2012年4月27日金曜日

「MANO」17号

「MANO」17号が発行され、少しずつ反響も出はじめている。
年に1回しか発行されない川柳誌であるが、少数ではあっても読者の存在は同人各自にとって励みになる。特に今回は加藤久子と佐藤みさ子が震災の影響を受け、石部明が体調不良で不参加など、発行に至るまでの困難があったのでなおさらである。
巻頭は加藤久子の「空をひっぱる」20句。

結論は水を含んで落ちてくる   加藤久子   
夜の秋セロリの如き立ち直り
蝋燭のほのお単純に単純に
しずしずと運ばれてゆく洗濯機
綿虫も前頭葉もうす暗い          

東日本大震災から一年の時間の経過のなかで、言葉は現実の衝撃力を受け止めながら、ゆっくりと熟してゆく。
「MANO」17号に収録されている久子のエッセイを読むと、「言葉を失った2011年3月11日。書くことはいっぱいあるはずなのに、何を言っても何を書いても、みんなウソになる。言葉の無力を思い知らされた」という状態から「書くことでこの混乱を乗り越えられないだろうかという、微かな望みに縋って書いている」という状態に至る、その心の動きがよくわかる。加藤久子は震災を内面的に深く受け止め言語化しようとしているのだ。

関係をらくらく超えるあかんぼう  加藤久子
団欒を組み立てている抜歯跡
白菜を抱えて渡ってきた銀河
ももいろの目蓋に当たる落下物
ぎゅうっと空をひっぱっている蛹

時間が熟するということはあるはずだ。けれども、川柳の場合、時間によって深められるのではなくて、表層的な把握のままに時間が経過するうちに事態が忘却されてしまうことの方が多い。久子の句はそのような川柳の限界を越える、ひとつの可能性を示すものと私は受け止めている。
「ぎゅうっと」の句について、樋口由紀子は「金曜日の川柳」(ウェッブマガジン「ウラハイ」4月20日)で「あんなに小さな蛹があんなに大きな空を支えにして生きていこうとしている。それも能動的にひっぱっているように思った。蛹に希望をもらったのだろう。それよりもそのように感じた自分にほっとしているのかもしれない」と述べている。久子は「空をひっぱっている蛹」というイメージを手に入れた。しかも「ぎゅうっと」というところに川柳ならではの味がある。
続いて、佐藤みさ子の20句には「居る」という動詞のタイトルが付けられている。

祈るしかないのだ水を注ぎこむ     佐藤みさ子
父が聞くこれ朝めしか夕めしか
ハハよハハよそろそろハハを切り離す
まもなくふくしまと天から声が降る
思いやることの間違い同居する

佐藤みさ子のエッセイを読むと句の背景が何となくわかるが、彼女の句は現実性を失わず、かつ批評的である。ここにも震災のひとつの受け止め方がある。

安全と信じる人は手を挙げよ      佐藤みさ子
かなしくてうれしくてバタバタす
育つ速度も老いる速度も見てるだけ
ナス植えたトマトを植えた家を出た
朝陽浴びている山肌がわたしたち

小野裕三はブログ「関心空間」で「そう言えば3.11以降の川柳は、どうなっていたのだろう」という観点から佐藤みさ子の句を取り上げている。みさ子の作品が震災や原発事故についてのナマの事実の次元にとどまらず、想像力できちんと消化している点を評価している。震災後の生活のなかにも人間の実存は露呈する。みさ子はそれをきちんと見すえながら、その批評眼は外向的である。珍しいことに、佐藤みさ子は怒っているのだ。

