多武峰では山吹の黄が鮮やかだった。
5月1日(日)、奈良県桜井市の多武峰・談山神社で権殿修理落慶大祭が行われ、その関連行事として「多武峰連歌ルネサンス」に参加した。
永正17(1520)年10月16日の「多武峰法楽連歌」(百韻「賦山何連歌」)の懐紙が残っている。それ以来ほぼ500年ぶりの連歌復興を唱えて、談山神社・総社拝殿で歌仙2巻が巻かれたのが3年前の平成20年10月であった。翌21年には「多武峰連歌ルネサンス」と称して5月に開催。昨年は與喜天満宮に場所を移して実施したので、談山神社での連歌(連句)会としては今年で3度目になる。
テレビや新聞などでよく取り上げられる春の蹴鞠祭は4月29日に終わっている(秋にも蹴鞠祭があるようだ)。30日夜は社務所に宿泊させてもらい、法楽連歌にそなえる。多武峰だから連歌と名乗っているが、私たちのは実質的に連句(俳諧之連歌)である。
当日は雨になる。午前11時、権殿からトランペットが鳴り響いた。
落慶した権殿は能の「翁」の発生とかかわる芸能史において重要な場所である。そういうところでジャズの演奏を聴くのはなんだか前衛的だ。
神社でもらった新しい絵馬には翁の面が描かれていて、「摩多羅神」の名が書かれている。摩多羅神は天台宗系寺院の常行堂の後戸(うしろど)に祀られた神で、慈覚大師(円仁)が請来したと言われる。
摩多羅神の名を聞きなれない人でも、京都・太秦の「牛祭」の祭神といえばピンとくるだろう。「後戸の猿楽」という言葉が古来伝えられており、世阿弥の『風姿花伝』にもその伝承が書きとめられているという。
服部幸雄著『宿神論』は芸能信仰の根源にせまる画期的な論考である。宿神といえば、夢枕漠の小説『宿神』を連想する方もあるだろう。
服部幸雄は次のように言う。
「後戸には何か神秘的な神、秘すべきであるがゆえに、その強力な霊の発動を懼れなければならないと観念される秘仏が祀られていたのではなかったであろうか」(「後戸の神」)
そして、金春禅竹の『明宿集』に言う多武峰の「六十六番ノ猿楽」こそ翁面(摩多羅神面)を中心とする行法であったらしい。
私たちはそのような芸能の根源に触れる場のまっただなかにいる。そこにジャズの音が鳴り響いたのである。トランペットとベース、エレクトリック筝によるライブである。
ところで、天台系寺院の常行堂の後戸の神である摩多羅神がなぜ談山神社に?と疑問をもたれる向きもあろう。明治の神仏分離令まで談山神社は多武峰妙楽寺という寺院だった。現在の談山神社の権殿こそ妙楽寺の常行堂にほかならない。
かつて多武峰にひとりの聖が隠棲していた。増賀上人である。
比叡山で修行した増賀は五歳年長の師・慈慧(元三大師)にめぐりあった。慈慧は山門の復興のために権門と手を結び、やがて天台座主の地位に上りつめる。名利を嫌う増賀はそのような師を批判し続けた。
馬場あき子は『発心往生論・穢土の夕映え』で次のように書いている。
「慈慧が任官の悦びを奏上しに参内するという噂をきいて、多武峰に隠棲していた増賀は、まさにすっくと立ち上がった。そして増賀は、その行列の前駆は自分をおいてつとめるものはないとばかりに山を下りた」「ひとたびは訣別した慈慧のもとに、増賀は最後の愛をふりしぼって駆けつけた」
「腰には大きな乾鮭を一尾、太刀のかわりにぶちこみ、これ以上は痩せられない骨と皮ばかりの女牛にまたがり、よたよた、ふたふたと、威儀を正した参内の行列の中に駆けこんできたのである」
痩せた女牛の乗り物は慈慧の居すわった仏界であり、乾鮭の刀は堕落した仏法を守護するための象徴であるという。増賀は慈慧の車わきに寄り添いながら叫び続けた。
「我こそ幼きときよりの御弟子なれ。誰か今日のやかたぐち(車添い)仕まつらん」
牛車の中で慈慧はこれを「かなしき哉。わが師悪道に入りなむとす」と聞き、しかし「これも利生(仏の利益)のためなり」とつぶやいた。
慈慧と増賀。人間の二つのタイプである。
大祭前日の夕刻、社務所から坂を登って増賀堂の跡を訪れた。十年以前に来たときはお堂の柱におびただしい空蝉がぶらさがっていて、いかにも増賀上人の旧蹟であることを偲ばせたが、いま増賀堂はとり壊されてすでになくなっている。
多武峰に天台が広まったのは増賀の影響もあるだろう。
法相宗の興福寺とは対立を繰り返した。
受付の女性との立ち話で、神社の向こう側の高台から神社一帯がよく見える。しかし、神社側からは高台が見えないと言うことだった。
「僧兵が高台からこちらを偵察するためかもしれません」と彼女は言った。
僧兵?
