2012年11月30日金曜日

「川柳カード」創刊号

先週触れた「現俳協青年部シンポジウム」について補足しておく。
書斎のクリアーファイルを整理していると、10年前の第15回シンポジウム(2002年6月22日)の冊子資料が出てきた。「俳句形式の可能性―変貌するハイク・コミュニティーの中で―」というタイトルで、パネラーが江里昭彦、パネリストが浦川聡子・金山桜子・五島高資・堺谷真人・高橋修宏であるが、その内容をすっかり忘れてしまっていた。人間の記憶なんて当てにならないものである。
読み返してみると結構おもしろいので、パネリストの基調報告要旨を少し紹介しておく。

「俳句という文芸は、芸術性の高い作品から大衆性のあるものまで、幅広いキャパシティと可能性を持つものであると思う。今世紀はインターネットのさらなる発達により、句会のあり方や結社制度もしだいに変ってくることと思う。現在の俳句の世界は比較的閉ざされた空間であるが、これからの俳句は、もっともっと外へ向かって開かれたものであってもよいのではないかと思う」(浦川聡子)

「俳句を作っている人の多くは、いずれかの結社に属し作品もまた結社誌に発表しているというのが現状である。こうした結社制度は師弟間あるいは同志間による直接的な修練の場として重要である反面、部外者からは専門家集団として敬遠されたり、仲間内だけの閉鎖的組織となりがちである。そうした結社制度による旧来の俳句社会という意味で私は『俳壇』という言葉を捉えている。
ところが、近年における急激なインターネットの普及は、俳句創作にも大きい影響を与えている。結社に関係なく自由に自らの俳句を全世界に向けて発表することが可能になったのである。勿論、そのことによる弊害にも十分留意すべきであるが、インターネットによる情報革命が俳句に及ぼす影響は正岡子規による近代俳句革新に劣らない意義を持つものと考えられる。これからの俳句は『俳壇』の『壇』が示す段差や閉鎖性を超えた言語芸術としてその真価を問われる時期に来ている」(五島高資)

「メディア状況の変化は、俳諧・俳句の変化を先取りする。蕉門俳諧は、町人識字層の担う元禄出版文化の隆盛の上に花開いた。蕪村の活躍は、多色刷り版画普及と同期しており、子規・虚子の事業は、新聞・雑誌という情報インフラなしには考えられない。
近年、ITは情報の発信コストを低減させ、多様な俳句が価値自由的に流通することを許した。しかし、一見開かれたオンラインコミュニティも他者との摩擦を回避し、次第に蛸壺化してゆく傾向がある。批評言語が共有されず、他者と交わるプロトコルが不在なままだからである」(堺谷真人)

それぞれの問題意識は興味深いが、この10年間で状況はどのように変化したのか、さらに関心がもたれるところである。

俳句関係のイベントでは、12月22日(土)に神戸の生田神社で「第1回俳句Gathering」が開催される。「俳句で遊ぼう」という企画で、第1部「五・七・五でPON」では「天狗俳諧」に挑戦、第2部「俳句の魅力を考える」では少し真面目にシンポジウム、第3部「選抜句相撲」では作った俳句を一句ずつ取り上げて対戦。第4部「句会バトル」では芸能プロダクションに渡りをつけてアイドル・グループ「Pizza♡Yah」を呼び、俳句素人の男たち48人と対戦させる。よく分らんところもあるが、とにかくおもしろそうだ。

「川柳カード」創刊号が発行された。発行人・樋口由紀子、編集人・小池正博。3月・7月・11月の年3回発行予定。
巻頭言「読むところからはじまる」で樋口由紀子は、「ユリイカ」(2011年10月号)の川上弘美・千野帽子・堀本裕樹の鼎談を引用したあと、読みの魅力と困難さを語っている。
川柳界では石田柊馬が「川柳は読みの時代に入った」と宣言したものの、作品の読みはそれほど深められていない。私はその理由が川柳の句会形式そのものにあるのではないかと思っている。川柳の句会では一人の選者がひとつの兼題について出された句の選をする。選者が選ばなかった句はボツとなり、日の目を見ることはない。互選形式は少なく、なぜその句を選んだのかという理由を問われる機会もほとんどない。極言すれば、選は句を読まなくてもできるのだ。「選」と「読み」は次元の違う行為である。
句評の機会が少ないために「読み」が鍛えられることはなく、「批評」も生れないことになる。多くの川柳人は本音では「読み」はできなくても「選」が出来ればいいのだと思っているところがある。「読み」や「批評」は特定の人に任せて、自分たちは実作に励みたいという気持ちは分らないでもない。
ここで、樋口の巻頭言に戻ってみよう。樋口は「ウラハイ」に「金曜日の川柳」を連載しているが、その体験について次のように語っている。

