、俳句の領域を犯すものであるとの非難は、かれら新しい川柳を志向する作家たちにはナンセンスであった」―自ら書いた文章の冒頭の一節が、鮮やかに芳味の脳裏に浮かび上がった。
松本の発言に対して、司会の金子はこんなふうに応じた。「あながちそうは思わないんです。僕の詩論からいえば、詩に内容の規定というものはない。内容は自由だという事になる。川柳と俳句が別種に存在したという事は、そこにやはり形式の差があったからだと考える訳です」
この内容と形式の問題は、この座談会を通じて何度も繰り返されることになる。
それまで黙って他の参加者の発言を聞いていた高柳重信がおもむろに口を開いた。
「黙って聞いていると話がどんどん先へ行ってしまう。(笑)僕は俳句作家だから、進歩的な立場の短歌に対する場合、これは文字の量が俳句とは違うんだから、形式上の差は何といっても大きいし、従ってやや無責任なシンパでおられる訳だ。だが、川柳となるとそうは行かない。一般通念からいって俳句と川柳は十七音定型という点で同じだから、どうしても辛辣なシンパという立場を取らざるを得ない」
「きゃー、これがジューシンよ。かっこいいわね」
とA子が言った。
「そうね。小池正博が一つ覚えのように繰り返している《辛辣なシンパ》というキイ・ワードがここで出てくるのよ」とB子。
「短歌に対しては無責任なシンパ、川柳に対しては辛辣なシンパって、ズバリ言ってるじゃない」
「日野草城の《善意の越境》と高柳重信の《辛辣なシンパ》は俳人の川柳に対する典型的な二つの態度なのよ」
「春三のいうヤドカリ説って何なの」
「五七五という形式を貝殻にたとえて、ヤドカリという内容がたまたま手ごろな貝殻を借りて利用した、っていうことじゃない」
「伝統川柳が口語で、現代川柳・革新川柳が文語許容なのは何で?」
「わかんない。春三氏に聞いてよ」
「俳句と川柳とではいくらか形式が違うというような話だが、両方とも五七五でありながら、どうして形式が違ったか、これが一番重要な問題だ」
高柳の話は続く。
「江戸期の、同じ時代の同じ空気を呼吸していた人達が、同じ五七五の定型で一つはいわゆる正風の俳句、一つは川柳を作っていたという事についてこれは単に形式が違うという事だけで片付けられる問題だろうか」
岡井「形式が違うってどういう事、形式は同じじゃないの?」
高柳「さっき俳句と川柳は形式が違うというような発言があったから、それに対していってる訳だ」
金子「結果的に、違う形式、といったわけだ。江戸期の川柳は口語の文章語の五七五で、俳句の方は文語の五七五だった。その違いは確かにあったとみるんだな」
高柳「同じ時代の空気を吸っている人それぞれ言葉に対するナルチシズムが違うからではないかと割りきってみることも出来る」
いつの間にか傍らに一人の男が立っているのにA子・B子は気づいた。それまで何の気配もしなかったのに、どこからこの人は現れたのだろう。男は二人と同じようにじっと座談会に聞き入っている。
「失礼ですが、あなたはどなたですか」
たまりかねてB子が聞いた。
「これは申し遅れました。私は、宮田あきらと言います。川柳を書いています」
男の言葉には関西の雰囲気がある。京都あたりの人なのか。
「私もこの座談会を聞きたくて、タイムトラベルしてきたのですよ」
と言って男はにやりと笑った。
「なあんだ。それじゃ、私たちのお仲間じゃん」
ほっとしてA子はつぶやいた。
「ご挨拶は後で改めて申し上げますから、座談会の続きを聞きましょう」
と宮田は言った。その表情には一種の思いつめたところがあった。
「漠然と詩を思い詩人について考えているだけでは現実に俳句や短歌を書くことは出来ない。しかも、現代短歌と現代俳句の場合は、はっきり詩形の違いが分るが、現代俳句と現代川柳の場合は区別がつかないような事が、ままあるんだ。だから、僕たちが相互に、ここで詩人を見ようとするとくには、共に熱烈に、それぞれの川柳と俳句について語る以外に方法はないと思う」
「『俳句は死んだ』というのが僕の昔からの持論だ。滅亡するんじゃなくて、俳句はもう死んでしまっているということだ。同じ観点から言えば川柳も、もうとっくに死んでる。しかも現代川柳の動きなんかみていると死んでるのに気がつかないで勝手に騒いでるといった感じがするんだ」
重信の発言は次第に鋭さを増してきた。
「現代川柳の、文学的に高い意欲をもってるといわれている人達の川柳が、僕らの俳句に似て来てる」
この重信の言葉を聞いたとたんに、春三の顔色が変わった。春三は元来、短気な男である。現代川柳が俳句に擦り寄ってきている、俳句の真似をしている、俳句の影響を受けている、俳句を取り入れている…そのような言説を俳人たちから何度聞かされてきたことだろう。この人たちは無意識のうちに川柳を見下しているのではないか。川柳は断じて俳句の亜流ではないのだ。
「大反論をせざるを得ない。川柳が俳句に似て来たのではなくて、俳句が川柳に似て来た点を僕は俳人に逆にききたい」
険悪になった空気を和らげるように、岡井隆が言った。
「高柳君が優秀な川柳は俳句に近づくといったが、優秀な俳人は段々現代詩に近づくという事もいえる(笑)」
それまでじっと座談会を聞いていた宮田あきらが一歩前へ進んで、座談の輪に入り込もうとしたのはそのときである。
「それはあかんのや。その言い方ではだめなんや…」
驚いたA子・B子は急に関西弁になった宮田を引き止めた。
「おじさん、歴史を変えたらだめなんです。タイムトラベルの原則を知らないのですか」
「ぼくはSFは嫌いなんや。サブカルチャーも嫌いや。この座談会の発言を訂正するために、苦労してここまで来たのや。頼むから離してくれ。川柳が俳句に近づくのやない。現代の俳句は川柳に近づき、現代の川柳が現代詩に近づく…こう反論すべきなんや」
その間に座談会は進行し、話題がすでに変わっていった。
「エコールの差というのはよろしいな。結局川柳と俳句の差は、何に傾斜して作るかというだけの差になる」と金子が言って、話は定型論の方に進んでいった。
「僕は口語にはアクチュアリティーがあると思う。これが今、大切だと思う」と岡井が言った。
高柳がこれに反応した。「そのアクチュアリティーという言葉だが、僕個人としては、自分があくまでも、最も本質的な俳句作家でありたいと覚悟をしたときからさっきいった言葉のナルチシズム、それは僕の言葉に対するナルチシズムと、それから俳句形式自体が抱く言葉に対するナルチシズムと、その双方に忠実に殉じようと思ってきたので、あえて、このアクチュアリティーをしばしば放棄することとなったけれど、川柳の方は逆にこのアクチュアリティーに殉じるために、いわゆる言葉に対するナルチシズムを、あえて犠牲にしてきたとも言えるかもしれない」
「ナルチシズムとアクチュアリティーか。メモしとかなきゃね」とA子。
「この観点はおもしろいね」とB子。
「さっきエコール論というのも出てきたね」
