2017年9月22日金曜日

第五回文学フリマ大阪

9月18日、「第五回文学フリマ大阪」に参加・出店した。
文フリというものに出店するのはこれで五回目である。大阪には第三回から参加。あと京都に一回、東京に一回。五回の経験からいろいろ思うところがあったが、それは後にして、当日ゲットしたものの中から二冊ご紹介。

まず、短歌から「ぱらぷりゅい」。12人の女性歌人による一回だけの冊子だという。メンバーは岩尾淳子・江戸雪・大森静佳・尾崎まゆみ・河野美砂子・沙羅みなみ・中津昌子・野田かおり・前田康子・松城ゆき・やすたけまり・山下泉。
代表の尾崎まゆみはこんなふうに書いている。

「一冊限りの特別な冊子を、いつも歌会などで会う人たちと作りたいと思ったのは、去年初めて行った大阪文学フリマで自作の冊子を売っている人たちが楽しそうだったから」

「女性に限定」「関西」の二つの括りがある。
各12首の短歌のほか参加者の第一歌集の書評を並べるという企画である。あと、歌会の記録。パラプリュイはフランス語で雨傘。日傘はパラソル。ちなみに漢字の「傘」の画数は十二画。12で徹底している。

女には関係のない場があるとやさしい眉のむなしい声で        江戸雪
ひとがひとに溺れることの、息継ぎのたびに海星を握り潰してしまう  大森静佳
鯉川筋をあるく少女のまなざしのまぶし 再度山の濃緑        尾崎まゆみ
ざんねんな探偵としてわれはわれに雇われていたり今日も推理す    山下泉

そういえば山下泉『光の引用』の歌評会に出席したことを思い出す。

二冊目は『カラマーゾフの犬』。ドストエフスキー五大長編アンソロジーとあるが、ドストエフスキーの二次制作なのだろう。『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『白痴』『未成年』のそれぞれに漫画と小説や短歌・俳句が付く。企画・編集はmerongreeという人。メロングリーと読むのだろう。

ドストエフスキーはもういない。だから、わたしはゆるされる。

ということで、「全国に数人いるドストエフスキークラスタが創作した『自分が見たいドストエフスキー(自分が描かなきゃ出ない新刊)』を収録したのが本誌です」とある。

以上、二冊を紹介したのは内容もおもしろかったが、文フリに向けての制作の仕方にも刺激になるところがあったからだ。
私は今回「川柳サイドSpiral Wave」の名で出店したのだが、川柳から他の出店はなかった。大阪では昨年・一昨年も同じようなものだったが、「川柳界から唯一の出店」と強がってみても、川柳の存在感の薄さは覆うべくもない。特に感じたのは、かたまりとして川柳から複数の出店がないと、人も集まらないし本も売れないということである。
文フリでは川柳本が売れないから、直接川柳大会に行って句集を売る方がよいという考え方がある。大会・句会に集まっているのは川柳人だから、その方が効率がよいのは事実である。しかし、内輪の人間のなかでやりとりしていても、少しも読者の範囲は広がらないし、会場の片隅を借りて本を売るという販売形態もあまり元気のでるものではない。
いまのところ文フリには出店すること自体に意義があると思って参加しているが、何かしら新しい出店形態や企画を考えないといけないと思った。

今回、文フリ大阪のために用意したのは合同句集『川柳サイドSpiral Wave』第二巻である。
これは今年一月の文フリ京都で販売した第一巻に続くもので、榊陽子が抜けて樹萄らきと酒井かがりが新たに加わっている。各30句収録。

強大な堀北真希が降りて来る           川合大祐
小童め傷つかぬよう必死だな           樹萄らき
お、おにぎりの、の、のりがこわいんだなプツン  飯島章友
握らないでくださいそれは渦です         柳本々々
Hey Siri , What did you do this time ?     兵頭全郎
モハでキハでキンコンカン兄貴          酒井かがり
そうだなあ危険な菊をあげようか         小池正博

