2011年12月23日金曜日

『俳コレ』のことから川柳アンソロジーに話は及ぶ

今年も残り少なくなってきたが、この時期になって注目すべき俳句集・俳書が立て続けに刊行されている。
一昨年の『新撰21』・昨年の『超新撰21』に続いて、俳句アンソロジー『俳コレ』が発行され、話題になっている。出版社は同じ邑書林であるが、今回の特徴は「週刊俳句」による編集であるということ。入集作家の選定のほか、掲載作品についても編集部がかかわって、各作家の自撰ではなくて他撰となっている。各作家が自撰した作品をもとに編集部から依頼した選者が100句を選出したということだ。〈作品を他撰とした理由は「その方が面白くなりそうだったから」ということに尽きます〉(「はじめに」)と上田信治は書いている。年齢制限もなく、19歳から77歳までに渡っている。「この人の作品をまとまった形で読みたい」「俳句はどこまでも多面的であっていいし、もっと紹介されていい作家や、もっとふさわしい価値基準があるはずだ」「同時代の読者の潜在的欲求の中心に応える一書となること」など編集部のスタンスは徹底して「読む側の立場」に立っている。
全部は紹介しきれないので、5人だけピックアップさせていただく。

襟巻となりて獣のまた集ふ     野口る理
おつぱいを三百並べ卒業式     松本てふこ
白壁に蛾が当然のやうにゐる    矢口晃
エリックのばかばかばかと桜降る  太田うさぎ
マンゴーを紙の力士は縛りけり   岡村知昭

野口る理は「spica」で名前は知っていたが、これまできちんと読んだことがなかった。吟行のときにカマキリの卵を見つけて不思議そうに見入ったあと、「これ潰したらどうなりますか」と手を伸ばしたという、関悦史が小論に書いているエピソードは印象的だ。プラトンのミュトス(神話)について論文執筆中というのもおもしろい。掲出句では眼前の襟巻をただ襟巻としてではなく獣としても見ている。「串を離れて焼き鳥の静かなり」でも「串にさされた焼き鳥」と「串を離れた焼き鳥」を複合的にみる目がある。「初夢の途中で眠くなりにけり」では夢の中に夢が入れ子構造になっているのだし、「走り出す人の呼吸に蜂がゐる」「蝶の足四、五本触れて電話切る」でも日常の中に別のものを見ている。「虫の音や私も入れて私たち」。
松本てふこは『新撰21』で北大路翼の小論を書いた人。今回は実作者として登場している。解説は筑紫磐井。巻末対談で池田澄子が「磐井さんにしてはめずらしい情のある文章」と発言している。100句のうち91句は磐井選だが、残りの9句は「自分で選んでみたら、と言われて選んだ句」という。ちなみに自撰句のひとつは「春寒く陰部つるんとして裸像」。
矢口晃はこれまで知らなかったが、「あと二回転職をして蝌蚪になる」「鷹鳩と化すや嫌われてもいいや」などおもしろい句があると思った。
太田うさぎは「雷魚」をはじめ幾つかの俳誌の同人らしいが、私は「豆の木」で彼女の作品を読んでいる。「西日いまもつとも受けてホッチキス」「遠泳のこのまま都まで行くか」「一種爽やか空腹のはじまりは」「念仏踊り必ずうしろ振り返る」。
岡村知昭は「豈」の同人で、川柳人・俳人の合同句会でもたびたびいっしょになったことがある。選句のときに私はつい岡村の句を選んでしまうのだった。句に飛躍感があり、言葉と言葉との関係性が常套的でないので心地よいのである。彼は「バックストロークin名古屋」にも出席していたから、川柳の知人も多いことだろう。小論を書いている湊圭史は「詩客」の「俳句時評」(12月16日)でも岡村作品を取り上げている。「きりぎりす走れ六波羅蜜寺まで」「ねんねんころりよ朝顔の震えるよ」「マフラーをして本名でやってくる」。

昨年の『超新撰21』には清水かおりが参加していたが、今回は100%俳句のアンソロジーなので、読んでもピンとこないだろうと思っていたけれども、いろいろな俳人がいて退屈しなかった。巻末対談で池田澄子が「私は、俳句はいろんな俳句がないと嫌なんですね。たとえば、このいちばん若い人たちがみんなお互いに似ていたら、すごく嫌でしょう?だから、この本の若い人たちが、それぞれ全部違ったのが、とてもよかった」と述べているのが、すべてを言い尽くしている。
ちょうど本日(12月23日)、東京で「俳コレ」竟宴が開催される。私は出席できないが、その様子はいずれあちこちのブログで報告されることだろう。

それでは、川柳のアンソロジーはどのような状況であろうか。
川柳では純粋なアンソロジーそのものが少なく、川柳入門書に付随してドッキングした形が多い。私が川柳に関心を持ち始めたころに利用して便利だったのは、山村祐・坂本幸四郎著『現代川柳の鑑賞』(たいまつ社・昭和56年)だった。巻末の「作家別、鑑賞句・引用一覧」には「近代編」「現代編(東日本・西日本)」として60人の川柳人の作品が一覧できる。古本屋でもときどき見かけるからお勧めの一書である。ちなみに、山村祐の発行した『合本・現代の川柳』(復刻版・森林書房・昭和59年)は必読の文献だが、ベテランの川柳人にねだって借り受けるしか方法がない。
あと『現代川柳選集』(芸風書院)は全5巻で、「北海道・東北・東京篇」「関東・北陸編」「中部・近畿編」「関西編」「中国・九州編」と地域別に作家を集めている。私が持っているのは「関西編」で、亀山恭太から時実新子まで20人の作品が収録されている。
川柳に季語はないのだが、川柳作品を歳時記的な切り口でまとめたものに奥田白虎編『川柳歳時記』(創元社・昭和58年)がある。
アンソロジーではなく、川柳作家全集としては構造社の「川柳全集・全15巻」がある。六大家をはじめ当時の主な川柳人をカバーしているが、これは今では手に入らない。バラ本でたまに古本で見かけるので、そのつど購入するようにしている。ちなみに、かつて構造社から「川柳」という雑誌が出ていたが、つぶれてしまったようである。
どうも昔話ばかりしているようで気がひけるが、現在ただいまのアンソロジーを提示できない以上やむをえない。今手に入るものとしては田口麦彦が三省堂から出した『現代川柳必携』『現代川柳鑑賞事典』『現代女流川柳鑑賞』の3冊がある。
結社のアンソロジーとしては『番傘川柳一万句集(正)(続)』が有名だが、今はあまり読まれないようだ(私も持っていない)。『川柳・その作り方・味わい方』(創元社・1993年)では巻末に番傘同人の句が一句ずつ掲載されている。川柳ではこういうやり方が多い。
また、「現代川柳・点鐘の会」では毎年『点鐘雑唱』のタイトルでアンソロジーを発行している。
私を最初に川柳に導いてくれた「堺番傘」の大久保孟美さんがよく言っていたのは、「川柳の読者になるためには川柳界に入らなければ本が手に入らない。自分はもともと川柳を読みたかったから川柳の世界に入った」ということだった。書店の店頭で手に入る川柳書が多少は増えたものの、そういう状況は現在でも変わらないのだ。

「読む側の立場」「読者の欲求」という立場に立った川柳のアンソロジーは可能だろうか。川柳の場合は基本的に「作者の立場」に立ったアンソロジー・句集である。即ち、作者がお金を出し合ってアンソロジーを作り、読者に読んでもらうというやり方である。極端に言えば、読者は一人(作者自身)であってもよいことになる。そのような状況から一歩先へ踏み出したのが『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)だった。
「バックストロークin名古屋」でもアンソロジーの必要性は唱えられていた。
復本一郎は『俳句と川柳』(講談社現代新書・1999年)で

 この人の欠点はただ自慢ぐせ    仲川たけし
 ご意見はともかく灰が落ちますよ  野里猪突
 A4で四五枚ほどの恋ごころ    今川乱魚
 しあわせはグリコのおまけ転がして 樋口由紀子
 倒れないように左右の耳を持つ   佐藤みさ子
 しあわせのほころびを縫うもめん針 大西泰世
 あなたとのままごと道具整理する  広瀬ちえみ

の7句を紹介したあと、「句集や単行本、雑誌、年鑑類から任意に選んだ七句であるが、選びつつ、川柳の分野でも、俳句のように、若い世代の川柳作者をも含めての信頼し得るアンソロジーが欲しいと思ったことであった。俳句の分野では、時々、結社を越えてのアンソロジーが編まれているが、川柳のほうは、寡聞にして知らない。流派を越えての川柳作品のアンソロジーの出現が、切に望まれるのである」と書いている。
復本の川柳観については川柳側からの批判もあったが、アンソロジーを待望するこの指摘自体は間違ってはいない。
若い川柳人の作品がアンソロジーに収録され、川柳の若手と俳句の若手とがともに五七五定型について語り合いながら未来の短詩型文学を創造していく、というのは夢にすぎないだろうか。正月にはまだ早いが、そのような初夢をしばし見ても川柳の神様は許してくれるのではないだろうか。

来週(12月30日)は年末につきお休みさせていただきます。次回は1月6日にお目にかかります。では、みなさま、よいお年を。

2011年12月16日金曜日

川柳・2011年回顧

今年も残り少なくなり、一年を振り返ってみる時期となった。「俳句年鑑」「短歌研究年鑑」「現代詩年鑑」など各ジャンルの年鑑も発行されているが、多くの書き手が大震災のことから始めている。やはり3・11を抜きにしては今年を語ることはできないのだ。
「今まで隠されていたものが震災によって一挙に顕現した」(岩成達也・「現代詩セミナーin神戸・2011」)という言い方を借りれば、原発安全神話などいかに根拠のないものであったかが今にしてわかる。
茨城在住の被災者である関悦史は「バックストロークおかやま大会」(4月)に選者として参加した際に、関西の大地が揺れもなく平穏であることに対する違和感・ギャップを語っていた。大会の翌日、関を案内して訪れた山科の毘沙門堂では満開の桜が咲きほこり、人々は花に酔い痴れているのだった。それは非難されるべきことではなく、関東と関西の実感の違いであり、そのこと自体は当然であるとも言える。
川柳人の震災に対する対応はさまざまである。川柳誌における「応援の一句」などの企画が目についたが、くんじろうは「応援絵手紙」を3月24日以来毎日描き続けネットを通じて発信している。
「3・11以後、表現は変わったか」というテーマについても、さまざまな言説が見られた。
3・11以後、表現は変わった、変わらざるをえないというのが一つの立場。
自己確立した表現者にとって、表現が変わるはずがないというのが別の立場。
表現が変わったのではなくて、それを見る側のものの見方が変わったのだという言い方もある。
「震災句を書くべきか」についても、「自分は書く」「自分は書かない」の両者は分かれる。どちらがよいというのではなく、それぞれの選択であろう。
震災に関して聞いた言葉のうちでもっとも衝撃的だったのは「津波てんでんこ」という言葉である。津波がきたときはそれぞれてんでに逃げなければならない。人を助けようとしていると、いっしょに津波にのまれてしまう。この言葉を提唱・普及させた山下文夫さんの訃報が先日の新聞に載っていた。

さて、川柳の世界では今年どのようなことが起こっていたか。
それぞれの川柳人が作品を書き続けていたのはもちろんだが、川柳を「かたまり」として発信する営為が目立ってきた。
今年上梓されて好評だったものに樋口由紀子著『川柳×薔薇』(ふらんす堂)がある。樋口本人は本書をエッセイと言っているが、現代川柳についての評論として読まれる向きもあったようだ。
「大人の判断で書かない方がいいと思われることや暗黙の了解で触れないことになっているものも、川柳では堂々と書いていくことができる。読み手の中にずかずかと入っていき、わざと居心地悪くし、うっとうしく、とんがらせて、強引に意味でねじ伏せていくのも川柳の醍醐味のひとつである」(「はじめに」より)
樋口は「週刊俳句」の裏ヴァージョン「ウラハイ」に毎週「金曜日の川柳」を連載している。相子智恵の「月曜日の一句」と対になるもので、けっこう読んでいる人が多いようだ。ネットというツールを使っての情報発信の在り方のひとつだろう。次に挙げるのは「金曜日の川柳」の第一回で取り上げられた作品。

  人間を取ればおしゃれな地球なり   白石維想楼

新家完司著『川柳の理論と実践』(新葉館)はどちらかというと川柳の初心者を対象に書かれていて内向きの印象があるが、入門書から一歩先へ踏み込んだものとして一般読書人にも有益だろう。
句集では渡辺隆夫第五句集『魚命魚辞』、小池正博第一句集『水牛の余波』がともに邑書林から発行された。句集発行と連動して、7月には句集の批評会が開催され、句集の読みが深められた。批評会は俳句・短歌では珍しいことではないが、川柳では出版会というと儀礼的な祝賀会であって、きびしい読みの視線にさらされることはあまりない。今後、句集の発行と批評会の連動が望まれる。

   亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む   渡辺隆夫

田口麦彦の『アート川柳への誘い』(飯塚書店)は前著『フォト川柳への誘い』をさらに発展させたもので、川柳とアート(絵画・写真・切り絵・書)とコラムのコラボレーションとして一つの方向性を打ち出している。その際、写真やアートに頼るのではなく、川柳作品自体が自立していなければならないのは言うまでもない。

   手を見せてごらんあなたの透明度  田口麦彦

イベント・大会関係では、「バックストロークおかやま大会」、「玉野市民川柳大会」「全日本川柳大会」「バックストロークin名古屋」「国民文化祭・京都」などが開催された。「バックストロークin名古屋」では「川柳が文芸になるとき」というテーマでシンポジウムが開催され、歌人の荻原裕幸を迎えて活発な議論が展開された。
川柳誌「バックストローク」は11月に36号を発行して終刊したが、同人・会員のネットワークの中から新たな展開が生まれることが期待される。
今年も川柳人の訃報が続いた。物故されたのは、中田たつお氏、岩井三窓氏、大友逸星氏、添田星人氏、岸下吉秋氏などである。

  夏バテの胃をやわらげる嵯峨豆腐  中田たつお
  飲みながら話そうつまり恋なんだ  岩井三窓
  泡立草のまっただ中の大丈夫    大友逸星
  かぎ裂きのままの八月いまも着る  添田星人
  魚いずれ木に登る日を憂うべし   岸下吉秋

今年活躍が目立った川柳人のひとりが清水かおりである。
昨年の『超新撰21』に参加した清水は、「豈」52号にも「新鋭招待作家」として作品を発表している。また、インターネット「詩客」の「戦後俳句を読む」のコーナーではさまざまな角度から戦後川柳を紹介している。

  夢削ぎの刑かな林檎剥くように  清水かおり

個々の川柳人が作品を書く営為が根底にあるのは当然だが、それを外部に発信することによって川柳はいっそう鍛えられる。内輪でしか通用しない作品と短詩型文学全体のフィールドで読まれていく作品とに峻別されていくのである。そういえば、ウチとソトについて若干の議論があったのも今年だった。
川柳はようやく他者と向き合い、他者によって傷つけられたり理解されたりする段階に入ってきたと言えるだろう。

2011年12月10日土曜日

「バックストローク」の終刊について思うこと

「バックストローク」が36号(11月25日発行)で終刊となった。2003年に創刊されて以来、丸9年、川柳界に一石を投じ続けてきた川柳誌がひとつの役割を終えたことになる。今回は時評の枠からは外れるかも知れないが、「バックストローク」にかかわってきた同人の一人として若干の感想を記しておきたい。
一般に雑誌というものは永遠に続くものではなく、状況の変化にともなってどこかで終焉を迎えることは俳誌・短歌誌でも同様である。川柳誌の場合、古くは「川柳ジャーナル」「平安」「ますかっと」などのことが思い浮かぶ。「川柳ジャーナル」は同人の意見によって1975 年に終刊した。「川柳平安」は1978年創立20周年大会直後に解散宣言を出した。岡山の「川柳ますかっと」は1998年に「終刊の辞」を出して解散した。
一誌が終刊する理由は、発行人の高齢化・経済的事情・後継者不足・内部対立など、いろいろな場合が考えられる。「バックストローク」の場合は別に内紛があったわけではなく、その他の事情についても皆無とは言えないが決定的なものでもなかった。「伝統」対「革新」という図式はもう無効になったと私は思っているが、「革新系の川柳誌は短命に終わってしまう」という受け取り方があるとすれば、不本意なことだ。
発行人の石部明は36号の巻頭言で次のように書いている。
「その志はまだ半ばに過ぎないが、さらなる飛躍を期して、石田柊馬と私が中心の『バックストローク』はここに終刊とさせていただく」「次の世代のバトンタッチも考えたが、彼らは、彼らの自由な思考によって、本誌を超えていかなければならないと考えての終刊である」
終刊の理由は石部のこの文章に尽くされている。
石部明・石田柊馬の二人体制にはいったん幕をひき、次世代は「バックストローク」を乗り越える川柳活動を展開せよ、と述べているのだ。
「バックストローク」は結社というより、全国に点在する川柳人のネットワークのようなものであった。雑誌は終刊したが、ネットワークは残っていると私は受け止めている。石部明、石田柊馬も健在だから、どのようなかたちであれ今後も川柳活動は続いていくだろう。私が「バックストローク」に求めていたものは「文学運動としての川柳」であり、石部明のいう「行動する川柳人」として雑誌の発行とイベントを連動させて展開していく方法はその理念にかなっていたのだ。
とは言え、雑誌がなくなることは痛手には違いない。同人・会員の多くは別の結社または川柳誌に所属している方も多く、作品発表の場がなくて困るということは当面ないだろう。他の柳誌に属さない方、川柳の場を探し求めて「バックストローク」にたどり着いた方には終刊はショックだろうが、「バックストローク」がなくなったらすぐ次を探そうという短絡的なことではなく、今後の川柳活動をどうしていくかじっくり考える機会ととらえたらどうだろうか。
支持するにせよ反発するにせよ「バックストローク」は存在感のある雑誌だったから、終刊は大きなことである。けれども、燃え尽きるように終わるのではなくて、可能性を残したままの終刊には花があり、今後生れてくるはずの川柳の展開につながるのではないか。とりあえずそう思いたい。

2011年12月2日金曜日

現代詩セミナーin神戸2011

現代詩については詳しくないが、毎年11月に神戸女子大学で開催される「現代詩セミナー」は詩人たちの姿に接することのできる貴重な機会である。2007年の「中原中也生誕百年記念セミナー」が第1回目で、第2回は「現代詩の現在を語ろう、読もう、聞こう」(初めて岩成達也さんの詩学に接して衝撃を受ける)、第3回は「詩の危機を生きる」(吉田文憲氏の講演を聴いた)、昨年の第4回は「詩のことばと定型のことば」というテーマで吉増剛造・野村喜和夫・夏石番矢・荻原裕幸などの顔ぶれがそろった。私が参加するのは第2回と第3回に続き3度目だが、今年は「今、詩に何ができるか」というテーマで、「2011年、東日本大震災と、原発事故により放射能汚染がこの国を見舞うなかであらためて現代詩の主題を問いかける」とある。神戸は16年前に阪神大震災を経験しているので、この神戸でこのテーマで討議する場をもつことに意義があるという主催者の考えである。

まず講演(基調報告)「生命を語る言葉―3・11以後」で佐々木幹郎は、3月以来さまざまなことを考えたこと、昨日考えたことが今日は通用しなくなること、詩を書く人間としてではなく一人の人間として問い詰められていることを述べ、被災地を訪れた体験をふまえて以下のように報告した。

「無くなるものを
追いかけるということ
それは
未来からの記憶を
とどめようとすること」

それを佐々木は「未来からの記憶」だという。
また、「私というパーソナルな感情を/いっさい表に出さずに/表現する方法があるとして―/3・11はそれを許さなくした」「どこに『私』を隠す場所があるか?」ともいう。
3・11のあと佐々木は本能的に詩を書いた。発表する気持もなく、ただ本能的に書く。「それは詩が生まれるとき誰もが常に経験していることではないのか?」

佐々木はインターネットに投稿された津波の映像を会場のスクリーンに改めて投影した。7分余りのその映像は現地の人がその場で撮影したものだが、佐々木はそこから聞こえる声に耳を傾けようと言う。そこには
「夢みたい」
「何なんだ、これは。何なんだ、これは」
などの生なましい声が録音されていた。

「人は恐怖とゆっくり親しんでいく」

佐々木は鷲田清一の『「聴く」ことの力』を援用しながら、「東北の声を聴く」ということを語った。鷲田の本には次のように書かれている。
「聴くことが、ことばを受けとめることが、他者の自己理解の場をひらくということであろう。じっと聴くこと、そのことの力を感じる。かつて古代ギリシャの哲学者が《産婆術》と呼んだような力を、あるいは別の人物なら《介添え》とでも呼ぶであろう力を、である」「わたしがここで考えてみたいこと、それがこの〈聴く〉という行為であり、そしてその力である。語る、諭すという、他者にはたらきかける行為ではなく、論じる、主張するという、他者を前にしての自己表出の行為でもなく、〈聴く〉という、他者のことばを受けとる行為のもつ意味である」

レヴィナスを引用しながら、佐々木は、他者の声を聴くことは他者と関係をもつこと、高所において見下すような視点は成立しえない、という。
そのような東北の声のひとつとして彼は毎日新聞7月9日朝刊に掲載された「93歳の女性の遺書」を挙げる。自殺を選んだこの女性は「私はお墓にひなんします」と書いている。また、被災地のポスターのひとつ「被災地じゃねえ正念場だ」が紹介された。「被災地」ではなくて「正念場」なのだ。
言葉による声以外の場合もある。
写真家・畠山直哉は陸前高田市の出身で、震災後、本能的にカメラを積んで故郷へ向かったという。
発表するつもりもなく撮影した写真には、あの「奇跡の一本松」がロングショットで映っていた。
「表現者の表現が3・11以後に変わるのではなく、それ以前の作品がよりくっきりと鮮明に見えてくるのだ」と佐々木はいう。

佐々木の講演を受けて、シンポジウムに移る。パネリストは岩成達也・高階杞一・高塚謙太郎・細見和之。そこに佐々木幹郎も加わり、司会は倉橋健一。

岩成達也は「大災害によって詩的言語は一夜にして変貌するか」という仮のテーマを立てる。大災害とは「黙示録的事態の発生」であり、ハイデガーのいう「アレーティア」である。「アレーティア」とは非隠蔽性ということで、それまでおおわれていたものが見えてくることである。大災害によって今まで隠されていたものが一挙に現れてくるのだ。
それでは、蔽われていたものを一挙に言語化することは可能なのか。阪神大震災の場合でも、詩的言語化は遅れた、と岩成は言う。
a 「地面が割れ建物が崩壊する」と書くこと
b 「地面が割れ建物が崩壊した」処で書くこと
この二つは違うと岩成は考える。阪神大震災のあと、aの作品はたくさん書かれたが、bの作品はほとんど書かれなかった。「私」がアレーティアにさらに震撼しない限り、詩的言語が変貌することはない。以上が岩成の発言の要約。

