2014年5月30日金曜日

中尾藻介の川柳

平成5・6年ごろのことだから、もう20年以前の話になる。川柳に興味をもちはじめた私は、当時堺市に住んでいたので、堺番傘の知人に連れられて地元の川柳大会に参加した。「夜市川柳大会」とか「堺市民川柳大会」に毎年行った時期だった。「川柳塔」の西尾栞や橘高薫風が健在で、小島蘭幸・新家完司もよく選者として来ていた。「堺番傘」では梶川雄次郎や中田たつおの姿があった。墨作二郎のズバズバとした発言も聞いた。時代劇の役者で斬られ役専門の大木晤郎も見かけたかな。そんな中で中尾藻介という人の句がよく抜けていて、おもしろいと思った。「モスケ」という呼名が耳にとまったのだ。今回は藻介の作品をいくつか紹介してみたい。
いま手元に『中尾藻介川柳自選句集』がある。180ページの中にぎっしりと1750句が収録されていて、句集の体裁としては読みやすいものではないのが残念である。「舞鶴線」(昭和16年~28年)「憧憬の人」(昭和29年~41年)「唄でなし」(昭和42年~52年)「花火師」(昭和53年~61年)の四章に年代順に分けられているが、特に私がおもしろいと思うのは「唄でなし」の章である。この章を中心に取り上げてゆく。

大阪市都島区に鳴るギター

川柳人の間ではよく知られている句である。特に何を言っているわけでもなくて、ただギターが鳴っているというだけである。この句を印象的にしているのは「大阪市都島区」という地名だろう。
「ハンカチを若草山に二枚敷く」(高橋散二)に通じる味がある。

アマゾンで親を殺してきた闘魚

地名でもこの句は趣きが異なる。机上で作った作か実際に闘魚を見てつくったものか分からないが、実景としては闘魚が泳いでいるだけである。それをこの魚はアマゾンで親を殺してきたのだと見てきたようなことを言っている。

球根よ君を信じることにする
じゃが芋がくさりはじめている倉庫

方向は異なるが、この二句は同じことの表裏を表現している。

断崖でハンドバッグを開けている

ややこしいところでハンドバッグをあけたものだ。一句全体が川柳的喩となっていて、ある状況を表現している。

刺しにくる蜂ではないと思いつつ

蜂が飛んできた。蜂のことをよく知らない人はスズメバチだと思って逃げまわるが、実際はアシナガバチだったりして、そう危険ではない。そんなことは分かっていても、何かの拍子に刺されるかもしれない。この句の場合も川柳的喩として読むことができる。

いのししが走ると山も走りだす

山なんか走るわけがないのだが、おもしろい句である。

世の中が変る牛車の隙間から
美しく老い幻の馬を曳く
波打際の男は蟹に化けるのだ

藻介の川柳の基調は「軽み」なのだが、そのベースの上に多彩な作品を生み出している。
世の中の変遷、生きることの変転を巧みに詠んでいる。

一平のいないかの子を見ています
天王寺駅で別れて以来なり

川柳ではときどき盗作問題が起こる。暗合句というのではなくて、意図的に悪意をもって他人の作の一部または大部分を取り込んで自作と称するのだ。選者にそれを見抜く見識がない場合、そういう作品が入賞したりすることがある。
藻介は、短歌には本歌取りがあるのだから川柳にも本歌取り・パロディがあってもよいと考えていたようだ。だから、意識的にパロディとして作った句がいくつかある。
一句目は「かの子には一平がいた長い雨」(時実新子)を、二句目は「道頓堀の雨に別れて以来なり」のパロディだろう。パロディにする場合は、元になる作品が誰でも知っている句であることが前提となる。
藻介は恋句もけっこう上手い。次のような句はいかがだろう。

声を聞きたい人へハガキを書いている
意地悪をしてくれるので逢いにゆく
逢えたので正倉院は見なくても
死ぬときに逢いたいひとがないように

さて、藻介は刑務官として各地で勤務した。こんな句がある。

刑務所の塀というのは唄でなし

「唄でなし」という章名はこの句から取られているようだ。
32年間、近畿一円の刑務所で奉職したらしい。その間、藻介は川柳にも熱中した。『自選句集』の「あとがき」には次のように書かれている。
「抒情詩風の川柳の真似事から、前田伍健選で川柳の背骨に触れ、ふあうすと調全盛の中で軽味を模索した。憧憬の人大山竹二の訪問も果たせた」
「あとがき」には延原句沙弥、房川素生、青柳山紫楼、馬場魚介などの川柳人の名が挙げられている。
最後になるが、次の句は藻介の実力を遺憾なく発揮したものと思う。