またフリーペーパーとして「THANATOS」3号(発行 小池正博・八上桐子)を無料配布した。
石部明の川柳を振りかえるもので、今回は1996年~2002年の作品を50句掲載している。

入口のすぐ真後ろがもう出口      石部明
際限もなく砂がある砂遊び

石部明語録と「川柳人はどのようにして自ら納得できる一句にたどりつくのだろうか」「石部明に『遊魔系』上梓を決意させたものは何だろう」の二本の短文が付く。葉ね文庫にも置いてもらっているので、ご希望の方はどうぞ。今年は石部明没後五年になるので、石部の作品が改めて読まれる機会になれば嬉しい。

2017年9月16日土曜日

会話辞典というコミュニケーション―『きょうごめん行けないんだ』

「現代詩手帖」9月号の俳句時評に田島健一が『きょうごめん行けないんだ』(安福望×柳本々々、発行・食パンとペン)を取り上げている。
今回は書棚からこの本を取り出して、もう一度読んでみることにした。
この本は5月の「文フリ東京」のときに買ったもの。表紙の安福のイラストには猫と少女が描かれている。猫は積み上げた本の上に乗って、少女に両足(前足)を差し出している。少女は本を持っていて、その表紙には「neco」と書いてあるようだ。
裏表紙を見ると「にゃあにゃあ」というタイトルで、次の会話が…。

柳本 にゃにゃあだって伝わるかどうかわからないものね。
安福 にゃあにゃあも伝わることあるかもしれないですね。一回だけとか。
柳本 じゃあ、コミュニケーションは奇跡なんだ。

田島健一も指摘しているように、この本は「コミュニケーション」がひとつのテーマであるらしい。

大阪の中崎町で「とととと展」が開催されたのは2015年8月のことだった。
そのとき柳本が安福望と岡野大嗣の両人と語りあったのは印象的だった。
テーマは「と」である。~「と」~をつなぐ。では、何をつなぐのか。どのようにつなぐのか。

本書の最初のページに「会う」という項目がある。「いつか出会えるものはまた出会えるってフィギュア観なんですよ」と柳本は語っている。

柳本 いつも買おうかどうしようか悩んで買わないでそのまま売り切れて後悔することがけっこうあるんだけど、でもじぶんがほんとうにほしいものってまたでてくるんですよ。またぜったい出会うんです。それをフィギュアから学んだんです。

「出会うものは最終的に出合う」ということを柳本は繰り返し語っている。フィギュアに限らず、人と会うのも同じである。

柳本 あ、そういう機会はちゃんとやってくるんだなって。やすふくさんや岡野さんもそうだし。あ、そうか、会わなければいけないひとには会えるんだなって。(イエローブリックロード)

この本を読みながら、柳本々々とはどういう人なんだろうということを改めて思った。
私は柳本とは何度も会っているし、川柳イベントで対談したこともあるが、考えてみれば個人的なことはほとんど知らない。
柳本との出会いにしても、彼が最初に「川柳カード」にメールしてきたときに、私は正体不明の人物として警戒した。いわば、最初の出会いに失敗したわけだが、その後きちんと交流することができたのは「出会うべきものは出会う」と彼が言う通りだろう。
この本には柳本の個人的なことも話されていて、ああ、そういう経歴だったのかと思うところがあった。彼が川柳の世界に入ってきた必然性のようなものがあるように感じる。表現者であるかぎり、闇や悪の部分を持っているものだが、それが川柳とつながっているのである。
最初に少し違和感を感じたのは、なぜ会話辞典(対談)というスタイルをとるのか、ということだった。語るべきことがあるなら、自分ひとり(個)の責任で語り、表現するべきだという感覚が私のどこかにある。
けれども、「とととと展」以来の「つなぐ思想」は彼のスタイルなのかもしれない。そして、対話の相手として安福は絶妙の存在である。彼女もまた短歌をはじめ短詩型文学について語るべきことをもっているのだ。

