2020年3月27日金曜日

「井泉」と「杜人」

短歌誌「井泉」92号、巻頭の招待作品に飯島章友の川柳が掲載されている。「井泉」はこれまでにもときどき川柳作品を招待している。たとえば、昨年の87号の松永千秋。
今号の飯島の作品は「おぼろどうふ」と題した15句。

ひさかたのひかりがすべてお説教  飯島章友

「ひさかたの」は「ひかり」にかかる枕詞。「ひさかたのひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらん」(紀貫之)を踏まえているだろう。川柳ではふつう枕詞は使わないのに、このような書き方をしているのは、短歌誌に対する挨拶だろう。川柳史に即していえば、雑排のなかに小倉付があり、百人一首の上五を使ってパロディにしている。

春過ぎて  蚊帳が戻れば夜着が留守
あけぬれば 悪女に恋の俄かさめ

「散る花」にゆかずに「お説教」にズリ落とすのは川柳的テクニックである。

広義では臓器にあたる砂時計    飯島章友

砂時計は広義では臓器に相当するという。意味不明だが、では狭義では砂時計は砂時計なのだろうか。ある種の川柳には「ペアの思想」があり、右といえば左を、嫌いなといえば好きなというように、反対を考える習性がある。臓器と砂時計のイメージが重なってくるとも読める。

選びなさいギムナジウムか白昼夢  飯島章友

AとBのどちらかを選べ、という出題形式だが、実は正解というものはない。「ギムナジウム」と「白昼夢」という次元の異なるものの二者択一を迫られるが、両者に共通するのは「ム」という語の脚韻だけだ。読者はこの問いの前で宙吊りにされている。

かなかなの声の彼方のカルロス・ゴーン  飯島章友

飯島は時事句も混ぜて書いている。
川柳ではゴーンの句はすでに数多書かれているだろう。「消える川柳」と呼ばれる時事川柳を泡のように消えてしまうことから救い出すにはどうすればよいか。そのために「かなかな」「声」「彼方」「カルロス」の語頭韻の響きが使われている。ここでも川柳的テクニックが有効である。
飯島はけっこうテクニシャンなのだが、今回の作品のベースにあるのは、少年の成長物語かもしれない。隠された抒情性。次の句の「十三歳」には「じゅうさん」のルビが付けられている。

十三歳のおぼろどうふな帰り道   飯島章友

次に「杜人」265号をご紹介。「杜人」は一年後に終刊となり、今号は残り4号のうちの1冊目となる。

堂々と間違うための寒卵     加藤久子
反社会的な猫来て膝にのってくる

「堂々と間違う」とはなかなか言えない。「反社会的な猫」を膝にのせるには許容力が必要だ。どうでもいいことはどうでもいい。大切なことは別にあるのだ。

ビー玉のぶつかりあって別の道  広瀬ちえみ
春が来てかわいい嘘が増えており

「かわいい嘘」という表現が「春」に響きあって楽しい気分にさせてくれる。反語とか皮肉の意味にも取れないことはないが、そうではなくて、素直に罪のない嘘と読んでおきたい。世の中は悪意のある嘘に満ちているから。

家族写真に切手を貼って投函す  佐藤みさ子
いつまでも生きる別れがめんどうで

一句目は当たり前のことをふつうに詠んでいるようだが、なぜかドキッとする。誰に対して投函するのか。差出人と受取人はそれぞれ別の世界にいるのではないか。

最後に「杜人集」のコーナーから何句か引用しておこう。

サ行からセム語ひろがる水彩画  野間幸恵
セーターの交換会をする獣    竹井紫乙
かたちをかえる夕暮れの小鳥たち 妹尾凛
こともなく終ってみたい黄金虫  小野善江

2020年3月21日土曜日

コロナウイルスとペスト

新型コロナウイルスの流行が止まらない。
最初のうちは他人事と思っていたが、イベントの自粛が始まって、川柳も無縁ではなくなってきた。「川柳スパイラル」でも5月5日に創刊3周年記念大会を東京・北とぴあで開催予定だったが、終息の気配がみえないので、やむなく中止の決断をした。30人程度の規模であっても、パネラー・選者・参加者など人を巻き込んでのイベントになるから、強い意志と確信がもてなければ開催できない。それぞれのイベントの責任者にとっては悩ましいところだと思う。

リスクのない句会として今後ツイッターとか動画を使うことも考えられるかもしれない。また、誌上句会は直接集まることがないから、こういうときには有効だ。ここでは「カモミール句会設立五周年記念誌上句会」を紹介しておこう。

