2016年6月24日金曜日

振り返れば飯田良祐

飯田良祐が亡くなったのは2006年7月のことだった。
没後10年の今年7月30日(土)に「飯田良祐句集を読む集い」を大阪上本町・たかつガーデンで開催する。ゲストには歌人の岡野大嗣氏を迎えることになっている。
飯田良祐の句集『実朝の首』は2015年1月に川柳カード叢書の一冊として刊行されたが、この句集を評価してくださったのが岡野さんだった。

あてどない春を炒めるゆりかもめ    飯田良祐

岡野さんが特に取り上げて紹介したのがこの句だったが、実はこの句は句集に未収録である。句集を編集するときに私が見落としたのだ。
良祐は、くんじろう、銀次と三人で「柳色」という読み句会(勉強会)を行っていて、その五回目に次の三句が発表されている。これは「柳色」のホームページでも読むことができる。

あてどない春を炒めるゆりかもめ
人物画が苦手な公園の銀杏
何ですかという虫を食べている    良祐

岡野さんが飯田良祐の句に眼をとめたのは純粋に作品を通してであることがわかる。「集い」の案内に岡野さんはこんなコメントを寄せている。
「飯田さんのことは、イラストレーターの安福望さんに教えてもらって知りました。飯田さんの句が孕んでいる、早朝の帰路にガラ空きの電車から見る夕焼けのような痛みに強く惹かれます」
今回の集いは友人だけの内輪の集まりにはしたくない。そういう集いならば酒を飲みながら思い出話にふければいいだけのことだ。良祐の作品は10年を経てどのように読まれるのだろうか。作品を通じて良祐に向かい合いたいと思っている。

飯田良祐は1943年生まれ。広告制作会社を経営していて、川柳をはじめたのは2000年ごろ。「川柳倶楽部パーセント」「バックストローク」などに作品を発表したが、特に晩年の二年間は個性的な句を書いた。
『実朝の首』を編集するときに、収録句のそれぞれについて鑑賞文を付けようとしたことがある。その企画は途中で放棄したのだが、そのうち三つばかり書きぬいてみる。

親族の記帳のあとの磨りガラス

「親族の記帳」だから、会計簿や預金通帳の記帳ではないだろう。
親族が集まるのは結婚式なのか、葬式なのか。
現代では法事などの機会以外に、親族が一堂に集まることはめったにない。
従兄弟・従姉妹などになるともう名前も曖昧である。
親族の記帳が終わったあと、思い出話になるのだろうか。それとも、もう何も話すことはないのだろうか。
「磨りガラス」は意味性の強い言葉である。見えないように隠すものには違いないが、何から何を隠すのだろうか。家の内部を家の外部から隠すのだろうか。見たくない外部を見えなくするためのものだろうか。どちらでも同じなのだろうか。
記帳する行為と磨りガラスとの間に良祐は関連性を嗅ぎ取っている。
存在していても見えないもの、見せたくないものがある。そういうものを見せてしまうと、人間関係が壊れたり、平穏な市民生活を送ることが困難になったりする。
けれども、表面的な平穏を剥ぎ取って、真実をあばいてみたい。そういうところから川柳ははじまるのかもしれない。

鼻柱だけで済ませている交尾

鼻柱で交尾できたら、おもしろいかも知れない。
と、まず無責任に言っておく。
DNAを残すために動物は交尾する。
体内受精、体外受精、雌雄同体、いろいろある。
しかし、鼻柱で交尾するという話は聞かない。
「鼻柱が強い」というフレーズがある。
一句発想の出発点がどこにあるのか分からないが、言葉から出発しているのかも知れない。
あるいは、きちんと交尾するのが面倒なのか。
なにやら投げやりな雰囲気である。
アンニュイが漂っている。
セックスの途中で寝てしまう、というほどひどくはないが、鼻柱だけで済ませるというのは悪意のある諧謔である。

仕方なく隣家の舌と旅に出る

旅の道づれということがある。
人はいろいろな事情で道づれになることだろう。
ときには気がすすまないのに、仕方なく行かねばならない場合もあるだろう。
隣家というのも微妙だ。隣同士だから、互いの内情が何となく分かっている。やりにくいだろう。
その上、隣家の「舌」である。黄色い舌かも知れないし、二枚舌かもしれない。
舌を比喩的に読むと、何やら意味ありげだが、本物の舌と読んでもかまわない。
ゴーゴリに「鼻」という小説がある。
「鼻」はペテルブルクのネフスキー大通りをうろうろしている。
良祐の句もゴーゴリ風の諷刺かと身構えるのだが、そうでもなくて軽い冗談のようなものかも知れない。
とりあえず旅は始まった。
先が思いやられることである。

