2019年5月18日土曜日

文フリ東京ー「外出」と「て、わた し」

5月6日文フリ東京で手に入ったものの中からふたつ紹介する。
「外出」創刊号。
内山晶太・染野太朗・花山周子・平岡直子の四人による32ページの冊子。グリーンの表紙が美しい。各15首の短歌とそれぞれの文章が付いている。文語短歌が多いが、平岡直子だけが口語短歌である。

内出血できれいでとても冷たいね宝石と鳥わからないのね   平岡直子
夕暮れの皇居をまわるランナーはだんだん小さくなる気がしない?
女の子を裏返したら草原で草原がつながっていればいいのに
東京のうえにはちょうど東京のかたちの雲がかぶさっている

文章では染野太朗が飯田有子を、平岡直子が永井祐と宝川踊を、内山晶太が森岡貞香を取り上げている。花山周子のは小説?

女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて  飯田有子
引き算のうちはよくてもかけ算とわり算でまずしくなっていく  永井祐
戦争はきっと西友みたいな有線がかかっていて透明だよ     宝川踊

宝川の歌は「率」10号からだが、彼は今どうしてるんだろう。

「て、わた し」6号。
海外詩を独自の視点から紹介している雑誌で、発行人は山口勲。
特集「生きづらさを越えて生きる」。
毎号、日本の表現者の作品と海外の詩人の作品を取り合わせて編集されている。
今回は、
成宮アイコ×ロレステリー・ペーニャ・ソラーノ(ドミニカの詩人)
荒木田慧×余秀華(中国の詩人)
鳥居×クリストファー・ソト(アメリカの詩人)
の三組。
全部は紹介しきれないが、詩の一節だけ引用する。

ちゃんとみんなずるくて
こんな世界で生きている
伝説にならないで  (成宮アイコ「伝説にならないで」)

私の居場所は鳥のいない空や
獣のいない森ではないし、
歴史書に住んでいるわけでもなく
まして「偉大な男」の
伝記の余白の線でもない  (ソラーノ「虚栄」、訳・大崎清夏)

一部の引用だけでは分かりにくいので、ご関心のある方は本誌をお読みいただきたい。
山口勲は「川柳スパイラル」5号掲載の「語り手の声が聞こえる詩」で次のように述べている。
「私が今回紹介したものは必ずしも『詩的』ではないのかもしれません。作品と人を切り離すべきだという考えから外れた前近代的な捉え方かもしれません。けれども、様々な怒りを通過した作品は近代日本が経験した言文一致とも通じ、声を通すことで社会や自分自身の生活と深く結びつく二十一世紀の文学だと信じています」
作品と作者の関係については作品評価の文脈やスタンスによってさまざまな考え方ができると思うが、現実のさまざまな問題(「て、わた し」の今号では「生きづらさ」)に対するアンテナの感度を高めておくことが必要だろう。
最後に鳥居の短歌から二首。

生きづらさという言葉の流行るさまかすり傷負ふごとく聴きをり  鳥居
称賛がなければ生きていけぬ身となり果て夜の人舎に舞へり

2019年5月12日日曜日

句集の時代 ―『hibi』と『補遺』

「川柳は〈読みの時代〉がはじまった」と石田柊馬が言ったのは10年以前のことだが、「読みの時代の次は何の時代ですか」と私が尋ねたところ、石田は「句集の時代かな」と答えたことがある。
いま石田柊馬の予言が現実になりつつある。単に川柳句集の出版が増えてきたというだけではない。句集一冊によって作品を世に問い、純粋読者の手に届くようなかたちで句集が発行されたり、句集の発行によって川柳活動をスタートさせる川柳人が登場してきたのである。

八上桐子の句集『hibi』(港の人)は昨年1月に初版が発行され完売した。川柳句集は発行されても知友への贈呈が主となるが、『hibi』の場合は一般の純粋読者が多く購入したことになる。今年4月に第2刷が増刷されたから、さらに広い読者に届いてゆくだろう。
先日5月5日に『hibi』の句評会が東京・王子の「北とぴあ」で開催された。
報告者は牛隆佑・飯島章友の二人だが、参加者がそれぞれ句集の感想を語り合ったので、句評会というよりは句集の読書会のようなものになった。

牛隆佑はかつて「葉ね文庫」の壁の展示で、八上桐子(川柳)と升田学(針金アート)のコラボを手がけたことがある。このときの集まりは八上が句集出版を決意するきっかけともなったので、彼は八上の作品については知悉している。
牛はまず句集の中で同じ語が頻出することを指摘した。「風」「夜」「鳥」「闇」「泡」「魚」「家」「骨」「海」「舟」「夢」「川」「みずうみ」などである。しかし、同じ語の繰り返しによって作品が単調になるというのではない。他の語との距離感によって、頻出語もそのたびに言葉の様相を変化させている、と彼は指摘する。たとえば「夜」の句では次の例のように、「石と夜」「踵・肘(身体)と夜」「鳥と夜」「おとうとと夜」「鯨と夜」「夜と水」というように他の語と組み合わせることによって、「夜」のニュアンスが微妙に異なった相貌を見せてゆく。