あと、小池正博の評論「筒井祥文における虚と実」で取り上げられている句について付言しておきたい。

かっぽれを踊る地雷をよけながら   筒井祥文

祥文のこの句は、現在の時点で読み直すと、さまざまなシチュエーションのもとに読むことができる。震災は現代日本がいかに脆弱な基盤の上に立っているかを暴露してしまった。それまで隠蔽されていたものが白日のもとに晒されたのだ。これまで他人ごとに感じられた祥文作品の「地雷」が今では生なましい意味をもってくる。同時に、地雷の上で踊る人間の精神の状況がくっきりと立ち上がってくる。作品は発表されたあとも状況や読者によって育ってゆくものであり、そういう作品こそが読みつがれてゆくことになるのだろう。

先週も少し触れたが、樋口由紀子の「飯島晴子と川柳」は、「BSfield」22号に掲載された石部明の「何かが起きる交差点」とシンクロしている。樋口と石部はともに飯島晴子の文章に触発されている。
ここでは樋口が取り上げている飯島の評論「言葉の現れるとき」について見てみよう。飯島は最初、俳句というものを次のように考えて作句していたという。

「眼前にある実物をよく目で見て、これは赤いとか、丸いとか、ああリンゴであるとか、とにかくなるべく実物に添って心をはたらかしてしらべる。そして、知ったこと、感じたことを他人に伝えるために、自分の内部ではなく、公の集会場の備えてある言葉の一覧表、とでもいうような種類の言葉の中から言葉を選んで使う、というやり方である。対象となる事物が、観念や情感に代っても事情は同じである」

ところが、飯島はやがて次のような事態に気づくようになってゆく。

「それが俳句をつくる作業のなかで、言葉を扱っていていつからともなく、言葉というもののはたらきの不思議さに気がついた。言葉の偶然の組合せから、言葉の伝える意味以外の思いがけないものが顕ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを体験した。そこに顕ってくれるのは、私から少しずれた私であり、私の予定出来ない、私の未見の世界であった」

この二つの書き方から樋口がつかみとったものは、〈「公の集会場の備えてある言葉の一覧表」から「言葉というもののはたらきの不思議」へ〉という道筋であり、現代川柳の先端部分も確実にそのような方向に向かっている。思ったことを言葉によって伝達するというのではない。作品はそのような二段階の成立過程に分けられはしないのである。
既知のことを表現するのにふさわしい適切な言葉を見つけたからといって、それはおもしろいだろうか。むしろ表現者は自分が表現したいことが明確には分からないから書くのではないか。言葉の力によって未知の私や世界が立ち上がってくることがあるからこそ、俳句や川柳を書くのではないだろうか。
いま飯島の俳句観は、現代俳句の世界でどのように受け継がれているのだろう。知りたいところだ。

2012年4月20日金曜日

第5回BSおかやま川柳大会

4月14日(土)、岡山市の天神山文化プラザで「第5回BSおかやま川柳大会」が開催され、84名の参加者があった。「バックストローク」は昨年の11月に終刊したが、石部明を中心とする岡山のメンバーたちが「BS field」として句会を毎月続けている。昨年の「第4回BSおかやま大会」から1年、状況は変化したが「第5回大会」として開催されたことは喜ばしい。
大会の2日前に「BS field」誌22号が届いた。巻頭言で石部明は「新生21号は思いがけない反響をいただいている」と述べたあと、その期待に沿うための責任として「時代を見極めながら、その時代にあって自らの表現を模索すること」「自らの存在の意味を問いかけること」としている。また今回の「BSおかやま大会」について「数的動員を第一とするものではなく、当代屈指の選者をお迎えしている以上、それに応える作品を残すことであり、自由闊達な議論と創作の場を、全国の仲間たちに提供することこそが私たちの心づくしと考えたい」と書いている。
石部明自身は体調不良のため当日出席できなかったが、北海道、青森から福岡まで全国から集まった川柳人たちの顔ぶれは石部の期待に充分応えるものであったと言えよう。
当日の入選作品はいずれ「BS field」誌に発表されるだろうが、石部のブログ「顎のはずれた鯨」に速報が出ているので紹介したい。

