2012年1月27日金曜日

落語と川柳

今週は特に取り上げるような話題もないので、閑談を一席。
落語と川柳には同じ庶民文芸として相通じるものがある。
落語の途中で川柳が引き合いにだされることも多く、「文七元結」で必ず引用されるのが次の句。

闇の夜は吉原ばかり月夜かな

しまった、これは其角だから俳句だった。まあいいや、このまま話を続けると…
闇夜でも吉原だけは明るい不夜城だというのである。けれども、この句には別解もあって、人間の欲望が渦巻く吉原は暗いのであって、月だけが明るいのだともいう。「闇の夜は/吉原ばかり月夜かな」ではなくて「闇の夜は吉原ばかり/月夜かな」というふうに切れるというのだ。「吉原が明るくなれば家は闇」という句もある。
次のは間違いなく川柳である。

田楽のクシで小判の封を切り

「吉原のそばにむかし、田楽の大変うまいのがありましてナ、田楽でいっぱい飲んで、いい心持になると、すぐそばが吉原だから、行こうッて気になる。田楽のクシで小判の封を切り…という川柳がありまして、こりゃ主人の金だからこいつァ…ッていってても、酔っ払うてえと、なにかまうもんか…てんで、その田楽のクシで小判の封を切って遊びに行ったりしましてナ」(「五人まわし」・江國滋『落語美学』による)
主人の金なのに勢いにまかせて田楽のクシで封印切りをしてしまうのである。

六代目三遊亭円生の『書きかけの自伝』に坊野寿山との対談「落語家の川柳」が収録されている。寿山は落語好きの川柳家で落語家との交流が深かった。昭和五、六年ごろに五代目円生や四代目小さんたちと始めた「鹿連会」という川柳句会があった。これは二年ほどで消滅したようだが、戦後の昭和28年に第二次鹿連会が発足する。『書きかけの自伝』で語られているのは第二次の方である。文楽、志ん生、円生(六代目)のほか小さん(五代目)、柳枝(八代目)、馬生(十代目)、三木助(三代目)など会員13人だったが、やめるときは30万円払うという約束があり、だれもやめなかったという。

ふぐ刺身は皿ばかりかと近眼見る   柳枝
鼻唄で寝酒もさみしい酔いごこち   志ん生
はなしかをふと困らせるバカ笑い   円生
松羽目へさっきの雪が一つふり    ○丸

川柳人の西島○丸(にしじま・れいがん)も選者として来ていたらしい。
川上三太郎の話も出てきて、三太郎は何でも他人の勘定でいくそうで、勘定を払う段になるとちょっと懐へ手をやるという。

がま口をあけそうにする三太郎    坊野寿山
あけるのを見たことがない三太郎

「だいたい川柳はわる口ですからね。町人のわる口ですよ。でも、なんかはっきりわかっちゃいけないんだ。なんか、味がなくちゃいけない」(寿山)
小さんが句会の前日に川上三太郎に会って、明日の句会の宿題が「大みそか」なんだけれども、何かありませんかね、と尋ねた。三太郎は「大みそかとうとう猫はけとばされ」という句がある、俺の句だよ、と答えた。その句を小さんがうっかり句会で出してしまったら、選者の○丸が抜いて(選んで)しまったというエピソードもある。
落語家には頑固な人が多く、句を直すと呼名(返事)をしないこともあったらしい。
「川柳学」創刊号(2005年9月)に延広信治が「坊野寿山―花柳吟と鹿連会―」を書いている。延広の文章から落語家たちの川柳をもう少し抜き出しておきたい。

米の値を知らぬ亭主は肥つてる   文楽
後ろから眼かくしをする小さな手  小さん
眼帯へ目玉をかいて怒られる    正楽
目薬の看板の眼はどつちの眼    右女助