兼題【自由吟】 2句提出(男女各3名、合計6名による『自由吟』の共選)
選者
 柳本 々々 (東京都在住・無所属)
 細川  静 (青森県在住・「カモミール句会」会員)
 楢崎 進弘 (大阪府在住・「連衆」会員)
 高鶴 礼子 (埼玉県在住・「ノエマ・ノエシス」主宰)
 なかはら れいこ (岐阜県在住・「川柳ねじまき」発行人)
 三村 三千代 (青森県在住・古典文学研究者)
締め切り… 2020年4月10日(金)(当日消印有効)
参加費… 一口 1000円(切手不可・小為替等で)/発表誌呈
詳細は「川柳日記 一の糸」https://kanae0807.hatenablog.com/entry/2019/12/01/234204

ウイルスが流行するたびに引き合いに出される文学作品に、アルベール・カミュの『ペスト』がある。アルジェリアのオラン市にペストが流行したという設定で、誠実に現実に対処する人々の姿が描かれている。現在の状況下で読み直すと、いっそう予言的な作品だと実感する。「不条理」という言葉を久しぶりに思い出した。

「彼らは取り引きを行うことを続け、旅行の準備をしたり、意見をいだいたりしていた。ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らはみずから自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも自由ではありえないのである」
「不幸のなかには抽象と非現実の一面がある。しかし、その抽象がこっちを殺しにかかってきたら、抽象だって相手にしなければならぬのだ」
「みずからペストの日々を生きた人々の思い出のなかでは、そのすさまじい日々は、炎々と燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてのものを踏みつぶしてゆく、果てしない足踏みのようなものとして描かれるのである」

都市全体の隔離という状況のなかで、妻や恋人と会えなくなって、町からの脱出をくわだてる者もあれば、自由意志でペストと腰をすえて対峙する者もいる。ヒロイズムではないのだ。

不条理な世界のシナリオを書いてきた別役実が亡くなったが、ある種の川柳も不条理な世界を詠んでいる。私が思い浮かべるのは次のような句だ。

わけあってバナナの皮を持ち歩く  楢崎進弘
弁当を砂漠へ取りに行ったまま   筒井祥文

なぜそんなことが起こるのかという合理的説明ができない。
「太陽がまぶしかったからだ」というのはカミュの『異邦人』だが、かつて関悦史が川柳の不条理について書いていたことを思い出した。

びっしりと毛が生えている壷の中  石部明

関悦史は「『難解』な川柳が読みたい」(「バックストローク」33号)でこの句について、次のように述べている。
「これら字義通りに読めば現代美術のインスタレーション作品かSF風味の不条理コントのように奇妙さが楽しめ、結果として現実と異なる因果律を持つ別世界を類推させてくれる句も、中に『毛が生えている壷』とは何を風刺しているかと対象を特定しようとすると途端に不毛な読みを誘発することになる」

川柳は不条理な出来事を詠むものだと一般化する気はないし、またそんなことをすれば読みが限定されてしまうのだけれど、なぜ自分がこんな目にあわなければいけないのか、という解決できない謎に私たちはいくらでも直面する。昨今の世界や現実がいよいよ怪しいものになってきた。

不条理な火事を訪ねて蟹が来る   小池正博

2020年2月15日土曜日

暮田真名『補遺』批評会のことなど

2月9日、三鷹の「かたらいの道市民スペース」で暮田真名の第一句集『補遺』の批評会が開催された。昨年10月に開催されるはずだったのが、台風のため延期になっていた集まりである。
三鷹には何度か行ったことがあるが、いつも水中書店のある北口方面なので、今回は南口を探検してみた。「太宰治文学サロン」が出来ていたので覗いてみる。「トカトントン」の展示があった。太宰の墓がある禅林寺には数十年前に行ったことがあるので、今回は行くつもりはなかったが、批評会までにまだ時間があるので歩いてゆくことにした。以前とはずいぶん変わって立派な斎場になっている。墓地は昔のままで森鷗外の墓と太宰治の墓が向かい合わせになっている。太宰の墓の写真をとる人が向かいの鷗外のところから撮影するので、鷗外墓の方が荒らされるという話を聞いた覚えがあるが、今はどちらも人気がなく静かであった。
昨年は新潟で「坂口安吾風の館」に行ったので、無頼派ゆかりの地に縁がある。「戦後」という時代も遙か過去になった感じがする。
さて、批評会の方だが、主催「川柳スープレックス」で、報告者は平岡直子と柳本々々。
平岡は「短歌にとって川柳とはなにか」「川柳にとって寿司とはなにか」「言葉にとってかわいいとはなにか」という三つのテーマで語った。興味深かったのは導入で平岡が語った部分。平岡は川柳との交流ができて5年になるが、歌人であるゆえに川柳を誤解しているのではないかという不安を感じるという。川柳の句集の批評はむずかしい。歌集の批評は作者の品評会だが、川柳句集は作者を再構成する部品として機能しない。句集を出しても作者が得をするようにはなっていない。蜃気楼のように作者を突き抜けて作品に手が届く。ざっと、そのような話だったと思う。
柳本は「わたしはどこにも行きたくない、ここにいたい」というタイトルで、暮田の「OD寿司」、石田柊馬の「もなか」、兵頭全郎のポテトチップス(「開封後は早めにお召し上がり下さい」)の三つの食べ物を題材とした連作を引いて現代川柳の特質を語った。キャラクターとキャラの違い、川柳は「交換芸術」、それまで世界で起こらなかったことが、言葉によって世界のルールを試してゆく、いろんな世界の可能性を試してゆく、など。
「推し句バトル」のコーナー、それぞれの推し句は次の通り。