あと、二箇所ほど引用してみよう。
まず「うろうろする」。

柳本 うろうろするのがすきなんですよね。そのひとの風景になったりとか。
そうするとそのひとが、あっと気づくみたいな。感想をかくって、うろうろする行為だし。
安福 ほんとだ。
感想はうろうろしてますね。そのひとのまわりを
柳本 本を読む行為もうろうろすることに似てませんか。なんかいったりきたりしたり、とちゅうでやめたり。

次に「あと」から。

柳本 ぼく、やっぱり「あと」がけっこうだいじになってくるのかなとおもって。感想かいてても、ああ、あそこをおれはやりのこしたんだなあとか。やったからこそ、あとでわかるものがあって。
安福 だから絵はその時点までのその短歌についてここまで考えたってことなので、またどこか旅立つんですね。やらないとわからないですね。

柳本がどういう感じで文章を書いているのかがうかがえる。
安福と柳本の対談(会話辞典)というスタイルは今後も続いていくのだろう。楽しみにしている。

2017年9月8日金曜日

福田若之句集『自生地』についてのメモ

福田若之の第一句集『自生地』のメモを書いてみたい。
福田の名前をはじめて知ったのは『俳コレ』の収録句を読んだときだった。

さくら、ひら つながりのよわいぼくたち   福田若之
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る

などの若い感性が新鮮だった。
その後の彼の活躍は周知のところだが、今年になって福田と会う機会が二度ほどあった。論客としておそろしい人かと思っていたが、気さくな好青年だった。
『自生地』の巻頭は次の句である。

梅雨の自室が老人の死ぬ部屋みたいだ

この句には「気がつくと、ふたたびひどい部屋のありさまで、僕はそこに棲んでいる」という文が添えられている。
句に文を添えるかたちの句集を最近よく見かける。
ここでは作者の居る部屋の様子から話がはじまっている。
巻頭句というのはそれなりに自信のある句、句集一冊を支えるだけの実質のある句であることが多い。けれども、この句集の場合は少し様子が違う。
「僕があらためて書くことのできるものは、結局のところ、僕がいまだ捨てられずにいるものでしかない。だから、ついに現実味を帯びることになった句集の制作を、僕は、六年前にとあるアンソロジーに収められた僕自身の作品をこの手で書き写すことからはじめることにした」
この文に続く句群は『俳コレ』に収録された作品群である(ただし一部、変更がある)。
つまり、これは句集をつくるところを見せる句集なのだ。
創られた句(作品)だけがすべてであって、句集には作品だけを収録すべきだという芸術観とは異なり、句集を作りつつある「僕」のプロセスを見せること自体が一種のアートだと言う考えがベースにあるのかもしれない。この句集を読む読者は work in progress として作者とともに歩んでゆく感じをもつ。
そのための仕掛けもいくつかあって、狂言回しのように節目節目で「かまきり」が登場するし、小岱シオン(コノタシオン)といういわくありげな人物も出てくる。コノタシオンはコノテーションだろう。
けれども、そういうことも本当はどうでもよくて、文とは無関係に句を楽しめばいいのかもしれない。
ありきたりだが、句集から10句気に入った句を挙げてみる。

さくら、ひら つながりのよわいぼくたち
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る
突堤で五歳で蟹に挟まれる
いたはずのひとが歩いてこない夏至
ひめりんご夢の乾電池の味だ
誤字を塗りつぶすと森のひとが来る
いつか不可視の桜木町に鳴る車輪
オランウータンの雄逃げコスモスと戻る
悪さして梅雨のあいだを猫でいる
みかん、的な。なんだか話せない僕ら

最後に、句集の帯に三人の書店員さんが言葉を寄せているのは印象的である。葉ね文庫の池上規公子、水中書店の今野真、紀伊国屋新宿本店の梅﨑実奈の三人である。句集を発信してゆく際に、信頼できる書店との共同がこれからますます重要になってゆくだろう。