「何度かに一度『読めた』と実感できたときは本当に嬉しい。世界がぱあっと拡がっていく。読みとは言葉の関連性を見抜くことであり、言葉の背後を知ることである。読めたら、それらが見えてくる。楽しさやおもしろさに確実に繋がっていく。そして、何よりも読むことによって川柳とは何かを知ることになる」

読みによって川柳に関わっている自己の深度が深まってゆく、そのおもしろさについて樋口は語っている。読みの深まりはその人の実作にも反映してゆくはずである。才能ある多くの川柳人が自己模倣をくり返し、成長をやめてしまうのは川柳テクストの読みから養分を汲み取るのを怠ったところにも原因があるのではないか。義務として読むのではつまらない。

樋口自身のエッセイ「御中虫という俳人」は「読み」の実践とも受け取れる。
御中虫の登場はインパクトがあったから、俳人たちは川柳に近いものを感じとったのか、樋口は感想を聞かれる機会が多かったという。
「私は川柳ではすでにある世界であり、そんなにめずらしいものではないと答えた」
あるフィールドで新鮮な表現であっても、別のフィールドでは陳腐な表現であることは短詩型文学の世界でよく見られることである。けれども、問題はその先にある。
「しかし、ここで御中虫の評価をやめてしまってはいけなかったのだ」
樋口自身の読みの深化については本誌をご覧いただきたい。

「特集・現代川柳の縦軸と横軸」として、評論が二本掲載されている。
文芸の「いま・ここ」〈naw・here〉は縦軸と横軸によって決定される。通時性と共時性であるが、川柳の場合はどうなっているのだろうか。
堺利彦の「川柳論争史(1)主観・客観表現論争」は明治40年代の川柳誌「矢車」を中心に、川柳に「主観句」が導入された経緯を詳論している。川柳にもかつては熱い論争があった時期があると私は思っているが、それを「論争史」と呼ぶのは語弊があるものの、堺利彦に無理を言って書いてもらったのであった。
明治44年の菅とよ子の川柳作品については、私もはじめて知った。女性川柳の先駆と言えるのではないか。

倦みはてて乳のおもみをおぼゆる日    菅とよ子
やがて君にすてらるる日をおもひ居ぬ
ひとり寝て蚊帳のにほひをなつかしむ

湊圭史の「言葉の手触り」は共時的に、短歌・俳句などとの比較の中で同時代の川柳の特質を論じてもらった。

「川柳カード」創刊記念大会の部分について、池田澄子と樋口由紀子の対談はライブ感覚の面白さを堪能できるのではないだろうか。
同人作品については引用する余裕はなくなったが、作品本位のシンプルな編集になっている。会員作品欄を「果樹園」と名づけているのは、かつての「川柳ジャーナル」で中村冨二が担当していた「果樹園」を思いおこさせ、「川柳カード」が現代川柳の伝統をそれとなく意識していることを示するものである。創刊と同時にホームページも立ち上げられている。

川柳カード http://senryucard.net/

2012年11月23日金曜日

第23回現俳協青年部シンポジウム

「伝統」と「前衛」の対立軸が無効になって久しい。
俳句では「伝統と前衛」と言われるが、同じ構図を川柳では「伝統と革新」と呼んでいた。いずれにせよ、このような図式が崩れたあと、現在の短詩型文学の状況はどうなっているだろうか。筑紫磐井著『伝統の探究〈題詠文学論〉』(ウエップ)は俳句フィールドにおける「伝統」の問題を追及していて、とても興味深い。筑紫はこんなふうに書いている。