川合大祐の推し句 そろばんを囲んだ そんな夏はない
平岡直子の推し句 かなしみと枯山水がこみ上げる
笹川諒の推し句  ダイヤモンドダストにえさをやらなくちゃ
小池正博の推し句 良い寿司は関節がよく曲がるんだ

プレゼンと質疑のあと会場の挙手によって、平岡が勝利。
「OD寿司」の「OD」は「オーバードーズ」(薬の過剰摂取)という意味らしい。
この日の参加者は歌人が多く、歌人が川柳をどう見ているかを改めて意識させられた。

批評会に来ていた山口勲さんから「て、わたし」7号をいただいた。彼には「川柳スパイラル」5号に「語り手の声が聞こえる詩」を書いていただいたことがある。
「て、わたし」7号の特集はアメリカ合衆国の韓国系の詩人で社会活動家のフラニー・チョイ。ヤリタミサコ、西山敦子、堀田季何、山口勲の四人が訳している。
山口の解説によると、収録されているうちの三つの詩は実際のできごとをきっかけに書かれた作品だということだ。
白人男性が自分の作品に注目を集めるためだけにアジア人のペンネームを使って詩を投稿したことに対する怒りから書かれた「チェ・ジョンミン」。
女性へのストリートハラストメントを描いた「『俺、豚肉が好きなんだぜ』と通りで私にわめいた男へ」。
アジア系の警察官が黒人を誤射殺害した事件をめぐる「ピーター・リャンへ」。
山口は「川柳スパイラル」5号掲載の文章で同性愛の黒人女性の詩やロヒンギャについての詩を紹介したあと、こんなふうに書いている。
「私が今回紹介したものは必ずしも『詩的』ではないのかもしれません。作品と人を切り離すべきだという考えから外れた前近代的な捉え方かもしれません。けれども、様々な怒りを通過した作品は近代日本が経験した言文一致とも通じ、声を通すことで社会や自分自身の生活と深く結びつく二十一世紀の文学だと信じています」

「俳壇」3月号に新鋭俳人として中山奈々が紹介されている。中山の俳句とエッセイに松本てふこの中山奈々論が付いている。松本の句集『汗の果実』(邑書林)のことは先月触れたが、もう一冊、宮本佳世乃の第二句集『三〇一号室』(港の人)が好評だ。梅田蔦屋書店ではこの二冊が並んで置かれている。
宮本佳世乃の句は「豆の木」や「オルガン」で読んでいたし、第一句集『鳥飛ぶ仕組み』(現代俳句協会新鋭シリーズ)も手元にある。いつごろから宮本のことを知るようになったのか、もう覚えていないが、俳句のイベントに行くと受付で見かけることがあったりして、自然と挨拶をかわすようになったのだろう。
『鳥飛ぶ仕組み』から次の二句を並べて抜き出してみよう。

二人ゐて一人は冬の耳となる
郭公の森にふたりとなりにけり

「二人と一人」ということが意識されている。「一人」ではなくて「二人のうちの一人」という意識である。二人でいるということが孤独を忘れさせる場合もあれば、二人でいることによって孤独感が深まる場合もある。二人のうちの一人が「冬の耳」となったのなら、もう一人はどうなったのだろう。二人でいるためには「郭公の森」でなければならなかった。それはなぜなんだろう。分かるような気もするし、本当のところは分からないような気もする。この二句にマークを入れたということは、そのときの私の気分に響くところがあったのだろう。
『鳥飛ぶ仕組み』の帯文で石寒太はこんなふうに書いている。
「彼女は『俳句をつくっている時間は、どこか別の場所に行っているように心地いいのだ』という。本当にはじめて会った時に直感した通りの、まさに« 俳句人間 »なのである」