2017年9月1日金曜日

銃架ともなり得る君の肩―BL短歌・BL俳句のことなど

先日テレビでNHK短歌を見ていると、黒瀬珂瀾がBL短歌として松野志保の歌を紹介していた。興味をもったので『桜前線開架宣言』を開いてみると、次のような歌があった。

好きな色は青と緑というぼくを裏切るように真夏の生理   松野志保
もしぼくが男だったらためらわず凭れた君の肩であろうか
今はただぼくが壊れてゆくさまを少し離れて見つめていてよ
戒厳令を報じる紙面に包まれてダリアようこそぼくらの部屋へ
雑踏を見おろす真昼 銃架ともなり得る君の肩にもたれて 

最初の三首はわかりやすいと思うが、四首目はレジスタンス少年二人を軸にした連作の一首だそうだ。二首目と五首目は直接関係ないが、五首目では「君の肩」は戦争に向かいつつある社会では銃をかつぐものともなりうるという批評的な想像力も働いている。
山田航は『桜前線開架宣言』の解説でこんなふうに書いている。
「いろんな種類の美学を許容するのが現代短歌のいいところであるが、この松野志保はとりわけ異色の美学を追求する歌人だ。凜としたアルトの響きでの詠唱が聞こえてくるような中性的な文体。本人は女性であるが『ぼく』という一人称を好んで歌の中に用いており、少年同士の愛の世界を表現しようとする。いわば『ボーイズラブ短歌』のトップランナーである」
そして山田は「ボーイズラブ的」な短歌は葛原妙子や春日井建にもあったが、松野の新しさは「社会的弱者が変革を求めるときの暴力性に美のあり方を見出そうとしている点」だと言っている。
そういえば春日井建の『未成年』にはこんな歌があった。

両の眼に針射して魚を放ちやるきみを受刑に送るかたみに   春日井建
男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ

獄中の友への同性の恋という設定である。胸に抱かれる鳩に同一化する恋情はとてもエロティックだ。

「BL読みというのはどんなふうに読むのですか?」
ある時なかやまななに訊いたことがある。
彼女が私の川柳もBL読みできると言ったので、びっくりした。

プラハまで行った靴なら親友だ   小池正博

主語は書いていないのだが、この親友同士は男性で恋愛関係にあると妄想するわけである。プラハまで行ったのだから、そこで何かがあったのかもしれない。

BL短歌誌「共有結晶」は手元にないが、BL俳句誌「庫内灯」は文学フリマで手に入れて持っている。「庫内灯」1号(2015年9月)に石原ユキオが「BL俳句の醸し方」を書いている。
「BL俳句に決まった読み方はありません。
漫画や小説を読むように、あるいはゲームや映画やミュージカルのワンシーンにうっとりするように、気軽に楽しんでもらえたらうれしいです」
そして石原はBL俳句を楽しむコツとして「情景を想像し、ストーリーを妄想せよ!」というミッションを与えている。
この号には金原まさ子と佐々木紺の往復書簡も収録されていて興味深い。

少年を食べつくす群がって蝶たち     金原まさ子

この句について金原は、20年くらい前に見た「去年の夏、突然に」というアメリカ映画の物語から作ったもので、本当にどぎついでしょう、と述べたあと「そう言えば、そちらのBL俳句には性の匂いがいたしませんね。すごく清潔で私ははずかしいです」と書いている。「BLは清らかですね」
金原は「庫内灯」2号(2016年9月)には作品を寄せている。他の作者の句もまじえて紹介する。

ふかい歯型の青りんご視てとり乱す    金原まさ子
Tシャツや抱きしめられて絞め返す    石原ユキオ
短夜を同じ湯船や少し寄る        岡田一実
どちらかが起きてどちらかが眠る     なかやまなな
奈落から隧道そして春灯へ        松本てふこ
彼の怒りに触れたし白百合を噛む     実駒