生まれない前から尾行されている

2014年5月23日金曜日

第4回高田寄生木賞

「触光」37号(編集発行人・野沢省悟)に「第4回高田寄生木賞」が発表されている。大賞は次の作品である。

ふる里は戦争放棄した日本   大久保真澄

5人の選者のうち、渡辺隆夫と野沢省悟の二人が特選に選んでいる。
この句についてはすでに樋口由紀子が「ウラ俳」の「金曜日の川柳」(5月16日)で取り上げている。
「触光」誌には全応募作品が紹介されている。沖縄から北海道まで全国から205人の応募があり、一人2句の応募だから計410句である。川柳をはじめて数年の人からベテラン川柳人まで多様であり、いまどんな川柳作品が書かれているのかを見るのに便利だと思った。
上位作品は選者によるコメントがあるから、今回はできるだけそれ以外の作品を紹介してみたい。都道府県としては南から北へという順である。

わたくしの庭で飯事(ママゴト)しませんか   (熊本県)阪本ちえこ

子どものころのままごと遊び。草の葉をおかずにして、食べる真似をしたものだ。土の団子などもあっただろうか。それぞれお母さん役、お父さん役になりきっていたようだ。
この句は子どもが言っているのではないから、大人がままごとへと誘っているのである。「わたくしの庭」には何となく秘め事の感じも漂う。
誰かの自宅で開かれる句会に招かれたときに、手料理が出されることがある。皿数は少なくても心がこもっていて嬉しいものである。「ままごとのようなもてなし蝉羽月」(澁谷道)

六年二組だったしろつめ草だった    (福岡県)柴田美都

「~だった~だった」という文体には既視感があるが、それが逆に小学校時代の思い出とよくマッチしている。クローバじゃなくて、しろつめ草というのも懐かしい。
数字については、他の組ではなくて二組なんだという偶然性もある。小学校のとき何組だったのか、すでに記憶は朧である。

一日に一錠海を飲みなさい     (徳島県)徳長怜子

毎日何かの薬を飲んでいる人は多い。ストレス社会だから、体のいろいろな部位に障害が出てくる。パソコンや人間関係に疲れて、しょせん健康と仕事は両立しないと半ばあきらめている人もあることだろう。
この句では錠剤として海を飲みなさいと言う。
インターネットで0.01秒早く経済情報を手にいれた者が莫大な利益を手にする。そのような現代社会へのアンチとして雲を見たり(クラウド・ウォッチング)、歩きながら会議をすることで運動と経済活動の両立をはかったりする。一日一錠の海がリアリティをもってくるのだ。

意味もなくポロリ 生殖器のナミダ   (広島県)河崎あゆみ

涙腺から涙が流れるのは当然だが、ここでは生殖器と言われてハッとする。
昆虫か魚を見て詠んだのかもしれないし、ヒトを虫を見るような目で冷徹にとらえているのかもしれない。
「ひとみ元消化器なりし冬青空」(攝津幸彦)

標的にされて嬉しいではないか    (岡山県)福力明良

「~ではないか」という川柳ではよく使われる文体だ。
標的にされるのはありがたくないはずだが、まったく無視されるよりはターゲットにされる方がいいのかも知れない。自分がそれだけの意味ある存在だと実感できるからである。

リンゴより五センチ下に矢が刺さる   (兵庫県)吉田利秋
一本の矢になってゆく 逢いたい    (兵庫県)前田邦子

題詠ではないだろうが、たまたま二句とも「矢」を詠んでいるので、並べてみた。
一句目は「ウイルヘルム・テル」の一場面を想像するとおそろしい。
二句目は何とストレートな表現だろう。

動物園大人どうしで行くところ     (京都府)高島啓子

子供どうし、おとなとこども、カップル、などの組合せの中で、動物園は大人どうしで行くところだと断言する。動物園は私も好きだが、つい川柳をつくろうなどという気をおこすから、無心になれない。

おばあさんばかりで柩担げない    (大阪府)谷口義

老人が老人を介護する。認知症で一万人の行方不明者がいるというのだから驚きである。
この「柩」が「川柳」でなければいいのだが。

おめでとう誰か知らない人の菓子   (大阪府)久保田紺

お祝いのお菓子が届くが差出人には心当たりがない。あるいは、机の上に誰かがお祝いを置いてくれたのだが、それが誰かが分からない。そんなとき、私は嬉しいというより不気味な感じがする。まず出所を確認しないと、毒でも入っていたら大変だからだ。

