2019年4月30日火曜日

『hibi』を読む日々

×月×日
映画館で「野田版シネカブキ 桜の森の満開の下」を見る。
坂口安吾の作品をもとに野田秀樹が『贋作 桜の森の満開の下』として書いた作品をさらに歌舞伎化したもの。タイトルは「桜の森の満開の下」だが、ストーリー自体は『夜長姫と耳男』の話である。
安吾の原作も読んでみたが、原作の方が深い。野田版はスペクタクルとして見せなければならないのでドタバタするのはやむを得ないのだろう。『吹雪物語』をまだ読んでいなかったので図書館で借りたが、途中で挫折。安吾がもだえ苦しんでいることが伝わってくる観念小説。「暗さは退屈だ」という一節が収穫。
今年の11月には「国民文化祭にいがた2019」が開催されるので新潟の「安吾 風の館」に行ってみたい。
映画を見たあとは桜の宮で現実の桜花の下を散策する。

×月×日
大阪連句懇話会で「短句七七句と自由律」の話をする。
十四字の話は今まで何度もしてきて、古くは「連句協会報」(平成14年2月)に「十四字とは何か」を掲載しているし、拙著『蕩尽の文芸』にも「『十四字』の可能性」という章がある。
「かぜひきたまふ声のうつくし」(越人)は私のもっとも愛唱する付句で、「うつくしい咳につながる間違い電話」という拙句を作ったこともある。
連句には短句と雑(無季)の句があることを改めて意識する。
(飯島章友が「川柳作家による短句フリーペーパー」を作ると言っていて、5月5日の東京句会と5月6日の文フリ東京で配付予定。参加者は飯島章友・石川聡・いなだ豆乃助・大川崇譜・川合大祐・暮田真名・小池正博・本間かもせりの8名で各5句掲載。)

×月×日
『現実のクリストファー・ロビン 瀬戸夏子ノート2009-2017』(書肆子午線)を読む。
瀬戸夏子の名をはじめて聞いたのは正岡豊に「町」を見せてもらったときだった。短歌で新しいと思うことはあまりないが、瀬戸夏子のやっていることは新しい、と正岡は言った。「町」創刊号の「すべてが可能なわたしの家で」だったと思う。
大阪グランフロントの紀伊国屋で短歌フェアがあったとき『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を買った。この歌集では、残念ながら「すべてが可能なわたしの家で」は太字の部分が不明瞭で本来の意図がわかりにくい。
あと、「率」3号の表紙がおもしろいなと思ったことが記憶にある。
大阪で「川柳フリマ」が開催されたあと、カルチャーショックを受けた私は川柳でも同じようなイベントができないかと思った。そのころ開催されたイベント「大阪短歌チョップ」からも刺激を受けたので、文フリとは規模が違うが「川柳フリマ」を開催することにした。でっちあげたと言った方がいいかな。川柳マガジンや邑書林、あざみエージェントなどに声をかけて「現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」(2015年5月)と銘打って川柳句集を並べた。
ネットで案内を発信すると、瀬戸夏子が参加を申し込んできた。びっくり仰天しましたね。
瀬戸は翌年の「第二回川柳フリマ」にも来てくれたし、文フリでよく顔を合わせるようになった。その延長線上で、「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」(2017年5月)というイベントを中野サンプラザで開催したが、このタイトルはインパクトをねらったもので、彼女をバッシングするようなものではまったくない。このときは歌人にもたくさん参加していただいた。
恐い人のようなイメージが強いが、川柳に対して彼女は謙虚だった。ずっと思っていたのは、彼女は川柳に対してなぜこんなに好意的なんだろう、ということだった。
その答らしきものが本書の川柳に触れた部分からうかがえる。
5月5日の「川柳スパイラル」東京句会では瀬戸夏子を選者に招いている。『現実のクリストファー・ロビン』もそのとき販売されるようなので、まだお読みになっていない方はこの機会に。

×月×日
このところ和歌山に行くことが増えて、このお城の見える町に親しみができてきた。
県民文化会館で「連句とぴあ和歌山 はじめての人のための連句会」を開く。
簡単な解説と連句の生命線である三句の渡りについて説明。そのあとワークショップをやり、8句ほど付け進める。
和歌山城天守閣の見える喫茶店で歓談。お一人が八上桐子句集『hibi』を鞄から取り出したので、見せていただくと付箋がいっぱいついている。葉ね文庫でお求めになったようだ。読者の存在はありがたい。
和歌山ラーメンと居酒屋にもずいぶん詳しくなってきた。

×月×日
連句誌「みしみし」創刊号(みしみし舎)が届く。
「みしみし」でネット連句を展開している三島ゆかりが紙媒体で発行したものだ。
歌仙が二巻とその評釈のほか、連衆作品として短歌、俳句、川柳などが掲載されている。

