2014年12月26日金曜日

第三回俳句Gathering

12月20日(土)、伊丹の柿衞文庫で「第三回俳句Gathering」が開催された。過去二回は生田神社での開催、アイドルを呼んでのイベントだったが、今年は「関西6大学俳句バトル」と題して、関西の大学生俳人を中心に据えた企画となった。
「川柳カード」誌上大会の選者のひとり小倉喜郎や特選の中山奈々などが登場するので、今年も行ってみることにした。

当日は三部に分かれ、第一部は6大学対抗の天狗俳諧、第二部は歌人の土岐友浩を招いてのトーク、第三部は6大学対抗の句会バトルだった。
参加大学は、京都大学・大阪大学・立命館大学・甲南大学・龍谷大学の5大学に「俳句ラボ」チームが加わる。「俳句ラボ」は柿衞文庫の俳句講座を受講しているメンバーである。あと1大学の参加があれば話はすっきりするのだが、東京に比べると関西の学生俳句は林立状況とは言えず、大学横断的な学生俳句組織として「ふらここ」が活動している。

気になったのは、「天狗俳諧」に対して事前に作戦を練ってきたというチームが多かったこと。天狗俳諧というのは、上五・中七・下五を別々の作者が作って最後に合わせる雑俳のひとつで、思いがけない飛躍が生命であり、笑いを誘うのだ。シュールレアリストたちの遊びに通じる。事前に対策を立てたりして、おもしろいはずがない。どんな場合にでも対応できるような平凡なフレーズが多く、できあがったものは小さくまとまった句ばかりとなっていた。ただし、第一部で勝ち抜いたチームが第三部に出場できるのだから、やむを得ないところもあるのだろう。

第二部のトークライブは「短歌・Twitter・文学フリマ」と題して、土岐友浩の話を聞いた。聞き手は久留島元と中山奈々。
土岐友浩(とき・ともひろ)は2004年「京大短歌」に入会、大学卒業後は所属結社なしで、同人誌「町」「一角」を編集するなどの活動をしている。
現在、学生短歌は隆盛をきわめているが、土岐が活動を始めた10年前は、「京大短歌」「早稲田短歌」のふたつしかなかったというのは今昔の感がある。俳句には「俳句甲子園」があり、学生短歌も盛んであるというのは羨ましいことである。
土岐の話で興味深かったのはツイッターの使い方。発信するだけでなく、場合によっては双方向の交流も可能となる。「短歌版深夜の真剣お絵かき60分一本勝負」で、「火をひとつくれそのあかりそのくるしさでずっと夜更けの森にいるから」(小林朝人)という短歌に、それぞれ自分で描いた絵を投稿してくるということだった。絵とのコラボによって歌の解釈が深まるようだ。ツイッターには「謎の読み巧者」がいると土岐は言う。
「わたしの五島さん」(コミック版)の場合は、「一角」に掲載された原作のエッセイについて、土岐が「コミカライズしたい」とツイッターでつぶやいたところ、スズキロク、松本てふこから手伝いますというメッセージがあって実現したという。SNSを通じてそれまで無関係だった人と人との交流が生まれる。
同人誌は書店で置いてくれる場合もあるが、文学フリマも販売の機会として有効。文学フリマで同人誌を売るのはこの二年くらいの流れだという。売れる場合は100冊くらい売れるというから、景気のいい話だ。川柳の同人誌が出店しても、そうはゆくまい。
土岐の話を聞いたあとすぐに、「わたしの五島さん」を買った。

第三部は「6大学対抗バトル」は俳句甲子園形式の句会。
審査員、津川絵理子・小倉喜郎・曾根毅。
準決勝一回戦は龍谷大対京大、兼題「炬燵」で京大の勝。
準決勝二回戦は甲南大対阪大、兼題「鯨」で阪大の勝。
決勝は京大対阪大となり、兼題「数へ日」で阪大が優勝した。
俳句甲子園などで慣れているせいか、ディベートは堂に入ったものだ。ただ「季語の本意」とか「景が見えない」とか、議論の仕方がパターン化されているようにも感じた。
兼題が古風なせいか、それほどおもしろい句には出会えなかったが、注目したのは次の句である。

猫の数え日毎日休みだろうよ      寺田人(てらだ・じん)

私がこのイベントを応援しているのは、何も内容の充実した、完成された催しだからではない。俳句の裾野を広げたい、そのための場を作りたいという主催者の熱意に共感するからである。実行委員の久留島元や司会をつとめた仮屋賢一などのボランティアの人たちがいなければできないことである。
後日、ツイッター上でこのイベントについての感想が若干あった。土岐が語っていた「深夜のお絵かき」について確認ができて、それなりにおもしろかったが、名古屋で開催された「プロムナード現代短歌2014」のときのような頻繁な応酬があったとは言えない。俳人は歌人ほどツイッターを利用していないのかもしれない。当日の参加者の中に「空き家」歌会の方がいたことも後で知った。こういうイベントでは誰が参加しているかよく分らないので、できれば会場でもっと交流する機会が設けられていればよかったと思う。

12月23日に「川柳カード」7号の合評句会を上本町・たかつガーデンで行なった。
先ごろ実施した誌上川柳大会を振り返りながら、いろいろ話し合った。
東京から参加した柳本々々とも交流することができた。
オンラインで活躍している人とオフで会うことができて、確かな手ごたえを感じた。

いつかも書いたことがあるが、短詩型、特に川柳の活動というのは何かを試みようとしても徒労に終わることが多い。今年は特に徒労感がひどい気分だけれど、徒労のなかからかすかでも新しい胎動が始まってゆくのかもしれない。来年はどんな年になるだろう。

来週の金曜は正月2日となるが、家でただゆっくりしているだけなので更新をする予定。では、よいお年をお迎えください。

2014年12月19日金曜日

時事川柳の現在

今年も残りわずかになった。毎年、この時期には今年の十句を選んでコメントを付けているが、今回は少し趣向を変えて時事川柳に限定して選んでみた。五句しか選べなかったが、とにかく書いてみよう。

憲法をあんたの趣味で変えるなよ    草地豊子

「川柳カード」7号掲載。
衆院選は自民党の圧勝に終わった。首相は快哉を叫んでいることだろう。
歴史の曲がり角をひとつ曲がったのかもしれない。
この後にやって来るのは憲法改悪である。
「シナリオ」という言い方がある。政治は人間の行動が関わっているから、今後どうなってゆくという予想は立てにくい。けれども、いろいろな条件を当てはめていくと、いくつかのシナリオが考えられる。私には最悪のシナリオが思い浮かんで消えない。
将来になってから、過去を振り返ったときに、あのときの選択は間違っていたということにならないように願う。
掲出句は選挙以前に詠まれた句だが、現時点で更に重い意味をもってくる。

原発を捨てる燃えないゴミの日に    佐藤みさ子

「MANO」19号掲載。
昨年7月のこのブログに「佐藤みさ子は怒っている」という文章を書いたことがある。みさ子の怒りはなお続いている。
「夏草と闘う死者になってから」「海水に混ぜて毎日流します」「せんそうはひとはしらからはじめます」など、今のみさ子は現実と向き合う川柳を書いている。
佐藤みさ子のファンにとっては時事川柳という「消える川柳」ではなくて、もっと文芸的な川柳を書いてほしいという向きもあるだろう。けれども、そうではないのだ。
表層的な時事川柳は消えてゆくが、時代の本質をついた時事川柳は時を越えて残るはずである。深い批評性をもった作品であれば、読み継がれていくことができる。私は中野重治が好きだった。プロレタリア文学のいくつかの小説は今でも読む価値がある。
批評性と文学性の統一という困難な路を佐藤みさ子は歩んでいるのだ。

聖戦続くグラグラ揺れて来る奥歯    滋野さち

「触光」39号掲載。
イスラム国やイスラム過激派のニュースが日々報道されている。
海の向こうの話のようだが、日本も無関係ではいられない。
アメリカのテレビドラマなどを見るとしばしばテロリストが登場し、リアルである。彼らにとっては実感なのだろう。
「聖戦」という非日常と、「グラグラ揺れて来る奥歯」の日常はどこかでつながっている。日常もグラグラ揺れてくるのだ。

冬夕焼け富士の噴火を見て死のう    渡辺隆夫

『六福神』所収。
御嶽山の噴火以前の作品だが、もし富士山が噴火するとすれば、地震や津波・噴火など、すべての自然災害の象徴的意味をもつだろう。
老年を迎えた人間にとって「死」は意識せざるをえないものだが、死ぬ前に富士山の大噴火でも見ておきたいというのは、『平家物語』の平知盛のように、「見るべきほどのことは見つ」と言い放ちたい心情に通じるだろう。
「津波引き日本全国へびいちご」(渡辺隆夫)

権力をもつ風景をゆるせるか      前田芙巳代

「川柳カード」7号掲載。
権力というものは間違いなく存在するのだが、ふだんは巧妙に隠蔽されていて、私たちは権力者に支配されているという実感はあまり持たない。けれども、近ごろは権力者が言論を抑圧し、情報操作によって大衆をコントロールしている姿が露骨に目にうつるようになってきた。また、以前なら許されなかったような政治的発言がそれほど批判されることもなく、まかり通っている。「権力者のいる風景」はすでに日常となっているのだ。
かつて前田芙巳代は「情念川柳」の書き手と言われた。その彼女が時代の現実と向かい合った川柳を書いている。
必ずしも時事川柳を本領としない川柳人であっても、現代という時代に批評性をもって対峙しようとしている。そこには「やむにやまれぬ気持ち」があるのだと思えてならない。

2014年12月5日金曜日

和漢連句を楽しむ会

11月30日に伊丹の柿衞文庫で「和漢連句を楽しむ会」が開催された。
「和漢連句」単独の実作会としては、平成ではおそらく初の出来事ではないだろうか。
ところで「和漢連句」とはどういうものだろうか。
連句は長句(五七五)と短句(七七)を交互に付けてゆくが、そこに和句だけではなく漢句(漢字五字の句)を混ぜてゆくのである。実物はあとでご紹介するが、この和漢連句の実作者は、現在ほとんどいない。その第一人者である赤田玖實子は、故・三好龍肝の和漢連句を継承している。赤田による「和漢聯句」の説明をまず紹介する。

「和漢聯句とは、中国の聯句(二人以上で句を連ね一首の詩を作る)と日本の連歌が結びついてできた連句文芸の一種で、和漢連歌、和漢連句の二種類がある。広い意味で、和漢聯句の名称は、これら和漢・漢和の連歌、俳諧を総称するものである」
この聯句形式は平安時代に一部の詩人に愛好され、鎌倉時代には長連歌の影響を受けた。和漢連歌の全盛期は室町時代で、五山の詩僧、公家、連歌師などによって大いに行なわれた。
「室町期以後の狂詩、俳諧の勃興に伴い、和漢連歌は和漢俳諧に形を変え、江戸時代を通じて一部人士の間で、引き続き作られてきたというが、各俳書に書かれている漢句の作り方は、どれもが漢詩を骨子にしており、儒者、漢学者、僧侶や武士といった人以外にとり、平仄の煩わしさが、連歌の世界ほどには作られなくなった、大きな要因ではなかったかと考えられる」(「和漢聯句 始まりとその変遷」)

さて、当日は京都大学・文学部教授の大谷雅夫氏の講演「芭蕉の和漢聯句について」があった。大谷氏の話によると、京大文学部の国文学研究室の隣には中国文学研究室があるが、両者の交流はなかった。それで共同研究をやろうということになって、選ばれたテーマが「和漢連句」だったということだ。その共同研究が表彰されることになって、伊賀上野における平成23年度芭蕉祭記念講演会で大谷さんが講演することになった。その講演を聞いていたひとりが赤田さんだった。講演のあと赤田は大谷に「和漢連句の実作者です」と名のった。大谷はそのときの驚きを「マンモスの研究者が生きて歩いているマンモスに不意に出会ったようなもの」と語っている。
大谷が最初に和漢連句の存在を知ったのは伊藤仁斎の日記からだった。
『仁斎日記』の天和三年五月二十五日に、伏見殿で和漢連句を巻いたことが出ている。
公家の伏見家に仁斎は弟や子(のちの東涯)、弟子たちを連れて訪れた。発句は

若竹のよよにたえぬや家の風

若竹の節々に絶えることなく伏見家の学問の伝統が続いてゆくという挨拶である。これに伏見家の子息(十七歳)が漢句を付けて応じている。
江戸時代の儒者や公家には和漢連句の心得があったことがわかる。伊藤仁斎は京都の儒者で『論語古義』などで知られる。京都堀川には彼の住居跡「古義堂」が残っているので、いつか訪れてみたいと思った。
さて、芭蕉には和漢連句が一つ残されている(和漢「破風口に」の巻)。そのオモテ六句を紹介する。

納涼の折々いひ捨たる和漢  月の前にしてみたしむ

破風口に日影やよはる夕涼  芭蕉
煮 茶 蠅 避 烟   素堂
合 歓 醒 馬 上    堂
かさなる小田の水落す也    蕉
月 代 見 金 気    堂
露 繁 添 玉 涎    堂

『奥の細道』の旅を終えたあと、芭蕉は伊賀上野・幻住庵・落柿舎などに滞在し、元禄四年冬に江戸に戻った。知友の山口素堂との交流から生まれたのが「破風口に」の巻である。
破風は屋根の高いところにある合掌形の二枚の板、または三角の部分をいう。発句は破風口にさす夏の陽光も薄らいできて、夕涼みの時間になったという挨拶である。素堂は脇句で、茶を煎ずる音を蝿の飛ぶ音にたとえて応じている。
講演のあとは五座に分かれて、和漢連句を巻いた。25人の参加者があったのは画期的なことだった。

当日は名古屋で「プロムナード現代短歌2014」が開催されていた。
第一部は、荻原裕幸の司会、パネラーに島田修三、佐藤文香、なかはられいこ。
短歌・俳句・川柳のジャンル論が話題に。
第二部は司会が斉藤斎藤、パネラーが加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸。
短歌研究新人賞の石井僚一「父親のような雨に打たれて」のことなどが話題に上り、「虚構」の問題が論じられたらしい。
ブログやツイッターでレポートが出ているが、やはり実際に参加してみないと本当のことはわからない。

「老虎亭通信 イキテク」7号(松島正一)が届いた。
松島はブレイクの研究者で岩波文庫『ブレイク詩集』の訳者である。妻の松島アンズには『赤毛のアン』の翻訳があり、連句人としても有名。
年に一度の老虎亭連句会では日本語・英語同時進行の歌仙を巻いている。歌仙「曼珠紗華」の巻からウラの六句を紹介しよう。

ひめやかに東司に巣くう女郎雲     丁那
浄瑠璃人形腰をゆらりと      アンズ
豚を焼く煙に集う三百余        愛音
兜の緒締め山を駆け下り        渉
歳末のこんなときにもチェストいけ   雀羅
僕らの波を砕く寒月         丁那

A queen spider/silently weaving /in a zen temple toilet
Joruri puppet twisted / its waist so womanly
Pig roast / some three hundred people / around the smoke
Tightening the helmet / running down the mountain
What a nerve /on New Year’s Eve / he shouts charge!
The cold moon /shatters the wave we make

ジャンルを越え、言語を越え、文芸にはさまざまなコラボレーションがあるものだ。

2014年11月28日金曜日

川柳をどう配信するか

ツイッターで瀬戸夏子の「短歌bot」を読んでいる。毎日おびただしい数の現代短歌が配信されてきて、目がくらむようだ。10月にスタートして約一ヶ月で2000首を越えている。どういうシステムか私にはよくわからないが、あらかじめまとめて入力しておいて、配信時間を設定しておくと、機械が自動的にランダムに配信してくれるようだ。自作だけではなくて、短詩型文学をこういうかたちで配信できるのだ。
短歌のbotはいろいろあるが、川柳でもbotがあるかどうか探してみると、あるにはあるのだが、江戸川柳だったり下ネタ川柳だったりするので、がっかりした。

ネットプリントというのもある。コンビニのコピー機でユーザー番号と予約番号を打ち込めば、プリントアウトされてくる。プリント代は一枚20円(白黒)だから、6枚としても120円。ただし、期間限定ということと、打ち出してみないとどんなものが出てくるか分からないので、当り外れはある。ためしに「ぺんぎんぱんつ」(しんくわ、田中まひる)を購入してみた。正岡豊の「秋ノ国トハ」から。

十月のはじめ
妻と
数年前に亡くなった
父の墓参りにいった

ちいさめの赤と白とのコンバイン動いて止まる田の秋である
ぼくたちがぼくたちのお金を払いぼくたちのお昼ごはんを食べる
大仏殿前でオオクワガタムシが尼に踏まれたなどという嘘

文学フリマは東京では定着しているらしくて、しばしば開催されている。
大阪でも昨年と今年、堺市の会場で開催された。二度とも行ってみたが、初体験だった昨年の方がインパクトは強かった。短詩型では短歌が中心の感じで、小説やマンガなども活気があるが、川柳からの参加はない。
従来の活字中心の誌面構成だけでは若い世代のフィーリングをひきつけることは無理だと強く感じた。こちらの頭の中が変わらないと、何も変わらない。

フリーペーパーというものもある。
同人誌でも冊子を作るのは大変だが、一枚または数枚の紙に作品を印刷して配信するのは簡単だし、廉価にできる。
7月に「大阪短歌チョップ」に行ったときに、会場には短歌のフリーペーパーがたくさん置いてあった。手にとってみたが、購入しようとか持って帰ろうとか思わなかったのは、掲載されている作品が玉石混淆だったからだろう。手軽にできる分だけ、編集の眼とか他者の眼とかが入りにくい。選を行わずに作品を全部掲載する場合はなおさらである。

今回は現代川柳の中味ではなくて、川柳をどう配信してゆくかという、外面的な問題を考えようとして話をはじめている。
マーケットが成立していない川柳においては、どのような形で作品を読者に届けるかは切実な問題である。短詩型の世界ではどのジャンルでも状況は同じだと言われるかもしれないが、書店に並んでいる俳句・短歌・川柳の量の差を見れば川柳の劣勢は一目瞭然である。
川柳の商業誌は現在「川柳マガジン」しか存在しないから、川柳の配信は結社誌・同人誌を通じて行なわれる。結社誌であれ同人誌であれ、従来の川柳誌はすべて作者がお金を出しあって川柳誌を作り、出来上がった作品を仲間内で読むという形態をとる。不特定多数の読者が雑誌を購入することはほとんどなくて、作品の文芸的価値が問われなくてすむ。マーケットが成立するためには作品に商品価値がなければならないが、お金を出して読みたい川柳作品、お金を出して話を聞きたい川柳人はきわめて稀だろう。

そういう中で川柳作品を配信しようとすれば、従来の紙媒体の句集・書籍だけではなくて、SNSを利用していく方向に進んでいかざるをえない。句会という座の文芸に馴染んできた川柳人にとっては苦手なSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だが、みんなが発信しないと情報の海の中で、川柳はますます埋没していってしまう。
12月20日に伊丹の柿衞文庫で「第三回俳句Gathering」が開催される。
ゲストに短歌同人誌「一角」の土岐友浩が来て話すことになっているので、若い世代の表現者たちが自分たちの作品をどのような形で配信しようとしているのか聞けるものと期待している。

川柳大会に高齢化した川柳人が何百人も集まったり、自分で会費を払って掲載された川柳誌の自作を眺めて自己満足にふけったり、ISBNコードのない句集を仲間内で配布したりしているだけでは、川柳は先細ってゆくだけである。
句会は魅力的な川柳イベントと連動してオープンなかたちで開催されることが必要となる。講演会や句会ライブ、ワークショップなどを仕掛けてゆくことも重要。参加型のイベントでないと人は集まらない。短歌・俳句に比べて後発の川柳にはまだ試みられていないことがいっぱいある。うまくいくという保証はどこにもないが、とにかく何かをやってみることが大切だろう。

『新現代川柳必携』(田口麦彦編、三省堂)が電子書籍として販売されることになったそうだ。丸善のeブックライブラリーのページから購入できる。こういう形の配信も今後増えてゆくことと思われる。

2014年11月14日金曜日

小島蘭幸川柳句集『再会Ⅱ』

天王寺の大阪市立美術館で「独立展」を見た。毎年、この時期に開催されるので楽しみにしている。独立美術協会の斎藤吾朗氏は画家で連句人でもある。画廊連句で知り合ってから、毎年展覧会の案内を送ってくれる。この人の絵を見にゆくのである。
今年は「富士に寿ぐ」が出品されていて、世界遺産登録にちなんだものか、富士を中心として清水港から伊豆の下田までパノラマのような世界が展開されている。彼は三河在住で、赤を基調とした独特の画風なので「三河の赤絵」として知られている。
全体の構想もさることながら、ディテールのおもしろさが抜群で、清水の次郎長がいたり、ペリーが来航していたり、太宰治が「富士には月見草が…」と呟いていたりする。富士浅間神社の信仰も描かれているが、古今東西のさまざまな登場人物たちが画面狭しとひしめきながら一堂に会しているのだ。そこにはメッセージ性がこめられている。
会場でもらった「独立ノート」第4号には「私のターニングポイント」として絹谷幸二のインタビューが載っている。むかし「日曜美術館」でこの画家が「土佐の絵金」のことを語っていたのを覚えている。絹谷はこんなふうに語っている。
「独立展の出品者の中にも、何年も何年も同じような絵を描いている人がいますよね。そういう人は質的な時間が多岐に渡っていない、つまり自分の絵を模写しているように見えます。独立展の場合は進取の気性に満ち、挑戦している絵でないといけません。新規な時間が生み出されていないということは存在がないということです」

「川柳塔」は今年創立90周年を迎え、10月4日に「第20回川柳塔まつり・川柳雑誌・川柳塔90周年記念川柳大会」が開催された。それにあわせて、主幹の小島蘭幸川柳句集『再会Ⅱ』が発行されている。

ひとすじの煙たかぶりなどはない
晩年の味方は一人あればよい
みんなみな幻正座してひとり
座禅組む急ぐことなどないこの世
精神力だけで立ってたのか葦よ
一喝をしてから眠れなくなった

序文のかわりに橘高薫風の「川柳塔の旗手 小島蘭幸」が収録されている。「川柳木馬」38号(昭和63年)の「次代を担う昭和2桁生まれの作家群像」に掲載されたものの再録である。
薫風はこんなふうに書いている。