西鶴の橋を渡って雨に逢う      (大阪府)山岡冨美子

浅沼璞著『西鶴という俳人』(玉川企画)を読んで、改めて西鶴に関心をもった。
橋は境界をつなぐ役割をもっている。橋をわたってどこへ行くのだろう。

急がねば雲が形を変えてくる      (和歌山県)辻内次根

ボードレールの詩「異邦人」では、詩人の好むものは雲だった。
掲出句では形のないものの自由さではなくて、状況がかわらないうちに何かをなしとげないといけない切迫感がある。

牛乳の膜薄くそこは圏内        (愛知県)青砥和子

牛乳の薄い膜。唇に貼り付いたりして牛乳本体が飲みにくい。けれども、それは牛乳と別のものなのではない。
この句は牛乳の話をしたいのではなくて、何か別のことを言っているのだろう。

俎板のネギはきれいな音がする     (石川県)岡本聡

読んで気持ちのよい句である。
川柳は性悪説の方がおもしろい句になることが多いのだが、「きれいな」とストレートに言えるのは貴重だ。

大嘘をたまにつくのが母の癖      (神奈川県)松尾冬彦

「嘘」は川柳にとって重要なテーマである。
このお母さんは小さな嘘をつくのではなく、大嘘をつくのである。

モナリザの肩はいつでも凝っている   (宮城県)南部多喜子

モナリザに対するさまざまな見方がある。
村野四郎の詩「モナリザ」では、詩人はモナリザに対して「そこを退いてください」と言う。「あなたが居るので/風景が見えない」ここではモナリザは「遮るもの」としてとらえられている。モナリザの微笑も村野にとっては無意味な精神の痙攣にすぎない。
掲出句では、謎の微笑をずっと続けているのでは、さぞ肩が凝ることだろういうのだ。

母さんの着せたコートは捨てなさい    (青森県)豊澤かな江

誰の発言なのか、いろいろ解釈できるが、母自身が娘に言っていると私は受け取っている。母親の方が過激なのだ。
母と娘の確執はエレクトラ・コンプレックスとして知られているが、そういう図式そのものも捨てて、さばさばしたいものだ。

屈葬のやがて背伸びをするだろう   (北海道)新井笑葉

屈葬は死者が甦ってこないように、わざと身体を曲げて埋葬するのだという話を聞いたことがある。
この句では屈葬された者がやがて「うーん」と背伸びをするだろうと言う。
川柳的喩というものがここにはある。

ほどかれてドライトマトは密告者   (北海道)悠とし子

ドライトマトはいろいろな料理に使われるようだ。
乾燥させたものが料理に使われてすこし息を吹き返す。密告者のように。

沖縄から北海道まで、今日もおびただしい数の川柳が作られていることだろう。蕩尽の文芸、無名性の文芸であることに、川柳はどこまで耐えることができるだろうか。

2014年5月16日金曜日

「一匹狼」の時代とその後

短歌誌「井泉」57号が届いた。
春日井建の没後十年、「春日井建の一冊」を特集している。
本誌に「評伝 春日井建」を連載していた岡嶋憲治が2月27日、交通事故により急逝された。「評伝」は春日井の晩年のところで中絶。次に挙げるのは喜多昭夫の追悼歌である。

評伝の最終稿をたずさえて君はミルキィーウェイを渡りぬ   喜多昭夫

彦坂美喜子の評論「団塊世代の歌人論」が連載28回で完結。小池光・道浦母都子・永田和宏の三人を論じた労作である。
〈リレー評論・現在の批評はどこにあるか〉では関悦史が「他界の眼」を書いている。
「現在、批評の存在が低下しているのは、文学のそれが低下したここと連動している」と関は述べ、60年代の吉本隆明、70年代の山口昌男、80年代の柄谷行人・蓮見重彦に対して、90年代以降は空位が続いていると指摘している。
俳句の世界ではどうなっているか。
関は「天才や大作家よりも無名の一般人へ目を向ける」という動きに注目し、青木亮人や外山一機の文章を挙げている。ただし、関はこんなふうにも言うのだ。
「大作家や名作を志向しない批評が『現代俳句史』を形成することは難しい。そしてジャンルの歴史が組織立てられず、共有されないということは、そのジャンル自体が漂流し始めているに近い事態である」
「何のためにあるのかわからない装置としての作品を稼働させ、意味の特定という貧困化へ向けてではなく、逆に無償の何かへの拡大、撹拌行為へと批評が奉仕するものだとして、その混乱の『豊かさ』をいかなる性質のものだと思えばよいのか」
 関はこのように問い、個人的な体験として「他界の眼」ということを言うのだが、ここから先は関の文章をご覧いただきたい。