5月の「句集を読み合う 岡村知昭×中村安伸」(関西現俳協青年部)で仲田陽子が中村安伸『虎の夜食』のBL読みを行ったときもびっくりしたが、BL短歌・BL俳句は徐々に浸透してきており、その射程距離は思ったより広いようだ。

2017年8月26日土曜日

少年抄―中村冨二の川柳

1月の「文学フリマ京都」で販売した合同句集『川柳サイドSpiral Wave』に付録として「現代川柳百人一句」(小池正博選)を収録した。そこに中村冨二の次の句を挙げておいた。

美少年 ゼリーのように裸だね    中村冨二

冨二の句としては「たちあがると鬼である」「パチンコ屋オヤ貴方にも影が無い」などがよく引用されるので、別の句を紹介したいと思った。「セロファンを買いに出掛ける蝶夫妻」とどちらにしようか迷ったが、結局「美少年」の方にしたのは、BL短歌・BL俳句のことが意識にあって、川柳にもこんな作品があるということ言いたい気持ちもあった。このことは「川柳スープレックス」で飯島章友が指摘していて、私の選句意図が飯島に見抜かれていたことになる。
一般の読者にはあまり知られていない川柳の遺産というものがあり、それを現代の視点から紹介してゆくのが川柳人の仕事のひとつだと思っている。歴史的な価値はあっても今では古くなってしまった作品も中には存在するが、中村冨二は今でも読むに耐える作者のひとりである。今回は『中村冨二・千句集』から「少年抄」の句を紹介してみたい。

少年の恋 てのひらに 青蛙

冨二には連作が多い。「墓地にて」「鬼」「童話」「帽子」などいろいろあるが、句集では少年をテーマにした句の最初に置かれている。
「恋」と「蛙」のイメージは冨二のなかで結びついていて、「兄の恋は 蛙と読んでいただきたい」「妹の恋は 蛙と書いていただきたい」という句がある。
少年の恋の羞恥も手のひらにのせている蛙のようなものなのだろう。

少年よ、蒼き砦に火矢うつは、君

物語のなかの少年のイメージで、小説か映画か何かを踏まえているのかもしれない。ちなみに冨二は古本屋さんであった。

少年よ 北冥の紅魚は死なぬ

北冥・北溟は北の海。『荘子』に基づいているのかなと思ったが、関係ないかもしれない。少年の内部には北の海の紅魚が棲んでいるのだろう。

少年、明日の針金を直角に曲げる
淫祠あり、少年の舌もチラリと赤し

針金を曲げる少年は「少年」に対する一般的なイメージとして分かりやすい。
「淫祠」になると視線は少年の深層へと向けられる。少年の赤い舌が不穏な雰囲気を醸し出すのだ。

少年は春、蛇は冬、生まれた
蛇の眼は蛍に似ている―少年の姉よ
蛇の居ぬ日の古沼は危い―少年よ
少年の葬列は去り、蛇が居た
少年の合唱降れり、蛇死せり

これらの句を複雑にしているのは少年と蛇の関係性が一義的に決められないからだ。
蛇は心の深層の邪悪ともとれるし、人間であるかぎり誰にとっても必要なものとも受け取れる。単純なプラスイメージ、マイナスイメージではないようだ。死んだのは少年なのか、蛇なのか。

秋に道あり、少年に匂いなし
少年は匂い、馬糞は微笑せり

匂いのない場合と匂いのある場合と。正反対の状況を冨二は詠んでいる。冨二はしばしば複眼的な川柳思考をとる。「生きていると 遠くに嫌な帽子がある」「眠くなると 遠くに好きな帽子がある」のようなペアの思想。

