2011年4月29日金曜日

樋口由紀子エッセイ集『川柳×薔薇』

最近「×」という記号が気になってしかたがない。今まで気づかなかったが、注意して見ると「×」という記号が雑誌や広告にも散見される。「+」でも「&」でも「VS」でもなく「×」なのだ。
樋口由紀子のエッセイ集『川柳×薔薇』(ふらんす堂)は美しい装丁のハンディな本に仕上がっている。これまで彼女が書きためてきた散文の中から、評論というほど堅苦しくなく、かといって個人的経験に流れるのでもなく、川柳と川柳人を語りながら著者の肉声が伝わってくる文章を集めている。川柳人が書くエッセイとはこのようなものかと思わせる。この種の本が川柳界では案外なかったのである。
本書は4章に分かれていて、Ⅰが総論的役割(評論集ではないので、「総論」というのも変だが)、Ⅱが句集評(書評)、Ⅲが女性川柳人についての文章、Ⅳが個人的語り口の文章(もっともエッセイ的文章)となっている。これに「はじめに」「一句鑑賞」「あとがき」が付く。
「はじめに」はこんなふうにはじまっている。

「なぜ川柳なのだろうと思う。人生の大半を川柳に陣取られるなんて考えもしなかった」

「陣取られる」という言葉によって、読者はいきなり樋口由紀子の川柳ワールドの中心に立たされる。「陣取る」とは戦国武将のようでもあり、子どもの「ごっこ遊び」のようでもある。「川柳」が筆者の人生の中にどっかと陣地をとってしまったのである。
樋口は強烈な印象を残す言葉の使い手である。
「はじめに」の一部分は本書の帯にも採用されているが、帯文の中からさらに次の一文を抜き出してみよう。

「読み手の中にずかずかと入っていき、わざと居心地悪くし、うっとうしく、とんがらせて、強引に意味でねじ伏せていくのも川柳の醍醐味のひとつである」

彼女の散文にはアフォリズム的要素がある。独自の発想と感性によって書かれているから、数千字の評論よりもインパクトを読者に与えるのだ。
「週刊俳句」209号で五十嵐秀彦は本書収録の「固有性と独自性―池田澄子小論」を取り上げている。五十嵐が引用しているのは次の一節だ。

「川柳は垂直に勢いよくボールを落下させる快感を口語体のわかりやすさで味わう。しかし、池田は何を書くかを基点に、そこからいかに書くかと具体的な輪郭と実景でボールを大きく投げる。口語体がボールの回転をなめらかにし、大きな弧を描く役目をし、奥行きをもたらす。弧は問いであり、問いが答えである。決してボールの着地点が答えではない。彼女の口語は現状を大きく超えていく」

五十嵐はさらにここから「弧は問いであり、問いが答えである」を抜き出して、彼の文章のタイトルにしている。樋口の文章の凝縮力とアフォリズム的性格がそうさせるのだろう。彼女の文章は読む者の心にさまざまなものを喚起する。それは樋口の文章に内在しているものに限らず、樋口の文章を契機として読み手の心の中に喚起されるものだろう。連想が読者の中で広がり、触発された発想が枝葉を伸ばして、言葉の世界へと誘われるのだ。

Ⅱでは石部明『遊魔系』・渡辺隆夫『亀れおん』・石田柊馬『ポテトサラダ』などが取り上げられ、Ⅲでは佐藤みさ子・加藤久子・草地豊子・松永千秋などの女性川柳人が論じられている。どの川柳人を書くときも、その人物像は樋口由紀子独自の見方によって染められている。中立とか客観的という言葉は彼女の辞書にはない。

「石部明が黒いズボンしか穿かないことを知っている人はいるだろうか」「黒しか穿かないのはこだわりでも、黒が好きなためでもなく、彼には隠しておきたいものがあるからなのだと気がついた。黒いズボンを穿くことで、彼は尻尾、つまり病気を隠し続けているのだと」(「究極のアンビバレンス」)
「私が佐藤みさ子の文章を最初に読んだのは、『裁縫箱』というエッセイである。今から十八年くらい前であろうか、『こんな川柳人が仙台にいます』と加藤久子から送られてきたそれは、原稿用紙に鉛筆で書かれていた。一読して私はしばらく動けなくなった。未知の佐藤みさ子という人が私の中で大きく膨れ上がったのだ」(「身体を使って精神を守る」)
「彼女の独特の文体を私は密かに『久子の大玉転がし』と呼んでいる。自分の身長より高く大きな玉を旗のあるところまで転がしていく、小学生の頃運動会でよくした競技である。紅か白の大きな玉に言葉を乗せて小柄な久子が転がしていく」(「言葉の重み」)

人間にはさまざまな面があるから、見る人によって人物像は複雑に変化する。しかし、著者は人物を強烈な一点から照射することによって印象的なキャラクター・スケッチに成功している。佐藤みさ子の「裁縫箱」というエッセイは『セレクション柳論』(邑書林)に収録されているから、機会があれば読んでいただきたい。

本書を読むと著者がもっとも好む実作者は中村冨二と攝津幸彦であることがわかる。
一番好きな川柳人は? ― 中村冨二
あなたのもっとも好きな俳人・川柳人は? ― 攝津幸彦
この二つの答えは矛盾しない。
樋口由紀子が時実新子のもとで川柳のスタートをきったことはよく知られている。けれども、両者の資質はまったく異なっていた。本書には本格的に新子を論じた文章は収録されていない。樋口にとって新子川柳はすでに決着済みの問題である。川柳において「師系」というものが意味をもつとしたら、このようなかたちでのみ意味をもつだろう。亜流として受け継ぐことは文芸の領域では無意味である。

さて、本書のⅣはやや個人的な語り口のエッセイを集めている。それだけにいっそう「樋口由紀子らしさ」は炸裂している。

〈 そういえば、なにげなく読んだ新聞記事に目が釘付けになり、「ああ、私には俳句は詠めない、川柳でよかった」と痛切に思ったことがあった。長谷川櫂の「古典について」というエッセイで朝日新聞に数日連載されていた。「古典を学ぶとは一も二もない。幾度も自分を殺すことである。そして、言葉のはるか彼方から響いてくる言葉の声に耳を澄ます」ものであり、「個性、才能、自己表現。そんな恥ずかしいものを見せびらかしたい人は勝手に見せびらかしてくれ。早晩、時間がきれいに洗い流してくれる」と書いていた。「個性、才能、自己表現」どれも私の憧れるものである。たとえそれが取るに足らない恥ずかしいものであっても私はそれにこだわりたいし、そこで表現していきたい 〉(「詠めばわかる」)

本書はいろいろな読み方ができるだろうが、「現代川柳への理解の書」としても有効である。本書に紹介されている川柳作品によって、現代川柳になじみのない読者にもおおよその輪郭がつかめることだろう。
巻末近くに収録されている「虫であった頃に見ていた東京タワー」では「やまだ紫」について書かれている。この文章は「生命の回廊」Ⅱに発表されたもの。この本は夭折した歌人・笹井宏之を追悼するために伊津野重美によって創刊された。樋口の文章にも鎮魂歌的雰囲気がある。

世界と調和している川柳人というものはイメージしにくいが、樋口もまた世界との異和を感じ、川柳という文芸に選ばれた一人である。彼女の作品にもエッセイにも川柳性の聖痕が明らかに見てとれる。川柳は新しいプリズムを通して現代的光輝を放つ。もっとも川柳的であることによって、川柳のワクを越えた短詩型の言葉の世界を照射する。樋口由紀子はそのようなプリズムなのである。

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