2018年10月21日日曜日

芳賀博子句集『髷を切る』(青磁舎)

岡田一実の句集『記憶における沼とその他の在所』(青磁社)が好評だ。
『小鳥』『境界 border』につぐ第三句集になる。
出版祝賀会が開かれたようだし、web上でも感想が多く書かれている。私の周囲でもこの句集が好きだという人は多い。

火蛾は火に裸婦は素描に影となる    岡田一実
コスモスの根を思ふとき晴れてくる
鷹は首をねぢりきつたるとき鳩に
鳥葬にまづ駆けつけの小鳥来る
幻聴も春の嵐も臥せて聴く
見るつまり目玉はたらく蝶の昼
椿落つ傷みつつ且つ喰はれつつ
空洞の世界を藤のはびこるよ
白藤や此の世を続く水の音

今回とりあげるのは同じ青磁舎から発行された川柳の句集のことである。
芳賀博子の句集『髷を切る』は第一句集『移動遊園地』から15年ぶりの第二句集となる。
芳賀は自作を発表するだけではなく、俳誌「船団」に「今日の川柳」を連載しているし、ホームページ「芳賀博子の川柳模様」のうち「はがろぐ」でも川柳作品を紹介するなど、現代川柳の発信につとめている川柳人のひとりである。

歩きつつ曖昧になる目的地    芳賀博子

最初の章は「ガラス猫」というタイトルで、その巻頭句である。
一句全体がひとつの状況の喩として読める。
この曖昧を私はプラス・イメージとして受け取っている。
第一句集から15年が経過して、芳賀の川柳はどのように発展・変化したのか。

壁の染みあるいは逆立ちの蜥蜴

「川柳の意味性」ということがよく言われるが、この句は壁の染みを詠んでいるだけである。人家の壁を這っているのは守宮だと思うが、壁の染みなのだから現実の蜥蜴ではなくて心象的なものだろう。「逆立ちの」というところに薄っすらと意味性が感じられるが、過剰ではない。芳賀さんがこんな書き方をするんだと思った。

そこらじゅう汚してぱっと立ち上がる
私も土を被せたひとりです  
巣のようなものを作ってまた落とす

「私」を主語とした書き方(省略されている場合も含めて)である。川柳ではよく見かけるが、完成度は高い。

春暮れる消える魔球を投げあって
M78星雲へ帰るバス

「消える魔球」といえば星飛雄馬だし、「M78星雲」といえばウルトラマンである。漫画やテレビなどの素材も使っている。

かたつむり教義に背く方向へ  
二度寝してまたもアメフラシと出遭う
一頭の鹿はひっそり肉食に

動物を使った三句。この書き方は魅力的だ。

交合を見守る空気清浄機

この句集のなかで一番びっくりした句。

髷を切る時代は変わったんだから
最後には雨の力で産みました

「髷を切る」は句集のタイトルにもなっている。この主語は「私」なのか第三者なのか。「時代は変わった」ということに対して、肯定・否定相半ばしながら対応して生きていこうという意識だろう。変化はきっぱりと形に表わさなければならない。
第一句集『移動遊園地』で芳賀は次のような句を書いていた。

混沌の街人間が試される
生は死を死は生を抱きたいという
トマト缶トマトまみれの日々を経て
迷ったら海の匂いのする方へ
人生をすべて黒子のせいにする
積み上げてこれっぽっちに火をつける
つながってもつながっても二体
花の種面倒なこと始めたい

芳賀博子は時実新子に師事して川柳をはじめた。ホームページ「時実新子の川柳大学」の管理も彼女がしている。
私はこれまで河野春三から時実新子に至る現代川柳のラインに対して批判的な立場で川柳を書いてきた。そこに見られる「私性」の表現は「思い」という言葉に特化され、そのことが逆に川柳の可能性を狭めていると思っている。私は時実新子論を書いたことがないし、「川柳大学」系の川柳人とは距離を置いてきた。(新子の影響を受けた一群の川柳人を私は「新子チュルドレン」と呼んでいる。)
だから、芳賀とは川柳観が異なるはずだが、こんどの句集は作品として読んでとてもおもしろかった。句の背後に作者が貼りついている主情的な書き方とは異なるものも多い。時実新子は一時代を代表する川柳人だが、時代の進展とともに川柳も変化してきている。
芳賀の句集には従来の川柳からさらに前へ進もうという意識が読み取れる。新子以後の重要な句集の一冊だろう。

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