課題「声」前田 一石選
準特選 春の声をぬけがらにするまで翳る    小西 瞬夏
特 選 音声認証 ドアときどき壁或いは君   蟹口 和枝

課題「映す」兵頭 全郎選
準特選 歯並びのきれいな犬が映りこむ     榊  陽子
特 選 菜の花は悲鳴を映す準備です      小西 瞬夏

課題「楽器」清水 かおり選
準特選 チェロを弾くほんの五センチ浮いている 酒井 かがり
特 選 風はまだリベルタンゴを暗譜中     内田 真理子

課題「箪笥」井上 一筒選
準特選 和箪笥へ登ってみれば樹海なり     筒井 祥文
特 選 刀箪笥のあんぽんたんを研ぎなおす   内田 真理子

課題「箪笥」樋口 由紀子選
準特選 来世はもう箪笥しませんと言う箪笥   きりのきりこ
特 選 和箪笥は走り出したら止まらない    蟹口 和枝

課題「女優」石田 柊馬選
準特選 女優とは楕円でまわるアメフラシ    酒井 暁美
特 選 徳利の首から下は皆女優        くんじろう

課題「肝」小池 正博選
準特選 肝から下は平家の公達にて       中西 軒わ
特 選 鳥の肝鳥のかたちにしてあげる     榊  陽子

選者の選評が語られることもBS大会ならではのことだった。
「箪笥」は樋口由紀子と井上一筒の共選である。半村良に「箪笥」という一種の怪奇小説があり、以前読んだときにその結末に衝撃を受けたことを記憶している。石部明好みの兼題だと言えよう。
樋口由紀子は「箪笥」という題について、「正面から眺めた箪笥ではなくて、裏側にまわったり上から眺めたりすると箪笥が別の見え方になることがある。しかも、常識とは異なった見方をしたうえで、箪笥はやはり箪笥であったりする」と述べた。共選の井上一筒は、絵画の場合にたとえて、展覧会にも「日展」「院展」もあれば、「二科展」「独立展」もあること、言葉の飛躍がなくておもしろさに欠ける場合もあれば、逆に飛躍しすぎて独善的になり(作者自身の中だけで飛躍しており)成功していない場合もあることを述べた。
「女優」の題を与えられた石田柊馬は、前半にさまざまな女優名が詠み込まれた句を選んだ。女優の固有名詞は強力なイメージを喚起するし、同時代を生きた自己の思い出と結びついている。柊馬はそのような「ノスタルジーとの戦い」を意識しながら選をしたことを述べた。
選評はいずれ発表誌に掲載される予定である。

さて、「BS field」22号に話を戻すと、石部明の「何かが起きる交差点」という文章が掲載されている。2002年ごろに書かれたものを再掲載したらしいが、石部は飯島晴子のことに触れている。

〈 私の川柳の実質的な出発はこの一文に始まる。
「とにかく私は、川柳も短詩としてしか見られないから、そこに詩がなければ私にとっての存在価値は認められない」と書く俳人飯島晴子の一文である。〉

時実新子主宰の「川柳展望」8号(昭和52年)に掲載された飯田の文章は「まだ川柳を始めて二年目の、しかも、人情がもてはやされ、上滑りする皮肉や風刺、痛くも痒くもない時事性を主体とする川柳に、少々うんざりしていた私に驚きを与えてくれ、やる気を起こさせてくれたバイブルでもあった」と石部は言う。
「川柳展望」に第一線で活躍する俳人の文章が掲載され、それが川柳人にも刺激を与える状況が当時はあったということだ。
飯島晴子は次のように書いている。

「既成の世界が黒だからその反対の白というのでは、結局、既成の世界を脱し得てはいない。白でも黒でもないところに、確たる存在感を打ち立てるのが詩をつくることだと私は思っている。ところが、私の視野の狭さであろうが、川柳はこの黒でなければ白、という精神のパターンが非常に多いように見受けられる。複雑に既成の世界に絡めとられているわれわれには、正直いってこのパターンはあまりにも単細胞的で、何の詩的衝撃も受けようがないのである。こんなことでは救われないのである」