私は川柳フィールドにいるので、俳句の文体にはなじめないところがある。だから、宮本の句のうちでも文末が「~にけり」とか「~たる」となっているものに対しては、「ああ俳句だな」と思うだけだ。『三〇一号室』の中で私がおもしろいと思うのはいかにも俳句らしい句ではなくて、次のような句。(三〇一号室というのだから、三階のいちばん端の部屋だろうか。)

かなかなに血の集まってゐるばかり
こどもつぎつぎ胡桃の谷へ入りゆく
素数から冬の書店に辿りつく
空港に歩いてゆける勾玉屋
掌が枇杷となるまで触れてゐる
白蝶のただ追ひたれば職質され

最期にネットプリント「MITASASA」第12号から三田三郎の短歌を紹介しておこう。

気を付けろ俺は真顔のふりをしてマスクの下で笑っているぞ   三田三郎

2020年1月31日金曜日

眞鍋呉夫の俳句と連句‐『眞鍋呉夫全句集』(書肆子午線)

『眞鍋呉夫全句集』(書肆子午線)を送っていただいた。
眞鍋呉夫は小説家・俳人であるだけではなく連句人でもあるので、かねてから関心をもっていた。私の手元にあるのは『眞鍋呉夫句集 定本雪女』(邑書林句集文庫)、『眞鍋呉夫句集』(芸林21世紀文庫)、『夢みる力 わが詞華感愛抄』(ふらんす堂文庫)の三冊だが、今回全句集のかたちで読めるのは嬉しい。

眞鍋の三冊の句集のなかでまず読むべきなのは、やはり第二句集の『雪女』だろう。
雪月花の句を引用しておこう。

雪女見しより瘧をさまらず
口紅のあるかなきかに雪女

月天心まだ首だけがみつからず
われ鯱となりて鯨を追ふ月夜

唇吸へば花は光を曳いて墜ち
花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく

全句集の跋に高橋睦郎は「雪月花の人」という文章を書いている。
眞鍋呉夫の第二句集『雪女』、第三句『月魄』、第一句集『花火』。
「三つの句集名の上一字づつ取れば俳諧にいわゆる竪題の雪月花、ここから俳人眞鍋呉夫を名付けるなら、雪月花の人ということになろうか。これを別の言葉でいえば生涯かけて俳諧の骨を探りつづけた人ということだ」
さすがに高橋睦郎は俳諧(連句)の美意識について理解がゆき届いている。
それにしても、なぜ「雪女」なのか。
雪女の句にリアリティがあるのは、眞鍋が雪女を単なる昔話としてではなく、その存在を感得しているからだろう。『定本 雪女』(邑書林句集文庫)の後記で眞鍋は「雪女」「鎌鼬」「竈猫」などの季語について過去の事象として忘れられかけていることを述べたあとこんなふうに書いている。
「しかし、だからといって、これらの季語を生みだすに至ったより根源的な契機が、われわれの生命の母胎としての自然への畏敬にほかならなかったことを見おとすならば、その眼は節穴にひとしい、と言われても仕方があるまい。」「即ち、そういう本質的な意味では、『雪女』や『鎌鼬』や『竈猫』などは、時代錯誤的であるどころか、むしろ、最も未来的な可能性を孕んだ季語中の季語だ、といっても過言ではない」(「『雪女』の問題」)
「わが国の昔話や俳諧などによって伝承されてきたいわゆる『雪女』は、前近代の豪雪地帯における雪の猛威から生まれた幻想だという。しかし、私をして忌憚なく言わしむれば、この種の妖怪の本質は、新しい詩と宗教と科学に分化する以前の混沌とした、それだけにきわめて創造的なエネルギーのかたまりのようなものであろうと思う」(「『雪女』再考」)
鈴木牧之の『北越雪譜』や柳田国男の『妖怪談義』に通じる世界である。
句集『雪女』は歴程賞と読売文学賞を受賞している。俳句の賞ではなく、主として詩集に与えられる歴程賞を受賞したということは、眞鍋の俳句が詩的イメージの強い一行の詩として読まれたということだろう。
なお、邑書林版の『雪女』の解説は連句人(レンキスト)浅沼璞が書いている。「物のひかり」というタイトルで、浅沼の『中層連句宣言』に収録されている。

