2018年1月27日土曜日

「川柳スパイラル」京都句会と文フリ京都

1月19日 
国立文楽劇場で文楽初春公演を見る。
八代目竹本綱太夫五十回忌追善と六代目竹本織太夫襲名披露を兼ねた公演である。
竹本咲甫太夫を改め、竹本織太夫となる、その襲名口上は師匠の咲太夫がつとめた。歌舞伎では口上を本人もいうが、文楽では本人は黙って礼をしているだけである。
新・織太夫の演目は「摂州合邦辻」。
玉手御前が義理の息子である俊徳丸に恋をする。このテーマはフランス古典劇のラシーヌ「フェードル」とよく比べられる。
玉手御前の変相。親を訪ねてゆく娘としての玉手御前、恋に狂乱する女としての玉手御前、本心を明かしたあとの母としての玉手御前。彼女の三変が見どころ、聴きどころである。
文楽を見た後、梅田蔦屋書店、スタンダードブックストア心斎橋、葉ね文庫の三軒の書店を回る。蔦屋書店では置いてある川柳本を確認。スタンダードブックストアは先日『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(木下龍也・岡野大嗣)のトークがあった店。短歌のフェアもやっている。この歌集は重版出来になったそうで、短歌に関心が集まり、あわせて他の歌集も売れるといいなと思う。川柳にも注目が集まるともっと嬉しい。
瀬戸夏子がツイッターで「葉ね文庫さん、わたしが知ってる空間のなかでいちばん近いのは自分が在籍していたころの早稲田短歌会の部室かもなあ、と思い、なつかしくなりました」と書いている。本があって、やってきた人が本についての話ができる空間は貴重だ。

1月20日
「川柳スパイラル」京都句会を開催。
創刊号の合評会を兼ねた句会で、昨年12月に東京で開いたが、関西句会は京都でおこなうということになった。中京区上妙覚寺町にある町屋を会場に借りたので、ふだんとは異なる雰囲気が味わえたのではないかと思う。近くには京都国際漫画ミュージアムもある。
高知から「川柳木馬」の清水かおりを招いて、お話をうかがった。
海地大破の話からはじめる。清水にはあらかじめ大破さんの五句選をしてきてもらう。

階段を降りてさすらう鰯かな
雨だれをじっと見ている脳軟化
はらわたで拍子木が鳴るさむい一日
妻は他人で虹の真下の遺書を書く
満月の猫はひらりとあの世まで

大破の作品がルサンチマンや病涯句という図式からはみ出すものを持っていること、「死」のテーマに関して石部明と比べることで両者の作品に新たな光を当てることができるのではないか、など新たな発見があった。このときの対談内容は「川柳スパイラル」第2号に掲載する予定。
対談のあと創刊号の合評会。同人作品と会員の出席者の作品を中心に話し合う。
休憩をはさんで句会。句会の速報は「川柳スパイラル」掲示板に掲載してある。
終了後、近くの居酒屋で懇親会。
東京句会と京都句会では参加者も異なり、同じ内容の繰り返しにならなかったので、今後も東京と関西の両方で句会を続けてゆきたい。次回の東京句会は5月5日(「文フリ東京」の前日)「北とぴあ」で開催の予定。

1月21日
「第二回文フリ京都」に、「川柳スパイラル」として出店した。
「川柳スパイラル」のほか、清水かおりにもって来てもらった「川柳木馬」のバックナンバーも並べた。
この日は午後から京都で連句会があり、連句人が数人、午前中に来てくれた。
あと、ブースに立ち寄った未知の方々と川柳の話をしたが、短詩型文学に興味をもつ人であっても川柳のことはあまり知られていないということを改めて感じた。
「庫内灯」3号を購入。
「現代詩手帖」1月号の俳句時評で外山一機が触れていたので、読みたいと思っていた冊子である。特に読みたかったのは正井となかやまなな(中山奈々)の文章。
「私とBLと俳句と短歌」で正井はこんなふうに書いている。