春の夜を 少年少女 影踏み合う
姉嫁ぎ 少年深い灯を見ている
少年あわれ 母の匂うを知らず眠る

ここでは「少年」の「少女」や「姉」「母」などの女性に対する心情がテーマになっている。
ベースにあるのは「性」である。

母の恥部 少年 虫の顔をせり

母の恥部はセックスに関わるものだろう。少年は「虫の顔」をするほかはない。

『中村冨二・千句集』は、なかはられいこさんのブログ「そらとぶうさぎ」で読むことができる。

2017年8月19日土曜日

意識の底の生卵―内田万貴の川柳

夏休みでゆっくりしているうちに時評を更新できないまま時間が過ぎてしまった。
俳句では若手俳人のアンソロジー『天の川銀河発電所』(佐藤文香編)が発行前から話題になっており、連動したイベントも予定されているようだが、川柳では特段の動きもトピックスもない。今回は作品本位で内田万貴の川柳の鑑賞を書いてみることにしたい。

意識の底にひんやりと生卵   内田万貴

「触光」53号から。
食べ物を素材とした川柳はよく見かける。生活実感を詠んだり、意外なものと結びつけたり、いろいろなやり方がある。ここでは意識の底の卵である。
卵には象徴的な意味をこめることもできる。シュールリアリズムの画家・ダリがしばしば卵をモチーフにしたことはよく知られている。
意識と無意識の境界あたりに「生卵」が存在している。その存在が確かな手ざわりをもつのは、「ひんやりと」という感覚を通して捉えられているからだろう。
内田万貴は必ずしも無意識の世界から言葉を取り出してくるタイプの川柳人ではないが、現実生活の表層だけを見ている人でもない。

意訳すると秋のポストはポエムです

「川柳木馬」153号、「作家群像」のコーナー、内田万貴篇から。作家論をくんじろうと山下正雄が書いている。以下に紹介するのはすべて「川柳木馬」から。
「ポスト」「ポエム」と頭韻を踏んでいるのだな、とまず思う。言葉と言葉の結びつきは意味だけではなく、音でも結びついている。
現実に見えているのはポストだが、そこにポエムを感じ取っている。それを「意訳」ととらえているのは機知のはたらきだろう。

山椒魚と同じ吐息だと思う
血管のひとつは仁淀川水系

一句目について、山下正雄は井伏鱒二の「山椒魚」を連想しながら読んでいる。「山椒魚」では「嘆息」だったのが、ここでは「吐息」になっているのだ。
二句目、体内の血管と外部の水系が重ね合わされている。高知出身の作家・宮尾登美子に『仁淀川』という自伝的小説がある。内田万貴も読んでいるはずだが、この句も故郷とルーツを意識した作品である。

乙女らは海のラ音を聞いている

ラ音は調弦のために最初に出す音かと思っていたが、くんじろうの解説によるといろいろな意味があるようだ。
第61回玉野市民川柳大会で特選をとった句で、内田万貴の作品のなかではよく知られているし、作者にとっても愛着のある句だろう。

なにしろ不随意筋ですからとココロ

ココロというものは思うようにならないものだ、ということを「不随意筋」と呼んだ機知の句。「心」ではなく「ココロ」と表現して、筋肉の一種のような感じを出している。

さらっと渡されたねちっとしたもの

内田万貴は「ねちっとしたもの」というような抽象的な言葉をときどき使う。いろいろな局面に当てはまるから、読者は自分の思い浮かべるシチュエーションを当てはめて読むことができる。たとえば「恋」とか「悪意」とか。代入方式である。

鍵穴を抜けた言葉だ侮るな

断言の句である。
鍵穴を抜けてきた言葉にはパワーとエネルギーがあるはずだ。
山下正雄は「鍵穴を抜けた言葉」を作家論のタイトルにしている。

声帯ざわざわ蜜蝋になるところ

蜜蝋は化粧品や食品などにも使われるようだが、私は中世の蝋燭のイメージを思い浮かべたりする。「蜜蝋」という言葉をよく見つけてきたものだと思うし、「ざわざわ」という感覚表現も成功している。

想い馳せると右頬にインカ文字
よしこちゃんの夢の終わりには「つづく」

内田万貴は「川柳木馬」の作家というイメージが強かったが、「木馬」に参加して八年、活動領域を広げようとしているようだ。「作者のことば」に「同じ土壌から違う形や色が実るほどの飛躍を目指して作句を続けたい」と書いている。これからも内田万貴の句を楽しみにしている。

