2017年7月28日金曜日

現代歌人集会・『フラワーズ・カンフー』を祝う会のことなど

7月17日
「現代歌人集会in大阪」に行った。
短歌界のことにあまり詳しくないので、漠然と現代歌人の集まりなのだろうと思っていたが、「現代歌人集会」という組織なのだそうで、名古屋以西の歌人の集まりである。結社に無所属でも会員になっている人もいて、鳥居とか虫武一俊も昨年入会している。虫武の『羽虫群』は平成28年度現代歌人集会賞を受賞。
まず大辻隆弘の基調報告があって、「調べ」と「韻律」の違いを正岡子規と伊藤左千夫の「調べ」論争を紹介しながら説明。今回のテーマ「調べの変容~前衛短歌以降」は、永井祐「私たちの好きな句跨り」(「短歌」2015年9月)、阿波野巧也「口語にとって韻律とは何か」(「京大短歌」21号、2015年)が発端となって取り上げられたものらしい。
穂村弘の講演は塚本邦雄・寺山修司から脇川飛鳥まで作品をたどりながら、韻律に限定せずに現代短歌史を語った。レジュメでおもしろかったのは石川信雄の歌集『シネマ』からの次の二首。

くらくなればタイトルがそこに映り出す見よ文字らが瞬いている  石川信雄
わが肩によぢのぼつては踊りゐたミツキイ猿を沼に投げ込む

前者では銀幕と客席が分離しているのに対して、後者では虚構と現実が入り混じっている。ここが転換点だという。
加藤治郎は「口語は前衛短歌の最後のプログラム」と言ったそうだ。考えてみれば川柳は江戸時代から口語を用いているので、口語表現と口語韻律に関しては俳句や短歌より長い蓄積があるはずなのに、それが特段に理論化もされてこなかったのはどういうことなのだろうと改めて考えさせられた。
パネルディスカッションで注目したのは阿波野巧也の報告。阿波野は岡井隆・金子兜太の『短詩型文学論』から話をはじめた。
ちなみに、この本は金子が「はじめに」の章の(付)で次のように書いていることによって川柳人にもよく知られている。

河野春三は「現代川柳への理解」で、俳句と川柳が最短詩としての共通性をもち、現在では内容的にも一致している点を指摘し、「短詩」として一本のジャンルに立ち得ることを語っているが、一面の正当性をもっていると思う。ただ、両者の内容上の本質的差異(川柳の機知と俳句の抒情)は越えられない一線であると思う。

阿波野に話を戻すと、彼は『短詩型文学論』の五つのリズムを紹介したあと、前衛短歌の韻律・ニューウェーブ短歌の韻律・現代の口語短歌の韻律を紹介したが、詳しいことは阿波野の「口語にとって韻律とはなにか」がネットにアップされているので参照することができる。

イベント全体を通じて「(言葉の)快楽」と「批評性」の両立という言い方が頭に残った。

7月22日
小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』が田中裕明賞を受賞したので、その祝賀会が四ツ谷のピザ・レストランで開催された。発起人は上田信治・西原天気・関悦史・柳本々々など9名。当日は俳人だけではなく、川柳人も何人か参加した。
小津夜景の名を最初に知ったのは第二回攝津幸彦賞準賞作品「出アバラヤ記」を「豈」誌上で読んだとき。その後、ネットを中心に活躍が続いたが、縁あって「川柳カード」11号に飯島章友論を、13号に兵頭全郎論を寄稿してもらった。同誌の巻頭写真を依頼している入交佐妃とは学生時代からの友人であることが後でわかった。
今年二月になって『フラワーズ・カンフー』の巻頭句を発句にいただいて、お祝いの歌仙を彼女と巻く機会があった。掲示板「浪速の芭蕉祭」に公開しているので、読んでいただければ幸いである。

あたたかなたぶららさなり雨の降る   小津夜景
落書きをして過ごす早春       小池正博

http://8104.teacup.com/naniwabasyou/bbs

お目にかかるのは初めてだったが、気軽に話しかけていただいて、ありがたかった。
会場には「オルガン」同人をはじめ、若手俳人の姿が多く見られた。8月に左右社から現代俳句アンソロジー『天の川銀河発電所』(佐藤文香編)が発行されるが、そこに収録されている俳人も10名以上出席していたようである。
この日は別の場所で瀬戸夏子と平田有がBL短歌の対談をしており、そちらの方も気になっていた。東京はいろいろなイベントが重なっている。
四ツ谷には有名なジャズ喫茶「いーぐる」がある。祝賀会開催までの時間にジャズを聴こうと思った。地下の店内に入ってみると、この日はジャズではなく、ジョージ・ガーシュインの特集であった。「パリのアメリカ人」などの作曲家である。アイ・ガット・リズムなどを聴いたが、映画「踊らん哉」というのが短時間だがスクリーンに映されて、フレッド・アステアのタップ・ダンスを見ることができたのが楽しかった。