〈 対話を求める方に対しては、真摯に応えたいと思います。しかし、自らが評価する側にいると信じて疑わない人の言う、「なぜBLか、必然性はあるのか」という要請に答える義務はないと私は思います。なぜなら、BL短歌やBL俳句、あるいはBLは、評価したい側のためのものではないからです 〉

正井がこのように書くのは、私にもよくわかるような気がする。現代川柳もまた俳句や短歌から説明を求められ続けてきたからだ。
正井とは読書会「昭和俳句なう」でいっしょになったことがあるし、文フリでも何度か顔をあわせたことがあるが、「庫内灯」3号はBLというものがどういうものか知りたい人には必読の一冊だと思う。

2018年1月12日金曜日

川柳を売るということ―文フリ京都をひかえて

年末年始、ケーブルテレビでドラマの再放送を何本か見たが、その中で「重版出来」がおもしろかった。黒木華が演じる新米社員がコミックの出版社の編集部に配属され、漫画家の担当になったり書店を回ったりする。元気な彼女に影響されて、「幽霊」というあだ名のやる気のない営業担当が本気になってゆく話など、夢物語だと思いつつ引き込まれるところがあった。よい作品が必ず売れるとは限らないが、編集者と営業と書店の店員が連携すれば、本は読者に届くというのである。「重版出来(じゅうはんしゅったい)」というのは売り上げが伸びた本の再版が决まることを言うらしい。逆に、売れ残った本が工場で裁断されてゆく場面もあった。

従来、川柳の同人誌は販売ということを考えていなかった。
同人は同人費を払って作品を掲載してもらい、掲載誌を受け取って満足するというシステムで、一般読者に読んでもらう機会というのは少ない。購読者は「誌友」と呼ばれて、会費を払うことでその同人誌を支援するのである。雑誌経営はおおむね赤字である。
純粋読者が存在しないから、作品は他者としての読者が読むのではなく、作者自身や周囲の川柳人がおもしろいと思うような作品であれば良いのである。
柳誌を販売しようとすれば、ます一般読者が読んでもおもしろいような作品と文章を掲載する必要がある。販売できるだけの内実が必要となるのだ。
結局、どのような読者を想定して柳誌を発行するかという問題で、同人・会員を主とするか、川柳や短詩型文学に関心をもつ一般読者をターゲットとするか、両者を折衷した中間的な川柳誌とするかの選択を迫られる。もし、売ることだけを目的とすれば、大衆的な川柳誌になる。
以前、若手の歌人だったか俳人だったかが、「私の書くものは作品であると同時に商品だ」というようなことを書いているのを読んで、反発を感じたことがあるが、それはそれでひとつの覚悟を示していたのだろう。

句集の場合はどうかというと、贈呈が中心であり、不特定多数の読者が書店で川柳句集を買うというルートはほぼ存在しない。
まず、句集を発行するところにハードルがあって、かつては短歌・俳句なら出すが川柳句集は出さないという出版社が多かった。現在は川柳句集を発行する出版社も少数ながら存在するのでありがたい。
主な川柳本を紹介しておくと―
川柳アンソロジーとして『現代川柳の精鋭たち』(北宋社・2000年)が便利だったが、この出版社はもう存在しない。句集シリーズとしては邑書林の「セレクション柳人」(全20巻・ただし一部未刊)が比較的手に入りやすい。別冊として『セレクション柳人』も発行されていて、現代川柳論に興味のある方は読んでいただきたい。あと、「あざみエージェント」が川柳句集を出しており、左右社から「かもめ舎川柳新書」、東奥日報社から「東奥文芸叢書・川柳」が出ている。飯塚書店からは田口麦彦の『フォト川柳への誘い』『アート川柳への誘い』『スポーツ川柳』など。川柳ハンドブックとしては『現代川柳ハンドブック』(雄山閣)、事典としては『川柳総合大事典』(雄山閣、ただし4巻のうち2巻のみ出版)がある。あと、三省堂から『新現代川柳必携』『現代川柳鑑賞事典』『現代川柳女流鑑賞事典』が出ている。
手に入りやすいのは、『15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房)で、この本の川柳の部分からおもしろいと思った川柳人の他の作品へと関心を広げてゆくのがよいと思う。
このように川柳関係の書籍は絶無ではないが手に入りにくいので、過去の資料を調べようとすれば国会図書館や関西では大阪市立中央図書館へ行くしかない。岩手県北上市の現代詩歌文学館にも川柳資料がある。

