2019年6月30日日曜日

第13回宮城県連句大会

宮城県名取市に藤原実方の墓がある。
実方は百人一首の「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」の歌で知られているし、清少納言の『枕草紙』にも登場する。
『撰集抄』などのエピソードによると、実方が東山の花見に訪れたときに、にわか雨が降ってきた。実方は騒がずに木のしたに立って次の歌を詠んだ。

さくらがり雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の陰にくらさん  実方

実方の装束は雨に濡れたが、人々は興あることに思った。けれども、この話を聞いた藤原行成は「歌はおもしろし。実方は痴(おこ)なり」と言った。歌はおもしろいが、実方は愚かだというわけだ。そのことを実方は深く恨み、宮中で口論となり行成の冠をたたき落したという。一条天皇は「歌枕見てまいれ」といって実方を陸奥守に左遷した。
第13回宮城県連句大会に参加するために仙台を訪れた。大会前日、狩野康子氏と永渕丹氏に案内していただいて、昨年は行けなかった実方の塚を訪れることができた。
この場所には西行も訪れている。現地には「かたみの薄」も生えていた。

朽ちもせぬその名ばかりを留めておきて枯野のすすきかたみにぞ見る  西行

松尾芭蕉は実方塚のある笠嶋に行けなかった。
「おくのほそ道」には「このごろの五月雨に道いとあしく身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過るに」とある。

笠島はいずこ五月のぬかり道   芭蕉

さて、「宮城県連句大会」に話を移すと、この大会は最初「あやめ草連句大会」としてスタートした(『おくのほそ道』の「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」にちなむ)。2007年に「宮城県連句大会」と名称を変え、今年で13回目になる。応募作品の形式は半歌仙で、応募された全作品を作品集に掲載する。また、作品についての選評に力を入れるのも特徴である。
大会当日配布された『第十三回宮城県連句大会作品集』から、おもしろいと思った「三句の渡り」を紹介しておく。

 美人に見とれ隙間風吹き   黄木由良
足揃示し合はせて席を取る   梅村光明
 ガスの元栓閉めたかしらん    由良(「アルバム」の巻)

若冲展の犬を数える     田代洋子
花の宵目つむりて聴く笙の笛  藤田とよ
春はどこからわが心から   久保田直(「小昼どき」の巻)

包帯に傷を隠して結納へ    岡部瑞枝
 千葉笑して飛ばす悪行    大橋一火
月皓々一の字一気書初めす   山地春眠子(「聖母の涙」の巻)

花篝結ふては開きまた結ふよ  川野蓼艸
 蜃気楼より来たと告げる児  瀬間文乃
春帽子フランスパンを横抱きに 小池舞 (「花篝」の巻)

 スピード違反君の告白      中西ひろ美
クリムトの絵のようだねと笑いあい 広瀬ちえみ
 棺の内に汗のびっしり      小池舞 (「春日傘」の巻)

大阪に帰って数日後、「杜人」262号が届いた。
巻頭論文「所謂現代川柳を考える」(飯島章友)。
飯島は「川柳木馬」160号の「作家群像」にも取り上げられており、評論と実作ともに充実した活躍ぶりである。「現代川柳」には「現代の川柳」という意味のほかに「革新川柳」という意味があるが、すでにそのような区別は無効になっていることを飯島は「現代川柳」以後の世代として、短歌の状況と比較しながら整理している。
「杜人」の同人作品から。

うしろから見ると金曜日のようね  広瀬ちえみ
草たちの仕事大地を隠すこと    佐藤みさ子
順番が狂いいちにちへんな顔    浮千草
麻酔切れ急に妖気になってくる   鈴木せつ子
一斉に箱を出てゆく音符たち    加藤久子

「杜人」同人の宮本めぐみの逝去を伝えている。

花言葉集めて蝶が病んでいる   宮本めぐみ
ノンフィクションの長いながい霧笛

「杜人」217号(創刊60周年記念特集)から宮本の作品をもう少し紹介しておきたい。

季が移るわたしは眼鏡拭いている  宮本めぐみ
嵐ケ丘でうろこ一枚落したり
川向こうで寄せ木細工の軋む音
この先を思うと尻尾痒くなる
熱帯夜なれば読経を繰り返す
一族の川を飛び交う蛍たち
黙約のいちにち風に縛られる
逆光を浴びて表皮を剝いでいる