若手落語家による「仔鹿会」「鹿柳会」などの集まりもあったらしい。
円生は落語にちなんだ句も作っている。

芝浜の財布世に出る大みそか   円生

私がさっそく三木助の「芝浜」のCDを聴いてみたことは言うまでもない。
そういえば、落語「雑俳」には次の句が出てくる。これは、俳句かも知れないが。

船底をガリガリ齧る春の鮫

古川柳や古いタイプの川柳の話が続いたので、少しだけ現代のことについて触れる。
立川談志が昨年亡くなったが、談志の不幸は彼の反語が現代の観客に反語として響かないところにあると言われる。
「いつだったか、ある社会的な事件に巻き込まれた人物について、談志さんは高座でその人を滅茶苦茶に貶し、笑いを取ったあと、調子を落とした声で、本当はあんた方世間の連中がこいつのことを散々に悪く言う、そこへ落語家であるおれが出てきて、ちょっと待ってくださいよ、こいつはそんなに悪いことをしたんですかね、見方を変えればどうでしょう、とひっくり返したことを言ってみせる、それが本来の落語家の役割なんだが、いまはそうならない、だからおれがこいつを悪く言う役回りを引き受けなきゃならんのだ、と続けた。そうして、満員の観客に『この状況を末世と言う』と付け加えたが、反応は薄かった」(松本尚久『芸と話と―落語を考えるヒント』)
確かにやりにくいことだろう。

2012年1月20日金曜日

「おかじょうき」と「杜人」―東北の二つの川柳誌から―

今回は東北地方から発行されている二つの川柳誌を紹介する。
「おかじょうき川柳社」(青森県東津軽郡)は創立者の杉野十佐一(すぎの・とさいち)にちなんだ川柳賞を毎年募集しており、「おかじょうき」1月号(通巻216号)には「第16回杉野十佐一賞」が発表されている。募集作品は題詠で、今回の題は「岸」。選者は徳永政二・なかはられいこ・樋口由紀子・広瀬ちえみ・能田勝利・むさしの6人。各選者の特選5点・秀逸3点・佳作1点とし、合計点によって順位を決定する。選評を読んでいくと各選者による読みの違いが浮かび上がってくるのが興味深い。大賞(11点)は次の作品である。

ある朝岸はちいさなへびを生みました。  内田真理子

この句を特選に選んだなかはられいこは、「ちいさな蛇」を何かの予兆と読んだこと、「ですます調」で書かれているのはこの句が「語り」であるからだということ、安易に使われることもある「ある朝」という言葉がこの句では必然性があることなどを述べている。
内田真理子はこの句のほかに「鍵盤を敲いてわたる向こう岸」「ぶくぶくあぶく水際の恋はフェルマータ」を出句しているが、三句の中でもこの句の評価が高かったということになる。
準賞(10点)は次の二句である。

うつくしく並ぶ彼岸の膝がしら    小野善江
流れ着くきれいなほうを上にして   ながたまみ

広瀬ちえみは「うつくしく…」の句を特選に取り、「この世から剥がれた膝がうつくしい」(倉本朝世)と比較している。朝世の作品が「剥がれたその場所にとどまっている膝」なのに対して、善江の作品は膝(複数)が立ち上がって向こう岸に渡ってゆく様子が含まれていると広瀬は読む。先行作品と比較して読まれるのは短詩型文学の宿命だろう。「膝」が並んでいる情景を作者は提示する。読者は「膝」に情感を見つけようとしたり、句の中に何があるのかを探そうとしたりする。作者と読者との交感・かけひきが好きだと広瀬は言う。
「流れ着く…」は徳永政二・なかはられいこが秀句に取っている。徳永は「『きれいでないほう』を思う。なんともいえないかなしさを感じさせてくれる」と述べている。なかはらは「主語の省略という手法は読み手の好奇心を刺激する」という。「主語を自分として読んだとき、流れ着くときはやはり、きれいなほうを上にしていたいと思う自分を発見する。流木も海草の切れ端もガラスのかけらも空き缶も、たぶん、みんな、最後の姿を目撃されるときは、きれいなほうを記憶してほしいだろうと思う」
なかはらは「ある朝岸は…」と「流れ着く…」のどちらを特選にするか迷ったと告白している。そして題詠であることとの関連で前者を「始まりの岸」、後者を「終わりの岸」ととらえている。「おかじょうき」の編集人であるSinが編集後記「終着駅」で「大賞作品は不思議な作品という印象でした。物語の始まりっぽくもあり、エンディングっぽくもあり、そのエンドレスにリピートするような危うさ、怪しさに惹かれますね」と述べていることと考えあわせると、さらに句の陰翳が深くなる。
4位の句(7点)についても触れておきたい。