川柳を売るということに話を戻すと、書店を通じた流通があまり期待できない現状では、「文学フリマ」などで直接販売するのもひとつの方法である。1月21日の「第二回文フリ京都」には「川柳スパイラル」として出店するが、これは「川柳界から唯一の出店」である(このフレーズは毎回繰り返しているが、状況は変わらない)。なぜ川柳の出店が他にないかというと、高齢化している川柳人は若い人々が多く集まる文フリの存在を知らないか、知っていても関心がないからである。出店してもあまり売れないので、文フリに出店するくらいなら大規模な川柳大会で本を直接販売した方が目先の効率はよいということになる。
では川柳のフリマに特化して実施すればいいのではないか。そう思って、私は2015年・2016年に「川柳フリマ」を二回実施した。川柳本を出版している数社の協力をえ、ゲストに歌人を招いて対談も行い、川柳人以外にも関心がもてるようなイベントになるよう心がけた。ある程度の人数が集まり、本も少しは売れたのだが、出店料を抑え出店数もそれほど多くなかったので会計的に黒字にはならなかった。慈善事業では続けることができない。
今回の文フリ京都では「川柳スパイラル」創刊号や『川柳サイドSpiral Wave』『水牛の余波』などの川柳句集、川柳誌のバックナンバー、「タナトス」などのフリーペーパーを並べる。2ブース借りているので、川柳資料(非売品)も若干展示するスペースがある。私は連句人でもあり、『浪速の芭蕉祭・入選作品集』などの連句冊子も置く予定。「川柳と連句の店」の看板を掲げようと思っている。
本が売れなくても(売れればもちろん嬉しいが)、来場の方々には川柳の話をしに気軽にブースに来ていただきたい。

最後に、冒頭に書いたような本屋さんとの連繋について。「重版出来」は夢物語だが、最近では川柳に対して好意的な本屋さんもあるので、ルートを拡げる努力はしてゆきたい。
これまで川柳の流通は「投壜通信」のイメージで、孤島から壜に入れた手紙を流すようなものだったが、近ごろようやく普通郵便程度のイメージがもてるようになった気がする。

2018年1月5日金曜日

「玄関の覗き穴」と「母性のディストピア」

年末年始は「逃げ恥」の再放送や高麗屋三代襲名のテレビを見ていて、あまり本や雑誌を読めなかったが、管見に入ったあれこれを書き留めておきたい。

木下龍也と岡野大嗣の歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(ナナロク社)のサイン会、あちこちで開催されているようだが、12月29日の葉ね文庫の会に行ってみた。岡野には2016年7月に飯田良祐句集『実朝の首』を読む会にゲストとして来てもらったことがある。
午後7時過ぎに行くと、すでに葉ね文庫はサインをしてもらいに来た人々でいっぱいだった。二人の歌人の人気おそるべし。
歌集は「男子高校生ふたりの七日間をふたりの歌人が短歌で描いた物語、217首のミステリー」という設定で、7/1から7/6までの日付別になっている。二人が交互に詠んでいる章、木下だけの章、岡野だけの章など変化をもたせている。作者がある人物を借りて詠む「成り代わり」の歌は前衛短歌以後ときどき見かけるが、男女の相聞ではなくて、高校生ふたりの成り代わりというのは新鮮な気がした。物語性もあり、7/1・7/2・7/3・7/4と時間の順に進んだあと7/7が挿入され、遡行して7/5・7/6になって終わるという構成になっている。7/7に何かの出来事があったことが暗示されている。
おもしろい歌が多かったが、二首ずつ紹介しておく。