「俳句と川柳はジャンルの違いではなく、エコールの違いだってやつね。そうでしょ、宮田さん」
「そう。よく勉強してるね」すでに落ち着きを取り戻した宮田が標準語で言った。
「私はジャンルの違いだと思うけど」とA子。
「ここで自律的ジャンル論をやりだすと、収拾がつかなくなるわよ」とB子が注意した。
所定の時間がそろそろ終わろうとするころ、松本芳味は次のような発言をした。
松本「ぼく、面白くないことがある。他のジャンルの、いかなる人と話をしても、皆川柳に対して優位の意識があるんだね。古川柳に示された一般概念に、現代川柳もハメこもうとする。ただ口語と文語とに分けてしまう考え方には疑問があるし、俳句の方では口語俳句をどう見ているの、否定しているの。「こんなのは川柳だ」というだけで、片付く問題ですか」
高柳「ジャンルの優位うんぬんの言葉は、僕がもっとも言ってもらいたくなかった、いわばなさけない泣き声だと思う。もし、その作家個人の実力からきたものではなしに、軽々しくジャンルの優位性をふりまわしていると思ったら、それに対して、松本さんは、自分自身の実力とその作家的権威によって、断乎として跳ねかえすべきだと思う。今日の僕は、同じ十七字の定型詩にかかわっている人間として、現代川柳についても責任あるフアンの立場から、僕の疑問や意見を述べたつもりだよ。そう受けとってほしいね」
金子「問題が煮詰まらないうちに時間が来てしまったようですが、まあ一度の座談で片付く問題でもなし、兎に角お互いに有益な話し合いでした」
河野「大変に有益でした。現代川柳は現在過渡期でして、いわば新しい川柳のイメージ作りの段階です。益々活発に運動を展開してゆこうと思います。その為にも俳句や短歌の方々と一つの広場で、短詩共通の問題をお互いに解決し合うという事が今後も行われるといいと思います」
「あー、終わっちゃった。もう少し聞きたかったのに」とA子が言った。
「兜太と春三は最後にまとめに入ったわね。広場なんて言葉は、春三の『短詩の広場』から来ているみたいね」とB子。
「松本芳味って、この座談会の進行に終始不満をもらしているよね」
「重信との間に対立軸ができたみたい。それは双方にとって不本意だったでしょうね」
「ああ、くやしいな。やはり歴史は変えられないものなんだな」と宮田が言った。
「君たちはいつの時代から来たの」
「2014年からよ」
「ボクは1975年からだ」
「金子兜太はこのころ川柳人と交流があったって、『金子兜太の世界』に寄せた文章で岡井さんが書いているから、興味をもったの。《あの謎のやうな川柳人たち》と岡井さんは言っているわ」
「ふうん、春三も祐も芳味も謎の川柳人なんだね」
宮田あきらはさびしそうに笑った。
「宮田さん」
「え、なに」
「ひとつ言ってもいいかしら」
「何でも」
「さっき、俳句が川柳に近づき、川柳が現代詩に近づくって言ったでしょ」
「うん、言ったよ」
「それって、逆の意味で、ジャンルのヒエラルキーを認めることにならないかしら」
「うーん、そうかな」
「わたし、それがすごく気になったの」
「ぼくらは川柳に詩を導入するのに一生懸命だったんだが、言われてみればそういう面もあるかも知れない。でも、君たちのように偏見なく川柳を見てくれる人がいて嬉しいよ」
「でも、ご心配なく。私たち俳句の世界で出世していくつもりですから」
「ははは、そうだな。じゃ、飲みにでもいきますか」
(注)本稿は「五七五定型」4号に掲載の拙文「コラージュ『座談会』」の小説ヴァージョンで、「俳句研究」昭和40年1月号に掲載された座談会《「現代川柳」を語る》を基にしています。ただし、引用は雑誌掲載の文章に完全に忠実というわけではありません。昭和40年のこの座談会は柳俳交流のひとつのピークだったと思われます。
前年の昭和38年に金子は岡井隆との共著『短詩型文学論』(紀伊国屋新書)を上梓しており、河野春三や山村祐などの川柳人との交流が始まっていた。金子を通じて岡井も川柳人と交流するようになっていた。高柳の師は富澤赤黄男であるが、赤黄男の周辺からは岡橋宣介などの川柳人が出ており、高柳は河野春三の出版記念会にも出席していた。
一同が集ったあと、司会の金子兜太はまず川柳人の紹介から始めた。
「ご出席いただいた河野春三さんは、『現代川柳への理解』、山村祐さんは『続短詩私論』という、それぞれの著書を持っておられる。又、松本芳味さんは今度の『俳句研究』誌の企てに応じて一文を草しておられる。まあ我々の今まで接しえた限りでの現代川柳派の方々が此処にお集まり下さっておる訳ですが、先ず話の糸口として、今申し上げた三つの文章などを参照しながら、私、現代川柳についての横におる者としての素直な感想を述べさせて貰おうかと思います」
当時「現代川柳」という言葉がしばしば使われていたが、これは単に「現代の川柳」という意味ではなく、「伝統川柳」に対する「革新川柳」というニュアンスが強かった。
金子の言う三つの文章のうち、河野春三の『現代川柳への理解』は『短詩型文学論』の注で引用されていた。山村祐の『続短詩私論』は「川柳現代」昭和39年1月号に金子兜太・林田紀音夫・高柳重信などが書評を掲載している。また、松本芳味は「俳句研究」昭和39年10月号に「現代川柳作品展望」という文章を発表しており、そこで芳味は現代川柳を「抒情について」「社会性について」「哲学派その他」に分類して紹介していた。
これらの川柳人の著作や文章を踏まえて、金子は俳句と川柳の共通性と相違について話を切り出した。
「まず、現代川柳と我々のやっている俳句とでは内容上のスレ違いということは殆どない。ただ、両者を発生から現状へという経緯の面で考えて来ると、一つの相違が感じられる。川柳の歴史には民衆に密着した自由な発想、ほしいままな風刺作りが一貫して感じられるけれども、俳句の場合、短歌の伝統を一応踏んだ所で発句という形式を生かして育ってきた、ややアカデミックな色合を持つ。もう一つ、川柳が口語短詩であったという事、従って最短定型という事に対して、文語短詩としての俳句ほど厳格でなかったという事、この違いが非常に重要だと思う。其の違いが内容上の差まで、或いは決めてくるのではないかと僕は考えるんです」
金子は『短詩型文学論』で「河野春三は『現代川柳への理解』で、俳句と川柳が最短詩としての共通性をもち、現在では内容的にも一致している点を指摘し、『短詩』として一本のジャンルに立ち得ることを語っているが、一面の正当性をもっていると思う。ただ、両者の内容上の本質的差異(川柳の機知と俳句の抒情)は越えられない一線であると思う」と述べているから、このあたりのことについて、もう一度確かめておきたかったのだろう。
この座談会を部屋の隅でそっと聞いている二人の女性がいる。彼らはタイムトラベラーで、昭和40年前後の柳俳交流について研究している20代の俳人である。座談会の参加者からは二人の姿は見えない。この二人を仮にA子・B子と呼んでおこう。