2017年7月28日金曜日

現代歌人集会・『フラワーズ・カンフー』を祝う会のことなど

7月17日
「現代歌人集会in大阪」に行った。
短歌界のことにあまり詳しくないので、漠然と現代歌人の集まりなのだろうと思っていたが、「現代歌人集会」という組織なのだそうで、名古屋以西の歌人の集まりである。結社に無所属でも会員になっている人もいて、鳥居とか虫武一俊も昨年入会している。虫武の『羽虫群』は平成28年度現代歌人集会賞を受賞。
まず大辻隆弘の基調報告があって、「調べ」と「韻律」の違いを正岡子規と伊藤左千夫の「調べ」論争を紹介しながら説明。今回のテーマ「調べの変容~前衛短歌以降」は、永井祐「私たちの好きな句跨り」(「短歌」2015年9月)、阿波野巧也「口語にとって韻律とは何か」(「京大短歌」21号、2015年)が発端となって取り上げられたものらしい。
穂村弘の講演は塚本邦雄・寺山修司から脇川飛鳥まで作品をたどりながら、韻律に限定せずに現代短歌史を語った。レジュメでおもしろかったのは石川信雄の歌集『シネマ』からの次の二首。

くらくなればタイトルがそこに映り出す見よ文字らが瞬いている  石川信雄
わが肩によぢのぼつては踊りゐたミツキイ猿を沼に投げ込む

前者では銀幕と客席が分離しているのに対して、後者では虚構と現実が入り混じっている。ここが転換点だという。
加藤治郎は「口語は前衛短歌の最後のプログラム」と言ったそうだ。考えてみれば川柳は江戸時代から口語を用いているので、口語表現と口語韻律に関しては俳句や短歌より長い蓄積があるはずなのに、それが特段に理論化もされてこなかったのはどういうことなのだろうと改めて考えさせられた。
パネルディスカッションで注目したのは阿波野巧也の報告。阿波野は岡井隆・金子兜太の『短詩型文学論』から話をはじめた。
ちなみに、この本は金子が「はじめに」の章の(付)で次のように書いていることによって川柳人にもよく知られている。

河野春三は「現代川柳への理解」で、俳句と川柳が最短詩としての共通性をもち、現在では内容的にも一致している点を指摘し、「短詩」として一本のジャンルに立ち得ることを語っているが、一面の正当性をもっていると思う。ただ、両者の内容上の本質的差異(川柳の機知と俳句の抒情)は越えられない一線であると思う。

阿波野に話を戻すと、彼は『短詩型文学論』の五つのリズムを紹介したあと、前衛短歌の韻律・ニューウェーブ短歌の韻律・現代の口語短歌の韻律を紹介したが、詳しいことは阿波野の「口語にとって韻律とはなにか」がネットにアップされているので参照することができる。

イベント全体を通じて「(言葉の)快楽」と「批評性」の両立という言い方が頭に残った。

7月22日
小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』が田中裕明賞を受賞したので、その祝賀会が四ツ谷のピザ・レストランで開催された。発起人は上田信治・西原天気・関悦史・柳本々々など9名。当日は俳人だけではなく、川柳人も何人か参加した。
小津夜景の名を最初に知ったのは第二回攝津幸彦賞準賞作品「出アバラヤ記」を「豈」誌上で読んだとき。その後、ネットを中心に活躍が続いたが、縁あって「川柳カード」11号に飯島章友論を、13号に兵頭全郎論を寄稿してもらった。同誌の巻頭写真を依頼している入交佐妃とは学生時代からの友人であることが後でわかった。
今年二月になって『フラワーズ・カンフー』の巻頭句を発句にいただいて、お祝いの歌仙を彼女と巻く機会があった。掲示板「浪速の芭蕉祭」に公開しているので、読んでいただければ幸いである。

