2013年1月25日金曜日

血のつながった他人・見ず知らずのわたし ― 榊陽子の川柳

青森県で発行されている川柳誌「おかじょうき」1月号(通巻228号)に「第17回杉野十佐一賞」が発表されている。
杉野十佐一(すぎの・とさいち)は昭和26年に「おかじょうき川柳社」を設立、初代代表として多くの川柳人を育成した。昭和54年没。
今回、大賞を受賞したのは次の作品である。

ササキサンを軽くあやしてから眠る    榊陽子

「軽」という題詠で、選者六人のうち、なかはられいこと樋口由紀子が特選、広瀬ちえみが秀逸に選んでいる。
まず、なかはられいこの選評から。

「文句なしで特選でいただいた。
しょっぱなから『ササキサン』という上五に瞬殺された。だってササキサンだよ、ササキサン!なんだこれは。
 人名か、薬の名前か?人名であれば、佐々木家の妻が夫を『軽くあやして眠る』のか?作者にはササキサンと呼ばれる日常があって、人様向けのササキサンを『軽くあやしてから眠る』のか?
 安らかに眠るために、あやさねばならぬものが気持の中に存在する日は誰にでもある。それは黒々とした悪意だったり、叶わぬ望みだったり、底知れぬ悲しみだったり、いったん暴れだすと手に負えないもの。理性では御しきれぬ感情に対する不安のようなもの。そうした名づけようのない、モヤモヤした気持ちのしこりのようなものを作者は『ササキサン』と名づけたのではないだろうか。個人的にはこの解釈がいちばん気にいっている」

次に、樋口由紀子の選評。

「『ササキサン』が謎である。名字は普通は漢字で書く。それをわざとカタカナ表記にしている。一体誰なのだ。身内なのだろうか。他人なのだろうか。それとももう一人の自分なのだろうか、といろいろと考えてみた。だれを当てはめてみても話は通じて、生きているということの物語は成立する。人と人との関係の微妙なアヤをついている。『軽くあやしてから眠る』と組み合わせられることによって、カタカナ表記の『ササキサン』にエッジが利いた」

これらの選評から、ササキサンという固有名詞にインパクトがあったことが分かる。「佐々木さん」でも「ササキさん」でもなくて、「ササキサン」なのだ。一般に、固有名詞は喚起力が強いものであるが、この謎めいた名前に読者は、夫・他人・もう一人の自分など様々なものを代入することができる。
多義的な読みを可能にしているのは、「軽くあやしてから眠る」という含みのある表現にもよる。なかはらが「モヤモヤした気持のしこりのようなもの」と呼び、樋口が「人と人との関係の微妙なアヤ」と指摘した何かが表現されているようだ。読みはひとつではなく、読者の連想によってさまざまな読みが可能となり、しかも作品としては緩みがないところが評価されたのだろう。
作者はどのように述べているだろうか。榊陽子の「受賞の言葉」。

「思いがけず大賞をいただき、さらにこの句でいただいたということに驚いています。というのも投句した後に『なんでササキサン?』という思いが自分の中でおこり、しまったなあと思っていたのです。2か月後に再開したササキサンをしげしげと観察すると、血のつながった他人のようであり、見ず知らずのわたしのようでもありました。ササキサンはあのツンとした菊の匂いをかがせたり、耳を触らせてあげるとまもなく寝息が聞こえます。そして私は夜を揺らさないようそっと部屋を抜け出すのです」

「血のつながった他人」と「見ず知らずのわたし」。
この作者は自作を突き放して眺めることもできるし、自作についてけっこう意識的であることがわかる。
ササキサンには小説の登場人物のような雰囲気が濃厚である。
読者はこの人物に対してさまざまなイメージを重ねることができる。

私が連想したのは―
川上弘美の短編集『溺レる』に「百年」という小説が収録されている。
作中の「私」(女性)は次のように語っている。

「おおかたの人から、あんたと居るのはつまらない、と言われた。サカキさんだけが、つまらない、と言わなかった。
 なぜ私なんかと居るの。サカキさんに聞いたことがあった。
 サカキさんは少し考えてから、おまえは清のような女だよ、と答えた」