高階杞一は「現代詩は他者の声を聴くことを怠ってきた」という。
何かの出来事で言葉があふれでる体験はある、として高階は彼の個人的な体験を述べ、しかし、それを自分は発表しようとは思わないと言う。ここから彼は和合亮一のツイッター『時の礫』に対する疑問を投げかける。和合は発表を前提として書いているというのだ。

細見和之は震災後の状況について「悪い意味の倫理的雰囲気」があるのではないか、と指摘する。彼は「戦後文学」という言い方で、文学と災いは切っても切れない関係にあると述べる。第一次世界大戦、第二次世界大戦に限らず、「戦後文学」は生れてきたのであって、「普仏戦後文学」「日露戦後文学」などが挙げられる。
「自分は震災を語る資格があるのか」などの倫理的なスタンスではなくて、何が起こったのかという「好奇心」がきっかけとして重要なのだと細見は言う。それが「震災便乗型文学」になっては困るけれども、出発点は好奇心であっていいし、そこからさらに深まってゆけばいいというのが細見の立場だったようだ。

「現代詩手帖」5月号に高塚謙太郎は「文化化」という用語を使って次のように書いている。
「9・11以降に詩はどうあるか、といった大上段の言説があったとしたならば、3・11以降の詩はこうあるべきだ、といった言葉が出てくることに激しい不快感を先回りして示しておく」「今回のような事態に対してある種の文化化がもたらされることに完全に背を向けたいと思う。これほどの不埒さはなかろうと思うからだ」「未曾有の事態を文化と化すことに詩を荷担させないこと。むしろそれに抗うこと」
「文化化」とは分かりにくい言葉だが、高塚は別のところで、アドルノをひきあいに出しながら次のように書いている。「アドルノはアウシュビッツの悲劇を『文化』の賜物と捉え、同じ『文化』的営為である詩作を野蛮である、と指摘した」「『文化』が場の詐取とその特権的振る舞いとするならば、『3・11以後』というフィクションを作り出し、特権的に振る舞うことは、たとえ当人の無自覚に伴うケースであろうが、これは明らかに『文化』的営為であり、それは野蛮であるということになる。これを事態の『文化』化とも言いかえられる」

さて、川柳の場合はどうであろうか。
震災に向き合うということ、東北の声に耳を傾けるということ、他者の苦しみを「よそごと」としてではなく受け止めること、事態を詩的言語のレベルで表現すること、そのような次元での川柳作品はまだ生まれていない。
「高所から見下すような視点はもう成立しない」と佐々木幹郎は述べたが、誤解を恐れずに言えば「高所から見下す視点」こそ川柳の視点だと言える。レヴィナス的な他者の受苦を引き受けてしまうと、もう言葉を紡ぐことができないのだ。スローガンや励ましの言葉でいいななら、どんなに気が楽なことだろう。

書くという態度もあれば、書かないという態度もある。書くけれども発表しないという姿勢もある。どれがいいとか悪いとかは言えない。

斎藤美奈子は朝日新聞の「文芸時評」(2011年11月30日)で文芸誌にも「3・11」を取り込んだ作品が増えてきたことに触れている。「書くか書かぬか」、書くという「寒い選択」を寒くなく感じさせるには、たとえば「異形の者」の力を借りる、と斎藤は言う。津島祐子「ヒグマの静かな海」におけるヒグマ、鈴木善徳「髪魚」における人魚。「ヒグマも人魚も思いは一緒。どれも寓話なんかじゃない。非常時を描くには人間じゃ足りない場合もある。『寒い選択』を恐れちゃダメなのさ」と斎藤美奈子は言う。

今のところ、書かないという選択をしている私だが、震災をめぐるさまざまな言説はたとえ耳をふさごうとしても入ってこざるをえないのだ。

2011年11月25日金曜日

川柳の読み方・俳句の読み方

「川柳の読み方」「俳句の読み方」というようなものがあるだろうか。
どんな読み方をしようと読者の自由だとも言えるが、形式の差が読み方の差につながるとすれば、短歌や俳句の読み方とは異なる川柳の読み方というようなものが考えられないこともない。
「豈」52号掲載の「〈答え〉からの逸脱」で吉澤久良は「川柳的な読み」について述べている。吉澤は川柳の基本的発想を問答体ととらえ、既存の問答体の超克・逸脱に現代川柳のおもしろさを認めているようだ。(川柳の問答構造については、尾藤三柳に川柳の発生史をふまえた論考があり、川柳界でも広く認められている。)
吉澤は「A はBである」という問答体のうち、答えとしてのBに「落とす」という川柳の感覚について述べたあと、『超新撰21』から次のような句を引用している。

新緑や全国犀の角協会        田島健一
フジツボは小さき地蔵夏の月     柴田千晶
温和しい犬のゐる家たうがらし    上田信治
モザイクタイルの聖母と天使夏了る  榮猿丸
実のあるカツサンドなり冬の雲    小川軽舟
黄落や肉煮る鍋のふきこぼれ     山田耕治

吉澤はこれらの俳句の表現としてのおもしろさを認めつつ、特に1句目から4句目までの俳句に「違和感」を感じるという。それは「新緑」「夏の月」「たうがらし」「夏了る」などの季語と季語以外の部分との関係性(ギャップ・唐突感など)に対する違和感であるらしい。その上で彼は「そういう違和感を持つ理由は明らかで、私が川柳人であり、季語に関する歴史的な蓄積を知らず、季語についての共感を持っていないからである」と述べている。即ち、彼は川柳人として俳句に向き合っていて、川柳の眼で俳句を読んでいる、ということになる。はたして、「川柳的読み」「俳句的読み」というものがあるのだろうか。

私が「川柳と俳句の読みの違い」を意識したのは、「バックストロークin仙台」(2007年5月)のときの渡辺誠一郎の発言による。渡辺は俳句の場合、解釈の手がかりとして「季語」がひとつの安心材料になっているが、川柳の場合は自由な反面、どう読んでいくのだろうという疑問を提起した(「バックストローク」19号)。俳句の場合でも読みが変わってくることがあり、次の句が例に挙げられた。

空蝉の軽さとなりし骸かな  片山由美子

渡辺が「人間の亡骸がもはや空蝉の軽さとなってしまったという思い」と解釈したのに対して、作者は「骸」は蝉の死骸であって、「もの」からは離れないと述べているという。
「もの」にこだわるのが俳句の伝統的な読みかどうかは別にして、物から離れて別のイメージを重ねる読みも可能だということだろう。季語というベースがある俳句でも解釈が分かれることがある。では、川柳ではどうなのか。私が連想するのは次の川柳である。

かぶと虫死んだ軽さになっている   大山竹二

この句を「かぶと虫」自体を詠んだ句だと受け取る川柳人はいないだろう。生きている間は掌の上で力強く動いているかぶと虫も死ぬとあっけないほどの軽さになる。ここには病涯の作者自身のイメージが重なってくる。死んだかぶと虫と作者が一体化しているのだ。

ここで問い方を少し変えて、俳人が俳句を読むときの読み方と、川柳人が俳句を読むときの読み方には違いがあるのだろうか、という問いを立ててみることにしよう。また、川柳人が川柳を読むとき、俳人が川柳を読むときはどうか。
俳人であろうと川柳人であろうと、読者として作品に対しているなら、読み方に差異はないともいえるが、それぞれ背負っているものの違い、ふだん見慣れているフィールドの違いによって読みに微妙な差が生まれることも考えられる。

これも過去のことになるが、「五七五定型」3号(2009年2月)掲載の「五七五定型をどう読むか」という特集では、次の俳句が例に挙げられている。

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す    正木ゆう子

この句について小池は次のように発言している。
「『飼ひ殺す』がインパクトの強い言葉で、川柳人の場合は飼い殺される鷹の方に感情移入する場合が多いと思います。飼い殺す人間と飼い殺される鷹との関係ですね。弱者の立場に自己同一化すれば、飼い殺される檻の中の鷹という自由を奪われたルサンチマンの表現になってしまいます。この句の場合は飼い殺す方に視点があるので、これを爽やかさと見るか、悪意と見るかですね。鷹に『風』という名を付けていて、風は本来自由なものですから、皮肉とも取れるわけです。皮肉と取ると句が陰湿になるので、爽やかさと取るのがいいかも知れませんね」
野口裕は「句はマニュアルなしで読んでいるような気がする。読みという作業はマニュアル化しにくい。結局、一句一句読んでいかないと仕方がない」と述べている。これに対して石田柊馬は「川柳の読みでマニュアルのあった時代があったんです。たとえば、正木ゆう子のこの句を『ナルシシズム』というマニュアルで読めば、飼い殺しというのは、自分の中にある実現できない鷹、という感じ、自分の一生を書いているというような読み方がかつてあったんです」と発言した。
「読みのマニュアル」とは聞き慣れない言葉だが、そのようなマニュアルが具体的にあったというのではなくて、一時期の川柳界の風潮として、「一句の中のどの言葉に作者がいるのか」「作者の言いたいことが句のどの言葉に反映されているか」という読み方が一般的だったということだろう。石田の発言に対して、野口がさらに「(マニュアルは)あるんでしょうけど、それには乗っかりたくないという気分があります。読むときに無意識に外して読んでいます」と述べているのは、読み巧者の野口であるだけに興味深い。

読みのマニュアル化とマニュアル外し。なかなか微妙な問題である。
読みは句会で鍛えられるのが一般であるが、川柳の句会では作品の読みにまで踏み込んで十分な時間をとることがあまりない。
俳句の読み、川柳の読み、それらを越えたところに成立する五七五定型としての一句の読み。それぞれの読者が作品と対峙しながら深めていくべきことであろう。
「一句のどこに作者がいるか」が問われた時代の作品を挙げておく。

人形の瞳をくりぬいて得た情事    飯尾麻佐子
風百夜 透くまで囃す飢餓装束    渡部可奈子

2011年11月18日金曜日

井上一筒・イメージのコラージュ

関西に井上一筒(いのうえ・いーとん)という不思議な川柳人がいる。「一筒」という号はたぶん麻雀から来ているのだろう。ピンズの1は「イーピン」というが「イートン」という呼び方もあるらしい。私の父はこの牌がでると「浅草の芸者・一丸(市丸)さん」と言っていた。井上一筒は「川柳瓦版の会」という結社に所属しているが、あちこちの句会に出没している。川柳句会では選者が句を読むと、すかさず作者が名のることになっていて、これを「呼名」というが、句会で「イートン」という呼名があると、もうそれだけで笑いが起こるようだ。
「川柳木馬」130号の「作家群像」のコーナーでは、この一筒が取り上げられている。一筒の経歴が何か分かるかと期待したが、プロフィールを読んでも具体的なことは何も書かれていないし、「作者のことば」も同様である。作者についての情報は伏せて、作品だけを読んでほしいということだろう。
湊圭史と古谷恭一が作家論を書いている。湊は一筒作品を読むキーワードとして「生真面目さからくるロマンティシズム」と「意表をつくスピード」を挙げている。ふつうは裏腹の関係にある二つの要素が微妙に配分されているところにおもしろさがあるというのだ。古谷は一筒作品を「笑い」の面からとらえ、秋竜山のナンセンス漫画を見るようだと述べている。そういえば、『秋竜山の江戸川柳と一勝負』(池田書店)という本を先ごろ古本で見つけた。
以下、一筒の作品をいくつか紹介してみよう。

雅楽頭殿めしつぶがついています   井上一筒

伝統川柳の書き方である。「酒井雅楽頭(うたのかみ)」をはじめ、時代劇では幕閣の一員としてよく登場する。権力ある武士が不用意にも口のあたりに幼児のような飯粒を付けているというのだ。私が川柳をはじめたときに、次のような句を知って、おもしろいなと思った。

ご意見はともかく灰が落ちますよ   野里猪突

やんわりと相手を風刺する、伝統川柳の一つの手法だろう。作中主体である「私」と相手との関係性が目に見えるようである。「雅楽頭」は時代を江戸時代にしているが、現代における雅楽頭のような存在を揶揄しているとも読める。
けれども次のような句になると、単なる時代劇の一こまではすまされなくなる。

殿中でござるカピバラの残像    一筒

忠臣蔵の世界であろうか。松の廊下あたりをカピバラが横切った。南米原産で世界最大のネズミと言われている。最近はいろいろキャラクターにもなっているようだ。時空があわない。その落差による滑稽感。不条理演劇の一場面を見るようだ。
なぜ殿中にカピバラがいるのかという問いは無効なのだ。「残像」だから本当は存在しないのだという解釈も理に落ちてしまう。「殿中」と「カピバラ」のふたつの像が一句のなかで共存しているおもしろさを感じとればいいのだろう。「雅楽頭殿…」では時間のズレだったものが、ここでは時間・空間のズレへと手が込んできている。
絵画でコラージュという技法がある。別々の断片を糊で一つの画面に張り合わせる。たとえば忠臣蔵の画面にカピバラを貼り付ける。本来関係ないものである方が衝撃力は大きくなる。けれども、眺めているうちに、カピバラが殿中にマッチしはじめてきたならば、この句は成功なのだろう。

膝の水を抜く空海的な意味
ネストリウス派のどくだみの煎じ方

一筒はさらにエスカレートする。「膝の水を抜く意味」に「空海的」という言葉を挿入する。「どくだみの煎じ方」に「ネストリウス派の」という修飾を付けてみる。「空海」「ネストリウス派」という記号が投げ込まれることによって日常的文脈は変容する。
湊圭史は「慣れていない読者は戸惑うかもしれないが、技法的にはそれほど複雑ではない」と述べ、「ひとつの文脈にまったく文脈が異なるものを導入したり、ある文脈に通常は考えられない限定を与えたりすることで、言葉の世界が曲げられるパターン」と指摘している。
「空海」や「ネストリウス派」が単なる記号なのか、それともこの単語が選ばれていることに意味があるのかどうかは微妙である。「最澄」ではなくて「空海」であり、「アリウス派」ではなくて「ネストリウス派」というところに語の選択は当然あるだろうが、記号的なものとしてそこで読みをとどめるか、密教的世界や三位一体の教義までイメージを広げていくかは読者に任されている。
古谷恭一は「己の体験以外の言葉には、なかなか感動は生れない」と述べている。また、湊圭史は時代的連関は句語の外で「一種のおもり」として機能するものとして、一筒作品に「一種のロマンティシズム」を読み取っている。

8時にはこむらがえりになる予定

「こむらがえり」の句は、60句の冒頭に据えられている。しかし、この句を冒頭句にして、しかも「こむらがえり」というタイトルまで付けたのが成功だったのかどうか。意味性の強い言葉であるだけに、精神のこむらがえりを笑うとか、文脈にこむらがえりを起こさせるとかの表現意図を見透かされることになってしまうからだ。

天竺を越えて来た銀の前置詞

絵画と言葉のコラージュである。
天竺を越えて来たのは三蔵法師などの取経僧のイメージであろうか。ヒマラヤを越える鶴のイメージかも知れない。これを「前置詞」という言葉の世界へつないでいる。

御手付き中﨟ジオラマを掠める

「木馬」に掲載された60句の中で、私がもっとも好む作品である。
私は最初、ジオラマの中を御手付き中﨟が走り過ぎるのかと思ったが、それだとつまらない。御手付き中﨟がジオラマを持ち去ったのだろう。それは殿さまの大切にしているジオラマだった(と私は勝手に読んでいる)。
ジオラマは明治時代に日本に入ってきたようだから、もとより時代があわない。あまり大きなジオラマだと持ち去るのにたいへんだから、箱型の風景画程度のものだろう。殿さまはフィギュアなども愛好していたかもしれない。家宝ではなくジオラマを盗んだ中臈の気持は、その後顧みられなくなったことに対する憎しみだろうか、それとも皿屋敷のお菊の場合のような愛情の試しだろうか。あるいは、新奇なジオラマそのものに対する少女じみた好奇心だろうか。
どうやら一筒の術中に陥ったようだ。

2011年11月11日金曜日

「豈」52号における「ジャンルの越境」

「ジャンル越境時代」と言われて久しいが、ジャンルの垣根というものは今も厳然として存在する。個々の作家が作品を書く場合の根拠としてジャンルとか形式が背後にあることがやはり有効なのであろう。
音楽ではかつて「クロスオーバー」という言葉があった。ジャンルの存在を前提として、それを乗り越えようという発想である。やがて「フュージョン」という言葉が出来て、垣根を溶かして融合させようという発想になった。だが、「ジャズ」が「フュージョン」になることによって、本来のジャズらしさが失われていったという見方をすると、ジャンルの融合はジャンルの解体・変質につながってゆく。石田柊馬が一時よく言っていた「川柳が川柳であるところの川柳性」が見失われ、川柳が終焉するという文脈はここから出てくる。
ジャンルはそれを支えている人間の量と質によって優位が決まるという考え方もできる。英語の優位はそれを語る人間の量によって保障され、日本語を語る人間が減少してゆくことで日本文芸は衰退することになる。日本の短詩型文学の世界において、俳句・短歌がジャンルのヘゲモニーを握っているのは、量的保証があるためだとも言える。
「他者」という言葉を使えば、文芸にとっての他者とは他ジャンルの作品ということになるだろう。俳句にとっての短歌・川柳。川柳にとっての狂句・俳句。自由詩にとっての定型詩・短歌・俳句…等々。
これらの文芸諸ジャンルが上位・下位のヒエラルキーではなくて、正面から向き合うような状況がいま少しずつ生まれてきている。

「―俳句空間― 豈」52号の特集「ジャンルの越境」は、『超新撰21』や「詩客」ホームページの開設などを踏まえた企画であろう。本誌巻頭の「新鋭招待作家」には、生駒大祐・冨田拓也などと並んで清水かおりや種田スガルの作品が掲載されている。

夢削ぎの刑かな林檎剥くように    清水かおり
手に入るものなら日盛り空の腕
過呼吸の嘴細烏は見ないふり

「詩客」を運営している森川雅美は「三詩型交流の現場から」で次のように書いている。

「今までの詩歌の多くの雑誌やウェブマガジンは、一つの詩型に特化するか、いくつかの詩型が載っていても、一つの詩型に重点が置かれていた。しかし『詩客』では同じページに、三詩型の作品の表示が並んでいて、クリックすると見られるようになっている。『短歌』『俳句』『自由詩』の表記はあるので、まったく並行というわけにはいかないが、他と比べると境界の壁は低い」

ここに「川柳」がなぜないのだというクレームはもう無用である。森川の視野に「川柳」はきちんと入っているし、「詩客」のホームページにも実質的に川柳人が参加していることはすでにみなさんがご存じのことだろう。

さて、谷口慎也は「内なる越境」で次のように書いている。
「確かに、俳柳それぞれの作品がクロスオーバーする領域というものがある。またそこはこのふたつのジャンルにとって豊かな可能性を暗示する場所でもある。だがその領域から俳柳を超えた何かを、例えば新しいジャンルの成立などを夢みるとすれば、それはしょせんかなわぬ夢と言うしかない。俳柳それぞれの書き手が一句を成そうとするとき、その発想の内的契機は、同時的にそれぞれの領域を背負ってしまうからだ」
こうして谷口は「越境」について「内なる越境」(ジャンル内の越境)という観点から、「本流」に対峙する「反流」というとらえ方をしている。
また、谷口が種田スガルの句になつかしさとともに苦い感情をもったと述べていることも興味深い。かつて山村祐の「短詩」が長音派と短音派に分裂して拡散していったことをふまえての発言である。ちょうど本誌には「新鋭招待作家」として種田スガルの作品が掲載されている。

顔のない世界で遠い過去を生きる       種田スガル
摘み木の上から眺める格差の最果て
暖かい鳥かごの中 無下にする才能の孤独

これを「短詩」誌に掲載された作品と比べてみる。「短詩」は1966年9月創刊、1970年3月休刊。山村祐によって43冊刊行されている。

告白のあとのブランコに朝顔が巻いている    道上大作
石神逆光に目覚め千年目の欠伸         谷口慎也
吊輪ぶらさげ夕陽の中を帰る類人猿       吉田健治
ふはは どこまでを道化おおせる 骨の笛    石津恵造

私は何も種田の作品が先行作品の繰り返しだと言っているのではない。若い表現者は自己の実感と言葉に基づいて表現する権利をもっている。それが表現史のうえでどのような意味をもつかは後の話である。

また、関悦史は「越境に関する断章」で次のように書いている。

「『超新撰21』におけるジャンルの越境は、川柳や自由律俳句をアンソロジーに同列に取り込むことにより、有季定型俳句を読むのと同じ目でそれらの作品を読ませようとする、いささか強引ともいえる誘い込みだった」
「越境して他のジャンルに移ってしまうのではなく、いわば有季定型に対して脱中心化をしかけようという挑発であり、外よりも、俳句というジャンルの内側へと主に注意が向いたアクション。脱領土化の浮遊ではなく、周辺領域の再属領化による撹乱」

関の認識は谷口の指摘と対応している。

『超新撰21』にも『詩客』にもまったく触れずに、恩田侑布子は「鷹女と短歌とロックンロール」で三橋鷹女にとっての短歌からの影響、特に若山牧水の影響を「眼のなき魚」の例をあげて論じている。いまこれに川柳における「眼のなき魚」の作例を私が付け加えて三作品を並べると、次のようになる。

海底に眼のなき魚の棲むといふ眼のない魚の恋しかりけり   若山牧水『路上』
颱風の底ひ眼のなき魚が棲む                鷹女『向日葵』
眼のない魚となり海の底へと思ふ              中島紫痴郎

「ジャンルの越境」とは実際、大変なエネルギーのいることである。それは他者と向き合うことであり、ひるがえって自己を問われることでもある。短詩型文学のヒエラルキーの中で自足しているなら問題はないが、広い視野から短詩型文学の表現史を見渡そうとすると、形式の恩寵に安住できない事態に直面せざるをえないだろう。幸いなことに、ジャンルのヘゲモニーを越えて、作品自体と誠実に向き合うような読み手が俳句のフィールドにおいても増えてきているのだ。それに応えうるような川柳作品が書かれることがますます望まれるのである。

2011年11月4日金曜日

無名性の文芸―北野天満宮笠着連句

10月29日(土)、京都の北野天満宮で「市民連句体験会」というイベントがあった。国民文化祭・京都2011のうち「連句の祭典」の一環として、北野天満宮の境内に特設テントを張り、「前句付」「笠着連句」などが興行され、神楽殿では「正式俳諧」や「白拍子」が披露された。境内は入場無料で、都合のよい時間帯にいつでも参加・見物できる。この日は中世・近世の空間に戻ったかのようであった。
 私が担当したのは「笠着連句」のコーナーである。「連句の祭典」だから「笠着連句」と称しているが、歴史的には「笠着連歌」あるいは「笠着俳諧」である。「笠着連歌(笠着俳諧)」とは中世以降、お寺や神社の祭礼や法会に行われ、参詣人たちが自由に参加できた庶民的な連歌(連句)である。立ったまま笠も脱がずに句を付けたので、この名称がついているが、笠を脱がないのは参加者の身分を明かさないためとも言われている。今回、京都市の実行委員会に頼んで、幾つか笠を用意してもらった。デモンストレーションにかぶってもらおうと思ったのだが、実際にかぶってくれたのは子どもたちだけであった。カップルに勧めても逃げられ、笠をかぶらされるから参加するのは嫌だという人もいたのは本末転倒である。
「笠着連歌」は「花の下(もと)連歌」の流れをくんでいる。寺社のしだれ桜のもとで身分を問わない市井の人々によって行われた。みんなが句をだすことによって、大勢でにぎやかに付け進んでいくイメージである。京都では中世に毘沙門堂や清水の地主神社、鷲尾(霊山)などで行われていた。

