2018年2月16日金曜日

二冊の句集―浪越靖政と猫田千恵子

新葉館出版から川柳作家ベストコレクションというシリーズが発行されている。本日はその中から浪越靖政と猫田千恵子の二冊の句集を紹介したい。

浪越靖政は北海道・江別市在住の川柳人。北海道は大正末年に田中五呂八が小樽で新興川柳運動を起こして以来、独自の風土と歴史をもっている。関西にいると北海道の川柳界のことはよく分からないが、浪越の編集する「水脈」を通じて様子が伝わってくる。
たとえば、「水脈」47号(2017年12月)には次のような作品が掲載されている。

足りないものばかり探している鎖骨   酒井麗水
胸像のあるヘヤ酸欠の思考       中島かよ
海馬から見放されたよドレミのド    平井詔子
月はいま点字ブロック通過中      岩渕比呂子
パピルスを剥がせば紀元前の貌     落合魯忠
切り抜きは読まずに捨てる猫のひげ   一戸涼子
未だ手放せぬ村田式銃 のようなもの  浪越靖政

浪越の句集に話を戻すが、「あとがき」によると、浪越が川柳をはじめたのは1973年、30歳のとき。小樽川柳社「こなゆき」への投句のあと、釧路川柳社・札幌川柳社・旭川源流川柳社などに所属。1996年に飯尾麻佐子を中心とする「あんぐる」創刊同人、同誌が廃刊のあと2002年に「水脈」創刊、その編集人となる。
ちなみに、飯尾麻佐子は女性川柳にとって重要な存在である。「魚」を創刊して女性川柳人に発表の場を提供した。「魚」から「あんぐる」を経て「水脈」で活躍している女性川柳人に一戸涼子がいる。
さて、浪越の句集は第一章「V字回復」、第二章「日没を待って」に分かれ、第一章は「川柳さっぽろ」掲載作品、第二章は「水脈」「短詩サロン」「バックストローク」「川柳カード」「触光」などの掲載作品だという。

旧姓で呼ぶと振り向くキタキツネ
妄想が前頭葉を占拠する
蝶と目が合って彼岸へ誘われる
Vサインしたまま雪に埋もれてく
旧石器時代の愛し方もある (以上、第一章から)

日没を待ってダミーと入れ替わる
杏仁豆腐の気持ちはどうも分からない
うっかりと見せるカラスの後頭部
三日月になっても尾行続けてる
時により入口役もする出口
自動消去まで十年を切っている (以上、第二章から)

川柳人は発表誌によって作風を使い分ける場合があり、第一章は「気楽に読んでもらえる作品」、第二章は「もう一人の自分が詠んだ作品」だという。川上三太郎の二刀流を思い出すが、読者はそんな区別を気にせずに好きな作品を読んでゆけばいいと思う。

猫田千恵子は愛知県半田市在住の川柳人。
句集の略歴によると、2009年「川柳きぬうらクラブ」に入会、2015年「ねじまき句会」に参加とある。なかはられいこが発行している「川柳ねじまき」には第3号から作品を掲載している。最新号の「川柳ねじまき」4号(2018年1月)には次のような句が掲載されている。

轢いた時ペットボトルがちぇっと鳴る   猫田千恵子
落ちちゃった少うし跳ねただけなのに
端っこの席に聞きたいことがある
頬骨のカーブが同じ顔二つ

さて、句集の方は第一章「海」、第二章「空」の二部構成。
「私の内面に向かって書いた句」を「海」、「外へ向かっていった句」を「空」としてまとめたという。私は半田市には新見南吉記念館や南吉生家を見に訪れたことがある。

全身に海沸き立ってくる 好きだ
一体は裸で眠る花の下
純粋な興味で押してみたボタン
同意する間もなく鍋に入れられる
終わったようだぞろぞろ出てきたよ
中心に立つと不安になってくる (以上、第一章)

秋の気配は肉球の温かさ
世界など何度もここで滅ぼした
人間が乗る一枚の磁気カード
連なった鳥居の奥は猫屋敷
朝になる普通の人が起きてくる (以上、第二章)

