2012年8月31日金曜日

無理して逢えば何事もなし

川柳入門書というのではなくて、エッセイ風の文章を連ねることによって読者が自然と川柳に親しんでゆけるような川柳書がもっと出版されればよいと思っている。そのような川柳書として、今回は佐藤美文著『川柳を考察する』(新葉館)を取り上げて、書評してみたい。

本書は「風のたより―川柳の可能性を探る」「京都を川柳する」「江戸っ子二題」「戦後宰相を川柳で斬る」「川柳を遺すために」「定型のリズムは変わるか」「川柳と俳句の違い」「川柳作家論」「花吹雪 東京句碑巡り」「名句鑑賞」の10章に分かれ、川柳をめぐるさまざまな話題を平易に取り上げている。読者はどこから読みはじめてもよいし、書かれていることを契機として関心の深い問題を自分で深めてゆくこともできる。「あとがき」として「かつてはあった路地の親切」が付く。

「風のたより」は佐藤美文が発行する川柳誌「風」の巻頭言から選ばれた文章を集めている。巻頭言だから1テーマ1ページの短い文章だが、「差別語と川柳」「革新と伝統の外で」「川柳は詩であるか」「虚と実」など川柳の世界でこれまで議論されてきたテーマを含んでいる。
「清水美江先生のこと」という一文があって、佐藤美文の師について触れている。清水美江(しみず・びこう)は川柳誌「さいたま」を発行し、十四字にも力を入れていた。私は一時期「風」誌に投句していたが、それは十四字に関心があったからである。佐藤美文による本格的な清水美江論を読んでみたいものである。

「戦後宰相を川柳で切る」の章はこの筆者の得意とする分野のひとつで、時事川柳を材料にして戦後史を綴ってゆく手法をとっている。「風」誌に連載されていた「川柳が詠んできた戦後」は後に『川柳が語る激動の戦後』(新葉館)としてまとめられた。これは「読売新聞」の時事川柳欄を基にして、戦後の政治史・風俗史を綴ったものである。この試みは私も興味深いと思ったので、編著『セレクション川柳論』(邑書林)のなかに「昭和62年」の部分を収録させていただいたことがある。

もう幾つ寝ると長老風見鶏    牛夢

「川柳と俳句の違い」は俳誌「七曜」講演録(平成16年)で、俳人を前にして川柳を語ったものである。他ジャンルの方々に対して川柳のことを語るという機会は今後増えてゆくものと思われる。俳人を前にしてどのように川柳を語るのか。他人事ではなくて、一人一人の川柳人があらゆる機会をとらえて川柳を語るべきだろう。佐藤は俳句と川柳の違いにつての様々な言説を紹介したあと、川柳の歴史を通して「川柳とは何か」を説明する。
「今日の話は、川柳の歴史を通して皆さんに川柳はこういうものだということを理解していただいて、その中で皆さんの中の俳句と比較していただきたいのです。そして、その中で俳句と川柳の違いというものを、おのおのの形で自分自身で理解していただければと思っています」
常套的な説明方法ではあるが、結局、俳句と川柳の違いは歴史的にしか説明できないものであり、その上に立って現在の俳句・川柳の作品例に話が及んでゆくしかないものであろう。

「川柳作家論」では茂木かをる・佐藤正敏などを取り上げているが、私が一番関心を持ったのは「十四字作家―江川和美の世界」である。江川和美は十四字詩作家としてのペンネームで、十七字の川柳人としては小川和恵の名で知られている。「川柳研究」「さいたま」などで活躍したが、昭和50年に50歳で亡くなっている。7年余りの川柳活動であった。
彼女の十四字(七七句)を紹介する。

かくれて逢えばきつね雨降る   江川和美
言葉は要らぬ花の陽だまり
逢う日約して瞳に吸われゆく
返事を決める固い足袋履く
悪魔に貸した胸の合鍵
騙されていた日々のしあわせ
今日の素直をしげしげと見る
迫る不安がおしゃべりにする
無理して逢えば何事も無し
ゆめ売りつくしペンがささくれ