ところで、『俳壇抄』という全国俳誌ダイジェストが発行されていて、この夏・秋号(37号・11月1日発行)には465誌が1誌1ページずつ紹介されている。電話帳のような分厚さである。前号批評として五十嵐秀彦が書いている「俳壇抄36号を読む―座の意味を問う―」という文章が興味深かった。
五十嵐は「俳句の座とはどのようなところから生れてきたのだろう。それはいつごろ、誰が、何を目的に、どのように始められたのだろう」という問題意識から「俳諧(連句)の座」に遡り、さらに松岡心平著『宴の身体 バサラから世阿弥へ』を援用しながら、「地下(じげ)連歌」「花の下連歌」「笠着連歌」について触れている。五十嵐はこんなふうに述べている。
「庶民はウタの交感をとおして、実生活のさまざまな軛から自らを解放し、生を実感していたのだろう。喜びも悲しみも座をとおして、自然界に魂を染み渡らせるように昇華していった。そこには生生しい花鳥風月があったであろうと私は思う。座は孤独な魂の集合体であり、生に意味を与えるトポスだったのである。その連歌の座が、俳諧に引き継がれ、日本中に詩の座を根付かせていった。私たちの句会も、この座を根底に持っているはずなのだ」
連俳史を通底するこういう問題意識は貴重である。

花の下連歌は北野天満宮の法楽連歌に受け継がれていったと言われる。ただし、「花の下」から「法楽連歌」への移行にともなう変質は避けられないことでもあった。文芸としての整備・制度の整備にともなって失われるものがあるのは、どの世界にもよくあることだろう。北野天満宮にはかつて連歌会所(連歌堂)があり、近世には毎月25日に月次連歌がおこなわれた(現在では連歌井戸が残るのみ)。『日本文学の歴史6・文学の下剋上』(角川書店)には、その様子が次のように描かれている。
「だれとも知られず詣って来る人が、顔を隠し句をつづるのを、執筆(しゅひつ)は懐紙に筆を添え、声がかれるほど吟じるが、指合(さしあい)ばかり多く、突き返されて思わずうめいたり、初心のくせに出しゃばって句を出して一座の笑い者となるものもあったという」
一方、幕府のあった鎌倉にも鎌倉連歌の伝統があったが、南北朝期になると京連歌と鎌倉連歌は混ざり合う。二条河原の落書にある「京鎌倉をこきまぜて、一座そろはぬゑせ連歌、在所在所の歌連歌、点者にならぬ人ぞなき」という事態が生じるが、そこには猥雑なエネルギーが渦巻いていただろう。
やがて連歌は北野信仰と結びつき、「天満大自在天神」は連歌の神となる。二条良基によって式目と連歌論が整備され、連歌は洗練されていく。

「笠着連句」当日に話を戻すと、笠着コーナーだけでも100名程度の参加者があり(付句を付けずに説明だけ聞いた人も含む)、宗匠・執筆ともトイレにゆく暇もない盛況であった。事前の予想では「笠着」とは暇なものであり(以前に一度経験があるので)、人もあまり集らないのではないかと思っていたが、嬉しい悲鳴であると言える。説明スタッフも立ちっぱなしで参加者の質問に対応していた。子どもを連れた若い母親や、就学前の児童、学生から大人までさまざまな方々に付句を付けていただいた。連句人だけではなく、京都在住の川柳人や連句初体験の人たちに関心をもっていただいたことは、市民参加型のイベントの趣旨に添うものである。
選ばれた付句は短冊に清書され、テントの柱に張り渡した紐に順番に吊るしてゆき、参加者に見やすいようにする。あまりゆっくり付句を考えていると、すでに付句が選定され、次の句に移っていることになる。36句の中にはもちろん連句人も参加していて、観光バスを利用した吟行会の途中に立ち寄って時間に追われながら一句付けた人もあった。一般市民のなかにはじっと立ち止まって進行を見守っている人もいる。そんな人が一句出してくださって、それがなかなかよい句だったりするとこちらも嬉しくなってくる。正午の発句から始まってすらすらと付け進み、午後3時半ごろには歌仙36句が巻き上がった。 

寺社の境内に人々が集り、共同制作としての文芸に取り組む。無名性をベースとするから名前は記録に残らないが、それぞれの参加者のことは記憶に残っている。北野天満宮の雑踏のなかで、私はあの二条河原の落書を思い出していた。何も「笠着」が「えせ連歌」というのではない。「自由狼藉」の世界、庶民の猥雑なエネルギーが沸騰していた中世という時代を想ったのである。

2011年10月28日金曜日

岩井三窓著『川柳読本』を読む

9月22日、「番傘」川柳に大きな足跡を残した岩井三窓(いわい・さんそう)が亡くなった。89歳。インターネットで追悼文を探してみると、歌人の川添英一の「短歌日記」があった。「川柳のカリスマ、岩井三窓さん亡くなる」(2011年9月25日)という文章で、川添による弔辞が掲載されている。川添は岩井三窓の隣人で、親子のような付き合いだったという。私は生前の三窓とは一度しか会ったことがなく、しかもその場では三窓と知らずに、後になってからあれが岩井三窓だったかと気づいたというにすぎないから、追悼をする資格などないが、彼の著書『川柳読本』『川柳燦燦』が手元にあるので、静かに『川柳読本』(1981年9月発行、創元社)を読んでみたい。

『川柳読本』は句文集なので、句集とエッセイが収録されている。まず、句集の方から見ていくが、『三文オペラ』(昭和34年)は岩井三窓の代表的句集である。

医者の手の冷たさ胸をさぐられる
目の赤いことにも訳のある兎
綴方貧しき父は母を打つ
ターミナル幾人虹に気付きしや
走れどもキリン孤独にたえられず

一句一句が安心して読めるというか、川柳というものはこういうものだったんだなあということを改めて思う。時代性というものがあるから、たとえば、いまどきの女性に「貧しき父は母を打つ」などの行為をするととんでもないことになるだろう。いま同じような書き方をしようとは思わないが、ここにはかつて存在したはずの川柳の実体が確かに感じられる。作者が結婚する以前の作品を集めた句集なので、独身者の孤独と感慨がベースにある。「三文オペラ」というタイトルが、ブレヒトの戯曲とは無関係に、効果的である。

本閉じてロマンを酒にもとむべき
愛ゆらぐよしなき人の一言に
或る時は娶らぬひとの名を数え
北国を発って以来の人嫌い
飲みながら話そうつまり恋なんだ
たこ焼でのどやけどしたひとりもの

今回読み直してみて、当然のこととはいえ、『三文オペラ』以後にもよい句が多かった。たとえば、次のような句。

あわてたな枕を二度も踏んで行く
苦労せぬから人形に皺がなし
大阪を出ればはったり効かぬ人
君は知るまい吊り天井はいまもある
犬がどうして缶詰をあけますか
こころまで言わねばならぬことになる

本書にはまた大量のエッセイが収録されていて、その二三を紹介したい。三窓はこんなふうに書いている。

「作句力に修練がいるように、鑑賞力にも、それ相応の修練を要するのは、当然のことなのである。人の句を読む技術というものは、自分の句を作る技術などに比べて、数倍の努力が必要なのである。私には分らない、だから難解句、誰にでも分る句を、というのは、すこしせっかちであり、怠惰でもある」(「もののあわれ」)

「リズムが悪い、五七五でない、七七五である。と、真っ先に指摘する人がいます。その人は、まず五七五、それが第一条件である、と言います。公衆電話で十円硬貨を何度入れても、素通りして落ちてくることがあります。それは、0.何ミリかの磨滅か、歪みによるものです。句を読むときにも、まず、五七五のゲージを持って選別する。それは人間でなく、機械なのです。機械的人間には、人のこころが解る筈がありません」(「夢と現実」)

いま読んでも妥当な意見であり、伝統川柳にときどき見られる偏狭さがない。
いちばん印象的なのは「丸い豆腐」という断章である。本書を読むたびに、いつもこの部分に目が止まるのだ。

「先年、旅をして丸い豆腐を売っているのをみてびっくりしたことあった。豆腐というものは四角いものだと信じきっていた私には、それはまったく驚異そのものだった」

川柳人たちのエピソードも満載されている。伝統派の川柳人の中で私は大山竹二に関心があるので、やはり竹二の挿話が興味深かった。
あるとき摂津明治と大山竹二が並んで座り、三窓がその隣になった。二人の会話はおもしろく、ほとほと感心するものであったという。明治がいま作ろうとしている句材の情景を語りはじめた。友達が二階借をしている。主人公がそれを訪れる。ぎしぎし軋む段梯子、古びた仏壇がちらりと見える。夜具の一部も見える…
その時、突然、竹二がその話を遮った。「あかん、やめとけ」
温厚な竹二にしては珍しく乱暴な口調である。
すると、明治は竹二の一言で、親に叱られた子供のように、あっさりと話題を変えたというのだ。摂津明治という川柳人をこれまで私は知らなかったので、特に印象深い。

崖がさと崩れて土工胸を病み    摂津明治
馬われを視つむ馬には孤独なき
廃業の心傾く灯を洩らし

大山竹二は『三文オペラ』の句集評でこんなふうに書いている。「番傘の中にあって手足が伸びきっている人はたんとない。三窓さんはその少ないうちの一人でありましょう」
三窓は岸本吟一・阪口愛舟らと「河童倶楽部」を作り、「番傘」の中でも独自の動きを見せた。「番傘」の内部でさまざまな流れがあったことは、当時この大結社の可能性を示すものであったと思われる。川柳がひとつの実質をもっていた時代であった。

2011年10月21日金曜日

柳俳の違いはいかに説明されてきたか

川柳と俳句の違いについて、川柳入門書ではこれまでどのように説明されてきたのだろうか。川柳と俳句の本質的な差異を追求する「柳俳異同論」を蒸し返そうというのではない。今回はごく浅い意味で入門書的な説明を一瞥してみようというのである。

昭和30年前後に六大家による川柳入門書が相次いで刊行された。
川上三太郎著『川柳入門』(昭和27年、川津書店)では「川柳とは原則として人間を主題とする十七音の定型詩である」と定義されている。「原則として人間を主題とする」(内容)と「原則として十七音の定型詩」(形式)をふまえ、「原則」以外の「例外」も許容するものとなっている。また、「川柳と俳句の相違はどこにあるか」の章では「川柳は人間的、俳句は自然的」としたうえで、芭蕉の句に対して自句を川柳の実例として挙げている。

名月や池をめぐりて夜もすがら    芭蕉
名月にちちははならぶ久しぶり    三太郎

三太郎は、まず「川柳とは何か」を大雑把に説明する。続いて「俳句との違い」に触れ、前句付から発生した川柳の歴史を述べる。川柳入門書にはこのようなパターンが多い。

次に、岸本水府著『川柳読本』(昭和28年、創元社)では「川柳は俳諧から出ているだけに、俳句に似ているが、俳句が花鳥諷詠、季感(四季の感じ)を主としているに対し、川柳は社会、風俗を詠む人間諷詠というべき立場をもっている」(「川柳一分間手引」)という。また、「俳句と川柳」の章では、「川柳は、人間を描くのですが、俳句は自然を描くのです」として、川柳は自然を描いても、それを人間の世界におくと述べている。具体例として、「俳句では、相撲(人間)をみても、自然の風物として、秋の景物に入れ、川柳では桜(自然)をみても、人間との交渉を考えます」と説明されている。「もともとこの二つの短詩型文学は同じ俳諧からほとんど時を同じうして別々の道を進むようになった、いわば双児のようなものですから、生まれた時から似ていたのであります」
水府は、俳句は「花鳥諷詠」、川柳は「人間諷詠」と分けたうえで、表現領域の拡大によって柳俳の境界があいまいになってきていることについても述べている。初心者向けの説明として妥当なものではないかと思われる。

続いて、麻生路郎著『川柳とは何か―川柳の作り方と味い方』(昭和30年、学生教養新書・至文堂)を読んでみよう。「川柳とは人間及び自然の性情を素材とし、その素材の組合せによる内容を、平言俗語で表現し、人の肺腑を衝く十七音字中心の人間陶冶の詩である」というのが麻生路郎の定義である。「川柳と俳句の相違点と類似点」という章では、「川柳と俳句とどう違うかと云うことをよく訊かれる。それは形式が同じ十七音字であるから門外にいる人達には判別が出来難いからであろう」と述べたあと、「形式から云えば川柳も俳句も同じく十七音字中心の短詩であるが、用語が俳句の方は韻文であり、川柳の方は主として平言俗語であるため一読した時に、形式まで違っているのではなかろうかと思うほどに違った感じがする」「川柳は俳句にくらべて表現上かなりに自由ではあるが、無制限に自由ではない」「川柳と俳句とは共に一行詩であるが、俳句は『名月や』と『池をめぐりてよもすがら』のように二つの観念に分けることが出来るが、川柳は『母親はもつたいないがだましよい』のように詠まれて二つの観念に別けることが出来ないから、俳句は二呼吸詩であり、川柳は一呼吸詩であると云うように分類している人もあるが、これとて例外もあるので、そういう違いもあると云うに過ぎない」「俳句は叙情詩であるが、川柳は単なる叙情詩ではなく批判詩である。時に多少の例外はあるとしても、この物尺によれば俳句と川柳との区別はそうむずかしいものではない」などと説いている。
このあたりから異論が出てくることが予想されるが、路郎が比較しているのは定型派の俳句と定型派の川柳であって、自由律や無季俳句は考慮に入れていない。「十七音字」というのは字数のことではなく「十七音」の定型という意味だろう(たぶん「十四字・七七句」と区別する意味で使っている)。俳句は韻文、川柳は俗語というのも注釈がいるところだろう。一歩踏み込むとさまざまな議論になるだろうが、川柳入門書としてはけっこう突っ込んだところまで書いているという印象を受ける。路郎の説明の要諦は「川柳は批判詩」というところにあり、この方が「人間陶冶の詩」というモラルをふくんだ定義よりもすっきりするのではないだろうか。

以上、六大家の中から三人の本を取り上げたが、それ以後のものとして斎藤大雄著『現代川柳入門』(1979年、たいまつ社)を見てみよう。「川柳の定義」で斎藤は次のように述べている。「川柳とは短詩型文芸のひとつの形式に与えられた呼称で、その形は五音、七音、五音、すなわち十七音字を基本として成り立っているということがいえる。その内容は『可笑しみ』『穿ち』『軽味』を主流とした人間探求詩、または批判詩であるといわれている」
斎藤は麻生路郎の定義をほぼ踏襲、また内容的には三要素を受け入れている。そしてサトウ・ハチローの詩を引用している。

五・七・五でよむ
悲しみをよむ
さびしさをよむ
母の声をよむ
友だちの姿をよむ
待ちどうしい おやつをよむ
はらぺこをよむ
ふくれるしもやけをよむ
風にひりつくあかぎれをよむ
ありのままをよむ
五・七・五でよむ

人間の「喜怒哀楽」に限定されているが、サトウの詩は初心者にも分かりやすいだろう。渡辺隆夫の「何でもありの五七五」を連想させる。
斎藤は川上三太郎の『川柳入門』を踏襲して、「名月や池をめぐりて夜もすがら」(芭蕉)と「名月にちちははならぶ久しぶり」(三太郎)を例に挙げて次のように説明する。俳句の「名月」は句の主題であるが、川柳の「名月」は句の主題ではなくて副題であり、「ちちははならぶ」の方が主題なのだという。「川柳は人間を主題にしているが、俳句は自然を主題としている。ここに川柳と俳句の主な相違がある」
次の例はややレベルアップしている。

行きくれてなんとここらの水のうまさは   山頭火
行倒れどろどろ水に口をやり        剣花坊

「両方の句とも咽喉の渇いた状態を詠っているのであるが、俳句は感覚的に捉えているのに対し、川柳は主知的、生命的に捉えているのである。現代川柳と俳句の根本的な違いは、川柳の主知性と俳句の感覚性にあるといえよう」
このあたりになると必ずしも対照性が明確ではない。自由律俳句・無季俳句と川柳を比べると、両者の違いを言語化するのは難しくなる。

それでは、現在ただいま書かれている入門書では、柳俳の違いはどのようにとらえられているだろうか。サンプルとして南野耕平著『川柳という方法』(2010年、本の泉社)を取り上げてみよう。「川柳と俳句の違い」の章ではこんなふうに書かれている。
「これから川柳を作ろうとされる人は、川柳と俳句の違いについて、あまり強く意識する必要はないと私は思います。極論をすれば、アナタが作った五・七・五が、この時代に川柳と呼ばれるものであろうが、俳句と呼ばれるものであろうが、構わないと思っています。『わたしの五・七・五と思える手応えある作品』が出来ること。これが一番重要で、あとはその作品を川柳の場で評価してもらうか、俳句の場で評価してもらうかの違いだけの話だと思います」
作品が第一で、川柳の場で評価されるか(その場合は「川柳」と呼ばれる)、俳句の場で評価されるか(その場合は「俳句」と呼ばれる)は次の問題であるというのだろう。南野は「川柳と俳句のボーダーライン」の項ではもう少し深めて、「こちらからあちら側に掴みに行く方向」が川柳、「あちらからこちらに来るものを受け止める方向」が俳句だと述べている。「こちら」とは作り手の立ち位置、「あちら」とは表現の対象を指すようだ。

以上、柳俳の違いがこれまでどう説明されてきたのかを見てきた。川柳人は意外に川柳を定義することに熱心だったのではないだろうか。これまで柳俳の違いを説明することを求められてきたのは川柳人の側であって俳人側ではなかった。俳人は自己のアイデンティティについて問われることはなかった(例外的存在として日野草城の場合が思い浮かぶ)。
川柳人は「川柳と俳句の違い」の説明を求められてきただけではない。もうひとつ、「川柳と狂句との違い」を説明することを負わされてきた。むしろこちらの方に精力を注いできたと言ってもよい。時代の変わり目には常に「川柳性」についての問い直しが生じる。川柳の先人たちはむしろこの問いによく応えてきたのではないだろうか。ただ、その発信が微弱だったために、一般読書人には届きにくかったのである。
川柳には川柳のアイデンティティを問いつめる他者が周囲にいろいろ存在する。川柳は他者を取り込みつつ、自らの存在感を高めていかなくてはならない。ジャンルを純粋化すればするほど、逆にそのジャンルの免疫力は弱まっていくことになる。ジャンルの純粋化ではなく、形式の恩寵に安住できない「川柳」のプラス面をそろそろ声高に唱えてもよい時期が来ているのではないだろうか。

2011年10月14日金曜日

北海道川柳史

チャタレイ裁判などで知られる伊藤整はかつて一時代を代表する文学者であった。彼の評論『小説の方法』は受験国語の定番であって、高校生のとき『火の鳥』を読みながら、これが組織と人間論というものかと思った記憶がある。伊藤はジョイスの翻訳など先端的な仕事をしていたが、文学的出発は『雪明りの路』という詩集である。

ああなぜ わたしひとり
かうしてひつそり歩いてゆくのだらう。
道は
落葉松のみどりに深くかくれて
どうなつて行くか解りはしない。
何処かの谷間には
すももが 雪のやうに咲き崩れてゐたが
人ひとりの影もなかつた。
それに こんなに空気の冷えてゐるのは
きつと雨あがりなのだらう。
なぜ 私ひとり かうして
鶯の聲ばかり こだまする
海のやうな 野から林へと歩いてゆくのだらう。
みんなは
なぜ私をこんな遠い所までよこしたのだらう。
ああ 誰も気づかない間に
私はきつと
この下で一本の蕗になるのだ。 (伊藤整「蕗になる」)

ところが、伊藤の友人の妹に左川ちかという女性詩人がいて、伊藤よりもっと進んだ詩を書いていた。伊藤の詩が近代詩だったのに対して、左川は現代詩を書いていたのだ。左川は24歳で夭折する。

馬は山をかけ下りて発狂した。その日から彼女は青い食物をたべる。
夏は女達の目や袖を青く染めると街の広場で楽しく廻転する。
テラスの客等はあんなにシガレットを吸ふのでブリキのやうな空は
貴婦人の頭髪の輪を落書してゐる。
悲しい記憶は手巾のやうに捨てようと思ふ。恋と悔恨とエナメルの
靴を忘れることが出来たら!
私は二階から飛び降りずに済んだのだ。
海が天にあがる。 (左川ちか「青い馬」)

伊藤整は小樽高等商業学校の出身であるが、上級に小林多喜二がいた。伊藤整の『若き詩人の肖像』に次のような一節がある。伊藤が図書館で本を借りようとすると、必ず図書カードに小林の名が記入されている。小林に先に読まれることによって、その本のエッセンスが抜き取られてしまっているように伊藤には感じられた。嫉妬のあまり伊藤は小林の名を覚えてしまったというのだ。ここには伊藤整の小林多喜二に対する屈折した感情がうかがえる。

昨年、小樽文学館へ行く機会があり、田中五呂八の写真パネルを見て、感慨にふけった。昭和3年9月23日、小樽・丸高屋における『新興川柳論』出版記念大会の写真である。五呂八の短冊2句も展示されていた。

神が書き閉づる最後の一頁    田中五呂八
人の住む窓を出て行く蝶一つ

さて、「バックストロークin名古屋」で選者をつとめた浪越靖政氏から斎藤大雄著『北海道川柳史』(北海道新聞社)を送っていただいた。北海道の川柳についてはそれほど詳しくはないが、新興川柳運動が小樽から始まったことなどから、関心をもっていた。本書によって、北海道とひとくくりにはできず、札幌・小樽・函館・旭川などそれぞれの川柳活動があることについて認識を新たにした。

新興川柳以前の北海道の川柳はどのような状態だったのか。
尾藤三柳著『川柳入門―歴史と鑑賞―』(雄山閣)の大正期のページには、明治43年に最初の川柳会(札幌)が開かれた北海道の創刊誌ラッシュは、ことにめざましいものがあった、として、「仔熊」「アツシ」「柳の華」「筒井筒」「草の露」「鏑矢」などの川柳誌の名が挙げられている。これらは一体どのような雑誌だったのだろう。『北海道川柳史』によって概略を素描してみたい。

