2014年9月26日金曜日

むさし句集『亀裂』

9月13日(土)、青森で「川柳ステーション2014」が開催され、その第2部のトークセッション「破調の品格」は司会・Sin、パネラー・榊陽子・德田ひろ子・奈良一艘・むさしという顔ぶれで行われた。詳細はいずれ「おかじょうき」誌に発表されるだろう。
さて、「おかじょうき川柳社」の代表・むさしから句集『亀裂』(東奥日報社)が届いたので、今回はこの句集を紹介したい。1頁3句、全360句が章立てなしにずらりと並んでいる。

踊り場で出会えば殺し合ってたなあ

まず、こういう句から取り上げてみようか。
無頼の男たちの述懐である。
階段を上がってゆく者と階段を下りてくる者とが踊り場ですれ違う。
黙ってすれ違えばいいものを、必ずそこで蝮の絡み合いが生まれる。
「むさし」という柳号の由来は宮本武蔵だろう。
おかじょうき川柳社の前代表が北野岸柳。ガンリュウ即ち佐々木小次郎だから、むさしが登場しても不思議ではない。
掲出句は別にこの二人の決闘を詠んだものではないが、若い頃を振り返って、かつては暴れたものだったという作中主体の述懐が感じられる。

まだ5分あります僕を騙せます

5分あれば何かができるだろうか。
うまく僕を騙してごらん、という余裕もある。
騙されてみたいのだろう。

ストローが首に一本刺さってる

何でそんなところにと思ったり、痛くないだろうかと想像したりする。
ストローは液体を吸うためのものだから、このストローから何かを吸い上げるものが存在するとしたら無気味だ。

うらおもてないはずだがと裏返す

裏返してみるとやはり裏があった、というのは理に落ちる。
裏がえしてみてもやはり裏はなかった、というのもきれいごとである。
裏返してみる中途半端で宙吊りの行為の中に現実味がある。

弥勒菩薩の右の小指にぶら下がる

先日、奈良国立博物館の「醍醐寺展」で快慶作の弥勒菩薩像を見た。
快慶はあまり端正すぎてそれほど好きではなかったのだが、この弥勒菩薩像を見て快慶に心酔した。
弥勒は気の遠くなるような遥かな未来に出現する仏である。
そういう存在を信じなければ、川柳などやっていられないように思ったのだ。

どうしても省略できぬ鼻の穴

ほかのものは省略できても、鼻の穴だけは無理だという。
何となくわかるような、わからないようなあんばいである。
鼻は顔の真ん中にあって、堂々と自己主張をしている。
しかも、鼻の穴だなんて。

遊ぶ金ないのでずっと見てる空

お金がないので仕方ないから空を見ている人がいる。
空の表情は刻々と変化するし、雲や風などの有名なものたちがいるから見ていても飽きない。最近はクラウド・ウッチングといって雲を見ることを趣味にする人もいるそうだ。
掲出句の作中主体は、金があろうとなかろうと空を見るのが好きな人なのだろう。

バックしますもめごとがあるようですが

何やら後ろの方でもめているようですが、バックしますよ。
そんなことでもめごとが中断するのならいいのだが。

句集のあとがきでむさしは川柳をはじめたきっかけについてこんなふうに書いている。

〈 1994年12月、友人に「千円で飲み放題の会がある」と誘われ、隣の蟹田町へのこのこ出かけた。
連れて行かれたところはなぜか薬屋。
二階奥の間へ案内されてから「実は川柳の会です」と言われあっと驚く。
そこは杉野草兵さんのお宅で、おかじょうき川柳社忘年句会の席だった。 〉

以後二十年、題詠作品を集めてこの句集が成った。「並べ方はランダムである」というが、この点に関して私には異論がある。360句ただ並んでいるのは読者にとって少々読みづらい。
「無作為に並べた方が私ごときが作為を持って妙な並べ方をするよりずっといい」とむさしは書いている。
いつだったか川柳大会の翌日、ホテルで朝食をとりながらむさしと話したことがある。彼は柳宗悦の民芸運動のことなどを語った。民芸にあらわれる雑器の美。そういうものと一脈通じるものがあるとすれば、たいへん彼らしい句集が出来上がったと思うのである。