石を積む夜が崩れてこないよう    八上桐子
踵やら肘やら夜の裂け目から     
向き合ってきれいに鳥を食べる夜   
おとうとはとうとう夜の大きさに   
からだしかなくて鯨の夜になる    
もう夜を寝かしつけたのかしら水   

牛は「水」のキーワードについて、「常に強く結びついた組み合わせ(固体)でもなければ、完全に切り離されたもの(気体)でもない。(遠近自在の)距離でそれぞれの語がつながっている」と述べた。

飯島章友は早くから八上桐子を評価してきたひとりである。「川柳スパイラル」4号でも八上と対談している、飯島は八上の句集を「表記・形状・音の類似関係からの発想」「双方向の喩的関係」「世界ふしぎ再発見」「他者・男との距離感」「苦しい『夜』と救いの『水』」という観点から詳しく分析した。たとえば「世界ふしぎ再発見」では、当たり前のことを見つめ直す句として次のような作品が挙げられた。

鳥は目を瞑って空を閉じました    八上桐子
夕暮れがギターケースにしまわれる
たんたんと等身大にする床屋
片陰のすっとからだに戻る影
灯台の8秒毎にくる痛み

また水については「水を 夜をうすめる水をください」を例に、話者にとって夜は、水で薄めないと苦しい存在で、逆にいうと話者にとって水は、救いの存在といえるのではないか、と指摘した。
当日は出版元の「港の人」も参加、増刷されたばかりの『hibi』が販売され、花束の贈呈もあった。

もう一冊、5月に発行されたばかりの句集を紹介する。
暮田真名の第一句集『補遺』(発行者・竹林樹)が上梓された。
暮田は2017年に川柳実作をはじめ、これまでネットプリント「当たり」や川柳誌「川柳スパイラル」に作品を発表してきた。句集にはこの二年間の181句が収録されている。

印鑑の自壊 眠れば十二月    暮田真名
永訣のうしろに錫が落ちている
調律をしても心が痛まない
いけにえにフリルがあって恥ずかしい
夢心地のまま漏えいしています
忌引きです おいしくなって会いにいく

私が暮田の句に注目した最初は「いけにえにフリルがあって恥ずかしい」によってだったが、それぞれの読者によって好みの作品は異なることだろう。
「OD寿司」という章があり23句が掲載されている。「寿司」の題詠とも思われるが、ひとつの題で多彩な作品を書くことができるのは作者の実力を示している。

スコールに打たれていても寿司がいい  暮田真名
寿司ひとつ握らずなにが銅鐸だ
寿司なんだ君には琴に聴こえても
音楽史上で繰り返される寿司
寿司を縫う人は帰ってくれないか
アサガオに寿司を見せびらかしていい?

『補遺』は100冊作ったというが、先日の文フリ東京で完売、発行者には増刷の用意があることと思う。
文フリでは『補遺』と同時に『当たり』総集編も販売された。ネットプリントでvol.1~vol.10が発行されていて、私もそのつどコンビニで打ち出してきたが、ネプリというのは散逸しやすいから、こうして一冊にまとめられると読むにも保存にも便利である。

シジミチョウなぐさめようとして初犯   暮田真名
共食いなのに夜が明けない
見晴らしが良くて余罪が増えてゆく
万力を抱いて眠った七日間
こんばんは天地無用の子供たち

ちなみに、最近読んだネプリからふたつ紹介しよう。
まず「第三滑走路」6号(5月1日)から。

光り続ける僕たちの密室論/世界すべてを映し出すシネマ      青松輝
天使、と言えば呼ばれたと思った子どもは水の裏に隠れた      丸田洋渡
区役所にいこう 用件を済ませてはやく夜桜でも観にいこう     森慎太郎
妻でなく麦 ははあっと気がついて文意が通る お馬も通る     森慎太郎
手続きが煩雑なのがわるい、よね?桜は散るからうつくしい、よね? 森慎太郎

もうひとつ「MITASASA」6号(5月2日発行)から。

ずっと神の救いを待ってるんですがちゃんとオーダー通ってますか  三田三郎
これいじょう、ゆくりあるくん、ふしぜんで、そのまえにおさまるきもちが、多賀盛剛
にんげんをテーブルにたたきつけたとき、こわれないほうがプロレスラー  多賀盛剛

笹川諒の詩は長いので引用できないが、一部分だけだと「執着はさわやかな巫女の姿で/橋を/渡ってゆく/ゆるく、はずれてゆく」。

増刷された『hibi』は書店や通販で手に入るし、『補遺』の方も同様である。梅田蔦屋書店では川柳のコーナーに『hibi』と『補遺』が並べられている。いま旬の川柳句集だろう。これらの句集を入り口として、現代川柳の世界が読者の方々に親しいものになってゆけばいいなと思っている。作品と読者をつなぐ通路が必要だ。