2015年10月31日土曜日

石部明の世界 その一

石部明は2012年10月27日に亡くなったので、没後三年になる。
死後には忘れられてゆく川柳人が多いなかで、石部明の作品はいまも新しい読者を獲得し、読み継がれている作者の一人である。石部の作品に慣れ親しんでいる場合でも読み直してみると新しい発見があり、それだけ充実した川柳作品であると言えよう。今回は石部の初期作品(「ますかっと」「川柳展望」の時期)を調べてゆくなかで、気づいたことを記してみたい。
まず、1970年代の石部の川柳との関わりを年譜形式でまとめておく。

1939年1月3日 岡山県和気郡三石町(現備前市)に生れる。
1967年 事業のため岡山県和気町に移住。
1974年 和気町文化祭を機に川柳を始める。
1975年 9月「ますかっと」(会員欄「百花集」)へ初投句。会員欄の選者は大森風来子。
1977年 2月「ますかっと」(岡山川柳社)同人。同人欄「黄薇句苑」の選者は延永忠美。このころ「米の木グループ」へ。
1979年 時実新子「川柳展望」会員(19号~)。

石部は「川柳展望」14号から投句を始めているが、会員になったのは19号からである。次に挙げるのは「川柳展望」19号に発表された石部の作品である。

堤防の向こうを父はまだ知らぬ 
ダムになる村がちがちと義歯鳴らす
百姓が笑う仏壇屋の表
遠景の生家を燃やすたなごころ
月光に臥すいちまいの花かるた
晩夏から追いつめられてゆくピアノ
泣き虫だった頃の娼婦の耳の傷
犬の皿すこし正義を考える
いもうとの傘に駆けこむ卑怯者
銀行の横の出口は人ごろし
たましいの揺れの激しき洗面器
神よりもすこし遅れて木にのぼる
許そうとしない猫背を刻む日々
たましいのあと先をゆく伴走者
オルガンを踏んで長女が遠ざかる

「いもうと」「猫」「オルガン」など石部作品に親しんでいる読者にとっては、その後石部の作品に登場する語がすでにいくつか使われていることに気づくだろう。また、石部の作品には二つの世界にまたがる、その境界線上の場所がしばしば選ばれるのだが、ここでも「堤防」「ダム」「仏壇」などの境界線上のトポスが詠まれている。出発のときから彼はすでに自分の世界を持っていたのだ。
第一句集『賑やかな箱』に収録されている句もいくつかある。注目すべきことは句集に収録された句の原型や発想のもとになった句が見られることである。

晩夏から追いつめられてゆくピアノ  (「展望」19号)
晩夏から追い詰められてゆく打楽器  (『賑やかな箱』)

「ピアノ」「打楽器」のどちらがよいかはすぐには決められないが、石部は句集収録に際して改作したあとがうかがえる。初期作品を読んでいると、こういう改作や同じ発想の句がしばしば見られることに気づく。

陽の当る椅子へ一歩のたちくらみ (「ますかっと」昭和53年5月)
やわらかい布団の上のたちくらみ (「展望」16号)

「陽の当る椅子」が一種の隠喩として意味性が強いのに対して、「やわらかい布団」の方は比喩的な意味を喚起しない。どちらがよいかは好みによるだろうが、「やわらかい布団」のほうに表現としての豊かさを感じる。

記憶にはない少年がふいに来る(「展望」15号)
見たことのない猫がいる枕元(「展望」46号)

どちらも『賑やかな箱』に収録されている。発想はよく似ているが、「少年」は「猫」に深化したのだろう。

もうひとつ、私が気になっているのは、「米の木グループ」のことである。そのメンバーは西山茶花・児子松恵・石原園子・行本みなみ・野口寛・平野みさ・石部明であるが、私は「米の木グループ」について石部に質問したことがあり、石部の回答は次のようなものだった。
「石部が参加するようになったのは1977年頃か。代表は特にいなかったが児子松恵が連絡など仕切っていた。しかし、中心は県下でもっとも人気があり、泉淳夫、片柳哲郎、山村祐などに高く評価されていた西山茶花で、それに過激な論客、行本みなみがからむ構図で、結構熱っぽい合評会を月に一回していた。みなみは『川柳木馬』の渡部可奈子特集に本人の望まれて『可奈子論』を執筆したこともあったが、論は過激で片柳哲郎を困らせたこともあり、県下でも交流するものはいなかったが、彼から教わることも多かった。十年ほど続いて、やがて断続的で同窓会的に1992年頃まで続いた」

次に引用する8句は行本みなみの作品である。石部の作品に通底するものを感じる。

それ以後は雨のおんなに入りびたり  (「展望」12号)
二つ転がり二つ音する雛の首
眼をあけて普段着のまま死んでいる
たましいを抜かれ花野に迷うもの   (「展望」13号)
美しい水だ飲めよと突き落とす
墓に立つ女体芯まで青である
対かい合う人形互いに抱かれたく
たんぽぽより少うし高い縊死の足  (「展望」14号)

行本の句について時実新子は次のように述べている。
「来年は遠いと思う夏の墓地/行本みなみの作品から死の匂いが払拭されることはないのだろうか。テーマとして真剣に彼が追求しているのはわかるのだが。そして、死即ち生であることも」(展望12号「前号ブロック評」)

平野みさについては石部自身が影響を受けた句として次の句を挙げている。石部自身の作品と並べて紹介しよう。

菜の花や母はときどき狂います  平野みさ
菜の花の中の激しい黄を探す   石部明(「展望」48号)