この文章はとてもインパクトがあったようで、ちょうど「MANO」17号で樋口由紀子がまさに同じ部分を引用している。石部と樋口という二人の表現者が飯島の同じ文章にシンクロした。それは1980年代に川柳がゆっくり次の時代に向かって動きはじめる、その胚胎期としての意味をもつ。「BSおかやま大会」の会場でも配られていた「MANO」17号については、次週に改めて述べてみたい。

2012年4月13日金曜日

森の梟は笑っているか ― 柳田國男の民俗学と短歌

『雅語・歌語五七語辞典』(西方草志編・三省堂)を送っていただいた。
「万葉から明治まで千余年の和歌・連歌・短歌・俳句・詩の日本の代表的作家の美しい五音七音表現約五万を、雅語・歌語で意味別に分類したユニークな表現辞典」という。
本書は『五七語辞典』(佛渕健悟・西方草志編、三省堂、2010年)の姉妹編で、川柳人にとっては後者の方に利用価値があるかも知れない。たとえば、明日の「BSfield岡山川柳大会」の兼題のひとつ「声」を検索してみると、次のような語が出てくる。

五音「悪声の」「老い声に」「鳴く声は」「琵琶の声」「ほゆる声」など
七音「うめきの声と」「とがり声して」「むかしの声を」「声の恋しき」「木魚の声は」など(以上『雅語・歌語五七語辞典』)

五音「あつき声」「声涸れて」「声を追い」「作り声」「声の文」「諸声に」など
七音「可憐な声を」「声無き墓の」「すこし小声に」「にじんだ声が」「ファゴットの声」「あなたの声は」「声は虚空に」など(以上『五七語辞典』)

雅語と俗語の辞書態の差がうかがわれ、これらのフレーズが作句の参考にならないこともない。「ファゴットの声」を中七に使おうとすれば、上五・下五の穴埋めをすればよいのである。ただし、私自身はそんな作り方はしていないのは言うまでもない。

先週書き漏らしたことを補足しておく。
赤坂憲雄著『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫)について触れたが、短歌誌「Es」22号(2011年11月)で谷村はるかが同書の書評を書いている。そもそも私が『東北学』に関心をもったのは、この書評を読んだからだった。
それから「寡黙な東北人」について。赤坂は「私は『寡黙な東北人』などに会ったためしがない。相手と場を択ぶ。そして、必要がなければ喋らない。ただそれだけのことなのだ」と書いている。はっとさせられた一節である。
柳田國男批判について。赤坂は『雪国の春』を批判しているが、柳田の本はいま読み直しても様々な示唆や発見を与える力をもっている。たとえば「清光館哀史」の末尾の文章は私には忘れられないものである。

「痛みがあればこそバルサムは世に存在する。だからあの清光館のおとなしい細君なども、色々として我々が尋ねて見たけれども、黙って笑うばかりでどうしても此歌を教えてはくれなかったのだ。通りすがりの一夜の旅の者には、仮令話して聴かせても此心持は解らぬということを、知って居たのでは無いまでも感じて居たのである」

引用のついでにもう一箇所。「豆手帳から」のうち「二十五箇年後」という文章は、明治29年の三陸沖大津波のことに触れている。
「唐桑浜の宿という部落では、家の数が四十戸足らずの中、只の一戸だけ残って他は悉くあの海嘯で潰れた」「其晩はそれから家の薪を三百束ほども焚いたと云う。海上から此火の光を見掛けて、泳いで帰った者も大分あった」「時刻はちょうど旧五月五日の、月がおはいりやったばかりだった。怖ろしい大雨ではあったが、其でも節句の晩なので、人の家に往って飲む者が多く、酔い倒れて還られぬ為に助かったのも有れば、其為に助からなかった者もあった」

