2018年10月27日土曜日

川柳作家ベストコレクション『普川素床』(新葉館出版)

新葉館から出版されているシリーズの一冊である。
「川柳の部」「短詩型作品の部」「俳句の部」の三部に分かれる。
「川柳の部」は「川柳公論」「川柳カード」「点鐘集」「東京川柳会」に発表されたもの。

逃げ水に似てあたたかい謎である
光にも尾がある生物の時間
ふと降りた街の皮膚感覚である
想像がまるごと沈む昼の深み
円よりもまるい線描春を病む
楽しみは意味から音へパンの耳
白い交通戦争です白紙の中は
多義というか多疑というか言葉
耳が鳴る空の指揮棒がうなる
四次元をとっくに超えてた四谷の鮭

川柳句集だから「川柳の部」の分量が一番多いのは当然だが、作品の傾向は多彩である。この作者は言葉に対する意識が高く、「言語」そのものをモティーフにすることがある。「意味から音へ」というフレーズや「多義」と「多疑」などのベースにあるのは、現代言語学の知識だろう。言葉は音と意味からできているが、川柳のフィールドにおいては「川柳の意味性」と言われるように、「それはどんな意味?」と問われることが多い。過剰な意味の世界から脱却するために「意味から音へ」というのはひとつの方向である。そのときに「重くれ」にならないために「そりゃあパンの耳だろう」と続けてみせるのは作者の腕前だろう。「意味」と「耳」の音の連想も働いている。
「一読明快」が唱えられる川柳フィールドで、「それでは川柳に多義的な作品はないのか」と問われるとき、「いやあ、多義というより多疑ですね」ととぼけてみせることもできる。「四次元」と「四谷」の漢数字を使った遊びも見られる。
「短詩型の部」は「連衆」に発表されたもの。

五万のわたしの窓をしめる
時計の中で鯨が暴れている
うたたねのうたたのなかのひやしんす
短詩が一本のマッチだった頃

谷口慎也が編集・発行している「連衆」は「短詩型文学誌」と銘うっているように、俳句・川柳などジャンルを越えた作者が集まっている。川柳のページには情野千里・笹田かなえなどの名を見かけるが、普川の作品は「俳句」のページに掲載されている。俳句のページには吉田健治の名も見られる。川柳と短詩の交流には様々な歴史があり、「短詩が一本のマッチだった頃」の句はその経緯をふまえて詠まれた句だろう。
普川の句集の「俳句の部」には掲載誌が明記されていないが、俳誌「ぶるうまりん」などに発表された作品だろう。

じんべい鮫泳ぐ半分はけむり
AはAならず煮凝りの中から声
梅雨の蝶は感覚の束だ
日常が通りすぎたり赤のまま
山椒魚もう足音になっている

「鮫」「煮凝り」「蝶」「山椒魚」などの季語が入っているので「俳句」と言えば言えるが、季感が感じられないので、これらの作品はむしろ「川柳の部」に入れた方が魅力が増すのではないか。というより、この句集の「川柳」「短詩」「俳句」という分類は私にはあまり意味のあるものとは思われない。発表誌が異なるというだけで、作品としてはすべて「川柳」と受け取ってかまわないだろう。
「ぶるうまりん」は俳誌だが、川柳とも交流のある雑誌で、たとえば2014年12月発行の29号には渡辺隆夫のインタビューが掲載されていた。
短詩型諸ジャンルの交流は今にはじまったことではなく、それなりの経緯があり、ジャンルを越えた視点をもつ川柳人も少数ながら存在する。普川素床の句集はそういうことを思い出させるものとなっている。

2018年10月21日日曜日

芳賀博子句集『髷を切る』(青磁社)

岡田一実の句集『記憶における沼とその他の在所』(青磁社)が好評だ。
『小鳥』『境界 border』につぐ第三句集になる。
出版祝賀会が開かれたようだし、web上でも感想が多く書かれている。私の周囲でもこの句集が好きだという人は多い。