「川柳カード」5号に兵頭全郎が「川柳サーカス」創刊号を取り上げている。「時をかける書評」というタイトルで、過去の句集や川柳書を書評していくシリーズである。
1988年、柊馬は松本仁と二人誌「川柳サーカス」を創刊する。
兵頭も引用している松本仁の「現代川柳のレーゾンデートル」に次の一節がある。

「川柳の作品が大量に毎日書かれ、句会もますます盛んで、川柳が一見市民権を享受しているかに見える今日、河野春三、松本芳味、宮田あきら等の現代川柳革新の運動に邁進してきた、これらの作家であると同時に理論家・組織家たちが没し、いま川柳が確たる目標を持たずに安易に流れ、水平化しているとき、彼らの提出した、作品及び理論を、ここで総括し、来る時代を早急に模索しなければならない必要に迫られている」

そのために立ち上げた「川柳サーカス」に松本仁が求めたものは「一匹狼」としての川柳人の在り方だった。

「この作家精神を求める故に、地方の一匹狼の地位に留まり、川柳界とも、あまり交渉せず、浮いている存在の作家達、また既成の柳社の中で飢えている狼たち、今、筆を折りかかっている一匹狼たちに、決して、グループの一員ではなく、一匹狼のままで、咆哮できる雑誌を創出したいと思う」

1988年の時点で「一匹狼」の思想はすでに時代遅れだったろう。松本はむしろ時代に抗して60年代に回帰しようとしているように見える。松本仁はロマンチストだったのである。河野春三を父とし時実新子を母とする松本仁(もちろん精神的な意味である)にとって、河野春三論は彼が書くべき課題だったはずだ。セレクション柳人の『松本仁集』がついに出なかったことは、現代川柳にとって痛恨の極みである。晩年の春三は川柳に絶望していたという。そして、河野春三論は特段誰によって書かれることもなく、時代は茫々と推移していった。
松本仁よりもう少しリアリストだった石田柊馬は同じ創刊号の「現代川柳考(コピー化について)」でこんなふうに書いていた。これまで別のところでも引用したことのある一節である。
「さて、社会性、の語が急激に衰退して、現代の川柳はどこへ向ったか。おそらくぼくたちは川柳の変化を、その頃、多様性の語をもって理解もしくは処理していた。いま、ふりかえれば、それは、たいして多くの方向を示したわけでもなく、もちろん流派を名乗ったり名づけられたりの方向性や運動体を出したわけでもない。方向性など出ないまま、おおむね、みんな技術的に、芸として上手になった、と見るのが単純で妥当な見方であろう。その中で、川柳が川柳であるところの川柳性だけが、急速に衰退していった」

さて、いまはすでに2010年代である。
私が「過渡の時代」という表現を好むのは、「隆盛」とか「中興」とかいうピークの時代を設定してしまうと、その狭間の時代は「衰退」とか「落丁」ととらえられてしまうからである。それでは元気がでないし、前にも進めない。元来、無名性の文芸である川柳は、それでは何によって時代と切り結ぶことができるのだろうか。批評はすぐれた作品の存在を前提とする。批評意欲をかきたてる作品が存在しないところでは、批評家は無力である。

今年の1月25日に安藤まどかが亡くなった。享年66歳。
まどかは時実新子の娘である。
「短詩」という雑誌があった。安藤は吹田まどかの名で作品を発表している。
私は彼女に会ったことはないが、私の中では彼女は永遠に少女のイメージのままである。

あじさいの息の根とめて「ママ 花束よ!」  (「短詩」昭和43年10月)
金魚が死んで 世界の赤が消えちゃった    (「短詩」昭和42年7月)

2014年5月9日金曜日

芝不器男俳句新人賞と小高賢追悼

第4回芝不器男俳句新人賞を曾根毅(そね・つよし)が受賞した。
曾根とは以前「北の句会」でよく顔をあわせたが、最近では「儒艮」(編集発行・久保純夫)で彼の作品に接する機会がある。
角川「俳句」5月号の「現代俳句時評」で田中亜美が同賞について取り上げている。受賞作は東日本大震災を詠んでいて、選考の際に賛否両論があったようだ。