第一章には川柳性のある句が多く、第二章はそこから先に進んで冒険する句を集めているのかなと思った。そのことは、たとえば次の二句の書き方の違いに表れている。

シャツ一枚だけ北向きに干している
果てしない時空に白いシャツを干す

2018年2月9日金曜日

水にだって闇はある―八上桐子句集『hibi』

八上桐子の第一句集『hibi』(港の人)が発行された。
八上の作品は今までも「川柳ねじまき」などで読んでいるし、句会や川柳のイベントでときどき顔をあわせることもあるが、ようやく句集というまとまったかたちで彼女の作品を読むことができるようになった。
句集のプロフィールによると、八上は2004年「時実新子の川柳大学」入会。2007年終刊まで会員。以後、無所属、とある。結社や川柳グループに所属せずに、独自の存在感を示して川柳を続けるのは、それほど簡単なことではない。
2016年、八上は葉ね文庫の壁に針金アートの升田学とのコラボを展示した。新生「guca」にも紹介されているように、葉ね壁は牛隆佑のプロデュースによるアートと短詩作品の共同制作で、ときどき展示替えがある。八上の作品「有馬湯女」は腰紐に句を書いて垂らしておくという斬新なものだった。仄聞するところによると、そのときのトーク・イベントで句集の発行を望むリクエストに対して八上は前向きに応えたということだ。葉ね壁が句集上梓への契機となったのである。
八上には「本」というものに対するこだわりがある。フリーペーパーの場合でも、以前発行されていた「Senryu So」や現在発行されている「THANATOS」など、けっこう凝ったものである。活字に対するこだわりもあって、活版印刷でないと嫌だという発言を聞いたことがある。今回の句集は残念ながら活版ではなかったようだが、鎌倉の「港の人」まで出向いて装丁のプランを話し合ったというだけあって、美しい本に仕上がっている。
では、句集の収録作品について述べていこう。
全体は六章に分かれ、各章が28句ずつ、最後の章だけが32句、全部で172句が収録されている。厳選である。
読んでゆくと作者の愛用する語が繰り返し出てくるのに気づく。最も目につくのが「水」である。それは巻頭句からすでにはじまっている。

降りてゆく水の匂いになってゆく     
呼べばしばらく水に浮かんでいる名前
鳥の声になるまで水を見てなさい
水を 夜をうすめる水をください
散歩する水には映らない人と
もう夜を寝かしつけたのかしら水

愛用語というのは諸刃の刃である。自分の世界を適切に表現できると同時にマンネリズムに陥る危険をはらんでいる。けれども、この句集のおける「水」が読者を飽きさせないだけの実質をもっているのは作者の実力なのだろう。
「川」「海」「雨」など、「水」関係の句はさらに多様に展開してゆく。

少年の1人は川を読んでいる     
そうか川もしずかな獣だったのか
川沿いに来るえんとつの頃のこと
青がまた深まる画素の粗い海

「水」の句はこれまでにもたくさん書かれてきた。たとえば、畑美樹。

こんにちはと水の輪をわたされる    畑美樹
体内の水を揺らさず立ちあがる
逢うまでの水をこぼして歩いている
一本の水を買う正確な姿勢

畑美樹の場合、水は体内水位であったり恋愛感情の揺れであったり、水を中心とする世界認識であったりする。水は作者の「私性」と結びついている。
八上の場合、水は二律背反的な意味をもった存在である。それは「水」とペアになる「闇」や「夜」によって示される。

おひとりさまですかと闇に通される 
踵やら肘やら夜の裂け目から
くちびると闇の間がいいんだよ
向き合ってきれいに鳥を食べる夜

清浄な水の世界は背後に闇をかかえることによって屈折したものになる。水は闇を中和する存在でもあるし、水の背後にちらりと見える闇は、日常を破綻させないように適度にコントロールされている。
「hibi」というタイトルは最初「日々」かと思ったが、「罅」かもしれない。日常の中に入った微かな罅を八上は静かに見つめているのだろう。
あと、いいなと思った句を挙げておく。

雲の流れてインディアンの口承詩
冷蔵庫だけが大きな家でした
歩いたことないリカちゃんのふくらはぎ
その手がしなかったかもしれないこと
まばたきをするたび舟が消えている
くるうほど凪いで一枚のガラス

栞は、なかはられいこ・正岡豊・小津夜景の三人が書いている。
句集「hibi」は葉ね文庫だけではなく、東京・大阪・神戸のいくつかの書店にも置かれている。通販でも手に入る。従来、川柳句集は上梓するだけで精一杯で、本としての美しさや読者に届けるための販路まで手がまわらなかった。無所属というスタイルも含めて、八上桐子はひとつの道を切り開いたということができる。

2018年2月2日金曜日

村井見也子の川柳

1月28日、京都の「川柳 凜」の句会に出席した。
京都の川柳界はけっこう複雑で、1978年に「平安」が解散したあと、「新京都」「都大路」「京かがみ」が生まれた。さらに、「新京都」が終刊したあと、生まれた結社のひとつが「凜」である。「凜」を創立した村井見也子(むらい・みやこ)がこの1月に亡くなり、追悼の気持ちもあって「凜」の句会に参加したのである。