北海道で「新川柳」の名称で句が募集されたのが明治41年(1908)のこと(それまでは「狂句」として募集されていた)。「北海タイムス」(現北海道新聞)1月11日付で懸賞「新川柳」が募集され、1月24日に入選句が発表された。課題は「芸者」。天位を取ったのが西島○丸(にしじま・れいがん)で、彼は布教僧として北海道に来ていた。また、「小樽新聞」が「狂句」を廃して「川柳」という名称を使ったのは明治42年8月のことである。小樽新聞の選者として佐田天狂子が知られている。
大正3年9月、川柳誌「仔熊」がはじめて刊行された。「仔熊」は残念ながら創刊号だけで休刊となったが、やがて川柳誌「アツシ」が刊行され、札幌川柳界の充実期を迎える。

「アツシ」は大正6年5月創刊。札幌川柳会とオホツク会が団結し、盟主に神尾三休(かみお・さんきゅう)をいただいた。「発刊に当りて」の神尾三休の文章は格調高いものである。

「川柳は最も入り易くして、最も達し難い詩である。往時の堕落した川柳に慣れた無理解な世間は旧態依然、川柳を遊戯文学視し、其作家を侮蔑の眼を以て見てゐる。何といふ悲しいことだろう。アツシは此の難しい川柳を学び、真面目に之を研究し、而して我が北海の柳壇を開拓すると共に、広く天下に呼号しなければならぬ貴く重い使命を有って生れたのだ」

三休は川柳の文学性を高め、北海道を理想の川柳王国にすることを夢見ていた。そのため井上剣花坊を招待して北海道川柳大会を開催しようとする。それは創刊後一年あまりの「アツシ」にとって大きな企画であった。
大正7年8月、北海道川柳大会が札幌で開催された。しかし、降り続く雨のためか、会場を急遽変更したためか、参加者は31名と少なかった。剣花坊は彼一流の大きな声で絶叫するように講演をおこなった。この講演が三休たちアツシの同人に大きな悲しみと怒りを与えたという。講演内容が低俗であって、三休の理想とは遠かったのである。
ここで三休はひとつの決意をする。「アツシ」を終刊して、新誌「鏑矢」を創刊するのだ。「吾々は深く感ずる処あってアツシ会の大改革を断行する。敢て混沌たる川柳界を廓清しやうと云ふのではなく、唯吾々の結束を一層鞏固にして、威武に屈せず、富貴に淫せざる理想の川柳王国を造らんが為めである」(「アツシ」終刊)この神尾三休は本書のなかで、最も私の心に残った川柳人である。

耕して心の草を取り続け     神尾三休

三休の片腕的存在が河内岐一で、川柳誌「わがまま」「筒井筒」を発行する。

大正7年、札幌での川柳大会を終えた井上剣花坊は函館に向かう。函館での剣花坊歓迎大会は盛会であった。これを契機として函館川柳界は大きく発展する。ところが、この大会終了後、世話役の亀井花童子(かめい・かどうじ)と山村都ね尺が衝突して、花童子は函館川柳会を脱退し、川柳誌「忍路(おしょろ)」を創刊する。まことに川柳とは人間臭いものだ。

父さんかなと破れから子が覗き    亀井花童子

こんな調子で書いていても切りがないので、次に北海道の川柳人の作品を幾つか挙げてみる。

座布団にのこる乙女の膝は春     田中五呂八
ふるさとではもう死んでいる売春婦  高木夢二郎
金屏風今日は酔ってはならぬ酒    直江無骨
干鱈の骨の凍ててる北の冬      斎藤大雄
うそぶいて砂絵のまちに来てしまう  桑野晶子
喪服から蝶が生れる蛇が生れる    細川不凍
人生へあてる定規の右ひだり     北夢之助

『北海道川柳史』は斎藤大雄の残した大きな仕事である。これほどの本を書いた彼がなぜ晩年に「大衆川柳論」を唱え、「川柳は幕の内弁当のようなものである」などの俗論を繰り返したのか、私には理解できない。そこで手元にある『現代川柳入門』(1979年11月発行、たいまつ社)も読んでみた。そこには「川柳の作句リズムは五・七・五を基本形にしたもので、この基本を修得しなければ、他のリズムでいきなり詠っても説得力が弱くなってしまう。だが、五・七・五のリズムは、あくまでも基本形であって、絶対に基本を守らなければならないという理由はない」とあって、木村半文銭の句も掲載されている。高橋新吉の詩や雑俳も取り上げられていて、広い視野から川柳を論じていることが分かる。「あとがき」で大雄は次のように書いている。

「川柳界は動いている。最近、その動きは激しく、音をたてはじめてきた。これは川柳の歴史のなかのひとつの過程であり、さけることのできない流れでもある。そのなかにあっての『現代川柳入門』は、歴史の流れのなかからとらえていかなければ、明日の川柳を見失ってしまう結果を招く恐れがある」

現在の時点から見ても説得力のあるスタンスであり、実に正統的な考え方のように思える。新興川柳の遺産を評価する点において、私は人後に落ちないつもりである。ただ、私は木村半文銭を評価し、斎藤大雄は田中五呂八を評価する。五呂八の新興川柳を評価することと川柳大衆化論の奇妙な結びつき。川柳人にとって、「大衆」とは一種の魔物であり躓きの石であるのかも知れない。

2011年10月7日金曜日

そのリンゴは本当にリンゴなのか

大阪市立美術館で「岸田劉生展」が開催されている。劉生といえば麗子像で、会場には麗子をモデルにした絵がいっぱいであった。劉生の自画像など見せられても嬉しくないが、麗子には顔がほころぶのである。菊慈童麗子、二人麗子、麗子曼荼羅、寒山風麗子まである。特に寒山風麗子には驚いた。道釈人物画によく出てくる「寒山拾得」の寒山である。髪は蓬髪で爪は長くのび、不気味に笑っている。麗子は劉生によって寒山に見立てられたのである。この父は娘に対して何ということをするのだろう。麗子はモデルとして箱の上に数時間も坐らされ、身動きすることも許されない。娘の苦痛に父親の画家が気づくことはなかった。けれども、麗子は性格がゆがむこともなく、『父・岸田劉生』(中公文庫)という本を書いている。
劉生の描いた「林檎三個」という油絵がある。この絵について麗子はこんなふうに書いている。

「林檎三個」という絵は机の上に三つの林檎が並んでいる絵で、構図からいえば何のへんてつもないものであるが、この絵は病と闘う父が、自分の一家三人の姿を林檎に託して描いたときいているので、なお私にはそんな気がするのかも知れないが、この絵をみていると三つの林檎は互いに、いたわりあい、愛の歌をつつましく奏で、たがいに耳を澄ませてその歌にきき入っているような気がする。(『父・岸田劉生』)

これは私にとって軽いショックであった。
リンゴはリンゴであるはずだ。セザンヌのリンゴはリンゴそのものだろう。
けれども、麗子にとってリンゴが三人の家族に見えてしまうということは、麗子の側にそう見るだけの文脈(コンテクスト)があったからである。

さて、もう10月に入っているのだが、今回は9月に送っていただいた諸誌を逍遥してみる。まず、「ふらすこてん」17号(9月1日発行)から。

愛に至らず猫は臨時の筆なりき    きゅういち
少年琴になりたりし日傘廻しをり

鑑真和尚のクローンではないか    井上一筒
四十個入りのお安い海だった

馬になるものを拡げる午後一時     筒井祥文
情報のひとつに入れる鮭の貌

現代川柳の世界では、猫が「臨時の筆」であったり、鑑真和尚がクローンであったりする。目に見える現実とは次元の異なる言葉の世界である。一方で、筒井は同誌に「番傘この一句」を連載して、伝統川柳の評価を試みている。この号では「銃身を磨くと浮いてくる血糊」(隅田外男)を取り上げ、「鳥獣を愛でながら殺すという矛盾を犯すのが人間。その矛盾を具象として見事に取り出している」と評している。また「番傘」誌が震災句で溢れていることについて、「如何せん『恐怖、悲惨、絶句、命の重さ、想定外、牙』等の言葉の繰り返しだ。つまり震災に対する感想、もしくは新聞の見出し止まりなのだ」と述べている。そんな中で筒井が評価するのは次のような句である。

文明を飲んで吐き出す大津波    松岡真子
なにもかも流され残ったのは明日  小寺竜之助

「津波の街に揃ふ命日」(『武玉川』)を越える句は、なかなか書けそうもない。震災の当事者、仙台の川柳人たちはどのような作品を書いているだろう。「杜人」231号(9月25日発行)から。

戦争を日に晒しても晒しても       加藤久子
天の邪鬼同士で顔が伸びている

拾ってきたものでワタシが出来上がる   広瀬ちえみ
きつねさんたぬきさんがいて波が立つ

水面のどれも花びらではないの      佐藤みさ子
土蔵崩れて千年分のきものたち
無いと言え目に見えぬから無いと言え

私は「消える川柳」としての震災句を否定するものではないが、直截的な震災句より、このような作品の方が射程距離は長いだろう。
川柳誌ではないが「かむとき」25号(9月20日発行)。平成3年に「日本歌人」の有志が「鬼市」の誌名で創刊した。表紙題字は山中智恵子。途中で誌名を変更して本号に至る。編集発行人・佐古良男。本号から樋口由紀子が参加して、「短歌誌」から「詩歌文藝誌」を目指すという。

綿菓子は顔隠すのにちょうどいい    樋口由紀子
ああそれは借りっぱなしの算数ドリル
白菜に豚肉挟むときトラブル

うずくまる癖がなければ死んでいた   猫麻呂
横縞の服のひとだけ救われる
「あっ今日は」とつぶやき消えた友の霊

樋口は「なくもんか」というエッセイも書いている。「なくもんか」という映画の話からはじめて、「川柳は喜怒哀楽をよく題材にする。特に『哀』は人の心を捉えやすく、容易く感情移入できるので、共感と感動を呼び込むキーワードである」と述べる。映画「なくもんか」がありきたりのパターンの筋に怪優・阿部サダオを放り込むことによって支離滅裂化したように、川柳の言葉と言葉との関係性の上に「阿部サダオ」が登場してほしい、と述べている。

暗がりに連れていったら泣く日本  樋口由紀子

マグリットの絵に「これはリンゴではない」というのがある。カンヴァスにはまぎれもなくリンゴの絵が描かれている。けれどもタイトルには「これはリンゴではない」と書かれている。シニフィアンとシニフィエとの不一致。いろいろな表現があるものだ。

2011年9月30日金曜日

西鶴という方法

「バックストロークin名古屋」から2週間が経過した。シンポジウム「川柳が文芸になるとき」のパネラーの一人である荻原裕幸が朝日新聞(中部版・9月24日)の夕刊でこのイベントを紹介している。荻原は「川柳というジャンルには、どこか『冷遇』されているという印象がある」と述べたあと、「バックストローク」の大会について「ジャンルをめぐる社会的な状況を打破して、川柳の現在に大きな活気を与えるためには何が必要となるのかが、パネルディスカッションのスタイルで議論された」と報告。「昨今、良質の川柳評論集の刊行なども増えつつあり、川柳が文芸としての力をいかんなく見せつつあるのは間違いないようだ」と評価している。
また、「週刊俳句」(9月25日)では野口裕が「名古屋座談会印象記」と題して独自の視点からレポートを書いている。無名性の文芸・蕩尽の文芸である川柳がこうして取り上げられてゆくのは嬉しいことである。

伊丹の柿衞文庫では「西鶴―上方が生んだことばの魔術師」展が開催されている。その関連講座として9月24日に浅沼璞の講演「西鶴の連句と連想」とワークショップがあった。浅沼は『西鶴という鬼才』(新潮新書)などの著作がある西鶴の研究者で、連句批評の第一人者としても知られている。実作者としては連句新形式「オン座六句」を創出して連句界に新風を起こした。
平成19年9月に同じ柿衞文庫で開催された「連句の風・関西からの発信」という連句講座でも、浅沼は西鶴の連句について語っている。このときは矢崎藍が「インターネット連句」について、私が「前句付と雑俳」について担当したのだった。前回「レンキスト西鶴」と題して「西鶴は生涯レンキストだった」「人生そのものが連句的だった」と述べた浅沼は、今回「西鶴における不易と流行」「不易流行の付合」「流行のみの速吟」について語った。
興味深かったのは講義のあとのワークショップで、「現代における西鶴的試み」として、浅沼は次のような西鶴の発句に対して自句を付けて見せた。

 唐がらし泪枝折(しおる)ぞ鬼の角    西鶴
  青から赤へ変る三日月        璞
 交差点わたる坊主に秋暮れて      璞

発句は西鶴の「自画賛十二カ月」の九月に書かれているもの。この「自画賛十二カ月」は柿衞文庫の所蔵品の中でも有名なものである。
脇は「鬼」に赤鬼・青鬼があることと、発句が秋なので月をだしている。第三は「青」「赤」を信号に転じて交差点を出し、「三日月」から「三日坊主」を連想して坊主が登場する。蕉風を受け継ぐ現代連句の付け味とは異なる談林的・西鶴的付句である。
ここからが聴衆の参加するワークショップで、四句目を付けようという課題である。七七の完成形ではなく、連想する単語だけでよいということだったが、参加者には実作者も多かったからか、大部分が七七の短句の形になっていた。
浅沼璞が『西鶴という方法』(鳥影社)で提示した連句理論に「サンプリング」「カットアップ」「リミックス」というのがある。ハウスミュージックに由来する用語で、ディスコでDJが別のレコードから音源を瞬間的につなぎ合わせるやり方をいう。椹木野衣の『シミュレーショニズム』に詳しく論じられている。
「略奪(サンプリング)・切り裂き(カットアップ)・増殖(リミックス)というのがハウスの三種の神器である」

そのようにしてリミックスされたのが次のような付句である。

 交差点わたる坊主に秋暮れて(前句)
  縞馬の縞定石があり
  親譲りなる物乞いの数
  案山子を囲みアルバイト終え
  障子洗いのけりがつく恋

提出された短句(七七句)は半分に切り裂かれ、別の七音と結び付けられることによって元の文脈とは異なった言葉の姿で立ちあがってくる。なるほど、これがサンプリング・カットアップ・リミックスかと興味深かった。天狗俳諧にもちょっと似ている。

「難波の梅翁先師、当流の一体、たとへば富士のけぶりを茶釜に仕掛、湖を手だらひに見立、目の覚めたる作意を俳道とせられし」

当日のレジュメに引用された西鶴の「独吟百韻自註絵巻」の序である。梅翁(西山宗因)は富士の煙を茶釜に仕掛け、湖を手だらいに見立てるといった作意のある俳諧をおこなったというのだ。ここで雅俗ということが問題となる。「富士の煙」「湖」は雅語、「茶釜」「手だらい」は俗語である。雅語に俗語をぶつけることによって言葉は変容し、目のさめるような作意が生まれる。雅俗の区別がすでに消滅した現代においても、このような言葉の関係性に基づく作句方法は見られないこともない。言葉から言葉を生み出し、言葉の飛躍感を主眼とする言葉付の方法は、たとえば現代川柳の「意表派」と呼ばれる作句法にも通じるところがある。けれども談林の「飛び」は無数の「飛びそこない」を生み出し、燎原の火のように広まった談林はわずか十年で衰退した。浅沼の講義を聞きながら、言葉付や川柳の言葉についていろいろ考えるところがあった。

川柳の外部から川柳を規定した言説に復元一郎の「川柳には切れがない」というものがある。『セレクション柳論』の筑紫磐井の序文でもこのことに触れられている。俳人が川柳について思い浮かべるとき、この「切れ」論争はひとつの入り口なのであろう。
浅沼の『「超」連句入門』(東京文献センター)にはこの論争を反映して、次のように書かれている。
「昨年(1999年)刊行された復本一郎の『俳句と川柳』(講談社現代新書)は、俳句のルーツは発句、川柳のルーツは平句、という発生史的な事実から、二つのジャンルの違いを一句における「切れ」の有る無しに求めています」「しかし、それにしても、本当の問題は、この答えのあとにくるといえます。前述の復本のように、ルーツのちがいをそのまま現代のジャンルにもちこむか否か、という問題です」
このように述べたあと、浅沼は高柳重信を引用して「連句への潜在的意欲」論を展開していく。

振り返ってみれば、10年以前に川柳の外部から発せられた「川柳には自己規定がない」「川柳には切れがない」という二つの言説は、川柳界に衝撃を与えたと言える。この10年間の川柳人の営為は何もこの二つの問いに答えるためにあったわけではないが、私たちが外部の視線を意識しつつ川柳活動を続けてきたことも事実である。
10年前の議論に後戻りするというのではなく、短詩型文学の現在を見すえながら、私たちはさらに先に進んでゆくことが大切であろう。

2011年9月23日金曜日

川柳が文芸になるとき

9月17日(土)、「バックストロークin名古屋」がウインクあいち(愛知県産業労働センター)にて開催され、約100名の川柳人が全国から名古屋に集結した。北海道から九州までの各地からの参加者をはじめ地元・名古屋の川柳人、及び川柳に関心のある歌人・俳人・連句人も含めて熱気のある大会となった。バックストロークの大会は、第一部のシンポジウムと第二部の句会をドッキングさせ、これまで二年に一度のペースで各地を巡回してきた。京都・東京・仙台・大阪、そして今回の名古屋に至る。発行人・石部明のいう「行動する川柳」である。

第一部のシンポジウムは、「川柳が文芸になるとき」というテーマで、パネラーが荻原裕幸・樋口由紀子・畑美樹・湊圭史、司会・小池正博で行われた。シンポジウムの記録は「バックストローク」36号に掲載されるが、ここでは当日の議論を私なりの観点から素描してみることにしたい。

「川柳が文芸になるとき」とは逆説的なタイトルである。川柳が文芸の一種であることは当然であるが、これまであまり社会的に認知されてこなかった。新聞で取り上げられる場合も文芸欄ではなくて、社会面に掲載されることが多い。したがって、「川柳が文芸になるとき」というテーマは、いままで文芸ではなかった川柳が突然文芸になったという意味ではなく、短詩型文学の諸ジャンルのなかで川柳が存在感を増してきている情況を考えてみよう、ということになる。これを「川柳が文学になるとき」とするとニュアンスがかわってくる。寺山修司は「川柳は便所の落書き」と言ったし、川柳には純粋文学のワクにはまりきれない要素がある。また、「川柳が詩になるとき」とすると、「川柳は非詩」という考え方(いわゆる川柳非詩論)が一方にあるので、侃侃諤諤の議論をしなければならない。今回のテーマは、ざっくりと「川柳の今を考える」というほどの意味にとらえられるが、「川柳の今を考える」といっても、川柳とは何か(川柳性)についての本質論と、川柳が作られる場とか環境などの状況論があり、両者は切り離せない。現代川柳がパネラーの眼にどのように映っているのかというところから話がはじまった。

荻原は2001年の「川柳ジャンクション」で「川柳の自己規定」を問題にした。川柳人は自己規定が下手だというのである。10年たってもこの発言を川柳人はよく覚えているから、荻原は少し話しにくそうだったが、川柳を外部から見る目を痛切に意識させるという点で、荻原の発言は川柳人にとってとても大きな意味があったのだ。

川柳人の営為が外部に向かってよく伝わっていないのには、それなりの理由がある、と荻原はいう。川柳のことをよく知らない人に対して、川柳は定型詩だから形の説明をする。その際に俳句との違いを外部に対して分かりやすい形で伝えることが必要となる。
また、「バックストローク」などでは「方法を意識して書かれる作品」と「方法を意識せずに書かれる作品」(たとえば「思い」をそのまま吐露するなど)が区別されているようだが、五七五の定型を基本としている限り、日常言語とは異なる思考方法がそこに働くはずで、両者を区別できるのか、もう一度遡って考えてみてはどうか、と荻原は言う。
荻原は「朝日新聞」中部版(2010年3月26日・夕刊)で川柳について「文芸らしくない文芸」と語っているので、この点についても司会者から質問があった。

樋口は今年4月に『川柳×薔薇』を出版し、「ウラハイ」(ウェブマガジン「週刊俳句」の裏ヴァージョン)に「金曜日の川柳」を連載するなど、川柳を外部に対して発信し続けている。彼女は「川柳のウチとソト」という観点から、ジャンルの内側でのみ評価される作品と他ジャンルからも評価される作品の違いについて語った。
樋口のレジュメには飯島晴子「言葉が現れるとき」が引用されている。これが樋口の言いたかったことをよく伝えている。
(A)
眼前にある実物をよくよく目で見て、これは赤いとか、丸いとか、ああリンゴであるとか、とにかくなるべく実物に添って心をはたらかしてしらべる。そして、知ったこと、感じたことを他人に伝えるために、自分の内部ではなく、公の集会場の備えてある言葉の一覧表、とでもいうような種類の言葉の中から言葉を選んで使う、というやり方である。対象となる事物が、観念や情感に代っても事情は同じである。私にとってこれ以外の言葉のとらえ方があろうとは思ってもみなかった。
(B)
それが俳句をつくる作業のなかで、言葉を扱っていていつからともなく、言葉というもののはたらきの不思議に気がついた。言葉の偶然の組合せから、言葉の伝える意味以外の思いがけないものが顕ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを体験した。そこに顕ってくれるのは、私から少しずれた私であり、私の予定出来ない、私の未見の世界であった。言葉は自分たちの意志で働いているうちに或る瞬間、カチッと一つのかたちをつくる。このカチッという感触が得られたとき、言葉たちのかたちの向うに、言葉を伝える意味とは決定的に違う一つの時空が見えているはずである。このようにして私の俳句のつくり方は変わった。

図式的に言えば、前者(A)によってウチ向きの作品が出来上がり、後者(B)によってソトに対しても開かれた作品が書かれるということになる。「ソトの目の厳しさ」を樋口はよく知っているのだろう。
「金曜日の川柳」で取り上げる作品について、「伝統」の作品によいものがあり、取り上げることが多いというのも印象的だった。伝統の作品を含むことによって川柳はより豊かなものになる。

畑美樹は「川柳展望」「川柳大学」「バックストローク」そして「Leaf」と川柳誌に参加してきているが、「川柳をやっている」という意識が薄かったように思う、と自ら言う。彼女が川柳に深く関わるようになった時期は、川柳が他ジャンルからそのアイデンティティを問われた時代であり、それだけ川柳という文芸が「動いていた」「動いている」時代であった。
では、なぜ畑は川柳をおもしろいと感じたのか。
俳句や短歌にはすでに確立されたアイデンティティがあり、中心にあるそのジャンルのアイデンティティを強く意識したところから始まっている。それに対して川柳は「中心を意識しない自由度」がある。だから、はみだしすぎると、戻ってこられなくなる。そこに、自由なゆえの不自由さがあり、「作る」おもしろさがある、という。
以上が畑のとらえた川柳の姿である。戻るべきジャンルの中心ではなくて、中心のない自由さ、ダイナミックに動いていること自体におもしろさを見出している。「ジャンルの中心を意識しないことが果たして文芸の条件として成り立つのか」とは畑自身の疑問であるが、「バックストローク」の編集後記にも畑はよく「川柳は動いている」と書いている。また、畑は彼女の持論である「字から入る川柳」ではなく「耳から入る川柳」の可能性についても語った。