「しかし、『伝統と前衛』が対となったものである以上、前衛が姿を消したとしたら伝統がどのようになったのかは確認しておく必要があるであろう。前衛が衰退したのならば、伝統が俳句を支えているのでなければ、理屈に合わないからである」
「しかし、今眺めてみると、前衛と伝統の対立の時代に、疑問もなく『伝統』と呼んできたものが一体何であるのか、頗る分かりにくくなっていることに気付かされた」

このような問題意識から筑紫は子規のつくった近代の句会に遡り、「題詠」に行き着くのである。
昭和45年ごろに書かれた「伝統」再評価の評論に草間時彦「伝統の黄昏」や能村登四郎「伝統の流れの端に立って」がある。前者について筑紫は、草間の敵は前衛俳句ではなかったと述べて、次のように指摘している。

「では、草間の真の敵は何かというと『わたしが憎むのは、伝統の危機をまったく感じていない楽天的な俳人達や結社である。…愚かな人々に怒りの眼を向けても仕方がない』。要するに有季定型に安住してしまって、特段の問題意識を持っていない人間こそ自分に一番遠いところにいるというのだ」

『 』の部分は草間の文章の引用なので、念のため。また、能村登四郎の次の文も引用されている。

「真の伝統作家というものは明日への創造をなし得る人であって、明日への方策のない者は真の伝統作家とは呼べない」

このような言葉に私は当時の俳人たちの本物の俳句精神を感じるが、さらに興味深いのは筑紫が江戸の句会と明治の句会の差異を論じているところである。近代に入って句会のどこが変わったのだろうか。

「江戸時代にあった発句の会は、『月次句合』であった。一言で言ってしまえば、不特定多数の詠草を集めて行う宗匠選の発表会である。催主は著名な宗匠に選者を依頼する。選は無記名で行うが、選をできるのは宗匠だけであり、一般大衆は選を行えないということである」

これに対して、子規が始めたのが互選句会である。全員が選をし、全員が批評しあうという句会形式は近代になって生れたものである。
このような視点で見ると、川柳の句会は前近代をひきずっていると言える。互選句会・句評会は句の読みへの第一歩であり、川柳において批評が成立しないのはふだんの句会で読みが鍛えられていないことに一因があるのだろう。筑紫の本は川柳人にとっても刺激的である。

11月17日(土)、京都の知恩院・和順会館で「第23回現代俳句協会青年部シンポジウム」が開催された。
このシンポジウムは東京で開催されることが多く、京都で開催されるのは10年ぶりである。前回は2002年6月に京都駅前のぱるるプラザ京都で開催された。そのときの司会は江里昭彦、パネラーは堺谷真人・浦川聡子など。懇親会で鈴木六林男・村木佐紀夫の姿を見かけたことを覚えている。
今回のテーマは「洛外沸騰―今、伝えたい俳句、残したい俳句」である。
以前にも紹介したことがあるが、宣伝チラシには「俳人は俳句にとっての他者に対して俳句の何を、どう伝えたいのか。俳句というジャンルを担ってゆく若者や後世に対して何を、どう残したいのか。俳句でしか伝えられないこと、残せないことはあるのか」とある。
総合司会の杉浦圭祐は「伝えたい俳句は水平軸として同時代に伝えたい俳句」「残したい俳句は垂直軸として後世に残したい俳句」と説明した。

基調報告の青木亮人は「選ぶ」行為の裏側には「選ばない」行為があり、「選ぶ/選ばない」によって価値観が発生することを具体的に説明した。
まず取り上げられたのは、「ホトトギス」第4巻7号で、巻頭には「蕪村句集講義」が掲載されている。ここには芭蕉に対して蕪村を称揚するという「アンチ芭蕉」の価値観が見て取れる。次の例は大正年間の「ホトトギス」で、虚子が雑詠欄で蛇笏を取り上げているのは、「アンチ碧梧桐」という価値観から。三つ目の例は「俳句研究」1977年3月号で「特集・新俳壇の展望Ⅲ」と「特集 後藤夜半研究」が並んでいる。意外な組み合わせだが、編集者・高柳重信の価値観があるのだろう。以上、グループであれ、結社の主宰であれ、俳誌の編集者であれ、それぞれの価値観によって残すべき俳句を発信していることになる。以上が青木の基調報告の概略である。