「川柳界の動きは、明治三十年代の川柳復興期から、時代を先取りしたのは常に若者であったが、総じて微温的であった」「明治二十年代に生まれた作家たちの中で、麻生路郎、村田周魚、椙元紋太、川上三太郎、岸本水府、前田雀郎が六大家と呼称されるように傑出した。また、大正末期から昭和一桁生まれの作家が、昭和42年5月京都国際会議場で開催された平安川柳社十周年記念大会で、当時の新進として壇上に顔を並べた印象は今も鮮やかで、壇上で質問を受けた新進の人たちが、現在充実した指導力を各地で発揮している。そして、次代の川柳界を背負うのが、小島蘭幸の世代、つまり戦後生まれの団塊ではなかろうか」

昭和末年ごろまでの川柳界の状況論として読んでも興味深い。
小島蘭幸は昭和23年、広島県竹原市に生まれる。15歳で川柳をはじめ、竹原川柳会に入会した。昭和42年、川柳塔社・同人。平成22年、川柳塔社・主幹。
前掲の文章で、薫風は続けて次のように書いている。

「しかしながらまた、竹原川柳会を中央から指導していたのは清水白柳と菊沢小松園であり、その上に当時の川柳塔の主幹、中島生々庵がいて、三人ながら穏健保守の作風であったので、新進の蘭幸にはいささか不満な場合もあったのではなかろうか。これは、私が麻生路郎について指導を受けた当初に抱いたもので、私の作る古い句ばかり入選にして、自分では意欲的に作った斬新な句は没続き、全く考え込んでしまったのだが、数年を経て、その感覚的な斬新さが本物になってきたとき、続けさまに入選にして下さった」

川柳結社が若手を育てる機能を失っていなかった時代の姿がここにはある。
「川柳木馬」に掲載されたもうひとつの蘭幸論は、石原伯峯(広島川柳会会長)の「句集『再開』とそれからの蘭幸」である。『再会』は蘭幸が結婚を機に発行した第一句集である。この文章で伯峯が注目していたのは次の四句である。

僕の視野にカラスが一羽だけとなる
むかしむかしのやさしさがある藁の灰
いのちふたつあれば悪人にもなろう
うさぎの耳もわたしの耳も怖がり

蘭幸は竹原川柳会や川柳塔とともに歩んできた。そのことは、たとえば次のような句にも感じられる。

真夜中の酒よ六大家を想う
創刊号ひらくと波の音がする
恐ろしい人がいっぱいいた昭和
生々庵栞薫風路郎の忌
ライバルも私も痩せていた昭和

「蘭幸には社会を諷刺し、他人に敵対するような句はない。それはそれでよい。どんな対象であれ、無理につくることはないのである。言いたいことだけを言うことだ。饒舌は中味が薄くなるばかりである」

橘高薫風は蘭幸の作品についてこのように書いている。
昭和の川柳界には「恐ろしい人」がいっぱいいた。他人に敵対するというような表層的なことを言うのではないが、蘭幸にもまた「恐ろしい川柳人」になってほしいと思っている。

2014年11月7日金曜日

江田浩司歌集『逝きし者のやうに』

江田浩司歌集『逝きし者のやうに』(北冬舎)について書いてみたい。
表現者は多かれ少なかれ先行の作品に影響を受けているものだが、この歌集は先人への追悼とオマージュそのものを主題としている。塚本邦雄・山中智恵子・近藤芳美・北村太郎・蕪村・村松友次・荒川修作…このように挙げてゆくと、江田の詩魂のありどころが浮かびあがってくる。かつて「精神のリレー」ということが言われたことがあったが、「魂のリレー」というようなものがこの歌集には感じられる。
江田は村松友次に俳諧を学び、塚本邦雄の影響を受けて短歌をはじめたという。従って彼は俳諧と短歌という両形式を知悉しているから、偏狭でありつつ総合的なのである。
先人に対する追悼歌を一首ずつ挙げてみよう。括弧内に誰に対する追悼なのかを示しておくが、章名は省略させていただく。

水上に死の立ち上がるごとくして詩魂を紡ぐ父は生きたり(塚本邦雄追悼)
夢の記に雨の躰を記すとき韻文はなほ香り立つかな(山中智恵子追悼)
揺るぎなき意志は焦土に吹く風を詩の原形の一つとなさむ(近藤芳美追悼)
水烟は立ちのぼるなりかぎろひのことばの修羅を生きる人らに(多田智満子追悼)
フーコーから話し始めし修作がジョン・ケージにて一息つきぬ(荒川修作追悼)
歎きなど莫迦らしくなる緊縛に身を任せたり一炊の夢(中川幸夫追悼)

江田は塚本邦雄を「父」と呼ぶ。精神的な父なのだろう。山中智恵子は母であろうか。
江田に俳諧を教えた村松友次は紅花の号をもつ俳人でもあった。「村松友次先生を哀悼する」の章から三首引用する。

降りしきる雪に古人の貧しさを讃へたまひし師は逝きたまふ
旅に病む芭蕉を説ける講義かな湖底に棲めるこゑはくれなゐ
紅花とふ俳号を虚子に賜りて風花のごとき俳句をなしぬ

村松紅花は連句界でも高名であった。
私が愛読したのは『芭蕉の手紙』『蕪村の手紙』『一茶の手紙』(大修館)の三部作である。
北村太郎は「荒地」の詩人であるが、詩集には「かげろう抄」という連句的な作品が収録されている。連句人として活躍した松村武雄は北村太郎の兄である。
「あをき夜に立つ」の章は手がこんでいて、蕪村の「北寿老仙をいたむ」に寄せたものである。この新体詩の先駆と言われる作品自体が北寿老仙(早見晋我)に対する追悼詩である。江田はそこにさらに自らの短歌を取り合わせる。たとえば、こんなふうに。

君あしたに去ぬ。ゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる

砕けゆく言葉は風があがなへよ君あをき夜に立つと思へば

和歌をくずした俳諧、その俳諧をさらに崩した川柳を主なフィールドとしている私にとって、この歌集は「詩」や「韻文」に傾きすぎている。だから、次のような散文的な歌にであうと少しほっとする。

人生の七合目なりこれ以上いやな奴にはなるまいと思ふ

フラットな時代にあって、あえて屹立した言語表現にむかっていることは江田の独自性といってよい。表現者が創造の根拠とするのは、そのジャンルの伝統である。それは自ら選び取るものだから、同時代に限定されるものではなく、幽明境を異にする先人の仕事であっても生きて存在しているのだ。
もし、この歌集に対して俳諧的な読みを試みるとすれば、塚本邦雄も山中智恵子も北村太郎も、詠まれているすべての表現者たちは座の連衆であり、ひとつの祝祭空間を共有していることになる。

人生の半ばを過ぎて人の死が生きゆくことの一部となりぬ     江田浩司
向日葵のはじめての花蒼く冱えわがうちに生きゐたる死者の死   塚本邦雄

2014年10月31日金曜日

一周遅れで走っている僕らには希望があるかもしれない

10月19日(日)
大阪天満宮の梅香学院で「浪速の芭蕉祭」が開催された。
芭蕉終焉の地である大阪にちなんでスタートしたこの連句会も今年で八回目を迎える。
主催の「鷽の会」は天満宮のお使いである「鷽(うそ)」を会名にしており、「鷽替え」という俳句の季語もある。
今回は28名の参加者があり、本殿参拝のあと、授賞式と講評、四座にわかれて連句の実作を楽しんだ。
献詠の連句・前句付・川柳を事前に募集しており、連句の部では、大阪天満宮賞(選者・臼杵游児)として、非懐紙「束の間の」の巻(捌・福永千晴)、大阪天満宮宮司賞(選者・佛渕健悟)として、十八韻 順候式雪月花「夏怒濤」の巻(赤坂恒子・岡本信子両吟)が受賞した。

束の間の逍遥遊や虹の橋             千晴
端折る裾も軽き早乙女            美奈子
富める者易き眠りの得難うて           秋扇
打てば響ける会話愉しく            緋紗
仕組まれし宴まばゆき良夜なる          将義
ナルシスト等は囮籠持ち           美奈子

「束の間」の巻の最初の六句。非懐紙は橋閒石が創始し、澁谷道などが継承している。現代連句の究極のかたちとも考えられ、今回の「浪速の芭蕉祭」では三席にも非懐紙「思い出し笑ひ」の巻が入選している。歌仙を巻き尽くしたあとにはじめて見えてくる、連句精神だけで付け、転じてゆく世界である。この大賞作品は尻取り式になっていて、遊戯的要素を取り入れたのがよかったのかどうか、評価は微妙に分かれるだろう。

夏怒濤くちびる別れ告げにけり           岡本信子
夾竹桃の赤き残像                赤坂恒子

もうひとつの大賞十八韻・順候式雪月花「夏怒濤」の巻は発句と脇だけを挙げておく。
ほかに大阪環状線の駅名を詠み込んだ「佳き月を」の巻(木村ふう独吟)、半歌仙「戦の日」の巻 (洛中落胡・迷鳥子両吟)、押韻定型詩を連句に取り入れたテルツァ・リーマ「聖衣」の巻(捌・渡辺柚)など注目すべき作品は多い。
前句付の部(前句「女子高生にモテモテのキャラ」、下房桃菴 選)の大賞作品。

仙人が猿の腰掛けぶら下げて       矢崎硯水

そして、川柳の部(兼題「満」、樋口由紀子 選)の特選。

無理やりに割り込むおばちゃんがいて満月  徳山泰子

連句関係のイベントとして、11月30日(日)には伊丹の柿衞文庫で「和漢連句に親しむ会」が開催予定である。

10月26日(日)
「びわこ番傘川柳会60周年記念大会」が滋賀県草津のボストンプラザホテルで開催。草津ははじめてなので午前中に到着し、本陣などを観光した。ハロウィンの催しがあり、カボチャの仮面をかぶったり、魔女の格好をした子どもたちが街中を走り回っていたのには驚いた。
「びわこ番傘」は「番傘」のなかでも独自の行き方をしている。番傘であって番傘にあらず。とはいえ披講を聞いていると、やはり「番傘」だと思ったり、いや「番傘」ではないと思ったり、どういう句を出せばよかったのかと迷った。
当日もらった今井和子句集『象と出会って』(あざみエージェント)から。

横にいて時々水をかけてやる     今井和子
入り口でウツボカズラに睨まれて
群れて飛ぶやがてひとりになっている
壱岐島で赤いポストに入れました
マネキンの裸なんでもないはだか
グアテマラの元気ないろを買いました
ざわざわと帰ったあとの金魚鉢
人生の残りは柿の木になろう

10月29日(水)
大阪・宗衛門町のロフト・プラス・ワン・ウエストで枡野浩一と藤井良樹のトーク・イベントがあり、行ってみる。藤井は『プリズン・ガール』などの著書のあるライター。
第一部は枡野と藤井のトーク。
「枡野短歌教」以後のことはあまり知らないので、枡野がお笑い芸人になっているというのには驚いた。サブカルの話にはよく分らないところもあった。
第二部に入り、会場から天野慶と正岡豊が参加し、短歌プロパーの話になった。こちらの方は私にもよく理解できた。
「20年短歌で食ってきた」というのがメイン・テーマだったようで、歌壇と距離をおきつつ、枡野が戦ってきた軌跡がわかった。
マーケットが成立しない川柳の世界とは無縁の話だという気もするが、この人たちが短歌のためにいろいろやってきたことは人ごとではない。さまざまな努力や試みは徒労に終わることが多いが、短歌や俳句を横目にあとから走っている川柳人にとっては、まだできることが残っている。
「MANO」19号に書いた拙文「河野春三伝説」について、大井恒行は「現代川柳はまだまだ希望を胚胎している詩形」と書いてくれたが、様々な試みをやり尽くした短歌・俳句にくらべて、まだ素朴な川柳には「希望」があるのかもしれないと勝手に思った。

2014年10月24日金曜日

「第二回川柳遊魔系」集会

本日は「第二回川柳遊魔系」にお集まりいただき、ありがとうございました。
石部明さんが2012年10月27日にお亡くなりになってから、二年が経過しようとしています。昨年の10月27日には大阪市立総合生涯学習センターで「川柳・遊魔系」句会を開催しました。今年も第二回を開催しようと思っていたのですが、諸般の事情で開催することができませんでした。そのかわりと言うのも変ですが、このブログを借りて、架空の「遊魔系」集会を行いたいと思い立ちました。しばらくおつきあいくださいますようお願いいたします。
昨年は「『遊魔系』に見る無頼の生き方」というタイトルでお話させていただきました。石部明の作品を「現実との違和」「もうひとつの世界」「帰ってから」の三つに分け、異界に行って帰ってくるという石部ワールドを往相・還相の観点から整理してみました。
今回は「石部明における『死』のテーマ」ということでお話したいと思います。
石部明の第一句集『賑やかな箱』(1988年)に次のような句があります。

消えてゆくものの微かな摩擦音     石部明
賑やかに片付けられている死体
なんでもないように死体を裏返す
向きおうて死者も生者もめしを食う
葬式に人がくるくる花日和

これらの句を引用したあと、前田一石さんは「川柳カード」6号「石部明とのいろいろ」で「当時の川柳界で『死』を詠むことは、嫌がられていた。と言うよりも誰もが句にしなかった」と書いておられます。
それでは、石部明以前の川柳において「死」はどのように詠まれていたでしょうか。

死に切って嬉しさうなる顔二つ     柳多留
生まれては苦界死しては淨閑寺     花又花酔
六兵衛は死んだそうだよ風が吹く    大谷五花村
葬式で会いぼろいことおまへんか    須崎豆秋
轢死者の下駄が歩こうとする      中村冨二

心中や社会批判やユーモアなど、人間くさい川柳は「死」を詠む場合でも生者の視点から離れません。ただし、中村冨二だけは少し異質です。『賑やかな箱』で石部明は「死」というテーマを発見しました。その後、『遊魔系』で深められることになる契機が第一句集にあります。

ところで、俳句では「死」がどのように詠まれているか、一瞥しておきます。

雉子の眸のかうかうとして売られけり     加藤楸邨
螢死すこの世のひかり出し尽くし       鷹羽狩行

俳句の場合は「もの」に即して、動物や植物の死を詠んでいる場合が多いようですが、次のように人間くさい句もあります。

うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする   種田山頭火
露の世はつゆの世ながらさりながら         小林一茶

これらは川柳とも近い感じがします。また、俳句では「忌日」という季題があります。先人の亡くなった時期にちなんで、「~忌」という季語を使います。

忌にこもるこころ野に出で若菜摘む    細見綾子
花あれば西行の日とおもふべし      角川源義

女流では、やはり次の二人の句が心をうちます。

月光にいのち死にゆくひとと寝る     橋本多佳子
白露や死んでゆく日も帯締めて      三橋鷹女

さて、石部明の川柳に話を戻しましょう。
川柳に詠まれる「死」は生者の視点から眺められることが多かったようです。ところが、石部明は「異界」の方へ行ってしまった。死の世界は、現実とは次元の異なるもうひとつの世界であって、現実は異界と二重写しになってとらえられています。異界は同時に言葉によって構築される世界、文学の世界でもありました。
第二句集『遊魔系』を読むと現実の中に異界を見る句が目立ちます。「死」の前に「魔」があるわけです。

天井の鏡の中を魔が通る        石部明
水掻きのあるてがふっと春の空
傘濡れて家霊のごとく畳まれる
目隠しをされ禁色の鮫になり

日常生活の中で「魔」や「水掻きのある手」がふっと幻視されます。石部明ほど現実を知り尽くしている人はいないはずなのに、彼はもうひとつの世界の中でも生きていた。そして異界から現実を眺めかえして川柳を書いていたのではないでしょうか。内部に二つの世界をかかえていることは、明さんの場合、矛盾ではないと思っていましたが、句集を読み返してみると、こんな句もありました。

夜ごと樹は目覚めてわれを取り囲む
苦しんで夜明けをまっているさくら
折鶴のほどかれてゆく深夜かな

夜はロマン派の世界であり、魔の跳梁しやすい時間でもあります。それは解放でもあり、同時に苦しみであったかもしれません。
以前から気になっていたのは次の句です。

揺さぶれば鰯五百の眼をひらく

それまで死んでいた鰯を揺さぶると一斉に眼をひらくというのです。
魚には瞼がありませんから、眼をひらくということ自体が虚構です。
しかし、鰯たちが突如五百の眼をひらいてこちらを見るというのは無気味でもあり、爽快でもあります。
石部明の作品にはさまざまな面があり、たとえば「性」もそのひとつです。「性」については次の機会にいたしましょう。最後に引用しておきたい句といえば、やはり次の句になるでしょうか。

死顔の布をめくればまた吹雪    

人生の結末を言えば、すべての人は死で終わるわけです。終末を考えればニヒリズムは避けられません。しかし、人生には結末だけではなく、プロセスがあります。結末の時間があるからといって、それまでの時間に価値がないとは言えない。おおかたの川柳人は亡くなると忘れられてしまうのが普通です。追悼句会を行って、あとはきれいさっぱり忘れられてゆく川柳人の運命を私もしばしば目にしてきました。ニヒリズムの克服は大切なことです。
晩年の明さんがよく聞いていたというCDに一青窈「歌窈曲」があります。
今夜もこれを聞きながら石部明のことを考えています。
10月27日は明さんが亡くなって丸二年になります。石部明の川柳について改めて考える機会にしていただければありがたいです。ご清聴ありがとうございました。

2014年10月17日金曜日

京博へ行けばカエル・パワーがもらえる

美術の秋である。
いくつか話題の展覧会が開催されている。
先週発表しようと書きかけた文章が今週になってしまったので、すでに開催が終わったり、展示替えになったものも多いがご了解いただきたい。

京都国立博物館で平成知新館がオープンした。すでにご覧になった方もおられるだろうが、常設展「京へのいざない」が開催中。
私が見たときは2階の絵画室が充実していて、「源頼朝像」「平重盛像」のほか雪舟が3枚、如拙の「瓢鮎図」、伝徽宗「秋景冬景山水図」、牧谿「遠浦帰帆図」などが陳列されていた。(現在は第二期に入り、陳列替えになっている)。
小学校六年生のときにはじめて京博を訪れてから、ここは私にとって大切な場所のひとつである。新館が平成知新館になってもそのことは変わらない。
たとえば、如拙の「瓢鮎図」。
つるつるした瓢箪でぬるぬるした鯰をどう押さえるかという禅の公案がある。ちなみに「瓢鮎図」の「鮎」は鯰のことである。男の眼と鯰との間に瓢箪がある。瓢箪を鯰の方に徐々に近づけてゆく。するとある位置で、男の視界において鯰は見事に瓢箪の中に隠れるのだ。思えば、かつての私は観念論者だった。
花田清輝に「ナマズ考」という文章がある(『日本のルネサンス人』)。
花田は「瓢鮎図」の男を個人主義者と見る。徹底的な個人主義者だったその男は地震が起こると瓢箪をたずさえて竹藪に逃げ込んだ。彼は地震のおさまるのを待ちながら、悠々と瓢箪の酒を傾けていた。ところが、彼は一匹の大鯰が流れを泳いでくるのを見たのだ。古来、鯰は地震の元凶と言われている。彼は思わず瓢箪を振りかざしたまま、夢中で鯰に向かって突進していった。
花田はこんなふうに書いている。
「しかし、瓢箪でナマズを押えることは、しょせん、無理な相談であって、何遍やってみても、かれの企ては、そのつど、無惨にも挫折した。にもかかわらず、かれは、必死になって、ナマズを追い続けた。そして、わたしには、問題の『瓢鮎図』が、最後にかれの行動に移ろうとした決定的瞬間を、あざやかにとらえているような気がしてならないのだ」
「わたしは、飛んだり、跳ねたり、大騒ぎをしながら、小川を泳ぎくだってくるナマズをみても、指一本うごかそうとはしない冷静な男の分別を、かならずしも過小評価するものではないが―しかし、不可能の可能性を信じて、瓢箪でナマズを押えつけようとする騒騒しい男のなりふりかまわぬ無分別な行動をせせら笑おうとはさらさらおもわない。くりかえしていうが、そこには、個人主義の枠のなかにおさまりきれない、やむにやまれぬ何かがある」
如拙の「瓢鮎図」から随分離れた感想であり、花田にしては珍しく熱くなっているのも面白いが、この文章を読んで以来、如拙の「瓢鮎図」は私のなかで花田テーゼと結びついたものとなっている。

もう一枚、牧谿の「遠浦帰帆図」に触れておこう。湖を帆船が帰ってくる。岸に向かって対角線の構図が心地よい。絵の全体をおおう雨と水蒸気。ターナーが色彩で描いた世界を墨一色で描ききっている。岸には酒旗がひるがえり、居酒屋でいっぱいやってみたい気分に誘われる。この絵は、ほれぼれと立ち去りがたい名品である。
水墨画とか書斎詩画軸というものが長い間、私にはなじめなかったが、こういうものは現実や人間の醜悪な姿を見尽くしたうえで、はじめてその気韻のすばらしさがわかる。政治家や実業家が茶の湯や水墨の世界にひかれるのも理由のあることで、現実の醜さを知り尽くしているからこそ、書斎における静謐な世界が必要であって、心のバランスをとることができるのだ。
「京へのいざない」は展示替えをして10月15日から第二期。京博では特別展「鳥獣戯画と高山寺」も始まっている。「鳥獣戯画」のカエルやウサギたちから私は今までどれだけ笑いとパワーをもらったことだろう。

すでに終了したが香雪美術館では「曾我蕭白展」が開催された。
「蕭白展」は2005年に大きな展覧会が京博であったが、今回は小規模ながらいくつかの名品が陳列されている。香雪美術館所蔵の「鷹図」は色彩の美しいものだし、「獏図杉戸」(朝田寺)などの異形の絵が印象的だった。
数十年前になるが、高校生のときに二条城で「異端の画家」という展覧会が開催され、私は学校をさぼって見に行った。そのとき私は若冲・蕭白・蘆雪などをはじめて見た。1970年ごろ、「異端」というのは魅力的な語であった。その後、「異端派」は「奇想派」と名前を変え、その分パワーを失って、一般に受け入れられるようになった。

伊丹の柿衞文庫では「芭蕉生誕370年展」が開催中。
柿衞文庫は開館30周年を迎える。この30年間の新出作品などを集めて開催されている。
平成5年(1993年)は芭蕉没後300年記念で、柿衞文庫と出光美術館で大規模な芭蕉展が開催された。そのときは120点の作品が一堂に会し、破笠筆「芭蕉翁像」や西村本「奥の細道」、蕪村筆「奥の細道屏風」などを見ることができた。そのときと比べると今回の展覧会は小規模で専門的である。破笠筆芭蕉翁像は今回も出ていたが、前期だけで現在は展示替えで出ていない。芭蕉筆「旅路の画巻」などは見てわかりやすいものである。
現在は後期で11月3日まで開催。