柳田の文章は事態をきちんととらえている。赤坂の批判は柳田民俗学の限界を乗り越えようとするもので、とてもよく理解できるが、柳田民俗学のイデオロギー的枠組みは批判できても、柳田の眼がとらえた細部は今もある種の衝撃力をもっている。私自身が柳田の詐術にはまっているのではないかということを含めて、柳田のテクストを読み直すことが必要だと思う。
こんな部分はどうだろう。
「恢復と名づくべき事業は行われ難かった。智慧の有る人は臆病になってしまったと謂う。元の屋敷を見棄てて高みへ上った者は、其故にもうよほど以前から後悔をして居る。之に反して夙に経験を忘れ、又は其よりも食うが大事だと、ずんずん浜辺近く出た者は、漁業にも商売にも大きな便宜を得て居る」

あと、宮沢賢治の「原体剣舞連」について。
悪路王の首が転がっているという部分はアテルイが朝廷の命令で斬首されたことを踏まえているが、賢治の詩はコスモロジーにつながってゆく。

     首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかがりにゆすれ
     青い仮面のこけおどし
     太刀を浴びてはいっぷかぷ
     夜風の底の蜘蛛をどり
     胃袋はいてぎったぎた
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

川柳においてはルサンチマンの表現が出発点と同時に終着点であり、そこで終ってしまうことが多いので、あえて書きとめておくのである。

さて、柳田に戻るが、『遠野物語』の序文に次の歌がある。

おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらむかも

森の梟が笑っている。柳田の『遠野物語』に対して、本当はそうではないんだよと笑っているのだろうか。あるいは、古層に生きる地霊として日本の近代化を笑っているのだろうか。この「森のふくろう」のイメージにはとても気になる存在感がある。
柳田は著作の序文においてしばしば短歌を創作している。

しをりすとたたずむ道の山ぐちに又かへり見るこしかたの雲   『石神問答』
ももとせの後の人こそゆかしけれ今の此世を何と見るらん    『時代ト農政』
かたつむりやや其殻を立ち出でよあたらつのつのめづる子のため 『蝸牛考』
立かへり又みみ川のみなかみにいほりせん日は夢ならでいつ   『後狩詞記』
大海に流れ入る日をほど遠み山下清水いは走るらん       『桃太郎の誕生』

藤村の「椰子の実」が柳田の話にヒントを得て書かれたことからも知られるように、柳田は田山花袋や島崎藤村と親しく、桂園派の歌人としての経歴をもつ。新体詩人としても有名だったらしい。柳田の短歌について論じた好著に来嶋靖生『森のふくろう』(河出書房新社・昭和57年)がある。次の歌などは相当有名なものだったらしい。

利根川の夜舟のうちに相見つる香取少女はいかに見つらん

松岡國男(柳田國男)は森鴎外の「しがらみ草紙」などに短歌を発表していたが、明治28年ごろから「文学界」の同人たちとの交流がはじまり新体詩を創作する。「恋の詩人」と呼ばれた時代である。柳田はなぜ創作から離れたのだろうか。
田山花袋の『妻』には次のように描かれている。

「僕はもう詩などに満足しては居られない。これから実際社会に入るんだ。戦うだけは戦うのだ。現に、僕はもう態度を改めた」
「詩を罷めなくっても好いじゃないか」
「それは君などは罷めなくっても好いさ。君などはそれが目的なんだから…。けれど僕は文学が目的ではない。僕の詩はディレッタンチズムだった。もう僕は覚めた。恋歌を作ったって何になる!その暇があるなら農政学の一頁でも読む方が好い」