7月23日
前夜は上野に宿泊。
朝、不忍の池を散歩すると、ちょうど蓮の花がたくさん咲いていて眼福を得る。散策しながら今日の句案をねる。
5月の「川柳トーク」のあと東京で句会を開く可能性をさぐっていた。今回は人数が集まるかどうかの不安もあり、恵比寿駅前の貸会議室を予約し、ネットなどで参加者を募ったところ定員の13名の参加があった。昨夜の祝う会に出席した川柳人のほか、遠方からこの句会のために上京された方や、歌人、俳人の参加もあり、ふだんの川柳句会とは違った顔ぶれとなった。
川柳の句会ははじめて(または慣れていない)という人もいるので、単独選(個人選)・共選・互選の三つの形を組み合わせてみた。
ふつう川柳の句会というのは席題(ない場合もある)と兼題(宿題)があり、選者の横に脇取り(呼名係・記名係)がつく。選者が入選句を読み上げ(一度読みと二度読みがある)、会場から作者が大声で名前を言い(呼名)、呼名係が作者名を再び言って記名係が句箋に作者名を記入する。選者の披講と作者の呼名のやりとりにパフォーマンス的要素・朗読的要素があり、はじめての方には珍しいかもしれない。俳句の句会では「季題」と「当季雑詠」などが出されるが、川柳では季語は関係ない点も異なる。
基本は一題一人選だが、それだけではおもしろくないので、共選の場合もある。今回は「誘う」という題で八上桐子と柳本々々が選をした。二人の選者に同じ句を出すのがふつうで、別々の句を出さないのは同一句に対して選者によってどのように選の違いがあるかというのが興味の中心だからである。選者自身も相手の選者に対して同一の句を出す。相手が自句を選んでくれないこともあるのは共選の選者のスリルとなる。
互選というのは少ないが、最近は互選のある句会も増えてきた。参加者全員がそれぞれ良いと思う句を選ぶ互選は歌会・俳句の句会では通常の形だろう。川柳句会が互選から任意選者制になったのには歴史的経緯があり、尾藤三柳の『選者考』に詳しい説明がある。
以上のようなことは川柳人にとっては当然のことだろうが、外部の眼から眺め直してみると、改めて説明するのは案外むずかしい。
さて、当日の句会の結果は、「川柳スパイラル」掲示板に掲載しておいたので、ご興味のある方はご覧いただきたい。

http://6900.teacup.com/senspa/bbs?

次回の「川柳スパイラル東京句会」は12月9日(土)13時から京浜東北線王子駅の「北とぴあ」第一和室で開催の予定。

このブログ、毎週更新できていませんが、来週は夏休みをいただいて休載。次の更新は8月11日以降になります。みなさま、暑い夏を乗り切ってください。

2017年7月15日土曜日

最近の短歌表現の変化―「井泉」76号

夏も本番になり、寝苦しい夜が続いている。七月に届いた諸誌を読みながら暑さをしのごう。

私が現代短歌の動向を知るための情報を得ている短歌誌のひとつに「井泉」がある。創刊号から送っていただいているが、特に〈リレー小論〉のコーナーは重宝している。今月の76号のテーマは「私が注目する最近の短歌表現の変化」。堂園昌彦の〈むき出しの「私」からサバイバルへ〉は仲田有里の歌集『マヨネーズ』のことから話をはじめている。

本を持って帰って返しに行く道に植木や壊しかけのビルがある  仲田有里
友達が帰って行った夜の外流しに貝を集めて捨てる   

一首目の「植木」や「壊しかけのビル」、二首目の「貝」に作中主体の感情や意味を投影するのが従来の短歌の詠み方・読み方なのかもしれない。たとえば、二首目なら友達が帰ったあとの空虚感(上の句)と食べた貝の貝殻だけを捨てる行為(下の句)がうまくマッチしているというような?けれども、堂園はこんなふうに書いている。

〈通常の短歌ならばあるであろう象徴的意味がこの「植木」や「ビル」にはないし、「貝」も同様に主体の不如意を表す道具にはなっていない。だからこそ読者は予定調和ではない語に驚き、何か不可解なものを受け取ったかのように、歌はざらつきを残す。仲田の歌の特異なところは、歌を俯瞰して意味づけをするメタレベルが一切ないということである。逆に言えば、その分生々しい「私」が歌の中に生きている。〉