妹は岸辺の花を描く 白く      城後朱美

能田勝利が「『描く 白く』と強く言い切った白い花とは、妹さんへの思い入れの深さが響いてくる」と言うのに対して、樋口由紀子は「『白く』が不気味。白いものを白く描くのは当然だが、どうもこの妹の場合は何色であろうとも岸辺の花を白く描いているようである」と述べている。テクストは作者の手を離れて読者の読みにさらされるということを如実にあらわしている。
一般に川柳の「選」には「自選」「単独選」「共選」「互選」があり、杉野十佐一賞の場合は「共選」である。「共選」では「二人選」が多いが、「ふらすこてん」のように「三人選」のときもあり、十佐一賞では「六人選」となる。共選の選者が増えるほど多角的になり、読みの差異がくっきりと立ち上がってくるのは興味深いことでもあり、こわいことでもある。

仙台から発行されている「川柳 杜人」2011年冬号通巻232号)は添田星人追悼号である。添田星人は1924年に仙台市で生まれた。1947年「川柳杜人」創刊同人。2011年10月27日逝去。享年81歳。
連句人との接点は1999年の「連句文芸賞」の選者を務めたことである。『わいわい連句遊び』(東京文献センター)にその時の記録が掲載されているが、選者プロフィールに次のような句が掲載されている。

みんなキツネになってしまった萩・芒   添田星人
色づく前に錆びる教室
星音やわらかな禁断の書
それっきり行方不明の天の唾
石投げてポンポンポポと来世紀
そぞろ神 仙台四郎共存す
日照雨立ち上がるものみな異体

句集に『川柳作家全集 添田星人』(葉文館)があり、「杜人」226号(2010年6月)ではこの句集についての特集を組んでいる。句集は「第一章・酒有情」「第二章・月無情」「第三章・花有情」に分かれている。
星人に次のような詩性川柳の作品があることを知った。「吹雪」の句は句集に収録されていないが、自由律川柳誌「視野」や河野春三の自由律作品に触発されたものらしい。そんな時代もあったのである。

吹雪 ストーブの中では化石のつぶやき        添田星人
騙されてみようかエンゼルフィッシュの透明な速度
森のファスナーひらくとお伽の面溢れ
銀のフォークの手を止めて花の匂い

金魚の句が多いことは「杜人」の同人たちが指摘している。
「彼の居間の目の前の水槽に、十年来飼っているという巨大な金魚がゆらゆら泳いでいた。思索の時を金魚と共にしたのだろうか。金魚は金魚そのものであったり、作者自身であったり周りの他人であったりして、作品の内在性はバラエティーに富む」と大友逸星が書いている。

花よりもきれいに金魚開きけり
金魚舞ふダリヤを水に溶くごとく
咳込めば金魚は媚を斜めから
青天白日半透明に金魚游く
仏門に入るか金魚肘ついて

添田星人は川柳歴が長く、いろいろな面をもっているだろうが、今の私には次のような作品が心に響く。

黄金の孤独が酒の中に棲む
富士荘厳 脳裏の富士と一致して
音楽のように将棋を指してゐる
雨みどり織部の皿の橋に降る
かぎ裂きのままの八月いまも着る
かまいたちあへなきものを手にかけし
鬱の字がすらすら書けてとても鬱
眼帯外す天の明るさ地の若さ

これらの作品は添田星人の実力を示している。「杜人」の長老として高名だったのに、私にはその全貌がよくわかっていなかったことが悔やまれるのだ。
今年の3月11日に仙台で「大友逸星・添田星人追悼句会」が開催される。

2012年1月13日金曜日

筒井祥文と「ふらすこてん」

今回は川柳について具体的なことを書いてみたい。
筒井祥文が発行人となっている「ふらすこてん」という川柳誌がある。句会は毎月京都で開催され、隔月に雑誌が発行されている。スタートして4年目に入るが、今年の新年号(19号)の巻頭言「常夜灯」に祥文は川柳句会の現状について次のように書いている。