芭蕉に関連して、10月19日には大阪天満宮で「第八回浪速の芭蕉祭」が開催される。大阪は芭蕉の終焉の地である。

あと大和文華館では特別展「酒井抱一」が開催中。抱一の「夏秋草図屏風」が全期間出品されているのが嬉しい。11月16日まで。

川柳のことも少しだけ。
「触光」39号の会員自選作品に渡辺隆夫がこんな句を出している。

「川柳の使命」だなんて呆けたか爺さん
二葉亭四迷もクタバッテ使命
賢女ら健在、使命ってナニよ
とり急ぎ使命打者を探します
爺さんの住所使命は「わかりまへん」

この時評の8月8日に書いたが、「第4回高田寄生木賞」の大賞作品「ふる里は戦争放棄した日本」(大久保眞澄)について、渡辺隆夫が「この句には、川柳の使命のようなものがギュッと濃縮されています」と述べたことに対して、広瀬ちえみは「さて、川柳には隆夫さんが述べる『使命のようなもの』があるのだろうか。川柳の特質のひとつである『批判』や『諷刺』にあたることをさしているのだろうが、私は『使命』という強いことばでいわれるとどこかひいてしまう。アブナイもののようで近づきたくないと思うのだ」と疑義を提出した。今回の隆夫の句は、そのことを受けて書かれている。
隆夫は自分自身を茶化している。あいかわらず話題をふりまくおもしろい人である。
この議論が「川柳に使命があるか、ないか」というように、表層的に理解されてしまうことのないように願っている。

2014年10月3日金曜日

台所で言葉の調理がはじまった

加藤久子の作品が掲載されている川柳誌は「MANO」と「杜人」の二誌である。
今回は「MANO」19号、加藤久子の「トルコの空」20句を読んでみたい。

水っぽい体になって箱を出る

主語が省略されているので、誰が、または何が箱を出たのかわからない。
分からなくても「私が」と補って読んでおく。
「箱」もどんな箱か分からないが、部屋とか家のことを言っているような感じがする。
感覚的だけれども、何となく感じは伝わるのだ。
箱の中にいるあいだに、体が水っぽくなってしまった、外に出てみようか、という気分だろう。箱の中にいるのが嫌ということもないのだが、少し違う空気も吸ってみたいのだろう。

蔦の蔓伸びる新聞店の昼

早朝や夕方の配達時間とは異なり、昼の新聞店はのんびりしていることだろう。
無為の時間が流れ、蔦の蔓が伸びていく。

色とりどりの毒を抱えて台所

舞台は台所である。
そこは料理を作る狭い空間であって、ニンジンやキュウリやナスなど色とりどりの食材が並んでいる。それを久子は「毒」に見立てる。毒殺を得意としたボルジア家のように、嫌いなヒトに毒を食べさせる…という空想である。
今回の久子の作品は基本的には「台所川柳」なのではないかと思った。
けれども、久子の台所川柳は世間で書かれている作品と何と異なった姿をしていることだろう。
台所で調理をするというのは日常生活のひとこまに過ぎない。日々繰り返される個人的で狭い体験である。それを事実として書く書き方もあるが、事実以外の何も考えない人は日常の牢獄に住んでいるようなものだ。久子がそこに言葉を加えると、食材の姿は一変する。
こういうことを思うのは、久子の次の句が念頭にあるからかもしれない。
「レタス裂く窓いっぱいの異人船」
台所にいても、久子の眼には別の風景が見えている。たとえば、こんなふうに。

自白はじまっているキャベツの芯
水耕レタス 酸っぱい空を噛む
法話集ぬかに漬け込む茄子胡瓜
梅干しは甕に納まり無音

台所の光景でありながら、何やら異質な世界の予感がする。
世界は「ここ」でありながら別の「どこか」とつながっている。

義母も母も店頭から消える

無為な日常的時間の流れ。
けれども、ふと気づくと親しい人びとはもういない。

ひとりごと軍服少年見え隠れ

日常時間の中に、ふと過去の時間が紛れ込む。
たとえば、戦争。
日常の背後に戦前の軍国少年の姿が彷彿とするのだ。
かつてドストエフスキーを愛読していたころ、革命運動を体験し、逮捕されて銃殺刑寸前に皇帝の恩赦をえてシベリア流刑、やがて聖なるロシアに回帰してゆく、その体験の振幅の激しさに舌を巻いたことがあった。普通の人間にこのような体験ができるわけもなく、私たちは平凡な人生を歩んでいるのである。川柳に書くべき題材といっても特に持ち合わせているわけではない。では、どうすればよいのか。
久子は「MANO」19号のエッセイでこんなことを書いている。

〈 東京行きの新幹線が仙台を発車する寸前だった。三月、冷たい雨の午後、乗車してきた長身の女性が立ち止まって、言った。「おとなりのお席、座らせて頂いてよろしいでしょうか?」
うとうとしていた所へ、あまりにご丁寧なご挨拶に思わず座りなおして、「どうぞ」と。裾の長い黒いコートに、頭からすっぽり目深くフードを被っている。 〉

ミステリアスな雰囲気の女性だったという。うとうとしているところに現れたのだから、白昼夢のたぐいだったのかもしれない。

〈 福島駅に近づいた時、車窓がいきなり雪に変わった。「新しい雪ですね」と言って立ち上がった彼女、「ご道中どうぞお気をつけなさいませ」と降りていった。その時ちらっと見えたフードの中の顔は真っ白で、唇は真っ赤。でも不快ではなくむしろ美しく、それが少し怖かった。 〉

彼女は二言・三言で周囲の雰囲気を変えてしまった。言葉の力をもっていたのだ。
久子の句に戻ろう。

トルコの空ですここへ来てごらん

作者が本当にトルコへ行ったのかどうかは知らない。
トルコは親日的な国で、日本からの観光客もよく訪れるから本当に行ったのかも知れない。
現実の場所であろうと架空の場所であろうと、トルコの空というものがあり、作者は「ここへ来てごらん」と誘うのだ。

図書館のにおいになって帰宅する

出かけていって、帰って来る。
他に帰るべき場所などあるはずもない。
けれども、隣に座った見知らぬ人がふと言うかもしれない。「新しい雪ですね」と。

2014年9月26日金曜日

むさし句集『亀裂』

9月13日(土)、青森で「川柳ステーション2014」が開催され、その第2部のトークセッション「破調の品格」は司会・Sin、パネラー・榊陽子・德田ひろ子・奈良一艘・むさしという顔ぶれで行われた。詳細はいずれ「おかじょうき」誌に発表されるだろう。
さて、「おかじょうき川柳社」の代表・むさしから句集『亀裂』(東奥日報社)が届いたので、今回はこの句集を紹介したい。1頁3句、全360句が章立てなしにずらりと並んでいる。

踊り場で出会えば殺し合ってたなあ

まず、こういう句から取り上げてみようか。
無頼の男たちの述懐である。
階段を上がってゆく者と階段を下りてくる者とが踊り場ですれ違う。
黙ってすれ違えばいいものを、必ずそこで蝮の絡み合いが生まれる。
「むさし」という柳号の由来は宮本武蔵だろう。
おかじょうき川柳社の前代表が北野岸柳。ガンリュウ即ち佐々木小次郎だから、むさしが登場しても不思議ではない。
掲出句は別にこの二人の決闘を詠んだものではないが、若い頃を振り返って、かつては暴れたものだったという作中主体の述懐が感じられる。

まだ5分あります僕を騙せます

5分あれば何かができるだろうか。
うまく僕を騙してごらん、という余裕もある。
騙されてみたいのだろう。

ストローが首に一本刺さってる

何でそんなところにと思ったり、痛くないだろうかと想像したりする。
ストローは液体を吸うためのものだから、このストローから何かを吸い上げるものが存在するとしたら無気味だ。

うらおもてないはずだがと裏返す

裏返してみるとやはり裏があった、というのは理に落ちる。
裏がえしてみてもやはり裏はなかった、というのもきれいごとである。
裏返してみる中途半端で宙吊りの行為の中に現実味がある。

弥勒菩薩の右の小指にぶら下がる

先日、奈良国立博物館の「醍醐寺展」で快慶作の弥勒菩薩像を見た。
快慶はあまり端正すぎてそれほど好きではなかったのだが、この弥勒菩薩像を見て快慶に心酔した。
弥勒は気の遠くなるような遥かな未来に出現する仏である。
そういう存在を信じなければ、川柳などやっていられないように思ったのだ。

どうしても省略できぬ鼻の穴

ほかのものは省略できても、鼻の穴だけは無理だという。
何となくわかるような、わからないようなあんばいである。
鼻は顔の真ん中にあって、堂々と自己主張をしている。
しかも、鼻の穴だなんて。

遊ぶ金ないのでずっと見てる空

お金がないので仕方ないから空を見ている人がいる。
空の表情は刻々と変化するし、雲や風などの有名なものたちがいるから見ていても飽きない。最近はクラウド・ウッチングといって雲を見ることを趣味にする人もいるそうだ。
掲出句の作中主体は、金があろうとなかろうと空を見るのが好きな人なのだろう。

バックしますもめごとがあるようですが

何やら後ろの方でもめているようですが、バックしますよ。
そんなことでもめごとが中断するのならいいのだが。

句集のあとがきでむさしは川柳をはじめたきっかけについてこんなふうに書いている。

〈 1994年12月、友人に「千円で飲み放題の会がある」と誘われ、隣の蟹田町へのこのこ出かけた。
連れて行かれたところはなぜか薬屋。
二階奥の間へ案内されてから「実は川柳の会です」と言われあっと驚く。
そこは杉野草兵さんのお宅で、おかじょうき川柳社忘年句会の席だった。 〉

以後二十年、題詠作品を集めてこの句集が成った。「並べ方はランダムである」というが、この点に関して私には異論がある。360句ただ並んでいるのは読者にとって少々読みづらい。
「無作為に並べた方が私ごときが作為を持って妙な並べ方をするよりずっといい」とむさしは書いている。
いつだったか川柳大会の翌日、ホテルで朝食をとりながらむさしと話したことがある。彼は柳宗悦の民芸運動のことなどを語った。民芸にあらわれる雑器の美。そういうものと一脈通じるものがあるとすれば、たいへん彼らしい句集が出来上がったと思うのである。

2014年9月20日土曜日

湊圭史の仮説の家

9月14日、「文学フリマ大阪」に行った。
今年は「川柳カード」として出店するつもりで、参加申し込みのメールまで送ったのだが、その後もう一度返信メールするのを忘れて手続き完了に失敗した。まあいいか、というので、当日会場には行ってみたが、お目当ては吉岡太朗の第一歌集『ひだりききの機械』(短歌研究社)である。

ごみ箱に天使がまるごと捨ててありはねとからだを分別している   吉岡太朗
兄さんと製造番号二つ違い 抱かれて死ぬんだあったかいんだ
おりがみを折るしか能のないやつに足の先から折られはじめる
あじさいがまえにのめって集団で土下座をしとるようにも見える
ふいとったらそれが顔やとわかるけど問題はふきおえてからなんです
両手とも左手なのでひだりがわに立たないとあなたと手をつなげない

連作として作られているけれど、連作の枠組みを外しても共感できる歌が多い。抒情性から批評性への道筋は川柳人にも無縁ではない。「膜があんのに出てきたから聖なる御子 穴がないのにひり出されたら聖なる雲子」など、渡辺隆夫が読んだら喝采するだろう。
会場には同人誌やフリーペーパーなどいっぱい置いてあって、活字だけの誌面構成とはずいぶん違う。こちらの頭の中が変わらなければ、若い世代にも魅力的な川柳誌の実現など望むべくもない。

「井泉」59号、巻頭の招待作品は湊圭史の「仮説の家」15句である。

教科書の表紙の光沢はぬかるみ
半分にすると時計は寂しがる

ぴかぴか光る新しい教科書もぬかるんでいる。これから新しいことを学ぶ喜びのなかに、それとは相反する感情が混じっている。足をとられるような困難な感覚。
食べ物を半分に割って、分け合って食べる。二人の間には共感が生まれるが、では時間を分け合うことはできるだろうか。半分にされた人間が互いに他の半分を求め合うように、半分にされて時計は他の半分を求め合う。けれども、半分にされた時計はすでに自分の時間を刻みはじめているのだ。

ハンモックらしく二枚舌を使う
ストローの袋のような鳥のような

比喩の句が二句続く。
ハンモックは二枚舌を使うことがよくあるのだろうか。
ストローの袋のような、鳥のような存在とは何だろう。
ストローを出したあと袋はもう要らない。
ゴミ箱に捨てられるのだが、私たちはそれを意識することさえなく捨てている。
では鳥は?
鳥は飛び立ってゆくことができるのではないか。
「ストローの袋」でもあり「鳥」でもあるような存在。

和音階は蟻の耳には聞こえない

逆に言えば、蟻の耳に聴こえているのは不協和音である。
あちらこちらからノイズが聞こえ、その中で蟻は地を這っている。

目を覚ますまた揺れているフライパン
思い返してはフルートの口になる
くるぶしと買い物かごと地平線

日常性を詠んでいる。
日常性はいとおしいものであるが、退屈なものでもある。
日常性のなかにふと過去の時間が紛れ込む。そのとき人はフルートの口になる。

しりとりの終わりに「生んでくるわ」
天井に並んで生える歯がきれい
拍手した手がふっくらと焼き上がる
すこし小さい骨格標本のまえで

結婚生活の中で子どもが生まれる。
尻取りの「生んでくるわ」の前の言葉は何だったのだろう。
そして、あとの言葉は?

永遠を引っ掻いてゆくパイプ椅子
頑張るとペットボトルが立ち上がる
一人ずつ小さな靴でさようなら

「仮設の家」ではなく、「仮説の家」である。
すべては仮説なのだ。
生活・現実・日常性。そういうものの中に、別の現実や時間が重なってくる。
グッバイ・デイ。
この家は変容しながら明日も続いてゆく。
湊圭史は現代詩や俳句の世界でも活躍しているが、彼の川柳作品には今まで少しなじめない部分があった。けれども、今回の「仮説の家」15句は川柳形式と見事に親和していると思った。

2014年9月13日土曜日

『新現代川柳必携』(三省堂)

2001年に刊行された『現代川柳必携』の続編である。編者は田口麦彦。
例句はすべて入れ替えられ、5000句以上が収録されている。
アンソロジーとしても利用できて、現代川柳でどんな作品が書かれているのかを一望するのに便利である。

最初のテーマ「愛情」では「愛」「逢う」「君」「恋」などの例句が掲載されている

手も触れず桃の匂いをかぎ分ける   草地豊子
続編の月をふたりで見てしまう    澤野優美子
水牛の余波かきわけて逢いにゆく   小池正博
こいびとになってくださいますか吽  大西泰世
花びらを集めて風のトルネード    阪本高士

川柳でよく詠まれる「家族」。「兄」「弟」「姉」「妹」「親」「子」「父」「妻」などいろいろだ。

全集をそろえて兄の耳を噛む    清水かおり
連弾の姉とおとうと息合わず    木本朱夏
ばあさんに自衛の銃がある茶の間  滋野さち

川柳の句会・大会では動詞の兼題がよく出る。「急ぐ」「替える」「帰る」「覗く」「乗る」から。 

急がねば祇園精舎の鐘が鳴る       古谷恭一
チャンネルを替えると無口になった    湊圭史
正方形の家見て帰る女の子        樋口由紀子
父帰る多肉植物ぶらさげて        丸山進
裂け目から春を覗きに行ったきり     本多洋子
新型の飛行機雲に試乗せよ        高橋かづき

俳句と川柳の違いとして、季語論議がされることがあるが、本書では「季節」の項目が立てられていて、春夏秋冬、一月から十二月のほか「梅雨」「菜の花」「花冷え」「冬籠り」などが収録されている。季節を表す言葉も川柳の貴重な財産であり、俳句の季語とのニュアンスの違いを感じ取ることができる。

ファスナーの悲鳴は秋の季語ですか     丸山進
九月来る瞼のおりてくるように       八上桐子
十二月両手に残るものは何         森中恵美子

川柳の特質のひとつに批評性があるが、滋野さちはこの方面で独自の作句を続けているひとりだ。「戦争と平和」の項から。

青梅が落ちた 原発再稼働    滋野さち
殴られる前の自衛や春の雪
鉢巻をするとテロリストと呼ばれます

このように項目ごとに多様な川柳作品が収録されていて、広く目配りされたものになっている。「ササキサンを軽くあやしてから眠る」(榊陽子、杉野十佐一賞)「ふる里は戦争放棄した日本」(大久保眞澄、高田寄生木賞)などの受賞作品も見落とされていない。「震災」のテーマで200句収録されているのも、選者の見識をしめしている。現代川柳の全貌は川柳人にとっても捉えにくいものだから、本書は貴重な労作だと言えよう。項目別なので、設定された項目に当てはまる句が採用されており、それは必ずしもその川柳人の代表作とは限らないのだが、本書の性格からはやむを得ないことだろう。
巻末には編者・田口麦彦による「現代川柳のこころ」という文章が収録されている。これは昨年12月に「日本経済新聞」に連載されたもので、現代川柳を要領よく展望している。

あと、任意に印象に残った句を紹介しておく。

笹舟に揺れて東京駅に着く       重森恒雄
アドレスが変わりましたと埴輪から   いわさき楊子 
桃を突くまでは勝者のはずだった    いわさき楊子
ペルソナの中の塔みな海を向く     西田雅子
かもめ飛ぶ海辺とあの世とのあわい   悠とし子

高橋古啓の句に何句か出会ったのも懐かしいことだった。

撃たれた時の狐を見たか一行詩    高橋古啓
まぼろしか十三月へ翔ぶ兎

2014年9月5日金曜日

他人の人生につきあうということ

たまには伝統川柳の見学もしておこうと思って、8月31日(日)、「京都番傘創立85年記念川柳大会」に行ってみた。番傘の大会に参加するのは「番傘川柳本社創立85年大会」以来のことである。
「京都番傘」は昭和5年に創立され、初代会長は平賀紅寿。

碁盤目に世界の京として灯り    平賀紅寿

『柳多留』の巻頭句「五番目は同じ作でも江戸生まれ」の江戸意識に対して、京都を前面に押し出した句である。京都番傘の機関誌は『御所柳』だが、創立当初は『レフ』という誌名だったという。「一眼レフ」などというときの「レフ」である。個人的な感想だが、『レフ』という誌名を捨てたのは惜しいことである。

洛北の虫一千を聴いて寝る     岸本水府

以前からこの句は洛北のどこで作られたのか気になっていたが、森中恵美子の「京番と水府を語る」の話で、水府が戦時中、京都に疎開していたころの句であることが分かった。水府は一乗寺に疎開していたという。
ついでだが、西田当百に次の有名な句がある。

ないはずはない抽斗を持って来い  西田当百

『川柳塔』9月号(「柳多留十二篇研究」)を読んでいて、『柳多留』に「無いはづはないと跡から蔵へ行く」の句があることを知った。主人や番頭が蔵へ行くのではおもしろくない。母や女房がドラ息子または亭主が勝手に持ち出したのをとがめる句のようだ。当百は古川柳の味を受け継いでいることになる。

喜多昭夫歌集『君に聞こえないラブソングを僕はいつまでも歌っている』から。

克明にすこしみだらに原発の腸(はらわた)描かば愉しからまし    喜多昭夫
フクシマを脱出したし 原発も 原発管理人も 桃も
無花果の葉もて国会議事堂を蔽いかくせばよいではないか

二句目は塚本邦雄の有名な歌を踏まえながら、そこに「桃も」と付け足している。批評性のある歌だが、次のような多様な作品がある。

「人生は苦しい」(たけし)「人生はなんと楽しい」(永井祐)
文学フリマで出会った君をとりあえず作中主体であることにして
許されてしまうさびしさ むささびが木から木へ飛ぶとき四角なり
手まひまをかけられ育った僕たちが品川できれいな点呼をうける
金魚にはたくさん種類がありますから最寄りの駅までお越しください
番号のつけられていないどうぶつをしずかに数えるコビトカバまで
なんかこうぶっきらぼうに見えるけどかゆいところに手が届くひと
緞帳のように降りくるものがある 見えなくなるまで見るということ

「井泉」58号、島田修三が「玉城徹の歌をめぐって」を書いている。
島田は「他人の人生につきあうのは厄介でもあるし、億劫なことでもある」と断ったあとで、玉城徹の歌について次のように書いている。
「だから私は玉城徹の人生には深入りしたことがない。深入りはしなかったが、玉城の歌集を読んでいると、向こうから彼の人間や人生が湧き水のようにこちらへ侵入してくる」「歌はそこに文学的境涯のコンテクストを据えなければ、優れた個性=差異性は容易にとらえがたい文学だということだ」
有力同人をあいついで失った「井泉」だが、これからもがんばってほしい。

今年の「俳句甲子園」は開成高校が優勝した。
決勝では開成高校と洛南高校が戦った。
「船団」102号に清水憲一が「高校生と俳句」というエッセイを書いている。
清水は洛南高校俳句部の元顧問である。数学の教師であるにもかかわらず、なぜ俳句部の顧問を引き受けたのか、その経緯が語られている。
「蝶」209号にも「土佐高校俳句同好会」の「俳句甲子園全作品」が取り上げられていて、宮﨑玲奈の20句も掲載されている。
華やかな部分だけが注目され、その成果を見て安易に「同様のことを川柳でも」などと言う人がいるが、俳句甲子園の立ち上げには主催者・スタッフの並々でない努力があったうえに、その維持には若い俳句ボランティアたちの下支えが欠かせない。
すぐれた俳句表現者の系譜を若い世代が受け継いでいることがベースにあると言える。

「船団」掲載の芳賀博子のエッセイ「杉浦がいるところ」。
今回取り上げられているのは重森恒雄である。

一塁が遠くてバスを待っている    重森恒雄
フェンスまで届かぬ会心の当たり
訣別をするために打つホームラン
跳び箱を跳ぶポケットのものを出し
飛行機のかたちに折って手を放す

重森が南海ホークスのファンだとは知らなかった。
現代川柳では『新現代川柳必携』(三省堂)が出版された。そろそろ大書店の店頭に並ぶころである。本書については次回に改めて紹介する。