眞鍋の第一句集『花火』は芸林書房の『眞鍋呉夫句集』に14句だけ抄出されていたが、今回その全貌を知ることができた。

秋空に人も花火も打ち上げよ
ひとりぼつち雲から垂れたぶらんこに
恥毛剃る音まで青き夜の深み
聲出して哭くまい魚も孤獨なる
わがひとの不幸のほくろやみでもみえる

序詩を矢山哲治が書いている。

小さな唇もとを忍び、花火は胸うちに埋まつた。菊花を燭し、勲章のやうに吊つてある。やがて夜葦の戦ぎに紛れて、ひそかに鳴り始むるだらう。

矢山を中心に阿川弘之、島尾敏雄、那珂太郎などと同人誌「こをろ」が発行されていた。眞鍋の青春時代。『花火』は昭和16年発行、眞鍋21歳であった。
昭和18年、矢山哲治は西鉄の踏切で轢死した。自殺か事故死かは不明だという。

第三句集『月魄』(つきしろ)は2010年、邑書林から刊行されている。このとき作者は90歳。第44回蛇笏賞を受賞。

初夢は死ぬなと泣きしところまで
ひと食ひし淵より螢湧きいづる
雪を来て戀の軀となりにけり
この世より突き出し釘よ去年今年
吹雪く夜の無垢な二人となりにけり

最後に眞鍋呉夫の連句人としての面に触れておこう。
連句界で彼は眞鍋天魚の名で知られていた。全句集の年譜から、彼がかかわった主なものを抜き出しておく。

1974年 林富士馬の手引きにより東京義仲寺連句会の連衆となる。
1977年、俳諧誌「杏花村」創刊 高藤武馬、山地春眠子、八木壮一、わだとしお、村松定史など
1982年、「魚の会」佐々木基一(大魚)、野田真吉(魚々)、那珂太郎(黙魚)
1995年、「雹の会」那珂太郎、寺田博、司修、豊田健次、石川紀子など
2002年、「紫薇」に参加

『連句年鑑』に掲載の拙稿「橋閒石と非懐紙をめぐる八章」で、私は「野分」の巻(「紫薇」26号)を紹介したことがあるが、ここに再録しておきたい。澁谷道との両吟である。

雨漏りをよけてまた寝る野分かな   眞鍋天魚
榠樝匂へる板の間の闇       澁谷 道
幻が時計の捻子を巻きにくる        魚
議長ひとりが席に着きをり        道
鬨の声怒濤のごとく押し寄せて       魚
国の境は目にみえぬもの         道
「虚空もと色なし」といふ言やよし     魚
菫の束に結び文して           道
朧夜の微かにふるへゆるむ衣        道
擁けば泪のにじむ眥           魚
葬の日の螺旋階段垂直に          道
視野をかすめて都鳥翔ぶ         魚
熱燗に兜煮の味なつかしく         道
三センチほど長き右腕          魚
たれも居ぬテニスコートに球の音      道
鬚根のはえしドラム罐見よ        魚

2020年1月24日金曜日

「文フリ京都」と「川柳スパイラル」大阪句会

1月19日(日)に「文フリ京都」が「みやこめっせ」で開催され、「川柳スパイラル」からも出店した。当初「毎週WEB句会」も出店の予定で、隣接配置を楽しみにしていたが、森山文切が超多忙のため出店をとりやめたので、今回も短歌のブースに挟まれての開店となった。毎週WEB句会に川柳を出句しているという人や、暮田真名の『補遺』を読んで川柳に興味をもったという人の来店もあって、コスパはよくないものの、文フリへの参加はそれなりの意味があるようだ。主催者発表では参加者2110名で、出店者が約660名だから、残りが一般来場者ということになる。会場の「みやこめっせ」は京都の文化ゾーンである岡﨑公園の一角にあり、京都国立近代美術館や京都市美術館も近い。数十年以前、中学生の私が「邪馬台国展」を見に行った京都市美術館も今や京セラ美術館にかわり、茫々とした時の流れを感じる。

「文フリ京都」の前日、「川柳スパイラル」大阪句会を「たかつガーデン」で開催した。ゲストに瀬戸夏子を招き、近況を話してもらった。ネットで「日本のヤバい女たち、集まりました」という記事を見つけたときは驚いたが、はらだ有彩の『日本のヤバい女の子』にちなむものだったらしい。瀬戸はすでに柏書房のwebマガジンに「大西民子と北沢郁子」を発表している。
「川柳スパイラル」7号の合評会で同人や会員の出席者の作品を中心に話しあったあと、互選句会を行った。句会の結果はすでに「川柳スパイラル」の掲示板に上げてあるが、高得点句を書き留めておこう。

