2018年2月25日日曜日

京都の柳社と柳誌 ―「川柳大文字」

京都番傘の藤本秋声が編集・発行している「川柳大文字」がおもしろい。平成27年7月創刊。16ページほどの小冊子だが、月によって増ページになることもある。たとえば今年1月号は墨作二郎をとりあげて40ページに増大。月刊、今年2月で32号になる。
今まで何号か読んだことはあるが、このたび藤本秋声からバックナンバーをいただいて、創刊号から読むことができた。特に興味深いのは「京都川柳の歴史」の掘り起こしの仕事である。ちなみにタイトルの「川柳大文字」は大正7年に京都川柳社によって創刊され、大正10年40号で廃刊したものを踏襲している。
京都の川柳史については、平安川柳社以後のことは何となく見当がつくが、それ以前のことは知るのがむつかしい。私は戦前の京都における自由律川柳の雑誌「川柳ビル」に興味があって、いちど堀豊次にバックナンバーがあるか尋ねたことがあるが、一冊も残っていないという返事だった。この「川柳大文字」を読むと、戦前の京都の川柳界について貴重な情報を得ることができる。
たとえば、「京都の柳社と柳誌(4)」(第27号)には次のように書かれている。

「昭和初期、京都の川柳界に三つの流れが出来る。一は、伝統の京都川柳社。二は、平賀紅寿の京都番傘。三は川柳街社。
川柳街が京都第三の勢力になったのは昭和7年ごろである。それまでの間に、数社の柳社と合併したからであった。
『野菊』『川柳タイムス』『紙魚』『木馬』で、吉田緑朗、村岸清堂、齋藤松窓、大島無冠王、川井瞬二、宮田甫三、宮田豊次らを加えて『川柳街』は大きく発展した。以前の布部幸男独りの川柳街に対して、新たに生まれ変わったとして、「更生川柳街」と称した」

京都川柳社、京都番傘、川柳街社の三派鼎立。
京都川柳社は大正3年創立。柳誌「ぎおん」「大文字」のあと大正14年「京」を創刊。
京都番傘は吉田緑朗の葵川柳会に平賀紅寿が加わり、番傘川柳社と合併して昭和5年に誕生。句会報は最初「レフ」だったが、昭和7年に「御所柳」として創刊号を発行した。
一方、「葵」にいた吉田禄朗と村岸清堂は「京都番傘」に参加せずに「川柳タイムス」を創刊し、やがて「川柳街」と合併してゆく。
「木馬」は昭和5年、川井瞬二・大島黄子朗によって創刊。川井は京都川柳界における革新のエースだった人らしいが、昭和8年、29歳で早世する。
「川柳街」は昭和2年、布引幸夫らによって創刊。昭和7年に「川柳街」以外の数誌と合併して更生「川柳街」となる。
伝統系の「京」と新しい川柳をめざす「川柳街」が昭和初期の京都川柳界をリードしていたようだ。
昭和10年、宮田甫三・宮田豊次・大島無冠王らは「川柳ビル」を発刊。たぶん戦前の京都で最も前衛的な川柳誌だっただろうと思われる。

「川柳大文字」に掲載されている藤本秋声の「京都の川柳家列伝」「京都の柳社と柳誌」は京都川柳史を掘り起こした労作である。私が不勉強で知らないことがたくさんあった。特に印象的だったのは、川井瞬二のことである。「川柳大文字」23号(平成29年5月)から彼の作品を紹介しておく。

口笛にふと寂しさが吹けてゐる  川井瞬二
断髪のある日時計が動かない
壁にゐる俺はやつぱり一人かな
時計屋の十二時一時九時六時
戦争の悲惨さを知り恋を知り
恋人の背中をたたけば痩せてゐる五月
蜥蜴颯つと背筋に白い六月よ

川上三太郎の弟子で早世した田中幻樹のことを連想する。
離合集散をくりかえす結社と川柳誌の背後に、無名性のなかで作句を続ける川柳人の姿が立ち上がってくる。
昭和32年2月、京都の川柳結社を統一して「平安川柳社」が創立される。それ以後の京都の川柳史は比較的知られている。

2018年2月16日金曜日

二冊の句集―浪越靖政と猫田千恵子

新葉館出版から川柳作家ベストコレクションというシリーズが発行されている。本日はその中から浪越靖政と猫田千恵子の二冊の句集を紹介したい。

浪越靖政は北海道・江別市在住の川柳人。北海道は大正末年に田中五呂八が小樽で新興川柳運動を起こして以来、独自の風土と歴史をもっている。関西にいると北海道の川柳界のことはよく分からないが、浪越の編集する「水脈」を通じて様子が伝わってくる。
たとえば、「水脈」47号(2017年12月)には次のような作品が掲載されている。