2019年6月9日日曜日

諸誌逍遥 4・5・6月

×月×日
「川柳木馬」160号。「作家群像」は飯島章友篇である。飯島とは「バックストローク」「川柳カード」「川柳スパイラル」の三誌を通じてともに歩んでいるが、プロフィールの欄を読んで改めて彼の短歌歴・川柳歴を振り返ることができた。飯島は2003年ごろから東直子の「ぷらむ短歌会」に通い、2007年には「さまよえる歌人の会」に参加、2009年には「かばん」の会員となっている。川柳の方では2009年7月の「バックストローク」27号から「ウインドノーツ」(石部明選句欄)に登場している。その翌年には「短歌現代」の新人賞を受賞しているので、「短歌も作る人なんだな」と意識したことを覚えている。2012年には「川柳カード」同人、2014年の「第三回川柳木馬大会」では選者をつとめている。「川柳スープレックス」を立ち上げたのが2015年。短歌と川柳の両方にわたる人脈を生かして、多彩な顔触れによる招待作品と川柳論を掲載している。2017年から「川柳スパイラル」同人。「小遊星」のコーナーでは小津夜景・睦月都・森山文切・八上桐子・新木マコトなど話題の人を次々にゲストに迎えて対談している。
「川柳木馬」に戻ると、「作者のことば」で飯島はこんなふうに書いている。
「前衛短歌を意識した川柳を作句し始めて以来、伝統川柳の句会では入選率がぐっと下がりました。しかし、自分の好みには素直でありたい。なぜなら、私のいちばんの読者は自分自身だからであります」

最終の湾がまぶたを閉じだした   飯島章友
鶴は折りたたまれて一輪挿しに
音叉鳴る饐えゆくののにおいさせ
天帝の手紙静かなホバリング
ああ、ああ、と少女羽音をもてあます

作家論は川合大祐と清水かおりが書いている。
飯島章友は伝統川柳についても詳しいし、「風」誌には七七句も投句している。5月5日の「川柳スパイラル」東京句会の第一部〈八上桐子句集『hibi』を読む〉では牛隆佑とともに報告者をつとめた。短歌と川柳の両面で多彩な活動を続けている。

×月×日
「船団」121号が届く。特集「俳句と音楽」。
しばらく気づかなかったが、よく読むと坪内稔典の編集後記(エンジンルーム)にびっくりすることが書かれている。
「さて、船団の会は、あと一年の活動によって完結する。125号を完結号とする予定である」「活動を完結させることについては、いろんな意見が会員の間にある。それは承知の上で、この際、船団の会の活動を終え、会員は散在する」「もっとも、散在の具体的なかたちはまだ見えていない。船団の会としてはこれからの一年をかけて、散在のかたちを追求する。それはもしかしたら俳句の新しい場の模索になるかもしれない。うまく模索できないかもしれない。でも、ともかく、新しい局面に会員の個々が立つ」

「船団」はいま絶好調で、継続しようと思えば出来るのだが、そういう時期だからこそ完結したいと坪内は言う。完結後は「船団」という名は使わないということらしい。
あと一年あるので、今後会員の方々がどのような動きを見せるのか、気になるところだ。

×月×日
「豆の木」23号が届く。25周年記念号だという。もうそんなになるのか。
書架を探してみたら「豆の木」8号が出てきた。これは10周年記念号である。13号が15周年記念号、18号が20周年記念号。年一冊のペースで歩みを続けてきたわけだ。
メンバーのうち直接会ったことのある人は少ないが、何人かの方とは親疎はあるものの若干の交流がある。

連なりの薄きところも蟻の列   岡田由季
ほぼ空の大きさである初詣    小野裕三
小鳥来るための額を空けておく  こしのゆみこ
寂しくて腕に刺さった蚊の一匹  近恵
言論弾圧手袋が手の代わり    田島健一
あきらめのあかるさ昼顔の真昼  月野ぽぽな
純白のマスク視界のすべての鳥  中島憲武
星月夜介護ベッドに星を置く   宮本佳世乃