「清」は漱石の『坊っちゃん』に登場する乳母である。漱石の理想とするタイプの女性らしい。自分の恋人を「清のような女」と呼ぶのは男の悪意である。正確に言えば、そのような男を作中に登場させる女性作家の悪意である。
けれども、榊陽子の句に登場する「ササキサンをあやす女」は清とはまったく違うタイプの女性である。その証拠に、彼女はササキサンを「軽く」あやすのだ。なかはられいこの選評に「悪意」という言葉が出てくるのは偶然ではない。

ササキサンを軽くあやしてから眠る

読者の想像力を刺激し、多様な読みを喚起する川柳作品はそれほど多くない。榊陽子の作品には、虚構を通しての「私性」の表現の可能性が感じられる。

2013年1月18日金曜日

川柳と不条理

昨年、話題になった俳句関係の本に倉阪鬼一郎著『怖い俳句』(幻冬舎新書)がある。
「怖い俳句」があるのなら「怖い短歌」「怖い川柳」「怖い連句」があってもよい。実作者であれば、自分でも作ってみようと食指が動くことだろう。
連句に関して言えば、神戸で発行されている詩誌「ア・テンポ」42号(2012年12月)に「怖い連句」が掲載されている。二十韻「果て想ふ」の巻。その前半だけ紹介する。

銀河浮く宇宙の果ての果て想ふ   赤坂恒子(秋)
月の舟から避難信号       梅村光明(月)
一粒も充実しない稲穂にて     木村ふう(秋)
ハンバーガーを齧る若者       恒子(雑)
この歯科医すぐに虫歯を抜きたがり   光明(雑)
レントゲンには謎の物体       ふう(雑)
空蝉の闇に残心したたりぬ       恒子(夏)
避暑地の事件知られずに幕      光明(夏)
口紅で書かれしダイイングメッセージ  ふう(雑)
夢の中までアラビア数字       恒子(雑)

留書に『怖い俳句』に触れて曰く「一読後に、これこそ連句でやるべきだと思い付き、挑戦した成果が、上掲の『怖い連句』二十韻『果て想ふ』の巻。連句では、古来より賦物といって、句中に事物の名前などを詠み込むことが行われ、そのひとつとして妖怪や化け物尽しの作品が作られているが、この怖い連句の特徴は、一句で怖さを表そうと試みた点であり、従来の賦物との違いである。読んで怖いと思うかは、あくまでも読者の感覚に委ねられている」。

「川柳」では、「川柳カード」創刊号(2012年11月)に掲載された、くんじろうの「河童」10句が「怖い川柳」に当るだろう。

夕焼けに箪笥の中の首に会う       くんじろう
粘膜をまさぐり合って赤トンボ
バス通り亀が一匹潰されて
女先生も百足を食べている
仏壇の裏に隠した脚の肉
マンドリンクラブで憩うモモタロー
肉汁が滴り落ちる鳩時計
液化した狐とぬくい飯を食う
ゴロツキのままで半ズボンのままで
主張せよ我は河童の子孫なり

「女先生も百足を食べている」が「怖い川柳」をねらっているのは明らかだし、「肉汁が滴り落ちる鳩時計」もけっこう怖い。通常ありえないところに、ありえない物が見出されるとき、その違和感そのものが一句のモティーフとなる。何をもって怖いと感じるか、人によって感覚が異なると思うが、「怖さ」の中には「身の毛がよだつ恐怖」だけではなくて「不条理さによる恐怖」が含まれるだろう。たとえば、次の句はどうだろう。

姉さんはいま蘭鋳を揚げてます   石田柊馬

この句を読む人は「怖いな」と思うだろうか。それとも、ゲラゲラ笑い出すだろうか。私はこの句をはじめて読んだときの衝撃を忘れることができない。
この句が収録されている句集『ポテトサラダ』には「家族」の句が多い。「弟が銀の燭台狙いおる」「押しのけて法事の好きなおばが来る」「妹は廃業の力士虐めおり」「三男はポテトサラダでできている」「小芋一トン注文したまま母逝きぬ」
ここには何かの違和感が表現されているし、家族とは実は怖い存在であるような気もする。作中主体はそれぞれ現実とのズレをかかえているのだ。

レタス裂く窓いっぱいの異人船   加藤久子

日常のなかに不意に現れる不条理。台所で夕餉の支度をしているのだろう。主婦がレタスを裂くのは日常生活の一こまである。けれども、窓の外には異人船が来ている。本当に来ているのか、心理的に異人船が来ているような気がするのか。日常生活の一瞬に、ふと違和感や不条理な感覚が心をよぎることがある。