金柑の中の王都を煮詰めよう     笹川諒
霊魂にも植物園の住み心地      櫻井周太
半々の々を選んでもう出口      兵頭全郎
半分は犬で残りの半分も犬      楢崎進弘

今回の7号の特集は「短歌と詩の交わるところ」で、『子実体日記』の彦坂美喜子と『揺れる水のカノン』の金川宏に寄稿してもらっている。あまり短歌の特集ばかりに傾いてもいけないので、次号8号には中村冨二論と渡辺隆夫論を取り上げ、バランスをとる予定。8号は3月下旬発行、5月6日の「文フリ東京」に持っていこうと思っている。また、「文フリ東京」の前日の5月5日には「川柳スパイラル」創刊3周年大会を「北とぴあ」で開催するつもりで、いまプランを練っているところである。

「川柳北田辺」第110号が届いた。
昨年まで毎月発行だったが、今号から隔月発行となっている。その分、句会報が充実し、桂屯所句会と北田辺句会の両方が収録されている。「残された時間と、残された体力を考えて見ると、今、しなければ何も変わらない」(くんじろう)

卍という字はささがきから作る    井上一筒
出て行けと言ったあとの顔が梢    榊陽子
眠ったら死ぬかもしれぬベビーカー  中山奈々
パルチザンを分母にカフェ「ナチス」 山口ろっぱ
ひくいところでくちびるをなめる   川合千春
ミッキーはだから浮気ができないの  中山奈々

昨年送っていただいたのに、きちんと読めないまま年を越してしまった句集に松本てふこの『汗の果実』(邑書林)がある。彼女の句は『俳コレ』以来ある程度読んでいる気がしていたが、今度読んでおもしろいと思った句を引用しておく。

ごみとなるまでしばらくは落椿   松本てふこ
花は葉にまたねとうまく笑はねば
だんじりのてつぺんにゐて勃つてゐる
凩のこれは水辺のなまぐささ
料峭の逢へばよそよそしき人よ
くちづけのあと春泥につきとばす

土岐友浩の短歌時評『サーキュレーターズ』も昨年送っていただいて、読めないままになっていたが、その第8回「夕暮れについて」で我妻俊樹歌集『足の踏み場、象の墓場』に言及されている。「率」10号に掲載された歌集だが、我妻さんには2018年5月の「川柳スパイラル」東京句会にゲストとして来ていただいて、彼の川柳作品100句を収録した冊子「眩しすぎる星を減らしてくれ」も作ったのだが、そのときの話をきちんとテープ起こしして記録しておけばよかったと今にして思う。

ネットプリント「ウマとヒマワリ7」が手元にあり、我妻俊樹と平岡直子の対談「短歌は無意味なのか?」が掲載されている。これがなかなかおもしろい。Aが我妻、Hが平岡である。

A Hさんは最近俳句を作るそうだけど、俳句を作ると短歌を作れなくなったりしない?
H しますね。アカウントの切り替えをしなきゃいけない感じ。川柳だったら短歌とは別ファイルではありつつ同じアカウント内で作れるけど、俳句は無理。俳句も慣れてくると短歌と平行して作ることはできるけど、それは単に切り替えが早くなるだけで、同一アカウントとして作れるようになる日は来ないと思う。

こんな調子で続き、「A 短歌と川柳は近いというか、近いものとして扱いたい」「H 俳句を作ってると、おー、自分の身体を捨てて鉄のねじになってこの星を動かすんだー、って思う」「A 歌会はあくまで評のライブであって、歌のライブじゃないことに若干納得のいかなさがある」など興味深い発言がある。
短歌の歌会と川柳句会との違いは先日「川柳スパイラル」句会に参加した複数の歌人からも感想として聞くことができた。
以前と比べると、実作を通じてのジャンル相互の交流が進んできており、そのことが結果的に自己のジャンルの深化につながってゆくはずだ。

2020年1月17日金曜日

2020年代がはじまった

2020年がはじまった。
いささか時機を失した感があるが、「歳旦三つ物」の拙吟を。

俳諧の裾野広がれ初山河
鼠算式ふえる年玉
密使来て石の上にも三年と

鼠の川柳を探してみたが、これというものが見つからないので、柴田宵曲の『俳諧博物誌』(岩波文庫)から鼠の俳句をご紹介。

西寺のさくら告げ来よ老鼠  暁台
春風や鼠のなめる角田川   一茶
鼠にもやがてなじまん冬籠  其角
しぐるるや鼠のわたる琴の上 蕪村
皿を踏む鼠の音のさむさかな 蕪村