柳田民俗学成立の前史として「歌のわかれ」があったことは興味深い。
『森のふくろう』には、次のような一節もある。

「当時の和歌入門書には、通常、月別に題が示され、例歌と慣用句が多く示されていた。試みに明治二十四年刊の落合直文編『新撰歌典』をひらいてみると、たとえば二月には梅があり、梅を詠んだ名歌があげられるとともに、梅にふさわしい慣用句が、我が袖に・折て見る・我宿の・匂ひきて・咲そむる・風かよひきて・手枕ちかく・梅かをる夜は・香をなつかしみ・などという具合に並んでいるのである。初学者はこれらの句を覚え、うまく取り合わせてその上で新情を盛り、新味を出すべしとされた」

冒頭に紹介した『五七語辞典』とも関連するので引用したが、こういうのが旧派の歌の作り方であった。

柳田は連句人としても知られている。
『折口信夫全集』に収録されている柳田・折口・土岐善麿の「東北車中三吟」が名高いが、『定本柳田國男集』第二巻の月報には、中村丁女が柳田の連句を紹介している。歌仙「峡深く」の巻。表六句を引用する。

峡深くわが追憶の雪残る     零雨
 虻鼓打つ川沿ひの窓      柳叟
芹摘のもどりはまたも声かけて  汀女
 都なつかし夕雲の紅      青城
葛結ふ小屋も今宵は月あらん   駑十
 竈馬離れぬ酒樽の口      零雨

加藤武雄(青城)の自宅で開かれていた連句会だという。世話役が宇田零雨。連衆は柳田(柳叟)、松井驥(駑十)などである。今回は時評からは逸脱したが、柳田國男の多面性をフォローしてみた。知の巨人というものは存在するものである。

2012年4月6日金曜日

『仙台ぐらし』『東北学』『縄文の土偶』

3月に仙台へ行って以来、東北のことが気にかかっている。震災のこともあるが、それ以前に東北のことを何も知らないことに気づいたのだ。
折から伊坂幸太郎の『仙台ぐらし』という本が出ている。『重力ピエロ』や『オーデュボンの祈り』などで人気作家の伊坂が仙台に住んでいることをはじめて知ったが、このエッセイは雑誌「仙台学」に連載されたものである。「仙台学」は仙台の出版社・荒蝦夷(あらえびす)から発行されている。
伊坂はエッセイとフィクションの中間をねらって書きはじめたようで、タイトルは「~が多すぎる」で統一されている。「エッセイが苦手な自分でも、『エッセイに見せかけた作り話』であればどうにかなるのではないかと思い、引き受けたのですが、まったくもって甘い考えでした。『エッセイに見せかけた作り話』が簡単に思いつくわけがなく、結果的に、ほとんどが実話をもとにしたものとなっていますし、それにしても四苦八苦して書いたものばかりです」と伊坂は述べている。
「見知らぬ知人が多すぎる」という章では、喫茶店で出会ったおじさんが著者に髭をさわってくれと言うところがある。これなどは事実かフィクションかどっちなのだろう。
「タクシーが多すぎる」で映画「コラテラル」に肩入れする運転手の話は?
女性運転手のタクシーに昔の彼が乗ってきた話などはフィクションだろうなと思いながら読んだ。
震災のことにも触れていて、伊坂はこんなふうに述べている。
「震災から一ヶ月経つ。はじめに言えば、僕自身は大きな被害は受けなかった。仙台にいるものの家族は無事で、家も残っている。大変な状況にある人たち比べれば、かなりダメージは少ない。ただ、それでも、心がくたびれている。生活は日常に戻ってきたはずであるのに、気持ちはなかなか元に戻ってこない」
『仙台ぐらし』にはボランティアをしている二人組を主人公にした短編「ブックモビール」も収録されている。