経済産業省に実朝の首持参する  飯田良祐

「経済産業省」と「実朝の首」は時間・空間が合わない。けれども役所に実朝の首を持参してごろんと転がしてみたらどういう事態になるのだろう。ここには明らかに現代に対する批評性がうかがえる。
現実に対する不満や違和感は一方では不条理の表現へと向かい、他方では批評性へと向かう。川柳の本質は批評性なのか不条理の表現なのか。悩んだこともあったが、深いところではたぶん両者はひとつなのである。

ひとりずつ納戸へ消えてゆく家族  松永千秋

納戸は古い道具とか普段使わないもの、不要だが捨てるにしのびない物などが置かれている場所である。現実の場所だが、家屋の中では思い出の貯蔵庫であったり、異界への通路と呼ぶにふさわしい空間である。そのような納戸に家族のひとりひとりが消えてゆく。不条理は不思議感覚でもある。

雑踏のひとり振り向き滝をはく   石部明

石部明の作品の中で、私はけっこうこの句が好きである。
雑踏とか群集の中で私たちは匿名の存在として生きている。ところが、その中のひとりが不意に振り向いて滝を吐いた。
そのあとの反応を私は二通り想像する。
人々は何事もなかったかのように、匿名の群集として歩き続ける。
しかしながら、私はもう一つの想像を捨てきれない。
滝を吐く男を見た群衆は、連鎖反応をおこして次々と自らの滝を吐き始めるのである。

不条理の表現は一回的なものである。グレゴール・ザムザが虫に変身したり、李徴が虎に変身したりするようなことは度々起こるものではない。不条理の表現も、最初の驚きがすんでしまうと、衝撃力が薄まり、読み捨てられてしまうことになる。けれども、一回的な不条理の表現が、より深く広い射程距離を獲得したとき、くり返し読むに足る川柳作品が生まれるのではないだろうか。

2013年1月11日金曜日

俳句の句会と川柳の句会

「川柳カード」創刊記念大会のとき、池田澄子・樋口由紀子の対談で次のようなやり取りがあった。

池田 私が句会へ行くときには「これは絶対大丈夫」という句は持っていかないんです。自分はいいと思うけれども案外ダメかもしれないとか、こういうことを言いたいけれども人はそう読んでくれるだろうかとかいうことを聞きたいために句会へ行くの。
樋口 川柳人なら句会には一番良い句を出しますね。

俳句の句会のことをよく知らない川柳人には、なぜ「良い句」を出さないのかと不審に思った向きもあるかもしれないが、ここには俳句の句会と川柳の句会の違いが端的に表れている。

俳句の句会について、私が利用している入門書は古舘曹人著『句会入門』(角川選書)である。古舘は「俳句入門三原則」として「素直に心を開いて聴くこと」「絶えず俳句に感動すること」を挙げたあと、次のように言う。

「三つ目は、俳句を詠む以上に俳句を読むこと。俳句という文学が他の文学と違う点は、詠むことと読むことが一つであることである。俳句を作ることは“今日は!”と他人に挨拶すること、俳句を読むことは他人の挨拶を受けること。従って、俳句は作り手(作者)と読み手(選者)が常に対面しているのである」

古舘は「創作と選句が表裏一体」「選句をしない人は俳人ではない」「選句の拙い人は作句も拙い」「他人への関心の薄い人は俳句に不適」などと述べている。
また、「句会の歴史」についてはこんなふうに。

「正岡子規が句会の作法を知ったのは、明治25年の暮のことで、伊藤松宇の椎の友句会に招かれたときである。子規が驚いたのは、この句会では宗匠を立てず、座中の人が互いに選ぶという互選方式を採用していたことである。当時宗匠達の運座は一人もしくは二、三人の宗匠を定めて、すべて宗匠に選を託したのが通例であった。子規は当時神格化された芭蕉の偶像を破壊して、宗匠の権威主義に痛罵を浴びせたり、子規自ら『先生』の敬称を禁じて、おのれの権威を否定した人物であった」