神の手にいつかは返す飯茶碗   村井見也子

村井見也子のよく知られている句である。
村井は1930年生まれ。結婚して京都に住むようになり、1970年に北川絢一郎に師事して川柳をはじめた。平安川柳社同人、新京都創立同人をへて、絢一郎の死後「凜」を創立。
村井の句を読む機会は少ないと思われるので、句集『薄日』(1991年)から、少し多めに抜き出しておきたい。

まぼろしと逢える切符が今ここに
信じたくなって篠つく雨を出る
弱気へのいたわりなのか朝の虹
春の雪ポストに胸の火を落す
まだ刑の終らぬ足袋を干している
いくつ訃に出会う厨の薄明り
ほつほつと火の立つ骨を拾うべし
降る雪の一色ならぬけもの道
たかが一生花を降らせて討たれよう
仰ぐ塔があって三年五年待つ
介錯はだれであろうと双乳房
不覚にも朝の枕に生き残る
爪を切る音よけものが目を覚ます
掌の蛍匂う危うい刻がくる
樹に凭れるやさしい緑ではないか
一冊の辞書をときどき敵にして
雨の日もしずかに爪が伸びてくる
父系母系の何を見たくて指めがね
低唱やうろこ一枚ずつ落す
償いは終った絵ろうそくの芯
卒塔婆一枚わが身の軽さではないか
春愁のとうふ一丁身に余る
男から見えぬところで煮こぼれる
滅ぶもの美しければ沖へ出る

新潮増刊の『短歌・俳句・川柳101年』(1993年)の1991年の欄に『薄日』が収録されていて、ちなみにこの年の短歌が加藤治郎の『マイ・ロマンサー』、俳句が江里昭彦の『ロマンチック・ラブ・イデオロギー』になっている。川柳を担当している大西泰世は村井についてこんなふうに解説している。
「『京女』と呼ぶのにふさわしい、物腰やわらかな村井見也子が詠む句材は、日常生活の中で日々必要とするもの、たとえば〈足袋〉〈傘〉であり、〈鍋〉〈箸〉〈飯茶碗〉というような、あまりにも生活に密着しすぎて、ともすれば俗に落ちやすい可能性の高いものも多い」
「しかし、それらの素材も見也子の手にかかると、一見、はかなげな表面をたたえながら、ふっと息を吹きかければ、たちまち立ち上がってくる炎を隠し持つ燠のように芯で燃え続けている一句として屹立する」

私はベタな日常詠は好まないので、「傘」「鍋」「箸」などの句は引用していない。また、「情念川柳」という言い方も好きではないが、一時期、川柳界で「情念川柳」という言葉が流行ったことがある。村井もまた「情念の見也子」という受け止め方をされている。
前掲の引用に続いて『101年』では次のように書かれている。

「考えてみれば、〈箸〉や〈飯茶碗〉のように、毎日使うものであるからこそ、愛憎を手でなぞりながら、思いを連綿と持続させることが出来るのだろう。声高に「わたくし」を叫ぶことなく、あくまでもしんしんとうたう、〈情念の見也子〉と言われるゆえんである」

「もの」と「こころ」の関係。〈情念〉と言ってしまえば、女性川柳を一面的にとらえることになってしまうが、見也子の作品は現代の眼から見て乗り越えなければならない部分を含みつつ、時実新子とは少し異なった方向性をもっているように思う。

2017年になって見也子の第二句集『月見草の沖』(あざみエージェント)が上梓された。

雨期に入る京の仏は伏し目がち
歌声をだんだん高くして泣いた
そうだまだ人形になる手があった
月見草の沖へ捧げるわが挽歌
人よりも先に笑っていくじなし
少し猫背になってやがてに近くいる
鶴になる紙を急がせてはならぬ
もの言わぬ爪から順に切ってゆく
あと少し見せていただく紙芝居
食べて寝てこわいところへ降りてゆく

現在、「凜」の発行人をつとめている桑原伸吉は、この句集が出たときに、「見也子さんの最初の句集は、平成三年に女性として意味深い内容の『薄日』があり、今は亡き定金冬二さんの序文の中に『自分に対して厳しいものを持っている。だからこそ『女ごころ』が生き生きと息をしているのであろう。』とある。作品構成の用語の一つ一つに細心の注意が払われていて、しかも定型を順守それが作者のポリシーと思う」と述べたあと、「あれから二十六年、『川柳人としての区切りという意味での上梓』と作者はおっしゃるが、同じ道を来た者にとっては言葉がない」「『月見草の沖』はやはり見也子川柳、前述の如く何かを伝えようとする一語一語に意味性があって、見事な自己表現がなされている」と書いている(「凜」70号、2017年夏)
『薄日』の世界が乗り越えられたのかどうかはともかく、生前に第二句集が出たことはよかったと思う。
「凜」は今年4月22日に「20年記念のつどい」を開催するという。創刊10年の大会のときには墨作二郎が記念講演をおこなった。自分に対して厳しかったという村井見也子の姿勢を反映してか、「凜」は対外的なアピールについては控えめである。「20年記念のつどい」が盛会となるように祈念している。

