2013年1月18日金曜日

川柳と不条理

昨年、話題になった俳句関係の本に倉阪鬼一郎著『怖い俳句』(幻冬舎新書)がある。
「怖い俳句」があるのなら「怖い短歌」「怖い川柳」「怖い連句」があってもよい。実作者であれば、自分でも作ってみようと食指が動くことだろう。
連句に関して言えば、神戸で発行されている詩誌「ア・テンポ」42号(2012年12月)に「怖い連句」が掲載されている。二十韻「果て想ふ」の巻。その前半だけ紹介する。

銀河浮く宇宙の果ての果て想ふ   赤坂恒子(秋)
月の舟から避難信号       梅村光明(月)
一粒も充実しない稲穂にて     木村ふう(秋)
ハンバーガーを齧る若者       恒子(雑)
この歯科医すぐに虫歯を抜きたがり   光明(雑)
レントゲンには謎の物体       ふう(雑)
空蝉の闇に残心したたりぬ       恒子(夏)
避暑地の事件知られずに幕      光明(夏)
口紅で書かれしダイイングメッセージ  ふう(雑)
夢の中までアラビア数字       恒子(雑)

留書に『怖い俳句』に触れて曰く「一読後に、これこそ連句でやるべきだと思い付き、挑戦した成果が、上掲の『怖い連句』二十韻『果て想ふ』の巻。連句では、古来より賦物といって、句中に事物の名前などを詠み込むことが行われ、そのひとつとして妖怪や化け物尽しの作品が作られているが、この怖い連句の特徴は、一句で怖さを表そうと試みた点であり、従来の賦物との違いである。読んで怖いと思うかは、あくまでも読者の感覚に委ねられている」。

「川柳」では、「川柳カード」創刊号(2012年11月)に掲載された、くんじろうの「河童」10句が「怖い川柳」に当るだろう。

夕焼けに箪笥の中の首に会う       くんじろう
粘膜をまさぐり合って赤トンボ
バス通り亀が一匹潰されて
女先生も百足を食べている
仏壇の裏に隠した脚の肉
マンドリンクラブで憩うモモタロー
肉汁が滴り落ちる鳩時計
液化した狐とぬくい飯を食う
ゴロツキのままで半ズボンのままで
主張せよ我は河童の子孫なり

「女先生も百足を食べている」が「怖い川柳」をねらっているのは明らかだし、「肉汁が滴り落ちる鳩時計」もけっこう怖い。通常ありえないところに、ありえない物が見出されるとき、その違和感そのものが一句のモティーフとなる。何をもって怖いと感じるか、人によって感覚が異なると思うが、「怖さ」の中には「身の毛がよだつ恐怖」だけではなくて「不条理さによる恐怖」が含まれるだろう。たとえば、次の句はどうだろう。

姉さんはいま蘭鋳を揚げてます   石田柊馬

この句を読む人は「怖いな」と思うだろうか。それとも、ゲラゲラ笑い出すだろうか。私はこの句をはじめて読んだときの衝撃を忘れることができない。
この句が収録されている句集『ポテトサラダ』には「家族」の句が多い。「弟が銀の燭台狙いおる」「押しのけて法事の好きなおばが来る」「妹は廃業の力士虐めおり」「三男はポテトサラダでできている」「小芋一トン注文したまま母逝きぬ」
ここには何かの違和感が表現されているし、家族とは実は怖い存在であるような気もする。作中主体はそれぞれ現実とのズレをかかえているのだ。

レタス裂く窓いっぱいの異人船   加藤久子

日常のなかに不意に現れる不条理。台所で夕餉の支度をしているのだろう。主婦がレタスを裂くのは日常生活の一こまである。けれども、窓の外には異人船が来ている。本当に来ているのか、心理的に異人船が来ているような気がするのか。日常生活の一瞬に、ふと違和感や不条理な感覚が心をよぎることがある。

経済産業省に実朝の首持参する  飯田良祐

「経済産業省」と「実朝の首」は時間・空間が合わない。けれども役所に実朝の首を持参してごろんと転がしてみたらどういう事態になるのだろう。ここには明らかに現代に対する批評性がうかがえる。
現実に対する不満や違和感は一方では不条理の表現へと向かい、他方では批評性へと向かう。川柳の本質は批評性なのか不条理の表現なのか。悩んだこともあったが、深いところではたぶん両者はひとつなのである。

ひとりずつ納戸へ消えてゆく家族  松永千秋

納戸は古い道具とか普段使わないもの、不要だが捨てるにしのびない物などが置かれている場所である。現実の場所だが、家屋の中では思い出の貯蔵庫であったり、異界への通路と呼ぶにふさわしい空間である。そのような納戸に家族のひとりひとりが消えてゆく。不条理は不思議感覚でもある。

雑踏のひとり振り向き滝をはく   石部明

石部明の作品の中で、私はけっこうこの句が好きである。
雑踏とか群集の中で私たちは匿名の存在として生きている。ところが、その中のひとりが不意に振り向いて滝を吐いた。
そのあとの反応を私は二通り想像する。
人々は何事もなかったかのように、匿名の群集として歩き続ける。
しかしながら、私はもう一つの想像を捨てきれない。
滝を吐く男を見た群衆は、連鎖反応をおこして次々と自らの滝を吐き始めるのである。

不条理の表現は一回的なものである。グレゴール・ザムザが虫に変身したり、李徴が虎に変身したりするようなことは度々起こるものではない。不条理の表現も、最初の驚きがすんでしまうと、衝撃力が薄まり、読み捨てられてしまうことになる。けれども、一回的な不条理の表現が、より深く広い射程距離を獲得したとき、くり返し読むに足る川柳作品が生まれるのではないだろうか。

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