川柳の世界に入って時間がたつにつれて、最初に感じた違和感が次第に薄れ、川柳界の習慣を当然のこととしてなじんでしまうようになりがちである。その点、まだ川柳歴の長くない湊のフレッシュな目に現代川柳がどううつっているのか興味があった。

湊は川柳について原理的に考えるのが好きで、川柳理論を組み立てては崩しているそうだ。
「川柳が文芸ジャンルとして認められるには、一人ひとりがよい句を書くというだけでは足りない」と湊は言う。インフラの整備が必要で、第一にアンソロジー、第二に評論が求められるという。句の発表形態としての句会・雑誌のあり方を再考することも求められるが、実践を除いて論を立ててもさほど意味はないとした。
川柳に興味をもった人がいても、明治以後の主な川柳作品を集めた手頃なアンソロジーがないので、それ以上先に進めない。湊は自ら運営するサイト「s/c」「バックストローク」100句選を掲載し、鑑賞を付けている。その後、「川柳作家全集」(新葉館)でも同じようなことを試みている。

湊の指摘したジャンルとして自立するためのインフラ整備という問題。
川柳は他ジャンルと比べてこれらのシステム整備が遅れているとかねがね感じていたので、荻原の「俳句・短歌にあるものはすべて川柳にもある」という発言には驚いた。ただ、絶対量が少ないので、アンソロジーなども川柳人がどんどん作っていけばよいという。
荻原の「川柳は外部に向かって伝わっていない」という認識と湊の「一人ひとりがよい句を書くというだけでは足りない」という発言とは対応している。荻原のは外部からの目であり、湊のは川柳の世界に入ってみての実感である。ただ、実践的には両者の考えには違いがある。荻原は『現代川柳の群像』『現代川柳鑑賞辞典』『現代女流川柳鑑賞辞典』などの大きなタイトルでは読者が引いてしまうので、もっと個人的に偏ったものでよいから各自がアンソロジーを編むべきだという。湊は逆に川柳史を視野に入れ、明治以降の近現代川柳全体をカバーするような川柳全集をイメージしているらしい。

川柳が文芸として認知されるためのインフラやシステムの整備と、時代に応じた新鮮な川柳作品が書かれることとは並行しなければならない。インフラが整備されても、川柳にとって大切なものが失われてしまうならば、何にもならないからだ。川柳界にもプロデューサーとクリエーターが必要なのだが、川柳のマーケットがそれほど大きくない現状では、川柳人が両者を兼ね備えてやっていくしかないのである。

シンポジウムというものは出来たことよりも出来なかったこと、語られた部分よりも語られなかった部分が多いものである。パネラーにとっても用意してきた言説のごく一部分しか発言する機会がなかったことだろう。荻原のいう「文芸らしくない文芸」、樋口の「川柳のウチとソト」、畑の「中心を意識しない自由度」、湊の「インフラの整備」(あるいは湊のレジュメにあった「文芸を解体してゆく文芸」)、これらの諸点をさらに問い詰めてゆけば、「川柳性」の内実がより明確に浮かび上がってゆくかも知れない。アンソロジーなどの実践的な問題も含めてそれは今後の課題であり、個々の川柳人によって深められてゆくべきものであろう。2001年の「川柳ジャンクション」での議論に比べて2011年の今回の議論に深化があっただろうか。荻原は「また10年後に呼んでください」と言ったが、10年後の川柳状況はいったいどうなっているだろう。楽しみでもあり、怖くもある。

2011年9月16日金曜日

川上三太郎『川柳入門』を読む

9月11日(日)に地元の堺市で「第25回堺市民芸術祭川柳大会」が開催されたので参加してみた。秋は川柳大会のシーズンだから、他の大会とも重なっているようだが、120~130名の出席者があった。席に座って作句していると、さまざまな川柳大会の案内ビラが配られる。その案内ビラの選者と兼題を見て、その大会に参加する気になったりする。情報伝達の方法が古風とも言えるし、人間的とも言える。披講の前に墨作二郎の「お話」がある。川柳大会では選者が選をしている間の参加者の待っている空白を埋めるために「お話」という時間が設定されることが多い。
作二郎は終戦直後の堺の川柳界のことから語りはじめたが、昭和30年ごろの川柳入門書のうち川上三太郎の『川柳入門』(昭和27年・川津書店)を取り上げたのが印象的であった。同書店から発行された入門書シリーズで佐佐木信綱が『短歌入門』を、水原秋桜子が『俳句入門』を書いている。この本については後述する。

「お話」に続いて披講に入る。一つ目は「男」という題。この題では「男とはどういうものか」という常識や「男とはこんなものさ」という穿ちが量産されることになる。文芸性とは次元の異なる価値観によって場が支配されるから、作品はその場だけで消えてゆくし、またそれでよいのだとも言える。川柳の大衆性という一面が胸にせまってくる。当日の作品ではないが、「男」という題でどのような佳作が生まれうるか、頭の中で思い浮かべてみた。次に挙げるのはすでに著名な作品である。

壁がさみしいから逆立ちをする男   岸本水府
男は莫迦で蛇に咬まれたことがない  定金冬二
十人の男を呑んで九人吐く      時実新子
都鳥男は京に長居せず        渡辺隆夫

『川柳入門』に話を戻すと、三太郎は「川柳」を次のように定義している。

「川柳とは原則として人間を主題とする十七音の定型詩である」

この「原則として」は「人間を主題とする」という内容と「十七音の定型詩」という形式との両方にかかっている。例外として「人間を主題としない内容」もあるわけであり、例外として「十七音以上または以下のもの」もある。作二郎は「原則として」に三太郎の狡さがあるという。

「ところでこの人間を主題とする―という事ですが、これは人間のみとせまく取ってはいけません。人間―つまり人間及びそれから生ずる諸種相、生活、その見聞、感情等、一切がふくまれるので、それは大きな内容を持つことになるのであります。つまり、われわれの感懐、見聞がすべて川柳の内容となるのですから、川柳は非常に人間の匂いの濃いものなのであります」

「人間の匂い」という言い方をすると、「人間」よりも広い範囲をカバーできることになる。「原則として十七音の定型詩」というところにも、例外的韻律を認めていることになる。作二郎は「今の言葉が五七五のおさまるだろうか。おさまるとしたら、非常に窮屈である」と言う。
三太郎は川柳を作るには次の二つが必要だと述べている。

ことば―を沢山知って置く事
ことば―を正確に知って置く事

作二郎は震災や原発事故の現状に触れて、「シーベルト」「想定外」などの言葉が飛び交っているが、それらは正確に使われているのかどうかを問いかける。そして、川柳が時代の表現だとすれば、今を生きている人間として震災を書くことは避けて通れないと述べた。

『川柳入門』の第二篇「川柳の鑑賞」では、川柳をコント風に解説してある。たとえば、「夏まつり」というタイトルでは―

「なつかしいわ、くにのお祭―」
「おねーさん、赤ちゃん、まだ?」
「いやななつ子ちゃん―」
「西瓜切ってきたの、とても冷えてるわ」
「ありがとう、本当に久しぶりだわ、この味、おいしいわ」

  《 東京の姉も来てゐる夏まつり 》

こんな調子のコント風解説が続く。このようなスタイルを取ること自体、川柳が大衆文芸・民衆文芸の一面をもっていることを如実に示している。そう言えば、川上三太郎こそ、川柳が詩性と大衆性の二面性をもっていることを身をもって示した二刀流主義者であった。

作二郎が三太郎の『川柳入門』のうち、「ことばをたくさん知っておくこと」「ことばを正確に知っておくこと」の二点を引き合いにだしたことは今日的意味があるだろう。

この日の作二郎の話の中で最も印象に残った言葉がある。

「十年前の作品も今の作品も同じだと言われるのは癪である」

2011年9月11日日曜日

川柳誌にできること、できないこと

少しずつ秋らしい空になってきた。秋は各地で川柳大会が開催される季節である。
この夏から秋にかけて、さまざまな雑誌や句集を送っていただいた。
「江古田文学」77号は「林芙美子・没後60年」特集を組んでいる。昭和26年(1951年)6月、林芙美子は心臓麻痺のために永眠。4月に「浮雲」を完結し、「めし」を連載しはじめたところであった。48歳。神奈川近代文学館では今年10月1日から林芙美子展が開催されるという。
「江古田文学」の特集「林芙美子の現在」では諸家が様々な角度から芙美子を論じているが、その中で浅沼璞が〈吟詠『放浪記』〉を発表しているのが印象的である。浅沼は最初に『放浪記』第三部の一節を引用している。

「速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて忘れてしまうのだ。
 仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る」

就寝時の眠りに落ちきらない頭脳の中では様々な言葉が飛び交っている。川柳人にもベッドから起きて言葉の切れはしを紙に書きつけた経験はあることだろう。浅沼はこの一節から芭蕉の「物の見えたるひかり」を連想し、「思えば芭蕉も芙美子も、宿命的な放浪者であった」と述べている。

放浪のカチウシャたらむ翁の忌   浅沼璞
痴れ人へ突き飛ばさんや扇風機
何喰うてベンチに星の女かな
私の表皮にすぎぬ「放浪記」

特集では「浮雲」について多角的に論じられていて、成瀬巳喜男の映画のことも取り上げられている。成瀬の映画はあまりにも有名であり、私も何度も見ているので、芙美子の原作はもういいやと思って、これまで読んだことがなかった。けれども、この特集によって俄然興味を刺激され、小説を読んでみると、これがとても面白いのである。

さて、振り返って、川柳誌における「特集」の在り方について考えさせられた。無いものねだりかも知れないが、川柳誌において充実した特集は企画しにくいし、成功もしにくいのである。
総合誌・結社誌・同人誌の三種の紙媒体の中で、川柳人にとってなじみの深いのは結社誌と同人誌である。
結社誌は会費を払って自己の作品を掲載してもらうシステムである。したがって、雑誌が届くと自分の作品が掲載されているページを真っ先に開く。高橋古啓は「自分で作った作品を自分で読んでどうするのか。他の人の作品をこそ読むべきではないか」とよく言っていた。けれども、自作を掲載してもらうために会費を払うのであってみれば、まず自作の載っているページを開いて悦に入るのは当然の権利と言えば言えるのである。
同人誌の場合はそれほど極端ではないだろうが、自作の発表の場として作品欄は当然重視される。ただ、川柳誌の場合、経済的な問題もあってページ数がすくなく、同人作品が詰め込まれて掲載されることが多いのは残念なことだ。同人はライバルでもあるから、どんな作品を書いているかに対しては関心があるはずだ。
いずれにせよ、川柳誌の場合、不特定多数の読者が読むのではないから、誌面構成は限定される。商業ベースにも乗らないから、企画や編集の良し悪しもあまり問われない。

ここでもう一冊紹介したい雑誌がある。四ッ谷龍の個人誌「むしめがね」19号である。平成17年に18号が出ているから、6年ぶりの発行である。「むしめがね」は昭和62年に冬野虹と四ッ谷龍との二人文芸誌として創刊。平成14年に冬野虹が急逝したあともゆるやかなペースで発行が続けられている。
本号では「ぶらんこの上の虹」と「四ッ谷龍句集『大いなる項目』」の二つの特集を組んでいる。
特集1ではフランスの作家・俳人ティエリー・カザルスが「ぶらんこの上の虹」のタイトルで冬野虹論を書いている。『セレクション俳人・四ッ谷龍集』の年譜によると、平成12年11月に四ッ谷はパリでカザルスと会っている。
「日本には、俳句を他言語に置き換えることは不可能であり、俳句の翻訳には意味がないと思っている人がいる。そう思う方には、ティエリーの文章をぜひ読んでみていただきたい」と四ッ谷は書いている。

白梅や図書館に気絶してゐる    冬野虹
水に澄むふたつのからだ羊追ふ
メリケン粉海から母のきつねあめ
荒海やなわとびの中がらんどう

「冬野虹がとくに愛読したフランス人文学者の一人に、『夢想の詩学』の著者、ガストン・バシュラールがいた。彼女はこの本を日本語訳で読んでいた。もじゃもじゃの白髯を生やしたこの哲学者は、その著作の中で夢想に重要な位置を付与していた、二十世紀にはまれな思想家であった」
カザルスはこのように述べたあと、「幼年時代のはじめの印象がどのようにして大人になってからの内面生活の素因となりうるか」を説いたバシュラールの一節を引用している。「バシュラールと同様、冬野虹は大いなる夢想家であった。生涯を通して、彼女は自分の『最初の感覚』に深くつながり続けていた」

特集2は四ッ谷龍句集『大いなる項目』。亜樹直(あきただし)と関悦史が書いている。亜樹直(女性)は講談社の青年マンガ誌「モーニング」に連載されているワイン漫画「神の雫」の原作者。四ッ谷とは中学時代の同級生だという。関悦史は俳句界で大活躍中の俳人・批評家。4月の「バックストローク岡山大会」で選者をしていただいたので、川柳界でもおなじみの方も多いだろう。「己からずれ出る激しい振動としての祈り」と題する『大いなる項目』評は、四ッ谷があとがき(ルーペ帳)で書いているように、ティエリーの「俳句の技法は、ひたすら『鼓動』に一致し、同期するところにある」という認識と一致する。すぐれた批評は期せずして一致するのであろうか。

渡り鳥鏡を抜けて来しもあらむ    四ッ谷龍
涼しさのわたしは庭となりにけり
大空を鳩にあずけて薔薇づくり
フルートは雷の妃なり吹けり
山猫は行ったり来たり宗鑑忌

「江古田文学」は350ページに及ぶ大冊で、特集には17人が執筆している。「むしめがね」は70ページの中に作品と批評が充実している。
比較することなどできないが、連想は「これからの川柳誌はどのような方向を目指すべきなのか」という方向に向かってしまう。川柳誌には何ができて何ができないのか。川柳誌にも構想力が求められている。

2011年9月2日金曜日

『武玉川』における人間の研究

9月に入った。今週はこれといった動きもないので、閑文字を連ねることにする。
小島政二郎に『私の好きな川柳』(新装版・弥生書房・1996年)という著作がある。小島は『眼中の人』『円朝』などの著作で知られている作家で、長く芥川賞の選考委員をつとめた。本書の最初の方に室生犀星と芥川龍之介の比較が出てくる。
犀星は芭蕉以外の俳句は一切認めなかった。「元禄でなければ」というのが彼の口癖であった。芥川に言わせれば、それではあまりに視野が狭すぎる、天明の蕪村も几董も太祇も認めるに値する、ということになる。芥川がパースペクティヴに従って見ているのに対して、犀星は芭蕉一人あればその他はいらないという頑固さによっている。犀星の頑固さは芥川の柔軟さよりも犀星をより深く幸せにしたのではないか、と小島は言う。
「鑑賞家としては、芥川の態度が本当だ。しかし、小説家としてだけで、鑑賞家としてなんか問題にしていない室生は、室生の小説家としての勘で好き嫌いを云って一向差支えないのである」
小島のこの指摘を私は面白いと思う。もう一人、小島が挙げているのが久保田万太郎である。万太郎は芭蕉のような大物が嫌いで、マイナーな詩人だけが好きだった。万太郎は犀星とは逆に太祇が好きだったのだ。ちなみに小島は『俳句の天才―久保田万太郎』という本を書いている。

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり    久保田万太郎

小島は川端康成についてのエピソードも紹介している。芥川賞・直木賞の選考委員会を開いているとき、川端は「私達はこうして私達の敵を選び出しているのですね」と言ったという。有望な後輩を生む努力をしているのだと思っていた小島はひどく驚いたのだ。

「小説家にとって、個性くらい興味のあるイキモノはない。中でも、強烈な個性に最も心を引かれる。そうして書く」「書くということは、その個性と親しく付き合うことだ。好きになれない個性もあれば、それ程でなくとも、どうにも親しくなれない個性もあり、反対に永く付き合いたくなるよき個性もあり、個性くらいその人間を語るものはあるまい」

小島は『柳多留』よりも『武玉川』の方が面白いという。以下に引用する句もほとんど『武玉川』からである。

俯けば言訳よりも美しき  『武玉川』十八篇

「普通川柳と思われている句よりも、遥かに人生に近い。少なくとも、若い女の姿態が彷彿として来る。少し贔屓して云えば、色彩を帯びて、もう少し誇張して云えば、まぶしいくらい美しい」
うつむいているのは若い女である。小言を言っているのは親か亭主だろう。いいわけをすればできるはずなのに、女はただうつむいているだけだというのである。それを美しいと見ているのは親か亭主だろうか、それとも第三者がその光景を美しいと見ているのだろうか。

牡丹をつかむやうな胸ぐら   『武玉川』六篇

「うまいなあ。若い相手の胸ぐらを掴んだ感じ。
 十四字でよくこれだけの内容を歌えたものだと思う。歌えただけなら一応の感心で済むが、うまいのだから感服するより外ない。
 夫婦喧嘩の真ッ最中、口は女の方が達者だから、相当きついことも云ったのだろうと思う。男もそれ相当興奮して、女の胸ぐらをつかんだのだ。が、女は口程にもなく、牡丹をつかむような胸ぐらだったと云うのだ。それ程絢爛と美しかったのである」
 小説家だから、場面を生き生きと想像するのがうまい。夫婦喧嘩の場でなくてもいいかも知れない。

面白い恋がいつしか凄くなり   『武玉川』四篇

「恋の本質を道破したものだろう。凄くならないような恋は恋じゃない」

一ト逃げ逃げて口を吸はせる   『武玉川』二篇

「江戸の娘さんの媚態を生き生きと描いている。江戸生まれの娘さん以外の娘では絶対にあり得ない。そこが値打ちである。
 生まれて初めてのことだし、江戸生まれの潔癖さから云っても、一も二もなく応じる気遣いはない。しかし、全く受け入れない程無情でもない。〈一ト逃げ〉するところが、江戸の娘さんの、私の好きな一点である」
ちなみに、神田忙人著「『武玉川』を楽しむ」(朝日選書)では「下町の娘の恥じらい、潔癖さと本能的な一種の媚態か、こういうことに慣れた商売女のテクニックか、どちらとも決めかねる句だ」とあって、小島の解釈と少しニュアンスが異なる。主語が省略されているので、どういう人物を描いているかで解釈が分かれるのである。

さて、小島が最後に「私が一番好きな句」として挙げているのが次の句である。

やはやはと重みのかかる芥川   『柳多留』初篇

『伊勢物語』で在原業平が二条の后を盗んで逃げる場面を詠んでいる。俵屋宗達の絵画でも有名である。
「私はこの句を読んで、二条の后の蒸すような肉体を想像する。次に、業平が二条の后を負ぶった時の、背中と胸との親しみのないギコチない感触を想像する。さて、そのまま川を渡っている間に、胸と背中との間に親しい官能の相通うものがあったに違いない」

そういえば、河野春三に「高槻異情」という詩がある。

やわやわと重みのかかる芥川
と古川柳に詠まれた芥川は
高槻市のほぼ中央を南に流れて淀川に注ぐ
夏草の生い繁るころこの川の畔に立つと
変哲もない小川を新幹線の矢が横切る
上流はやや川幅も広く桜の古木が花を競い
花の頃は雪洞が風情を作ったりするが…… (『河野春三詩集』風発行所)

本書の最後で小島はこんなふうに述べている。
「川柳の何よりの強みは、社会的体験が根底をなしていることだった。当時の一般の小説(但し、西鶴を除く)、一般の俳句(但し、芭蕉を除く)に比べると、川柳の強みは社会的体験を豊富に扱っていたことだと思う。それが、川柳に客観性と描写力を持たせた」

田辺聖子『武玉川・とくとく清水』(岩波新書)を読むと、「小島政二郎『私の好きな川柳』は誤訳・珍解が多いことで有名で、その野孤禅流の見当はずれの解釈を指摘する人は多い」ということであるが、私には小島の本は面白かったのである。

本書と同じ弥生書房から『武玉川選釈』(森銑三著)が出ている。森は作家ではないから、評釈も小島ほど面白くはなく、取り上げている句も異なっているが、「武玉川・柳樽に出ている食べ物」の章は、恋句とはまた別の川柳の一面をとらえているので、紹介する。

蕗味噌を子に嘗めさせて叱られる  『柳多留』十篇

「蕗味噌は蕗のとうの味噌あえか、とにかく苦味のある味噌なのを、亭主が面白がって箸に付けて、赤ン坊に嘗めさせる。赤ン坊がしかめッ面をする。御亭主は忽ちかみさんから叱られる」

油揚二度目の使大人なり     『柳多留』二十篇

「油揚を丁稚の長松に買いに出したら、鳶にさらわれて帰って来た。仕方のない奴だな、と二度目には下男の権助が改めてそれを買いに行く」

海鼠売つまんで見せて嫌がらせ  『武玉川』十三篇

「どうだい、旨いが買わないか。まだ生きているんだぜ、などど、わざとぬらくらしている海鼠をつまんで、女達の鼻の先へ突きつける。女どもはきやァという」

蛇足だが、『武玉川』は俳諧の高点付句集であって川柳ではないと言う人がいるが、川柳界では七七句を「武玉川調」と呼んで根強い人気があるので、アカデミックに考えるのでなければ、川柳と呼んで差し支えないと思う。

2011年8月26日金曜日

川柳の震災句は軽いのか

和合亮一著『詩の礫』(徳間書店、2011年6月発行)、まえがきとして「言葉の中の〈真実〉」という文章がある。

3月16日の夕暮れ。最も放射線数値の高い福島市の部屋で一人きり、パソコンの画面を睨んでいた。アパートの二階に位置しているが、隣近所に人の気配がない。直前の数日前に原子力発電所が白い煙をあげたから、一時的にでも避難をしていたのだろう。私は父や母や、職場があるから、福島に残ることを決意した。そして絶望していた。「これで、福島も、日本も終りだ」

この絶望感を誰かに伝えたい、書くということにだけ没頭したい、という気持ちから和合はツイッターに投稿を続ける。その最初の部分。

震災に遭いました。避難所に居ましたが、落ち着いたので、仕事をするために戻りました。みなさんにいろいろとご心配をおかけいたしました。励ましをありがとうございました。
(2011年3月16日4:23)

本日で被災六日目になります。物の見方や考え方が変わりました。(2011年3月16日4:29)

行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。
(2011年3月16日4:30)

放射能が降っています。静かな夜です。(2011年3月16日4:30)

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。(2011年3月16日4:31)

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。(2011年3月16日4:33)

凄いなと思う。その時その場の当事者として発せられた言葉にはまぎれもない真実性がある。その夜、和合が発したメッセージは40数個になった。ツイッターにはフォローという機能がある。全国から171人のフォローの申し込みがあり、翌朝には550人に増えて5月現在では14000人を超えるという。和合の言葉は震災について詩人が発信したもっとも切実なメッセージとして知られている。