桐一葉ここにもマイクロシーベルト    曾根毅

この句はもちろん虚子のパロディだが、当時、曾根は仙台にいたから、机上の句ではなくて実体験である。2012年11月17日に京都の知恩院で開催された現俳協青年部のシンポジウムで、曾根は指名を受けて会場から震災体験について発言した。このシンポジウムの中で最も良質の部分であった。
曾根は鈴木六林男の晩年の弟子である。六林男のカバン持ちをしながら、俳句についてのさまざまな話を聞き取っている。師弟の濃密なコミュニケーションがあったと田中の時評では述べられている。時評のタイトルにもなっているが、田中は六林男の言葉を引用しながら、次のように書いている。「敢然として進め」

「現代詩手帳」5月号では青木亮人が「クプラス」創刊号のことを取り上げている。「クプラス」は川柳人にも何人かの読者がいて、先月のこのコーナーでも紹介した。
青木は近代俳句の研究者で、昨年刊行された『その眼、俳人につき』(邑書林)は評判になったし、俳誌「翔臨」にも「批評家たちの『写生』」を連載している。
連句界との関係で言うと、青木は先日、4月29日に松山で開催された俵口連句大会で「室町時代の連歌」の講演をしている。

「里」5月号では上田信治の「成分表」の連載が百回を迎えている。
「成分表」にはファンが多いが、今回は百回記念として、佐藤文香の「信治さんへの手紙」がついている。

短歌誌に目を移すと、「歌壇」5月号は「追悼・小高賢」を掲載。
小高賢は2月11日に急逝した。69歳だった。
追悼文の中では特に吉川宏志の「公共性への夢」を紹介しておきたい。
吉川は「社会詠論争」のことから話をはじめている。
2007年2月4日にハートピア京都で「いま、社会詠は」というシンポジウムが開催された。パネラーは小高賢(かりん)、大辻隆弘(未来)、吉川宏志(塔)、司会は松村正直(塔)であった。その記録は主催者の青磁社から『いま、社会詠は』として刊行されている。
その時は小高の発言を観客席から聞いていたが、その後、私は一度だけ小高賢と話す機会があった。2009年11月15日の「井泉」5周年記念大会のときだった。小高の講演は「穂村弘の歌のどこがおもしろいかわからない」「これからは老人文芸としての短歌に可能性がある」などの小高の持論を展開するものだった。
そのときのご縁で「川柳カード」を送っていたが、川柳のことはどう受け止めていただいただろう。
前掲の吉川の文章に、「いま、社会詠は」での小高の発言が引用されている。

小高 人間はずっと愚かなままで続くわけですか?僕はそう思いたくないし、僕らが歌をつくる場合に、もちろん愚かだけれど、その愚かさからちょっとぐらいはよくなりたい。ちょっとぐらいは認識をかえたい。あるいは歌をつくるわれわれが、もう少し歌というものを考えるという思いがある。
大辻 だから進歩主義だっていうんです。
小高 もちろん、私は進歩主義です。

小高のラストメッセージと言うべき文章が「批評の不在」(角川「短歌年鑑」平成26年度版)である。そこにはこんなふうに書かれている。

「批評には外部が必要だ。つまり、外側から対象を見直すという視線である。短歌だけでなく、他の文学と比べたらどうなるか。同じような問題が、戦前の歌壇ではなかっただろうか。そういう行為は想像力といってもいいし、公共性の自覚といってもいい」

小高賢の短歌を二首紹介しておく。

いくたびも「それはちがう」を飲みこみて副大臣のように生きるか   小高賢
居直りをきみは厭えど組織では居直る覚悟なければ負ける

「現代短歌」5月号の特集は「山崎方代生誕百年」。
久しぶりに方代の歌集『左右口』『こおろぎ』(短歌新聞社)を読み返してみた。

埋没の精神ですよゆったりと糸瓜は蔓にぶらさがりおる      山崎方代
手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る
わたくしの六十年の年月を撫でまわしたが何もなかった
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか
生れは甲州鶯宿峠に立っているなんじゃもんじゃの股からですよ

好きな歌を挙げてゆけばきりがない。
川柳誌についても書くつもりだったが、次週に。

2014年5月2日金曜日

川柳木馬35周年記念大会(絵金のこと)