パネルディスカッションは司会・三木基史、パネラーが青木亮人・岡田由季・松本てふこ・彌栄浩樹。
「俳句と関わりはじめたきっかけ」「なぜ俳句とかかわり続けているのか」について、彌栄は電車にのっているときふと自分にも俳句を作りうることに気づき、今では「人生で大切なことは俳句から学んだ」という。彌栄が評論「一%の俳句」で群像新人賞を受賞したことは記憶に新しい。松本は大学で最初参加していたサークルと同じ部室を使用していたのが俳句研究会で、俳句を作ること・読むこと・俳句に関して文章を書くことが楽しく、「楽しくなくなったら俳句をやめる」と言いきる。岡田は何か新しいことを始めたいと思ったとき母の勧めで俳句を始め、特に「句会」が好きだから続けているという。青木は俳句研究者で、愛媛大学教育学部の准教授。高校生のときに『猿蓑』を読んだのがきっかけで、俳句に関心をもち、現在は子規を中心に研究している。他の三人の実作者に対して、彼の研究者の視点からの発言は議論の内容を相対化し、より広い文脈でとらえる役割を果たしていた。

パネルディスカッションの前半は結社と主宰の話であった。
俳人はなぜこんなに結社や主宰の話が好きなのだろう。
「新撰21」の竟宴の際に、アンソロジーに出す百句を主宰に事前に見てもらったかどうかがとても重大なこととして話題になったときにも私は違和感を持った。
「俳句」は個々の「俳人」によって人から人へ伝わるという面がある。主宰に向かって投句を続ける(主宰の選を受ける)なかで俳句精神を会得するということもよくわかる。存在感のある主宰のエピソードにはそれなりの面白さがあるのも事実である。しかし、正直言って、私はこの種の話が苦手である。俳壇ギルドの徒弟修業の話ならば、何もシンポジウムを開く必要はないのだ。

俳句を俳壇の枠を越えて作品・テクストとして発信するには、具体的な句そのものを語るほかない。シンポジウムの後半は「伝えたい俳句・残したい俳句」についてレジュメに従って進行した。このレジュメの中には「次の人々に向けてあなたなら具体的にどんな句を伝えますか」という質問にパネラーが答えている部分がある。「日本のことを知らない外国人に」「俳句を知らない小学6年生の子どもに」「恋をしている人に」「ここ一番の勝負を迎えている人に」などの相手が想定されている。
たとえば、「芭蕉に」「子規に」では次のような句が挙げられている。

Q 芭蕉に
青木(選) 桐一葉日当りながら落ちにけり    高浜虚子
岡田(選) 向日葵のその正面に誰も居ず     津川絵理子
松本(選) 柿の蔕みたいな字やろ俺(わい)の字や 永田耕衣

Q 子規に
青木   香を聞くすがたかさなり春氷     宇佐美魚目
岡田   かき氷この世の用のすぐ終る     西原天気
松本   船焼き捨てし
      船長は
      泳ぐかな              高柳重信

パネラーがなぜその句を選んだか、しかも相手(読者)を想定したときにどの句を選ぶか、という点にそれぞれの俳句観が顕在化してくる。この部分は興味深かったので、もうひとつ紹介しておこう。

Q 俳句に興味が無い若者世代に 例えば大島優子(AKB)に
青木  じゃんけんに負けて蛍に生まれたの   池田澄子
岡田  頭の中で白い夏野となっている     高屋窓秋
松本  ふはふはのふくろふの子のふかれをり  小澤實
彌栄  ひるがほに電流かよひゐはせぬか    三橋鷹女

懇親会が終わったころには激しかった雨もやや小降りになっていた。知恩院の三門がライトアップされて闇に浮かび上がっている。
俳句も川柳もそれぞれに前近代の残滓を引きずっている。
この日のシンポジウムに「他者」は存在したのだろうか。雨の知恩院で繰り返し問わずにはいられなかった。