多武峰に僧兵がいたのだろうか。
高台の方へ登ってみた。確かに談山神社が一望できる。花の季節にはもう遅いが、樹齢600年という小つづみ桜(薄墨桜)もある。
延暦寺の末寺だった多武峰は、何度も興福寺から攻められた。その歴史は今も生々しい。
さて、5月16日(月)には権殿内で能の「翁」が奉納される。翁・観世清和、千歳・観世淳夫。「まさに温故の響きが蘇える 能楽の原点を見直す 歴史的な現場に立ち会う」と宣伝ビラにある。入堂料有料(限定100席)。
談山神社発行の「談」(かたらい)のバックナンバーによると、15面の古面が伝存し、そのうち桃山時代のものとされる翁面は特別に面箱があつらえられていて、箱書には「摩多羅神面箱」と墨書がある。絵馬に描かれている面はこれだったわけだ。また、伝承では「六十六番猿楽」で使用する翁面は、能が演じられたあと衆徒が酒に酔うと、それにつれて翁面も自然に赤く染まるという。大量の酒がふるまわれるのは、いかにも多武峰らしい。
談山神社には近畿迢空会が折口信夫没後五十年を記念して建立した歌碑がある。折口には「翁の発生」という文章があり、『古代研究』に収録されている。「私は、日本の演芸の大きな要素をなすものとして、もどき役の意義を重く見たいと思ひます。近代の猿楽に宛てて見れば、狂言方に当るものです」
「三番叟」は「翁」の「もどき」である。
翁に対する三番叟。能に対する狂言。そのような「もどき」の役割を果たすものが芸能や文芸の世界で生れてきたことは興味深い。
その折口が関東大震災の直後に書いた「砂けぶり」という詩がある。
折口は大正12年、2度目の沖縄旅行に行き、その直後に関東大震災が起こった。神戸の海岸で波の色を見ていたとき、不意に次の一節が浮かんできたという。
横網の 安田の庭
猫一匹ゐる ひろさ―。
人を焼くにほひでも してくれ
さびしすぎる
吉田文憲は〈「砂けぶり」体験の語るもの〉(『顕れる詩』)で、折口の「まれびと」観念の生成と「砂けぶり」を関連づけて論じている。
さて、私たちが巻いた歌仙は神社に奉納されたが、その発句と脇。
口あけて落花を喰(くら)ふ漢(をとこ)かな
青きを踏めば出づる言の葉
発句は談山神社の宮司による。
連歌と連句。
RengaとRenkuを総称するものとして英語ではLink Poetry という言葉があるそうだ。
短詩型文学を統一するものは何であろうか。
多武峰というトポスに立つと日本の芸能・文芸の歴史が曼荼羅のように脳裏に生なましく浮かんでは消えて行く。私たちはその末端に生き、文芸を明日につなげていこうとしているのである。もっとも伝統的であることがもっとも前衛的であるという逆説が大和では奇妙に成立している。
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