あたたかなたぶららさなり雨の降る   小津夜景
落書きをして過ごす早春       小池正博

http://8104.teacup.com/naniwabasyou/bbs

お目にかかるのは初めてだったが、気軽に話しかけていただいて、ありがたかった。
会場には「オルガン」同人をはじめ、若手俳人の姿が多く見られた。8月に左右社から現代俳句アンソロジー『天の川銀河発電所』(佐藤文香編)が発行されるが、そこに収録されている俳人も10名以上出席していたようである。
この日は別の場所で瀬戸夏子と平田有がBL短歌の対談をしており、そちらの方も気になっていた。東京はいろいろなイベントが重なっている。
四ツ谷には有名なジャズ喫茶「いーぐる」がある。祝賀会開催までの時間にジャズを聴こうと思った。地下の店内に入ってみると、この日はジャズではなく、ジョージ・ガーシュインの特集であった。「パリのアメリカ人」などの作曲家である。アイ・ガット・リズムなどを聴いたが、映画「踊らん哉」というのが短時間だがスクリーンに映されて、フレッド・アステアのタップ・ダンスを見ることができたのが楽しかった。

7月23日
前夜は上野に宿泊。
朝、不忍の池を散歩すると、ちょうど蓮の花がたくさん咲いていて眼福を得る。散策しながら今日の句案をねる。
5月の「川柳トーク」のあと東京で句会を開く可能性をさぐっていた。今回は人数が集まるかどうかの不安もあり、恵比寿駅前の貸会議室を予約し、ネットなどで参加者を募ったところ定員の13名の参加があった。昨夜の祝う会に出席した川柳人のほか、遠方からこの句会のために上京された方や、歌人、俳人の参加もあり、ふだんの川柳句会とは違った顔ぶれとなった。
川柳の句会ははじめて(または慣れていない)という人もいるので、単独選(個人選)・共選・互選の三つの形を組み合わせてみた。
ふつう川柳の句会というのは席題(ない場合もある)と兼題(宿題)があり、選者の横に脇取り(呼名係・記名係)がつく。選者が入選句を読み上げ(一度読みと二度読みがある)、会場から作者が大声で名前を言い(呼名)、呼名係が作者名を再び言って記名係が句箋に作者名を記入する。選者の披講と作者の呼名のやりとりにパフォーマンス的要素・朗読的要素があり、はじめての方には珍しいかもしれない。俳句の句会では「季題」と「当季雑詠」などが出されるが、川柳では季語は関係ない点も異なる。
基本は一題一人選だが、それだけではおもしろくないので、共選の場合もある。今回は「誘う」という題で八上桐子と柳本々々が選をした。二人の選者に同じ句を出すのがふつうで、別々の句を出さないのは同一句に対して選者によってどのように選の違いがあるかというのが興味の中心だからである。選者自身も相手の選者に対して同一の句を出す。相手が自句を選んでくれないこともあるのは共選の選者のスリルとなる。
互選というのは少ないが、最近は互選のある句会も増えてきた。参加者全員がそれぞれ良いと思う句を選ぶ互選は歌会・俳句の句会では通常の形だろう。川柳句会が互選から任意選者制になったのには歴史的経緯があり、尾藤三柳の『選者考』に詳しい説明がある。
以上のようなことは川柳人にとっては当然のことだろうが、外部の眼から眺め直してみると、改めて説明するのは案外むずかしい。
さて、当日の句会の結果は、「川柳スパイラル」掲示板に掲載しておいたので、ご興味のある方はご覧いただきたい。

http://6900.teacup.com/senspa/bbs?

次回の「川柳スパイラル東京句会」は12月9日(土)13時から京浜東北線王子駅の「北とぴあ」第一和室で開催の予定。

このブログ、毎週更新できていませんが、来週は夏休みをいただいて休載。次の更新は8月11日以降になります。みなさま、暑い夏を乗り切ってください。