七七句における情念作家という面もあって、すべてを評価するわけではないのだが、「無理して逢えば何事もなし」は私の愛唱する句のひとつであり、十四字の歴史に残る一句であるだろう。

「名句鑑賞」には次の句が紹介されている。

落下傘白く戦場たそがれる    戸田笛二郎

戸田は落下傘部隊としてセレベス島攻略戦に参加した。
金子光晴には「落下傘」の詩があるが、空から落下していきながらとらえた戦場の風景は、川柳のとらえた戦争詠のひとつとして迫力がある。笛二郎は昭和19年に中部太平洋で戦死する。22歳。兄の雨花縷は「私が餓死したら兄さんが私の句集を作ってくれ、兄さんが戦死したら私が兄さんの句集を作る」と言った弟との約束を果たしたという。

最後に、定型について。本書には「定型のリズムは変わるか」をはじめとして定型論が見られるが、山路閑古著『古川柳』(岩波新書)に触れている部分がある。
山路閑古は川柳を阪井久良伎に学び、俳句を高浜虚子に学び、連句を根津芦丈に学んだ総合的な短詩型詩人である。
『古川柳』の序章で山路は「ふる雪の白きをみせぬ日本橋」の句(川柳)を取り上げて、次のように述べている。
「『古川柳』には無季の句が多く、よしんば雪のような季語を含んでいても、それは季題ではないから、季節の主張もせず、寒さの連想をも伴わない。このようなことを、季題の制約を受けないというのである」
そして、リズムについては次のように言う。
「リズムには、このように耳に響き、心に感じられる音楽的リズムもあるが、それとはべつに、判断に訴え、知性を振動させる、声なき声のリズムというものがある。これを『内在律』というが、『古川柳』が詩として『発句』と対抗し得るのは、こうした『内在律』の面においてである」
「内在律」は現代詩で用いられる言葉かと思うが、定型律であるはずの川柳を内在律と捉えることによって俳句との違いを説明しきれるかどうか、魅力的でもあるだけに検討を要する課題かもしれない。

2012年8月24日金曜日

暑気払いに川柳誌逍遥

今年の夏は過酷なので、過ぎ去ったときにはいかにも終わったという感じがすることだろう。そうなるまでにはまだ少し時間があるが、今週はこの夏にいただいた川柳誌について具体的に書いてみたい。

北海道の川柳誌「水脈」31号に、岡崎守が「『水脈』誌の10年」という文章を掲載している。「水脈」(編集人・浪越靖政、事務局・一戸涼子)は2002年8月に第1号が発行されたので10周年を迎えたことになる。「水脈」は「あんぐる」(1996年7月~2002年2月)の流れを汲んでいる。同誌の中心にいた飯尾麻佐子の体調不良によって終刊となったが、違った形で活動を続けようということで新誌「水脈」として出発した。それから10年が経過し、岡崎守は次のように述べている。

「1句を生み出すことによって自己を表現し、10句をまとめることによって個性が表出されていく。1年に3回で30句、10年で300句を吐き続けたことになる」
「その時の流れの中で、作品にどれだけの変化が生まれ、10年間の人生の変遷が刻まれたのであろうか」
「時の移ろいの中で変質を遂げたか否か、作品の質の向上はあったのか、などについての愚問は、各人のみが認識するのだと思う」

31号の同人作品から何句か紹介する。

さわやかな貌して眉のないさかな     新井笑葉
雲は爛れて昭和史の瓦礫         岡崎 守
別れとは縄目模様の美しさ        酒井麗水
先例にならい手首を振ることに      一戸涼子
曲がらないスプーンと長い話し合い    浪越靖政