4月19日(土)、高知市文化プラザ(カルポート)にて第3回木馬川柳大会が開催された。創立35周年記念大会である。76名の川柳人が16都道府県から集まった。高知での大会になぜ全国から川柳人が集まるのか。そこに「川柳木馬ぐるーぷ」が35年間発信し続けてきたことの実質がある。
事前投句「ゼロ」は、私と味元昭次(俳誌「蝶」代表)の共選であり、それぞれ15分程度の話をするように要請されていた。
創刊以来の「木馬精神」として私が挙げたのは次の三つである。

①個性の確立
②反権威主義
③他ジャンルとの交流

個性の尊重・個性の確立は常に言われてきたことである。表現者の原点だろう。
反権威主義・反権力主義は特に創刊同人である海地大破に濃厚に体現されている。
「川柳木馬」5号(1980年7月)には創刊一周年の時点での同人たちの座談会「明日へ向かって」が掲載されている。私が繰り返し読み返している号で、以前このブログでも触れたことがある。
その中で大破は次のように語っている。

「一人の人が常に書くということになると、そこには体制的なものが出来上がってしまうのではないか」

反権威主義は外部に対してだけのものではない。内なる権威主義に対しても大破は異を唱え、警戒を怠らない。
他ジャンルとの交流は、たとえば俳誌「蝶」との交流にもあらわれている。味元がこの大会で選と講話をしたのもその流れの中にある。味元は俳句と川柳の境界線上の作品、ボーダーゾーンは重なることを述べた。「蝶」同人の畑山弘は「木馬」同人でもある。
「蝶」205号(2014年1月)には清水かおりが「現代川柳の仕事」という一文を発表している。「作品と論は両輪の輪でなければならない」ということについて、清水は次のように書いている。

〈私の所属する『川柳木馬』は今年三十五周年を迎える。昭和五十七年木馬十三号(創立三周年記念号)から始まり現在も継続している「作家群像(次世代を担う昭和二桁生まれの作家群像)は、この両輪を強く意識した企画である。作品の向上、個性の確立、理論の体系化、新人の育成、という明確なビジョンを持った、スパンの長い教育プログラムのようなものだ〉

考えてみれば、私の挙げた「木馬精神」は「川柳木馬ぐるーぷ」の中で継承すべきものではあるけれども、結社やグループとは関わりなく誰が継承してもよいものだとも言える。精神のリレーとは、そういうものだろう。

大会の翌日、木馬の人たちに桂浜と絵金蔵を案内してもらった。
絵金はいつか実物を見たいと思っていたもののひとつである。
「土佐の絵金」として有名な絵師・金蔵は狩野派を学び、土佐藩家老の御用絵師となった。そこに起こったのが贋作事件である。彼が描いた狩野探幽の模写がいつのまにか落款を押されて売却されていたのだ。贋作者の汚名を負った彼は高知城下から追放されてしまう。

私の手元にあるのは『絵金・鮮血の異端絵師』(講談社)という画集である。序文で廣末保はこんなふうに書いている(「絵金小序―評価の視点」)。

〈絵金を批評するためには、固定したジャンル意識から自由にならなければならない。でなければ、独特の空間構成によって参道や道の境界性を顕在化したその想像力を批評することもできない。〉
〈絵金にとって町絵師への転落は、古巣への回帰だったといえなくもないが、しかしそれは幕末土佐の、屈折してはいるが開放的な庶民的なエネルギーとの出会いを意味した。商農工漁民層のもつ多様な心性とその活力に絵金は出会った。ときには猥雑ともみられる多義的な想像力がそれをものがたっている。〉

幕藩体制が崩壊し、かつて自分を追放した御用絵師たちが権威を失って困窮したとき、絵金はからからと笑っただろうか。
毎年7月には赤岡町で絵金祭が開催される。絵金の屏風絵は絵馬提灯や百匁蝋燭のもとで見るのがふさわしい。絵金蔵には赤岡町に伝わる芝居絵屏風23点が所蔵されている。
「お若えのお待ちなせえやし」―「鈴ケ森」の幡随院長兵衛のグロテスクなまでの存在感はどうだろう。色若衆の白井権八はほとんど女だ。彼に切られた雲助たちの死骸が足元にごろごろ転がっている。「鷲の段」では鷲にさらわれた赤ん坊を母親が必死に追いかけている。彼女の胸から二つの乳房があらわにこぼれている。薄暗い蔵の中で絵金の泥絵が無意識と本能をチクチクと刺してくるのを呆然とながめていた。