古舘は子規の互選句会を「ノン・リーダー方式」と呼んでいる。
伊藤松宇の「椎の友社」は明治24年1月に結成され、互選句会を始めた。俳句革新を目ざす子規はこれを踏襲し、根岸の子規庵では「膝回し」と称して探題式互選方式の句会を開いていたようだ。

さらに古舘のいう「句会作法十三か条」を見てみよう。「句会は十人以下で」「多彩なメンバーで」「句会は月二回」「句会は三時間」「投句は十句」「吟行が最上」「句会は選句の場」「互選の点数は優劣に無関係」「討論は結論を求めない」「ノン・リーダーで」「句会は自立の場」などである。古舘の独自の基準もあるようだが、印象に残ったのは次のような言葉である。
「選句の基準は常に最も高度に保ち、しかも選句はできるだけ多く取る。人により、句会により、時によって、選句のレベルを上下するなどもっての外である」
「下手な人は下手な句しか選句しない」
「俳句の鑑賞とか批評とか言われるものの中に、解釈と鑑賞の区別をしっかりしなければならないことである」「解釈を曖昧にして次の鑑賞に入ると混乱するばかりか、誤った鑑賞に導くからである」
「句会は作家の自立の場である。句会の連衆の心を鏡にしておのれを知ることは、師弟関係から自立することである。句会に権威を持ち込まないのは、あくまで自立する作家の誕生に必要なことだからである」

俳句の句会が現実にこの通りだとは思わないが、理想形として目指しているところはよく分る。
一方、川柳の句会はどのようになっているだろうか。
川柳句会の問題点を考えるには、尾藤三柳著『選者考』(葉文館出版)が便利である。選者制度のはじまりについて尾藤は次のように述べている。

「特定されない複数の選者が随時選句を務めるという、いわゆる任意選者制が一般的になるのは、江戸期では概ね文化初頭から、新川柳では明治39年前後からである」

一人の宗匠(選者)にそれ以外の全員が投句するという万句合の形式が崩れて、小単位に分散した句会が多くなった文化年代の初めから任意の選者が登場し、それ以後の句に質的低下をもたらした、と尾藤は言う。「選者の任意性と、その力量不足が、選句のバラつきと低下に結びつくのは、句会システムの免れ難い側面といえる」
川柳における選者システムの成立について、もう少し歴史的経緯を見ていこう。

「新川柳の句会は、明治37年6月5日に阪井久良岐邸で第一回が催されたが、この時は、久良岐という指導者が中心であったにもかかわらず、課題四題すべてを総互選で行なっている。これは俳句の運座を模倣したものだろう」

次に挙げるのは有名なエピソードであるが、明治40年3月に久良岐が大阪に来たとき、地元の小島六厘坊が参加した。六厘坊は当時20歳(数え歳)。久良岐が競点(互選)にするか、自分ひとりの選にするかと尋ねたところ、六厘坊は敢然と互選を主張したという。
このときの互選の方法は「頂戴互選」であった。読みあげられた句に対して、それを選ぶ人は「頂戴(チョーダイ)」と声をあげる。六里坊が頂戴、久良岐も頂戴だとすれば、その句に二点入ることになる。川柳独自の頂戴選であるが、現在では行なわれることはほとんどない。

近代川柳の出発にあたって互選句会の可能性があったにもかかわらず、川柳が個人選に変っていったのはなぜだろう。
尾藤は次のように指摘している。

「明治新川柳初期の句会では、宿題(兼題)というものはなく、集会当日、出席者が揃ったところで当座題(即席題)を課するのが普通だった」「選句はもちろん総互選であった」
「しだいに参加者が増え、句会の規模が大きくなってくると、運座(互選)に不便を感じるようになる。明治39年から40年代にかけての読売川柳へなぶり会では、出席者40名前後で、川柳、へなぶりの互選を宿題(一句吐)としており、それだけで句会時間は午後6時から11時まで5時間を要している。これが互選形式を採用する句会の限界で、ことに川柳独自の『頂戴互選』などは、もはや不可能になっていた」
「句会がひとつの共通な様式を整えた時、互選は二次的なものとなり、課題は、宿題・席題の二本立て、選句は各題個人選という基本形ができ上った」