高知の「川柳木馬」133号、清水かおりの巻頭言にも柳誌のたどってきた時間の流れに対する意識が見られる。清水はこんなふうに書いている。

「木馬83号(平成12年1月発行)の巻頭言に高橋由美が『三十も後半の私を捕まえて『若い世代』などと銘打ってくれるな』と書いてから12年が経過した。すっかりその年代を若いと言える年になった私達である。日々の生活と共に濃淡はあっても、それぞれが現在も川柳の現場に居続けるのはやはりこの短詩型の魅力に獲り付かれているからだろう」
「私達の作品はしばしば作風という言葉で評される。作風は一般に作者の個性や川柳に対する考え方、柳歴が反映されると考えられるが、柳誌という集合体でみると、何となくひと括りにされてしまいがちである」
「木馬は創刊以来、高知県では革新系の柳誌という立ち位置であった。これはあくまで高知という現場での認識であって、全国的に問えば、何をして革新誌というのか疑問に思うことの多い現在である」

柳誌に対する○○風(「木馬」風)という呼称は「ひと括りにできる退屈」にすぎないという自己批評をもっている清水は、同時に海地大破たちが創刊したこの柳誌に関わってきたことを振り返ることが「明日を書くためには必要なこと」とも述べている。

「木馬」今号に飯島章友が「前号句評」を執筆しているのが注目される。飯島は「かばん」に所属する歌人であり、川柳も書いている。彼は「短歌的喩」のことから話を始めている。
『言語にとって美とはなにか』で吉本隆明は短歌の上の句と下の句が互いに意味と像を補完し合っている構造を「短歌的喩」と呼んだ。飯島はこの「短歌的喩」が川柳の「問答構造」に似ているという。飯島はこんなふうに言う。
「筆者は、歌人や柳人との会話で幾たびか、短歌と川柳の親和性を確認しあったことがある。川柳は、表面的な文字数の形式でいえば、俳句とまったく同じである。だが発想や内容はきわめて短歌と似ている。それは〈問答〉という、両分野の構造の類似に起因するのではないか」

同号には平宗星が「川柳木馬における関西諷詠と関東諷詠」を掲載している。平によれば、
「関東諷詠」は江戸の古川柳の伝統を受け継ぎ、「意外性」を重んじ、奇想天外なイメージを好み、独自のメタファーを尊重する。一方、「関西諷詠」は作者の心情を重んじ、私小説的な「物語性」を尊重するという。そして、「関東諷詠」を代表するのが中村冨二、「関西諷詠」を代表するのが定金冬二だと言うのである。
私は冨二・冬二をもって関東・関西を一般化するのはどうかと思うし、川柳の書き方の二つの方向性を関西・関東という地域性に解消してしまうことには更に疑問を感じてしまう。

ここで「川柳木馬」の作品を挙げておこう。

仁淀川産アユと交換する今日一日     内田万貴
肝煎りのいない月夜の集会所       河添一葉
空間のゆがみを通り蟹は来る       小野善江
羽の一枚一枚にルビをふる        山下和代
私信から出た青鷺のうすねむり      清水かおり
ついたての向こうに君の綺麗な句読点   高橋由美
尾行者のズボンびっしり藪虱       古谷恭一

青森の柳誌「おかじょうき」7月号は「川柳ステーション」の掲載号である。
発行人・むさしは次のように書いている。
「川柳ステーション2012をどうやら終えることができました。今、青森県内の川柳社で自らの主催する大会に県外から選者を招いているのは当方だけのようです。ましてや、トークセッションもやっているなんて話は聞いたことがありません。句会だけの大会でも大変なのに何でそんなことをするのだろうと言う方がいてもおかしくないのですが、それをやるからこそおかじょうき川柳社なのだと思っています」
6月2日に開催された「川柳ステーション2012」トークセッションのテーマは「理系川柳と文系川柳」で、パネリストはなかはられいこ・瀧村小奈生・矢本大雪、司会はSinである。「文系川柳」「理系川柳」とは聞き慣れない言葉であるが、なかはられいこは「方程式のように別の言葉を入れ替えてみたくなる」のが理系川柳だと言い、矢本大雪は「理系川柳は理性に、文系川柳は感性に訴えるもの」と述べている。
う~ん、この分類はどこまで有効だろうか。例に挙げられている作品を見てもどちらとも言えない、あるいはどちらとも受け取れる句が並んでいる。むしろ、暫定的に分類しておいた上で、矢本が言うように「理系だ文系だと分類は殆ど出来ない状況にある」というあたりが落としどころのようだ。