2014年8月29日金曜日

「塔」創刊60周年大会のことなど

「塔」創刊60周年記念全国大会が8月23日に京都で開催された。
京都駅前のホテル会場には800人の聴衆がつめかけて満員であった。
亡くなった河野裕子の人気に加え、栗木京子・吉川宏志・江戸雪などの有力な歌人をかかえて発信力の強い「塔」ではあるものの、その集客力に驚いた。

第一部は高野公彦(「コスモス」)の講演「曖昧と明確のはざま」。
高野は現代短歌の中から「曖昧と明確」のはざまに揺れる短歌を紹介しながら、「短歌結社は読みをきたえるところ」という観点から「短歌の読み」を展開した。「曖昧」(ambiguity)という言葉から、昔読んだエンプソンの『曖昧の七型』を思い出した。

トンネルが多い列車と聞いたから夏目漱石誘って行った   松田梨子
あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる   永井祐

高野が例にあげた歌は、ふだん言葉の飛躍に腐心している川柳の現場から見ると、曖昧でもなんでもなく理解しやすい歌だと思った。

赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり   斎藤茂吉

茂吉難解歌として有名だが、上の句と下の句を一種の連句の付合と理解することもできる。

第二部は永田和宏・鷲田清一・内田樹の鼎談「言葉の危機的状況をめぐって」。
鷲田(ワッシー)は「言葉の危うさ」について、現代の言葉が「すべってゆく言葉」であると述べ、「なめらかな言葉ではなくて、心にざわめきを起こさせる言葉」の重要性を指摘した。テクスタイルにはテクスト(意味)とテクスチュア(感触)があるので、「その人が何を言っているのか」よりも「その人が何を聴きとろうとしているのか」が大切。その発話者が「自分の言葉」と「自分の身体感覚」との間にある「違和」を自覚することが、文芸が生まれる前提となる。
内田は「吃音」について述べたあと、「届く言葉と届かない言葉」について、「コンテンツがいくらよくても聞き手の知的好奇心を喚起できない」「テープレコーダーの言葉よりライブの言葉」「自分宛のメッセージだと思うと人は注意力のレベルを上げる」などと語った。内田の読者にとってはおなじみの言説だろうが、肉声で聞くと説得力がある。「ポエティックなものを理解しようとすると知性だけではなくて全身が必要」「一義的なものはポエティックではない」「言葉は生成するためにある」という発言もあった。
鷲田・内田の問題提起を、永田は実作を挙げながら短歌にひきつけて展開してゆく。
自分があらかじめ考えていることを歌にするのではなく、歌にすることによって自分の思っていることを発見する。永田はそれを「生成の現場性」と呼んだ。

わからへんなんぼ聞いてもわからへん平和のためにいくさに行くと   石川智子

この作品を永田は「わからないことをわからないままに伝える歌」として紹介した。あらかじめ分かっていることを歌にするのではなく、プロセスをプロセスのままに表現するところに、永田は可能性を見ているようだ。「いま私たちは分かりやすいところで理解しようとしているのではないか」「社会詠は自分の中にあるメッセージを伝えようとすると失敗する」とも。
「一読明快」や「断言」が言われる川柳の世界と比べて、興味深く聞いていた。

この夏はいろいろな本や雑誌を送っていただいた。
『続続鈴木漠詩集』(編集工房ノア)から、たとえば次のような一節。

言葉はまた鏡でもあるから
向い合せの鏡の中を
エコーする言霊の無限反映
母音たちは屈託なく
自己模倣を繰返すのだ (「愛染*」)

木よ 質問する
時間軸はどこまで動いたか
雨季が終り
藍よりも青いあの空が
人みなの倦んだ視野に
戻ってくるまでには? (「質問*」)

「解䌫」28号に鈴木は別所真紀子詩集『すばらしい雨』(かりばね書房)の書評を書いている。今春に刊行されたときにこのブログで紹介しそびれていた一冊なので、遅ればせながら書いてみる。
別所は『雪は今年も』などの俳諧小説の書き手であり、詩人・連句人でもある。
詩集の「句詩付合」は「解䌫」に発表されたものだが、まとめて読むことができる。たとえば、「骨(こつ)拾ふ」という作品はこんなふうに書かれている。

骨拾ふ人に親しき菫かな     蕪村

めつむると 頭蓋のなかで
海馬が泳ぎだす 耳の奥では
からからと鳴る蝸牛の殻

みひらけばうす紫のゆうぐれ
膝の裏からしずしずと半月が昇る
たのしいじゃない? ひとのからだも

句詩付合、現代川柳や古川柳に別所の詩を付けたものを読んでみたいと思った。
詩集の中で最も印象に残ったのは「ひと夏を」という詩である。

役に立たない生きものになって
ひと夏をすごした

わたしは世界に用がない
世界はわたしに用がない

会えないまま遠くへ去ったひとへの手紙に
「古今集巻十二、六一二」と添えた

「古今集巻第四、一七八」
とのみのはがきひとひら

「巻第八、三七三」往く葉
「巻第十一、四八三」還る葉

ある夜 おびただしい流星群が墜ちて
秋 そして冬へ

「わたしは世界に用がない」という部分、多田智満子「告別」よりの引用。『古今集』も交えた引用の織物でありながら、その思いは心に沁みるものがある。

七月に「川柳ねじまき」創刊号が出た。
名古屋で毎月開催されている「ねじまき句会」のメンバーによる。発行人・なかはられいこ。とても好評でネットを中心に多くのコメントが寄せられている。

らいねんの桜のことでけんかする   なかはられいこ
敬老の日にいただいた電気椅子    丸山進
わたしたち海と秋とが欠けている   瀧村小奈生
そうか川もしずかな獣だったのか   八上桐子
地図で言う四国あたりが私です    米山明日歌
交番でモーゼの長き旅終わる     青砥和子
用意しておいた手足を呼んでみる   ながたまみ
このボタン押さずに傘を開いてよ   二村鉄子
墜落中ちょっと質問いいですか?   魚澄秋来
港には頼らず日本を出入りする    荻原裕幸

詩歌のさまざまなジャンルでそれぞれの表現者が言葉を届けようとしている。その中には届く言葉もあり届かない言葉もある。川柳の言葉は外部になかなか届かないものとあきらめる気持ちもあったが、案外、届く人には届いていたりする。鷲田清一や内田樹も言っていた「宛名」の問題である。

2014年8月22日金曜日

川柳小説「座談会―《「現代川柳」を語る》」

 昭和39年の晩秋、金子兜太は「俳句研究」の座談会に出席するために、都内のホテルへ向かった。その日の座談会は俳人同士の集まりではなく、俳人・歌人・川柳人の合同座談会だった。俳句からは金子自身のほかに高柳重信、短歌からは岡井隆、川柳からは河野春三・松本芳味・山村祐が参加する。座談会の記録は《「現代川柳」を語る》というタイトルで「俳句研究」昭和40年1月号に掲載されることになっていた。
 前年の昭和38年に金子は岡井隆との共著『短詩型文学論』(紀伊国屋新書)を上梓しており、河野春三や山村祐などの川柳人との交流が始まっていた。金子を通じて岡井も川柳人と交流するようになっていた。高柳の師は富澤赤黄男であるが、赤黄男の周辺からは岡橋宣介などの川柳人が出ており、高柳は河野春三の出版記念会にも出席していた。
 一同が集ったあと、司会の金子兜太はまず川柳人の紹介から始めた。
「ご出席いただいた河野春三さんは、『現代川柳への理解』、山村祐さんは『続短詩私論』という、それぞれの著書を持っておられる。又、松本芳味さんは今度の『俳句研究』誌の企てに応じて一文を草しておられる。まあ我々の今まで接しえた限りでの現代川柳派の方々が此処にお集まり下さっておる訳ですが、先ず話の糸口として、今申し上げた三つの文章などを参照しながら、私、現代川柳についての横におる者としての素直な感想を述べさせて貰おうかと思います」
当時「現代川柳」という言葉がしばしば使われていたが、これは単に「現代の川柳」という意味ではなく、「伝統川柳」に対する「革新川柳」というニュアンスが強かった。
金子の言う三つの文章のうち、河野春三の『現代川柳への理解』は『短詩型文学論』の注で引用されていた。山村祐の『続短詩私論』は「川柳現代」昭和39年1月号に金子兜太・林田紀音夫・高柳重信などが書評を掲載している。また、松本芳味は「俳句研究」昭和39年10月号に「現代川柳作品展望」という文章を発表しており、そこで芳味は現代川柳を「抒情について」「社会性について」「哲学派その他」に分類して紹介していた。
これらの川柳人の著作や文章を踏まえて、金子は俳句と川柳の共通性と相違について話を切り出した。
「まず、現代川柳と我々のやっている俳句とでは内容上のスレ違いということは殆どない。ただ、両者を発生から現状へという経緯の面で考えて来ると、一つの相違が感じられる。川柳の歴史には民衆に密着した自由な発想、ほしいままな風刺作りが一貫して感じられるけれども、俳句の場合、短歌の伝統を一応踏んだ所で発句という形式を生かして育ってきた、ややアカデミックな色合を持つ。もう一つ、川柳が口語短詩であったという事、従って最短定型という事に対して、文語短詩としての俳句ほど厳格でなかったという事、この違いが非常に重要だと思う。其の違いが内容上の差まで、或いは決めてくるのではないかと僕は考えるんです」
金子は『短詩型文学論』で「河野春三は『現代川柳への理解』で、俳句と川柳が最短詩としての共通性をもち、現在では内容的にも一致している点を指摘し、『短詩』として一本のジャンルに立ち得ることを語っているが、一面の正当性をもっていると思う。ただ、両者の内容上の本質的差異(川柳の機知と俳句の抒情)は越えられない一線であると思う」と述べているから、このあたりのことについて、もう一度確かめておきたかったのだろう。

この座談会を部屋の隅でそっと聞いている二人の女性がいる。彼らはタイムトラベラーで、昭和40年前後の柳俳交流について研究している20代の俳人である。座談会の参加者からは二人の姿は見えない。この二人を仮にA子・B子と呼んでおこう。
タイムトラベラーの守るべき原則は、歴史を変えてはいけないということである。どんなにフアンであっても、金子の髪をひっぱったりしてはいけない。座談会の内容に不満があったとしても、それに口を挟んではいけないのである。
「兜太ってずいぶん若いのね」とA子が言った。
「このときまだ45歳だもの」とB子。
「川柳人とも交流があったのね」
「『海程』は加藤楸邨の系統でしょ。人間探求派だから、きっと人間諷詠の川柳とも共通点があるのよ。あっ、春三が答えるわよ。静かに」

 兜太の問題提起を受けて、河野春三が答えはじめた。
「十七音文語定型という事ですがね。発生からみて、和歌から生まれた俳句は、之に非常にふさわしい、極言すれば俳句は定型、文語に拠らねばならぬと言えるでしょう。川柳の場合、定型でしかも口語に拠ったという事ですね。之が何故かという事になると、僕は大した根拠を持っていなかったと思うんです。形式のやどかり…だったんじゃないかと考える訳です」
 春三の口からヤドカリ説が飛び出した。川柳人は比喩的表現をよく使う。春三の話はなお続く。
「(川柳の)伝統派は殆ど口語ですが、現代川柳の方は革新の途上から文語を採用している訳です。この辺が俳句と逆ですね。俳句の方では文語定型が伝統派で、口語で定型基準破調又は自由律というと革新派という事になりますが、川柳の方では、伝統の方が口語で、しかも定型、革新派の方が、文語許容で、しかも破調又は自由律という訳です」
 春三の発言を受けて山村祐が話しはじめた。山村は現代詩から川柳へと進んだ人で、人形劇団プークに所属していた。
 山村は江戸期の庶民の単純化された発想・思考が五七五のリズムに乗って、原因・展開・結果という考え方で成立したこと、春三のいう「ヤドカリ説」にすること、前句付の付句として自然に返答の順序ができてしまう、という三点を述べた。
 さきほどから議論の方向に不満そうな顔つきだった松本芳味が、たまりかねて話を切り出した。
「史的な面からの事ばかりだと、ここにいる方々とは話があわないんじゃないか。発想とか、表現とか、もっと内容的に入って行かないと」
松本は春三に嘱望されている若手川柳人で、のちに句集『難破船』を発行する。川柳における多行書きの書き手としても知られている。
金子が最初に紹介したように、松本芳味はちょうど「俳句研究」に「現代川柳作品展望」という文章を発表したばかりで、現代川柳を内容的に分類して紹介していた。「現代川柳が、現代詩の一分野―短詩を志向したとき、抒情の回復と高唱が示されたことは、短詩の本質からみて、極めて当然の現象と云えよう。人間詩・川柳―ということの再認識。そこから川柳革新の頁は始まったと云っていい。この行き方が、俳句の領域を犯すものであるとの非難は、かれら新しい川柳を志向する作家たちにはナンセンスであった」―自ら書いた文章の冒頭の一節が、鮮やかに芳味の脳裏に浮かび上がった。
松本の発言に対して、司会の金子はこんなふうに応じた。「あながちそうは思わないんです。僕の詩論からいえば、詩に内容の規定というものはない。内容は自由だという事になる。川柳と俳句が別種に存在したという事は、そこにやはり形式の差があったからだと考える訳です」
 この内容と形式の問題は、この座談会を通じて何度も繰り返されることになる。
 それまで黙って他の参加者の発言を聞いていた高柳重信がおもむろに口を開いた。
「黙って聞いていると話がどんどん先へ行ってしまう。(笑)僕は俳句作家だから、進歩的な立場の短歌に対する場合、これは文字の量が俳句とは違うんだから、形式上の差は何といっても大きいし、従ってやや無責任なシンパでおられる訳だ。だが、川柳となるとそうは行かない。一般通念からいって俳句と川柳は十七音定型という点で同じだから、どうしても辛辣なシンパという立場を取らざるを得ない」

「きゃー、これがジューシンよ。かっこいいわね」
とA子が言った。
「そうね。小池正博が一つ覚えのように繰り返している《辛辣なシンパ》というキイ・ワードがここで出てくるのよ」とB子。
「短歌に対しては無責任なシンパ、川柳に対しては辛辣なシンパって、ズバリ言ってるじゃない」
「日野草城の《善意の越境》と高柳重信の《辛辣なシンパ》は俳人の川柳に対する典型的な二つの態度なのよ」
「春三のいうヤドカリ説って何なの」
「五七五という形式を貝殻にたとえて、ヤドカリという内容がたまたま手ごろな貝殻を借りて利用した、っていうことじゃない」
「伝統川柳が口語で、現代川柳・革新川柳が文語許容なのは何で?」
「わかんない。春三氏に聞いてよ」

「俳句と川柳とではいくらか形式が違うというような話だが、両方とも五七五でありながら、どうして形式が違ったか、これが一番重要な問題だ」
高柳の話は続く。
「江戸期の、同じ時代の同じ空気を呼吸していた人達が、同じ五七五の定型で一つはいわゆる正風の俳句、一つは川柳を作っていたという事についてこれは単に形式が違うという事だけで片付けられる問題だろうか」
岡井「形式が違うってどういう事、形式は同じじゃないの?」
高柳「さっき俳句と川柳は形式が違うというような発言があったから、それに対していってる訳だ」
金子「結果的に、違う形式、といったわけだ。江戸期の川柳は口語の文章語の五七五で、俳句の方は文語の五七五だった。その違いは確かにあったとみるんだな」
高柳「同じ時代の空気を吸っている人それぞれ言葉に対するナルチシズムが違うからではないかと割りきってみることも出来る」

いつの間にか傍らに一人の男が立っているのにA子・B子は気づいた。それまで何の気配もしなかったのに、どこからこの人は現れたのだろう。男は二人と同じようにじっと座談会に聞き入っている。
「失礼ですが、あなたはどなたですか」
たまりかねてB子が聞いた。
「これは申し遅れました。私は、宮田あきらと言います。川柳を書いています」
 男の言葉には関西の雰囲気がある。京都あたりの人なのか。
「私もこの座談会を聞きたくて、タイムトラベルしてきたのですよ」
と言って男はにやりと笑った。
「なあんだ。それじゃ、私たちのお仲間じゃん」
 ほっとしてA子はつぶやいた。
「ご挨拶は後で改めて申し上げますから、座談会の続きを聞きましょう」
と宮田は言った。その表情には一種の思いつめたところがあった。

「漠然と詩を思い詩人について考えているだけでは現実に俳句や短歌を書くことは出来ない。しかも、現代短歌と現代俳句の場合は、はっきり詩形の違いが分るが、現代俳句と現代川柳の場合は区別がつかないような事が、ままあるんだ。だから、僕たちが相互に、ここで詩人を見ようとするとくには、共に熱烈に、それぞれの川柳と俳句について語る以外に方法はないと思う」
「『俳句は死んだ』というのが僕の昔からの持論だ。滅亡するんじゃなくて、俳句はもう死んでしまっているということだ。同じ観点から言えば川柳も、もうとっくに死んでる。しかも現代川柳の動きなんかみていると死んでるのに気がつかないで勝手に騒いでるといった感じがするんだ」
 重信の発言は次第に鋭さを増してきた。
「現代川柳の、文学的に高い意欲をもってるといわれている人達の川柳が、僕らの俳句に似て来てる」
 この重信の言葉を聞いたとたんに、春三の顔色が変わった。春三は元来、短気な男である。現代川柳が俳句に擦り寄ってきている、俳句の真似をしている、俳句の影響を受けている、俳句を取り入れている…そのような言説を俳人たちから何度聞かされてきたことだろう。この人たちは無意識のうちに川柳を見下しているのではないか。川柳は断じて俳句の亜流ではないのだ。
 「大反論をせざるを得ない。川柳が俳句に似て来たのではなくて、俳句が川柳に似て来た点を僕は俳人に逆にききたい」
 険悪になった空気を和らげるように、岡井隆が言った。
「高柳君が優秀な川柳は俳句に近づくといったが、優秀な俳人は段々現代詩に近づくという事もいえる(笑)」

 それまでじっと座談会を聞いていた宮田あきらが一歩前へ進んで、座談の輪に入り込もうとしたのはそのときである。
「それはあかんのや。その言い方ではだめなんや…」
 驚いたA子・B子は急に関西弁になった宮田を引き止めた。
「おじさん、歴史を変えたらだめなんです。タイムトラベルの原則を知らないのですか」
「ぼくはSFは嫌いなんや。サブカルチャーも嫌いや。この座談会の発言を訂正するために、苦労してここまで来たのや。頼むから離してくれ。川柳が俳句に近づくのやない。現代の俳句は川柳に近づき、現代の川柳が現代詩に近づく…こう反論すべきなんや」

その間に座談会は進行し、話題がすでに変わっていった。
「エコールの差というのはよろしいな。結局川柳と俳句の差は、何に傾斜して作るかというだけの差になる」と金子が言って、話は定型論の方に進んでいった。
「僕は口語にはアクチュアリティーがあると思う。これが今、大切だと思う」と岡井が言った。
高柳がこれに反応した。「そのアクチュアリティーという言葉だが、僕個人としては、自分があくまでも、最も本質的な俳句作家でありたいと覚悟をしたときからさっきいった言葉のナルチシズム、それは僕の言葉に対するナルチシズムと、それから俳句形式自体が抱く言葉に対するナルチシズムと、その双方に忠実に殉じようと思ってきたので、あえて、このアクチュアリティーをしばしば放棄することとなったけれど、川柳の方は逆にこのアクチュアリティーに殉じるために、いわゆる言葉に対するナルチシズムを、あえて犠牲にしてきたとも言えるかもしれない」

「ナルチシズムとアクチュアリティーか。メモしとかなきゃね」とA子。
「この観点はおもしろいね」とB子。
「さっきエコール論というのも出てきたね」
「俳句と川柳はジャンルの違いではなく、エコールの違いだってやつね。そうでしょ、宮田さん」
「そう。よく勉強してるね」すでに落ち着きを取り戻した宮田が標準語で言った。
「私はジャンルの違いだと思うけど」とA子。
「ここで自律的ジャンル論をやりだすと、収拾がつかなくなるわよ」とB子が注意した。

 所定の時間がそろそろ終わろうとするころ、松本芳味は次のような発言をした。
松本「ぼく、面白くないことがある。他のジャンルの、いかなる人と話をしても、皆川柳に対して優位の意識があるんだね。古川柳に示された一般概念に、現代川柳もハメこもうとする。ただ口語と文語とに分けてしまう考え方には疑問があるし、俳句の方では口語俳句をどう見ているの、否定しているの。「こんなのは川柳だ」というだけで、片付く問題ですか」
高柳「ジャンルの優位うんぬんの言葉は、僕がもっとも言ってもらいたくなかった、いわばなさけない泣き声だと思う。もし、その作家個人の実力からきたものではなしに、軽々しくジャンルの優位性をふりまわしていると思ったら、それに対して、松本さんは、自分自身の実力とその作家的権威によって、断乎として跳ねかえすべきだと思う。今日の僕は、同じ十七字の定型詩にかかわっている人間として、現代川柳についても責任あるフアンの立場から、僕の疑問や意見を述べたつもりだよ。そう受けとってほしいね」
金子「問題が煮詰まらないうちに時間が来てしまったようですが、まあ一度の座談で片付く問題でもなし、兎に角お互いに有益な話し合いでした」
河野「大変に有益でした。現代川柳は現在過渡期でして、いわば新しい川柳のイメージ作りの段階です。益々活発に運動を展開してゆこうと思います。その為にも俳句や短歌の方々と一つの広場で、短詩共通の問題をお互いに解決し合うという事が今後も行われるといいと思います」

「あー、終わっちゃった。もう少し聞きたかったのに」とA子が言った。
「兜太と春三は最後にまとめに入ったわね。広場なんて言葉は、春三の『短詩の広場』から来ているみたいね」とB子。
「松本芳味って、この座談会の進行に終始不満をもらしているよね」
「重信との間に対立軸ができたみたい。それは双方にとって不本意だったでしょうね」
「ああ、くやしいな。やはり歴史は変えられないものなんだな」と宮田が言った。
「君たちはいつの時代から来たの」
「2014年からよ」
「ボクは1975年からだ」
「金子兜太はこのころ川柳人と交流があったって、『金子兜太の世界』に寄せた文章で岡井さんが書いているから、興味をもったの。《あの謎のやうな川柳人たち》と岡井さんは言っているわ」
「ふうん、春三も祐も芳味も謎の川柳人なんだね」
宮田あきらはさびしそうに笑った。
「宮田さん」
「え、なに」
「ひとつ言ってもいいかしら」
「何でも」
「さっき、俳句が川柳に近づき、川柳が現代詩に近づくって言ったでしょ」
「うん、言ったよ」
「それって、逆の意味で、ジャンルのヒエラルキーを認めることにならないかしら」
「うーん、そうかな」
「わたし、それがすごく気になったの」
「ぼくらは川柳に詩を導入するのに一生懸命だったんだが、言われてみればそういう面もあるかも知れない。でも、君たちのように偏見なく川柳を見てくれる人がいて嬉しいよ」
「でも、ご心配なく。私たち俳句の世界で出世していくつもりですから」
「ははは、そうだな。じゃ、飲みにでもいきますか」
                          