タイムトラベラーの守るべき原則は、歴史を変えてはいけないということである。どんなにフアンであっても、金子の髪をひっぱったりしてはいけない。座談会の内容に不満があったとしても、それに口を挟んではいけないのである。
「兜太ってずいぶん若いのね」とA子が言った。
「このときまだ45歳だもの」とB子。
「川柳人とも交流があったのね」
「『海程』は加藤楸邨の系統でしょ。人間探求派だから、きっと人間諷詠の川柳とも共通点があるのよ。あっ、春三が答えるわよ。静かに」
兜太の問題提起を受けて、河野春三が答えはじめた。
「十七音文語定型という事ですがね。発生からみて、和歌から生まれた俳句は、之に非常にふさわしい、極言すれば俳句は定型、文語に拠らねばならぬと言えるでしょう。川柳の場合、定型でしかも口語に拠ったという事ですね。之が何故かという事になると、僕は大した根拠を持っていなかったと思うんです。形式のやどかり…だったんじゃないかと考える訳です」
春三の口からヤドカリ説が飛び出した。川柳人は比喩的表現をよく使う。春三の話はなお続く。
「(川柳の)伝統派は殆ど口語ですが、現代川柳の方は革新の途上から文語を採用している訳です。この辺が俳句と逆ですね。俳句の方では文語定型が伝統派で、口語で定型基準破調又は自由律というと革新派という事になりますが、川柳の方では、伝統の方が口語で、しかも定型、革新派の方が、文語許容で、しかも破調又は自由律という訳です」
春三の発言を受けて山村祐が話しはじめた。山村は現代詩から川柳へと進んだ人で、人形劇団プークに所属していた。
山村は江戸期の庶民の単純化された発想・思考が五七五のリズムに乗って、原因・展開・結果という考え方で成立したこと、春三のいう「ヤドカリ説」にすること、前句付の付句として自然に返答の順序ができてしまう、という三点を述べた。
さきほどから議論の方向に不満そうな顔つきだった松本芳味が、たまりかねて話を切り出した。
「史的な面からの事ばかりだと、ここにいる方々とは話があわないんじゃないか。発想とか、表現とか、もっと内容的に入って行かないと」
松本は春三に嘱望されている若手川柳人で、のちに句集『難破船』を発行する。川柳における多行書きの書き手としても知られている。
金子が最初に紹介したように、松本芳味はちょうど「俳句研究」に「現代川柳作品展望」という文章を発表したばかりで、現代川柳を内容的に分類して紹介していた。「現代川柳が、現代詩の一分野―短詩を志向したとき、抒情の回復と高唱が示されたことは、短詩の本質からみて、極めて当然の現象と云えよう。人間詩・川柳―ということの再認識。そこから川柳革新の頁は始まったと云っていい。この行き方が、俳句の領域を犯すものであるとの非難は、かれら新しい川柳を志向する作家たちにはナンセンスであった」―自ら書いた文章の冒頭の一節が、鮮やかに芳味の脳裏に浮かび上がった。
松本の発言に対して、司会の金子はこんなふうに応じた。「あながちそうは思わないんです。僕の詩論からいえば、詩に内容の規定というものはない。内容は自由だという事になる。川柳と俳句が別種に存在したという事は、そこにやはり形式の差があったからだと考える訳です」
この内容と形式の問題は、この座談会を通じて何度も繰り返されることになる。
それまで黙って他の参加者の発言を聞いていた高柳重信がおもむろに口を開いた。
「黙って聞いていると話がどんどん先へ行ってしまう。(笑)僕は俳句作家だから、進歩的な立場の短歌に対する場合、これは文字の量が俳句とは違うんだから、形式上の差は何といっても大きいし、従ってやや無責任なシンパでおられる訳だ。だが、川柳となるとそうは行かない。一般通念からいって俳句と川柳は十七音定型という点で同じだから、どうしても辛辣なシンパという立場を取らざるを得ない」
「きゃー、これがジューシンよ。かっこいいわね」
とA子が言った。
「そうね。小池正博が一つ覚えのように繰り返している《辛辣なシンパ》というキイ・ワードがここで出てくるのよ」とB子。
「短歌に対しては無責任なシンパ、川柳に対しては辛辣なシンパって、ズバリ言ってるじゃない」
「日野草城の《善意の越境》と高柳重信の《辛辣なシンパ》は俳人の川柳に対する典型的な二つの態度なのよ」
「春三のいうヤドカリ説って何なの」
「五七五という形式を貝殻にたとえて、ヤドカリという内容がたまたま手ごろな貝殻を借りて利用した、っていうことじゃない」
「伝統川柳が口語で、現代川柳・革新川柳が文語許容なのは何で?」
「わかんない。春三氏に聞いてよ」
「俳句と川柳とではいくらか形式が違うというような話だが、両方とも五七五でありながら、どうして形式が違ったか、これが一番重要な問題だ」
高柳の話は続く。
「江戸期の、同じ時代の同じ空気を呼吸していた人達が、同じ五七五の定型で一つはいわゆる正風の俳句、一つは川柳を作っていたという事についてこれは単に形式が違うという事だけで片付けられる問題だろうか」
岡井「形式が違うってどういう事、形式は同じじゃないの?」
高柳「さっき俳句と川柳は形式が違うというような発言があったから、それに対していってる訳だ」
金子「結果的に、違う形式、といったわけだ。江戸期の川柳は口語の文章語の五七五で、俳句の方は文語の五七五だった。その違いは確かにあったとみるんだな」
高柳「同じ時代の空気を吸っている人それぞれ言葉に対するナルチシズムが違うからではないかと割りきってみることも出来る」
いつの間にか傍らに一人の男が立っているのにA子・B子は気づいた。それまで何の気配もしなかったのに、どこからこの人は現れたのだろう。男は二人と同じようにじっと座談会に聞き入っている。
「失礼ですが、あなたはどなたですか」
たまりかねてB子が聞いた。
「これは申し遅れました。私は、宮田あきらと言います。川柳を書いています」
男の言葉には関西の雰囲気がある。京都あたりの人なのか。
「私もこの座談会を聞きたくて、タイムトラベルしてきたのですよ」
と言って男はにやりと笑った。
「なあんだ。それじゃ、私たちのお仲間じゃん」
ほっとしてA子はつぶやいた。
「ご挨拶は後で改めて申し上げますから、座談会の続きを聞きましょう」
と宮田は言った。その表情には一種の思いつめたところがあった。
「漠然と詩を思い詩人について考えているだけでは現実に俳句や短歌を書くことは出来ない。しかも、現代短歌と現代俳句の場合は、はっきり詩形の違いが分るが、現代俳句と現代川柳の場合は区別がつかないような事が、ままあるんだ。だから、僕たちが相互に、ここで詩人を見ようとするとくには、共に熱烈に、それぞれの川柳と俳句について語る以外に方法はないと思う」