2012年11月16日金曜日

バーチャル・シンガー「初音ミク」登場

11月13日(火)
江田浩司歌集『まくらことばうた』(北冬社)を読む。いろは順に配列され、666首が収録されている。666とは何やら黙示録的ではないか。枕詞といえば塚本邦雄の「春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状」を思い出すが、江田の枕詞はすべて初句に置かれている。
「い」ではじまる歌から5首紹介する。

いはばしる淡海の人は燃えたたす微笑の果てに咲く凍み明かり   江田浩司
いはそそく垂水の岩の月光に酔ひ酔ひて寒きパトス燃え立つ
いなみのの否といひつつ父の夜に光の肉やのどぼとけ燃ゆ
いもがいへに雪降れ降らば性愛のランプ渦まく二人なるらむ
いすくはしくぢらの眼あをくして夢かがやかす夢の栖ぞ

あまり聞きなれない枕詞の方が逆に印象が強いような気がする。

11月14日(水)
桂米團治独演会を聞きに心斎橋へ出かける。「心ブラ」という言葉は今でもあるのだろうか。久しぶりに心斎橋を散策する。大丸心斎橋劇場へは初めて行くが、寄席ではないので演芸場の浮き浮きした雰囲気とは少し勝手がちがう。
米團治は「稽古屋」「一文笛」「口入屋」の三席を語った。米朝が若いときに作ったという「一文笛」が特によかった。
米朝が桂米團治と正岡容に師事したことはよく知られている。小米朝が米團治を襲名したのも当然だろう。
私が以前から興味を持っているのは正岡容(まさおか・いるる)の方である。
正岡容は川柳とも関係があって、「川柳祭」という市販雑誌を創刊している。昭和21年11月から昭和24年まで27冊が刊行されたらしい。執筆陣が豪華で、徳川夢声・古川緑波・村松梢風・獅子文六などが参加した。私はこの雑誌の実物をまだ見たことがないが、ネットの古書などでも販売しているようなので、いつか手に入れたい。

「旧東京の市井に生育した私にとって、生涯このふるさとの伝統文明に萌芽した以外の文学を作製することは、困難であろう。私が宝暦の昔、南浅草の町役人柄井八右衛門に拠って創始された川柳と云う市井詩に、絶ちがたき親愛の情をおぼえるのも亦、全く同様の理由に他ならない」(正岡容『川柳の味い方と作り方』昭和23年)

打ち出しの太鼓聞えぬ真打はまだ二三度やりたけれども   正岡容
おもひ皆かなふ春の灯点りけり

後者の句碑が東京・下谷の玉泉寺にある。「バックストロークin東京」の翌日、私はこの句碑を見るために玉泉寺に足を運んだことを思い出す。

11月15日(木)
「きぬうら」という川柳誌がある。知多半島の半田市で発行されていて、発行人は浅利猪一郎。「ごんぎつねの郷」全国誌上川柳大会を毎年開催しており、今年は第5回。「きぬうら」347号はその発表誌である。「虫」という題で、印象に残った句を5句だけご紹介。

方丈記ですね うすばかげろうですね     吉岡とみえ
合い言葉はトーキョー 蟻とキリギリス    高瀬霜石
六列にならぶ蟻ならば 怖い         いわさき楊子
グレゴール・ザムザの朝がごろりと落ちている 阪本きりり
つまらないおとなになっていった虫      大嶋都嗣子

私は新美南吉(にいみ・なんきち)の「ごんぎつね」が大好きなのだが、来年は南吉生誕百年記念になるという。

11月16日(金)
短歌誌「井泉」48号(11月1日発行)の巻頭・招待作品に兵頭全郎の川柳作品15句が掲載されている。全郎は「ふらすこてん」「Leaf」のほか「川柳カード」にも同人参加、若手川柳人として多忙な日々を送っている。「ヴォイス/ノイズ」というタイトルで、最初の5句を紹介すると…

初音ミクに耳があるとか自由とか    兵頭全郎
鈴虫が電話に出ないままふける
知っている限りの唄を異を熱を
立ち上がると爆音の闇 しらす干し
効果音だけが歩いていく芝生