足りないものばかり探している鎖骨   酒井麗水
胸像のあるヘヤ酸欠の思考       中島かよ
海馬から見放されたよドレミのド    平井詔子
月はいま点字ブロック通過中      岩渕比呂子
パピルスを剥がせば紀元前の貌     落合魯忠
切り抜きは読まずに捨てる猫のひげ   一戸涼子
未だ手放せぬ村田式銃 のようなもの  浪越靖政

浪越の句集に話を戻すが、「あとがき」によると、浪越が川柳をはじめたのは1973年、30歳のとき。小樽川柳社「こなゆき」への投句のあと、釧路川柳社・札幌川柳社・旭川源流川柳社などに所属。1996年に飯尾麻佐子を中心とする「あんぐる」創刊同人、同誌が廃刊のあと2002年に「水脈」創刊、その編集人となる。
ちなみに、飯尾麻佐子は女性川柳にとって重要な存在である。「魚」を創刊して女性川柳人に発表の場を提供した。「魚」から「あんぐる」を経て「水脈」で活躍している女性川柳人に一戸涼子がいる。
さて、浪越の句集は第一章「V字回復」、第二章「日没を待って」に分かれ、第一章は「川柳さっぽろ」掲載作品、第二章は「水脈」「短詩サロン」「バックストローク」「川柳カード」「触光」などの掲載作品だという。

旧姓で呼ぶと振り向くキタキツネ
妄想が前頭葉を占拠する
蝶と目が合って彼岸へ誘われる
Vサインしたまま雪に埋もれてく
旧石器時代の愛し方もある (以上、第一章から)

日没を待ってダミーと入れ替わる
杏仁豆腐の気持ちはどうも分からない
うっかりと見せるカラスの後頭部
三日月になっても尾行続けてる
時により入口役もする出口
自動消去まで十年を切っている (以上、第二章から)

川柳人は発表誌によって作風を使い分ける場合があり、第一章は「気楽に読んでもらえる作品」、第二章は「もう一人の自分が詠んだ作品」だという。川上三太郎の二刀流を思い出すが、読者はそんな区別を気にせずに好きな作品を読んでゆけばいいと思う。

猫田千恵子は愛知県半田市在住の川柳人。
句集の略歴によると、2009年「川柳きぬうらクラブ」に入会、2015年「ねじまき句会」に参加とある。なかはられいこが発行している「川柳ねじまき」には第3号から作品を掲載している。最新号の「川柳ねじまき」4号(2018年1月)には次のような句が掲載されている。

轢いた時ペットボトルがちぇっと鳴る   猫田千恵子
落ちちゃった少うし跳ねただけなのに
端っこの席に聞きたいことがある
頬骨のカーブが同じ顔二つ

さて、句集の方は第一章「海」、第二章「空」の二部構成。
「私の内面に向かって書いた句」を「海」、「外へ向かっていった句」を「空」としてまとめたという。私は半田市には新見南吉記念館や南吉生家を見に訪れたことがある。

全身に海沸き立ってくる 好きだ
一体は裸で眠る花の下
純粋な興味で押してみたボタン
同意する間もなく鍋に入れられる
終わったようだぞろぞろ出てきたよ
中心に立つと不安になってくる (以上、第一章)

秋の気配は肉球の温かさ
世界など何度もここで滅ぼした
人間が乗る一枚の磁気カード
連なった鳥居の奥は猫屋敷
朝になる普通の人が起きてくる (以上、第二章)