哀しいときは哀しいように背を伸ばす   村井見也子

2018年1月27日土曜日

「川柳スパイラル」京都句会と文フリ京都

1月19日 
国立文楽劇場で文楽初春公演を見る。
八代目竹本綱太夫五十回忌追善と六代目竹本織太夫襲名披露を兼ねた公演である。
竹本咲甫太夫を改め、竹本織太夫となる、その襲名口上は師匠の咲太夫がつとめた。歌舞伎では口上を本人もいうが、文楽では本人は黙って礼をしているだけである。
新・織太夫の演目は「摂州合邦辻」。
玉手御前が義理の息子である俊徳丸に恋をする。このテーマはフランス古典劇のラシーヌ「フェードル」とよく比べられる。
玉手御前の変相。親を訪ねてゆく娘としての玉手御前、恋に狂乱する女としての玉手御前、本心を明かしたあとの母としての玉手御前。彼女の三変が見どころ、聴きどころである。
文楽を見た後、梅田蔦屋書店、スタンダードブックストア心斎橋、葉ね文庫の三軒の書店を回る。蔦屋書店では置いてある川柳本を確認。スタンダードブックストアは先日『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(木下龍也・岡野大嗣)のトークがあった店。短歌のフェアもやっている。この歌集は重版出来になったそうで、短歌に関心が集まり、あわせて他の歌集も売れるといいなと思う。川柳にも注目が集まるともっと嬉しい。
瀬戸夏子がツイッターで「葉ね文庫さん、わたしが知ってる空間のなかでいちばん近いのは自分が在籍していたころの早稲田短歌会の部室かもなあ、と思い、なつかしくなりました」と書いている。本があって、やってきた人が本についての話ができる空間は貴重だ。

1月20日
「川柳スパイラル」京都句会を開催。
創刊号の合評会を兼ねた句会で、昨年12月に東京で開いたが、関西句会は京都でおこなうということになった。中京区上妙覚寺町にある町屋を会場に借りたので、ふだんとは異なる雰囲気が味わえたのではないかと思う。近くには京都国際漫画ミュージアムもある。
高知から「川柳木馬」の清水かおりを招いて、お話をうかがった。
海地大破の話からはじめる。清水にはあらかじめ大破さんの五句選をしてきてもらう。

階段を降りてさすらう鰯かな
雨だれをじっと見ている脳軟化
はらわたで拍子木が鳴るさむい一日
妻は他人で虹の真下の遺書を書く
満月の猫はひらりとあの世まで

大破の作品がルサンチマンや病涯句という図式からはみ出すものを持っていること、「死」のテーマに関して石部明と比べることで両者の作品に新たな光を当てることができるのではないか、など新たな発見があった。このときの対談内容は「川柳スパイラル」第2号に掲載する予定。
対談のあと創刊号の合評会。同人作品と会員の出席者の作品を中心に話し合う。
休憩をはさんで句会。句会の速報は「川柳スパイラル」掲示板に掲載してある。
終了後、近くの居酒屋で懇親会。
東京句会と京都句会では参加者も異なり、同じ内容の繰り返しにならなかったので、今後も東京と関西の両方で句会を続けてゆきたい。次回の東京句会は5月5日(「文フリ東京」の前日)「北とぴあ」で開催の予定。

1月21日
「第二回文フリ京都」に、「川柳スパイラル」として出店した。
「川柳スパイラル」のほか、清水かおりにもって来てもらった「川柳木馬」のバックナンバーも並べた。
この日は午後から京都で連句会があり、連句人が数人、午前中に来てくれた。
あと、ブースに立ち寄った未知の方々と川柳の話をしたが、短詩型文学に興味をもつ人であっても川柳のことはあまり知られていないということを改めて感じた。
「庫内灯」3号を購入。
「現代詩手帖」1月号の俳句時評で外山一機が触れていたので、読みたいと思っていた冊子である。特に読みたかったのは正井となかやまなな(中山奈々)の文章。
「私とBLと俳句と短歌」で正井はこんなふうに書いている。

〈 対話を求める方に対しては、真摯に応えたいと思います。しかし、自らが評価する側にいると信じて疑わない人の言う、「なぜBLか、必然性はあるのか」という要請に答える義務はないと私は思います。なぜなら、BL短歌やBL俳句、あるいはBLは、評価したい側のためのものではないからです 〉