(注)本稿は「五七五定型」4号に掲載の拙文「コラージュ『座談会』」の小説ヴァージョンで、「俳句研究」昭和40年1月号に掲載された座談会《「現代川柳」を語る》を基にしています。ただし、引用は雑誌掲載の文章に完全に忠実というわけではありません。昭和40年のこの座談会は柳俳交流のひとつのピークだったと思われます。

2014年8月15日金曜日

吉村毬子句集『手毬唄』

中村苑子といえば『水妖詞館』の次の句がまず思い浮かぶ。

春の日やあの世この世と馬車を駆り   中村苑子

甲殻機動隊の劇場版アニメ「イノセント」で、主人公バトーがこの句を口ずさんだとき、私は鳥肌が立ったものだ。
さて、吉村毬子は中村苑子の弟子である。
師系というものが私はあまり好きではないのだが、吉村毬子の場合はまず「師系」という言葉を使っておきたい。吉村は筋の通った俳人だからである。
吉村は「未定」を経て、現在「LOTUS」の同人。『手毬唄』(文学の森)は第一句集となる。
全248句は「藍白」「深緋」「濡羽色」「薄紅」「天色」「鳥の子色」の六章に分けられ、それぞれの色の雰囲気が各章に流れている。まず、「藍白」(あゐじろ)の巻頭句から。

金襴緞子解くやうに河からあがる

「金襴緞子の帯締めながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」という童謡がある。蕗谷虹児の作と言われている。花嫁はなぜ泣くのだろう。処女でなくなるのを悲しむのだという説もある。
この句では、金襴緞子を解くように、と言う。帯を解いて河へ入るのなら分かりやすいが、河からあがるのである。では、誰が河から上がってくるのだろうか。主体は「私」かもしれないが、もしかして水妖ではないかと思えてくる。
この句の次には「日輪へ孵す水語を恣」が置かれているから、妖艶な雰囲気もある。
金襴緞子を解くということと河から上がるということとのあいだに、ある精神の状況が読み取れるのである。
「藍白」の章には「水」のイメージをベースとする句が多い。

虚空にて沐浴の二月十五日
水底のものらに抱かれ流し雛
溢れる尾 夜光虫でも海彦でもない

そして、「藍白」の章の最後には次の句。

しづかに毬白き夏野に留まりけり

「頭の中で白い夏野になっている」(高屋窓秋)に対する挨拶だろう。
作者の偏愛する「毬」の句はさまざまなヴァリエーションをとりながら、何句もあらわれる。
次の「深緋」(こきひ)の章から。

屠所遠く踊り惚けて寒椿
踊り場へ落ちる椿も風土記かな

白椿ではなくて赤い椿だろう。「深緋」のベースにあるのは火である。色で言えば赤。
「老いながら椿となって踊りけり」(三橋鷹女)が意識されている。吉村が現代俳句のどのような系譜を引き継いでいるのかが読み取れる。

纏足の少年羊歯へ血を零す
罌粟散っていま降灰を染めあげる
曼珠沙華手折る刹那に染まる羽

「濡羽色」の章から。

毬の中で土の嗚咽を聴いてゐた

この章に通底するのは土、そして黒。

自鳴琴それは未生の帯と呼び
石の中蝶の摩擦の鳴りやまず
剥製の母が透けゆく昼の虫
螺旋三昧 羽を降らせてからは
空蝉を海の擬音で包みをり

羽をもつのは虫たちや鳥たち。
土中や地上に閉じ込められ緊縛されているからこそ飛翔への願望は切実なものとなる。
「薄紅」の章では、日本の伝統的美意識である花=桜の句が詠まれている。

櫻狩ひとりひとりの浮遊かな
朝櫻傀儡は深くたたまれし

水火土風空の五大と戯れながら、さまざまな色を織り交ぜ、四季の手触りを詠み閉じ込めてゆく。その変奏のありさまが楽しめる句集となっている。

翁かの桃の遊びをせむと言ふ     中村苑子

2014年8月8日金曜日

「川柳の使命」について

「触光」38号(編集発行・野沢省悟)に広瀬ちえみが「高田寄生木賞―川柳の使命―」という文章を書いている。

ふる里は戦争放棄した日本    大久保眞澄

この句は「第4回高田寄生木賞」の大賞作品であり、受賞後あちらこちらで取り上げられている。広瀬の一文はこの句をめぐっての感想である。
誤解のないように最初に断っておくが、広瀬はこの作品自体について疑義を述べているのではなくて、この作品を評価した選者の評価の仕方について若干の違和感を述べている。
この句を大賞に選んだのは渡辺隆夫と野沢省悟であるが、話の順序として二人の選評をまず紹介しておく(「触光」37号)。

「お国(生まれ育った土地)はどこですか、という質問に、『戦争放棄した日本』です、という答えが返ってきたらうれしいですね。安倍総理は、たぶん、ギョッとして目を剥くでしょうね。この句には、川柳の使命のようなものがギュッと濃縮されています」(渡辺隆夫)

「昭和二十(1945)年、日本は終(負)戦を迎えた。あれから半世紀以上が過ぎ、今年は六十九年目となる。僕は戦後生まれ(昭和二八年)であるが、戦争の悲惨さは身近な人間の話や書物や映画等で知っているつもりである。戦後、今ほど戦争放棄したはずの日本が危い状況になったことはないのではないか。そういう意味でこの作品は時事句といえよう。だが忘れ去られる時事句ではなくて、今後ますます重量を持って行く作品になると僕は思う。正直に言うと『スローガン』ではないか、との思いもあり迷ったことは確かである。しかしこの作品の『ふる里』という言葉という意味は、作者の肉体から発せられた言葉と僕は感じた」(野沢省悟)

広瀬がこだわったのは、渡辺の「川柳の使命」という言葉である。
広瀬は「自分は少しも傷まない位置から発信するスローガンのような時事吟は巷にあふれており、私は正直苦手だ」と書いたうえで、こんなふうに述べている。

「さて、川柳には隆夫さんが述べる『使命のようなもの』があるのだろうか。川柳の特質のひとつである『批判』や『諷刺』にあたることをさしているのだろうが、私は『使命』という強いことばでいわれるとどこかひいてしまう。アブナイもののようで近づきたくないと思うのだ」

そもそも渡辺隆夫は、第三者的な立場から時事句を書くのを得意とする。「自分は少しも傷まない位置」から書いていると言ってもよい。なぜなら、自分の内面をくぐらせてしまうと、諷刺の矢がつい鈍ってしまうからだ。その隆夫がここでは「川柳の使命」という言葉を使っているのを私はとても興味深いことに思う。「人間というものは気をつけていないとすぐ真面目になってしまう」と常々言っている隆夫が、ここでは真面目になっているのだ。

広瀬の文章は別の視点から受賞作を評価するものになっている。
「読みによって作品の世界が再構築され、ひとり歩きを始める力を得るのだ」「詠むひとと読むひとはすこしずれており、そしてそれがまた作品を面白くしたり、読みに『使命』を与えたりさえするのだ」というのが広瀬の感想である。
私はこの問題提起をおもしろく思った。

「水脈」37号(編集・浪越靖政)。
同人作品のページの下段に作者の短文が付く。
洒井麗水が飯尾麻佐子の「魚」のことを書いている。
「魚」は1978年に創刊、1996年63号で終刊。女性だけの川柳誌として先駆的な役割を果たした。「魚」のことは「バックストローク」24号で一戸涼子に書いてもらったことがある。
酒井は飯尾の次の文章を引用している。
「もっと女性は自分を正しく知るべきであり、スマートな人とのふれ合いが出来て、その上自分が川柳で『何』を訴えたいのか、その原点を創造の基本にしっかりと持つこと。女性でありながら男性の占有物である評論にのり出してゆく意欲的姿勢を持ち、次第に論理を駆使して批評分野に開眼してゆくこと。更にその存在に光明を抱き後継する女性が日を追って増加すること。女性がより豊かな人間性によって、川柳界の明日を創ることを考えたい」
女性川柳人の活躍が目覚ましい現在、飯尾が目指したことは男性・女性を問わず継承すべき課題である。
「水脈」から二句ご紹介。

竜骨を組み込む貌と対峙する   落合魯忠

竜骨は船の背骨に相当する部分。
年齢を重ねた人間の風貌にもそれぞれの竜骨があるのだろう。

火曜日は相も変わらぬ大鏡    一戸涼子

この「大鏡」を単なる大きな鏡と読むか、古典の『大鏡』と読むか。
なぜ火曜なのか。月曜は休日明けで仕事がはじまる日だし、金曜は週末であり、それぞれのニュアンスがある。火曜は微妙な曜日である。

「第65回玉野市民川柳大会」の大会報が届いた。
特選の中から二句紹介しておく。

展開を見たくて妹の枕     吉松澄子

「展開」という題詠で、「妹の枕」を持ってきている。
「妹」の句はいろいろあるが、「枕」というとほのかにエロティシズムが感じられる。
川端康成なら姉と妹の心理劇を抒情的なはかなさで描いただろう。

天井の人で溢れる誕生日    榊陽子

「誕生日」の句もいろいろあるが、こういう誕生日は見たことがない。
天井裏に人が溢れているというのは、誕生を寿いでいると言えるが、そのような人々が見えない裏側の世界に存在するというのは何やら不気味でもある。

2014年8月2日土曜日

『野沢省悟句集 60』

『野沢省悟句集 60』(2014年7月10日、東奥日報社)が発行された。
東奥日報社創刊125周年事業として、青森県短詩型文芸作品を発信するシリーズ。短歌・俳句・川柳各30冊が予定されており、川柳からは高田寄生木をはじめ7冊目の刊行となる。
本書は2005年から2013年までの川柳作品360句を収録している。句集のタイトルに「60」とあるのは、2005年が戦後60年、2013年が野沢の還暦の年であることにちなむという。野沢の50代の作品集である。「解剖」「ひょいと」「大樹に」「逃避行」「母逝く」の五章に分けられ、「逃避行」は2011年3月11日に仙台市秋保温泉にいた作者の震災体験を詠んだもの。「母逝く」は母親への追悼句を含む。
ここでは、「解剖」の章から何句かピックアップしてみたい。

あじさいのうすくらがりのモネの指

モネといえば睡蓮だが、この句ではアジサイである。
アジサイの学名「オタクサ」はシーボルトが名付けたことも知られている。ここではそういう連想・取り合わせを外している。
「あじさいのうすくらがり」に焦点をあてているところに川柳性・意味性を感じる。暗部のほうに眼がゆくのは川柳人の本能かもしれない。
モネはジヴェルニーの家で晩年の作品を描いた。原田マハの『ジヴェルニーの食卓』はモネを主人公にした小説。
花園にアジサイがあったかどうか記憶にないが、七色に変化するアジサイにもモネも画家としての触手が動いたかもしれない。

合法的にゴッホの耳を食べている

モネの次はゴッホの句を取り上げてみる。
アルルでゴッホはゴーギャンとの共同生活に入るが、個性の強い二人は衝突し、ゴッホの耳切り事件が起こる。
「炎の人ゴッホ」という映画では、ゴッホがカーク・ダグラス、ゴーギャンがアンソニー・クインだった。
耳を切るといえば、日本では明恵上人のエピソードが有名。
事件そのものが衝撃的だが、この句ではその衝撃性に釣り合うように、「食べている」という強い言葉を用いている。
「合法的に」というのだから「非合法的に」という対義語を連想させる。
私たちはゴッホのような激しい生涯を送ることはできない。平凡な日常生活を送っているのである。けれども、心の中ではゴッホのような生涯に憧れる部分もある。
「~的」という言葉は川柳でよく使われる。

精巣という安らかなロスタイム

野沢は人間の身体の生理的機能と向き合う作品をしばしば詠んでいる。
サッカーのロスタイムは無得点に終わることもあるが、試合を決める得点が入ることもあるスリリングな時間帯である。それを「安らかな」と表現してのけた。
ヒトの生殖機能を冷徹に見据えている。

おしっこをするたび法蓮華経かな

「おしっこ」という言葉を使っている。
「川柳はこういう用語を平気で使えるからいいね」と言う人がいる。ある意味で川柳に対する蔑視を感じる。どんな用語であっても、俳句であろうと川柳であろうと、使いたければ使えばいいのだ。
この句は俗性と宗教性(聖性)の落差をおもしろがるのではなく、背後にある作者の人間観を読み取るべきだろう。

仏とは女陰化と思う秋の水

この句にも俗性即聖性という作者の人間観が表れている。
それに共感するかどうかは別の問題で、人それぞれだろう。
ただ、もの足りないのは「秋の水」の部分で季語に逃げているように感じることだ。

虚無ふたつほど冷蔵庫から持って来い

「~持ってこい」は川柳ではときどき見かける文体。
「ないはずはない抽斗を持ってこい」(西田当百)

洗っていいくちびるとだめなくちびる

それぞれに具体的なケースを代入してみるとおもしろい。

蟻は会議中なので殺します

「殺す」というのも意味の強い言葉である。
殺意は心の中の世界であり、それを表現することは現実の行為とは全く次元が異なる。
「バスを待つあいだのぼんやりした殺意」(石部明)
晩年の与謝野鉄幹は庭で蟻を殺していたという。妻の晶子に表現者として水をあけられ、時代から取り残された憤懣が心の底にあったのだろう。
この句では会議をしている蟻たちを神の視点から眺めている。

以上、野沢の作品には意味性の強度のきいた言葉を使うところに川柳性を感じるが、その根底には作者の人間観が横たわっている。
野沢は「あとがき」で次のように書いている。

「2005年からの8年余りの時期は、僕の五十代であり仕事上、夜勤勤務をしながらの川柳活動は辛いこともあった。従って自身の作品を振り返る余裕もなく、今回この句集をまとめる作業はたいへん貴重な時間であった。故成田千空氏は『川柳は俳句を革新したもの』と僕に言った。その言葉にはげまされての川柳活動であり、作家活動であったが、その結果の本句集に忸怩たる思いである」

野沢が編集発行していた「双眸」15号(2005年5月)は〈成田千空・川柳を語る〉を特集している。野沢と成田の対談などが収録されているが、ここでは成田千空の講演「俳句と川柳」(2004年11月3日、「俳句・川柳合同研究会」)から引用していきたい。俳句の季語について述べたあと、成田千空はこんなふうに発言している。

「川柳は逆に季節感はさして関係なく、人生とか世相とか時代のそういうものに対する関心に移って行く訳です。そういうことになりますから自ずから自由な発想でしかも季節とか切れ字とかに束縛されない訳ですから、素材に対しても世界が大変広いんですね。俳句の何倍も広い。そういうことも一つの形式から生まれてくるということもありますので、川柳の方がずっと自由な発想でいい作品が残ってしかるべきだと思います」

このシリーズ、川柳からは今後も、むさしや滋野さちの句集が予定されているので楽しみだ。

2014年7月26日土曜日

大阪短歌チョップと聖地・木津

7月19日(土)、大阪難波の「まちライブラリー」で開催された「大阪短歌チョップ」に行った。この日は神戸でも現代歌人集会春季大会があって、どちらに行くか迷ったのだが、神戸の方はすでに歌壇で評価の定まった歌人たちがパネラーなので、ネット歌人の多く集まる大阪の方に参加することにした。
会場は大阪木津卸売市場の近くにあった。
一日通して様々なイベントが行われているが、まず11時30分からの「むしたけのぞき」を聞く。Ustream番組「むしたけのぞき」の虫武一俊と「塔」短歌会の江戸雪とのトーク。江戸雪の話は以前一度聞いたことがあるが、そのとき彼女は複数パネラーのひとりだった。今回は短歌をはじめたきっかけや江戸雪の短歌に対する考え方を詳しく知ることができた。
「歌人は短歌からいかに離れるかが勝負(短歌を作っていない時間に)」
「言ったことは伝わらない、逆に言わないことが(読者に)伝わる」
「大事なことは自分以外のところにある」
「短歌は自己肯定の文学。しかし、そこから(自己肯定から)離れようとすることが大切」
などの言葉が印象に残った。
もうひとつ、田中ましろ(「かばん」)司会の「ネット短歌はどこへゆく?」も聴講。
まず、五、六年前のネット短歌の環境として次のようなものが挙げられていた。

夜ぷち(夜はぷちぷちケータイ短歌)
mixi GREE
ブログ
うたのわ
題詠マラソン
短歌道(たんかどう)
かんたん短歌
笹短歌ドットコム
短歌サミット

いくつか聞いたことのあるものもあるが、私にはこの全部は分からない。
次に、最近のキーワードとしては次のようなものが挙げられた。

ツイッター
オンライン・オフライン
結社のツイッター進出
Ustream
同人誌
学生短歌
文学フリマ
ネットプリント
うたの日

こういうツールの変遷にともなって、五年前と今とでは何がどう変わったのかというのが話の流れだったようだ。
ただ、個人的体験に基づいた雑駁な話が多かったので、私にはついてゆけない部分があった。「かばん」6月号に「田中ましろインタビュー」が掲載されているので、そちらの方から引用してみたい。

「投稿を続けていた、NHKラジオ『夜はぷちぷちケータイ短歌』が終了になったことがきっかけです。締め切りがないと短歌を詠まない日々だったので、番組が終わった後も、自分が短歌を定期的に詠むための場を必要と感じていました」
「短歌を始めた当時は桝野浩一さんの『かんたん短歌』の作品を多く読んでいてその影響を受けていましたが、『かんたん短歌』の作歌方法に自分の限界を感じて、少しずつ現在の詠み方に近いものにシフトしていきました」
「短歌、すごく面白いのに俳句とかに比べてどこかマイナーなんですよね、世間的に。当時は結社に対して誤解を持っていてクローズドな場で切磋琢磨してるから短歌がメジャーにならないんだと思ったりもしてました。それで、少しでも多くの人にその楽しさを知ってほしいと思って始めたのが『うたらば』です」
「ネットの魅力はやはり超結社であることだと思います。所属内だけでの短歌活動では作風や評の傾向に偏りが生まれる可能性がありますが、超結社の歌会(オンライン・オフライン問わず)に参加していると常に新しい作風や評の切り口などに出会えます。所属内での『正しいこと』が一般的には正しくない可能性もあるわけでそのあたりの補正を常に行えることがネットを利用することのメリットだと思っています」

同誌には「ネットで広げよう短歌の輪」というページがあって、「空き瓶歌会」「空き地歌会」「さまよえる歌人の会」「空き家歌会」「借り家歌会」「うたらば」「うたつかい」などが紹介されている。この日の話を聞いて、どういう人たちが運営しているのか、少し実感できた。
「昔、『短歌ヴァーサス』という雑誌がありまして…」という発言があった『短歌ヴァーサス』6号(2004年12月)を帰宅してから久しぶりに書棚から取り出してみた。「ネット短歌はだめなのか?」という特集が組まれていて、吉川宏志と荻原裕幸の対談、司会は江戸雪。五年以上たつとすべて昔話扱いされるのは、スピーディな短歌界とはいえ驚いてしまう。

会場の付近、木津卸売市場の周辺には、海鮮丼やたこ焼きなどのおいしい食べ物がいろいろある。
食事しているうちに、この近くに折口信夫の生家跡があることを思い出した。かなり以前に一度行ったことがあり、記憶を頼りに歩いていると、大国主神社を発見。木津の大国さんと呼ばれていて、境内には折口信夫の歌碑がある。そういえば、地下鉄の最寄駅は「大国町」だった。そのあと少し迷ったが、目指す公園にたどりつく。
公園の一隅に「折口信夫生誕の地」の碑があり、その傍らに歌碑が建立されている。

ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかにおのづからわれも待ちごゝろなる

宝恵駕籠(ほえかご・ほいかご)は芸妓さんを乗せて今宮戎神社の十日戎に参詣する駕籠。新年の季語になっている。
高校生のころ、『死者の書』がとても好きだった。ぎらぎら照りつける真夏の陽光のもと木津のこの地が聖地のように思えたのは白日夢のたぐいだったろう。

2014年7月18日金曜日

『たむらちせい全句集』

『たむらちせい全句集』(沖積社)が発行された。
第一句集『海市』から第六句集『菫歌』までが収録され、さらに未完句集として2011年から2013年までの句を収めた『日日(にちにち)』が付けられている。
『菫歌』については、以前このブログで触れたことがあるが(2011年7月1日)、そのとき書いたことは、たむらちせいの全体像のほんの一部にすぎなかったのだということに改めて気付かされる。

海渡る 贋造真珠で妻を飾り
酒壜に封ずる蝮 孤島に教職得て

第一句集『海市』巻頭の二句である。
昭和35年、たむらちせいは高知県で教職についていたが、当時、石川達三の『人間の壁』に描かれているような勤務評定闘争が巻き起こった。高知でも闘争は激しかったようで、ちせいは懲罰人事で孤島・沖ノ島の中学校に転勤を命じられる。『海市』はこの島での句を収録している。
四国本島への転勤を打診されたときに、「もう少し島の俳句を作りたいから」と言って断り、さらに三年間、在島したというから凄い。