あまりおもしろい鑑賞にならないのでもうやめにするが、次の句などは鑑賞文を書きあぐねている。

殻つきのまま落下する私生児
壊死を待つ桃色ジュゴン絵師二人
心療内科へ行く花鳥諷詠

句集に未収録の作品もまだまだあるようだ。

四国八十八カ所ハンドルは二本    良祐
丸干しが並ぶ異母兄弟のまま
委細面談 一乗寺下り松
天国へいいえ二階へ行くのです
目に青葉常識的な線を引く

「飯田良祐句集を読む集い」は7月30日(土)、午後1時開場で、岡野大嗣さんのお話は午後2時から。たかつガーデン、2階ガーベラにて。30人程度の小部屋なので、ご参加ご希望の方は早めにご連絡をお願いする。

経済産業省へ実朝の首持参する    飯田良祐

実朝の首を持参するくらいでは追いつかないほど、時代はさらに厳しくなっている。

渋滞のテールランプが汚くて綺麗でそこに今から混じる   岡野大嗣

2016年6月17日金曜日

定金冬二句集『無双』のことなど

5月22日の「第二回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」では手持ちの川柳句集を展示し、石田柊馬に句集解説をしてもらった。そのとき彼が紹介したなかに『無双』の次の句があった。

橋が長いのでおんなが憎くなる    定金冬二

『無双』では昭和30~39年の章に収められている。
石田はこの句について「おんなは作中主体といっしょに橋を渡っている」「おんなは橋の向うにいる」の二通りの読みが可能で、当時の読者も二つの読みに分かれたことを述べた。(もうひとつ「おんなは橋の手前、作中主体の背後にいる」という可能性もあるが、これはすぐには思いつかないとも)。冬二にどちらかと質問すると、冬二はふふんと笑って答えなかったという。石田は現代川柳にフィクションが導入された時期の句としてこの作品を挙げている。
現代川柳史を考えるときに分かりにくいのは、その作品がいつごろのものかということが、後発の世代には特定するのが困難なことである。特に句会作品となると、資料を探すのは大変だし、句集に収録されている場合でも、句集が発行されるのはかなり後になってからのことが多いので、作品制作の時期とはズレが生じる。
さらに、「昭和30年代」などの区切り方と「1960年代」などの区切り方による混乱もあり、60年代、70年代、80年代…という区切り方でものを考えている私などには時代の雰囲気が分かりづらいところがある。
幸い冬二の句は昭和30年代ということが分かる。昭和30年は1955年、昭和35年が1960年である。ただし、フィクションの導入といっても、従来の書き方と混在しているのであって、たとえば上掲句と同じ時期の冬二の「おんな」の句にはこんなのもある。

おんなとは哀しいときも何か提げ    定金冬二

この時代、買い物は女性の役割だった。哀しいときも大根や人参を入れた買い物かごを提げて歩いてゆくのである。ここには男性の視点でとらえられた「おんな」の姿があり、女性川柳人によって書かれる「私川柳」「情念川柳」にもつながってゆく。

石田柊馬は「私川柳」流行の皮切りとして、時実新子の『新子』(昭和38年、1963年)を挙げている。この時期あたりから、現代川柳は私的感慨や感情表現の比べ合いに表現の中心が置かれるようになり、イメージやフィクション、技法的には暗喩(メタファー)が多用されるようになるというのだ。
「現代川柳ヒストリア」に展示した句集で言えば、福島真澄の『指人形』(昭和40年)には昭和30年代後半(1960年代前半)の作品が収録されている。特に次の句は昭和39年、40年に書かれている。

指人形に静寂(しじま)を吹かせ夫がゐない    福島真澄
風吹けば 失った推体の 山鳩よ啼け

明治以降の近代川柳に「私」が導入されたのは、明治40年代の「主観句」の主張あたりからだと言われている。このとき、若き川上三太郎は客観から主観へ舵を切った一人だったのだが、昭和30年代においても三太郎は「私川柳」の流行に一定の役割を果たした。新子も真澄も三太郎に師事したのである。