2014年9月20日土曜日

湊圭史の仮説の家

9月14日、「文学フリマ大阪」に行った。
今年は「川柳カード」として出店するつもりで、参加申し込みのメールまで送ったのだが、その後もう一度返信メールするのを忘れて手続き完了に失敗した。まあいいか、というので、当日会場には行ってみたが、お目当ては吉岡太朗の第一歌集『ひだりききの機械』(短歌研究社)である。

ごみ箱に天使がまるごと捨ててありはねとからだを分別している   吉岡太朗
兄さんと製造番号二つ違い 抱かれて死ぬんだあったかいんだ
おりがみを折るしか能のないやつに足の先から折られはじめる
あじさいがまえにのめって集団で土下座をしとるようにも見える
ふいとったらそれが顔やとわかるけど問題はふきおえてからなんです
両手とも左手なのでひだりがわに立たないとあなたと手をつなげない

連作として作られているけれど、連作の枠組みを外しても共感できる歌が多い。抒情性から批評性への道筋は川柳人にも無縁ではない。「膜があんのに出てきたから聖なる御子 穴がないのにひり出されたら聖なる雲子」など、渡辺隆夫が読んだら喝采するだろう。
会場には同人誌やフリーペーパーなどいっぱい置いてあって、活字だけの誌面構成とはずいぶん違う。こちらの頭の中が変わらなければ、若い世代にも魅力的な川柳誌の実現など望むべくもない。

「井泉」59号、巻頭の招待作品は湊圭史の「仮説の家」15句である。

教科書の表紙の光沢はぬかるみ
半分にすると時計は寂しがる

ぴかぴか光る新しい教科書もぬかるんでいる。これから新しいことを学ぶ喜びのなかに、それとは相反する感情が混じっている。足をとられるような困難な感覚。
食べ物を半分に割って、分け合って食べる。二人の間には共感が生まれるが、では時間を分け合うことはできるだろうか。半分にされた人間が互いに他の半分を求め合うように、半分にされて時計は他の半分を求め合う。けれども、半分にされた時計はすでに自分の時間を刻みはじめているのだ。

ハンモックらしく二枚舌を使う
ストローの袋のような鳥のような

比喩の句が二句続く。
ハンモックは二枚舌を使うことがよくあるのだろうか。
ストローの袋のような、鳥のような存在とは何だろう。
ストローを出したあと袋はもう要らない。
ゴミ箱に捨てられるのだが、私たちはそれを意識することさえなく捨てている。
では鳥は?
鳥は飛び立ってゆくことができるのではないか。
「ストローの袋」でもあり「鳥」でもあるような存在。

和音階は蟻の耳には聞こえない

逆に言えば、蟻の耳に聴こえているのは不協和音である。
あちらこちらからノイズが聞こえ、その中で蟻は地を這っている。

目を覚ますまた揺れているフライパン
思い返してはフルートの口になる
くるぶしと買い物かごと地平線

日常性を詠んでいる。
日常性はいとおしいものであるが、退屈なものでもある。
日常性のなかにふと過去の時間が紛れ込む。そのとき人はフルートの口になる。

しりとりの終わりに「生んでくるわ」
天井に並んで生える歯がきれい
拍手した手がふっくらと焼き上がる
すこし小さい骨格標本のまえで

結婚生活の中で子どもが生まれる。
尻取りの「生んでくるわ」の前の言葉は何だったのだろう。
そして、あとの言葉は?

永遠を引っ掻いてゆくパイプ椅子
頑張るとペットボトルが立ち上がる
一人ずつ小さな靴でさようなら

「仮設の家」ではなく、「仮説の家」である。
すべては仮説なのだ。
生活・現実・日常性。そういうものの中に、別の現実や時間が重なってくる。
グッバイ・デイ。
この家は変容しながら明日も続いてゆく。
湊圭史は現代詩や俳句の世界でも活躍しているが、彼の川柳作品には今まで少しなじめない部分があった。けれども、今回の「仮説の家」15句は川柳形式と見事に親和していると思った。

2014年9月13日土曜日

『新現代川柳必携』(三省堂)