第二句集『めくら心経』では土佐の風土という主題が顕著にあらわれる。
中でも「流人墓地」は圧巻である。

流人墓地へと遮二無二岬さす 霧中
もはや霧にめしいる流人墓地遠く

「流人墓地」は人の眼をひく作品であるが、次の「落椿」の句にも心ひかれた。

落椿 鬼面童子の通せんぼ
生国をゆき 悪相の落椿

第三句集『兎鹿野抄』の、たとえば家族を詠んだ句は何と境涯詠から遠く離れていることだろう。

水餅の甕とは別の母を置く
鈴虫になるまで母を密封す
赤紐で五体を縛り風邪の妻
茎立ちてより兄たちの行方知れず
地芝居の狐忠信は姉ならむ


味元昭次の解説「たむらちせい俳句ノート」も読みごたえがある。
その中に、ちせいの親友で「青玄」の俳人である森武司のことが出てくる。森は「おとしまえはどうつけたか」という趣旨のエッセイを書き、ちせい俳句を批判した。
味元はこんなふうに書いている。
「美や個に閉じこもって現実をそ知らぬものとしたがる俳人たち。そういった危険性をちせいの俳句に見たのだろう。その危険性はまさしくあったし、今も在るといわねばならないだろう。ちせいも当然そうしたことはよく知っていたはずである。武司の批判は一方でちせいへのはげましでもありまた自分自身への問いかけでもあり、さらに今思えば、ちせい俳句の美や虚構の面白さの方向だけを見た私たち後続世代への、良くない影響を考えていたようにも思われるのである」

少し余談を加えたい。
たむらちせいの活躍した「青玄」に一人の川柳人が晩年に投句していた。
現代川柳連盟の会長をしていた今井鴨平である。
鴨平は昭和39年、急逝した。「現川連」の雑務を一手に引き受けた末の死であった。それはある意味で「川柳に殺された」ものであった。
私の手元には「川柳現代」17号があり、これは「今井鴨平追悼号」である。
鴨平は「青玄」147号から160号まで投句しているが、最後となった160号から5句紹介しておく。

黒猫が一塊となる 屋根裏の思惟     今井鴨平
女工ら離郷 屋根に石置く山峡経て
やがて手中の女 湿っぽい潮風吹き
二人きりの食卓 手がかりのない海昏れて
同じ過去持ち合う 沖に漁火燃え

鴨平がどういう気持で「青玄」に投句していたのか、今まで私にはよくわかっていないところがあった。川柳に絶望して俳句に行ったとか、そういうことではないのだ。「青玄」には信頼できる表現者がいたのである。

「蝶」208号(2014年7・8月)から、たむらちせいの近作を紹介しておこう。

七つ渕一の渕より樹雨降り     たむらちせい
近景黄薔薇紅薔薇遠景殺戮図
地梨噛んだる渋面隠し了せけり

隣のページには森武司の句が並んでいるので紹介しておく。

信長忌の水暗緑に泡立てり     森武司
朝空叩く拳銃試射音ヒトラー忌

2014年7月11日金曜日

渡辺隆夫句集『六福神』

「ぶるうまりん」という俳誌がある。須藤徹が発行人となって2004年12月に創刊されたが、須藤の死によって前回の27号は須藤の追悼号となった。今号の28号から「第二次ぶるうまりん」というべきもので、発行所は松本光雄になっている。
特集として「まるかじりインタヴュー 渡辺隆夫の世界」。
渡辺隆夫の第六句集『六福神』(角川学芸出版)は今年1月に発行されたが、今までこの時評では取り上げる機会がなかった。この特集を契機に、改めて隆夫の川柳について考えてみたい。まず、渡辺隆夫のプロフィールを紹介しておく。
1937年、愛媛県生まれ。
1988年以降、川柳グループ「わだちの会」(石川重尾)、「点鐘の会」(墨作二郎)「宇宙船」(福田弘)「短詩サロン」(吉田健治)「バックストローク」(石部明)などに参加。俳句グループ「船団京都句会」「逸の会」(花森こま)「水の会」(森田緑郎)「ぶるうまりん」(須藤徹)などにも参加。川柳の枠にとらわれず、短詩型のさまざまな表現者と交流していることがわかる。
「川柳は何でもありの五七五」「人間というものは気をつけていないと、すぐ真面目になってしまう」「川柳にはスンバラシイ伝統などなーんもない」などの言葉が強烈な印象を残している。
私は隆夫とは「点鐘の会」で顔を合わせたが、「バックストローク」同人としても交流があった。2011年に隆夫の第五句集『魚命魚辞』(邑書林)が上梓されたときに、私の句集『水牛の余波』と合同で句評会を行っている。
さて、「ぶるうまりん」のインタヴューは歌人・武藤雅治との対談になっている。
隆夫の発言の中で次の部分に注目した。

「わたしが川柳はじめた時にはね、川柳はポエジーでなければダメだというのが僕らの師匠のやり方でね。お前の川柳は下品過ぎる、川柳は俳句と太刀打ちできる位のポエジーがないといかんと言われ、これは困ったな、僕はもともとそういうポエジーのない男で、どっちかというと詩というより歌・ソングの方が合っている、そういう風に川柳を持っていけないかな、と思っておったのですけど…」

「基本的にはね、僕は川柳は何かと言われた時に、なんでもありの五七五だと言ってます。季語あり俳句もありみんな含めて川柳だという所から出発せんといかん、グングン狭まって行かないで、出発点から広いんだという線で言ってきたんだけれど、じゃあどれが川柳なんだと言われて、これが川柳だというものがないぞと思って、じゃんじゃんわしは句集を出してやるぞとやってきて、ふと振り向いたら僕の後を誰もついて来ないなあと気がついてね」

さて、『六福神』は次の句で始まっている。

キミたち曼珠沙華ミャオミャオ
ボクたち落玉華バウワウ

「落玉華」(おったまげ)は隆夫の造語である。
『魚命魚辞』のあとがきに次のように書いてある。「さて、『魚命魚辞』を読んで、代り映えしないとオナゲキの皆さまには、次回こそ、必ずオッタマゲルゾと予告して、ごあいさつに代えます」
このあとがきとの関係の有無は定かではないが、「曼珠沙華」「落玉華」と対にして、猫と犬の鳴き声をくっつけている。郷ひろみの「男の子女の子」の節で歌ってみると茶化しはいっそう強力になる。

君が代を素直に唄う浪花のポチ
ポチが唄えばタマも唄うか

「君が代」は国家権力と結びついた歌である。
タマは猫の名だが、かつてタマちゃんというアザラシがいたから、東京の猫ということになるだろう。
郷ひろみも君が代も茶化されているのだ。セックスと政治はともに隆夫にとって諷刺対象である。
女と男、猫と犬、大阪と東京などの対の発想によってヴァリエーションがどんどん展開してゆくおもしろさがある。セックスの話かと思って読んでいると政治諷刺に展開するから気をつけていなければならない。隆夫は「社会性川柳」の最後の作家である。
第二章では「老いらくの恋」が主題として取り上げられる。

老いらくの恋のエリマキトカゲかな
そうだ京都キミの紅葉も見てみたいし
芒野は不義密通の細道じゃ
高齢者のための密通相談所

「老いらくの恋」というと歌人の川田順のことなどが思い浮かぶ。
ひょっとすると隆夫は川柳における「高齢者とセックス」という表現領域を切り開いたのかもしれない。

なあ芒おれの女にならないか
ススキさんから電話、否(ノー)だってよ

私は隆夫とは川柳観が異なるが、彼の批評性や諷刺を貴重なものと思い続けてきた。隆夫はポエジー否定であるが、肝心なのは何がポエジーかということだ。
『六福神』を読みながら、私は花田清輝の「放蕩無頼のやぶれかぶれもあれば、品行方正のやぶれかぶれもある」という言葉を思い出していた。私もそろそろ次の句集の準備をしなければならないのかも知れない。
最後に『六福神』のなかでもっとも気に入った句を挙げておこう。

首括る前にオシッコしておこう   渡辺隆夫

2014年6月27日金曜日

読書日記―大阪連句懇話会

6月某日
「船団」101号を読む。
今号から表紙やレイアウトが変った。新たなスタートを切るための誌面一新だろう。
ねじめ正一のエッセイ「高橋鏡太郎・続」に注目。
100号に掲載された「高橋鏡太郎」を読んだとき、この無頼派の俳人に興味が湧いて『俳人風狂列伝』(石川桂郎)を読んでみた。本号の文章は続篇である。
新宿の居酒屋「ぼるが」の主人で俳人の高島茂のことが詳しく書いてある。もうひとり、高橋鏡太郎の友人だった山岸外史も印象的である。
今や無頼派はどこにもいなくなった。

抒情涸れしかと春水に翳うつす   高橋鏡太郎
はまなすは棘やはらかし砂に匍ひ

6月某日
『漱石東京百句』(坪内稔典・三宅やよい編、創風社出版)を読む。
『漱石松山百句』『漱石熊本百句』に続く東京篇である。
「表現されているままに読む」「漱石を知らなくても読める」というコンセプトの通り、予備知識なしに、漱石俳句に向かい合うことができる。

時鳥厠半ばに出かねたり     漱石

西園寺公望のサロン「雨声会」に招待されたときに漱石が出席を断ったときの句である。『虞美人草』執筆中なので、出席することができないというのである。漱石の反骨精神をあらわしているエピソードとして有名だが、本書ではそういうことに触れず、句を素直に鑑賞している。

雷の図にのりすぎて落にけり

漱石らしい俳諧味のある句である。

君逝きて浮世に花はなかりけり
有る程の菊抛げ入れよ棺の中

追悼句を二句並べてみた。
前者は兄嫁・登世が逝去したときの句。兄嫁は漱石の原イメージとなった女性である。
後者は大塚楠緒子に対する追悼句として知られている。

6月某日
横光利一『上海』読了。
新感覚派の集大成的作品として知られるが、今まで読む機会がなかった。
読んでみて驚いた。これは同時代のプロレタリア文学を越える社会小説ではないか。
1925年の5・30事件を描いていて、当時の国際政治・経済の動きがきちんと視野に入っている。『旅愁』の日本回帰の評判が悪いので、『上海』にも先入観があったのだ。
『家族会議』も読んでみたが、兜町の株の世界が生き生きと描かれている。特に主人公を取り巻く女性たちの姿が躍動している。横光が女を描ける小説家だとは意外だった。
横光は俳句とも関係が深い。石田波郷の句集『鶴の眼』に横光は序文を書いていて、波郷との交流が指摘されている。

蟻台上に飢ゑて月高し    横光利一

6月22日(日)
第10回大阪連句懇話会。
第4回芝不器男俳句新人賞を受賞した曾根毅をゲストに迎えて話を聞く。
曾根は一週間前の関西現俳協青年部の集まりでも話をしている。そのときのMCは小池康生。
「未定」「LOTUS」「光芒」「儒艮」など、手元にある俳誌をかかえて会場に赴いた。
今回の受賞作は「セシウム」「シーベルト」などの語を用いて原発を詠んだ句が話題となったので、まず震災体験について話してもらった。曾根は震災当日、出張で仙台にいて、実際に震災を体験している。あと、師である鈴木六林男のことなど、興味深い話を聞くことができた。
連句の座にも入ってもらって、受賞作から曾根の句を発句にして半歌仙を巻いた。

夏風や波の間に間の子供たち    曾根毅
 浜昼顔の揺れておだやか     小池正博

何も本当におだやかだと思っているわけではない。
危機意識は日常の裏側に常に貼りついているのだ。

2014年6月20日金曜日

歌人・俳人・柳人合同句歌会

「かばん」6月号が届いた。
まず開いたページは「歌人・俳人・柳人合同句歌会レポート」(飯島章友)。
3月2日に新宿の喫茶室で開催されたが、断片的な情報は入ってくるものの、今までまとまったレポートもなく、どんな様子だったか気になっていたのだ。
この集まりは「かばんの会」主催で、「馬」という題または自由詠で短歌と五七五(俳句か川柳)を1作品ずつ提出、互選するもの。
参加者は「かばん」から東直子・佐藤弓生・澤田順、こずえユノ、白辺いづみ、川合大祐、鳥栖なおこ、飯島章友。俳人は西原天気、手嶋崖元、西村麒麟。川柳人は藤田めぐみ、倉間しおり。
まず、短歌作品からピックアップする。

自転車廃棄所の銀の光の中をゆく馬を欲しがる妹のため     倉間しおり
楽しくも寂しくも無き湖の向かう岸から馬が見てゐる      西村麒麟
駆け抜ける馬のかずかず現実の世界と同じ大きさの地図     西原天気
こんなにも明るい昼を走り過ぐ馬上の人のとけゆくほどに    東直子
星を見に行こうよ井戸に落ちた星、実感馬鹿なんかほっといて  佐藤弓生
肉食ひて肉と成したるおのが身を恥づれば馬の国のガリバー   川合大祐

最高得点は6票で、倉間しおりの作品。
「イメージのカッコ良さや映像の鮮明さ、置場ではなく『廃棄所』とした上手さ、サカナクションのようなテクノロックっぽさ、『馬』という聖と『自転車廃棄所』という俗の関係から光を見つけるところなどが高い評価を得、三分野すべての参加者から票が入った」と飯島はコメントしている。
次点は五票で、西村と西原の作品。
三位が東の作品だったという。
続いて五七五作品をピックアップする。

のどけさや君の桂馬が裏返る     鳥栖なおこ
開戦前ひづめは紅くなっている    藤田めぐみ
わたしって馬だし箸は持てないし   飯島章友
春の雪ぼくらしばらく木となりて   佐藤弓生
馬が突き刺してゐる春の雷      手嶋崖元

最高得点は五票で、鳥栖・藤田・手嶋の三作品。
ジャンルを超えた短詩型の実作会・批評会はこれまでにもいろいろ試みられてきた。他ジャンルの人が作った作品がそのジャンルの作品を読み慣れている者にとって新鮮にうつることもあるし、そのジャンルに習熟している実作者ならではの作品が順当に評価されることもある。実作を通して、それぞれの形式の手触りの違いが浮き彫りにされるのが越境句会・歌会の醍醐味だろう。「短歌がじっくり分析することに向いているのに対し、俳句や川柳は分析しすぎても詰らない」という感想が会の後で出たそうだ。

特集のひとつ、陣崎草子(じんさき・そうこ)の第一歌集『春戦争』にも注目した。「かばん新人特集号Vol.5」(2011年1月)以来、陣崎は何となく気になっていた歌人である。その時のプロフィールには「絵、絵本、短歌、小説をかいています。小説『草の上で愛を』で講談社児童文学賞佳作受賞。絵本作品に『ロボットボロたん』など」とある。その後も絵本『おむかえワニさん』や穂村弘の本の装丁などで活躍している。『春戦争』は2013年9月、書肆侃侃房刊。自選20首から。

スニーカーの親指のとこやぶれてて親指さわればおもしろい夏
生きることぜんぜん面倒くさくない 笑える絵の具のぶちまけ方を
好きでしょ、蛇口。だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ
夢を見るちから失わないために吠え声のごと光らす陰毛
何故生きる なんてたずねて欲しそうな戦力外の詩的なおまえ
どうせ死ぬ こんなオシャレな雑貨やらインテリアやら永遠めいて
このひとに触れずに死んでよいものか思案をしつつ撒いている水

そういえば蛇口には飛びでているとこがあるなあ、と改めて思う。
今回の自選20首には入っていないが、前掲の「新人特集号」から何首か追加しておく。

皿を割って割って割って、割ってって 雪がほんとに積もってしまう
まっすぐに落下してゆく鳥がいまいるね ほら、函館の空
海亀の目は何故あんなおそろしい 人をやめてしまいたくなる
馬鹿にされたことは誇っていい 熟れたトマトを潰した手を忘れるな
ええとても疲れるしとてもさびしいでもクレヨンの黄はきれいだとおもってる

さて、最初に紹介した合同句歌会に参加した倉間しおりは、昨年川柳句集『かぐや』(新葉館出版)を上梓して注目された十代の川柳人である。「川柳マガジン」に連載のコーナーももっている。『かぐや』からいくつか紹介しておく。

ひとりでは月に帰れぬかぐや姫     倉間しおり
憧れてキリンに化けてみるバナナ
好きな色は緑だという人に逢う
大根の白さで殴りたいあの子
ひっそりと風呂でイルカを飼ってます

2014年6月13日金曜日

「ES」27号―佐村河内事件と短歌

今回は短歌誌の話題になるが、「ES」27号が発行された。
誌名には毎回「ES」の次にタイトルが付く。今号には「崖線」が付いて「ES崖線」という具合だ。編集後記に曰く。
〈 河岸段丘の片岸に形成される崖地形を「はけ」と呼び、学術的には崖線という。「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」とは大岡昇平の『武蔵野夫人』の書き出しであった。崖線の下には多くの湧水がみられる。土中で濾過された清流の冷たさが周囲に自生する雑木林の緑を繁らせても来たのだ 〉
特集も組まれていて、今回のテーマは「プロパガンダ」。まず同人作品を紹介しておこう。

ねがわくは花の下にて大輪の大義のためにうっとりと死ね    松野志保
情報を嚥下しているこの苦さ酒と思えばさぶしゆうかげ     桜井健司
たましひのバリケードとは何だらうマヤコフスキー通りの夕陽  天草季紅
友に告ぐアドルフに告ぐ集団の催眠術をわれ知るのみと     大津仁昭
伝統は苦しむものか雨の夜にたへがたきまで嘔吐つづけむ    江田浩司
植民地史父の蔵書に見出して読みふけりしよ十三の夏      崔龍源
やはらかく霧雨けぶる一億は信じやすく寄りやすき岸辺に    加藤英彦
地震国にも輸出したから原発で異人さんたち死ぬ おら知らね  山田消児

それぞれ十首の連作でタイトルも付いているから、一首だけ抜き出しても分かりにくいかも知れない。たとえば、最後の山田消児の作品には「おら知っちょる」というタイトルがあって、その次のページにマヤコフスキーの次の一節が引用されている。

〈ぼくは知ってる、ことばの力を、ぼくは知ってる、ことばの早鐘を。
 それらのことばは、桟敷が拍手喝采するあの音ではない。
 それらのことばに、棺桶はむっくり起き上がり、
 樫づくりの四つ足で堂々と歩き出すのだ。
 活字にも本にもならずに、ことばが捨てられる―それは毎度のこと。
 だが、言葉は走る、腹帯をひきしめ、
 何世紀も鳴りつづける、そして列車は這い寄ってくる、
 ポエジイのまめだらけの手を舐めに。〉

マヤコフスキー「遺稿」1930年よりの引用で、このメッセージは特集全体を照射しているのかもしれないが、山田の短歌に限定して言えば、「ぼくは知ってる」→「おら知っちょる」→「おら知らね」というきわめて反語的なものになる。
そういえば「マヤコフスキー事件」について小笠原豊樹の本が出版されている。

評論も何本か掲載されているが、まず注目したのは山田消児の「佐村河内になりたくて―物語の中の作品と作者―」。佐村河内の代作問題について、短歌にひきつけて論じたものである。山田はこんなふうに書いている。

「今回の事件において世間でいちばん大きな関心を集めたのは、佐村河内が自ら作りあげてきた虚像のスケールの大きさであったろう。単に嘘をついて世の中を騙すのではなく、嘘と本当を混ぜ合わせて新たな一個の〈現実〉を生みだしていったプロデュース力、演出力、演技力。それらを目の当たりにして、観客である私たちは、ときにバッシングの矢を放ったりしながら、興味津々で事の成り行きを見守ったのである」

山田はこの事件についての二つの代表的な見方を紹介している。
ひとつは〈音楽の価値は作品だけで決まるものではなく、作品に付属する付加価値とは独立して純粋な作品だけの価値が存在すると思うのは、あまりにもおめでたい見方である。作品の価値はそれが置かれている場、文脈、環境とセットで決まる〉という佐倉統の考え方。
もうひとつは〈作曲家がどういう生いたちであるか、年齢とか、ハンディキャップがあるとか…そんなことはどうでもいい。確かにパーソナリティと作品は切り離せないけれど、パーソナリティにあまりに依存するのはよくない〉という千住明の考え方。
山田は基本的には千住の考え方を支持しつつ、短歌の場合、千住のように言い切るのは難しいとも述べている。なぜだろうか。
〈今の短歌の主流は、作者自身の体験や境遇とそれに伴う心情を詠ったいわゆる自分語りの歌である。そこにははじめから千住言うところの「パーソナリティ」が多分に入っており、しかもそれが言語で表現されているため、読者にも明示的に伝わりやすい。短さゆえに一首だけで伝えられる情報には限りがあるにせよ、複数の歌を連作形式で並べたり、歌集にまとめたりすることにより、自ずから作歌の背景が浮かび上ってくる場合も少なくない。つまり、付加的な情報がなくても、作品自体がある程度のパーソナル性を具えているのが短歌という詩型の大きな特徴なのである〉
山田のいう「作品と作者とがセットになって提示され、読む側もそのようなものとして特に疑問もなく受け止める短歌のあり方」は川柳にも共通した問題である。評論集『短歌が人を騙すとき』(彩流社)以来、私が山田の書くものに関心をもつ理由もそこにある。
テクスト論だけで片がつけば楽なのだが、川柳の場合も「作者」の問題にまで踏みこまなければ本当の川柳論にはならない。その前提として川柳におけるテクスト論の確立が必要であり、前提を確立してからそれを批判するという二重の作業が迫られるのが川柳の状況である。

そのほか、江田浩司の「岡井隆のソネットを読む。補記2―詩における私性の問題―」など本誌には興味深い論考が掲載されている。江田の歌集『逝きし者のやうに』(北冬舎)がこの秋に刊行予定というのも楽しみである。
谷村はるかが「ES」を退会したという。私は谷村の文章もけっこう愛読していたので残念だ。一度しか会ったことはないが、大橋麻衣子歌集『Joker』の歌評会で谷村は仮借のない意見を述べていた。なるほど表現者とは厳しいものだと思ったことを覚えている。

2014年6月6日金曜日

月に間接キス ― 森茂俊の川柳

『川柳 その作り方・味わい方』(番傘川柳本社・編)という本がある。
番傘85周年を記念して刊行されたもので、この大会には私も参加したが、大会直前に本書の編集と大会の開催に尽力した亀山恭太が亡くなったことを鮮明に覚えている。
本書に収録されている番傘同人の句から、大阪府の川柳人を紹介する。

看護婦の集合写真白すぎる        岩井三窓
まだ家が買えぬ百石取りの武士      海堀酔月
加代ちゃんが好き加代ちゃんに通せんぼ  柏原幻四郎
わが生涯と鍾乳石の一センチ       亀山恭太
天高く月夜のカニに御座候        杉本一本杉
人ひとり愛しぬけずに殺せずに      田頭良子
ご意見はともかく灰が落ちますよ     野里猪突
一善を積む偶然を大切に         牧浦完次
濡れたままてるてる坊主うなだれる    森茂俊

本日の主人公として森茂俊のことを書いてみたい。
森茂俊が「川柳木馬35周年記念大会」で選者のトリをつとめたことは記憶に新しい。
ここでは「ふらすこてん」33号(5月1日発行)に掲載されている茂俊の句を読んでみたい。