「『俳句は死んだ』というのが僕の昔からの持論だ。滅亡するんじゃなくて、俳句はもう死んでしまっているということだ。同じ観点から言えば川柳も、もうとっくに死んでる。しかも現代川柳の動きなんかみていると死んでるのに気がつかないで勝手に騒いでるといった感じがするんだ」
重信の発言は次第に鋭さを増してきた。
「現代川柳の、文学的に高い意欲をもってるといわれている人達の川柳が、僕らの俳句に似て来てる」
この重信の言葉を聞いたとたんに、春三の顔色が変わった。春三は元来、短気な男である。現代川柳が俳句に擦り寄ってきている、俳句の真似をしている、俳句の影響を受けている、俳句を取り入れている…そのような言説を俳人たちから何度聞かされてきたことだろう。この人たちは無意識のうちに川柳を見下しているのではないか。川柳は断じて俳句の亜流ではないのだ。
「大反論をせざるを得ない。川柳が俳句に似て来たのではなくて、俳句が川柳に似て来た点を僕は俳人に逆にききたい」
険悪になった空気を和らげるように、岡井隆が言った。
「高柳君が優秀な川柳は俳句に近づくといったが、優秀な俳人は段々現代詩に近づくという事もいえる(笑)」
それまでじっと座談会を聞いていた宮田あきらが一歩前へ進んで、座談の輪に入り込もうとしたのはそのときである。
「それはあかんのや。その言い方ではだめなんや…」
驚いたA子・B子は急に関西弁になった宮田を引き止めた。
「おじさん、歴史を変えたらだめなんです。タイムトラベルの原則を知らないのですか」
「ぼくはSFは嫌いなんや。サブカルチャーも嫌いや。この座談会の発言を訂正するために、苦労してここまで来たのや。頼むから離してくれ。川柳が俳句に近づくのやない。現代の俳句は川柳に近づき、現代の川柳が現代詩に近づく…こう反論すべきなんや」
その間に座談会は進行し、話題がすでに変わっていった。
「エコールの差というのはよろしいな。結局川柳と俳句の差は、何に傾斜して作るかというだけの差になる」と金子が言って、話は定型論の方に進んでいった。
「僕は口語にはアクチュアリティーがあると思う。これが今、大切だと思う」と岡井が言った。
高柳がこれに反応した。「そのアクチュアリティーという言葉だが、僕個人としては、自分があくまでも、最も本質的な俳句作家でありたいと覚悟をしたときからさっきいった言葉のナルチシズム、それは僕の言葉に対するナルチシズムと、それから俳句形式自体が抱く言葉に対するナルチシズムと、その双方に忠実に殉じようと思ってきたので、あえて、このアクチュアリティーをしばしば放棄することとなったけれど、川柳の方は逆にこのアクチュアリティーに殉じるために、いわゆる言葉に対するナルチシズムを、あえて犠牲にしてきたとも言えるかもしれない」
「ナルチシズムとアクチュアリティーか。メモしとかなきゃね」とA子。
「この観点はおもしろいね」とB子。
「さっきエコール論というのも出てきたね」
「俳句と川柳はジャンルの違いではなく、エコールの違いだってやつね。そうでしょ、宮田さん」
「そう。よく勉強してるね」すでに落ち着きを取り戻した宮田が標準語で言った。
「私はジャンルの違いだと思うけど」とA子。
「ここで自律的ジャンル論をやりだすと、収拾がつかなくなるわよ」とB子が注意した。
所定の時間がそろそろ終わろうとするころ、松本芳味は次のような発言をした。
松本「ぼく、面白くないことがある。他のジャンルの、いかなる人と話をしても、皆川柳に対して優位の意識があるんだね。古川柳に示された一般概念に、現代川柳もハメこもうとする。ただ口語と文語とに分けてしまう考え方には疑問があるし、俳句の方では口語俳句をどう見ているの、否定しているの。「こんなのは川柳だ」というだけで、片付く問題ですか」
高柳「ジャンルの優位うんぬんの言葉は、僕がもっとも言ってもらいたくなかった、いわばなさけない泣き声だと思う。もし、その作家個人の実力からきたものではなしに、軽々しくジャンルの優位性をふりまわしていると思ったら、それに対して、松本さんは、自分自身の実力とその作家的権威によって、断乎として跳ねかえすべきだと思う。今日の僕は、同じ十七字の定型詩にかかわっている人間として、現代川柳についても責任あるフアンの立場から、僕の疑問や意見を述べたつもりだよ。そう受けとってほしいね」
金子「問題が煮詰まらないうちに時間が来てしまったようですが、まあ一度の座談で片付く問題でもなし、兎に角お互いに有益な話し合いでした」
河野「大変に有益でした。現代川柳は現在過渡期でして、いわば新しい川柳のイメージ作りの段階です。益々活発に運動を展開してゆこうと思います。その為にも俳句や短歌の方々と一つの広場で、短詩共通の問題をお互いに解決し合うという事が今後も行われるといいと思います」
「あー、終わっちゃった。もう少し聞きたかったのに」とA子が言った。
「兜太と春三は最後にまとめに入ったわね。広場なんて言葉は、春三の『短詩の広場』から来ているみたいね」とB子。
「松本芳味って、この座談会の進行に終始不満をもらしているよね」
「重信との間に対立軸ができたみたい。それは双方にとって不本意だったでしょうね」
「ああ、くやしいな。やはり歴史は変えられないものなんだな」と宮田が言った。
「君たちはいつの時代から来たの」
「2014年からよ」
「ボクは1975年からだ」
「金子兜太はこのころ川柳人と交流があったって、『金子兜太の世界』に寄せた文章で岡井さんが書いているから、興味をもったの。《あの謎のやうな川柳人たち》と岡井さんは言っているわ」
「ふうん、春三も祐も芳味も謎の川柳人なんだね」
宮田あきらはさびしそうに笑った。
「宮田さん」
「え、なに」
「ひとつ言ってもいいかしら」
「何でも」
「さっき、俳句が川柳に近づき、川柳が現代詩に近づくって言ったでしょ」
「うん、言ったよ」
「それって、逆の意味で、ジャンルのヒエラルキーを認めることにならないかしら」
「うーん、そうかな」
「わたし、それがすごく気になったの」
「ぼくらは川柳に詩を導入するのに一生懸命だったんだが、言われてみればそういう面もあるかも知れない。でも、君たちのように偏見なく川柳を見てくれる人がいて嬉しいよ」
「でも、ご心配なく。私たち俳句の世界で出世していくつもりですから」
「ははは、そうだな。じゃ、飲みにでもいきますか」
(注)本稿は「五七五定型」4号に掲載の拙文「コラージュ『座談会』」の小説ヴァージョンで、「俳句研究」昭和40年1月号に掲載された座談会《「現代川柳」を語る》を基にしています。ただし、引用は雑誌掲載の文章に完全に忠実というわけではありません。昭和40年のこの座談会は柳俳交流のひとつのピークだったと思われます。
2014年8月15日金曜日
吉村毬子句集『手毬唄』
中村苑子といえば『水妖詞館』の次の句がまず思い浮かぶ。
春の日やあの世この世と馬車を駆り 中村苑子
甲殻機動隊の劇場版アニメ「イノセント」で、主人公バトーがこの句を口ずさんだとき、私は鳥肌が立ったものだ。