こしのゆみこの旅ノートは「ベルリン・ドレスデン・ライプチッヒ紀行」。ベルリンには私も行ったことがあり、フェルメールや森鷗外記念館のことなど興味深い。フリードリヒの絵は好きだし、ベックリンの「死の島」は福永武彦の同名の小説のモチーフともなり、後ろ向きの白衣の男は水木しげるのねずみ男のヒントになったとも言われている。

×月×日
「オルガン」17号が届く。

楽鳴りがたし蜜蜂の赤い視野    田島健一
珈琲この世にまざりあう春と夜
さくらはなびら波ながら味世界

水ぬるむ指のふたつが脚のやう   鴇田智哉
竹になりかけのあかるみつつ痒く
抽斗をひけばひくほどゆがむ部屋

野と焼かれ暮れれば星として昇る  福田若之
自販機の底から蝶がまぶしくなる
山は春もういいよもうかくれない

パンジーに灰色の茎生きぬく眼  宮本佳世乃
傍点をつけ山吹のなびきたる
つぎつぎと雹ながいながい終はりに

同人が四人になったのはややさびしい感じがするが、それぞれ力のある人たちなので問題なさそうだ。座談会は〈筑紫磐井「兜太・なかはられいこ・「オルガン」を読む〉で、前編と後編の二本立て。タイトルに、なかはられいこの名がでてくるが、川柳ではなくて社会性俳句についての話題が主となっている。
福田若之が第6回与謝蕪村賞新人賞を受賞したので、福田の受賞スピーチが掲載されている。また、蕪村の句を発句としてオルガン同人のオン座六句が巻かれている。捌きは浅沼璞。

ちるはさくら落つるは花のゆふべ哉   与謝蕪村
水あをければ水ぬるむ橋       浅沼 璞

×月×日
「Stylish century 2019 トリビュート中澤系」という冊子が手に入る。
「中澤系とわたし」というテーマで21人のエッセイを収録。また、中澤系歌集に収録されている「Stylish century」の下の句(Ok,it’s the stylish century)に参加者が上の句を付けている。
この冊子は「中澤系トリビュート」が参加者をツイッターで募集して作成したもの。
倉阪鬼一郎『怖い短歌』(幻冬舎新書)にも中澤の短歌が紹介されており、この冊子にも転載されている。
先日、葉ね文庫で中澤系の蔵書の一部を見せてもらった。

×月×日
「井泉」87号。
巻頭の招待作品のコーナーに松永千秋の川柳作品が掲載されている。

お望みは瞬間接着剤ですね      松永千秋
「おしまい」と書かれて以来モグラ的
この町の春の何だかずれている
解釈は自由浮雲が二つ
大根一本まるごとジツゾンって感じ

松永千秋とは会う機会が少なくなってしまったが、自分のペースを守って川柳を書いているのがうらやましい。
リレー評論【現代短歌に欠けているもの・過剰なもの】の江田浩司が「創作と批評に過剰をこそ求めたい」という文章を書いている。
小林秀雄の松尾芭蕉批評に触れたあと、江田は「松尾芭蕉を、終生意識に置いて創作した歌人」として玉城徹を挙げている。その玉城の言葉がとても印象的だったので、ここに紹介しておきたい。
「いったい、ジャンルの分け方などというものは、便宜にすぎません。はじめにジャンルがあるわけではない。あるジャンルには、それ固有の原理とか方法が存在すると考えるのは、一種の空想です。西洋の純粋詩、純粋小説などという思想にかぶれて〈純粋短歌〉を考えてみるのは、あまり意味のないことでしょう。
結局、それは芸術上の形式主義にほかなりません。わたしも、若い日に、その迷蒙の霧の中で、道を失いかかったことがありました。一ジャンルの中に閉じこもらず、文学全体を見まわして、もっと自由に考えてゆくことが大切でありましょう」(『短歌復活のために 子規の歌論書館』)

×月×日
「川柳の仲間 旬」223号から樹萄らきの作品を紹介する。

枯れてゆくとき花はいつでも強気   樹萄らき
無気味な笑顔 え 素顔なんですけど
視線を外すキミは勝ったと思うよね