ホタルイカ月に間接キスをして   森茂俊
月面へ降り立つ貝柱を提げて
切符売場を覗くと海の嵐だった
目の前で海が寝ているたこ焼き屋
ブータンの山と交換しませんか

「ホタルイカ」の句の「間接キス」とは、たとえば珈琲カップで相手が口をつけたところから別の人が飲んだりする場合。恋人でなくても微妙な状況である。掲出句では、男がひとりホタルイカの沖漬けを肴に一杯やっているのだろう。ホタルイカを口に運ぶ。まるで月に間接キスしているみたいだな、という想念がふと頭をよぎる。風流でも月では仕方ないか、という哀愁も混じる。「ホタルイカ」が月に間接キスをしているとも読めるが、ホタルイカのあとに切れがあり、「私」(作中主体)が月に間接キスをしているのだ、というふうに受け取っている。
二句目。アポロの乗組員のように月面に降り立つとき、貝柱を提げているという。これも貝柱を肴に一杯やっているときに、貝柱を提げて月面に降りたらおもしろいな、と思ったのかもしれない。
三句目は海に転じ、最後の句は山に転じている。10句掲載のうち5句しか引用していないが、句の配列に何となく流れがあるのがおもしろい。

森茂俊といえば、「第2回BSおかやま川柳大会」(2009年4月11日)で特選をとった次の句が印象的である。兼題は「図」。

23ページのメロン図について   森茂俊

選者は歌人の彦坂美喜子。
そのときの選評で彦坂は次のように書いている。
〈なぜ23ページなのか。メロン図とは何か。「について」とは何を指すのか。ここには何一つ答えをみつけだすことは出来ない。メロンという果物の表面にある模様がわずかに図を想起させる。が、これとてもメロン図の確証ではない。諧謔も穿ちもユーモアもアイロニーもない。この句に出会った時の「ナニ、コレ?」という読者の一様な心境。それこそが最大の諧謔と穿ちといえないだろうか。この句の言葉の外部で、個々の心情を巻き込んで生起している表現の場所を考えない限り、この作品を川柳として認めることは出来ないだろう。究極のところで辛うじて繋ぎとめられている現在の言葉の場所がここにある、と思う。だが、しかし、それゆえに一回性の表現という限界も併せ持つ〉
私も同じ「図」という題で彦坂と共選だったから、よく覚えている。
このときの私は別の句を特選にとり、選評ではしきりに「マンガ的読み」を強調している。彦坂の選句眼の優位は明らかだろう。

「バックストロークin仙台」のときに、青葉城にでかけた一行の中で、茂俊が「真田幸村の銅像はどこですか」と尋ねたエピソードがいまも語り継がれている。もちろん本人は「伊達政宗」のつもりだったのだ。この話は茂俊自身がブログで書いているから、ここに紹介しても彼は怒らないだろう。

茂俊は番傘同人で、「二七会」の会長もしている。
二七会は岸本水府が創設した由緒ある句会である。
『番傘川柳百年史』の1959年(昭和34年)の項から、「川柳二七会の設立」の記事を引用しておこう。
〈「川柳二七会」は7月27日に結成された。9月1日の創刊号にその経緯が載っているが、もともと芸人の楽日後の27日は皆が集まりやすいので、何かやろうという事になり、水府を会長に芸能人、作家、学者、画家など様々な分野の人が会員となって川柳会をスタートさせた。昭和40年水府没後、会長は橋本橘次、深尾吉則、牧浦完次、森茂俊と受け継がれ、平成21年には創立50周年の節目を迎える〉

「蕩尽の文芸」というのが私の持論だが、川柳は活字や句集だけでは分からない世界である。川柳もまた「座の文芸」としての一面をもっている。

2014年5月30日金曜日

中尾藻介の川柳

平成5・6年ごろのことだから、もう20年以前の話になる。川柳に興味をもちはじめた私は、当時堺市に住んでいたので、堺番傘の知人に連れられて地元の川柳大会に参加した。「夜市川柳大会」とか「堺市民川柳大会」に毎年行った時期だった。「川柳塔」の西尾栞や橘高薫風が健在で、小島蘭幸・新家完司もよく選者として来ていた。「堺番傘」では梶川雄次郎や中田たつおの姿があった。墨作二郎のズバズバとした発言も聞いた。時代劇の役者で斬られ役専門の大木晤郎も見かけたかな。そんな中で中尾藻介という人の句がよく抜けていて、おもしろいと思った。「モスケ」という呼名が耳にとまったのだ。今回は藻介の作品をいくつか紹介してみたい。
いま手元に『中尾藻介川柳自選句集』がある。180ページの中にぎっしりと1750句が収録されていて、句集の体裁としては読みやすいものではないのが残念である。「舞鶴線」(昭和16年~28年)「憧憬の人」(昭和29年~41年)「唄でなし」(昭和42年~52年)「花火師」(昭和53年~61年)の四章に年代順に分けられているが、特に私がおもしろいと思うのは「唄でなし」の章である。この章を中心に取り上げてゆく。

大阪市都島区に鳴るギター

川柳人の間ではよく知られている句である。特に何を言っているわけでもなくて、ただギターが鳴っているというだけである。この句を印象的にしているのは「大阪市都島区」という地名だろう。
「ハンカチを若草山に二枚敷く」(高橋散二)に通じる味がある。

アマゾンで親を殺してきた闘魚

地名でもこの句は趣きが異なる。机上で作った作か実際に闘魚を見てつくったものか分からないが、実景としては闘魚が泳いでいるだけである。それをこの魚はアマゾンで親を殺してきたのだと見てきたようなことを言っている。

球根よ君を信じることにする
じゃが芋がくさりはじめている倉庫

方向は異なるが、この二句は同じことの表裏を表現している。

断崖でハンドバッグを開けている

ややこしいところでハンドバッグをあけたものだ。一句全体が川柳的喩となっていて、ある状況を表現している。

刺しにくる蜂ではないと思いつつ

蜂が飛んできた。蜂のことをよく知らない人はスズメバチだと思って逃げまわるが、実際はアシナガバチだったりして、そう危険ではない。そんなことは分かっていても、何かの拍子に刺されるかもしれない。この句の場合も川柳的喩として読むことができる。

いのししが走ると山も走りだす

山なんか走るわけがないのだが、おもしろい句である。

世の中が変る牛車の隙間から
美しく老い幻の馬を曳く
波打際の男は蟹に化けるのだ

藻介の川柳の基調は「軽み」なのだが、そのベースの上に多彩な作品を生み出している。
世の中の変遷、生きることの変転を巧みに詠んでいる。

一平のいないかの子を見ています
天王寺駅で別れて以来なり

川柳ではときどき盗作問題が起こる。暗合句というのではなくて、意図的に悪意をもって他人の作の一部または大部分を取り込んで自作と称するのだ。選者にそれを見抜く見識がない場合、そういう作品が入賞したりすることがある。
藻介は、短歌には本歌取りがあるのだから川柳にも本歌取り・パロディがあってもよいと考えていたようだ。だから、意識的にパロディとして作った句がいくつかある。
一句目は「かの子には一平がいた長い雨」(時実新子)を、二句目は「道頓堀の雨に別れて以来なり」のパロディだろう。パロディにする場合は、元になる作品が誰でも知っている句であることが前提となる。
藻介は恋句もけっこう上手い。次のような句はいかがだろう。

声を聞きたい人へハガキを書いている
意地悪をしてくれるので逢いにゆく
逢えたので正倉院は見なくても
死ぬときに逢いたいひとがないように

さて、藻介は刑務官として各地で勤務した。こんな句がある。

刑務所の塀というのは唄でなし

「唄でなし」という章名はこの句から取られているようだ。
32年間、近畿一円の刑務所で奉職したらしい。その間、藻介は川柳にも熱中した。『自選句集』の「あとがき」には次のように書かれている。
「抒情詩風の川柳の真似事から、前田伍健選で川柳の背骨に触れ、ふあうすと調全盛の中で軽味を模索した。憧憬の人大山竹二の訪問も果たせた」
「あとがき」には延原句沙弥、房川素生、青柳山紫楼、馬場魚介などの川柳人の名が挙げられている。
最後になるが、次の句は藻介の実力を遺憾なく発揮したものと思う。

生まれない前から尾行されている

2014年5月23日金曜日

第4回高田寄生木賞

「触光」37号(編集発行人・野沢省悟)に「第4回高田寄生木賞」が発表されている。大賞は次の作品である。

ふる里は戦争放棄した日本   大久保真澄

5人の選者のうち、渡辺隆夫と野沢省悟の二人が特選に選んでいる。
この句についてはすでに樋口由紀子が「ウラ俳」の「金曜日の川柳」(5月16日)で取り上げている。
「触光」誌には全応募作品が紹介されている。沖縄から北海道まで全国から205人の応募があり、一人2句の応募だから計410句である。川柳をはじめて数年の人からベテラン川柳人まで多様であり、いまどんな川柳作品が書かれているのかを見るのに便利だと思った。
上位作品は選者によるコメントがあるから、今回はできるだけそれ以外の作品を紹介してみたい。都道府県としては南から北へという順である。

わたくしの庭で飯事(ママゴト)しませんか   (熊本県)阪本ちえこ

子どものころのままごと遊び。草の葉をおかずにして、食べる真似をしたものだ。土の団子などもあっただろうか。それぞれお母さん役、お父さん役になりきっていたようだ。
この句は子どもが言っているのではないから、大人がままごとへと誘っているのである。「わたくしの庭」には何となく秘め事の感じも漂う。
誰かの自宅で開かれる句会に招かれたときに、手料理が出されることがある。皿数は少なくても心がこもっていて嬉しいものである。「ままごとのようなもてなし蝉羽月」(澁谷道)

六年二組だったしろつめ草だった    (福岡県)柴田美都

「~だった~だった」という文体には既視感があるが、それが逆に小学校時代の思い出とよくマッチしている。クローバじゃなくて、しろつめ草というのも懐かしい。
数字については、他の組ではなくて二組なんだという偶然性もある。小学校のとき何組だったのか、すでに記憶は朧である。

一日に一錠海を飲みなさい     (徳島県)徳長怜子

毎日何かの薬を飲んでいる人は多い。ストレス社会だから、体のいろいろな部位に障害が出てくる。パソコンや人間関係に疲れて、しょせん健康と仕事は両立しないと半ばあきらめている人もあることだろう。
この句では錠剤として海を飲みなさいと言う。
インターネットで0.01秒早く経済情報を手にいれた者が莫大な利益を手にする。そのような現代社会へのアンチとして雲を見たり(クラウド・ウォッチング)、歩きながら会議をすることで運動と経済活動の両立をはかったりする。一日一錠の海がリアリティをもってくるのだ。

意味もなくポロリ 生殖器のナミダ   (広島県)河崎あゆみ

涙腺から涙が流れるのは当然だが、ここでは生殖器と言われてハッとする。
昆虫か魚を見て詠んだのかもしれないし、ヒトを虫を見るような目で冷徹にとらえているのかもしれない。
「ひとみ元消化器なりし冬青空」(攝津幸彦)

標的にされて嬉しいではないか    (岡山県)福力明良

「~ではないか」という川柳ではよく使われる文体だ。
標的にされるのはありがたくないはずだが、まったく無視されるよりはターゲットにされる方がいいのかも知れない。自分がそれだけの意味ある存在だと実感できるからである。

リンゴより五センチ下に矢が刺さる   (兵庫県)吉田利秋
一本の矢になってゆく 逢いたい    (兵庫県)前田邦子

題詠ではないだろうが、たまたま二句とも「矢」を詠んでいるので、並べてみた。
一句目は「ウイルヘルム・テル」の一場面を想像するとおそろしい。
二句目は何とストレートな表現だろう。

動物園大人どうしで行くところ     (京都府)高島啓子

子供どうし、おとなとこども、カップル、などの組合せの中で、動物園は大人どうしで行くところだと断言する。動物園は私も好きだが、つい川柳をつくろうなどという気をおこすから、無心になれない。

おばあさんばかりで柩担げない    (大阪府)谷口義

老人が老人を介護する。認知症で一万人の行方不明者がいるというのだから驚きである。
この「柩」が「川柳」でなければいいのだが。

おめでとう誰か知らない人の菓子   (大阪府)久保田紺

お祝いのお菓子が届くが差出人には心当たりがない。あるいは、机の上に誰かがお祝いを置いてくれたのだが、それが誰かが分からない。そんなとき、私は嬉しいというより不気味な感じがする。まず出所を確認しないと、毒でも入っていたら大変だからだ。

西鶴の橋を渡って雨に逢う      (大阪府)山岡冨美子

浅沼璞著『西鶴という俳人』(玉川企画)を読んで、改めて西鶴に関心をもった。
橋は境界をつなぐ役割をもっている。橋をわたってどこへ行くのだろう。

急がねば雲が形を変えてくる      (和歌山県)辻内次根

ボードレールの詩「異邦人」では、詩人の好むものは雲だった。
掲出句では形のないものの自由さではなくて、状況がかわらないうちに何かをなしとげないといけない切迫感がある。

牛乳の膜薄くそこは圏内        (愛知県)青砥和子

牛乳の薄い膜。唇に貼り付いたりして牛乳本体が飲みにくい。けれども、それは牛乳と別のものなのではない。
この句は牛乳の話をしたいのではなくて、何か別のことを言っているのだろう。

俎板のネギはきれいな音がする     (石川県)岡本聡

読んで気持ちのよい句である。
川柳は性悪説の方がおもしろい句になることが多いのだが、「きれいな」とストレートに言えるのは貴重だ。

大嘘をたまにつくのが母の癖      (神奈川県)松尾冬彦

「嘘」は川柳にとって重要なテーマである。
このお母さんは小さな嘘をつくのではなく、大嘘をつくのである。

モナリザの肩はいつでも凝っている   (宮城県)南部多喜子

モナリザに対するさまざまな見方がある。
村野四郎の詩「モナリザ」では、詩人はモナリザに対して「そこを退いてください」と言う。「あなたが居るので/風景が見えない」ここではモナリザは「遮るもの」としてとらえられている。モナリザの微笑も村野にとっては無意味な精神の痙攣にすぎない。
掲出句では、謎の微笑をずっと続けているのでは、さぞ肩が凝ることだろういうのだ。

母さんの着せたコートは捨てなさい    (青森県)豊澤かな江

誰の発言なのか、いろいろ解釈できるが、母自身が娘に言っていると私は受け取っている。母親の方が過激なのだ。
母と娘の確執はエレクトラ・コンプレックスとして知られているが、そういう図式そのものも捨てて、さばさばしたいものだ。

屈葬のやがて背伸びをするだろう   (北海道)新井笑葉

屈葬は死者が甦ってこないように、わざと身体を曲げて埋葬するのだという話を聞いたことがある。
この句では屈葬された者がやがて「うーん」と背伸びをするだろうと言う。
川柳的喩というものがここにはある。

ほどかれてドライトマトは密告者   (北海道)悠とし子

ドライトマトはいろいろな料理に使われるようだ。
乾燥させたものが料理に使われてすこし息を吹き返す。密告者のように。

沖縄から北海道まで、今日もおびただしい数の川柳が作られていることだろう。蕩尽の文芸、無名性の文芸であることに、川柳はどこまで耐えることができるだろうか。

2014年5月16日金曜日

「一匹狼」の時代とその後

短歌誌「井泉」57号が届いた。
春日井建の没後十年、「春日井建の一冊」を特集している。
本誌に「評伝 春日井建」を連載していた岡嶋憲治が2月27日、交通事故により急逝された。「評伝」は春日井の晩年のところで中絶。次に挙げるのは喜多昭夫の追悼歌である。

評伝の最終稿をたずさえて君はミルキィーウェイを渡りぬ   喜多昭夫

彦坂美喜子の評論「団塊世代の歌人論」が連載28回で完結。小池光・道浦母都子・永田和宏の三人を論じた労作である。
〈リレー評論・現在の批評はどこにあるか〉では関悦史が「他界の眼」を書いている。
「現在、批評の存在が低下しているのは、文学のそれが低下したここと連動している」と関は述べ、60年代の吉本隆明、70年代の山口昌男、80年代の柄谷行人・蓮見重彦に対して、90年代以降は空位が続いていると指摘している。
俳句の世界ではどうなっているか。
関は「天才や大作家よりも無名の一般人へ目を向ける」という動きに注目し、青木亮人や外山一機の文章を挙げている。ただし、関はこんなふうにも言うのだ。
「大作家や名作を志向しない批評が『現代俳句史』を形成することは難しい。そしてジャンルの歴史が組織立てられず、共有されないということは、そのジャンル自体が漂流し始めているに近い事態である」
「何のためにあるのかわからない装置としての作品を稼働させ、意味の特定という貧困化へ向けてではなく、逆に無償の何かへの拡大、撹拌行為へと批評が奉仕するものだとして、その混乱の『豊かさ』をいかなる性質のものだと思えばよいのか」
 関はこのように問い、個人的な体験として「他界の眼」ということを言うのだが、ここから先は関の文章をご覧いただきたい。

「川柳カード」5号に兵頭全郎が「川柳サーカス」創刊号を取り上げている。「時をかける書評」というタイトルで、過去の句集や川柳書を書評していくシリーズである。
1988年、柊馬は松本仁と二人誌「川柳サーカス」を創刊する。
兵頭も引用している松本仁の「現代川柳のレーゾンデートル」に次の一節がある。

「川柳の作品が大量に毎日書かれ、句会もますます盛んで、川柳が一見市民権を享受しているかに見える今日、河野春三、松本芳味、宮田あきら等の現代川柳革新の運動に邁進してきた、これらの作家であると同時に理論家・組織家たちが没し、いま川柳が確たる目標を持たずに安易に流れ、水平化しているとき、彼らの提出した、作品及び理論を、ここで総括し、来る時代を早急に模索しなければならない必要に迫られている」

そのために立ち上げた「川柳サーカス」に松本仁が求めたものは「一匹狼」としての川柳人の在り方だった。

「この作家精神を求める故に、地方の一匹狼の地位に留まり、川柳界とも、あまり交渉せず、浮いている存在の作家達、また既成の柳社の中で飢えている狼たち、今、筆を折りかかっている一匹狼たちに、決して、グループの一員ではなく、一匹狼のままで、咆哮できる雑誌を創出したいと思う」

1988年の時点で「一匹狼」の思想はすでに時代遅れだったろう。松本はむしろ時代に抗して60年代に回帰しようとしているように見える。松本仁はロマンチストだったのである。河野春三を父とし時実新子を母とする松本仁(もちろん精神的な意味である)にとって、河野春三論は彼が書くべき課題だったはずだ。セレクション柳人の『松本仁集』がついに出なかったことは、現代川柳にとって痛恨の極みである。晩年の春三は川柳に絶望していたという。そして、河野春三論は特段誰によって書かれることもなく、時代は茫々と推移していった。
松本仁よりもう少しリアリストだった石田柊馬は同じ創刊号の「現代川柳考(コピー化について)」でこんなふうに書いていた。これまで別のところでも引用したことのある一節である。
「さて、社会性、の語が急激に衰退して、現代の川柳はどこへ向ったか。おそらくぼくたちは川柳の変化を、その頃、多様性の語をもって理解もしくは処理していた。いま、ふりかえれば、それは、たいして多くの方向を示したわけでもなく、もちろん流派を名乗ったり名づけられたりの方向性や運動体を出したわけでもない。方向性など出ないまま、おおむね、みんな技術的に、芸として上手になった、と見るのが単純で妥当な見方であろう。その中で、川柳が川柳であるところの川柳性だけが、急速に衰退していった」

さて、いまはすでに2010年代である。
私が「過渡の時代」という表現を好むのは、「隆盛」とか「中興」とかいうピークの時代を設定してしまうと、その狭間の時代は「衰退」とか「落丁」ととらえられてしまうからである。それでは元気がでないし、前にも進めない。元来、無名性の文芸である川柳は、それでは何によって時代と切り結ぶことができるのだろうか。批評はすぐれた作品の存在を前提とする。批評意欲をかきたてる作品が存在しないところでは、批評家は無力である。

今年の1月25日に安藤まどかが亡くなった。享年66歳。
まどかは時実新子の娘である。
「短詩」という雑誌があった。安藤は吹田まどかの名で作品を発表している。
私は彼女に会ったことはないが、私の中では彼女は永遠に少女のイメージのままである。

あじさいの息の根とめて「ママ 花束よ!」  (「短詩」昭和43年10月)
金魚が死んで 世界の赤が消えちゃった    (「短詩」昭和42年7月)

2014年5月9日金曜日

芝不器男俳句新人賞と小高賢追悼

第4回芝不器男俳句新人賞を曾根毅(そね・つよし)が受賞した。
曾根とは以前「北の句会」でよく顔をあわせたが、最近では「儒艮」(編集発行・久保純夫)で彼の作品に接する機会がある。
角川「俳句」5月号の「現代俳句時評」で田中亜美が同賞について取り上げている。受賞作は東日本大震災を詠んでいて、選考の際に賛否両論があったようだ。

桐一葉ここにもマイクロシーベルト    曾根毅

この句はもちろん虚子のパロディだが、当時、曾根は仙台にいたから、机上の句ではなくて実体験である。2012年11月17日に京都の知恩院で開催された現俳協青年部のシンポジウムで、曾根は指名を受けて会場から震災体験について発言した。このシンポジウムの中で最も良質の部分であった。
曾根は鈴木六林男の晩年の弟子である。六林男のカバン持ちをしながら、俳句についてのさまざまな話を聞き取っている。師弟の濃密なコミュニケーションがあったと田中の時評では述べられている。時評のタイトルにもなっているが、田中は六林男の言葉を引用しながら、次のように書いている。「敢然として進め」

「現代詩手帳」5月号では青木亮人が「クプラス」創刊号のことを取り上げている。「クプラス」は川柳人にも何人かの読者がいて、先月のこのコーナーでも紹介した。
青木は近代俳句の研究者で、昨年刊行された『その眼、俳人につき』(邑書林)は評判になったし、俳誌「翔臨」にも「批評家たちの『写生』」を連載している。
連句界との関係で言うと、青木は先日、4月29日に松山で開催された俵口連句大会で「室町時代の連歌」の講演をしている。