ルナールの『博物誌』に対して柴田宵曲は動植物の俳句を渉猟している。
「鼠」以外では「兎」の章がおもしろかった。

猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな   蕪村

其角の「句兄弟」にも触れている。

つくづくと画図の兎や冬の月   仙化
つくづくと壁の兎や冬籠     其角

前者は冬の月の面に兎のかたちを認めたもの、後者は壁にかけた兎の絵とも読めるが、自分の影法師が壁にうつっているのが兎の形に見えると読んだ方がおもしろいという。

連句と川柳について、昨年から今年に向けての展望を改めて述べておきたい。
連句(俳諧)については総合誌的なものが存在しない現状なので、日本連句協会が発行している「連句」(隔月刊)のほか、各地で開催される大会の作品集を集めるしかない。私の手元にあるのは次のようなものである。昨年の大会開催日をあわせてご紹介。

『2019えひめ俵口全国連句大会入選作品集』(2019年4月開催)
『第二回あつたの杜連句まつり』(2019年5月開催)
『第十三回宮城県連句大会作品集』(20019年6月開催)
『第43回国民文化祭・にいがた2019、連句の祭典入選作品集』(2019年11月開催)
鹿児島県連句協会では設立三周年を記念して形式自由の募吟を行い、『全国連句大会応募作品集』(2019年12月開催)を発行。

日本連句協会では年鑑を発行しているほか、「連句」の広報・拡散のためにYouTubeを作成している。初回が小島ケイタニーラブ、第二回が文月悠光。第三回は女性講談師の日向ひまわり。現在ここまで公開されているが、第四回のSHINGО☆西成。第五回のミュシュランガイド掲載の料理人、今村正輝出演の分も近日公開されると思う。「#ミーツ連句」で検索していただくと、どなたでもご覧いただける。

連句でも「発信」「拡散」という発想がようやく出てきた感があるが、川柳でも森山文切のように「川柳の営業をやる」と公言する川柳人が出てきた。

昨年末に届いた「川柳杜人」264号(2019年冬)に「終刊のあいさつ」が掲載された。発行人の都築裕孝による文章で、昭和22年10月創刊で72年になること、同人は創刊以来いつも10人前後の少数で活動してきたこと、同人の高齢化により「杜人」の発行・維持が困難になってきたことなどが書かれている。ただし今すぐ終刊になるのではなく、2020年冬発行の268号が最終号になるという。「杜人」についてはこの時評でも何度か取り上げてきたし、私自身この川柳誌から多くのことを学んできた。最近では若手川柳人の原稿を掲載するなど、誌面の活性化がはかられていたのに残念だ。あと4号、大切に読みたい。
同人作品から。

琴線にいたずらするの御法度よ   広瀬ちえみ
さよならが言えない鳥を飼っている 大和田八千代
犯人はワタシだったの紅葉狩    佐藤みさ子
お久し振りねだけど今年の雪虫ね  浮千草

2020年代に入り、終わってゆくものと新しく生まれてゆくものがある。
時間の流れとはそういうものだろう。
21世紀に入ってからすでに20年が経過した。この20年の間に川柳ではどのようなことがあったのか。振り返ってみる作業が必要だし、そこから新たに出発することも必要だろう。
昨年末に発行された『石部明の川柳と挑発』(新葉館ブックス、堺利彦監修)を読むと、この20年の川柳活動が歴史になりつつあることを感じる。
墨作二郎・石部明・渡辺隆夫・海地大破・筒井祥文はすでにいない。
「川柳スパイラル」誌も創刊から足かけ三年目に入る。1月19日(日)に開催される「文フリ京都」に出店するが、かつて「バックストローク」に掲載した「新・現代川柳の切り口」を冊子にまとめたものを販売する。「川柳における身体性」「ゼロ年代の川柳表現」「『私性』と『批評性』」「『柳多留』にかえれとは誰も言わない」「川柳における感情表現」「川柳とイロニー」の六章を収録し、タイトルを『ゼロ年代の川柳表現』とした。お立ちよりの機会があれば、手に取ってご覧いただければ幸いである。

2019年12月28日土曜日

2019年回顧(川柳篇)

瀬戸夏子著『現実のクリストファー・ロビン』(書肆子午線、2019年3月)のことから話をはじめよう。この本は瀬戸が書いた2009年から2017年までの文章と作品が収められている。短歌の話題が主だが、現代川柳のことも取り上げられている。