以上、俳句の句会と川柳の句会の違いと、違いに至るまでの歴史的経緯を見てきた。冒頭に紹介した対談で池田澄子が「人がどう読んでくれるかを確かめるために句を出す」と言い、樋口由紀子が「一番良い句を出す」と発言したのには、それぞれの句会の方式の違いがあったことになる。
私は川柳に批評が発展しないのは、ふだんの句会で句を読む修練ができていないことに原因があると思っているが、だからといって互選句会を行えばすぐに句の読みが進むかというと、話はそう簡単ではない。
任意選者制の弊害を克服するために、共選(同じ題の句群について二人の選者が選をすること)を取り入れたり、数題のうち一題だけを互選にしてみたりと、さまざまな工夫がされてきたが、そのような試みそのものも少数であり、川柳句会一般の活性化にまで至っていない。従来、川柳句会の革新は「選者論」を中心に考えられてきたのであり、どれだけ良質の選者をそろえられるかが句会・大会の成否を決定してきたのである。

2013年1月4日金曜日

社会性と私性

新年おめでとうございます。今年も「週刊川柳時評」をよろしくお願いします。
干支にちなんで巳年の川柳をいろいろ調べてみた。こういう場合は、奥田白虎編『川柳歳時記』(創元社)が便利である。「蛇」の項から。

同じ蛇でも色が白いと拝まれる      吉下俊作
笛にまた騙されて出る壺の蛇       高杉鬼遊
花園で妻によく似た蛇がいた       天野堯旦
小さい蛇胸にうごめく君が笛        真弓明子
錦蛇十二単という動き            正木水客
蛇はおのれの長さを知らずして果てる    石川勝

次に『類題別・番傘川柳一万句集』(創元社)から。

寝たままの蛇へ見物不服なり      太門
まつられた蛇金網が気に入らず     紫水

「川柳塔」1月号の巻頭言で小島蘭幸が蛇の句をいくつか紹介している。その中で次の句が特におもしろかった。

むつかしいことしかしない蛇使い    中尾藻介

中尾藻介は「大阪市都島区に鳴るギター」などで知られる川柳人。
俳句では「蛇」は夏の季語だが、川柳では蛇自体よりも蛇使いとか蛇を見ている人が詠まれることが多く、擬人化されたり、エデンの園のイメージと重ねあわされたり、脱皮の連想から喩として詠まれることも多いようだ。

さて、年末年始にいただいた俳誌・川柳誌に触れながら、いくつか気になったことを書きとめておきたい。
俳誌「里」12月号の巻頭に「冬の星」10句(月野ぽぽな)が掲載されている。

   コネチカット銃乱射に倒れた子供たちの冥福を祈り
ぎしりぎしり山々哭きながら眠る
焼け跡のような心地よ冬の訃報
愛されぬ命は凶器より凶器
天狼のひかり幼き四肢ぬらす
いくたびも名を呼び冬の星増やす

10句のうち5句を引用した。詠まれている内容は前書きの通りで、月野ぽぽなはニューヨークにいて、これまでもハリケーンのことを詠むなど身近な事件を作品化しているらしい。この作品は同人欄「里程集」に投句されたものだが、これを巻頭に特別掲載することにしたのは発行人・島田牙城の判断である。島田は「困難な型といふこと ぽぽな作品に觸れて」で次のように書いている。

〈正直に言ふ。困難な道である。二十人の小さな命が無惨のも不條理に奪はれた、悲しいし、虚しい。その正直な気持を俳句にぶつけたい、ただそれだけでは、陳腐になる。哀しみを哀しみとして、虚しさを虚しさとして詠みたくなる事件は決して今回の銃乱射事件だけではない。たとへば、十二月二日に起きた笹子トンネルの事故にしても、怒りと哀しみに僕たちは包まれた。シリアでは今日も内戦で市民が命の危険にさらされ続けてゐる。どれだけ個別化できるのか、個別化するものは前書しかないのか、出来事としての個別化をしないのであれば、どこまで作者獨自の世界観に辿り着けるのか、その世界観に普遍性はあるのか、または普遍性を必要としないのか。里程集の投句を読んでゐて、原發のことや、身近には親族との死別や、作句契機だけを見ると掲載してあげたくなるものは多い。でも、思索・観照を経ない単なる吐露・報告に終はつてゐる作品が大半なものだから、これなら虚子の如く「詠むな」と命じるはうが楽だなとすら思ふこともある。隣の人と同じに悲しんでゐても、新聞報道と同じに怒つてゐても、それは俳句にはならない〉