さて、吉村毬子は中村苑子の弟子である。
師系というものが私はあまり好きではないのだが、吉村毬子の場合はまず「師系」という言葉を使っておきたい。吉村は筋の通った俳人だからである。
吉村は「未定」を経て、現在「LOTUS」の同人。『手毬唄』(文学の森)は第一句集となる。
全248句は「藍白」「深緋」「濡羽色」「薄紅」「天色」「鳥の子色」の六章に分けられ、それぞれの色の雰囲気が各章に流れている。まず、「藍白」(あゐじろ)の巻頭句から。
金襴緞子解くやうに河からあがる
「金襴緞子の帯締めながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」という童謡がある。蕗谷虹児の作と言われている。花嫁はなぜ泣くのだろう。処女でなくなるのを悲しむのだという説もある。
この句では、金襴緞子を解くように、と言う。帯を解いて河へ入るのなら分かりやすいが、河からあがるのである。では、誰が河から上がってくるのだろうか。主体は「私」かもしれないが、もしかして水妖ではないかと思えてくる。
この句の次には「日輪へ孵す水語を恣」が置かれているから、妖艶な雰囲気もある。
金襴緞子を解くということと河から上がるということとのあいだに、ある精神の状況が読み取れるのである。
「藍白」の章には「水」のイメージをベースとする句が多い。
虚空にて沐浴の二月十五日
水底のものらに抱かれ流し雛
溢れる尾 夜光虫でも海彦でもない
そして、「藍白」の章の最後には次の句。
しづかに毬白き夏野に留まりけり
「頭の中で白い夏野になっている」(高屋窓秋)に対する挨拶だろう。
作者の偏愛する「毬」の句はさまざまなヴァリエーションをとりながら、何句もあらわれる。
次の「深緋」(こきひ)の章から。
屠所遠く踊り惚けて寒椿
踊り場へ落ちる椿も風土記かな
白椿ではなくて赤い椿だろう。「深緋」のベースにあるのは火である。色で言えば赤。
「老いながら椿となって踊りけり」(三橋鷹女)が意識されている。吉村が現代俳句のどのような系譜を引き継いでいるのかが読み取れる。
纏足の少年羊歯へ血を零す
罌粟散っていま降灰を染めあげる
曼珠沙華手折る刹那に染まる羽
「濡羽色」の章から。
毬の中で土の嗚咽を聴いてゐた
この章に通底するのは土、そして黒。
自鳴琴それは未生の帯と呼び
石の中蝶の摩擦の鳴りやまず
剥製の母が透けゆく昼の虫
螺旋三昧 羽を降らせてからは
空蝉を海の擬音で包みをり
羽をもつのは虫たちや鳥たち。
土中や地上に閉じ込められ緊縛されているからこそ飛翔への願望は切実なものとなる。
「薄紅」の章では、日本の伝統的美意識である花=桜の句が詠まれている。
櫻狩ひとりひとりの浮遊かな
朝櫻傀儡は深くたたまれし
水火土風空の五大と戯れながら、さまざまな色を織り交ぜ、四季の手触りを詠み閉じ込めてゆく。その変奏のありさまが楽しめる句集となっている。
翁かの桃の遊びをせむと言ふ 中村苑子
春の日やあの世この世と馬車を駆り 中村苑子
甲殻機動隊の劇場版アニメ「イノセント」で、主人公バトーがこの句を口ずさんだとき、私は鳥肌が立ったものだ。
さて、吉村毬子は中村苑子の弟子である。
師系というものが私はあまり好きではないのだが、吉村毬子の場合はまず「師系」という言葉を使っておきたい。吉村は筋の通った俳人だからである。
吉村は「未定」を経て、現在「LOTUS」の同人。『手毬唄』(文学の森)は第一句集となる。
全248句は「藍白」「深緋」「濡羽色」「薄紅」「天色」「鳥の子色」の六章に分けられ、それぞれの色の雰囲気が各章に流れている。まず、「藍白」(あゐじろ)の巻頭句から。
金襴緞子解くやうに河からあがる
「金襴緞子の帯締めながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」という童謡がある。蕗谷虹児の作と言われている。花嫁はなぜ泣くのだろう。処女でなくなるのを悲しむのだという説もある。
この句では、金襴緞子を解くように、と言う。帯を解いて河へ入るのなら分かりやすいが、河からあがるのである。では、誰が河から上がってくるのだろうか。主体は「私」かもしれないが、もしかして水妖ではないかと思えてくる。
この句の次には「日輪へ孵す水語を恣」が置かれているから、妖艶な雰囲気もある。
金襴緞子を解くということと河から上がるということとのあいだに、ある精神の状況が読み取れるのである。
「藍白」の章には「水」のイメージをベースとする句が多い。
虚空にて沐浴の二月十五日
水底のものらに抱かれ流し雛
溢れる尾 夜光虫でも海彦でもない
そして、「藍白」の章の最後には次の句。
しづかに毬白き夏野に留まりけり
「頭の中で白い夏野になっている」(高屋窓秋)に対する挨拶だろう。
作者の偏愛する「毬」の句はさまざまなヴァリエーションをとりながら、何句もあらわれる。
次の「深緋」(こきひ)の章から。
屠所遠く踊り惚けて寒椿
踊り場へ落ちる椿も風土記かな
白椿ではなくて赤い椿だろう。「深緋」のベースにあるのは火である。色で言えば赤。
「老いながら椿となって踊りけり」(三橋鷹女)が意識されている。吉村が現代俳句のどのような系譜を引き継いでいるのかが読み取れる。
纏足の少年羊歯へ血を零す
罌粟散っていま降灰を染めあげる
曼珠沙華手折る刹那に染まる羽
「濡羽色」の章から。
毬の中で土の嗚咽を聴いてゐた
この章に通底するのは土、そして黒。
自鳴琴それは未生の帯と呼び
石の中蝶の摩擦の鳴りやまず
剥製の母が透けゆく昼の虫
螺旋三昧 羽を降らせてからは
空蝉を海の擬音で包みをり
羽をもつのは虫たちや鳥たち。
土中や地上に閉じ込められ緊縛されているからこそ飛翔への願望は切実なものとなる。
「薄紅」の章では、日本の伝統的美意識である花=桜の句が詠まれている。
櫻狩ひとりひとりの浮遊かな
朝櫻傀儡は深くたたまれし
水火土風空の五大と戯れながら、さまざまな色を織り交ぜ、四季の手触りを詠み閉じ込めてゆく。その変奏のありさまが楽しめる句集となっている。
翁かの桃の遊びをせむと言ふ 中村苑子
2014年8月8日金曜日
「川柳の使命」について
「触光」38号(編集発行・野沢省悟)に広瀬ちえみが「高田寄生木賞―川柳の使命―」という文章を書いている。
ふる里は戦争放棄した日本 大久保眞澄
この句は「第4回高田寄生木賞」の大賞作品であり、受賞後あちらこちらで取り上げられている。広瀬の一文はこの句をめぐっての感想である。
誤解のないように最初に断っておくが、広瀬はこの作品自体について疑義を述べているのではなくて、この作品を評価した選者の評価の仕方について若干の違和感を述べている。
この句を大賞に選んだのは渡辺隆夫と野沢省悟であるが、話の順序として二人の選評をまず紹介しておく(「触光」37号)。