正井がこのように書くのは、私にもよくわかるような気がする。現代川柳もまた俳句や短歌から説明を求められ続けてきたからだ。
正井とは読書会「昭和俳句なう」でいっしょになったことがあるし、文フリでも何度か顔をあわせたことがあるが、「庫内灯」3号はBLというものがどういうものか知りたい人には必読の一冊だと思う。

2018年1月12日金曜日

川柳を売るということ―文フリ京都をひかえて

年末年始、ケーブルテレビでドラマの再放送を何本か見たが、その中で「重版出来」がおもしろかった。黒木華が演じる新米社員がコミックの出版社の編集部に配属され、漫画家の担当になったり書店を回ったりする。元気な彼女に影響されて、「幽霊」というあだ名のやる気のない営業担当が本気になってゆく話など、夢物語だと思いつつ引き込まれるところがあった。よい作品が必ず売れるとは限らないが、編集者と営業と書店の店員が連携すれば、本は読者に届くというのである。「重版出来(じゅうはんしゅったい)」というのは売り上げが伸びた本の再版が决まることを言うらしい。逆に、売れ残った本が工場で裁断されてゆく場面もあった。

従来、川柳の同人誌は販売ということを考えていなかった。
同人は同人費を払って作品を掲載してもらい、掲載誌を受け取って満足するというシステムで、一般読者に読んでもらう機会というのは少ない。購読者は「誌友」と呼ばれて、会費を払うことでその同人誌を支援するのである。雑誌経営はおおむね赤字である。
純粋読者が存在しないから、作品は他者としての読者が読むのではなく、作者自身や周囲の川柳人がおもしろいと思うような作品であれば良いのである。
柳誌を販売しようとすれば、ます一般読者が読んでもおもしろいような作品と文章を掲載する必要がある。販売できるだけの内実が必要となるのだ。
結局、どのような読者を想定して柳誌を発行するかという問題で、同人・会員を主とするか、川柳や短詩型文学に関心をもつ一般読者をターゲットとするか、両者を折衷した中間的な川柳誌とするかの選択を迫られる。もし、売ることだけを目的とすれば、大衆的な川柳誌になる。
以前、若手の歌人だったか俳人だったかが、「私の書くものは作品であると同時に商品だ」というようなことを書いているのを読んで、反発を感じたことがあるが、それはそれでひとつの覚悟を示していたのだろう。

句集の場合はどうかというと、贈呈が中心であり、不特定多数の読者が書店で川柳句集を買うというルートはほぼ存在しない。
まず、句集を発行するところにハードルがあって、かつては短歌・俳句なら出すが川柳句集は出さないという出版社が多かった。現在は川柳句集を発行する出版社も少数ながら存在するのでありがたい。
主な川柳本を紹介しておくと―
川柳アンソロジーとして『現代川柳の精鋭たち』(北宋社・2000年)が便利だったが、この出版社はもう存在しない。句集シリーズとしては邑書林の「セレクション柳人」(全20巻・ただし一部未刊)が比較的手に入りやすい。別冊として『セレクション柳人』も発行されていて、現代川柳論に興味のある方は読んでいただきたい。あと、「あざみエージェント」が川柳句集を出しており、左右社から「かもめ舎川柳新書」、東奥日報社から「東奥文芸叢書・川柳」が出ている。飯塚書店からは田口麦彦の『フォト川柳への誘い』『アート川柳への誘い』『スポーツ川柳』など。川柳ハンドブックとしては『現代川柳ハンドブック』(雄山閣)、事典としては『川柳総合大事典』(雄山閣、ただし4巻のうち2巻のみ出版)がある。あと、三省堂から『新現代川柳必携』『現代川柳鑑賞事典』『現代川柳女流鑑賞事典』が出ている。
手に入りやすいのは、『15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房)で、この本の川柳の部分からおもしろいと思った川柳人の他の作品へと関心を広げてゆくのがよいと思う。
このように川柳関係の書籍は絶無ではないが手に入りにくいので、過去の資料を調べようとすれば国会図書館や関西では大阪市立中央図書館へ行くしかない。岩手県北上市の現代詩歌文学館にも川柳資料がある。