火蛾は火に裸婦は素描に影となる    岡田一実
コスモスの根を思ふとき晴れてくる
鷹は首をねぢりきつたるとき鳩に
鳥葬にまづ駆けつけの小鳥来る
幻聴も春の嵐も臥せて聴く
見るつまり目玉はたらく蝶の昼
椿落つ傷みつつ且つ喰はれつつ
空洞の世界を藤のはびこるよ
白藤や此の世を続く水の音

今回とりあげるのは同じ青磁舎から発行された川柳の句集のことである。
芳賀博子の句集『髷を切る』は第一句集『移動遊園地』から15年ぶりの第二句集となる。
芳賀は自作を発表するだけではなく、俳誌「船団」に「今日の川柳」を連載しているし、ホームページ「芳賀博子の川柳模様」のうち「はがろぐ」でも川柳作品を紹介するなど、現代川柳の発信につとめている川柳人のひとりである。

歩きつつ曖昧になる目的地    芳賀博子

最初の章は「ガラス猫」というタイトルで、その巻頭句である。
一句全体がひとつの状況の喩として読める。
この曖昧を私はプラス・イメージとして受け取っている。
第一句集から15年が経過して、芳賀の川柳はどのように発展・変化したのか。

壁の染みあるいは逆立ちの蜥蜴

「川柳の意味性」ということがよく言われるが、この句は壁の染みを詠んでいるだけである。人家の壁を這っているのは守宮だと思うが、壁の染みなのだから現実の蜥蜴ではなくて心象的なものだろう。「逆立ちの」というところに薄っすらと意味性が感じられるが、過剰ではない。芳賀さんがこんな書き方をするんだと思った。

そこらじゅう汚してぱっと立ち上がる
私も土を被せたひとりです  
巣のようなものを作ってまた落とす

「私」を主語とした書き方(省略されている場合も含めて)である。川柳ではよく見かけるが、完成度は高い。

春暮れる消える魔球を投げあって
M78星雲へ帰るバス

「消える魔球」といえば星飛雄馬だし、「M78星雲」といえばウルトラマンである。漫画やテレビなどの素材も使っている。

かたつむり教義に背く方向へ  
二度寝してまたもアメフラシと出遭う
一頭の鹿はひっそり肉食に

動物を使った三句。この書き方は魅力的だ。

交合を見守る空気清浄機

この句集のなかで一番びっくりした句。

髷を切る時代は変わったんだから
最後には雨の力で産みました

「髷を切る」は句集のタイトルにもなっている。この主語は「私」なのか第三者なのか。「時代は変わった」ということに対して、肯定・否定相半ばしながら対応して生きていこうという意識だろう。変化はきっぱりと形に表わさなければならない。
第一句集『移動遊園地』で芳賀は次のような句を書いていた。

混沌の街人間が試される
生は死を死は生を抱きたいという
トマト缶トマトまみれの日々を経て
迷ったら海の匂いのする方へ
人生をすべて黒子のせいにする
積み上げてこれっぽっちに火をつける
つながってもつながっても二体
花の種面倒なこと始めたい

芳賀博子は時実新子に師事して川柳をはじめた。ホームページ「時実新子の川柳大学」の管理も彼女がしている。
私はこれまで河野春三から時実新子に至る現代川柳のラインに対して批判的な立場で川柳を書いてきた。そこに見られる「私性」の表現は「思い」という言葉に特化され、そのことが逆に川柳の可能性を狭めていると思っている。私は時実新子論を書いたことがないし、「川柳大学」系の川柳人とは距離を置いてきた。(新子の影響を受けた一群の川柳人を私は「新子チュルドレン」と呼んでいる。)
だから、芳賀とは川柳観が異なるはずだが、こんどの句集は作品として読んでとてもおもしろかった。句の背後に作者が貼りついている主情的な書き方とは異なるものも多い。時実新子は一時代を代表する川柳人だが、時代の進展とともに川柳も変化してきている。
芳賀の句集には従来の川柳からさらに前へ進もうという意識が読み取れる。新子以後の重要な句集の一冊だろう。