島田の指摘は他所事ではない。「隣の人と同じに悲しんでいても、新聞報道と同じに怒っていても、それは川柳にはならない」と言えるからだ。

このこととは直接関係はないが、昨年いただいた俳句創作集に『いわきへ』(発行人・四ツ谷龍)がある。福島県いわき市の文化団体「プロジェクト傳」主催の「いわき市の文化財を学び、津波被災地を訪問するツアー」に参加した俳人たちの作品を冊子にまとめたもの。ツアーは2回開催され、第1回が2012年7月29・30日、第2回が2012年9月15・16日。「週刊俳句」にもレポートが掲載されていたからご覧になった方も多いことだろう。参加した俳人は、相子智恵・太田うさぎ・菊田一平・関悦史・鴇田智哉・宮本佳世乃・四ツ谷龍。作品そのものは引用しないが、まえがき「いわきへ」の次の一節は心をうつ。

〈われわれは、かならずしも現地で俳句を作ろうと思ってこの旅に参加したわけではありませんでした。被災地を題材にして俳句を製作するというようなことは、むしろ非常にむずかしいのではないかと、考えていたかもしれません。しかし、昼に被災地を自分たちの目で見て、その夜さまざまに語らう中で、参加者の一人が、「俳句を作ろう、お互いが作った句を交換しあおう」と提案したとき、それはやるべきことだと、全員が感じました〉

川柳誌に目を移すと、「杜人」236号の巻頭に湊圭史の〈「私たち」と「私」の間〉という文章が掲載されている。
湊は川柳と出会ってから3、4年の自己の体験を振り返りながら「セレクション柳人」・なかはられいこ・飯田良祐・六大家・時実新子・金築雨学などを引用し、結論的には次のように言う。

〈「私たち」と「私」のあわいに滲む世界の謎のようなもの、それが私にとっての川柳のいちばんの魅力な気がします〉

「私たち」(共感と普遍性)と「私」(私性)の間で川柳はどのような作品を生み出すことができるのか。六大家の作品が「私たち」の表現だとすれば、それを超克したはずの革新川柳における「私」の表現が現在の時点では古臭く見えてしまい、逆に六大家の軽さの方が現代的に思えるのはなぜか。これまで情報の共有に基づいた「私たち」のイメージで書かれていた時事川柳を、「私」に軸足を置いたものにすることは可能であるか。湊の問題意識は鋭い。

湊の文章は川柳を批評的に外から眺めているが、実作者は作品を書くことによって前へ進まないといけないから、問題は簡単ではない。
「杜人」の同じ号に佐藤みさ子の次の句が掲載されている。

どんぐりを拾う私を捨てながら    佐藤みさ子
落葉踏みながら私を消しながら

ここでは「私を捨てる」「私を消す」ということがテーマとなっている。
「私」の表現が日常生活の報告に終始したり、常識的な思いの吐露にすぎなかったりすることから、一歩踏み出そうとする意識が佐藤の作品には見られる。
また、加藤久子は「一句一遊」のコーナーで次の俳句を鑑賞している。

在りし日のわたくしといる春堤    増田まさみ

増田まさみ句集『ユキノチクモリ』に収録されている句である。この句に触れて加藤久子はこんなふうに書いている。

「小春日和の庭で草取りをしていた時、背中に陽が当たって気持ちよく、ふと時間と空間を忘れた。わたくしはどこにいるのだろう。例えば昔々のなつかしい歌をきいたり、日暮れの路地に漂う台所のにおいをかいだりした時に、一瞬タイムスリップすることはよくある。それとは別の、ふしぎな浮遊感だった。多分これは老いたという事なのだろうと愕然としながら、この句を思い出した」

増田の俳句に感応する加藤の感覚にも、「わたしはどこにいるのだろう」という「私性」の深化がうかがえる。

「里」12月号の「成分表」で上田信治は「世界があることとか自分が生きていることとかは、あまり自明なことではない」と述べ、しかし最後に「世界があることと自分が生きていることとは、一つのことなのだった」と書きとめている。

今年も短詩型文学のフィールドでは世界と私をめぐってさまざまな作品が書かれることだろう。どんな作品が生まれるのか期待したい。