「里」5月号では上田信治の「成分表」の連載が百回を迎えている。
「成分表」にはファンが多いが、今回は百回記念として、佐藤文香の「信治さんへの手紙」がついている。

短歌誌に目を移すと、「歌壇」5月号は「追悼・小高賢」を掲載。
小高賢は2月11日に急逝した。69歳だった。
追悼文の中では特に吉川宏志の「公共性への夢」を紹介しておきたい。
吉川は「社会詠論争」のことから話をはじめている。
2007年2月4日にハートピア京都で「いま、社会詠は」というシンポジウムが開催された。パネラーは小高賢(かりん)、大辻隆弘(未来)、吉川宏志(塔)、司会は松村正直(塔)であった。その記録は主催者の青磁社から『いま、社会詠は』として刊行されている。
その時は小高の発言を観客席から聞いていたが、その後、私は一度だけ小高賢と話す機会があった。2009年11月15日の「井泉」5周年記念大会のときだった。小高の講演は「穂村弘の歌のどこがおもしろいかわからない」「これからは老人文芸としての短歌に可能性がある」などの小高の持論を展開するものだった。
そのときのご縁で「川柳カード」を送っていたが、川柳のことはどう受け止めていただいただろう。
前掲の吉川の文章に、「いま、社会詠は」での小高の発言が引用されている。

小高 人間はずっと愚かなままで続くわけですか?僕はそう思いたくないし、僕らが歌をつくる場合に、もちろん愚かだけれど、その愚かさからちょっとぐらいはよくなりたい。ちょっとぐらいは認識をかえたい。あるいは歌をつくるわれわれが、もう少し歌というものを考えるという思いがある。
大辻 だから進歩主義だっていうんです。
小高 もちろん、私は進歩主義です。

小高のラストメッセージと言うべき文章が「批評の不在」(角川「短歌年鑑」平成26年度版)である。そこにはこんなふうに書かれている。

「批評には外部が必要だ。つまり、外側から対象を見直すという視線である。短歌だけでなく、他の文学と比べたらどうなるか。同じような問題が、戦前の歌壇ではなかっただろうか。そういう行為は想像力といってもいいし、公共性の自覚といってもいい」

小高賢の短歌を二首紹介しておく。

いくたびも「それはちがう」を飲みこみて副大臣のように生きるか   小高賢
居直りをきみは厭えど組織では居直る覚悟なければ負ける

「現代短歌」5月号の特集は「山崎方代生誕百年」。
久しぶりに方代の歌集『左右口』『こおろぎ』(短歌新聞社)を読み返してみた。

埋没の精神ですよゆったりと糸瓜は蔓にぶらさがりおる      山崎方代
手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る
わたくしの六十年の年月を撫でまわしたが何もなかった
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか
生れは甲州鶯宿峠に立っているなんじゃもんじゃの股からですよ

好きな歌を挙げてゆけばきりがない。
川柳誌についても書くつもりだったが、次週に。

2014年5月2日金曜日

川柳木馬35周年記念大会(絵金のこと)

4月19日(土)、高知市文化プラザ(カルポート)にて第3回木馬川柳大会が開催された。創立35周年記念大会である。76名の川柳人が16都道府県から集まった。高知での大会になぜ全国から川柳人が集まるのか。そこに「川柳木馬ぐるーぷ」が35年間発信し続けてきたことの実質がある。
事前投句「ゼロ」は、私と味元昭次(俳誌「蝶」代表)の共選であり、それぞれ15分程度の話をするように要請されていた。
創刊以来の「木馬精神」として私が挙げたのは次の三つである。

①個性の確立
②反権威主義
③他ジャンルとの交流

個性の尊重・個性の確立は常に言われてきたことである。表現者の原点だろう。
反権威主義・反権力主義は特に創刊同人である海地大破に濃厚に体現されている。
「川柳木馬」5号(1980年7月)には創刊一周年の時点での同人たちの座談会「明日へ向かって」が掲載されている。私が繰り返し読み返している号で、以前このブログでも触れたことがある。
その中で大破は次のように語っている。

「一人の人が常に書くということになると、そこには体制的なものが出来上がってしまうのではないか」

反権威主義は外部に対してだけのものではない。内なる権威主義に対しても大破は異を唱え、警戒を怠らない。
他ジャンルとの交流は、たとえば俳誌「蝶」との交流にもあらわれている。味元がこの大会で選と講話をしたのもその流れの中にある。味元は俳句と川柳の境界線上の作品、ボーダーゾーンは重なることを述べた。「蝶」同人の畑山弘は「木馬」同人でもある。
「蝶」205号(2014年1月)には清水かおりが「現代川柳の仕事」という一文を発表している。「作品と論は両輪の輪でなければならない」ということについて、清水は次のように書いている。

〈私の所属する『川柳木馬』は今年三十五周年を迎える。昭和五十七年木馬十三号(創立三周年記念号)から始まり現在も継続している「作家群像(次世代を担う昭和二桁生まれの作家群像)は、この両輪を強く意識した企画である。作品の向上、個性の確立、理論の体系化、新人の育成、という明確なビジョンを持った、スパンの長い教育プログラムのようなものだ〉

考えてみれば、私の挙げた「木馬精神」は「川柳木馬ぐるーぷ」の中で継承すべきものではあるけれども、結社やグループとは関わりなく誰が継承してもよいものだとも言える。精神のリレーとは、そういうものだろう。

大会の翌日、木馬の人たちに桂浜と絵金蔵を案内してもらった。
絵金はいつか実物を見たいと思っていたもののひとつである。
「土佐の絵金」として有名な絵師・金蔵は狩野派を学び、土佐藩家老の御用絵師となった。そこに起こったのが贋作事件である。彼が描いた狩野探幽の模写がいつのまにか落款を押されて売却されていたのだ。贋作者の汚名を負った彼は高知城下から追放されてしまう。

私の手元にあるのは『絵金・鮮血の異端絵師』(講談社)という画集である。序文で廣末保はこんなふうに書いている(「絵金小序―評価の視点」)。

〈絵金を批評するためには、固定したジャンル意識から自由にならなければならない。でなければ、独特の空間構成によって参道や道の境界性を顕在化したその想像力を批評することもできない。〉
〈絵金にとって町絵師への転落は、古巣への回帰だったといえなくもないが、しかしそれは幕末土佐の、屈折してはいるが開放的な庶民的なエネルギーとの出会いを意味した。商農工漁民層のもつ多様な心性とその活力に絵金は出会った。ときには猥雑ともみられる多義的な想像力がそれをものがたっている。〉

幕藩体制が崩壊し、かつて自分を追放した御用絵師たちが権威を失って困窮したとき、絵金はからからと笑っただろうか。
毎年7月には赤岡町で絵金祭が開催される。絵金の屏風絵は絵馬提灯や百匁蝋燭のもとで見るのがふさわしい。絵金蔵には赤岡町に伝わる芝居絵屏風23点が所蔵されている。
「お若えのお待ちなせえやし」―「鈴ケ森」の幡随院長兵衛のグロテスクなまでの存在感はどうだろう。色若衆の白井権八はほとんど女だ。彼に切られた雲助たちの死骸が足元にごろごろ転がっている。「鷲の段」では鷲にさらわれた赤ん坊を母親が必死に追いかけている。彼女の胸から二つの乳房があらわにこぼれている。薄暗い蔵の中で絵金の泥絵が無意識と本能をチクチクと刺してくるのを呆然とながめていた。

2014年4月25日金曜日

川柳人・前田一石

倉阪鬼一郎の新著『元気が出る俳句』(幻冬社新書)では、前著『怖い俳句』と同じように自由律や現代川柳も取り上げられている。現代川柳からは定金冬二・前田一石・畑美樹の三人の句が収録されているが、ここでは前田一石について紹介してみたい。

風が吹いているあきらめることはない   前田一石

この句について倉阪は次のように述べている。

俳句のような「切れ」を持たない現代川柳ですが、この句には「切れのごときもの」があります。重苦しい人生の水に浸かっていた作者が、顔を上げてふっと息継ぎをするかのようなわずかなサイレントです。〈戻ってはならない道だ光っている〉〈花が咲いている僕の踏みはずした道だ〉〈遮断機があがる魚は光りだす〉〈てのひらに許せぬものがあり光る〉なども構造は同じです。

「人生の胸苦しさ」「重苦しい人生の水」というものが前提としてまず存在し、そこから息継ぎをするように困難な生を乗り切ってゆく。そういう意味で、倉阪はこの句を本書に収録したのだろう。倉阪は続いて次のようにコメントする。

労働運動の一環として演劇集団に加わっていた作者ですが、労働災害をテーマとする演劇だったがゆえに会社からも組合からも圧力を受け、発表の場を奪われてしまいます。さらに遠隔地への単身赴任を余儀なくされるなど、重い石を背負わされても、作者は川柳という一石を投じながら息継ぎをし、前を向いて進んでいきます。

セレクション柳人17『前田一石集』(邑書林)の年譜によると、一石は1954年、岡山県玉野市の造船所に入社、1959年に造船労組の演劇サークルに入団している。1965年、演劇サークルは業余劇団「炎」として自立したが、1971年には活動中止に追い込まれてしまう。1978年には兵庫県の篠山工場に出向を命じられる。
ちょうど「杜人」241号(2014年春号)に前田一石は「水車小屋夫婦の川柳」という一文を発表している。一石自身の言葉で当時の事情を語ってもらおう。

〈この頃から日増しに強まる造船所の合理化攻勢の中で、自分達の立場を維持しての日常活動、職場での動きが著しく制限され、稽古日とあわせた出張、残業、夜勤さらに職制を通しての個人攻撃などで「サークル」を離れる仲間が増えた。1963年造船所で起きた災害をテーマにして、サークル員全員での創作劇を公演したことから、その締め付けは、想定外のものとなった。〉

闘争がはじまる切りくずしが始まる     前田一石
モルモットにある日扉が開いている
ひとりになると心に鉄が組まれてゆく

当時詠まれた句であろう。そして、単身赴任のころの句は次のようなものである。

それはまじめに勤めてからの島送り
矢印の通りに父が流される
転がり出たのは単身寮の冷えた飯
また馬鹿になろうひとりの味噌汁よ

生の現実そのままの句であり、作品として評価されるかどうか分からないが、倉阪の言う「人生の胸苦しさ」「重苦しい人生の水」の実体が単なる言葉の上だけのことではないのが分かるだろう。
こういう句の書き方は現在ではあまり見られなくなっているが、現代のロストジェネレーション(ロスジェネ世代)の人たちがもし川柳形式で句を書くとすれば、どのような表現をとるだろうという関心を私は持っている。
さて、前田一石は単身赴任を数年で終え、玉野に戻ってくるのだが、彼の川柳との関わりは、1958年、造船所の川柳部に入部したときに始まる。このときは「前田十代」の号を用いていた。一年ほどしか続かなかったようだが、1966年、再度川柳に誘われ、本格的な川柳活動がスタートする。転機となったのは1967年、「涛の会」の結成である。前掲の『前田一石集』の解説で石部明はこんなふうに書いている。

〈当時の岡山の、ほぼ全県下を支配する大結社の横暴に我慢できない若手たちが「涛の会」という集団を結成し、前田一石もその発起人に名を連ねることになる。

僕の中身を抜く くぎぬきがない    前田十代(一石)
逃げて行く蟹が残した爪二つ      加地一光
飛躍してほらほらぼくが消えただろう  堀田まこと

など同人十三人による創刊号は、勢いだけの、熱気を孕んだ生硬な言葉の放出に過ぎないが、「くぎぬきがない」と書く一石にとって川柳は、組合活動の挫折によって失いかけたエネルギーを、再び照射する格好の対象だったのではないか。〉

「川柳木馬」46号(1990年10月)に掲載され、のちに『現代川柳の群像』上巻に収録された前田一石論で長町一吠は次のように述べている。

〈彼に逢った時、「永く川柳を書いてゆく気があるなら、十代という雅号は改める方がよい」と彼に忠告をした。黙って私の言うことを聞いていた彼は次の号から「一石」と改号する。彼の素直さに驚かされたが、彼の新しい出発であった。〉

「涛」は実質的な責任者だった堀田まことの挫折によって崩壊を始めるが、一石は「自分一人になっても涛は続ける」と言ったそうだ。若き日の一石の姿がそこにある。創刊時の発起人のうち、山本柳化と西川けんじは「ふあうすと」同人に、一石は「平安」の同人になる。独自の道を歩んだ加地一光はやがて川柳界から消えてゆく。どのジャンルでもそうだろうが、さまざまな理由から川柳をやめていったおびただしい人びとの存在に私は思いをはせることがある。
その後、一石は「平安」「黎明」「バックストローク」「川柳カード」などに参加して、川柳活動を持続しながら現在に至っている。
いま前田一石は「川柳玉野社」代表として、毎年7月に開催される「玉野市民川柳大会」の開催に精力を注いでいる。この大会では、ひとつの題について男女の選者が共選する。彼はその出題に1年間をかけると言われている。秀句が集まる大会として知られ、全国から川柳人が参加する。私自身もこの大会から刺激を受け続けてきた。前掲の「水車小屋夫婦の川柳」で一石は「玉野市民川柳大会」で生まれた特選句の中から次の7句を抽出している。

君は何族と聞いてくるマリア・カラス    畑美樹 (石田柊馬選)
鞘に雨垂れ九条は息を止め         清水かおり (樋口由紀子選)
どう言われましても真ん中には琵琶湖    畑山美幸 (飯田良祐選)
日の丸といろはを背中から剥がす      石田柊馬 (石川重尾選)
出産の馬苦しんでいる朧          石部明 (徳永政二選)
沖縄に折れたクレヨン雨ざらし       墨作二郎 (堀本吟選)
憂いまで三つ足りない螺子の穴       樋口由紀子 (石部明選)

今年、玉野市民川柳大会は65回目を迎える。7月6日(日)、サンライフ玉野で開催されることになっている。
最後に、「川柳カード」5号から、前田一石の近作を一句紹介しておこう。

火の海をいま紙人形が渡る   前田一石

2014年4月4日金曜日

桐生と土佐 ―「ku+」のことなど

「ku+」(クプラス)が創刊された。
昨年9月の「第2回川柳カード大会」、佐藤文香と樋口由紀子の対談でも話題になっていた俳誌である。好評のようで、すでに創刊号は品切れ状態。現在、増刷中だという。
読みどころはいろいろあるが、ここでは山田耕司の〈流産した「番矢と櫂の時代」をやっかいな鏡とする〉を紹介しよう。
1987年、飯田橋の旅館の一室に九人の俳人が集まった。これを小林恭二は「新鋭俳人の句会を実況大中継する」という題で発表、のちに『実用俳句青春講座』に収録されるが、山田耕司はこの句会のことから話をはじめている。
〈山田は、その当時の「顔」となる若手俳人は、番矢と櫂、この二人だと思っていた〉
そして、山田は小林の役割について次のように言う。
〈小林恭二は、あきらかに外からのまなざしを以て俳句の状況をながめていたはずだ〉〈旧来の俳句世界とは別のところにいる読者へのアプリケーションの役割をじゅうぶんに果たしたことだろう〉
夏石番矢と長谷川櫂。〈それは俳句が外側からの注視を受けていた時代の象徴となるはずだった。それまでの世代との関わりや、過去との断絶の現場を検証するための眺めのいい場所は、二人の周辺に形成されるはずだった〉
それでは、なぜ番矢と櫂の時代は成就しなかったのか。山田は結論を出していないが、こんなふうに述べている。
〈我等は、「人間的で」「めんどくさそうでもない」人間関係および従来の権威の枠組みの中で、自分の固有性をおぼろげながらに信じつつ形式の表層と付き合ってきたということになるのか〉
「クプラス」の発行人は高山れおな。編集人は高山・山田・上田信治・佐藤文香。発行所は桐生の山田方になっている。

高知から発行されている「蝶」という俳誌がある。
たむらちせいを中心とし、代表・編集は味元昭次。
私の手元にあるのは昨年11月に発行された204号だが、「川柳木馬」同人の西川富恵が「現代川柳の現場から」という文章を書いている。西川は多様な現代川柳を紹介したあと、次のように言う。
〈今川柳は文学性を極めようとすれば際限なく先鋭化し、堕落が始まれば底なしになるやも知れぬ。無限の可能性か破綻か。が、ここでは危ない綱渡りをしながらも無限の可能性に向かっている事にしておこう〉
歯切れの悪い言い方であり、私とは少し考え方が異なるが、西川の言おうとしていることは理解できる。「無限の可能性」でもなく「破綻」でもなく、着実に進んでゆくことが現代川柳の課題である。
「蝶」には今泉康弘が「新興俳句随想」を連載している。「ドノゴオトンカ考」以来、今泉の書くものには注目しているが、今泉と「蝶」との俳縁は、味元が「円錐」にも所属していることによるだろう。
味元は「私的俳句甲子園観戦記」を書いている。昨年八月の俳句甲子園について土佐高校を中心にレポートしたものである。
土佐高校の俳句同好会を牽引していると思われる宮崎玲奈の句を紹介しよう。

蓮池の花影ピエロかもしれぬ    宮崎玲奈
魔術師の帽子からでた夕焼空
内部犯行説の団栗散らばりて

4月19日(土)に高知市文化プラザで「第3回木馬川柳大会」が開催される。「川柳木馬」創立35周年記念大会である。その第一部のテーマは「ありえない17音字に逢えるかも」。味元昭次と小池正博がそれぞれ15分ほど話すことになっている。

2014年1月10日金曜日

蕪村の時代・川柳の時代

新しい年がスタートしました。今年も「川柳カード」をよろしくお願いします。

年末・年始は比較的ゆっくりと本を読むことができた。芭蕉や蕪村、『柳多留』などの句集を耽読して、川柳の発祥について改めて振り返る機会があった。年頭にあたり、時評というのではなく、少し古典にさかのぼって考えてみることにしたい。

与謝蕪村と柄井川柳は同時代人である。川柳の発祥と蕪村の俳諧は重なる部分があるのだ。『セレクション柳人6小池正博集』の解説で石田柊馬は、吉本隆明の「蕪村詩のイデオロギイ」(『抒情の論理』所収)を引用している。吉本はこんなふうに書いている。

「たとえば、つぎのような蕪村の詩
紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞
地車のとどろとひびく牡丹かな
こういう背景には、地獄絵のような現実社会がよこたわっている、というふうに蕪村を理解したものはいない。(中略)蕪村は、いわばこの現実的な危機を上昇的に感受することによって、風刺的な風俗詩の創始者である柄井川柳と対極的な位置にたったのである」

考えてみれば、私の連句の出発点は蕪村連句に取り組むことから始まった。その一方で現代川柳にも興味をもち、川柳の実作をはじめた。ふだんあまり意識することがなかったが、蕪村と川柳とがほぼ同じ時代であることは、私自身のルーツとして重要なことかもしれない。

宝暦七年(1757)は柄井川柳がはじめて点者として開きをした年である。このとき蕪村が何をしていたかを年譜で調べてみると、宝暦七年に蕪村は丹後から京に戻っている。丹後時代には画業に専念していたようである。明和二年(1765)は『柳多留』が刊行された年である。明和七年(1770)には夜半亭二世を継承して、俳諧師としての活動が目立ってくる。吉本は蕪村と川柳を対極的にとらえているが、両者は根っこの部分でつながっているとも言える。

たとえば『蕪村句集』と『柳多留』から「藪入り」の句を並べて引用してみる。

やぶ入は中山寺の男かな(蕪村句集42)
藪入の二日は顔をよそに置き(栁多留・初編371)

蕪村句では作中人物は中山寺の寺男である。まだ独身なのだろう。嬉しそうに藪入りで里に帰ってゆく。
柳多留では藪入りで帰ってきたのは娘である。三日間の藪入りなのに、よそへ出歩いて家にいるのは一日だけだという。
いずれも人物の姿が浮かび上がってくる。
犬に吠えられるというような状況はどう詠まれているだろうか。

商人を吼る犬ありもゝの花(蕪村句集158)
関寺で勅使を見ると犬がほえ(柳多留初編163)
源左衛門鎧を着ると犬が吠え(柳多留初編194)

川柳では犬に吠えられる句がよくある。
落ちぶれた小野小町を見慣れている犬は、衣冠束帯姿の勅使を見ると吠えたてるというのだ(謡曲「鸚鵡小町」)。また、佐野源左衛門が「いざ鎌倉」とおんぼろ鎧を着こむと、犬が吠え立てる(謡曲「鉢の木」)。
川柳が古典を踏まえたパロディになっているのに対して、蕪村句では「ももの花」との取り合わせで俳諧化をはかっている。

むし啼や河内通ひの小でうちん(蕪村句集520)

蕪村句にも古典をふまえた句は多い。掲出句は『伊勢物語』の河内越えの場面をふまえているが、「むかし男」ではなくて提灯をさげて河内へゆくというのである。川柳子はどう詠んでいるだろうか。

風吹かばどころか女房あらし也(柳多留16編38)
立ち聞きをせぬと一首はすたるとこ(柳多留23編6)

「風吹けば…」は筒井筒の女が夫の身を案じて詠んだ歌だが、古川柳では女房が怒りまくっている。

蚊屋の内にほたる放してアア楽や(蕪村句集294)
蚊を焼いた後を女房にいやがられ(柳多留初編13)

蚊帳の内を詠んだ俳句と川柳を並べてみた。
後者では、蚊を焼いたあとの紙燭で女房の寝顔をじっと見ている亭主が嫌がられているのである。

芭蕉去てそののちいまだ年くれず(蕪村句集868)

『蕪村句集』の最後に置かれている句である。
「年くれず」といっているのは芭蕉の「年暮れぬ笠きて草鞋はきながら」を踏まえているからだ。川柳人・木村半文銭には「芭蕉去って一列白き波がしら」という句がある。

俳句は発句をルーツとし、川柳は平句(前句付)をルーツとするのだが、発句と平句の区別について蕪村は「発句と平句のわいだめをこころ得ること、第一の修行なり」(『新花つみ』)と書いている。「わいだめ」とは「区別」である。

鍋提て淀の小橋を雪の人
近江のや手のひらほどな雪おこる

蕪村は前者を「平句の姿なれども発句に成る也」、後者を「発句に似たる平句也」と述べている。後者には切れ字が使われているが、それは形だけのことで発句にはならないという。

若き日の蕪村は関東を遊歴して、江戸座の俳諧師たちとの交流が深かった。
そう言えば、『柳多留』というタイトルは婚礼の祝儀に用いる柳樽にちなんだものだった。いったい誰と誰の婚礼なのであろうか。注釈によると、川柳評の前句付と江戸座の俳諧とを妹背の仲になぞらえているということだ。