最後に石部の次の二句を並べてみたい。

夜桜を見にいったまま帰らない   (『賑やかな箱』、初出「展望」45号)
栓抜きを探しにいって帰らない  (『遊魔系』)

夜桜を見にゆくのと栓抜きを探しにゆくのとでは、ずいぶんイメージが違う。夜桜を見にいってふと行方が分からなくなってしまうというのは何となく理解できるような気がするが、栓抜きを探しにいったまま行方不明になるというのはどういう事態なのだろう。なぜ栓抜きでなければならなかったのか。つまり「栓抜き」の方に不条理性が際立つのだ。
こうして石部は自らのキイ・イメージを深化させつつ定着させていったのだということが初期作品を読むとよく分かる。
私が石部と出会ったときに彼はすでに確固とした存在感のある川柳人だったが、彼にも出発点というものがあったはずだ。出発に際しては彼をとりまく川柳環境から影響を受けただろうが、同時に石部は最初から自己の世界を持っていたとも言える。彼はそれを深化させたのであり、すぐれた表現者であればだれでもそういうプロセスをたどるのだと思う。

2015年10月17日土曜日

俳諧史への視線

10月15日付けの新聞報道によると、これまで所在不明だった蕪村の句集が見つかったという。蕪村存命中に門人がまとめた「夜半亭蕪村句集」の写本である。句集の存在は戦前から知られていたが、所在不明のままになっていた。数年前に天理図書館が購入した本がそうであることが確認されたということだ。
連句に関して私は蕪村に興味をもつところから出発したので、このニュースに無関心ではいられない。これまで知られていない蕪村句も含まれていて、たとえば次の句である。

傘(からかさ)も化けて目のある月夜哉    蕪村

蕪村の妖怪趣味はよく知られていて、蕪村らしい句である。

別所真紀子著『江戸おんな歳時記』(幻戯書房)が刊行された。
別所は女性俳諧史の第一人者だが、今度の書物は歳時記仕立てになっている。「季語研究会会報」などに掲載された文章もあるが、一書にまとめて読むことができるのはありがたい。千代尼、智月、園女、諸九尼、星布、菊舎などの名の知られた女性だけではなく、無名の女性や子どもの句なども紹介されている。

春風や猫のお椀も梅の花    九歳 しう (『三韓人』寛政10年)
鶯の空見ていそぐ初音かな   長崎 十歳 易女 (『寒菊随筆』享保4年)

「春風や」の句は猫が食べ散らかしたご飯粒を梅の花に見立てているのだろう。「猫のお椀も梅の花みたい」と口ずさんだのを周囲の者が書きとめたのかも知れない。

しら菊や人に裂かせて醒めて居り  一紅

高崎在の一紅の句集『あやにしき』(宝暦11年)から。これは大人の句。どういう状況か、また何を裂くのかよく分らないが、人に裂かせて自分は醒めているというのは近代的な心情で印象に残る句である。

10月11日に大阪天満宮で「第九回浪速の芭蕉祭」が開催された。他のイベントとも重なって参加者は15名と少なかったが、参加者相互の顔が見える連句会となった。
講演は近代俳句の研究者である青木亮人氏にお願いした。「蕉門歌仙と近代俳句について」と題して、芭蕉七部集の付句と三鬼・秋桜子・青畝・虚子などの俳句を比較するという興味深いものだった。
連句では「投げ込みの月」といって、「月」の字を句の最後に置いて一種の助辞のように使うことがある。たとえば

雑役の鞍を下ろせば日がくれて   野坡
 飯の中なる芋をほる月      嵐雪
    (歌仙「兼好も」・『炭俵』)

という「月」がそれに当たる。青木はこれを次の西東三鬼の次の句と並べてみせた。

算術の少年しのび泣けり夏   三鬼

この「夏」の使い方は今では珍しくないが、当時としては新鮮で、模倣するものが増えたらしい。三鬼が連句の影響を受けたということではなくて、近世の俳諧と近代俳句の表現がある部分で似ているという指摘をおもしろく思った。

「浪速の芭蕉祭」では連句会の前に大阪天満宮の本殿に参拝してご祈祷を受ける。学芸上達を祈願するのである。祝詞や巫女による舞のあと代表者が玉串を捧げる。こういう儀式的な側面もはじめての参加者にはおもしろいようだ。
当日は天満宮境内で古書市が開催され、俳諧関係の欲しくなるような古書も販売されていた。「かばん関西」の吟行会も同じ場所であったそうだ。
この日、受付をしていると会員のひとりが岡本星女の訃報をもたらした。10月9日にお亡くなりになったそうである。星女は阿波野青畝の「かつらぎ」系の俳人・連句人で、夫は岡本春人。春人が亡くなったあとは「俳諧接心」を主宰した。「浪速の芭蕉祭」を立ち上げたのは星女である。
「浪速の芭蕉祭」では例年、連句を募集して優秀作品を天満宮に奉納する。今年は募吟を行わなかったが、連句部門のほかに前句付と川柳の部門も設けている。川柳の部門を作ったのは星女の強い勧めによる。「現代川柳はすごい。なぜなら、私にはまったく分からないから」と星女は私に言った。現代川柳は分からない、難解だという人が多いなかで、「分からないからすばらしい」と言ったのは星女ひとりである。

人は死にへくそかずらは実となりぬ    岡本星女