淡水と海水混じる春の水      岡田由季
名を問へば答へてくるるひととゐて、あの鳥は何?あの赤き実は?  田中槐
連載が終わるこんにゃく業界誌   川合大祐
枕木にすみれ運転士は知らない   大塚凱
葉桜や丸善めざし芥川       媚庵
自転車に乗って笛吹く郵便屋    岡本遊凪
船酔ひのやうなブーツとなつてゐる 三島ゆかり

「川柳スパイラル」東京句会には連衆の何人か参加予定。「みしみし」も販売される。

×月×日
第23回えひめ俵口全国連句大会に参加のため、松山に行った。大会前日、川柳グループGOKENのメンバー数人とお話する機会があった。俳都松山と言われるが、松山は川柳も連句も盛んな地である。強力な連句精神がこの都市にも生きていることは心強い。
連句大会がすんだので、これから5月5日の〈八上桐子句集『hibi』読む〉の準備に専念する。当日は「港の人」による句集の販売もある。
暮田真名の句集『補遺』もできたようなので、こちらも読むのが楽しみだ。

2019年4月12日金曜日

木曜何某『いつか資源ゴミになる』

木曜何某(もくよう・なにがし)という人がいて、短歌や自由律俳句を作っているらしい。先日、ある集まりでこの人に会ったので、手元にあった句集『いつか資源ゴミになる』(2016年9月)を開いてみた。短詩型の作品は作者とは切り離されたテクストとして読むべきだと思っているが、作者の風貌に接することで作品に対する興味が湧くのも事実である。

ツリーの星を奪い合う予定だった
難しさを選んでね、の重圧
隠した血で汚してしまう
差し伸べられた手が汚い
お見舞いのフルーツに苦手なのがある
カゴは開けた何故逃げない
遺言が悪口
ショックを隠し切れてしまう
譲り合ったから四天王になった

おもしろい句を書く人だ。人と人との関係性に皮肉な眼が働いていて、川柳の批評性とも通じるところがある。
クリスマスツリーのてっぺんには星が飾られていて欲しいと思うときがあるが、手に入れることができるのは一人だけだ。「奪い合う予定」というところに屈折があり、実際は争奪に参加しなかったのかもしれないし、誰もが奪えずに星を見つめているだけなのかもしれない。助けてあげようと差し伸べられた手が汚れていて、そんな援助ならかえって要らないし、手の汚れが否応なく見えてしまうのだろう。誰もが譲り合っているうちに、そんな気がなかった自分が四天王に祭り上げられてしまっている。「四天王」が効果的だ。
表現されている状況がいろいろ想像できるので、一句を具体的な文脈に置いて読むという楽しみがある。

これ着ろよ、虹の上は寒いぞ
一人の時はドジじゃない
霊だけがカメラ目線
ビンゴだが黙っていよう
桜が怖くて酔ったふりをする
目を間違って全部似てない
電車の窓に映る自分が気まずい
空気の読みすぎで目が悪くなる

そういう気持ちになることが自分にもある、と思わせる句が多い。ビンゴだが、こだわりがあって賞品をもらいに行かない。行ってやるものかという気持ちになるが、実際には貰いに行ってしまうのが人間だ。「電車の窓に映る自分が気まずい」なんて、よく言い当てたものだ。

川柳にも自由律がある。
時実新子は自由律作品を一句も書かなかったという人があるが、そんなことはない。
神戸から出ていた「視野」に新子は自由律作品を寄せている。
「視野」は「ふぁうすと」自由律派の観田鶴太郎などが出していたもので、最初は謄写版印刷だったようだが、末期には葉書に印刷した作品を送るやりかたになった。今だと、西原天気がときどき作る葉書俳句のようなものだ。

どれもさびしさうな羅漢の顔のあちら向きこちら向き 観田鶴太郎
吹消してしばし気にのこる焔のすがた        鈴木小寒郎
ダブルベッドとさうして鍵は鍵穴にある       石河棄郎

「川柳スパイラル」5号にもちょっとだけ触れたが、かつて短詩と川柳と自由律が混在した時代があった。川柳の場合だけかもしれないが、意味を中心とする自由律には散文化の傾向があり、意味性・散文性と定型・自由律の関係、一行詩と俳句・川柳のからみあった関係性については、いつかゆっくり考えてみたいと思っている。

木曜何某の句に戻ろう。

風で飛んでいかないようにするやつも売っている
毒が無いならその色はなんだ
おもしろくなくてホッとする
半透明の電話ボックス3つ分飛び越すイルカ
先生のジョークも聞かずあの子ばっかり見て
オレンジの反対側は夜景
このアングルは入っちゃいけない所に入っている
世を渡るためのやさしさで全然かまわない

長律と短律の両方があるが、ここでは比較的長い句の方を多く選んでみた。
『いつか資源ゴミになる』の収録句のなかでは、比較的新しい作品のようだ。
「おもしろくなくてホッとする」という心理は、言われてみればそうだという説得力がある。この人はけっこう人間観察家なのだろう。
木曜何某は唯一参加している歌会でも遠慮ない批評を述べているらしい。

自信作じゃない方が選ばれた   木曜何某