最初に「音」というテーマ設定があり、そこから作品を書いていくやり方だから、読者にとっては読みのとっかかりがないかも知れない。共感・感情移入がしにくいのだ。こういう書き方は少数の読者にしか理解されないことは、私も経験上よく知っている。言葉をひとり歩きさせる書き方で、どれだけ作品に説得力を持たせることができるだろうか。
「初音ミク」はバーチャル・シンガーである。現実の歌手ではなくて、コンピュータが作り出したキャラクターなのだ。これを最初の句に据えたということは、全句が意味や思いではなくて、実体のない言葉の世界で構築されていることを示している。実体がなく言葉だけで一句を成立させるためには、言葉の切れ味や力をさらにレベル・アップさせなければならない。
愛読している喜多昭夫の「ガールズ・ポエトリーの現在」、今号は「guca」と取り上げている。「guca」は太田ユリ、佐藤文香、石原ユキオの三名による期間限定短詩系女子ユニット(ちなみにユキオも女子)。4号を発行して、2年間の活動に終止符が打たれた。
喜多の文章は太田、佐藤に比べて石原についての紹介がやや少ないので、石原の句集『俳句ホステス』(電子書籍)から少し引用しておく。

初夢のガメラが母を噛み潰す    石原ユキオ
靴下に幼女を詰めている聖夜
ぶさいくに百年午睡してやろう

「井泉」は来年3月で50号を迎える。50号企画が楽しみである。

2012年11月9日金曜日

モツレクはモーツァルトのレクイエム

音楽、特にクラッシックは私の苦手分野だが、ふとモーツァルトが聴きたくなって、朝晩CDをかけている。また連想は自然に小林秀雄の「モオツァルト」に向かい、何十年ぶりかで読み直してみた。第二章に楽譜がでてくるが、これには当時の批評家が「楽譜なんか入れやがって」と羨望と嫉妬にかられたと言われる。そこにはこんなふうに書かれている。

「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう」

小林の頭の中に鳴り響いたのは、交響曲第40番の第4楽章らしい。いかにも小林らしい文章である。そして、かつてはこのような文章こそ「文学」だったのである。モーツアルトという天才が時代を作った。小林秀雄は批評を文学にし、時代をリードした。小林の文章はとても懐かしく感動をすら覚えるけれども、いまでは「文学」というものに実体はないし、誰もそんなものを信じてはいない。

川柳において英雄待望論が語られることがある。
時代をリードするようなスター性・カリスマ性をもった川柳人が久しく現れないのだ。私は川柳の現状を「過渡の時代」と呼び、そこにむしろ可能性を見出そうとした。だが、過渡の時代に耐え続けることも、それはそれでエネルギーが必要である。
時代を一変させるような個性的な表現者が現れて、川柳の表現領域を切り開き、晴れ晴れとするようなカタルシスを与えてくれないだろうか。そういう漠然とした期待が広がっているのを感じる。けれども、そのような表現者が一体どこにいるというのであろう。思いもよらない場から登場するという期待もロマン主義にすぎず、今いない者がどこかから現れるはずがない。
短詩型文学の世界では、すでにひとりの優れた表現者がひとつの時代を代表するというようなことは起こらないのかも知れない。特定の個人や結社が全体をリードするという状況ではないようだ。
次の世代を育てるということについても、最近よく耳にする。
かつての20代の川柳人がそのまま高齢化し、あとに続く世代が固まりとして育たなかった。
結局、川柳人は伝えるとか残すということに無関心だったと言うほかはない。俳句と比べて、残すことに対する歴然とした意欲の差があるのだ。

11月17日に京都で「第23回現俳協青年部シンポジウム」が開催される。「洛外沸騰」というタイトルで「今、伝えたい俳句、残したい俳句」というサブタイトルが付いている。宣伝のチラシには次のように書かれている。

「今日、情報技術の急速な発達を背景に俳句と俳句以外のものとの出会いが頻繁かつ容易になった。それにつれ、ジャンルを越境した相互的創発の潜在的可能性はかつてなく高まっている。そのとき俳人は俳句にとっての他者に対して俳句の何を、どう伝えたいのか。俳句というジャンルを担ってゆく若者や後世に対して何を、どう残したいのか。俳句でしか伝えられないこと、残せないことはあるのか。千年の王城の地・京都の秋深まる頃、気鋭の若手俳人及び研究者が洛外に会して熱く語りはじめる」