〈このところ句会に新たな流れが見える。「番傘」や「ふあうすと」の小集会より、結社横断的な地域句会に人が流れ出しているという現象である。地域句会ではその句会の主催者の目に叶った人だけを選者に抜擢出来るという強みがある。それにより、より質の高い選者が選句をすることになるから当然句会は面白くなるのだが、それは取りも直さず大結社の選者の質の低下を物語ろう。この現象は物言わぬ川柳人が出した答だと思わねばなるまい〉

川柳界は句会を中心に回っている。毎週、土日になればどこかで句会が開催されており、平日の夜の句会もある。句会好きの川柳人は月に5~6回、句会に出かけていく。同じ日の昼と夜、1日に2度の句会に参加することもある。それほど句会は面白いものであるが、遊戯的でもあって、文学的川柳を目指す川柳人の中には句会に対して否定的立場をとる者もいる。川柳句会では兼題5~6題に席題が1題くらい出されて、それぞれ選者が選をする。俳句の句会のような互選は少なく、選者が単独で選をするから、川柳に対する理解・経験の浅い選者、経験は長くても川柳観が疑われるような選者に当ると、出した作品が日の目を見ることはない。選者問題は常に議論されてきたのであって、尾藤三柳著『選者考』は選者の問題について歴史を踏まえて追及している。
大結社である「番傘」で言うと、「本社句会」があり、各地の句会がある。「川柳塔」の場合も本社句会と各地の句会を合わせると月に30ほどの句会がある。
筒井祥文はあちこちの句会を回って句会のことは知悉しているから、「結社句会」から「結社横断的地域句会」への流れという現状分析は確かだろう。結社を超えた選者が選ばれるのは、結社自身の選者の質的低下と表裏の関係ということになる。岸本水府は他結社の選者を決して許さなかったという話をよく聞く。「それでは、まるで『番傘』に人がいないようではないか」というのである。水府の結社至上主義が良いとも言えないが、伝統的川柳結社の力量が低下・崩壊しつつあることは否定できない。
私は結社というものが体質にあわないので、伝統的結社の行方にはあまり興味はないが、筒井祥文は伝統の衰退に何とか歯止めをかけたいと思っているようだ。伝統川柳の現状を憂えていると言ってもよい。
祥文は「ふらすこてん」に「番傘この一句」を連載している。「番傘」誌の二カ月分からピックアップして、あれこれの句を紹介するコーナーである。今月は「番傘」2011年9月号・10月号より次の句を取り上げている。

ざつだんとよもやまばなしつきわらう    田中乘子

すべてひらかな表記だが、「雑談と四方山話月笑う」ということだろう。
〈生活の中のほんのこれっきりを言うのが川柳であるが、そのほんのこれっきりに否定しきれない真実を見たときに人はたじろぐ。お互い生きて今ここに在るという不思議を含む「わらう」であり自分というものの存在を確認すると同時に懐疑した一瞬であろう〉と祥文は書いている。
また、女性の川柳作品として次のような句も紹介されている。

絶対はないと悲しい事を言う     松尾寿美子
水の無い所にあなたもういない    西川節子
小石蹴る負けを認める認めない    西崎久美子
何が不満でマヨネーズぎゅっと出す  水永ミツコ

ちょうど1年前の「常夜灯」(「ふらすこてん」13号)で祥文は「川柳が文芸である以上、オリジナルでなければならないことは当然です。しかしそれは句材が古いものは総てダメだということになりません。逆に古くても句として立ち上げ得るから文芸なのです」と述べている。彼の考えをよく表していると思う。

さて、先日「ふらすこてん」1月句会に参加した。
兼題は「願う」「紫」「うかつ」「客」、席題「酒」。この句会の特徴は三人選。「客」の選者は三人であり、提出された同じ句に対してそれぞれの選をする。その後、なぜ取ったのか、取らなかったのかという議論が戦わされる。

題詠に対してはどのような態度で作句すればよいだろうか。
最近『番傘一万句集』を古本屋で見つけた。今回の題も二つ掲載されている。

「客」
いい話客間へ母は行ったきり     方夫(『番傘川柳一万句集』)
お客様ですかとお客様が来る     北斗
扇風機自分で止めて帰る客      綾女 
あの客は黙って食べるから怖い    靄子 (『新・番傘川柳一万句集』)