「お国(生まれ育った土地)はどこですか、という質問に、『戦争放棄した日本』です、という答えが返ってきたらうれしいですね。安倍総理は、たぶん、ギョッとして目を剥くでしょうね。この句には、川柳の使命のようなものがギュッと濃縮されています」(渡辺隆夫)
「昭和二十(1945)年、日本は終(負)戦を迎えた。あれから半世紀以上が過ぎ、今年は六十九年目となる。僕は戦後生まれ(昭和二八年)であるが、戦争の悲惨さは身近な人間の話や書物や映画等で知っているつもりである。戦後、今ほど戦争放棄したはずの日本が危い状況になったことはないのではないか。そういう意味でこの作品は時事句といえよう。だが忘れ去られる時事句ではなくて、今後ますます重量を持って行く作品になると僕は思う。正直に言うと『スローガン』ではないか、との思いもあり迷ったことは確かである。しかしこの作品の『ふる里』という言葉という意味は、作者の肉体から発せられた言葉と僕は感じた」(野沢省悟)
広瀬がこだわったのは、渡辺の「川柳の使命」という言葉である。
広瀬は「自分は少しも傷まない位置から発信するスローガンのような時事吟は巷にあふれており、私は正直苦手だ」と書いたうえで、こんなふうに述べている。
「さて、川柳には隆夫さんが述べる『使命のようなもの』があるのだろうか。川柳の特質のひとつである『批判』や『諷刺』にあたることをさしているのだろうが、私は『使命』という強いことばでいわれるとどこかひいてしまう。アブナイもののようで近づきたくないと思うのだ」
そもそも渡辺隆夫は、第三者的な立場から時事句を書くのを得意とする。「自分は少しも傷まない位置」から書いていると言ってもよい。なぜなら、自分の内面をくぐらせてしまうと、諷刺の矢がつい鈍ってしまうからだ。その隆夫がここでは「川柳の使命」という言葉を使っているのを私はとても興味深いことに思う。「人間というものは気をつけていないとすぐ真面目になってしまう」と常々言っている隆夫が、ここでは真面目になっているのだ。
広瀬の文章は別の視点から受賞作を評価するものになっている。
「読みによって作品の世界が再構築され、ひとり歩きを始める力を得るのだ」「詠むひとと読むひとはすこしずれており、そしてそれがまた作品を面白くしたり、読みに『使命』を与えたりさえするのだ」というのが広瀬の感想である。
私はこの問題提起をおもしろく思った。
「水脈」37号(編集・浪越靖政)。
同人作品のページの下段に作者の短文が付く。
洒井麗水が飯尾麻佐子の「魚」のことを書いている。
「魚」は1978年に創刊、1996年63号で終刊。女性だけの川柳誌として先駆的な役割を果たした。「魚」のことは「バックストローク」24号で一戸涼子に書いてもらったことがある。
酒井は飯尾の次の文章を引用している。
「もっと女性は自分を正しく知るべきであり、スマートな人とのふれ合いが出来て、その上自分が川柳で『何』を訴えたいのか、その原点を創造の基本にしっかりと持つこと。女性でありながら男性の占有物である評論にのり出してゆく意欲的姿勢を持ち、次第に論理を駆使して批評分野に開眼してゆくこと。更にその存在に光明を抱き後継する女性が日を追って増加すること。女性がより豊かな人間性によって、川柳界の明日を創ることを考えたい」
女性川柳人の活躍が目覚ましい現在、飯尾が目指したことは男性・女性を問わず継承すべき課題である。
「水脈」から二句ご紹介。
竜骨を組み込む貌と対峙する 落合魯忠
竜骨は船の背骨に相当する部分。
年齢を重ねた人間の風貌にもそれぞれの竜骨があるのだろう。
火曜日は相も変わらぬ大鏡 一戸涼子
この「大鏡」を単なる大きな鏡と読むか、古典の『大鏡』と読むか。
なぜ火曜なのか。月曜は休日明けで仕事がはじまる日だし、金曜は週末であり、それぞれのニュアンスがある。火曜は微妙な曜日である。
「第65回玉野市民川柳大会」の大会報が届いた。
特選の中から二句紹介しておく。
展開を見たくて妹の枕 吉松澄子
「展開」という題詠で、「妹の枕」を持ってきている。
「妹」の句はいろいろあるが、「枕」というとほのかにエロティシズムが感じられる。
川端康成なら姉と妹の心理劇を抒情的なはかなさで描いただろう。
天井の人で溢れる誕生日 榊陽子
「誕生日」の句もいろいろあるが、こういう誕生日は見たことがない。
天井裏に人が溢れているというのは、誕生を寿いでいると言えるが、そのような人々が見えない裏側の世界に存在するというのは何やら不気味でもある。
ふる里は戦争放棄した日本 大久保眞澄
この句は「第4回高田寄生木賞」の大賞作品であり、受賞後あちらこちらで取り上げられている。広瀬の一文はこの句をめぐっての感想である。
誤解のないように最初に断っておくが、広瀬はこの作品自体について疑義を述べているのではなくて、この作品を評価した選者の評価の仕方について若干の違和感を述べている。
この句を大賞に選んだのは渡辺隆夫と野沢省悟であるが、話の順序として二人の選評をまず紹介しておく(「触光」37号)。
「お国(生まれ育った土地)はどこですか、という質問に、『戦争放棄した日本』です、という答えが返ってきたらうれしいですね。安倍総理は、たぶん、ギョッとして目を剥くでしょうね。この句には、川柳の使命のようなものがギュッと濃縮されています」(渡辺隆夫)
「昭和二十(1945)年、日本は終(負)戦を迎えた。あれから半世紀以上が過ぎ、今年は六十九年目となる。僕は戦後生まれ(昭和二八年)であるが、戦争の悲惨さは身近な人間の話や書物や映画等で知っているつもりである。戦後、今ほど戦争放棄したはずの日本が危い状況になったことはないのではないか。そういう意味でこの作品は時事句といえよう。だが忘れ去られる時事句ではなくて、今後ますます重量を持って行く作品になると僕は思う。正直に言うと『スローガン』ではないか、との思いもあり迷ったことは確かである。しかしこの作品の『ふる里』という言葉という意味は、作者の肉体から発せられた言葉と僕は感じた」(野沢省悟)
広瀬がこだわったのは、渡辺の「川柳の使命」という言葉である。
広瀬は「自分は少しも傷まない位置から発信するスローガンのような時事吟は巷にあふれており、私は正直苦手だ」と書いたうえで、こんなふうに述べている。
「さて、川柳には隆夫さんが述べる『使命のようなもの』があるのだろうか。川柳の特質のひとつである『批判』や『諷刺』にあたることをさしているのだろうが、私は『使命』という強いことばでいわれるとどこかひいてしまう。アブナイもののようで近づきたくないと思うのだ」
そもそも渡辺隆夫は、第三者的な立場から時事句を書くのを得意とする。「自分は少しも傷まない位置」から書いていると言ってもよい。なぜなら、自分の内面をくぐらせてしまうと、諷刺の矢がつい鈍ってしまうからだ。その隆夫がここでは「川柳の使命」という言葉を使っているのを私はとても興味深いことに思う。「人間というものは気をつけていないとすぐ真面目になってしまう」と常々言っている隆夫が、ここでは真面目になっているのだ。