「情報技術の発達」「俳句と俳句以外のものとの出会い」「ジャンル越境」「他者」「俳句でしか伝えられないこと」などのキーワードが並び、俳句が他者と後世に対して何を伝えていくかというメッセージが強く発信されている。
また、「現俳協青年部」のホームページには青木亮人の基調報告要旨が掲載されている。

「多くの俳人は折に触れてある句を傑作と喧伝し、ある作品を後世に残すべき句と称賛してきた。それは明治時代の正岡子規から平成年間の『新撰21』等に至るまで変わることなく続いている。何を傑作と見なすか、どの作品を後世に残したいと願うかは評者の審美観や俳句史観等によって異なるであろう。そこには作品自体の評価のみならず、人脈・俳壇等への配慮が滑りこむこともあろうし、またその時々の自身の関心によって左右されることも少なくない。いずれにしても、どの句を選び、どの句を選ばないかは評者の俳句観が問われる営為であり、従ってここで求められるのは各パネリストに共通する価値観ではなく、互いの主張が幾重にも絡まり、もつれ、途切れては結ばれるその一瞬を追うことで自らの俳句観が拡大していくこと、その体験を味わうことであろう。
これらの討論の基調講演として、過去にどのような俳人が何を伝え、何を残そうとしたか、その例をいくつか報告しておきたい」

読んでいて私は胸をつかれる。
「どの作品を後世に残したいと願うか」という発想は川柳には無縁である。少なくとも、そんなことを言う川柳人を私は知らない。
パネリストは青木のほかに岡田由季・松本てふこ・彌榮浩樹。司会が三木基史。どんな話になるのだろうか。

11月2日(金)に「第64回大阪川柳大会」が開催された。
「川柳塔」「川柳文学コロキュウム」「番傘川柳本社」「川柳天守閣」「川柳瓦版の会」という大阪を代表する柳社の選者を揃えている大会である。けれども、そこに参加したいと思うかどうかは別にして、平日に開催されることによって仕事をもっている現役世代の人間は最初からシャットアウトされることになる。以前は休日に開催されていて、十数年以前に私も一度参加したことがある。休日だと会場が予約しにくいのだろう。それに、無理をして休日に開催したところで、結局は平日開催と同じような参加者になるという予想があるのかも知れない。そこには次代に伝えてゆくという発想は最初からないのである。

毎日聴いているCDの一枚がモーツァルトの「レクイエム」。ラテン語の歌詞なのでよくわからず、インターネットで歌詞を探したが、対照してみてもいっそう分らない。
小林秀雄の「モオツァルト」の末尾は「レクイエム」のエピソードで締めくくられている。少し長いが省略せずに引用しておきたい。

「1791年の7月の或る日、恐ろしく厳粛な顔をした、鼠色の服を着けた背の高い痩せた男が、モオツァルトの許に、署名のない鄭重な依頼状を持って現れ、鎮魂曲の作曲を注文した。モオツァルトは承諾し、完成の期日は約束し兼ねる旨断って、五十ダカットを要求した。数日後、同じ男は、金を持参し、作曲完成の際は更に五十ダカットを支払う事を約し、但し、註文者が誰であるか知ろうとしても無駄であると言い残し、立ち去った。モオツァルトは、この男が冥土の使者である事を堅く信じて、早速作曲にとりかかった。冥土の使者は、モオツァルトの死後、ある貴族の家令に過ぎなかった事が判明したが、実を言えば、何が判明したわけでもない。死は、多年、彼の最上の友であった。彼は、毎晩、床につく度に死んでいた筈である。彼の作品は、その都度、彼の鎮魂曲であり、彼は、その都度、決意を新たにしてきた。最上の友が、今更、使者となって現れる筈はあるまい。では、使者は何処からやって来たか。これが、モオツァルトを見舞った最後の最大の偶然であった。
彼は、作曲の完成まで生きていられなかった。作曲は弟子のジュッスマイヤアが完成した。だが、確実に彼の手になる最初の部分を聞いた人には、音楽が音楽に袂別する異様な辛い音を聞き分けるであろう。そして、それが壊滅して行くモオツァルトの肉体を模倣している様をまざまざと見るであろう」