堂園は仲田の作品に2000年代の口語短歌のひとつの極点を見ている。メタレベルを介在させずに「私」を描くこと。「メタレベルの消去、あるいは後景化」と彼は言っている。
興味深いのは堂園がこれを子規の方法論と重ねていることだ。「和歌の俳句化」「歌の言葉の中から主観的な用語を省き、客観的な事物のみ」を描くこと。
斉藤斎藤の口語短歌論を援用しながら、堂園は2000年代の若者短歌の特徴を〈むきだしの「私」〉だという。
これに対して2010年代の若者短歌の特徴は何か。

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生れた   服部真里子

服部真里子・木下龍也・藪内亮輔の短歌を挙げて、その特徴を堂園は「スタイルを選択すること」「プリ・インストールされたサバイバル意識のようなもの」と呼んでいる。
〈むきだしの「私」〉ではなくて、パソコンにあらかじめインストールされているソフトを選ぶようにスタイルを選択する。「スタイルを選択するとは要するに、メタレベルを自分で選び取ることだ。」メタを消去した「私」が直接社会と向き合うのではなくて、自己に適したスタイルによって社会と向き合う。それだけ、今の現実が苛酷なものになっているのだろう。

7月17日に「現代歌人集会春季大会」が大阪で開催される。「調べの変容~前衛短歌以降~」というテーマで穂村弘の講演のほか、大辻隆弘の基調講演、堂園昌彦・阿波野巧也・河野美砂子のパネルディスカッションなどが予定されているので、楽しみにしている。

俳誌「里」7月号、特集「長谷川晃句集『蝶を追ふ』の路地をさまよう」。
天宮風牙が先月号に続いて5月の「川柳トーク」のことを紹介している。田中惣一郎、堀下翔の連載にも注目。

ふらここよあなたは人を許したか    長谷川晃
今そこで笑ってくれた蝶を追ふ
柿一つ心臓一つ同じである

「蝶」226号(7・8月号)、たむらちせい・森武司の両巨頭の句。

人生には飽きて河豚鍋には飽きず    たむらちせい
染卵は兎の卵ですか はい
遠い国の蝶を殺して微笑して

色事師来て冷麺を啜りおり       森武司
青大将次の頁で被曝せり
ミサイルが飛ぶ豌豆が煮えている

「核ボタンきつねのぼたんどれがどれ」(たむらちせい)について山田耕司が鑑賞を書いている(『円錐』73号より転載)。川村貴子の連載、若い俳人の大学生活がうかがえて好ましい。

川柳誌「凜」70号、桑原伸吉が巻頭言で村井見也子の第二句集『月見草の沖』(あざみエージェント)を紹介。
村井は北川絢一郎に師事、「平安川柳社」「新京都」を経て「凜」を創刊。第一句集『薄日』から26年を経ての上梓となる。

そうだまだ人形になる手があった    村井見也子
もの言わぬ爪から順に切ってゆく
月見草の沖へ捧げるわが挽歌

「草原」93号。竹内ゆみこの巻頭言。朝日新聞「俳句界に新風 若者が同人誌」(6月13日)に触れて、若者の川柳に対する捉え方について書いている。作品欄から。

あなたと私どちらかきっとアメフラシ  赤松螢子
毛皮のマリーだった頃 若かった頃   山口ろっぱ
遠縁の魚に倣い斑紋つける       徳山泰子
いい子なんだねいつでも首は定位置に  竹内ゆみこ

最後に、みつ木もも花句集『もも色ノイズ』から。

引き金に訂正印が押してある      みつ木もも花
いい分を溜め込んでいる股関節
苦痛がとれたら造花になっていた
とりあえず浅いところで握手する
ファスナー壊れてこれ以上隠せない

2017年7月7日金曜日

堤防の裂目へ野菊‐山河舞句の川柳

「杜人」254号(2017夏)は今年三月に亡くなった同誌の発行人「山河舞句追悼号」である。
舞句(マイク)という号からわかるように彼はプロのアナウンサーであり、赴任地の熊本で肥後狂句に興味をもち、松江で川柳をはじめたという。柳歴40年。1996年「杜人」同人、2007年(213号)から発行人。