震災以後、気になっていた本に赤坂憲雄の『東北学』(講談社学術文庫)がある。最近になってようやく手に入れて読んでみた。
プロローグによると本書のモティーフは柳田國男『雪国の春』に対する批判である。柳田の「深い雪景色の底に埋もれた、稲を作る常民たちの東北」という幻想に対して、赤坂は下北では稲をほとんど作らなかったという事実を対置する。稲は冷害を受けやすいけれど、稗なら凶作になりにくい。ケガチ(飢饉)なしの作物と言われた稗を捨てて、稲作への大転換をはかってきたのが東北の近代だった。なぜなら稲は国家体制の根幹にかかわる存在だったからである。
赤坂はこんなふうに書いている。
「天皇制や王権をめぐる問題を別の角度から照射してゆくための、いわば瑞穂の国という幻想に覆い尽された『日本』を相対化するための手掛かりが、東北の地には豊かに堆積している、と感じられた」
稲作と天皇制を相対化するための視点が山の民、川の民であり、縄文というキイ・ワードである。赤坂は『雪国の春』における稲作をベースとする柳田の常民を批判するが、同時に『山の人生』における「辺境へのロマン主義」をも批判する。けれども芭蕉の『奥の細道』まで「辺境へのロマン主義」として否定するのはいかがなものか。俳諧のネットワークについての無理解ゆえに、赤坂自身がひとつの図式にとらわれてしまったのではないか。ないものねだりをしても仕方がないのである。

さて、赤坂の引用しているなかに、宮沢賢治の「原体剣舞連」に次の一節がある。

むかし達谷(たつた)の悪路王
まつくらくらの二里の洞(ほら)
わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
首は刻まれ漬けられ

悪路王は伝説のなかの蝦夷の首長であり、坂上田村麻呂によって捕えられたアテルイのことだとも言われる。このアテルイという人に私は以前から関心を持っている。

3月11日、杜人の追悼句会には佐藤岳俊が来ていた。名刺交換をしただけで話す機会もなかったが、大阪に帰ってから彼の評論集『縄文の土偶』(青磁社・1984年)を読んでみた。佐藤岳俊は胆沢在住である。書名にもなった「縄文の土偶」という文章には「我が内なる大墓公(おおつかのきみ)アテルイ」という副題が付いている。

「大墓公アテルイは私の町にある角塚古墳の血族であり、それを守る公であった」
「投降したアテルイ、モレ等をひきつれて、田村麻呂はなぜ大和まで帰ったのだろうか。この謎はは、敵としてのアテルイ・モレらを再び胆沢の地に帰してやるという懐柔策があったからである。アテルイの投降は彼の背に生きる多くの集落であり、人々であった。人々を救うためアテルイ等は両手をあげたのである。しかし、大和の公家はアテルイ、モレの首を切った」

馬死んで大きな森がつくられる    佐藤岳俊
アテルイの目へ流れこむ胆沢川
飢えた胃で縄文の土器くみたてる
豊饒な土偶よ性器までさらす
どこまでも死ねる田螺がやわらかい

岳俊は白石朝太郎に師事した。朝太郎は新興川柳期に「大正川柳」で活躍した白石維想楼である。『縄文の土偶』には朝太郎に関する文章がいくつか収録されている。朝太郎は私も好きな川柳人であるが、改めて書く機会がくるときを待つことにして、今日は触れない。今回『縄文の土偶』を読んで特に印象に残ったのは、巻頭で取り上げられている吉田成一の作品である。

北上川人になど生れるもんじゃねえ    吉田成一
陽は等しからず劣性の籾険し
よそ者に決して見えぬ雪女
鬼剣舞一揆を指導した顔だ
絵になって三陸漁港貧しかり
金魚死んで仮の姿だとわかる

私も私なりに東北に対する文学的イメージを持っている。遠野物語や菅江真澄、宮沢賢治、前九年の役、安倍貞任、等々。しかし、文学的イメージなどは現実に対してたかが知れている。赤坂のいう「辺境へのロマン主義」かも知れない。東北の風土は関西とは随分違うし、東北といっても多様な姿をもっているだろう。理解できたなどとはとても言えぬ東北の姿を少しずつ見極めてゆきたいと思っている。