広瀬の文章は別の視点から受賞作を評価するものになっている。
「読みによって作品の世界が再構築され、ひとり歩きを始める力を得るのだ」「詠むひとと読むひとはすこしずれており、そしてそれがまた作品を面白くしたり、読みに『使命』を与えたりさえするのだ」というのが広瀬の感想である。
私はこの問題提起をおもしろく思った。
「水脈」37号(編集・浪越靖政)。
同人作品のページの下段に作者の短文が付く。
洒井麗水が飯尾麻佐子の「魚」のことを書いている。
「魚」は1978年に創刊、1996年63号で終刊。女性だけの川柳誌として先駆的な役割を果たした。「魚」のことは「バックストローク」24号で一戸涼子に書いてもらったことがある。
酒井は飯尾の次の文章を引用している。
「もっと女性は自分を正しく知るべきであり、スマートな人とのふれ合いが出来て、その上自分が川柳で『何』を訴えたいのか、その原点を創造の基本にしっかりと持つこと。女性でありながら男性の占有物である評論にのり出してゆく意欲的姿勢を持ち、次第に論理を駆使して批評分野に開眼してゆくこと。更にその存在に光明を抱き後継する女性が日を追って増加すること。女性がより豊かな人間性によって、川柳界の明日を創ることを考えたい」
女性川柳人の活躍が目覚ましい現在、飯尾が目指したことは男性・女性を問わず継承すべき課題である。
「水脈」から二句ご紹介。
竜骨を組み込む貌と対峙する 落合魯忠
竜骨は船の背骨に相当する部分。
年齢を重ねた人間の風貌にもそれぞれの竜骨があるのだろう。
火曜日は相も変わらぬ大鏡 一戸涼子
この「大鏡」を単なる大きな鏡と読むか、古典の『大鏡』と読むか。
なぜ火曜なのか。月曜は休日明けで仕事がはじまる日だし、金曜は週末であり、それぞれのニュアンスがある。火曜は微妙な曜日である。
「第65回玉野市民川柳大会」の大会報が届いた。
特選の中から二句紹介しておく。
展開を見たくて妹の枕 吉松澄子
「展開」という題詠で、「妹の枕」を持ってきている。
「妹」の句はいろいろあるが、「枕」というとほのかにエロティシズムが感じられる。
川端康成なら姉と妹の心理劇を抒情的なはかなさで描いただろう。
天井の人で溢れる誕生日 榊陽子
「誕生日」の句もいろいろあるが、こういう誕生日は見たことがない。
天井裏に人が溢れているというのは、誕生を寿いでいると言えるが、そのような人々が見えない裏側の世界に存在するというのは何やら不気味でもある。
2014年8月2日土曜日
『野沢省悟句集 60』
『野沢省悟句集 60』(2014年7月10日、東奥日報社)が発行された。
東奥日報社創刊125周年事業として、青森県短詩型文芸作品を発信するシリーズ。短歌・俳句・川柳各30冊が予定されており、川柳からは高田寄生木をはじめ7冊目の刊行となる。
本書は2005年から2013年までの川柳作品360句を収録している。句集のタイトルに「60」とあるのは、2005年が戦後60年、2013年が野沢の還暦の年であることにちなむという。野沢の50代の作品集である。「解剖」「ひょいと」「大樹に」「逃避行」「母逝く」の五章に分けられ、「逃避行」は2011年3月11日に仙台市秋保温泉にいた作者の震災体験を詠んだもの。「母逝く」は母親への追悼句を含む。
ここでは、「解剖」の章から何句かピックアップしてみたい。
あじさいのうすくらがりのモネの指
モネといえば睡蓮だが、この句ではアジサイである。
アジサイの学名「オタクサ」はシーボルトが名付けたことも知られている。ここではそういう連想・取り合わせを外している。
「あじさいのうすくらがり」に焦点をあてているところに川柳性・意味性を感じる。暗部のほうに眼がゆくのは川柳人の本能かもしれない。
モネはジヴェルニーの家で晩年の作品を描いた。原田マハの『ジヴェルニーの食卓』はモネを主人公にした小説。
花園にアジサイがあったかどうか記憶にないが、七色に変化するアジサイにもモネも画家としての触手が動いたかもしれない。
合法的にゴッホの耳を食べている
モネの次はゴッホの句を取り上げてみる。
アルルでゴッホはゴーギャンとの共同生活に入るが、個性の強い二人は衝突し、ゴッホの耳切り事件が起こる。
「炎の人ゴッホ」という映画では、ゴッホがカーク・ダグラス、ゴーギャンがアンソニー・クインだった。
耳を切るといえば、日本では明恵上人のエピソードが有名。
事件そのものが衝撃的だが、この句ではその衝撃性に釣り合うように、「食べている」という強い言葉を用いている。
「合法的に」というのだから「非合法的に」という対義語を連想させる。
私たちはゴッホのような激しい生涯を送ることはできない。平凡な日常生活を送っているのである。けれども、心の中ではゴッホのような生涯に憧れる部分もある。
「~的」という言葉は川柳でよく使われる。
精巣という安らかなロスタイム
野沢は人間の身体の生理的機能と向き合う作品をしばしば詠んでいる。
サッカーのロスタイムは無得点に終わることもあるが、試合を決める得点が入ることもあるスリリングな時間帯である。それを「安らかな」と表現してのけた。
ヒトの生殖機能を冷徹に見据えている。
おしっこをするたび法蓮華経かな
「おしっこ」という言葉を使っている。
「川柳はこういう用語を平気で使えるからいいね」と言う人がいる。ある意味で川柳に対する蔑視を感じる。どんな用語であっても、俳句であろうと川柳であろうと、使いたければ使えばいいのだ。
この句は俗性と宗教性(聖性)の落差をおもしろがるのではなく、背後にある作者の人間観を読み取るべきだろう。
仏とは女陰化と思う秋の水
この句にも俗性即聖性という作者の人間観が表れている。
それに共感するかどうかは別の問題で、人それぞれだろう。
ただ、もの足りないのは「秋の水」の部分で季語に逃げているように感じることだ。
虚無ふたつほど冷蔵庫から持って来い
「~持ってこい」は川柳ではときどき見かける文体。
「ないはずはない抽斗を持ってこい」(西田当百)
洗っていいくちびるとだめなくちびる
それぞれに具体的なケースを代入してみるとおもしろい。
蟻は会議中なので殺します
「殺す」というのも意味の強い言葉である。
殺意は心の中の世界であり、それを表現することは現実の行為とは全く次元が異なる。
「バスを待つあいだのぼんやりした殺意」(石部明)
晩年の与謝野鉄幹は庭で蟻を殺していたという。妻の晶子に表現者として水をあけられ、時代から取り残された憤懣が心の底にあったのだろう。
この句では会議をしている蟻たちを神の視点から眺めている。
以上、野沢の作品には意味性の強度のきいた言葉を使うところに川柳性を感じるが、その根底には作者の人間観が横たわっている。
野沢は「あとがき」で次のように書いている。