第一章には川柳性のある句が多く、第二章はそこから先に進んで冒険する句を集めているのかなと思った。そのことは、たとえば次の二句の書き方の違いに表れている。

シャツ一枚だけ北向きに干している
果てしない時空に白いシャツを干す

2018年2月9日金曜日

水にだって闇はある―八上桐子句集『hibi』

八上桐子の第一句集『hibi』(港の人)が発行された。
八上の作品は今までも「川柳ねじまき」などで読んでいるし、句会や川柳のイベントでときどき顔をあわせることもあるが、ようやく句集というまとまったかたちで彼女の作品を読むことができるようになった。
句集のプロフィールによると、八上は2004年「時実新子の川柳大学」入会。2007年終刊まで会員。以後、無所属、とある。結社や川柳グループに所属せずに、独自の存在感を示して川柳を続けるのは、それほど簡単なことではない。
2016年、八上は葉ね文庫の壁に針金アートの升田学とのコラボを展示した。新生「guca」にも紹介されているように、葉ね壁は牛隆佑のプロデュースによるアートと短詩作品の共同制作で、ときどき展示替えがある。八上の作品「有馬湯女」は腰紐に句を書いて垂らしておくという斬新なものだった。仄聞するところによると、そのときのトーク・イベントで句集の発行を望むリクエストに対して八上は前向きに応えたということだ。葉ね壁が句集上梓への契機となったのである。
八上には「本」というものに対するこだわりがある。フリーペーパーの場合でも、以前発行されていた「Senryu So」や現在発行されている「THANATOS」など、けっこう凝ったものである。活字に対するこだわりもあって、活版印刷でないと嫌だという発言を聞いたことがある。今回の句集は残念ながら活版ではなかったようだが、鎌倉の「港の人」まで出向いて装丁のプランを話し合ったというだけあって、美しい本に仕上がっている。
では、句集の収録作品について述べていこう。
全体は六章に分かれ、各章が28句ずつ、最後の章だけが32句、全部で172句が収録されている。厳選である。
読んでゆくと作者の愛用する語が繰り返し出てくるのに気づく。最も目につくのが「水」である。それは巻頭句からすでにはじまっている。

降りてゆく水の匂いになってゆく     
呼べばしばらく水に浮かんでいる名前
鳥の声になるまで水を見てなさい
水を 夜をうすめる水をください
散歩する水には映らない人と
もう夜を寝かしつけたのかしら水

愛用語というのは諸刃の刃である。自分の世界を適切に表現できると同時にマンネリズムに陥る危険をはらんでいる。けれども、この句集のおける「水」が読者を飽きさせないだけの実質をもっているのは作者の実力なのだろう。
「川」「海」「雨」など、「水」関係の句はさらに多様に展開してゆく。

少年の1人は川を読んでいる     
そうか川もしずかな獣だったのか
川沿いに来るえんとつの頃のこと
青がまた深まる画素の粗い海

「水」の句はこれまでにもたくさん書かれてきた。たとえば、畑美樹。

こんにちはと水の輪をわたされる    畑美樹
体内の水を揺らさず立ちあがる
逢うまでの水をこぼして歩いている
一本の水を買う正確な姿勢

畑美樹の場合、水は体内水位であったり恋愛感情の揺れであったり、水を中心とする世界認識であったりする。水は作者の「私性」と結びついている。
八上の場合、水は二律背反的な意味をもった存在である。それは「水」とペアになる「闇」や「夜」によって示される。

おひとりさまですかと闇に通される 
踵やら肘やら夜の裂け目から
くちびると闇の間がいいんだよ
向き合ってきれいに鳥を食べる夜

清浄な水の世界は背後に闇をかかえることによって屈折したものになる。水は闇を中和する存在でもあるし、水の背後にちらりと見える闇は、日常を破綻させないように適度にコントロールされている。
「hibi」というタイトルは最初「日々」かと思ったが、「罅」かもしれない。日常の中に入った微かな罅を八上は静かに見つめているのだろう。
あと、いいなと思った句を挙げておく。

雲の流れてインディアンの口承詩
冷蔵庫だけが大きな家でした
歩いたことないリカちゃんのふくらはぎ
その手がしなかったかもしれないこと
まばたきをするたび舟が消えている
くるうほど凪いで一枚のガラス

栞は、なかはられいこ・正岡豊・小津夜景の三人が書いている。
句集「hibi」は葉ね文庫だけではなく、東京・大阪・神戸のいくつかの書店にも置かれている。通販でも手に入る。従来、川柳句集は上梓するだけで精一杯で、本としての美しさや読者に届けるための販路まで手がまわらなかった。無所属というスタイルも含めて、八上桐子はひとつの道を切り開いたということができる。

2018年2月2日金曜日

村井見也子の川柳

1月28日、京都の「川柳 凜」の句会に出席した。
京都の川柳界はけっこう複雑で、1978年に「平安」が解散したあと、「新京都」「都大路」「京かがみ」が生まれた。さらに、「新京都」が終刊したあと、生まれた結社のひとつが「凜」である。「凜」を創立した村井見也子(むらい・みやこ)がこの1月に亡くなり、追悼の気持ちもあって「凜」の句会に参加したのである。

神の手にいつかは返す飯茶碗   村井見也子

村井見也子のよく知られている句である。
村井は1930年生まれ。結婚して京都に住むようになり、1970年に北川絢一郎に師事して川柳をはじめた。平安川柳社同人、新京都創立同人をへて、絢一郎の死後「凜」を創立。
村井の句を読む機会は少ないと思われるので、句集『薄日』(1991年)から、少し多めに抜き出しておきたい。