「川柳ステーション」の句会からは、次の二句をご紹介。

象の鼻が結果ばかりを聞きにくる     熊谷冬鼓
Re:Re:Re:Re:Re:胸には刃物らしきもの   守田啓子

「象の鼻」の句は「伸」という題、「Re」は「再」という題である。
川柳誌というより句会報から印象に残った作品を挙げてみたい。まず、「大山滝句座会報」150号から。鳥取県の大山滝(だいせんたき)は日本の滝百選にも選ばれている。誌名はそこからとられているが、この号では誌上大会の結果を掲載している。

水掻きも夢もあるのに沖がない     森田律子
出直してみても大きな鼻である     金築雨学
腹筋か木綿豆腐か押してみる      石橋芳山

7月1日の「玉野市民川柳大会」句会報から。

想い馳せると右頬にインカ文字     内田万貴
嵩ばらぬものを握らす歩道橋      江尻容子
一万個に分けても富士は立っている   森茂俊
とんと揺すってもう二・三人入れる   内田万貴
豆腐の口角に陽動作戦         蟹口和枝

大会や誌上大会を行うことによって選ばれた作品を発表誌のかたちでまとめる。それが一種のアンソロジーとなる。句集形態のアンソロジーが少ない川柳界で、それがすぐれた作品にであうための近道なのだろう。
あと、評価の定まった作品が川柳誌のなかで取り上げられることがある。「川柳びわこ」8月号の「句集紹介」には八木千代の句集『椿抄』が掲載されている。

潮騒を連れてこの世の月が出る     八木千代
とりあえず門のかたちに石二つ
書きすぎぬように大事なひとに書く
今折ったばかりの鶴が翔んでゆく
触れられたことではじまる桃の傷
稜線で逢うお互いの馬連れて
見送っていただけるなら萩の道
どの井戸も底があるので救われる
錯覚の場所を何度も掃きにいく
まだ言えないが蛍の宿はつきとめた

八木千代は「川柳塔」同人で米子市在住。『椿抄』は1999年の句集『椿守』をベースに今年上梓された句集。時の流れに淘汰される中で残った作品にはやはり力がある。
この夏ももうすぐ過ぎ去るだろう。冷厳な時間法則の中で過ぎ去るものは過ぎ去り残るものは残ってゆく。川柳も同じである。

2012年8月17日金曜日

ドイツで川柳について考える

8月7日付の朝日新聞夕刊に「ハンブルク・バレエ週間」についての記事があり、その中に「RENKU」という文字を発見してあっと驚いた。「RENKU」は即ち「連句」である。私はバレエについては無知であるが、振付家ジョン・ノイマイヤーが芸術監督を務めるハンブルク・バレエにはファンが多いらしい。6月17日から7月1日まで開催されたバレエ週間は、このバレエ団の最大の催しだという。14公演の演目のうち、初日に演じられた「RENKU」は日本の大石裕香とドイツのオーカン・ダンの振り付けによる。
バレエにおいて短いパートをつなぎながら連句的世界を創ってゆくという構想は、ノイマイヤーがモーリス・ベジャールとかねてから話し合っていたプランだった。ベジャール亡きあと、ノイマイヤーは大石とダンの二人の若手にこの試みを託したのである。
大石裕香は大阪出身のダンサーで、今回自らは踊らず、振付に回ったようだ。舞台はシューベルトの「死と乙女」を軸に展開する。Linked Poetryとしての連句精神が国際的な普遍性をもっていることのひとつの証しである。