2001年に刊行された『現代川柳必携』の続編である。編者は田口麦彦。
例句はすべて入れ替えられ、5000句以上が収録されている。
アンソロジーとしても利用できて、現代川柳でどんな作品が書かれているのかを一望するのに便利である。

最初のテーマ「愛情」では「愛」「逢う」「君」「恋」などの例句が掲載されている

手も触れず桃の匂いをかぎ分ける   草地豊子
続編の月をふたりで見てしまう    澤野優美子
水牛の余波かきわけて逢いにゆく   小池正博
こいびとになってくださいますか吽  大西泰世
花びらを集めて風のトルネード    阪本高士

川柳でよく詠まれる「家族」。「兄」「弟」「姉」「妹」「親」「子」「父」「妻」などいろいろだ。

全集をそろえて兄の耳を噛む    清水かおり
連弾の姉とおとうと息合わず    木本朱夏
ばあさんに自衛の銃がある茶の間  滋野さち

川柳の句会・大会では動詞の兼題がよく出る。「急ぐ」「替える」「帰る」「覗く」「乗る」から。 

急がねば祇園精舎の鐘が鳴る       古谷恭一
チャンネルを替えると無口になった    湊圭史
正方形の家見て帰る女の子        樋口由紀子
父帰る多肉植物ぶらさげて        丸山進
裂け目から春を覗きに行ったきり     本多洋子
新型の飛行機雲に試乗せよ        高橋かづき

俳句と川柳の違いとして、季語論議がされることがあるが、本書では「季節」の項目が立てられていて、春夏秋冬、一月から十二月のほか「梅雨」「菜の花」「花冷え」「冬籠り」などが収録されている。季節を表す言葉も川柳の貴重な財産であり、俳句の季語とのニュアンスの違いを感じ取ることができる。

ファスナーの悲鳴は秋の季語ですか     丸山進
九月来る瞼のおりてくるように       八上桐子
十二月両手に残るものは何         森中恵美子

川柳の特質のひとつに批評性があるが、滋野さちはこの方面で独自の作句を続けているひとりだ。「戦争と平和」の項から。

青梅が落ちた 原発再稼働    滋野さち
殴られる前の自衛や春の雪
鉢巻をするとテロリストと呼ばれます

このように項目ごとに多様な川柳作品が収録されていて、広く目配りされたものになっている。「ササキサンを軽くあやしてから眠る」(榊陽子、杉野十佐一賞)「ふる里は戦争放棄した日本」(大久保眞澄、高田寄生木賞)などの受賞作品も見落とされていない。「震災」のテーマで200句収録されているのも、選者の見識をしめしている。現代川柳の全貌は川柳人にとっても捉えにくいものだから、本書は貴重な労作だと言えよう。項目別なので、設定された項目に当てはまる句が採用されており、それは必ずしもその川柳人の代表作とは限らないのだが、本書の性格からはやむを得ないことだろう。
巻末には編者・田口麦彦による「現代川柳のこころ」という文章が収録されている。これは昨年12月に「日本経済新聞」に連載されたもので、現代川柳を要領よく展望している。

あと、任意に印象に残った句を紹介しておく。

笹舟に揺れて東京駅に着く       重森恒雄
アドレスが変わりましたと埴輪から   いわさき楊子 
桃を突くまでは勝者のはずだった    いわさき楊子
ペルソナの中の塔みな海を向く     西田雅子
かもめ飛ぶ海辺とあの世とのあわい   悠とし子

高橋古啓の句に何句か出会ったのも懐かしいことだった。

撃たれた時の狐を見たか一行詩    高橋古啓
まぼろしか十三月へ翔ぶ兎

2014年9月5日金曜日

他人の人生につきあうということ

たまには伝統川柳の見学もしておこうと思って、8月31日(日)、「京都番傘創立85年記念川柳大会」に行ってみた。番傘の大会に参加するのは「番傘川柳本社創立85年大会」以来のことである。
「京都番傘」は昭和5年に創立され、初代会長は平賀紅寿。