「バックストローク」35号「アクア・ノーツ」の巻頭は横澤あや子の作品である。

密室のすぐれた月をくれませんか    横澤あや子
満ち潮から空の沖から御用聞き
瓦礫という花かんざしができあがる
きまじめな抽象画だと海は言う
棺のなかのみちのく光合成中

石田柊馬はこんなふうに書いている。

〈 多くの人が「詩の礫2011.3.16―4.9」(和合亮一、「現代詩手帖」5月号)を読んで、おろおろとしたことだろう。八戸の横澤あや子は川柳を書いた。無慈悲に命を奪い、人間が生きるには不可欠の「密室」を破壊したちからを、天然自然の荒々しさが恨めしい 〉

和合亮一は前掲書で「余震はひっきりなしに私の〈独房〉を襲ってきた」「何も考えなかった。〈独房〉の中で私が想つたのは、言葉の中にだけ自分の真実がある、ということだった」と述べている。横澤の「密室」はこの「独房」に通じるかも知れない。「瓦礫」を「花かんざし」にたとえ、新緑の東北を「棺のなか」と見立てる。ここにあるのはモラルや標語を越えた、横澤の表現者としての言葉である。

関悦史はブログ「閑中俳句日誌(別館)」(8月9日)で「バックストローク」35号を紹介しながら、横澤の句と柊馬の評に触れ、「川柳から震災への反応がここに出てきていた」と述べている。「ただし岡山に本拠を置く雑誌であるせいもあろうが、同人全体としては震災の影響が直接見える作は多くない。」
確かに関の指摘するように、震災を直接的に詠んだ句は本誌にはそう多くはない。けれども、直接・間接を問わず震災の影響を受けた句はけっこう見られる。

今宵あたり13ベクレルの月夜かな  渡辺隆夫
二号機に入っていったうさぎ跳び  湊圭史
嘔吐する海天も地も捩れ      松永千秋
ふくろうに千年前の闇が来る    広瀬ちえみ
生き延びよ仏の首をすげ替えても  松本仁

渡辺の「13ベクレルの月夜」は俳句の季語「十三夜」を意識している。広瀬の「千年前の闇」は電力が消えた太古の闇の深さを詠んでいる。広瀬はまた「春眠をむさぼるはずのカバだった」という仮想によって逆に悲惨な現実を指し示す。

関はさらに拙論「川柳とイロニー」に触れ、〈 惨事に対する川柳の機知的な切り込みは、俳句・短歌に比べていかにも軽い。その軽さに深さ、鋭さを潜ませるためのヒントがイロニーの「非・一読明快さ」なのだろう。それは知性の沈黙の領域の大きさを窺わせる 〉と述べている。
関の指摘に触発されて、川柳における震災句のさまざまな問題性が浮き彫りになってくる。
まず、当事者の詠んだ震災句として「杜人」230号(2011年6月発行)が思い浮かぶ。「杜人」のことは本欄で何度も紹介してきたが、仙台から出ている川柳誌だから、まぎれもない震災の当事者である。

ゆめのようなゆめかもしれぬゆめをみる    佐藤みさ子
なつかしいひとだったのだ地震来る

悲惨な現実を目のあたりにして、これは夢なのだと思うのは精神の防御反応であるだろう。カルデロンの『人生一夢』という戯曲において、塔に幽閉されている王子は、それを夢だと思いこんでいる。けれども解放されて彼は王となる。政局が変化して彼は再び幽閉される。王であったことがひとつの夢なのだ。王であったことと幽閉されていることと、どちらが夢でどちらが現実なのか。川柳界きってのアフォリズムの使い手である佐藤みさ子が震災に対峙して書いた決死の箴言である。
二句目はさらに衝撃的である。「なつかしいひとだったのだ」と「地震来る」との間には切れがあるだろう。けれども、私は「なつかしいひと=地震」という読みの誘惑を感じる。千年に一度やってくる地震。それは、なつかしい人だったのだ。
表現は悲惨な現実のあとを追いかけるものなのか、それとも悲惨な現実を越えることができるものなのだろうか。

和合亮一は「里」101号で「俳」とは何であろうかという定義について次のように書いている。

震災後の南相馬市市街地には今、「ありがとう」という旗がそちらこちらに立っている。初めは天災と人災の甚大な被害を抱えてしまった街に、とてもそぐわないものと感じた。街の青年たちが自発的に「ありがとう」という言葉を街のスローガンに掲げたいと皆に働きかけたらしい。彼らに直にうかがってみたところ、救援や支援、公務にあたっている方々に「ありがとう」の気持ちを持つことから、震災後の生活へのまなざしを変えて生きたいと語ってくれた。驚いた。そして私はこの若者たちに、無意識にも「俳」の精神を教えてもらった気がした。

もしこれが「俳」の精神なのだとすれば、川柳の「イロニー」とは少し異質である。
当事者性と第三者性、対象との距離の取り方、悲惨な現実を目のあたりにしてそれでも笑えるのかどうか、川柳の得意とするチャカシや批評性が震災から立ち上がろうとするモラルとどう抵触し折り合うのか。答えなどどこにもないなかで、それぞれの表現者が自分の言葉で震災を表現する、あるいは表現せずに沈黙するという態度決定をせまられている。

そんな中で仙台の広瀬ちえみが「垂人」15号に発表した次の句がいまのところ私にはもっとも印象的である。

松林だっただっただっただった    広瀬ちえみ

この「だった」には無量の「思い」が込められている。そして、川柳は今回も「思い」を越える批評性をもった震災句を生み出すことができないのだろうか。

最後に、覚書をふたつ。
関東大震災時の川柳については田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』に紹介されている。
野口裕は「週刊俳句」に「林田紀音夫全句集拾読」を延々と連載しているが、私の誤解でなければ、阪神淡路大震災に際して満足な無季俳句が書けなかったことが、紀音夫が俳句を断念した要因であるというのが野口の紀音夫論の要諦だと私は思っている。
悲惨な現実と拮抗するだけの言葉はどのようにして生まれるのだろうか。

2011年8月19日金曜日

人はそれを嘲魔と呼ぶ

鼻は人の顔面のど真ん中に付いている異物である。誰も鼻が自分の身体の一部であることを疑わない。けれども本当にそうなのか。
ゴーゴリの短編小説「鼻」は、鼻がある朝いなくなったしまう話である。鼻を失った八等官コワリョフは街中で一人の紳士に出会う。その紳士こそ彼の鼻だった。鼻は五等官の制服を着てカザン寺院へ入ってゆき、この上ない信心深い表情で祈っていた。カザン寺院はペテルブルグのネフスキー大通りに面している寺院である。ゴーゴリの作品は検閲を受けることが多かったが、この部分も不謹慎として検閲にひっかかり、作者は寺院をマーケットに書き換えさせられた経緯がある。
「もしもし、あなた」とコワリョフは鼻に話しかける。「あなたはご自分の居場所をご存じでなければならない。あなたは、私の鼻じゃありませんか」
鼻は次のように答えて去っていくのだ。
「君、何か思い違いをしておられるらしいな。私は私自身ですよ。私と君との間には何も密接な関係などない」
鼻は雑踏の中にまぎれてしまう。
けれども、炯眼な警官がいて鼻を逮捕する。
「いったいどうして見つかったんですね?」
「旅行に出かけようとしていたところを逮捕したというわけですよ。奴はもう駅逓馬車に乗り込んで、リガへ逃亡しようとしていたんです。旅券もある官吏の名前のを前もって手に入れていました」
この警官がコワリョフからお礼のお札を受け取ったことは言うまでもない。
安部公房の「S・カルマ氏の犯罪」でも「名刺」が本人とは別人格になって歩きまわる話がある。「名刺」だと寓意性が強くなりすぎるから、「鼻」の方が断然おもしろい。

さて、「バックストローク」35号から風刺性の強い句を抜き出してみる。

判決が出てリハツヤは貌を剃る   筒井祥文

何の判決が出たのかは知らないが、勝訴であれ敗訴であれ一つの判決が出たのだ。リハツヤは理髪屋だろうが利発屋かも知れない。自分の貌を剃っているのかも知れないし、客の貌を剃っているのかも知れない。ゴーゴリの「鼻」でも、理髪師はある朝とつぜん客の鼻を自宅で発見する。そんなものは家に置くなと女房に叱られた彼は、鼻をそっと川に捨てようとして警官に見とがめられるのだ。

文明が滅んだ後のモーニング    丸山進

丸山はついに文明を滅亡させてしまった。「モーニング」は単なる朝、モーニングコートの意味にもとれるが、私はモーニング・コーヒーと読んでいる。文明が滅んでも人はモーニング・コーヒーを飲んでいる。「一杯のお茶が飲めるなら世界なんて滅びてもかまわない」とはドストエフスキー『地下室の手記』の主人公の言葉だった。

多すぎて京へ繰り出す足の指    津田暹

ゴーゴリの「鼻」に話を戻すと、鼻の噂はペテルブルグ中に広がっていく。午後三時になると鼻がネフスキー大通りを散歩するらしいと聞いて、物好きな連中がおしかける。笑い話の種に困っていた社交界の常連たちはこの出来事を歓迎する。「鼻はいまユンケル商店にいるらしい」というので人だかりができ、露店が出たり、立見席をつくって料金をとる者まで現れる。
掲出句は誰が何のために京へ繰り出すのだろう。見舞客なのか、被災者のことなのか。それとも復興金のことなのだろうか。

原子炉を止める呪文を公募中    渡辺隆夫
今宵あたり13ベクレルの月夜かな
納棺式には一同ノーパンのこと

渡辺隆夫には三句登場してもらおう。
震災と原発事故を目の当たりにして、笑いは硬直する。なお笑おうとすれば、ブラックになる。「13ベクレルの月」の句は、樋口由紀子が「ウラハイ」の「金曜日の川柳」(8月5日)で取り上げている。

烏賊程に国家をすべる翁かな    きゅういち

「烏賊程に」は当然「いかほどに」との掛詞である。「いかほどに国家を統べる翁かな」「烏賊ほどに国家を滑る翁かな」という両義性をもつが、どちらにしても風刺的であることに変わりはない。

牛蒡など握っていつまで桃太郎   石田柊馬

桃太郎は鬼退治の剣を握っているはずだが、それは牛蒡にすぎなかった。「いつまで桃太郎やってんねん」という突っ込みである。自分を桃太郎だと信じて疑わない存在は風刺対象になる。

原発へ騎馬民族を狩りに来る    松本仁

原発に騎馬民族はいない。あるのは原発村という共同体である。騎馬民族は異物として狩られる対象かも知れない。では、誰が狩りに来るのだろうか。国家権力だろうか、共同体の雰囲気がそうさせるのだろうか。

再びゴーゴリの話。『死せる魂』は死んだ農奴の名前を買い歩くチチコフという男の物語である。農奴制のロシアでは、死んだ農奴は次の調査まで(数年間かかる)生きているものとして扱われていた。チチコフはそのような死せる農奴の名前を2ルーブルで買い取り、大量の農奴(実在しない)の所有者として農地を請求しようとした詐欺師である。
第一部の終り、トロイカの場面は特に有名だ。

(トレチャコフ美術館で三人の子供たちが橇にのった重い荷物を苦しげにひいている絵画を見たことがある。絵のタイトルは「トロイカ」。このように使うと風刺的になる。)

ゴーゴリは風刺家としての天寿をまっとうできなかった。「否定的な笑い」が彼の作品の本質だったのに、「肯定的な笑い」へと作品を変化させようとしたのであった。
「嘲魔」(ちょうま)という言葉がある。
芥川龍之介は人間の中には「二つの自己」が住むと言っている。「活動的な、情熱のある自己」と「冷酷な観察的な自己」である。そして芥川は後者を「嘲魔」と呼んだ。「この嘲魔を却ける事は、私の顔が変えられないように、私自身には如何とも出来ぬ」芥川はこの二つの自己の分裂に苦しんだ。
ゴーゴリは人間を風刺的に眺めることから肯定的に眺めることへと移行しようとした。けれども、風刺的に描かれた人間が生き生きとしていたのに対して、肯定的に描かれた人間は生気のない作り物であった。ゴーゴリはそれを自己の道徳的低さと感じて自己を責めたのである。『死せる魂』はダンテの『神曲』になぞらえて第一部の地獄篇から第二部の煉獄篇、さらには天国篇へと昇華すべきものであったが、ゴーゴリには地獄は書けても天国は書けなかった。肯定的人間を描くことはゴーゴリの中の嘲魔が許さなかったのだ。
ゴーゴリは『死せる魂』第二部の原稿(の一部)を火中に投じて亡くなる。
彼が火中に投じた原稿を読んでみたいものだ。

2011年8月5日金曜日

同人誌という「場」

文芸の創作は机に向かって作品を書く孤独な作業である、というようなロマンティックな文芸観はいまどき流行らないだろう。作品を書くには「場」が必要であり、作品創造のためには師友や雑誌などの刺激的な環境が必要となる。
川柳の場合、そのような「場」の中心となるのが句会であった。「座の文芸」という言葉は本来「連句」について言われるべきものだが、近年では「俳句」や「川柳」についても「座の文芸」という言葉が使われることがある。川柳の場合、「座」とは句会・大会のことになるだろう。句会・大会では「題」がだされて、その題に従って参加者は作句する。兼題、席題があるのは俳句の場合と同じだが、「題」そのものを言葉として詠み込む場合と詠み込まない場合とがある。変わり種としては、「イメージ吟」と称して絵や写真をみて作句することもある。
結社の場合、句会・大会の結果は結社誌に掲載される。発表誌だけを冊子にして作る場合もある。川柳誌の多くは投句欄と句会報を合体させたようなものが多い。
インターネットの普及によって、川柳においても掲示版やブログがぼつぼつ見られるようになってきているが、短歌・俳句に比べると質量ともに見劣りがするし、川柳のウェブ・マガジンはまだ存在しない。
どのような才能も孤独な作業だけでは文芸活動を持続することは困難であるし、何よりも作品発表の媒体を必要とする。文学的な環境や人間関係もふくめて、その人が作句を持続してゆくための財産なのである。今回はそのような「場」の問題として、同人誌の在り方について考えてみたい。

7月・8月にいくつかの俳誌を送っていただいたので、まず俳誌の場合を見てみよう。
八田木枯代表、寺澤一雄編集発行の「鏡」創刊号。寺澤と八田が「晩紅」の打ち合わせをしているうちに「晩紅」は休刊にして、新誌を始めようということになったらしい。誌名は八田木枯の句集『鏡騒』とも関連する。

水鳥はうごかず水になりきるや    八田木枯
キーボード顔は正面から古ぶ     中村裕
はみがきの最後をしぼる鳥の恋    西原天気
分からないのに手をあげる春うらら  寺澤一雄
辻の朧へ竹竿売の行つたきり     羽田野令

「週刊俳句」220号(7月10日)に長嶺千晶が「俳人はなぜ俳誌に依るのか」という文章を書いている。長嶺は「ひろそ火 句会.com」(木暮陶句郞)・「紫」(山﨑十生)・「鏡」の三誌を取り上げて、「集うことが楽しそう」「座という交わりの場があれば、そのときの句作のエネルギーは倍加する」と述べている。このような同人誌の必要性は川柳の場合でも同様だろう。

俳句同人誌「里」が101号を発行している。編集人・仲寒蝉、発行人・島田牙城。〈それぞれが「俳」とは何かを探求する同人誌たらんと百号まで歩んできた〉という。そこで特別企画「俳とは」を組んで、詩人の和合亮一をはじめ18人による辞書解説バージョンによる考察を掲載している。中でも冨田拓也が次のように書いているのが印象的であった。

〈 「俳」とは、一言でいうならば「既成概念や固定観念の打破と再編」ということになろう。万象は常に須く動き、流れている。この世界において停滞の状態を示し続けているものは基本的には存在しない。流れを伴わないものは自ずから衰亡し消滅してしまう運命にある。流れを停滞させないためには常に何らかの変化や交替が必須であり、例えばそれは人という存在自体における生命活動や意識の在りよう等に関しても例外ではなく、また俳句をも含む文芸全般についてもおよそ同様のことがいえるはずである 〉

「里」101号出立式として、8月6~8日、京都・義仲寺・伊賀上野などで記念句会が開催されるという。

「垂人」(たると)15号(7月31日発行)は中西ひろ美(俳人)と広瀬ちえみ(柳人)の二人による編集発行で、川柳・俳句交流の場を提供している。俳人・川柳人による作品のほか、鈴木純一の文章「てふ」「ぱんたらい」や「押しかけ三人句会」(矢本大雪・鈴木純一・中西ひろ美)、「坂間恒子句集『硯区』を読む」(広瀬ちえみ)などを掲載してヴァラエティに富む。仙台在住の広瀬が震災にあったため発行が遅れたようだが、〈ちえみとひろ美が生きていれば「垂人」は出せる〉という中西の編集後記に同人誌発行のモチーフがあらわれている。川柳人の作品から二人ご紹介する。

会いましょうメタセコイアの木の下で    高橋かづき
勤労禁止新郎近視蜃気楼
ふゆぞらそらんじ ゆうぞらふゆうする

この世には大きな馬糞残すのみ       広瀬ちえみ
三月の体にことごとくガラス
松林だっただっただっただった

「触光」23号(8月1日発行)は野沢省悟編集発行。3月に亡くなった大友逸星を追悼して、作品抄を掲載している。「絆」という連作から。

西瓜割り深い絆と言うてみよ   大友逸星
放火犯人と朝飯を食っている
脆いので家族揃って飯を食う
たんぽぽよあみだくじなど始めよう

「触光的時事川柳」のコーナーは渡辺隆夫選で好調だが、今回の隆夫は中村冨二の作品を引用している。特に冨二の次の二句は現在にも当てはまる射程距離をもっている。

墓地で見た街は見事な嘘だった         中村冨二
内閣総理大臣という字を少年よ、書けなくてもよい

「水脈」28号(8月1日発行)は浪越靖政編集。「イメージ吟」が掲載されているので、紹介する。絵や写真ではなくて、三好達治の詩「春」によって川柳を作っている。
「鵞鳥。―たくさん一緒にいるので、
     自分を見失わないために啼いています」

群衆のひとりで烽火あげている    笑葉
おとなになってしまったぼくはやみに  守
うしろ向くのがおまえの流儀     涼子
輪をぬける足を大きく組みかえて   麗水

元の詩の説明にならずに川柳にするところに工夫を要する。

以上、俳句・川柳の同人誌が「場」としてどのように機能しているかという視点から諸誌を見てきた。結社誌はさておき、同人誌は川柳人にとっても作品発表の場として大切にされなければならない。それは、単に出来上がった作品を発表する媒体というにとどまらない。「場」を共有する表現者たちが存在するから、相互刺激によって作品を書く持続的エネルギーが生まれるのである。
短詩型文学の世界の中で、新誌が生まれ、また旧誌が消えていく。永遠に続くものなどないのは当然だが、どのように創造的な場を確保するかは表現者にとって切実な問題であろう。

来週は夏休みをいただいて一回休刊します。次回は8月19日(金)にお目にかかりましょう。

2011年7月29日金曜日

伊那谷の母系社会―畑美樹の川柳

加島祥造はかつて英米文学の翻訳者として活躍し、フォークナーの『八月の光』の翻訳は私も読んだことがある。加島は60代半ばで信州の伊那谷に移り住み、詩集『求めない』や老子の思想を血肉化した『伊那谷の老子』は広く読まれている。先日、朝日新聞の夕刊(7月19日~22日)に彼のインタビュー記事が掲載されていて、なつかしく思った。

伊那谷は漂泊の俳人・井上井月(いのうえ・せいげつ)のゆかりの地としても知られている。井月は石川淳の『諸国畸人伝』にも登場するし、つげ義春の漫画『無能の人』にも描かれているが、最近、映画「伊那の井月・ほかいびと」(監督・北村皆雄)が製作され、この11月には伊那で上映される予定と聞いている。

「私が住む家のすぐ近くに、漂白の俳人井上井月終焉の地がある。芭蕉を崇拝し、奥の細道をたどったこともあるという井月、晩年、中央アルプスを見渡せるその地で、

  何処やらに鶴の声聞く霞かな

という句を残した。実際、本当にアルプスを見上げて作ったのか、定かではないけれど、我が家の庭からも見える山々の頂と霞む谷の情景は、和紙に墨がにじんでいくように、私の中にもなじんでいく」

畑美樹は井月についてこんなふうに書いている(「柳の家」、セレクション柳人『畑美樹集』所収)。「バックストローク」編集長の畑美樹は伊那在住の川柳人である。
数年前、伊那の友人の山荘に連句人が集まって、歌仙を巻いたことがある。畑美樹にも参加してもらって、井月ゆかりの地を案内してもらった。六道堤で話が野草のことになったとき、畑は堤の斜面をこともなく歩き降り、野草を手にとって私たちに説明した。都会人ならすべったり転んだりしそうな斜面である。このとき私は畑美樹の自然人としての面を実感したのである。

「Leaf」4号(7月15日発行)に吉澤久良が「感性に拠る―畑美樹論」を書いている。畑美樹の作品に「まんなか」という語が頻出することを指摘したあと、吉澤はこんなふうに述べている。

《 自分の〈位置〉が「まんなか」であると、なぜ畑に感じられるのか。それは、〈位置〉計測の基点となる羅針盤が畑の感性の中に据えられているからである 》

ここで問題にされているのは畑美樹における「感性」「感覚」の在り方である。ただし、吉澤は続けて次のようにも書いている。

《 もちろん畑は、自己の〈位置〉が「まんなか」であると常に思っていられるほどの自信家でも楽天家でもない。「まんなか」「正確」「まっすぐ」とは、〈位置〉への希求として表現されているのだ 》
《 しかし、その希求は同時に、自分の〈位置〉が本当に「正確」で「まっすぐ」であるだろうかという不安によって、常に揺さぶられている。感覚とは本質的に揺らぐものなのである 》

「Leaf」4号から畑美樹の作品を引用してみる。

夕立ちをかすかに光らせる左辺   畑美樹
一滴のこだまを抱いている左辺

「夕立ちを」と「一滴の」はともに「左辺」に収束して対応している。兵頭全郎はこの両句を「抵抗」というキーワードで読み、「光らせる」「抱いている」という能動的な動詞に注目して、次のように述べている。

《 今回の畑作品はおおむね作中主体が能動的に動いているが、自発的な能動性というより、むしろある状況に置かれた中でどうにか動かざるを得ない、ならばせめてもの抵抗を、といった感じだ 》

骨としてうぐいすとして出迎える  畑美樹
泣きそうな馬をさがしに行くところ

この二句について清水かおりは次のように述べる。

《 畑美樹の作品に漂う、ゆだねるような感覚は、書かれた主体の持つ意識が希薄なところから来ている。》《 全ての物事、全ての存在は流動的で一時も同じところに留まってはいない。私達が固有の存在と思っている自己のことを、畑の作品というフィルターを通して見てみると突然あやふやなものになってくる 》