「酒」の川柳は山ほどある。
かんざめでいいと幹事の飲みなおし    当百 (『番傘川柳一万句集』)
忠告をしてくれ酒をついでくれ      番茶子
新大阪ホテルをぬけて立飲屋       水府
死ぬ時は一緒といやな奴が注ぐ      寛水 (『続・番傘川柳一万句集』)
いい酒でなにも覚えておりません     博子 (『新・番傘川柳一万句集』) 
気分よく飲んでいるからからかうな    金泉 

昔の伝統系の川柳人は『番傘一万句集』の例句程度は読んでから句会に望んだのだろう。
定金冬二は一つの題について50句は作れと言ったそうだ。
私は手元に定金冬二の句稿ノートをもっている。昭和53年ころのノートらしい。先輩の川柳人からいただいたものだが、少し抜き出してみる。

「雲」 新子選
釣に行く男の背なにある雲よ
船が出て雲より重くなる私
仏弟子が通ると雲が低くなる
妻の絵が一枚売れた冬の雲

「神」 冨二選
神さまがズボンをぬぐと砂が落ちる
消ゴムの好きな神さまだっている
まっ先に神は自分を信じない
神のいる方へは行かぬかたつむり
真夜中の神と卵は同じ罪
死にまねの上手な神と街の屋根と

出句は二、三句だろうから、全部が選ばれた句ではない。このくらいのレベルの句を作った上で冬二は句会に臨んだということになる。

さて、冒頭の巻頭文に話を戻すと、筒井祥文の言う「結社横断的」ということは「超結社的」と呼び変えることもできる。私は結社の役割を否定するものではないが、短詩型文学の現状を見ると結社に属さない表現者、結社に属していても結社にこだわらない作者が増えているのも事実である。結社横断的なものから地域縦断的なものへ、さらにネットワークを拡げると、個に基づいた自律的な川柳人のつながりができてゆくだろう。自分がどこの誰であるかではなく、何をどう考えるかでつながってゆくこと。それは結社的なものではないし、組織的なものでもないが、文芸意識をもった仲間の存在を意識することで、表現者はさらに一歩前に進むことができるのである。
最後に、今月号の筒井祥文の句をあげておく。

屋根を壊して版画家が見る時間   祥文

2012年1月6日金曜日

児童文学にも批評があった!

新年おめでとうございます。
今年も「週刊川柳時評」をよろしくお願いします。

年末年始に手にとった本の中で印象に残ったのが「児童文学批評の新地平」全3巻(くろしお出版)である。第1巻『児童文学を問い続けて』(古田足日)、第2巻『〈共感〉の現場検証―児童文学の読みを読む』(西山利佳)、第3巻『〈物語〉のゆらぎ―見切れない時代の児童文学』(奥山恵)の3冊。児童文学にも批評があったのかという新鮮な驚きだけではなく、その問題意識が現代の状況としっかり対応しており、かつ川柳の直面している問題とも通じるものがあるように思われるのだ。
まず、第2巻『〈共感〉の現場検証』を取り上げてみよう。
興味深かったのは次の4点である。

一つ目は「ボーダーレス」ということ。
児童文学における「ボーダーレス現象」とは、「大人の読者」と「子どもの読者」の境界が明らかでないということである。いわゆる「子ども忘れ」であり、作家が大人を意識して書いている状況をいうようだ。
このような状況に対して、二通りの考え方がある。
①大人に共感されそうな作品が児童文学として出版されるのは児童文学の「拡充」ではなくて「拡散」だという否定的立場
②「児童」文学と「大人」の文学に線を引くことは疑問であり、「大人が読んでおもしろくない本」は子どもが読んでもおもしろくないという立場
この両者のどちらの立場に立つかによって作品の評価は変わってくると西山利佳は言う。

二つ目は「〈共感〉の現場検証」について。
自分が感動して読んだ本に対して批判的な批評は、感動していた自分が気づけなかったことを明らかにし、自分が新しくなる契機になると西山は言う。「世間一般に共感を持って受け容れられている作品」に対して異を唱え、「感動に水を差すような批評」である。