川柳を売るということに話を戻すと、書店を通じた流通があまり期待できない現状では、「文学フリマ」などで直接販売するのもひとつの方法である。1月21日の「第二回文フリ京都」には「川柳スパイラル」として出店するが、これは「川柳界から唯一の出店」である(このフレーズは毎回繰り返しているが、状況は変わらない)。なぜ川柳の出店が他にないかというと、高齢化している川柳人は若い人々が多く集まる文フリの存在を知らないか、知っていても関心がないからである。出店してもあまり売れないので、文フリに出店するくらいなら大規模な川柳大会で本を直接販売した方が目先の効率はよいということになる。
では川柳のフリマに特化して実施すればいいのではないか。そう思って、私は2015年・2016年に「川柳フリマ」を二回実施した。川柳本を出版している数社の協力をえ、ゲストに歌人を招いて対談も行い、川柳人以外にも関心がもてるようなイベントになるよう心がけた。ある程度の人数が集まり、本も少しは売れたのだが、出店料を抑え出店数もそれほど多くなかったので会計的に黒字にはならなかった。慈善事業では続けることができない。
今回の文フリ京都では「川柳スパイラル」創刊号や『川柳サイドSpiral Wave』『水牛の余波』などの川柳句集、川柳誌のバックナンバー、「タナトス」などのフリーペーパーを並べる。2ブース借りているので、川柳資料(非売品)も若干展示するスペースがある。私は連句人でもあり、『浪速の芭蕉祭・入選作品集』などの連句冊子も置く予定。「川柳と連句の店」の看板を掲げようと思っている。
本が売れなくても(売れればもちろん嬉しいが)、来場の方々には川柳の話をしに気軽にブースに来ていただきたい。

最後に、冒頭に書いたような本屋さんとの連繋について。「重版出来」は夢物語だが、最近では川柳に対して好意的な本屋さんもあるので、ルートを拡げる努力はしてゆきたい。
これまで川柳の流通は「投壜通信」のイメージで、孤島から壜に入れた手紙を流すようなものだったが、近ごろようやく普通郵便程度のイメージがもてるようになった気がする。

2018年1月5日金曜日

「玄関の覗き穴」と「母性のディストピア」

年末年始は「逃げ恥」の再放送や高麗屋三代襲名のテレビを見ていて、あまり本や雑誌を読めなかったが、管見に入ったあれこれを書き留めておきたい。

木下龍也と岡野大嗣の歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(ナナロク社)のサイン会、あちこちで開催されているようだが、12月29日の葉ね文庫の会に行ってみた。岡野には2016年7月に飯田良祐句集『実朝の首』を読む会にゲストとして来てもらったことがある。
午後7時過ぎに行くと、すでに葉ね文庫はサインをしてもらいに来た人々でいっぱいだった。二人の歌人の人気おそるべし。
歌集は「男子高校生ふたりの七日間をふたりの歌人が短歌で描いた物語、217首のミステリー」という設定で、7/1から7/6までの日付別になっている。二人が交互に詠んでいる章、木下だけの章、岡野だけの章など変化をもたせている。作者がある人物を借りて詠む「成り代わり」の歌は前衛短歌以後ときどき見かけるが、男女の相聞ではなくて、高校生ふたりの成り代わりというのは新鮮な気がした。物語性もあり、7/1・7/2・7/3・7/4と時間の順に進んだあと7/7が挿入され、遡行して7/5・7/6になって終わるという構成になっている。7/7に何かの出来事があったことが暗示されている。
おもしろい歌が多かったが、二首ずつ紹介しておく。

消しゴムにきみの名を書く(ミニチュアの墓石のようだ)ぼくの名も書く 木下龍也
まだ味があるのにガムを吐かされてくちびるを奪われた風の日

目のまえを過ぎゆく人のそれぞれに続きがあることのおそろしさ    岡野大嗣
近づいて来ているように見えていた人が離れていく人だった

私も列に並んで岡野と木下にサインをしてもらったが、岡野が飯田良祐のことを話してくれたのが嬉しかった。岡野がサインしてくれた短歌と飯田良祐の川柳を並べて書いておきたい。

倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使   岡野大嗣
天国へいいえ二階へ行くのです               飯田良祐

「現代詩手帖」1月号、短歌時評は瀬戸夏子、俳句時評が外山一機の担当になった。
この二人の時評を同時に読めるとは贅沢なことである。
瀬戸の時評は木下龍也の短歌を取り上げている。木下は「あなたのための短歌」ということで、短歌の販売をしている。依頼があれば依頼者ひとりのために短歌をつくって送るというやり方である。時評では瀬戸が木下に依頼した短歌が紹介されている。短歌総合誌を取り上げるのではなく、こういうところから時評をはじめるのはいかにも瀬戸夏子らしい。
外山の俳句時評はBL俳句誌「庫内灯」3号を取り上げている。BL読み・百合読みについては語られることが多くなったが、外山が特に注目したのは中山奈々の文章である。中山は「百鳥」「里」の若手俳人で、昨年話題になった「早稲田文学・女性号」にも作品を発表している。「庫内灯」3号は1月21日の「文フリ京都」でも出店・販売されるはずである。
瀬戸も外山も昨年は角川の「短歌」「俳句」で時評を担当したが、今年は「現代詩手帖」という媒体で、狭い意味での歌壇・俳壇の枠を超えたところで書いている。これからも時評が楽しみだ。