そして、清水は「畑は句を書くときに読者のこういう反応を考えたことがあるだろうか」と問い、「畑は読者を意識しない。こちら側から作品の向こう側を指さしているだけなのである」という。

包丁は遠くで匂う与論島    畑美樹
一握の砂を東に曲がるふね

「一握の砂」は単なる記号ではなく、私には強い意味を発信しているように感じられる。啄木的なもの、短歌的なものに対する畑の嗜好・親和を語っている。兵頭全郎は啄木を読み込んだ読者と単純に「ひとにぎりの砂」と読む読者とでは解釈に差が出てくると述べているが、この句の場合は啄木を意識しないわけにはいかない。短歌憧憬は畑の低音部なのであろうか。

前掲の加島祥造のインタビューで、彼はこんなふうに述べている。

人間だってずっと以前、母系社会だったころは「共に生きる」が原則の生活だったのに、父権社会になって、争いが始まったのだと分かり始めました。自然と老子の両方から知ったことです。

加島も井月も伊那の母系社会の中で再生することができたのだろう。
他所からやって来た男たちはそれでいい。では、伊那の女性たちの心の底は本当のところどうなのだろうと考えてしまう。
「伊那井月会」発行の「井上井月・夏の五十句」から井月の夏の句を紹介しておく。

よき水に豆腐切り込む暑さかな     井月
茹ものは皆水替へて明け易し
みな清水ならざるはなし奥の院
短夜や筧の音の耳につく

この時評は昨年の8月にスタートしたから、今月末で丸一年になる。
大学時代に学んだゲルマニズム(ドイツ文学)では「ギリシア精神(ヘレニズム)」と「ユダヤ精神(ヘブライズム)」ということを言う。ギリシア精神は過去のすべてが現在の一点に凝縮されているととらえる。ユダヤ精神はひたすら未来をめざして進んでいく。砂漠の民は次のオアシスを目指して歩み続けなければ生きてゆけないのである。
このブログも、存在するかどうか曖昧なオアシスをめざして書き継いできたが、過去を振り向くことなく、これからも進み続けるほかない。

2011年7月22日金曜日

川柳句集の句評会

7月17日、アウィーナ大阪で渡辺隆夫句集『魚命魚辞』、小池正博句集『水牛の余波』の合同句評会が開催された。いわゆる出版記念会・祝賀会ではなく、句集の読みと評価に的を絞った純粋の句評会で、関西在住の川柳人を中心に俳人・歌人も含めて、45名が集まった。
短歌・俳句では批評会がしばしば開かれている。20代・30代で第一歌集・句集が出され、その評価を参考にして次の第二歌集・句集の方向性を模索することができる。歌集・句集が到達点ではなく、次に進むための出発点となるのだ。従って、儀礼的な祝賀は若い歌人・俳人にとって意味がない。次のステップに進むために、弱点は容赦なく指摘されることになる。もちろん短歌・俳句であっても儀礼的な祝賀会はあるのだろうが、川柳界では批評会というものはほとんど見られない。短歌史・俳句史のなかでその歌集・句集が位置づけられるのとは異なって、川柳史における句集の評価という作業は行われないのだ。渡辺隆夫の第一句集『宅配の馬』が出されたとき、渡辺は58歳だったという。今回第一句集を出した『水牛の余波』の小池は56歳。短歌・俳句に比べて川柳人の出発は遅い。

川柳における出版記念会について少し振り返ってみたい。1998年12月に尼崎で開催された森田栄一句集『パストラル』の出版会の際には、公開討論会「現代川柳は21世紀に生き残れるか」が行われた。司会は高橋古啓。
翌年発行された記念誌「川柳アトリエの会」50号(1999年6月)を読むと、このときのディスカッションでは句集『パストラル』の句について誰も一句も触れていない。パネラー各自が自己の意見を述べているだけで、具体的作品が俎上にのぼってこないのだ。むしろ同時期に発行された渡辺隆夫句集『都鳥』についての発言が多く、たまりかねた司会者が「今日は『パストラル』の記念会です」と牽制している。奇妙なことであり、句評会という意識はパネラーにはなかったのだろう。
1999年8月に姫路で開催された樋口由紀子句集『容顔』の出版記念会では、「ボーイフレンドが読む『容顔』」と題してパネルディスカッションが行われた。コーディネーターは堀本吟。パネラーが大井恒行(俳句)、荻原裕幸(短歌)、高山れおな(俳句)、長岡千尋(短歌)、藤田踏青(自由律俳句)、渡辺隆夫(川柳)である。ここでは「作品例に関して特に主張したいこと」「共鳴句」「樋口由紀子へのアドヴァイス」「短詩型現状についていちばんいいたいこと」などが挙げられている。
2001年に大阪で開催された「川柳ジャンクション」は、合同句集『現代川柳の精鋭たち』の出版にちなんだもの。「川柳の立っている場所」というテーマで荻原裕幸・藤原龍一郎・堀本吟による鼎談があった。
2006年大阪で開催された「セレクション柳人出版記念大会」は13句集を一挙に読むもので、個々の作品の読みにまで踏み込めなかった。純粋な批評会ではなく、第二部で句会が開催された。
以上、関西で開催された出版会について管見に入ったものだけを取り上げたが、『容顔』の出版会を除いて「句評会」と呼べるものではなかったことが分かる。ただ、こうした川柳における出版記念会の流れを振り返ってみると、次の二つの志向を認めることができる。
①「川柳についての放談」から「具体的作品にもとづいた根拠ある発言」へ
②「歌人・俳人のパネラー」から「川柳人自身によるパネラー」へ

さて、今回の句評会であるが、第一部『魚命魚辞』は、司会・堺利彦、パネラー・吉澤久良、小池正博、野口裕。第二部『水牛の余波』は、司会・樋口由紀子、パネラー・湊圭史、渡辺隆夫、彦坂美喜子。
第一部では司会・堺利彦の「柳界ではめずらしいパネルディスカッション形式による句集の句評会なるものを試みてみたい」という発言に続いて、パネラーの吉澤は次のように述べた(発言要旨)。

『魚命魚辞』には、パロディー、語呂合わせ、ずり落としの句が満載である。パロディーや語呂合わせは、「ああ、このことを下敷きにしているな」という〈答え〉がわかれば、それで終ってしまうことが多い。けれども、渡辺隆夫の句集には、わずかではあるが〈答え〉に収束しない句がある。

「〈答え〉に収束しない句」として吉澤は次のような句を取り上げた。これらの句は渡辺隆夫の〈柔らかい部分〉であり、それは、叙情性であったり、不条理であったり、古川柳的な情感であったりする、と吉澤はいう。

硬直の紡錘体が秋の魚
炎天下百歩歩いて皆トカゲ
縁談に土用の丑が来て座る
地の蓋を開けて極月のぞき込む
原子力銭湯へ行っておいでバカボン

続いて、小池は隆夫川柳を「私性の抹殺」「批評対象の創出」「キャラクター川柳」という三つの視点からとらえ、本句集のキーワードは「昭和」であり、隆夫の「昭和」に対する落とし前のつけ方として読んだと述べた。
隆夫は「バックストローク」創刊号の「隣りは何をする人ぞ」(「セレクション柳論」に所収)で、「現代における一般的な読みとはマンガ的読みだ」と書いている。「船団」の久留島元によると、マンガ俳句と漫画的俳句とは違う。マンガ俳句はアニメ・マンガのキャラクターを素材として詠んだ俳句。「鉄腕アトム」や「ドラえもん」などのマンガのヒーローは素材になりやすい。それに対して、漫画的俳句は素材の問題ではなくて、漫画の手法を用いた俳句ということ。隆夫の川柳にも「原子力銭湯へ行っておいでバカボン」「テポドンに紅の豚ぶちかまし」などマンガ・アニメのキャラクターを用いたものがある。けれども、これらの句は、「キャラクター川柳」ではなく、むしろ次のような句にキャラクター川柳の方法があらわれている。

乙姫社の魚語辞典はまだ出ぬか
シーラカンスは魚気の多い編集長
昭和史を他山の石とはせぬぞ、御意
魚命魚辞、また勅語かと朕びびる

「魚の国」があって、魚の出版社「乙姫社」がある。編集長はシーラカンス。この漫画的乗りをおもしろいと思わない人にはこの句集は無縁である。人間なら「ヤマ気」が多いのだが、魚だから「魚気」が多い。出そうとしている本は『魚語辞典』である。このようにして一句一句を積み上げることによって、隆夫はひとつのセカイを創り上げてゆく。では、何のためにセカイを創り上げるか。そのセカイを風刺対象にするためである。風刺対象がなければ風刺することができない。「魚の国」に「魚の天皇」がいて、御名御璽のかわりに魚命魚辞を押す。国民は魚意魚意といいながらミサイルを発射するのである。キャラクター川柳は風刺対象を作り出しつつそれを風刺する。作者と作品の間に距離をおくための絶妙の方法である。

野口は、渡辺隆夫に対する批判的な見地から次のように述べた。
『魚命魚辞』は面白い句が並んでいる句集とは思えない。野口は退屈と思える要因として次の諸点を挙げている。
①「それがどうした」感。句材の取り合わせが安易であったり、既視感がある、あるいは句材そのものが陳腐な場合に「それがどうした」感が起こりやすい。

乙女座に九十年もいて男 (女に男という当たり前すぎる配置)
北緯60度スコットランドは準白夜 (隆夫の旅吟は「絵葉書」俳句)
遠雷や生命保険の人が来る (雷から死を連想し、それが生命保険に結びつく流れ常識的な発想)

②「なんじゃこりゃ」感。句材の突飛さに頼って書いていると感じる句。その突飛さに驚けば、句としては成功なのだろうが、突飛であればあるほど鼻白む読者もあろうし、どんなに突飛でも「それで?」と問い返す読者もある。

上野駅トイレにしゃがむ西郷どん
衛兵のキルトの下はノーパンツ
ウンコなテポドン便器なニッポン

③「ああ、またか」感。やたらと同音・同字が句に出てくる。同一手法の繰り返しも、度が過ぎる。

肉欲と海水浴はオトモダチ
薔薇は咲いたかベルばらまだか
草津ヨイトコ二人はイトコ
亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む

④面白いと思った句。渡辺隆夫の言葉遊び満載の句集の中に、ねっとりとした良い味を発見する句がある。今のところ、珍重すべきほどの頻度だが、今後はこの方向に行くべき人なのではないだろうか。

デパ地下を鮮魚が泳ぐ現代の午後
頬被りてめえ松方弘樹だな
シウマイは若きシングルマザーの味
妹の背に人魚のころの銛の跡
大陸移動が骨盤にひびくの

司会の堺利彦は、「1990年代から2000年代にかけての現代川柳に大きなインパクトを与えた隆夫川柳の、そのインパクトがどういうところにあるのか、また、一部のファンから高い評価を得ているにもかかわらず、なぜ川柳界に隆夫川柳の亜流なり模倣が登場しないのか」という問題意識をもっていたようだが、パネラーの発言は必ずしもこの問いに応えるものではなかった。けれども、具体的な句を挙げながら、作品の「読み」を語ることによって、この集まりは曲がりなりにも川柳の句評会のかたちをなしていたのではないだろうか。単独句ではなくて、一冊の句集としての評価が川柳の世界でもこれから問われていくことになるだろう。
第二部については長くなるので省略させていただく。

2011年7月15日金曜日

句会・大会考

句会・大会は川柳人にとって作品発表の主要な場であるが、川柳作品の文芸的価値を重視する川柳人の中には句会・大会を否定する者もいる。山村祐や河野春三などは大会否定論者であった。選者が作品を選句するというシステムそのものの中にジレンマがあって、選者の川柳観に合致しない作品は最初から排除されてしまうのである。そもそも選者が投句される作品をきちんと理解しているのかどうかに対する不信感が根底にあるから、没になった人々からは常に選者への不満がささやかれることになる。
大会のマイナス面を克服しようとして、これまでさまざまな工夫がされてきた。7月3日に岡山県の玉野市で開催された「玉野市民川柳大会」はそのひとつの形を示している。主催者の前田一石は「題」と「選者」の選定に精力を傾け、一年かけて次年度のラインナップを決定する。各題は共選であり、同じ題に対して男性選者と女性選者を組み合わせる。投句者は二人の選者に対して同じ句を提出するから、選者の川柳観によってどのように選句が異なってくるかが見どころとなる。
「バックストローク」ホームページに発表された「第62回玉野市民川柳大会」の作品の一部(選者の軸吟と特選・準特選)を紹介しよう。詳細についてはいずれ発行される発表誌をご覧いただきたい。

「 日本 」石田柊馬選
   軸吟  なんとなく日本はサラミソーセージ   石田柊馬
   特選  七月の雨にっぽんが濡れている     大西泰世
   準特選 噴水は獅子の口から日本デスマスク   小池正博
「 日本 」吉田三千子選
   軸吟  にっぽんのぶどうだなにはなつきたる  吉田三千子
   特選  プチトマト落果日本は半裸体      吉澤久良
   準特選 なんとなく日本はサラミソーセージ   石田柊馬
「 憂い 」石部明選
軸吟  酢昆布を永遠の憂いと思いけり      石部明
 特選  憂いまで三つ足りない螺子の穴     樋口由紀子
 準特選 憂いが尖る鉛筆を置きなさい      清水かおり
「 憂い 」黒田るみ子選
   軸吟  何を憂えて喪の色まとうのか鴉     黒田るみ子
   特選  湿ってる憂い天日に干してある     伊藤かぎう
   準特選 憂いてもブラックホールに勝てはせず  原修二

選にはその川柳人がたどってきた川柳歴や川柳観のすべてが反映する。複数の選者を比べてみたときの川柳の幅と、ひとりの選者の中での川柳の幅。許容範囲の広い選をすることがよいとも言えないし、選者の川柳観に反する句をすべて排除するというのも狭量である。投句者の方はどのような考えで投句するか。玉野の場合、二人の選者に同一の二句を出すことになるが、選者の選句傾向が分かっているとき、
①二句とも選者Aに当て込んだ句を作句する
②一句を選者A当て込みに、もう一句を選者B当て込みに作句する
③二句を選者B当て込みに作句する
④そんなことは考えずに、あくまで自分らしい句を作句する
という四通りの態度が考えられる。
文芸の作者としては④の立場で作句するのが当然であるが、そこに多少の邪念が入り込むことも避けにくい。川柳人にとって「全ボツ(一句も抜けないこと)」ほどの屈辱はないからだ。俳句結社に投句する人が、主宰の俳句観と選句眼をひたすら信じて、主宰の胸を借りるようにして句を送り続けるのとは事情を異にしている。
前回このブログで紹介した石田柊馬の「川柳味の変転」(「翔臨」71号)で、「句会(題詠)」と「創作」を別項として立て、題詠の方に川柳味が濃く現れるとしているのは、川柳人の感覚を反映しているものと見ることができる。

「バックストローク岡山大会」でも共選を一組実施している。
ここでは共選も単独選でも、選者による選評を付けるのが特徴である。また発表誌には一ページの選評を書くことが義務づけられている。今年の第四回大会では俳人の関悦史と川柳人の草地豊子が「点」という題で共選した。選評も含め、今月下旬には発表誌「バックストローク」35号が発行されるので、お読みいただきたい。

「ふらすこてん」の三人選も独自の形である。ここでは同一の題について三人の選者が選句する。もちろん単独選もあるが、この三人選が句会の目玉である。「ふらすこてん」16号から、六月句会の三人選を紹介しておこう。題は「マイナス」である。

兵頭全郎選 
  負い目だったか葵の上だったか    洋子
  プラスだったかも知れず尾行メモ   泰子
  風船を取り合っているピエロたち   えんじぇる
  減点法そしてだーれもいない海    和枝
石田柊馬選
  プラスだったかも知れず尾行メモ   泰子
筒井祥文選
  左目はまだ氷点下60度       茂俊
  先頭のラクダの瘤はマイナスイオン  多佳子
  HV型色鉛筆の芯は陰湿       勝比古

三人選となると句の評価はさらに多様化する。この句会では同時に参加者の互選も取り入れて、得点を集計するから、選句基盤はさらに不安定である。なぜ選んだか、なぜ選ばなかったのかという討論が毎回行われている。

結局、句会・大会の刷新は「選者」を中心課題としている。
この選者の問題を追及しているのが尾藤三柳著『選者考』である。尾藤は歌合の判者にはじまり、連歌・俳諧の点者から前句付の評者を経て明治以降に選者として固定するに至る、選者の歴史を丹念に拾い出している。
「選者は単なる選別者ではなく、同時に批評家であり、選(判)と批評(判詞)は表裏をなすものであった」
選から批評へという道筋は短詩型文学にとって必然的なものであり、判者・点者に対する批判は昔から連綿と続いてきたことが分かる。それを克服するものが説得力のある批評であり、批評は実作の要請に基づいて実践的に発展してくるものである。川柳だけが例外であってよいはずがない。
心敬の連歌論書『ささめごと』には、「我が句を面白く作るよりも、聞くは遙かに至りがたしといへり」とあるらしい。「聞く」は他人の句を正しく認識することであり、作句力と鑑賞力は並行すべきものである。

「選」という方式はどこまでいってもジレンマなのだ。
「選者が本当によいと思う句は特選ではなくて、その次くらいに置くのがよい」という心得を耳にしたことがある。最上と思うのなら特選にすべきだろうが、そこに別の価値基準が働くのだろう。選者が自分の結社の主宰の句を必ず取るという傾向もある。字や句風でわかるのだが、主宰の作品だと信じて採った句が筆跡の似た別人の句で真っ青になるという悲喜劇もある。
「選」という不安定な足場の中で、誰にでも支持される川柳を可とするか、少数の選者に理解される文芸的作品を目指すのか。マイナス面だけを見て句会・大会を否定すると、一種のデラシネ(根なし草)になってしまう。優れた選者によって新しい川柳人が育っていくことも事実である。いま各地で行われている川柳の句会・大会のさまざまな試みが実を結び、選→選評→批評というかたちで底上げされていくことによって、川柳の実作と選句とが互いに高めあうような情況が生れることを期待したい。

2011年7月10日日曜日

川柳における省略―「翔臨」71号・石田柊馬論文をめぐって

時評とはけっこう困難な作業である。
音楽評論で有名な吉田秀和は、相撲の解説から批評の要諦を悟ったと述べている。現在の相撲解説は愚にもつかぬものだが(そういえば相撲自体の存続もあやぶまれる状況が続いている)、かつては相撲解説者に神風と玉の海がいて、名解説者の評価をほしいままにした。一瞬の取り口を言葉によって鮮やかに解説してみせるそのやり方は、相撲ファンのワクを越えて視聴者を魅了したのであった。
吉田秀和の評論集『主題と変奏』に収録されているシューマン論には「常に本質を語れ」(ベートーベン)というエピグラムが掲げられている。消え去るもの、移り変わる状況を取り上げながら、常に本質を見失わないこと。そこに時評なり批評なりの面目はあるのだろう。

竹中宏編集・発行による俳誌「翔臨」71号に、石田柊馬が「川柳味の変転」を執筆している。〈川柳味の場「句会」〉〈川柳の近代化〉〈川柳味と創作〉〈川柳味と詩性〉〈省略の川柳味〉の五項に分けて、前句付を出自とする川柳が近代化を目指すなかで川柳味がどのように変転してきたか、その見取り図を提示している。石田柊馬の川柳史観については、以前このブログで触れたことがある(2010年11月26日)。柊馬史観は川柳の近現代にたいするパースペクティヴを私たちに与えてくれる。

〈川柳味の場「句会」〉で柊馬は次のように述べている。

「近代化を目指した明治の時代に、先達は前句附けの受動性から、近代的な能動性を求めた。野球でいえばキャッチャーからピッチャーに変わっても川柳が書けると判断した」
「俳句で、写生という思想に基づいた実践と考察が行われていた同じ時期に、前句附けから離れた五七五だけの句を川柳と称して、川柳味と川柳の書き方をどのようにするかが個々人にゆだねられた」

ここで問われているのは、「川柳味と川柳の書き方」が川柳の近代化の中でどのように変遷してきたのか、という問題である。
前句付と『柳多留』では「うがち」と「省略」が一体化していた。川柳の近代化はこの両者の融合が分化していく過程だと柊馬は見る。前句付が題詠に変化したとき、前句付における「飛躍」「うがち」「省略」が弱くなった。題詠は主として問答体の書き方として川柳の句会に定着する。川柳を近代化した井上剣花坊と阪井久良伎は前句付の書き方を引き継いでいたが、その後の近代川柳が「題詠」より「創作」(自己表出としての「雑詠」「自由詠」)を重視するようになると、川柳味は薄められていった。
〈川柳味と創作〉では次のように述べられている。

「近代川柳の佳作の多くは、題詠から離れた創作として書かれたが、大方のレベルは自己表出と共感性の合致する位相にとどまって飽和、袋小路の内閉性を自ら好む意識が、川柳味の棚上げ状態を続けさせた」
「もちろん近代川柳の優れた句は自己表出を上位に据えつつ、川柳的な書き方を採っていた。うがちによる戯画化や暗喩などに川柳味が活きて、省略と収斂が溶け合い、それらの句は、退屈な川柳への批判を宿していた」

ところで、「退屈な川柳」とは何か。

「ちなみに、有季の俳句の日常詠にくらべて、川柳の日常詠は圧倒的に退屈なのだ。有季の俳句は、主意が退屈であれ、こころに触れない句であっても、主意と、季語や景との関わりが感じられる。主意が言葉となり一句となる往還が立ち上がるのだが、川柳の方は、日常性の断片があるだけなのだ。皮肉な見方をすれば、近代川柳では日常の断片を切り取ることにうがちが感じられ、五七五への納め方に省略が働いたのだ」

竹中宏は「翔臨」の後記「地水火風」で「俳句にもっとも近くもっとも遠い川柳に近年おこりつつある新しい波の意味あいと問題点を、今号の川柳作家石田柊馬氏の明確な分析は教えてくれる」と述べたうえで、上記の部分について「こちら(俳人)の胸にもっともつき刺さるはず。わたくしたちがなぜのんびり形式によりかかっていられるか、そのわけを、辛辣に指摘されているのだから」と感想をもらしている。

古川柳では一体化していた「うがち」と「省略」は、川柳の近代化のなかで弱体化し分化する。省略は単に表現技術と受け止められ、「詩性」の獲得が今日的な川柳、発展的な革新と意識され、省略による川柳味は顧みられなくなったという。
〈川柳味と詩性〉では次のように述べられている。

「共感性と問答体の書き方が詩性に適って、うがちの視線が自己客体化になり、喩の多様に向かった中で川柳的な省略はほとんど見られなくなった。私性と詩性が溶け合うところに表出の手応えがあったのだ。作中主体、句に書かれる作者の存在感が喩の追求を重んじさせると、川柳的な省略は表現を軽くすると感じられるのであった」

詩性川柳は「象徴語への依存」と「暗喩の追求」を専らとした。
近代川柳を超克する道として柊馬が重視するのは、「省略」である。「五七五に納める技術」と思われている「省略」を川柳味へ取り戻そうとする川柳人として、柊馬は樋口由紀子と筒井祥文の2人を挙げている。