小林は一時期、骨董の世界に憑かれていた。形がすべてという世界である。それは「無常という事」の中の次のような発言につながってゆく。

「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

小林の言うとおりかもしれない。けれども、私たちは不定形な動物的生を生きながら、じたばたと迷い続けるほかはないのである。望むらくはモーツァルトの音楽のように軽快に悩みたいものである。悲しみのアレグロはやがて転調するはずだから。

2012年11月2日金曜日

追悼 川柳人・石部明

こういう文章を書くことになるとは思いがけないことである。
10月27日(土)、石部明が亡くなった。享年73歳。
昨年11月に倒れて、入院・闘病生活を続けていたが、退院して自宅療養していると聞いていたので、訃報の衝撃は大きかった。
28日に岡山県和気町までお通夜に行く。

29日の葬儀に私は仕事の都合で出席できなかったが、参列した方々のブログによってそのときの様子がうかがえる。
弔問は「一般」「川柳関係」「建設関係」に分かれ、会場に入りきれないほどの参列者があった。樋口由紀子が弔辞を読んだ。
樋口の弔辞は参列者の涙を誘ったようだ。樋口自身も震えていた。
出棺のとき、くんじろうは「アキラッ」と叫び泣き、その声は確かに棺の中まで届くように感じられたという。

石部明の本名は石部明(いしべ・あくる)であるが、川柳界では明(あきら)で通していた。
『セレクション柳人・石部明集』から略歴を紹介しておく。
1939年1月3日、岡山県和気郡に生まれる。
1974年から川柳を始め、「ますかっと」「川柳展望」「川柳塾」「ふあうすと」「川柳大学」などの同人・会員として活躍した。1998年、「MANO」創刊、2003年「バックストローク」創刊。実作者としてはもちろん、川柳界のリーダーとしても大きな存在であった。句集に『賑やかな箱』『遊魔系』『石部明集』がある。
また「第3回BSおかやま川柳大会」の対談「石部明を三枚おろし」では、時系列に従って石部の川柳人生が語られているので、詳しいことはそちらの方をご覧いただきたい(「バックストローク」31号収録)。

『川柳総合大事典・第1巻・人物編』(雄山閣)の石部明の項は私が書かせていただいたのだが、そこでは次のように述べている。
「その作品において、日常の裏側にある異界はエロスと死を契機として顕在化され、心理の現実が華やぎのある陰翳感でとらえられる。川柳の伝統の批判的継承者として現代川柳の一翼を担う」
このような評価の仕方でよかったのかと思うこともあり、石部本人からは何のコメントもなかったが、人づてに聞いたところでは、「川柳の伝統の批判的継承者」というフレーズが気に入ってもらったようだ。

石部は座談の名手で彼のまわりには常に談笑の輪ができたが、過剰なサービス精神は彼自身を疲れさせることもあっただろう。彼はけっこう複雑な人物であり、心の中ではさまざまな思いが渦巻いていたことだろう。
私が最後に彼と会ったのは、今年4月のBSfield岡山川柳大会の翌日で、岡山労災病院にお見舞いに行った。そのとき彼は思ったより元気で、川柳界のあれこれについて語った。病室にいても各地の川柳の動向を気にかけていたのだ。

闘病生活の中でも体調の良い日はあって、「川柳カード」創刊号のために石部明は10句を書いてくれた。気迫のこもった石部らしい作品になっている。彼の川柳人生の掉尾を飾る川柳作品だろう。11月25日に発行予定の創刊号をお待ちいただきたい。
また、たぶん「MANO」で追悼号を出すことになるだろうが、いまは具体的なことを云々する気持の余裕もない。

ここで私はお別れの言葉を述べることはしない。石部明は私たちの心の中に生き続けているからである。「小池さん、あなたはそう言うけどね…」という彼の声は今でも聞こえてくる。お通夜のときに柴田夕起子に「何か言い残したことはなかったか」と尋ねると、そのような言葉はないということだった。彼はまだ死ぬつもりはなかったのである。石部明が川柳界に残したこと、成し遂げようとしたことは継承していかなければならない。
最後に『石部明集』の解説で壺阪輝代も引用している石部自身の句を手向けよう。

死顔の布をめくればまた吹雪     石部明