まぼろしと逢える切符が今ここに
信じたくなって篠つく雨を出る
弱気へのいたわりなのか朝の虹
春の雪ポストに胸の火を落す
まだ刑の終らぬ足袋を干している
いくつ訃に出会う厨の薄明り
ほつほつと火の立つ骨を拾うべし
降る雪の一色ならぬけもの道
たかが一生花を降らせて討たれよう
仰ぐ塔があって三年五年待つ
介錯はだれであろうと双乳房
不覚にも朝の枕に生き残る
爪を切る音よけものが目を覚ます
掌の蛍匂う危うい刻がくる
樹に凭れるやさしい緑ではないか
一冊の辞書をときどき敵にして
雨の日もしずかに爪が伸びてくる
父系母系の何を見たくて指めがね
低唱やうろこ一枚ずつ落す
償いは終った絵ろうそくの芯
卒塔婆一枚わが身の軽さではないか
春愁のとうふ一丁身に余る
男から見えぬところで煮こぼれる
滅ぶもの美しければ沖へ出る

新潮増刊の『短歌・俳句・川柳101年』(1993年)の1991年の欄に『薄日』が収録されていて、ちなみにこの年の短歌が加藤治郎の『マイ・ロマンサー』、俳句が江里昭彦の『ロマンチック・ラブ・イデオロギー』になっている。川柳を担当している大西泰世は村井についてこんなふうに解説している。
「『京女』と呼ぶのにふさわしい、物腰やわらかな村井見也子が詠む句材は、日常生活の中で日々必要とするもの、たとえば〈足袋〉〈傘〉であり、〈鍋〉〈箸〉〈飯茶碗〉というような、あまりにも生活に密着しすぎて、ともすれば俗に落ちやすい可能性の高いものも多い」
「しかし、それらの素材も見也子の手にかかると、一見、はかなげな表面をたたえながら、ふっと息を吹きかければ、たちまち立ち上がってくる炎を隠し持つ燠のように芯で燃え続けている一句として屹立する」

私はベタな日常詠は好まないので、「傘」「鍋」「箸」などの句は引用していない。また、「情念川柳」という言い方も好きではないが、一時期、川柳界で「情念川柳」という言葉が流行ったことがある。村井もまた「情念の見也子」という受け止め方をされている。
前掲の引用に続いて『101年』では次のように書かれている。

「考えてみれば、〈箸〉や〈飯茶碗〉のように、毎日使うものであるからこそ、愛憎を手でなぞりながら、思いを連綿と持続させることが出来るのだろう。声高に「わたくし」を叫ぶことなく、あくまでもしんしんとうたう、〈情念の見也子〉と言われるゆえんである」

「もの」と「こころ」の関係。〈情念〉と言ってしまえば、女性川柳を一面的にとらえることになってしまうが、見也子の作品は現代の眼から見て乗り越えなければならない部分を含みつつ、時実新子とは少し異なった方向性をもっているように思う。

2017年になって見也子の第二句集『月見草の沖』(あざみエージェント)が上梓された。

雨期に入る京の仏は伏し目がち
歌声をだんだん高くして泣いた
そうだまだ人形になる手があった
月見草の沖へ捧げるわが挽歌
人よりも先に笑っていくじなし
少し猫背になってやがてに近くいる
鶴になる紙を急がせてはならぬ
もの言わぬ爪から順に切ってゆく
あと少し見せていただく紙芝居
食べて寝てこわいところへ降りてゆく

現在、「凜」の発行人をつとめている桑原伸吉は、この句集が出たときに、「見也子さんの最初の句集は、平成三年に女性として意味深い内容の『薄日』があり、今は亡き定金冬二さんの序文の中に『自分に対して厳しいものを持っている。だからこそ『女ごころ』が生き生きと息をしているのであろう。』とある。作品構成の用語の一つ一つに細心の注意が払われていて、しかも定型を順守それが作者のポリシーと思う」と述べたあと、「あれから二十六年、『川柳人としての区切りという意味での上梓』と作者はおっしゃるが、同じ道を来た者にとっては言葉がない」「『月見草の沖』はやはり見也子川柳、前述の如く何かを伝えようとする一語一語に意味性があって、見事な自己表現がなされている」と書いている(「凜」70号、2017年夏)
『薄日』の世界が乗り越えられたのかどうかはともかく、生前に第二句集が出たことはよかったと思う。
「凜」は今年4月22日に「20年記念のつどい」を開催するという。創刊10年の大会のときには墨作二郎が記念講演をおこなった。自分に対して厳しかったという村井見也子の姿勢を反映してか、「凜」は対外的なアピールについては控えめである。「20年記念のつどい」が盛会となるように祈念している。

哀しいときは哀しいように背を伸ばす   村井見也子