国学院大学主催の万葉集・夏期講座が大阪天満宮で開催されて、一時期よく聴講に行った。今でもあるのかどうか分からないが、万葉集や記紀神話、折口信夫などについて学ぶところが多かった。あるとき、講師の岡野弘彦が「自分は毎年ヨーロッパへ出かけ、外国で短歌のことばかりを考えている」と語った。まだ若かった私は「短歌を考えるのなら日本で考えたらいいじゃないか、なんでわざわざ外国へ行く必要があるんだろう」と思ったものだった。岡野が言っていたことが今にしてよく分かる。外国へ行くと日本のことが見えてくるのだ。

斎藤茂吉は大正10年から大正13年まで滞欧生活を送っている。「斎藤茂吉選集」(岩波書店)の第9巻は「滞欧随筆」として、茂吉のヨーロッパ滞在中の動静を記した随筆がまとめられている。特に短歌が論じられているわけでもないが、この時、茂吉は日本を外から眺め、短歌についても考えを深めたことだろう。
「滞欧随筆」のうち有名な「ドナウ源流行」の冒頭を引用してみよう。

「この息もつかず流れてゐる大河は、どの辺から出て来てゐるだらうかと思つたことがある。維也納(ウインナ)生れの碧眼の処女とふたりで旅をして、ふたりして此の大河の流を見てゐた時である。それは晩春の午後であつた。それから或る時は、この河の漫々たる濁流が国土を浸して、汎濫域の境線をも突破しようとしてゐる勢を見に行つたことがある。それは初冬の午後であっただらうか。そのころ活動写真でもその実写があつて、濁流に流されて漂ひ着いた馬の死骸に人だかりのしてゐるところなども見せた。その時も、この大河の源流は何処だろうかと僕は思つたのであつた」

こうして茂吉はドナウの源流を求めて復活祭の休みにミュンヘンを出発するのである。

今夏、スイス・ドイツを旅行した。ハンブルクでバレエを見、茂吉のようにドナウ河の源流を訪ねたと言えば話の辻褄は合うが、そんなこともなくただ漫然と観光したばかりである。けれども、思考の流れは自然と川柳のことに向かっていった。もちろん、ヨーロッパには表面的には川柳の影も形もない。私たちが極東で日夜腐心している川柳という文芸は実に小さな形式に見えてくるのである。だが、川柳精神という意味ではヨーロッパのあれこれの文学作品と通底するものがぼんやりと見えてくる。

私も人並みにライン河下りの観光船に乗ってローレライの岩などを見た。船上にはハイネのローレライの歌まで流れていたが、学生時代には暗誦できたローレライの歌詞がもはやおぼろげになっているのに呆然とするのだった。ハイネは詩集『歌の本』の抒情詩人として知られているが、『アッタ・トロル』『ドイツ冬物語』などの長編諷刺詩を書いていて、きわめて政治的・諷刺的な詩人である。翻訳では分かりにくいが、たとえば『アッタ・トロル』におけるゲーテ批判はこんな調子である。

行列の中には、思想界の
大家たちが大勢いた。
われらのゲーテはすぐわかった。
あの目の明るい輝きを見て―

ゲーテはヘングステンベルクに酷評されて
墓の中にじっとしていられず、
異教の輩と一緒になって、いまも
生の狩猟を楽しみ続けているのだ。(『アッタ・トロル』第18章)

ヘングステンベルクという男が一連のゲーテ批判の文章(特に『親和力』に対する道徳的批判)を書いた。死せるゲーテは墓の中にじっとしていられなくなって現世にさまよい出てきたのだ。ハイネは批判者に同調しているのではない。彼の諷刺と嘲弄はヘングステンベルクとゲーテの二方向に向けられている。もちろんゲーテの方が偉大なのである。
ロマン派のイロニーは常に空想の世界と現実の世界との落差から生まれる。ローレライの夢の世界からだけ出来ているわけではない。