私は山河とは二度会ったことがある。
一度目は「バックストロークin仙台」(2007年5月)のときだった。総合司会・山河舞句。
シンポジウムのテーマは「川柳にあらわれる『虚』について」で、司会・小池正博、パネラーは渡辺誠一郎・Sin・石田柊馬・樋口由紀子。
仙台開催ということで「小熊座」の渡辺誠一郎を招いて話を聞くことができた。パネラーが挙げた「虚の句5句選」に対して会場から渡辺隆夫が「川柳はこの程度の句で虚なのか。もっとすごいところへ行かないと虚とは言えないのではないか」と発言したのが印象に残っている。
二度目は「大友逸星・添田星人追悼句会」(2012年3月)のとき。
食事をしながらの句会で、山河舞句は穏やかな口調で開会挨拶をした。
この句会のことは本ブログでも紹介したことがある(2012年3月16日)。

「杜人」254号には山河舞句作品が掲載されている。
舞句には刊行された句集はなかったが、手作りの句集『無人駅の伝言板』『天に矢を』があり、あと「川柳大学合同句集」などから広瀬ちえみが抄出している。

残酷な嘘を知ってるボールペン
人間を修正液が消していく
二階から見送る支店長の首
海を見たくてタイムカードを押している
百枚の名刺を飛ばしさようなら
スサノオに遅れし人を父という
火葬場の前の花屋も春になる
堤防の裂目へ野菊また野菊
寝転んだ途端に蝿がやってくる
人文字のひとり反旗を翻す

『無人駅の伝言板』(平成5年7月)から。
最初の五句は組織の中に生きるサラリーマンの心情がうかがえて共感できる。
あとの五句は更に深まり、軽みのなかに川柳の眼が発揮されている。

ふんわりと新芽が覆う地雷原
万緑に伏せれば兵は皆みどり
エルサレム月は三方から見える
サラ金の看板邪魔だなあ月よ
森林浴あなたは腐りすぎている

『天に矢を』(平成14年~16年作品)から。
時事吟が含まれているが、社会的な題材を扱って常套的表現に陥らないのは至難のことだ。軽みと批評性を両立させているのは作者の手腕だろう。

怒怒怒怒怒 怒怒怒怒怒怒怒 怒怒と海

パソコンでは出ないが、中七の「怒」は七つとも反転して表記されている。
第二回高田寄生木賞大賞作品。東日本大震災を詠んだ句の中でも著名なもので、舞句の作品の中ではまずこれが思い浮かぶ。

水がめの底が乾いたので帰る
類似品注意と類似品が言う
うつ伏せを仰向けにして確かめる
銃を持つと約束を守らない
背後から国家に肩を叩かれる
こけしの首をきゅっと鳴らして春にする

「杜人」誌から広瀬ちえみが抄出した作品から。
「こけしの首をきゅっと鳴らして春にする」は今年の四月句会の高点句だそうだ。舞句の最後の作品なのだろう。
こうして改めて山河舞句の作品を読んでみると、生前に句集が出なかったことが惜しまれる。まとまった数の作品を並べることではじめて見えてくるものがあり、句の特質や多様性などが一冊の句集として読者に届けられるからだ。
「杜人」の発行人は都築裕孝へ。
今年11月4日、仙台ガーデンパレスで開催される「川柳杜人」創刊70周年記念句会は、同時に山河舞句追悼句会ということになる。

2017年7月2日日曜日

夏越の祓‐茅の輪くぐりの向こう側

NHKのラジオ講座「俳句の変革者たち」が最終回を迎えた。全13回の放送をすべて聴いたわけではないが、テキストは常に手元にあり、講師の青木亮人の語りに聴き入ることがたびたびあった。正岡子規から俳句甲子園まで、青木の話は常に現在の俳句実作者たちの実践と結びついており、しばしば若手俳人の作品が引用されていた。彼は机上の俳句研究者ではなく、現代俳人との交流のなかで「俳句」を考えている。このような心強い研究者が存在する俳句の世界を横からながめながら、私は一種の厭世観のようなものにとらわれた。青木が最終回で紹介したのは次の句。