三つ目は「児童文学批評」ということ。
「児童文学評論研究会」というものがあるそうだ。著者は次のように書いている。
〈世間の多くは「児童文学評論」なるものの存在すら知らず、知っているものの多くは、好感をいだいてはいないと思われる。世に「評論家のようだ」という非難軽蔑の言葉があるように、だいたいろくなもんじゃないと思っている人は多いはず。〉
〈「難しい=「おもしろくない」といった短絡は子どもたちによく見られるが、おとなにもある。「おもしろい」は多様である。〉
何やら川柳にとっても他人事ではないような気がする。

四つ目は「話の落ち着くところ」について。
「コンドルは飛んで行く」という曲がある。サイモンとガーファンクルの歌はその第1部だけで、原曲は3部まであるそうだ。ところが原曲の演奏を聞いた人は、第1部が終わったところで終わったと思い込んで拍手をしてしまう。著者はこの話を紹介したあとで次のように言う。「ある作品が終わったと認識する感覚は多分に制度的なのだ」
「子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすく」という文学観をもっている人はエンディングに関しても「はっきりわかりやすく」をモットーにするという。

以上のような観点を川柳に即して敷衍してみると、どういうことになるか。
まず、どのような読者を想定して作品を書くかということが問題として浮かびあがる。
児童文学の読者を「子ども」と想定すると、子どもにもわかりやすいような内容を書くことになる。川柳の読者を「庶民」と想定すると、だれにでも分かるような一読明快の句をよしとすることになる。けれども、そのような作品が本当におもしろいのだろうか。
そもそも「子ども」「庶民」のイメージも勝手に創り上げたものであることが多い。読者が何を望んでいるのか簡単に決められはしない。

ボーダーレス現象の例に挙げられている作家に江國香織がいる。
西山は江國について次のように書いている。
〈「何が書かれているか」より、「どれだけ豊かなことばがつぎこまれているか」「ことばのつくる空間がすき」という立場を選ぶ彼女の作品を読んでいると、言葉そのものを追求して不純物をそぎ落とし、とてもシンプルな言葉に行き着いたという印象を受ける。それは、子どもにも読める簡単な言葉だ。〉
〈しかし、彼女の作品は読み手を選ぶ。日常生活の次元と別の、言葉だけが創り上げる世界を楽しむには、かなりの想像力を要する。ひとつひとつの言葉は簡単かもしれないが、機能が難しいのだ。〉

このことを川柳の世界で使われる用語でいうと「平明で深みのある句」ということになる。「平明」と「深み」とは一見すると矛盾する。これを両立させるにはかなりの力業が必要だろう。石田柊馬がどこかで述べていたように川柳にも「新しい平明」が求められている。それは誰にでもわかる句という意味ではない。

もう少し先へ進もう。ここで、第3巻『〈物語〉のゆらぎ』(奥山恵)に触れてみたい。
〈「もうひとりの自分」考〉ではカニズバーグの『ぼくと〈ジョージ〉』(松永ふみ子訳、岩波書店、1978年)が取り上げられている。ベンとジョージは「一人のくせにおへそでつながった二重丸みたいなふたご」である。〈ジョージ〉は鋭くものの本質を言い当てる内部の声(別人格)なのだ。物語の結末ではベンとジョージの声が区別できなくなったと書かれている。これは一見〈ジョージ〉が消えた、即ち別人格として認められなくなったというふうに読める。
けれども、〈ジョージ〉は果たして消えたのか?と奥山恵は問う。
「もうひとりの自分」を消すことは主人公を一歩前へ進ませること、という解釈がある。
分裂した自我意識が統合されて新しい人格が形成されたのだ、という解釈もある。
いずれも〈ジョージ〉は消えたという前提に立っている。
だが、「もうひとりの自分」という存在は不健康なのだろうか、と奥山はさらに問う。過剰な存在を不健康な病としてとらえると作品を予定調和的な貧しさに陥らせてしまうのではないかというのである。

「子どもにもわかりやすい」作品と思われている児童文学が、その先端部分でこれだけの問題性を孕み、批評が多様な読みを提起するレベルに至っていることは新鮮な刺激を与えてくれる。
川柳においても問われているのは、作品の読みなのである。