年末年始は宇野常寛の『母性のディストピア』(集英社)を読んでいた。
宮崎駿・富野由悠季・押井守などについてのアニメ論が中心だが、ベースにあるのは「政治と文学」である。
「政治と文学」論や江藤淳の『成熟と喪失』は私にもなじみがある。個々のアニメについてはあまり見ていないので理解できない部分もあったが、ロボット・アニメの歴史や「海のトリトン」の後味の悪い最終回のこと、いまよく使われる「黒歴史」という言葉の由来など、いろいろ分かった。
本書の前提となるのは「虚構=仮想現実の時代」から「拡張現実の時代」へという時代認識である。

「グローバル/情報化が進行した今日において機能している反現実は、現実の一部を虚構化することで拡張するいわば〈拡張現実〉的な虚構だ」

インターネットは現実と切断された仮想現実を構築するものでも、複雑な現実を整理統合するものでもなく、モノと人を虚構を経由することなく直接つなぐものであり、虚構ではなく現実と結託するものだと宇野は言う。虚構と現実の関係は決定的に変化したのであり、「あらゆる虚構が現実から独立し得なくなったいま、批判力のある虚構はどうあるべきか」というのが彼の問題意識である。

最後に畏友・野口裕の第一句集『のほほんと』(まろうど社)を紹介しておきたい。
野口とは2006年から2011年まで「五七五定型」という二人誌をいっしょに出していて、俳句・川柳という分け方ではなく、「五七五定型」という視点から何ができるかという発想で5号まで発行した。野口は「俳人」と呼ばれることを嫌う。私は野口のことはよく知っていると思っていたが、句集では私の知らない彼の作品も多く、おもしろく読んだ。

蒼白と塗られ一つ目の木が燃える     野口裕
飛ぶ蝉が緑陰の葉に突き当たる
生きものよ鏡の向こう こちら側
川に聞く泡のまわりは水なのか
マスクして動物臭をたしかめる
空蝉に蝉が入ってゆくところ

表紙絵は彼の子息・野口毅によるもの。前述の「五七五定型」5号の表紙にも同じ絵が使われている。

2017年12月29日金曜日

2017年・今年の10句

今年もあと数日を残すのみとなった。
今年はどのような川柳作品が書かれ発表されたのか。
印象にのこった10句を挙げてみる。例年通り極私的なものであることをお断りしておく。

ソマリアのだあれも座れない食卓   滋野さち

川柳杜人創刊70周年記念句会(2017年11月4日開催)から。「川柳杜人」256号、宿題「席」(高橋かづき選)に掲載。
内戦・難民・海賊などソマリアについての断片的なニュースは入ってくるが、日本のテレビはアフリカ諸国の紛争についてあまり取り上げることがない。部族対立や周辺国との関係、国連の介入の不成功など、さまざまな経緯があって現在も混乱状態が続いているようだ。
食卓は人間生活にとって欠かせないものである。そこに人が集まり、食事をする。食べるものが食べられるということが平和の第一歩なのである。
掲出句は食卓に焦点をしぼり、そこに「だあれも座れない」現実を見据えている。川柳で時事句はたくさん書かれているが、批評性と文芸性を兼ね備えた作品を書くことはむつかしい。掲出句は今年の秀句の第一に挙げたい。

愛咬の顎は地上に出られない     清水かおり

「川柳木馬」154号(2017年11月)掲載。
「愛咬」の語、川柳では「愛咬やはるかはるかにさくら散る」(時実新子)が有名。清水かおりがこの語を使ったのがまずおもしろいと思った。
もちろん清水の場合は情念句ではない。「愛咬」→「顎」のア音によって一句が成立していて、「愛咬」は「顎」を導き出すための枕詞的な働きをしている。意味の中心は「顎は地上に出られない」にあるだろう。一種の閉塞感である。
「川柳木馬」は9月に亡くなった海地大破の追悼号になっている。

黙ってな声に出したら消されるよ   樹萄らき

「川柳サイドSpiral Wave」2号(2017年9月)掲載。
樹萄らきは伊那在住の川柳人。その気っぷのよい作風にはファンが多い。
川柳誌「旬」「裸木」などに作品を発表しているが、「川柳サイドSpiral Wave」2号で30句まとめて読むことができる。
「おばさんはカッコイイのさ 認めろ」「小童め傷つかぬよう必死だな」などの句もおもしろいが、掲出句は特に諷刺や皮肉が効いている。
女性たちが声をあげるようになってきた現状、まだまだ声をあげにくい現状がせめぎあっている。