秋燕の記憶薄れて空ばかり     生駒大祐

金原まさ子の訃報、衝撃だった。「川柳カード」を送っていたから、川柳も読んでいただいていたことと思う。句集『カルナヴァル』から一句挙げておく。

ヒトはケモノと菫は菫同士契れ   金原まさ子

川柳のフィールドでは柳本々々の活躍が目覚ましい。
「角川俳句」7月号では田島健一句集『ただならぬぽ』の書評を掲載しているし、ネットでは「およそ日刊『俳句新空間』」に「続フシギな短詩」を連載している。安福望との対談集(会話辞典)『きょうごめん行けないんだ』(食パンとペン)も好評のようだ。
以前にも紹介したことがあるが、「俳誌要覧」2017年版(東京四季出版、2017年3月発行)に柳本は「現代川柳を遠く離れて―任意のnとしての2016年」を書いている。彼は兵頭全郎句集『n≠0』や川合大祐句集『スロー・リバー』などを紹介したあと、「現代川柳にとって2016年は、川柳というジャンルの再吟味の年であった」と述べている。そして、野沢省悟「触光」の「高田寄生木賞」が評論・エッセイを対象とすることに触れ、「川柳というジャンルのなかでいろんな人間がそれぞれの場所からこれまでとは違った光を灯そうとしている」と評している。高田寄生木賞の大賞として高田寄生木を論じた「現代川柳の開拓者」が受賞したことには多少の疑問を感じるが、飯島章友「川柳ネタバレ論」、柳本々々「絵描きとしての時実新子」なども入選していて、今後、川柳批評に対する関心が高まってゆけばいいと思う。

2017年の半年が過ぎて、現代川柳はどのような状況になっているか。
私自身が関わっていた川柳誌のことになるが、「川柳カード」が14号で、「MANO」が20号で終刊した。現代川柳が短詩型の読者に広く注目されるようになった出発点は『現代川柳の精鋭たち』(北宋社・2000年7月)が一般書店で販売され、流通したことにあり、その翌年4月にはシンポジウム「川柳ジャンクション2001」が開催された。2003年「バックストローク」創刊、2011年に36号で終刊したあと、「川柳カード」がスタートした。『セレクション柳人』シリーズ(邑書林)も川柳句集の普及に大きな役割を果たした。これらは一連の流れのなかにあり、牽引してきたのは石部明と樋口由紀子である。2017年は「川柳ジャンクション」以来の現代川柳運動がいったん終焉した年だと私は受け止めている。
それでは、新たなスタートはどこにあるのか。
それぞれの川柳人がそれぞれの場で「これからの川柳」を準備していることだろうし、次第に形をとってくるはずだ。

私がしばしば思い浮かべる文章に入沢康夫の『詩的関係についての覚え書』(思潮社)がある。『詩の構造についての覚え書』から10年後に書かれた文章で、入沢はこんなふうに書いている。

「覚え書」を書く以前の私は《日本においては、作品絶対視の考へ方そのものが、きはめて少数派であり、ほとんどの詩論は、作者の生き方(伝記)や、作中に陳述されている思念によって作品を云々してゐるにすぎぬ》といふ認識を持ってゐた。そして、何よりも、作品を中心に据えた文学論が確立することが、急務であると考へてゐたのである。そして、この認識、この考へ方の正統性は、現在でも、一面において維持されてゐると思ふのだが(そのことは、現在でも多くの低劣な詩観・文学観がそこここに横行してゐることによって裏付けられる)、当時の状況では、なほのこと二正面作戦を強ひられる形になり、自己分裂に身をゆだねずには済まなかったやうである。作品絶対主義に疑問符を付けるたあめに、まづ作品絶対主義を標榜しなければならないといふ、春秋の筆法に似たやり口が要請されてゐたのだった。

そして入沢は「Aを倒すために、まづAを確立しなければならぬといふ種類の考へ方自体、政治の次元のものではあっても、文学の次元のものではない。私は詩におけるその種の政治家になる必要は毛頭ないのであった」と続けている。

確立したあと、その先に何があるのかは考えておかなければならないだろう。
私は川柳においても他ジャンルで行われているようなことはすべて実現されることを願っている。句集の発行、批評の必要性、句評会・批評会やシンポジウムの開催、他ジャンルとの交流、アンソロジーと文芸的な川柳書の発行、SNSを利用した川柳の発信、などなど。
かりにこれらの一部分でも実現されるとして、その先に何があるのか。

前掲の柳本々々の言葉を借りると次のようになるだろうか。
2016年は川柳というジャンルの再吟味の年
2017年は川柳というジャンルのなかでいろんな人間がそれぞれの場所からこれまでとは違った光を灯そうとしている年

6月30日、所用があって北信太の葛葉稲荷神社を訪れた。信太妻の伝説で有名な神社である。この近くの職場に勤務していた時期があって、神社の石狐を毎日見ていた。狐の顔は少しも変っていなかった。
この日は夏越の祓の日で、境内には茅の輪が設置されていた。私は作法通りに茅の輪くぐりをしながら、これからの半年のことなどをぼんやり考えていた。