「2005年からの8年余りの時期は、僕の五十代であり仕事上、夜勤勤務をしながらの川柳活動は辛いこともあった。従って自身の作品を振り返る余裕もなく、今回この句集をまとめる作業はたいへん貴重な時間であった。故成田千空氏は『川柳は俳句を革新したもの』と僕に言った。その言葉にはげまされての川柳活動であり、作家活動であったが、その結果の本句集に忸怩たる思いである」
野沢が編集発行していた「双眸」15号(2005年5月)は〈成田千空・川柳を語る〉を特集している。野沢と成田の対談などが収録されているが、ここでは成田千空の講演「俳句と川柳」(2004年11月3日、「俳句・川柳合同研究会」)から引用していきたい。俳句の季語について述べたあと、成田千空はこんなふうに発言している。
「川柳は逆に季節感はさして関係なく、人生とか世相とか時代のそういうものに対する関心に移って行く訳です。そういうことになりますから自ずから自由な発想でしかも季節とか切れ字とかに束縛されない訳ですから、素材に対しても世界が大変広いんですね。俳句の何倍も広い。そういうことも一つの形式から生まれてくるということもありますので、川柳の方がずっと自由な発想でいい作品が残ってしかるべきだと思います」
このシリーズ、川柳からは今後も、むさしや滋野さちの句集が予定されているので楽しみだ。
東奥日報社創刊125周年事業として、青森県短詩型文芸作品を発信するシリーズ。短歌・俳句・川柳各30冊が予定されており、川柳からは高田寄生木をはじめ7冊目の刊行となる。
本書は2005年から2013年までの川柳作品360句を収録している。句集のタイトルに「60」とあるのは、2005年が戦後60年、2013年が野沢の還暦の年であることにちなむという。野沢の50代の作品集である。「解剖」「ひょいと」「大樹に」「逃避行」「母逝く」の五章に分けられ、「逃避行」は2011年3月11日に仙台市秋保温泉にいた作者の震災体験を詠んだもの。「母逝く」は母親への追悼句を含む。
ここでは、「解剖」の章から何句かピックアップしてみたい。
あじさいのうすくらがりのモネの指
モネといえば睡蓮だが、この句ではアジサイである。
アジサイの学名「オタクサ」はシーボルトが名付けたことも知られている。ここではそういう連想・取り合わせを外している。
「あじさいのうすくらがり」に焦点をあてているところに川柳性・意味性を感じる。暗部のほうに眼がゆくのは川柳人の本能かもしれない。
モネはジヴェルニーの家で晩年の作品を描いた。原田マハの『ジヴェルニーの食卓』はモネを主人公にした小説。
花園にアジサイがあったかどうか記憶にないが、七色に変化するアジサイにもモネも画家としての触手が動いたかもしれない。
合法的にゴッホの耳を食べている
モネの次はゴッホの句を取り上げてみる。
アルルでゴッホはゴーギャンとの共同生活に入るが、個性の強い二人は衝突し、ゴッホの耳切り事件が起こる。
「炎の人ゴッホ」という映画では、ゴッホがカーク・ダグラス、ゴーギャンがアンソニー・クインだった。
耳を切るといえば、日本では明恵上人のエピソードが有名。
事件そのものが衝撃的だが、この句ではその衝撃性に釣り合うように、「食べている」という強い言葉を用いている。
「合法的に」というのだから「非合法的に」という対義語を連想させる。
私たちはゴッホのような激しい生涯を送ることはできない。平凡な日常生活を送っているのである。けれども、心の中ではゴッホのような生涯に憧れる部分もある。
「~的」という言葉は川柳でよく使われる。
精巣という安らかなロスタイム
野沢は人間の身体の生理的機能と向き合う作品をしばしば詠んでいる。
サッカーのロスタイムは無得点に終わることもあるが、試合を決める得点が入ることもあるスリリングな時間帯である。それを「安らかな」と表現してのけた。
ヒトの生殖機能を冷徹に見据えている。
おしっこをするたび法蓮華経かな
「おしっこ」という言葉を使っている。
「川柳はこういう用語を平気で使えるからいいね」と言う人がいる。ある意味で川柳に対する蔑視を感じる。どんな用語であっても、俳句であろうと川柳であろうと、使いたければ使えばいいのだ。
この句は俗性と宗教性(聖性)の落差をおもしろがるのではなく、背後にある作者の人間観を読み取るべきだろう。
仏とは女陰化と思う秋の水
この句にも俗性即聖性という作者の人間観が表れている。
それに共感するかどうかは別の問題で、人それぞれだろう。
ただ、もの足りないのは「秋の水」の部分で季語に逃げているように感じることだ。
虚無ふたつほど冷蔵庫から持って来い
「~持ってこい」は川柳ではときどき見かける文体。
「ないはずはない抽斗を持ってこい」(西田当百)
洗っていいくちびるとだめなくちびる
それぞれに具体的なケースを代入してみるとおもしろい。
蟻は会議中なので殺します
「殺す」というのも意味の強い言葉である。
殺意は心の中の世界であり、それを表現することは現実の行為とは全く次元が異なる。
「バスを待つあいだのぼんやりした殺意」(石部明)
晩年の与謝野鉄幹は庭で蟻を殺していたという。妻の晶子に表現者として水をあけられ、時代から取り残された憤懣が心の底にあったのだろう。
この句では会議をしている蟻たちを神の視点から眺めている。
以上、野沢の作品には意味性の強度のきいた言葉を使うところに川柳性を感じるが、その根底には作者の人間観が横たわっている。
野沢は「あとがき」で次のように書いている。
「2005年からの8年余りの時期は、僕の五十代であり仕事上、夜勤勤務をしながらの川柳活動は辛いこともあった。従って自身の作品を振り返る余裕もなく、今回この句集をまとめる作業はたいへん貴重な時間であった。故成田千空氏は『川柳は俳句を革新したもの』と僕に言った。その言葉にはげまされての川柳活動であり、作家活動であったが、その結果の本句集に忸怩たる思いである」
野沢が編集発行していた「双眸」15号(2005年5月)は〈成田千空・川柳を語る〉を特集している。野沢と成田の対談などが収録されているが、ここでは成田千空の講演「俳句と川柳」(2004年11月3日、「俳句・川柳合同研究会」)から引用していきたい。俳句の季語について述べたあと、成田千空はこんなふうに発言している。
「川柳は逆に季節感はさして関係なく、人生とか世相とか時代のそういうものに対する関心に移って行く訳です。そういうことになりますから自ずから自由な発想でしかも季節とか切れ字とかに束縛されない訳ですから、素材に対しても世界が大変広いんですね。俳句の何倍も広い。そういうことも一つの形式から生まれてくるということもありますので、川柳の方がずっと自由な発想でいい作品が残ってしかるべきだと思います」
このシリーズ、川柳からは今後も、むさしや滋野さちの句集が予定されているので楽しみだ。
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