連句のエッセンスであるイメージの連鎖はエズラ・パウンドのイマジズムなどに影響を与え、冒頭で紹介した現代バレエにまで及んでいる。それでは川柳という文芸のエッセンスは何であろうか。おおかたの日本人が駄洒落で下品なものと受け止めている川柳ではなくて、世界文学の場に出したときにも通用する川柳の普遍性というものがあるかどうかということである。もしあるとしたら、たぶん、それは「批評性」であり、もう少し拡げていうと「批評的ポエジー」だろう。
ドイツを旅していて、常に思い出していたのはトーマス・マンのことである。トーマス・マンの文学の本質はイロニーにあり、彼の作品の多くはパロディである。ゲーテは別格としてハイネ・ニーチェ・マンなどのドイツ精神の中には批評的ポエジーが流れている。「形式としての川柳」ではなくて「川柳の精神」というようなものを考えないと、川柳は実に小さな文芸に終始してしまうことになる。

ノイシュバーンシュタイン城は観光客で溢れていた。ヴィスコンティの映画でも有名なルートヴィッヒ二世が18歳で王になったとき、最初に命令したのはヴァーグナーを自分のもとへ連れてくることだったという。彼はヴァーグナーに傾倒していたのだ。彼にとって城の建設は権力の象徴などではなくて、理想の芸術空間の実現だった。
地位も財力もない私たちは言葉によって自分の世界を構築するしかないのである。

2012年8月3日金曜日

佐々馬骨という川柳人

佐々馬骨が関西の川柳界に現れたのは2011年7月の「川柳・北田辺」(くんじろう主宰・大阪市東住吉区)の句会が最初であった。
このときの句会では席題・兼題のほかに「川柳相撲」が行われた。ジャンケンで東西に分かれ、先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の五名を選抜、対戦直前に発表された題について三分以内に作句する。勝敗は対戦選手以外の参加者の挙手で決めるというものである。
馬骨は東方の先鋒として登場し、西方の先鋒・次鋒・中堅・副将の四人を次々に打ち破ったのであった。相手の大将には惜しくも敗れたが、馬骨の才気は参加者に強烈な印象を残した。ちなみに、このときの彼の句は次のようなものである。

オーバー追いかけすぎて追い越した恋   席題「オーバー」
クロネコヤマトがクロネコヤマト撫でる  席題「撫でる」
何者だ黄色い谷の男と女         席題「谷」
合鍵がメーター持って帰ったよ      席題「メーター」
芸名はカラオケ一曲200円        席題「名前」

翌月の8月、馬骨は京都の川柳句会「ふらすこてん」に姿を見せた。そのときの彼の句を挙げておく。

ナガサキはだいぶ先です牛屈む     席題「屈む」
ヒロシマを通りすぎては犬屈む
アスファルトのため息あたりめを裂く  兼題「裂く」
鵜飼の鵜さらに人の指はきだす     兼題「さらに」

その後、馬骨は「北田辺」「ふらすこてん」の両句会で、川柳を作り続けた。「北田辺」の句会に馬骨はいつも酒壜を持参してきた。彼自身は体調が悪くてあまり飲めなかったが、参加者にふるまっては談笑するのだった。この句会が気に入っていたのだろう。
川柳人として活動したのは約半年、次のような作品を書いている。

ルービックキューブの一室秘密基地
むかしむかしスリッパの宇宙船があった
とさかの青い鶏がいて仏門に入る
図鑑から鳥の目族が攻めてくる
鳩の糞が等高線に落ちてきた
日曜大工で納棺を作った
森にいるうしろの正面はダリ君だ
変なかけら親指と親指のあいだ
60と70が並ぶ嘘みたいに
透明な老人集う海の底
ほろほろと身軽足軽近江の出
上空にUFO竹槍を持て
世の中は底辺×高さ÷欲
深海魚新年会のあと冬眠す