その後の1960年代の現代川柳史、特に女性川柳史について私はあまり句集を持っていないし、具体的なことがよく分からない。私が川柳をはじめた1990年代には「川柳の意味性」や「隠喩」についてはすでに疑問も出はじめていて、1970年代・1980年代の現代川柳の遺産をそのまま継承することに行き詰まりも見えていた。私が「時実新子論」に手を出さない理由もそこにある。
現代川柳における「私」の導入の仕方に問題があったとすれば、むしろ批判されるべき対象は河野春三だろうと私は思っていて、「河野春三伝説」(「MANO」19号)を書いた。乗り越えるべき相手は一番高いレベルの相手でないと意味がないからである。
石田柊馬は現代川柳史における「私川柳」は大きな「迂回」だったと言うが、半ば同意しつつも、それは「批判的継承」の対象ではないかと私は思っている。

2016年6月10日金曜日

水無月・川柳連句日記

6月某日
映画「ちはやふる」の「上の句」「下の句」を一気に見る。
原作のコミックはすでに30巻以上出ていて、現在もコミック誌「BE LOVE」に連載中である。百人一首の競技カルタの話で、小学生のときカルタと出会った主人公が高校に入ってカルタ部を作り、大会で勝ち抜いてゆく。このパターンは「俳句甲子園」を描いたコミック「ぼくらの17‐ON」でも同じ。俳句甲子園の映画では「恋は五七五」というのがあった。
「ちはやふる」を見にいったのは、6月の「大阪連句懇話会」で百人一首の話をする準備のためである。短歌では百人一首、俳句では俳句甲子園。川柳や連句でも普及のためのツールを何か考えられないだろうか。映画に出てくる競技カルタの聖地・近江神宮は「関西連句を楽しむ会」で訪れたことがある。

6月某日
「川柳フリマ」が終わったあと、反応・感想をツイッターなどでフォローしている。
いろいろ思うところがある。イベントをやった当事者にしか見えてこない光景があるものだ。
「川柳フリマ」には川柳人・歌人・俳人に参加していただいたが、連句の存在が影ほどもなかったのは今後の課題だと思った。
「川柳フリマ」のコンテンツを拡大して、連句本や連句誌を含めて会場に並べてみたらどうだろう。
全国にはさまざまな連句結社・グループがあるが、その活動が一般に知られることは川柳以上に少ない。

6月某日
昨年、八上桐子と「THANATOS」VOL.1を製作したが、今年はそのVOL.2を準備中。
「川柳 塾」のバックナンバーは調べ終わったが、「新思潮」「ふあうすと」「新京都」「川柳展望」などの資料が八上さんから送られてくる。
生資料を読むといろいろ発見がある。句集に収録されている一句の背後におびただしい同想句があったりする。今年は石部明没後四年目。来年は没後五年。

6月某日
10月9日(日)に大阪天満宮で開催する「浪速の芭蕉祭」、募吟を募集中だが、連句作品(形式自由)がぼつぼつ送られてきている。前句付・川柳の募集もあり、こちらは無料、葉書で応募できる。
当日は大阪天満宮の本殿参拝もあり、昨年は松山の青木亮人さんをゲストに招いて、本殿にも上っていただいた。
その翌日10月10日(月・祝)に関連行事として「短詩型文学の集い」を計画中で、上本町「たかつガーデン」で開催する。
午前中はフリマ、午後は対談とワークショップの時間にしたい。
このところイベントのゲストとして歌人を招くことが多いので、今度は俳人で連句にも理解のある方をゲストに迎えるつもり。内諾をもらっているので、いずれ時期がくれば詳細を案内・宣伝したい。おもしろいものにできればいいが。

6月某日
「第7回兼載忌記念連句会」に出席のため、会津若松へ向かう。
私は一昨年、昨年に続き三回目の出席で、以前この時評にもレポートを書いたことがある。
室町時代の連歌師で連歌七賢のひとり猪苗代兼載にちなむ連句会である。
ホテルが野口英世青春広場にあり、毎年、英世の銅像をながめて時間を過ごす。
会津にはレトロ喫茶と居酒屋が多く、それも楽しみのひとつである。
今年は居酒屋の名店「籠太」に行った。毎年、これぞと思うお店を制覇してゆくつもり。