碁盤目に世界の京として灯り    平賀紅寿

『柳多留』の巻頭句「五番目は同じ作でも江戸生まれ」の江戸意識に対して、京都を前面に押し出した句である。京都番傘の機関誌は『御所柳』だが、創立当初は『レフ』という誌名だったという。「一眼レフ」などというときの「レフ」である。個人的な感想だが、『レフ』という誌名を捨てたのは惜しいことである。

洛北の虫一千を聴いて寝る     岸本水府

以前からこの句は洛北のどこで作られたのか気になっていたが、森中恵美子の「京番と水府を語る」の話で、水府が戦時中、京都に疎開していたころの句であることが分かった。水府は一乗寺に疎開していたという。
ついでだが、西田当百に次の有名な句がある。

ないはずはない抽斗を持って来い  西田当百

『川柳塔』9月号(「柳多留十二篇研究」)を読んでいて、『柳多留』に「無いはづはないと跡から蔵へ行く」の句があることを知った。主人や番頭が蔵へ行くのではおもしろくない。母や女房がドラ息子または亭主が勝手に持ち出したのをとがめる句のようだ。当百は古川柳の味を受け継いでいることになる。

喜多昭夫歌集『君に聞こえないラブソングを僕はいつまでも歌っている』から。

克明にすこしみだらに原発の腸(はらわた)描かば愉しからまし    喜多昭夫
フクシマを脱出したし 原発も 原発管理人も 桃も
無花果の葉もて国会議事堂を蔽いかくせばよいではないか

二句目は塚本邦雄の有名な歌を踏まえながら、そこに「桃も」と付け足している。批評性のある歌だが、次のような多様な作品がある。

「人生は苦しい」(たけし)「人生はなんと楽しい」(永井祐)
文学フリマで出会った君をとりあえず作中主体であることにして
許されてしまうさびしさ むささびが木から木へ飛ぶとき四角なり
手まひまをかけられ育った僕たちが品川できれいな点呼をうける
金魚にはたくさん種類がありますから最寄りの駅までお越しください
番号のつけられていないどうぶつをしずかに数えるコビトカバまで
なんかこうぶっきらぼうに見えるけどかゆいところに手が届くひと
緞帳のように降りくるものがある 見えなくなるまで見るということ

「井泉」58号、島田修三が「玉城徹の歌をめぐって」を書いている。
島田は「他人の人生につきあうのは厄介でもあるし、億劫なことでもある」と断ったあとで、玉城徹の歌について次のように書いている。
「だから私は玉城徹の人生には深入りしたことがない。深入りはしなかったが、玉城の歌集を読んでいると、向こうから彼の人間や人生が湧き水のようにこちらへ侵入してくる」「歌はそこに文学的境涯のコンテクストを据えなければ、優れた個性=差異性は容易にとらえがたい文学だということだ」
有力同人をあいついで失った「井泉」だが、これからもがんばってほしい。

今年の「俳句甲子園」は開成高校が優勝した。
決勝では開成高校と洛南高校が戦った。
「船団」102号に清水憲一が「高校生と俳句」というエッセイを書いている。
清水は洛南高校俳句部の元顧問である。数学の教師であるにもかかわらず、なぜ俳句部の顧問を引き受けたのか、その経緯が語られている。
「蝶」209号にも「土佐高校俳句同好会」の「俳句甲子園全作品」が取り上げられていて、宮﨑玲奈の20句も掲載されている。
華やかな部分だけが注目され、その成果を見て安易に「同様のことを川柳でも」などと言う人がいるが、俳句甲子園の立ち上げには主催者・スタッフの並々でない努力があったうえに、その維持には若い俳句ボランティアたちの下支えが欠かせない。
すぐれた俳句表現者の系譜を若い世代が受け継いでいることがベースにあると言える。

「船団」掲載の芳賀博子のエッセイ「杉浦がいるところ」。
今回取り上げられているのは重森恒雄である。

一塁が遠くてバスを待っている    重森恒雄
フェンスまで届かぬ会心の当たり
訣別をするために打つホームラン
跳び箱を跳ぶポケットのものを出し
飛行機のかたちに折って手を放す

重森が南海ホークスのファンだとは知らなかった。
現代川柳では『新現代川柳必携』(三省堂)が出版された。そろそろ大書店の店頭に並ぶころである。本書については次回に改めて紹介する。