「深海魚」の句は2012年1月7日の「ふらすこてん」句会での作品。とても体調が悪そうに見えた。これを最後に彼の姿は句会では見られなくなり、2012年6月7日に帰らぬ人となった。1954年生まれだから、享年58歳だろうか。部屋のカレンダーには6月24日のところに「北田辺句会」と書かれていたという。

佐々馬骨は佐々木秀昭という名の俳人であった。
出発は短歌で、塚本邦雄の門下としてスタートしたと聞いている。20年ほど短歌を書いていたようだが、俳句に転じた。佐々木秀昭句集『隕石抄』(2008年・霧工房)には次のように書かれている。

「思へば二十年ほど前から短歌を始めた私でしたがいつの頃からか自分の体内に流れる韻律は俳句であるやうな気がしてきました。手元にある記録からですと1989年5月に自分の意志で句を初めて作つたとあります。以来沢山の句会や同人誌に参加させてい ただきました」(あとがき)

美しきサイコロほどの火事ひとつ

『隕石抄』の巻頭句である。「美しきサイコロ」が喩となって「火事」に結びついていく。短歌的喩とも見えるが、五七五定型のなかに言葉が美しくおさまっている。「美しく」からはじまりながら「火事」にゆきつくところに作者の性向がうかがえる。

その辻を曲がれば梅か不幸せ

『隕石抄』の代表句と私は思っている。
辻を曲がるまで何があるか分からない。香がしているから梅だと予測できるが、ひょっとすると不幸の匂いかも知れない。ここにも作者の気分が反映されている。

句納めに思ひ出されるトニー谷
呼べば咲くねぢ式である白牡丹
七月の深爪をする家系かな
思ふ。丸、三角、死角、夏の宵
炎帝に憑りつかれゆく馬の骨
九月尽箱も爆発したいだらう
虫売りの父が呼びこむ美少年

暗い作品ばかりというわけではなく、諧謔があったり耽美的であったりもする。日常世界の背後にあるものを見る目が川柳眼とも通じるところがあって、晩年の彼は川柳にはまっていったのだろう。
俳句仲間と連句を巻くこともあったらしく、昨年の「第五回浪速の芭蕉祭」の応募作品にも連衆のひとりとして名を連ねている。入選はしなかったが、歌仙の表六句を紹介する。

白昼やふつと消えたる蓮見舟     雲水
 つぎつぎに葉を返す南風       令
杜の国ひとまたぎする夢を見て    馬骨
 練り歯磨きを絞り出す指      雲水
月光に翁面なる舞ひ人は        令
 漂白の果て二学期始まる      馬骨

『隕石抄』に戻ると…

隕石の中に淡雪眠りたる

彼が偏愛した隕石のイメージである。
私は井上靖の詩集『北国』に収録されている散文詩「流星」を思い出す。長くなるが引用しておきたい。

高等学校の学生ころ、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たはつて、星の流れるのを見たことがある。十一月の凍つた星座から、一条の青光をひらめかし忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかつた。私はいつまでも砂丘の上に横たはつてゐた。自分こそやがて落ちてくるその星を己が額に受けとめる地上におけるただ一人の人間であることを、私はいささかも疑はなかつた。
それから今日までに十数年の歳月がたつた。今宵、この国の多恨なる青春の亡骸―鉄屑と瓦礫の荒涼たる都会の風景の上に、長く尾をひいて疾走する一箇の星を見た。眼をとぢ瓦礫を枕にしている私の額には、もはや何ものも落ちてこようとは思はれなかつた。その一瞬の小さい祭典の無縁さ。戦乱荒亡の中に喪失した己が青春に似てその星の行方は知るべくもない。ただ、いつまでも私の瞼から消えないものは、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星といふものの終焉のおどろくべき清潔さだけであった。

佐々馬骨はそのような流星として私の記憶の中で生き続けることになるだろう。


(来週は夏休みをいただいて休載します。次回は8月17日にお目にかかります。)