6月某日
小平潟天満宮の社務所で連句会。六座に分かれて連句を巻く。
すぐ前が猪苗代湖である。
いつも静かな場所なのだが、この日はキャンプをする人でけっこう車が多い。
連句の座では昨年出会った高校生と今年も同じ座になった。
連句の座というのは心理的な葛藤があって、むつかしいところがある。
私も本当のことを言うと座が苦手なのだ。
けれども、一年というのはそれなりの変化をもたらすだけの時間である。
彼女も私も成長したのだ。

6月某日
「第四回文学フリマ大阪」に出店申し込み、出店料を振り込んだが、正式に受付メールが届いた。これで今年も文フリ大阪に出店が確定。9月18日。堺市産業振興センター。
ほかにも川柳の出店があればいいのにね。

6月某日
山田消児さんとの対談のテープ起こしに取り組み中。
聞こうと思っていて聞きのがしたことが幾つもある。
しかし、一番の問題は私自身が冒険しなかったことだ。
自分でよく知っている範囲のテーマ設定と予定調和的な私自身の発言はテープを聞いていると明らかである。
できることをこなしてゆくのは当たり前のことだが、できそうもないことに挑戦するのはどうか。それはそれで危険なことだろうな。

2016年6月3日金曜日

川柳はグローバル

「熊本日日新聞」の読者文芸のページに田口麦彦が「川柳はグローバル」を連載している。田口は震災のあった熊本市在住の川柳人である。連載19回目の5月23日には、冒頭で次の句が引用されている。

テレビはどれも地震の話 熊本城崩れ   墨作二郎

「現代川柳・点鐘」176号から。墨作二郎は阪神大震災の際にも「春を待つ鬼を 瓦礫に探さねば」をはじめとする震災句を詠んでいる。
また、田口の川柳の原点にあるのは昭和28年6月の熊本大水害である。そのとき田口はこんな句を詠んだ。

水引いて誰を憎もう泥流す   田口麦彦

熊本日日新聞に田口麦彦は次のように書いている。
「こちら熊本は、いまもまだ揺れ続く。清正公さんの頑丈な石垣も崩れ、阿蘇大橋も消えてなくなった。それでもすこしずつライフラインも復活。温かい全国のボランティアの人たちに助けられている。ありがとう」「生きて生き抜いて、その証しの句を作ろう」

関西俳句会「ふらここ」の作品集が発行された。
上田拓史の書いている文章によると、「ふらここ」のはじまりは次のようなことだった。

黒岩徳将「今年から、本気で俳句やありたいんです。拓史さんもやりましょう」
上田拓史「関西にも学生だけで集まる団体があってもいいのにね、俳句甲子園出身者の受け皿みたいなのがさ」
黒岩「だったら僕たちでやりましょう!」

「ふらここ」は大学ごとの俳句サークルではなくて、関西の若手俳人のコミュニティという位置づけのようだ。作品集から何句か紹介する。

ぼんやりとカナブンになってゆく孤独    山本たくや
心臓はあげるよ月を僕にくれ        寺田人
どうせまた降るから零余子飯どうぞ     仮屋賢一
花曇り世を変えるには狭き庭        野住朋可
また誰か倒れたそうで冷奴         栢原悠樹
湖に溶け明るさだけとなる花火       下楠絵里

「触光」47号に第6回高田寄生木賞が発表されている。大賞は次の作品。

スリッパが全部こっちを向いている   こうだひでお

作者は京都の川柳人で「川柳 凛」の同人。
詳細は「触光」誌をご覧いただきたいが、私がおもしろいと思った句を引用しておく。

Wはそして海溝まで沈む        猫田千恵子
二足歩行余った手には銃がある     落合洋人
はっとして魚の形考える        星井五郎
そのことに触れずりんごを剥いている  嶋澤喜八郎
おとうとの三割はこうそくどうろ    柳本々々
サ・カモト・ド・リ・ヨーマ否定食   中西号
ゴーヤのつぶつぶになったはらわた語  森田律子

次回の「第7回高田寄生木賞」は作品ではなくて、川柳に関する論文・エッセイを募集するという。その趣旨は次のように書かれている。
「現在、川柳界では多数の作品賞はあるが、論文や文章の賞はほとんどみられない。このままだと量的に作品は増えても、その作品の検証や作家の論評がなされなければ、文芸として質的に低下するのではないかと思った。ささやかな一灯ではあるが、皆様のご協力を乞うものである」
川柳の評論賞!思い切ったことをするものだ。締め切りは2017年1月末。未発表、4000字以内。送り先は野沢省悟まで。
ちょっとたのしみである。