『雅語・歌語五七語辞典』(西方草志編・三省堂)を送っていただいた。
「万葉から明治まで千余年の和歌・連歌・短歌・俳句・詩の日本の代表的作家の美しい五音七音表現約五万を、雅語・歌語で意味別に分類したユニークな表現辞典」という。
本書は『五七語辞典』(佛渕健悟・西方草志編、三省堂、2010年)の姉妹編で、川柳人にとっては後者の方に利用価値があるかも知れない。たとえば、明日の「BSfield岡山川柳大会」の兼題のひとつ「声」を検索してみると、次のような語が出てくる。
五音「悪声の」「老い声に」「鳴く声は」「琵琶の声」「ほゆる声」など
七音「うめきの声と」「とがり声して」「むかしの声を」「声の恋しき」「木魚の声は」など(以上『雅語・歌語五七語辞典』)
五音「あつき声」「声涸れて」「声を追い」「作り声」「声の文」「諸声に」など
七音「可憐な声を」「声無き墓の」「すこし小声に」「にじんだ声が」「ファゴットの声」「あなたの声は」「声は虚空に」など(以上『五七語辞典』)
雅語と俗語の辞書態の差がうかがわれ、これらのフレーズが作句の参考にならないこともない。「ファゴットの声」を中七に使おうとすれば、上五・下五の穴埋めをすればよいのである。ただし、私自身はそんな作り方はしていないのは言うまでもない。
先週書き漏らしたことを補足しておく。
赤坂憲雄著『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫)について触れたが、短歌誌「Es」22号(2011年11月)で谷村はるかが同書の書評を書いている。そもそも私が『東北学』に関心をもったのは、この書評を読んだからだった。
それから「寡黙な東北人」について。赤坂は「私は『寡黙な東北人』などに会ったためしがない。相手と場を択ぶ。そして、必要がなければ喋らない。ただそれだけのことなのだ」と書いている。はっとさせられた一節である。
柳田國男批判について。赤坂は『雪国の春』を批判しているが、柳田の本はいま読み直しても様々な示唆や発見を与える力をもっている。たとえば「清光館哀史」の末尾の文章は私には忘れられないものである。
「痛みがあればこそバルサムは世に存在する。だからあの清光館のおとなしい細君なども、色々として我々が尋ねて見たけれども、黙って笑うばかりでどうしても此歌を教えてはくれなかったのだ。通りすがりの一夜の旅の者には、仮令話して聴かせても此心持は解らぬということを、知って居たのでは無いまでも感じて居たのである」
引用のついでにもう一箇所。「豆手帳から」のうち「二十五箇年後」という文章は、明治29年の三陸沖大津波のことに触れている。
「唐桑浜の宿という部落では、家の数が四十戸足らずの中、只の一戸だけ残って他は悉くあの海嘯で潰れた」「其晩はそれから家の薪を三百束ほども焚いたと云う。海上から此火の光を見掛けて、泳いで帰った者も大分あった」「時刻はちょうど旧五月五日の、月がおはいりやったばかりだった。怖ろしい大雨ではあったが、其でも節句の晩なので、人の家に往って飲む者が多く、酔い倒れて還られぬ為に助かったのも有れば、其為に助からなかった者もあった」
柳田の文章は事態をきちんととらえている。赤坂の批判は柳田民俗学の限界を乗り越えようとするもので、とてもよく理解できるが、柳田民俗学のイデオロギー的枠組みは批判できても、柳田の眼がとらえた細部は今もある種の衝撃力をもっている。私自身が柳田の詐術にはまっているのではないかということを含めて、柳田のテクストを読み直すことが必要だと思う。
こんな部分はどうだろう。
「恢復と名づくべき事業は行われ難かった。智慧の有る人は臆病になってしまったと謂う。元の屋敷を見棄てて高みへ上った者は、其故にもうよほど以前から後悔をして居る。之に反して夙に経験を忘れ、又は其よりも食うが大事だと、ずんずん浜辺近く出た者は、漁業にも商売にも大きな便宜を得て居る」
あと、宮沢賢治の「原体剣舞連」について。
悪路王の首が転がっているという部分はアテルイが朝廷の命令で斬首されたことを踏まえているが、賢治の詩はコスモロジーにつながってゆく。
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかがりにゆすれ
青い仮面のこけおどし
太刀を浴びてはいっぷかぷ
夜風の底の蜘蛛をどり
胃袋はいてぎったぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
川柳においてはルサンチマンの表現が出発点と同時に終着点であり、そこで終ってしまうことが多いので、あえて書きとめておくのである。
さて、柳田に戻るが、『遠野物語』の序文に次の歌がある。
おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらむかも
森の梟が笑っている。柳田の『遠野物語』に対して、本当はそうではないんだよと笑っているのだろうか。あるいは、古層に生きる地霊として日本の近代化を笑っているのだろうか。この「森のふくろう」のイメージにはとても気になる存在感がある。
柳田は著作の序文においてしばしば短歌を創作している。
しをりすとたたずむ道の山ぐちに又かへり見るこしかたの雲 『石神問答』
ももとせの後の人こそゆかしけれ今の此世を何と見るらん 『時代ト農政』
かたつむりやや其殻を立ち出でよあたらつのつのめづる子のため 『蝸牛考』
立かへり又みみ川のみなかみにいほりせん日は夢ならでいつ 『後狩詞記』
大海に流れ入る日をほど遠み山下清水いは走るらん 『桃太郎の誕生』
藤村の「椰子の実」が柳田の話にヒントを得て書かれたことからも知られるように、柳田は田山花袋や島崎藤村と親しく、桂園派の歌人としての経歴をもつ。新体詩人としても有名だったらしい。柳田の短歌について論じた好著に来嶋靖生『森のふくろう』(河出書房新社・昭和57年)がある。次の歌などは相当有名なものだったらしい。
利根川の夜舟のうちに相見つる香取少女はいかに見つらん
松岡國男(柳田國男)は森鴎外の「しがらみ草紙」などに短歌を発表していたが、明治28年ごろから「文学界」の同人たちとの交流がはじまり新体詩を創作する。「恋の詩人」と呼ばれた時代である。柳田はなぜ創作から離れたのだろうか。
田山花袋の『妻』には次のように描かれている。
「僕はもう詩などに満足しては居られない。これから実際社会に入るんだ。戦うだけは戦うのだ。現に、僕はもう態度を改めた」
「詩を罷めなくっても好いじゃないか」
「それは君などは罷めなくっても好いさ。君などはそれが目的なんだから…。けれど僕は文学が目的ではない。僕の詩はディレッタンチズムだった。もう僕は覚めた。恋歌を作ったって何になる!その暇があるなら農政学の一頁でも読む方が好い」
柳田民俗学成立の前史として「歌のわかれ」があったことは興味深い。
『森のふくろう』には、次のような一節もある。
「当時の和歌入門書には、通常、月別に題が示され、例歌と慣用句が多く示されていた。試みに明治二十四年刊の落合直文編『新撰歌典』をひらいてみると、たとえば二月には梅があり、梅を詠んだ名歌があげられるとともに、梅にふさわしい慣用句が、我が袖に・折て見る・我宿の・匂ひきて・咲そむる・風かよひきて・手枕ちかく・梅かをる夜は・香をなつかしみ・などという具合に並んでいるのである。初学者はこれらの句を覚え、うまく取り合わせてその上で新情を盛り、新味を出すべしとされた」
冒頭に紹介した『五七語辞典』とも関連するので引用したが、こういうのが旧派の歌の作り方であった。
柳田は連句人としても知られている。
『折口信夫全集』に収録されている柳田・折口・土岐善麿の「東北車中三吟」が名高いが、『定本柳田國男集』第二巻の月報には、中村丁女が柳田の連句を紹介している。歌仙「峡深く」の巻。表六句を引用する。
峡深くわが追憶の雪残る 零雨
虻鼓打つ川沿ひの窓 柳叟
芹摘のもどりはまたも声かけて 汀女
都なつかし夕雲の紅 青城
葛結ふ小屋も今宵は月あらん 駑十
竈馬離れぬ酒樽の口 零雨
加藤武雄(青城)の自宅で開かれていた連句会だという。世話役が宇田零雨。連衆は柳田(柳叟)、松井驥(駑十)などである。今回は時評からは逸脱したが、柳田國男の多面性をフォローしてみた。知の巨人というものは存在するものである。
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