消しゴムにきみの名を書く(ミニチュアの墓石のようだ)ぼくの名も書く 木下龍也
まだ味があるのにガムを吐かされてくちびるを奪われた風の日

目のまえを過ぎゆく人のそれぞれに続きがあることのおそろしさ    岡野大嗣
近づいて来ているように見えていた人が離れていく人だった

私も列に並んで岡野と木下にサインをしてもらったが、岡野が飯田良祐のことを話してくれたのが嬉しかった。岡野がサインしてくれた短歌と飯田良祐の川柳を並べて書いておきたい。

倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使   岡野大嗣
天国へいいえ二階へ行くのです               飯田良祐

「現代詩手帖」1月号、短歌時評は瀬戸夏子、俳句時評が外山一機の担当になった。
この二人の時評を同時に読めるとは贅沢なことである。
瀬戸の時評は木下龍也の短歌を取り上げている。木下は「あなたのための短歌」ということで、短歌の販売をしている。依頼があれば依頼者ひとりのために短歌をつくって送るというやり方である。時評では瀬戸が木下に依頼した短歌が紹介されている。短歌総合誌を取り上げるのではなく、こういうところから時評をはじめるのはいかにも瀬戸夏子らしい。
外山の俳句時評はBL俳句誌「庫内灯」3号を取り上げている。BL読み・百合読みについては語られることが多くなったが、外山が特に注目したのは中山奈々の文章である。中山は「百鳥」「里」の若手俳人で、昨年話題になった「早稲田文学・女性号」にも作品を発表している。「庫内灯」3号は1月21日の「文フリ京都」でも出店・販売されるはずである。
瀬戸も外山も昨年は角川の「短歌」「俳句」で時評を担当したが、今年は「現代詩手帖」という媒体で、狭い意味での歌壇・俳壇の枠を超えたところで書いている。これからも時評が楽しみだ。

年末年始は宇野常寛の『母性のディストピア』(集英社)を読んでいた。
宮崎駿・富野由悠季・押井守などについてのアニメ論が中心だが、ベースにあるのは「政治と文学」である。
「政治と文学」論や江藤淳の『成熟と喪失』は私にもなじみがある。個々のアニメについてはあまり見ていないので理解できない部分もあったが、ロボット・アニメの歴史や「海のトリトン」の後味の悪い最終回のこと、いまよく使われる「黒歴史」という言葉の由来など、いろいろ分かった。
本書の前提となるのは「虚構=仮想現実の時代」から「拡張現実の時代」へという時代認識である。

「グローバル/情報化が進行した今日において機能している反現実は、現実の一部を虚構化することで拡張するいわば〈拡張現実〉的な虚構だ」

インターネットは現実と切断された仮想現実を構築するものでも、複雑な現実を整理統合するものでもなく、モノと人を虚構を経由することなく直接つなぐものであり、虚構ではなく現実と結託するものだと宇野は言う。虚構と現実の関係は決定的に変化したのであり、「あらゆる虚構が現実から独立し得なくなったいま、批判力のある虚構はどうあるべきか」というのが彼の問題意識である。

最後に畏友・野口裕の第一句集『のほほんと』(まろうど社)を紹介しておきたい。
野口とは2006年から2011年まで「五七五定型」という二人誌をいっしょに出していて、俳句・川柳という分け方ではなく、「五七五定型」という視点から何ができるかという発想で5号まで発行した。野口は「俳人」と呼ばれることを嫌う。私は野口のことはよく知っていると思っていたが、句集では私の知らない彼の作品も多く、おもしろく読んだ。

蒼白と塗られ一つ目の木が燃える     野口裕
飛ぶ蝉が緑陰の葉に突き当たる
生きものよ鏡の向こう こちら側
川に聞く泡のまわりは水なのか
マスクして動物臭をたしかめる
空蝉に蝉が入ってゆくところ

表紙絵は彼の子息・野口毅によるもの。前述の「五七五定型」5号の表紙にも同じ絵が使われている。