モハでキハでキンコンカン兄貴   酒井かがり

「川柳サイドSpiral Wave」2号(2017年9月)掲載。
酒井かがりは今年関西で活躍の目立った川柳人のひとりだ。
家族をテーマにした連作のなかの一句で、兄については「煙たなびく月刊兄貴」「強剪定の果ての棒っきれ兄貴」「勝手口で待つノック式兄貴」などがあるが、掲出句は意味がわからないけれど何だかおもしろくて記憶に残る。

必ず暗くなるので夜を名乗らせて  我妻俊樹

「SH4」(2017年5月)掲載。
我妻俊樹は歌人で怪談作家としても活躍。「率」10号には誌上歌集『足の踏み場、象の墓場』を掲載。最近ではネットプリントで小説「天才歌人ヤマダ・ワタル」を発表して短歌界を諷刺している。「SH」は瀬戸夏子と平岡直子が発行している川柳作品集で4号は5月の文フリ東京で発売された。掲出句は「迷子たちのためのチャリティ」30句から。
「路線図を塗り分けたのち虹となる」「見るからにキャラメルだけがきみの過去」など飛躍感と言葉の斡旋の仕方や言語感覚が心地よい。
他ジャンルの表現者が川柳作品を書く機会が徐々に増えてゆくことと思われるが、川柳側もそれを受けとめるアンテナを常に出しておきたい。

そりゃあ君丹波橋なら韮卵     くんじろう

「川柳カード」14号(2017年3月)掲載。
丹波橋は近鉄線・京阪線の駅名。固有名詞(地名)を用いた川柳である。
ただ、この地名は和歌における歌枕のような具体的なイメージを喚起しない。
しかも、いっそうわかりにくくしているのが「韮卵」との関連性である。
「そりゃあ君」と言われても挨拶に困るのだ。
けれども、この句のおもしろさはそこにある。「丹波橋」と「韮卵」がこの句のなかで一回的に結びついた、その断言の魅力といったらよいだろうか。
掲出誌では入交佐妃がこの句に柵の上にとまっている小鳥の後ろ姿の写真を添えていて、コラボのおもしろさが生まれる。

たぶん彼女はスパイだけれどプードル     兵頭全郎

「川柳スパイラル」創刊号(2017年11月)掲載。
タイトルは〈『悲しみのスパイ』小林麻美MVより〉となっている。
小林麻美はある世代より上の年齢の読者にはよく知られている名前だ。
「雨音はショパンの調べ」とか巷に流れていた。
兵頭全郎は作句の触媒となるものをまず設定して、そこから作品を書くことが多いから、連作のかたちをとる。「悲しみのスパイ」が題(前句)となるのだ。
固有名詞はイメージを喚起しやすいが、このタイトルを外して読んでもさまざま自由な読みが可能だろう。タイトルにひっぱられ過ぎない方がおもしろいかもしれない。

電あ波い脳す波る波こ長と血     川合大祐

「川柳スパイラル」創刊号掲載。
表現の前衛性の背後にメッセージがこめられている。
「波」のつく熟語を並べているのだが、その間にはさまれている平仮名に意味がこめられているようだ。
あいすること電波脳波波長と血。

毎度おなじみ主体交換でございます   飯島章友

「川柳サイドSpiral Wave」1号(2017年1月)掲載。
廃品回収のパロディだが、一句の眼目は「主体交換」にある。
従来川柳は自己表出だと思われてきたが、その表出すべき「主体」が簡単に交換されてしまうようなものだとすれば、表現の根拠は崩壊してしまう。即ち「主体」こそ不安定きわまりないものなのだ。
そのような現代の状況を「重くれ」ではなく「軽み」で表現している。「猫の道魔の道(然れば通る) だれ」の方が作品としてはおもしろいかもしれないが、あえて掲出句を選んでおく。

ほんとうに、ほんとうに、ながいたたかいに、なる  柳本々々

「川柳の仲間 旬」212号(2017年7月)掲載。
「本当に本当に長い戦いになる」は散文だが、全部平仮名にして読点を打つことによって作品にしている。散文と川柳の関係はとても微妙だ。
私の世代は「言葉」から川柳を書く傾向が強くて、それは次の世代にもある程度受け継がれていると思うが、柳本の作品にはメッセージ性というか、何か人生論的なものを感じる。
「たたかい」と言うならば、何とたたかっているかというと、虚無とたたかっているのである。

では、よいお年をお迎えください。
来年もよろしくお願いします。