「私がすごく川柳に惹かれたのは、言葉の使い方が俳句とも短歌とも現代詩とも違うんですよね。それがすごく新 鮮だった。とくに短歌を読みなれていると、ぎょっとすると 思う。これは他では絶対に使えない言葉とか、この用法は絶対ないな、俳句にもないなという語法や用法。」
「言葉をどう光らせるか、陰影を作るか、言葉をどう浮かせるか、目立たせるか。それで、私は川柳に触れたことがほとんどなかったので、同じ定型詩なのに言葉の浮かせ方や使い方がこれまで読んできた定型詩とは全く違ったのがすごく新鮮だった。なので、読者としてすごく夢中になって、今の時点で言うと、単純に読者としてすごく刺激を得られるのが大きい」(「瀬戸夏子ロングインタビュー」)

瀬戸夏子を入り口として短歌フィールドの表現者たちが現代川柳の世界に入ってくるようになった。暮田真名はそんな一人である。
暮田真名句集『補遺』(2019年5月)の巻頭に置かれた次の句は暮田がはじめて作った川柳作品らしい。

印鑑の自壊 眠れば十二月  暮田真名

昨年10月に予定されていた『補遺』の句評会は台風のため延期となったが、来年の2月9日に改めて開催されることになっている。川柳をはじめて2年で句集を出し、句評会を開催するという、従来の川柳人とはまったく異なる動き方をする若手作者が登場してきた。

八上桐子の『hibi』(港の人)が刊行されたのは昨年だが、今年5月に句評会が東京・王子の「北とぴあ」で開催された。報告者は牛隆佑・飯島章友の二人。参加者がそれぞれ句集の感想を語り合ったので、句評会というよりは句集の読書会のようなものになった。
その後、八上はフクロウ会議の『蕪のなかの夜に』に参加。フクロウ会議は、八上桐子(川柳)、牛隆佑(短歌)、櫻井周太(詩)のユニットである。内向きの川柳人が多いなかで、彼女は他ジャンルとも交流しながら作品を作ってゆく。これも従来の川柳人にはあまり見られなかった動きである。八上は9月28日に梅田・蔦屋書店で開催された「現代川柳と現代短歌の交差点」でも岡野大嗣・平岡直子・なかはられいこと並んでパネラーをつとめた。

もえて燃えきってひかりにふれる白    八上桐子
しろい夜のどこかで蕪が甘くなる

句集の刊行として注目されるのは、柳本々々の『バームクーヘンでわたしは眠った』(春陽堂書店、2019年8月)である。川柳日記というかたちで、春陽堂のホームページに連載したものを一書にまとめている。イラストは安福望。

年賀状がだせなくてもまだ続いてく世界  柳本々々

その柳本との対談を収録している竹井紫乙句集『菫橋』(港の人、2019年10月)。

川原君は駄菓子で出来ているね  竹井紫乙

新家完司川柳句集(七)『令和元年』(新葉館出版)。
完司は五年ごとに句集をまとめ発行している。この持続力は見上げたものである。

大胆に行こうこの世は肝試し    新家完司
悪口は言わずノートに書いている

昨年亡くなった筒井祥文の遺句集『座る祥文・立つ祥文』(筒井祥文句集発行委員会)が12月に上梓された。「座る祥文」はセレクション柳人『筒井祥文』から、「立つ祥文」はそれ以後の句が収録されている。

あり余る時間が亀を亀にした    筒井祥文
何となく疲れて海に腰かける

今年もこれで終わりだと思っていると、年末になり『石部明の川柳と挑発』(葉文館ブックス、2019年12月25日)が発行されたので驚いた。堺利彦・監修。石部明の若くて元気だったころの写真も掲載されている。石部の作品は比較的よく知られていると思うが、「冬の犬以後」の章から何句か紹介する。

肉体のどこ抱けばいい桜餅   石部明
あぶな絵のちらちらちらと雪もよい
黄昏を降りるあるぜんちん一座

こうして振り返ってみると、以前に比べて今年はずいぶんたくさんの句集・川柳本が発行されたものだ。
最初に短歌フィールドにいる表現者たちの川柳への関心について述べたが、短歌フィールドの表現者である三田三郎や笹川諒も最近は川柳に傾斜してきている。「ぱんたれい」vol.1から笹川諒の作品。

みずぎわ、とあなたの声で川が呼ぶ   笹川諒
ゆっくりと燃えないパフェを食べている 
風鈴を非営利で鳴らしています

もはや川柳界の内部とか外部とか言っている場合ではない。作品としての川柳に関心を持ち、川柳のテクストから刺激を受け取っている作者や読者が徐々に増えてきているのであり、その傾向は来年も続くだろう。