字幕には「魚の臭いのする両手」     樋口由紀子
一から百を数えるまではカレー味

「樋口由紀子は省略の名手である。川柳そのものを求める意識が強いのである。この句(注・1句目)、強烈な省略が、言葉や意味の発信者と受信者のシチュエーションを創造させた。省略の強さは読者へ預けるちからの強さになる」

そういえば、「バックストローク」33号の「アクア・ノーツを読む」で柊馬は次のように述べていた。

「渡辺の川柳は親しそうな表情を見せているが、よほどそそっかしい読者でない限り、読者の参入を許さない孤立感を持っている。樋口の川柳は省略の厳しさで、一見読者が参入し難い感があるが、省略された量が多いということ自体、川柳では読者の参入、読者の裁量を多分に受け入れて、一句の完成は読者とともに、という川柳なのだ」

隆夫の川柳は読者の参加を許さず、樋口の川柳が読者参加型、という指摘は興味深い。省略と読者の読みへの参加(創造的読み)とはつながっている。

良いことがあってベンツは裏返る   筒井祥文

「筒井は、表現する事象にあまり拘らない川柳人であり、句会上手に多いタイプである」「『ベンツ』を課題にすれば一回りして見たあれこれは、それぞれの一句として何句も書けるのだ。しかし、世俗へ幾分か還ったところで、はじめて『ベンツ』という言葉が問いとなって、作者に問答がはじまる」

最後に柊馬は次のように言う。「ブリューゲルの有名な絵『農家の婚礼』は、婚礼としながら、花婿の姿が描かれていない」
描かれていない花婿は読者の想像に預けられている。それを読むのが読者の創造的読みであろう。

川柳における「詩性」をどう評価するかは柊馬史観のキイ・ポイントである。
「省略」という書き方を川柳味の主要なものと見るかどうか。また、「省略」と「飛躍」の差はあるのだろうか。ゆっくり考えてみたいと思った。

2011年7月1日金曜日

たむらちせい句集『菫歌』について

古代人にとって自然は人間と同じように言葉を発するものであった。たとえば『風土記』には「草木言問ひしとき…」という表現が出てくる。
現在でも草木や水の流れが言葉を語っているように感じられる土地があるとすれば、それは飛鳥や大和であろう。『万葉集』の故地である飛鳥を訪れると、風にそよぐ草がまるで人語を語っているかのように感じられる。
たむらちせいの第6句集『菫歌』(きんか)の「あとがき」に曰く、「古代人の高感度の聴力では、草や木の言葉を聞きとめたという。その中でも菫の発する言葉がもっともわかりやすかったそうだ。菫の歌う声も感じることができたであろう」
従ってこの句集のタイトルは「菫が歌う」という意味で、菫が主語であって、星菫派の抒情ではない。
「あとがき」には次のようにも書かれている。「前句集『雨飾』では〈三輪山や菫の言葉聞きもらす〉と詠じた。大和の山の辺の道を歩き、三輪山に遊んだとき、万葉人に還ったような気分になったのだった」

春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける  山部赤人
大大和野のまぐはひに菫敷き      たむらちせい

大和の草木の言問いと土佐の草木の言問いとはおのずから差異があるだろう。私たちは古代人そのものではありえないから、関西の風土を通じて聞き取るアニミズムのあり方と土佐の風土を通じて聞き取るアニミズムのあり方との間にはズレあって当然だろう。『菫歌』は作者の通過してきた時の流れを感じさせて、とてもおもしろい句読体験をもたらす句集である。

肉食らふ私と桜が鏡裡ヒトラー忌
鏡より翔ちたるは揚羽か姉か
時雨るると鏡の奥を濡れてきし
夢の端鶯笛の鳴つてゐし

「鏡」と「夢」と「蝶」。
「鏡」「鏡像」の句はたくさん収録されている。その中で「ヒトラー忌」の句が最も印象的であった。鏡の中に「肉食らふ私」と「桜」が映っている。忌日にもいろいろあるが、「ヒトラー忌」というのはインパクトがある。

芹洗ふ長女賢し仁淀川
カマキリの貌よく見れば乃木大将
少し考へて藁塚を離れけり
鶴の絵を百枚描きて描き足らぬ
糸巻に身をくねらせて春の息子
少年の閨の荒びや蝉丸忌
にんにくや土佐鬼国に我等棲み

何もかも風土に還元する読み方は好まないが、背景に土佐の風土があることは無視できない。セレクション柳人『古谷恭一集』(邑書林)の解説で私は次のように書いたことがある。

〈 土佐は古来、佐渡や隠岐と同じように都から流人が配流されてくる「遠流の国」であった。源平合戦の頃には多数の落武者が逃げのびてきたともいわれる。「遠流の国」はまた「鬼の国」でもあって、土佐人には中央と周縁というせめぎあいの意識が強いようだ。「真葛原分けて都を探しにゆく」という、土佐の俳人・たむらちせいの句の心情は、恭一の作品世界の根底にも流れているだろう 〉

たむらちせいの名を私が知ったのは、平成16年5月に高知で開催された「川柳木馬創立25周年記念大会」のときであった。この大会には、たむらちせい・味元昭次両氏が参加していたのに、お話する機会がなかったのは残念である。

山椒魚になりたる夢のあとの貌
千年後この水仙にまみえむか
火星より来て億年の曼珠沙華
流され皇子みまかりし地の鈴虫草
来世はおほむらさきとなるきつと

これらの句ではアニミズムというより荘子の斉物論に近くなる。胡蝶の夢。母も家族も友人も、生者死者の区別なく、夢の中ではみな生きている。時空の区別もなく、対象は千年というタイムスケールでとらえられている。老境と言うよりむしろ艶なる境地のように思えるのだ。

手に触れて女体のごとし秋の瀧
白菜割ってとつぜん妻若し
少年の日は鎌鼬居りにけり

2011年6月25日土曜日

雑俳の話―太田久佐太郎と現代冠句

今回は時評ではなくて、雑俳の話をしてみたい。
雑俳の解説書を読むと、前句付をルーツとする川柳は雑俳の一種に分類されている。特に雑俳のうちでも笠付(冠句)は川柳と関係が深い。
川柳作品のうち冠句的手法を用いている作品から話を始めよう。川上三太郎の連作「雨ぞ降る」は川柳人によく知られている。

雨ぞ降る音なし香なし海五月   川上三太郎
雨ぞ降る地を噴きいでて桃咲ける
雨ぞ降るわが子の宿痾言ふなかれ
雨ぞ降る渋谷新宿孤独あり
雨ぞ降るリュックの米をこぼし行く
雨ぞ降る地を傷つけて電車混む
雨ぞ降るけものの如きすとらいき

上五がすべて「雨ぞ降る」で始まっていて、それに対する十二音の展開・ヴァリエーションによってひとつの作品世界を作り上げている。「雨ぞ降る」を冠句における冠(笠題)と同じように捉えることができる。屹立する一句としては「雨ぞ降る渋谷新宿孤独あり」が有名であり、他の句はそれほど印象に残らない。三太郎は「河童満月」「孤独地蔵」「せいぢか」「一匹狼」「恐山」などの連作を作っているが、「孤独地蔵」の場合も上五がすべて同じ、「一匹狼」「恐山」では上五以外に用いる句も混在している。「せいぢか」の場合は上五に用いているが、「せいぢか」が四音なので「せいぢかの」「せいじかに」「せいじかは」というかたちになっている。笠付の分類で言えば「伊勢笠付」に相当する方法である。
冠句と川柳とは出来た作品からだけでは区別することができない。実際、一人の作者が冠句と川柳を並行して作っていることもあるらしい。

筑紫磐井著『近代定型の論理』(邑書林)の第二部「近代雑俳の論理」では、近代雑俳として狂俳・冠句・淡路雑俳・土佐狂句・肥後狂句・薩摩狂句などが取り上げられているが、私が特に興味をもつのは冠句(正風冠句)である。
笠付(冠句)の創始者は京都の堀内雲鼓で、元禄6年にはじめて興行されたという。昭和9年に雲鼓の墓碑が発見され、上徳寺(京都市富小路五条下る)に「日のめぐみうれしからずや夏木立」の句碑が建立された。頴原退蔵の銘文に曰く「冠句ハ俳諧ノ大衆性ヲ最モ要約セル文芸タリ。之ヲ世ニ汎クセルハ雲鼓翁ノ力ニ拠ル。其ノ編セル夏木立ハ実ニ冠句集ノ嚆矢トス。今ヤ冠句ガ大衆文芸トシテ新生面ヲ拓カントスルニ際シ久佐太郎氏等相謀ツテ該集巻頭ノ一句ヲ石ニ勒シ以テ翁ノ業績ヲ顕揚セントス」
太田久佐太郎(明治24年~昭和30年)は神戸に生まれ、10代から川柳に親しんでいたというが、「講談倶楽部」の冠句欄の選を担当するようになったのがきっかけで、近代冠句史に重要な役割を果たすようになった。講談社は創立後「読者文芸欄」を設け、冠句の大衆性に注目して種目の中に取り入れたようである。久佐太郎の回想によるとこんなやりとりであった。

ある時、城月さんがヒョイと頭を擡げて、「君一つ、冠句の選をして見てくれませんか」と云った。私は「へぇ。」と云ったまま俄かには受け兼ねて眼をパチクリさせてゐた。これまで冠句は自分の選であったが社務多忙でどうも落着いて選が出来ない、それでは却って熱心な投稿家諸君に相済まぬわけだから、君代ってやってくれまいかという話。私がまだ煮え切らぬ顔をしてゐるので、察しのいい氏は、「川柳をやったことがあるでせう、その意気でいいんだ」と極めて都合のいいヒントを与えてくれた。(「冠句変遷史」、『現代冠句大概』所収)

城月とは「講談倶楽部」の編集主任・淵田忠良。久佐太郎は東京へ出てくる以前、神戸の地元新聞に投句して、ひとかどの川柳家を気取っていたようだ。最初、冠句を川柳より一段下に見ていた久佐太郎は選をするうちに、川柳でも狂句でも俳句でもない冠句それ自身の世界がなければならないことに気づいてゆく。
彼は「講談倶楽部」のほか「面白倶楽部」「キング」「読売新聞」などの選者をつとめ、昭和2年正風冠句研究誌「文芸塔」を創刊した。『現代冠句大概』(昭和4年)の「扉の言葉」に曰く「冠句は今や立派な十七字詩として俳句川柳と共に、三派鼎立の姿で確固たる芸術的地歩を占めようとしてゐる。新時代に台頭せる冠句芸術を味到せんものは、速かにこの扉を開くべし」
次に挙げるのが久佐太郎の作品である。

宝石箱  いちどに春がこぼれ出る    久佐太郎
風立ちぬ 易々となびくを葦といふ
風吹きぬ かげろう日記火蛾落つ音
或る男  村から消えて秋が来る
羊飼い  まさか俺が狼とは

久佐太郎は冠句の題は題詠といっても雑詠と同じだと考えていたらしい。「題詠的創作吟」なのだという。久佐太郎にいたって冠句は近代文学の理念に近づいたものとなっている。
冠句の近代化。筑紫磐井の『近代定型の論理』から久佐太郎以外の作品を紹介しよう。

秋の道  ちちははの樹が見当たらず    麗水
耳澄ます 否定の中に軍靴鳴る       竹男
砂灼ける 悪女となりて滅びんか      寿子
風光る  すでに少女の瞳が解禁     八重子
回想記  振り向けば皆ユダヤの貌     鬼童
窓の海  挑戦の眼へ椅子すすめ      外郎

これらの作者の中には川柳人も混じっているかも知れない。引用したのは文学性のある冠句であって、冠句がすべてこのような詩的飛躍感のある作品というわけではない。ベースにあるのがおびただしい大衆的作品であることは川柳の場合と同じである。

最後に「豆川柳」というものを紹介しておこう。
五七五よりも短い句として『武玉川』の短句(七七句)はよく知られているが、それよりもさらに短い詩形があるとしたら、世界の最短詩ということになるだろうか。
上越地方(高田)の「豆川柳」と呼ばれているものは、七五句である。冠句の題を省略した形にも見えるが、冠句ではなくて七五の独立句だとされている。昭和24年、「柏崎新聞」に発見・報告された。

堅すぎて身がかたまらぬ
下戸の知らない水貰ふ
何の話にも江戸がつく
ええ雨だのう金がふる

2011年6月17日金曜日

白石維想楼小論

この週刊「川柳時評」を毎週金曜日更新にしたのは、この曜日が穴場だと思ったからだが、最近、「詩客」をはじめ金曜日更新のサイトが増え、半ば嬉しく半ば困ったような気分である。「ウラハイ」(「週刊俳句」の裏ヴァージョン)の「金曜日の川柳」もそのひとつ。樋口由紀子が毎週一句を取り上げ、コメントを書いている。相子智恵の「月曜日の一句」と並んで楽しみなシリーズで、俳人に川柳作品を紹介する格好の窓口であろう。
その第1回(5月20日)で樋口が紹介したのが白石維想楼の「人間を取ればおしゃれな地球なり」という句である。今回は維想楼と新興川柳について少し論じてみたい。
まず『新興川柳選集』(一叩人編・たいまつ社、1978年)から、維想楼の作品を挙げておく。

口先の巨人畳の上で死に
ついてくる犬にもあてがないらしい
銃口の迫まるが如く冬が来る
病身な俺は地球の荷物なり
人間を取ればおしゃれな地球なり
いけにへを乗せて地球は空を行く
太陽に追ひつめられて寝ころがり
吊れもせぬ棚へ虚勢の釘を打ち
何の木にも居つかず小鳥木に棲ふ

大正10年から大正15年ごろの作品である。維想楼は井上剣花坊に師事、大正9年から「大正川柳」の編集人をつとめ、剣花坊の片腕として柳尊寺を支えた。
維想楼は「大正川柳」119号に「眼覚めたる人魚の笑ひ、新興川柳民衆芸術論」を執筆していて、前掲の『新興川柳選集』にも収録されている。
維想楼は繰り返されてきた「川柳民衆芸術論」の誤謬を指摘して、自身の考えを述べている。維想楼によれば、「川柳を民衆芸術であるという人」の中には、古川柳が純然たる町人の手で作られたから民衆芸術であるという人と、川柳の用語が通俗的だから民衆芸術であるという人とがある。けれども、町人の中にも有閑(富裕)町人階級と無産町人階級とがあったので、古川柳(前句付)は発句と同様に有閑町人階級(通人)によって作られたと維想楼は見る。それを真に民衆の生活を基点とした「民衆芸術」にし、「民衆芸術としての精神」を打ちたてなければならぬというのが維想楼の主張のようだ(この点、少しぼかして書いてあり、論旨がはっきりしない)。「眼覚めたる人魚の笑ひ」という前衛的なタイトルに比べて、現在の目から見て内容がやや平凡なのが残念であるが、「民衆芸術」とか「大衆芸術」とかいうキイワードは現在でも川柳人にとって躓きの石であることに変りはない。
気になるのは、掲出句に見られる暗さ、一種のペシミズムについてである。「人間を取ればおしゃれな地球なり」の裏側には、「病身な俺は地球の荷物なり」という慨嘆があることが分かる。地球全体をポエジーの対象としてとらえるやり方は新興川柳にしばしば見られるところだが、「地球の荷物なり」の感傷性と「おしゃれな地球なり」との間には大きな飛躍がある。維想楼はどのようにしてこの飛躍を成し遂げたのだろうか。

新興川柳期の維想楼についてのまとまった評論に、田中五呂八の「白石維想楼論」(『新興川柳論集』昭和3年、所収)がある。五呂八はこんなふうに述べている。

「自分の家を持たぬ詩人は詩人ではない。芸術は自己表現だという言葉は、言葉として既に常識になっているが、見渡したところ文壇だって詩壇だって、独自の思想と独個の感情を鮮明に把握する一元的な芸術家などは、そんなにゴロゴロ転っているものではない。況や自己の生命が、どんな色彩でどんな生活帯に根を下ろしているかも意識せずに、地球の表面をおどけ廻る既成川柳家に、高い意味の芸術的な個性など、薬にしたいほども無かったのは、天から雨の降るほど当然過ぎる当然である」

「地球の表面をおどけ廻る既成川柳家」とは辛辣であるが、この「地球」という表現自体が新興川柳期のモードでもあった。白石維想楼こそ一元的芸術家・個性的詩人のひとりであると五呂八は言う。五呂八によれば、維想楼は「悲観主義の範疇に置かれるべき作家」である。
「氏の魂は常にすすり泣いている。だが、そのすすり泣きの生活層は、単純なる諦めに根を下しているものではなくして、むしろ、生きる事それ自らを否定するような心持ちの方が熾烈であるだけ、そこにハッキリした思想の余裕を見せている。されば氏の感傷性は、俗に言うロマンチックな夢の嘆きではなくして、矢張川柳家らしい智的な統一体を持ち、その統一が自らを背負い切れなくなった時には、ナマのままで無責任に絶叫して仕舞うほどの情熱を常に蔵している」

「病身な俺」の句は「小主観の詠嘆」「自嘲的」「自己憐憫」であると五呂八はその弱点を指摘している。そのような感傷的傾向の句として、五呂八は次のような作品を挙げている。

床の中まで淋しさが待っている
或時は理智の遣り場に困るなり
誹謗する時は驚くほど多弁
一本の指が罵倒のありったけ
耳底に俺だけの知る鐘が鳴る

これらの「自嘲」「感傷」「苦悩」「自己哀憐」の句に対して『自我経』以後の維想楼の作品は一転機を画しているという。『自我経』というタイトルから、維想楼はスティルナーのアナーキズムの影響下にあったのだろう。

人間を取ればおしゃれな地球なり
乳房から母の綺麗を吸っている
太陽に追いつめられて寝ころがり
ペリウドの一点を蟻湧いて出る
白いきればかり洗って疲れてる

理智は感傷性をどのように押さえるのであろうか。ナマの感傷性は文芸とは言えず、川柳精神とも背反する。それは思わず発する叫びのようなものである。それがいかに切実であろうと、叫びだけでは表現とは言えない。「病身な俺は地球の荷物なり」というルサンチマンと自虐から「人間を取ればおしゃれな地球なり」への高まりの中にこそ、白石維想楼の文学的達成はあるだろう。

昭和37年以後、維想楼は柳号を白石朝太郎に統一した。川柳人・白石朝太郎の軌跡はよく知られている。大野風柳編『白石朝太郎の川柳と名言』(新葉館ブックス)にもある程度書かれている。しかし、白石維想楼=朝太郎の全貌が明らかになるのはまだこれからのことであり、とりわけ私が愛惜するのは新興川柳期の維想楼作品なのである。

2011年6月10日金曜日

大橋麻衣子『JOKER』―歌集の批評会に行きました

現代川柳について考える際に現代短歌から学ぶことは多い。私自身にとっても、2000年代前半は短歌の批評会や歌会に何回か参加する機会があって、そこからさまざまな刺激を受けることがあった。インターネットの世界でも短歌が一番進んでいて、短歌結社や個々の歌人のホームページを「電脳短歌イエローページ」から検索することができた。最近でこそ「週刊俳句」というウェブマガジンができて、なぜ同じことが短歌でできないのかという声も聞かれるが、以前は明らかに短歌が先行していたのである。
今回は短歌について二、三の話題を語ってみたい。

塚本邦雄が亡くなったのは2005年6月9日であった。今年で6年になり、6月12日には東京の日本出版クラブ会館で「神變忌7回忌シンポジウム」が開催される。司会・魚村晋太郎、パネリスト・藤原龍一郎、堂園昌彦、野口あや子。関西にいるとこういうシンポジウムに行けないのが残念である。

さて、5月28日(土)に大橋麻衣子歌集『JOKER』の批評会に参加した。大橋麻衣子は「短歌人」に所属。第一歌集『シャウト』(2004年)。『JOKER』(青磁社)は第二歌集である。

水面に金魚ぷっかり浮き上がる夫婦が愛と言い張るたびに    大橋麻衣子
振り向けど壁があるのみ鏡面のわが背後には蝶が群れ飛ぶ
倖田來未くずれがホストくずれ連れファミレスで子らを威嚇している
ともにゆく選択肢は与えてくれず去るつもりもなく遠くに牡鹿

批評会の司会は斎藤典子、パネラーは彦坂美喜子・川本浩美。発起人・藤原龍一郎・永田淳も出席。彦坂美喜子は歌集全体の表現の特徴について次のようにまとめている(当日のレジュメから)。

〈「私小説的物語」。近代における事実を重んじ虚飾を否定する自然主義文学とは違う。物語(虚構)を前提として、表現が事実をつくる。事実を書くのではなく、書かれたものが事実を作るということ。その装置として、登場人物、内面表白形式が使われる〉

この歌集を「物語という装置」と位置付けたことが、この批評会の方向性を決定した。前回の『シャウト』の批評会では、現実・事実に還元した読み方が行われ、現実に不満をもつ主婦のはけ口として受け止められる傾向が強かったから、彦坂の規定はいっそう鮮やかだった。短歌が「私の思いの表現」だと考えている人が、書かれていることが事実だと思って立腹するとすれば、それは作品として成功していることになる。

パネラーの話を聞きながら、『JOKER』は「大橋麻衣子」を「作中主体」とする物語なのだろうと思った。
歌物語の場合、詞書があって和歌がある。『JOKER』の場合、書かれていない詞書に当たるのが世間の常識である。ここには「琴瑟相和す夫婦」や「良妻賢母主義」という社会常識に反抗して自己に忠実に生きていこうとする「作中主体」がいる。高村光太郎の『智恵子抄』が光太郎と智恵子の愛の物語と読まれているのとは方向性は違うがこれもひとつの物語なのだろう。ただ「愛を語る夫婦」というような世間常識が現実的にはとうに崩壊しているのだとしたら、それに対するアンチという書き方がいつまで有効なのだろうという疑問も感じてしまう。
これは「大きな物語」ではなくて「小さな物語」である。だから、フェミニズムなどの「大きな物語」とは無縁である。
彦坂の問題提起は「物語という装置の使い方」にあるから「物語を殺す」とか「反物語」なども視野に入っているだろう。「反物語」まで行ったときにどのような短歌表現が生れるのか、興味がある。
藤原龍一郎は、塚本の「馬を洗はば…」という歌では誰も作者が本当に馬を洗っているとは思わないのに、大橋麻衣子に対しては現実に還元して読まれることに疑問を呈していた。
『JOKER』では最初から現実と混同させるような書き方が選択されている。
川柳で似たような例を挙げれば時実新子の書き方になるだろうか。
書かれていることが真実だと読者は思っていたのに、テレビ番組の「徹子の部屋」で「今までの作品の中の私は作り物で、本当の私は夫思いのよき家庭人」と語ったとき、川柳人の多くは裏切られたような気がしたらしい。
大橋麻衣子は本来、技巧の持ち主だという。

押え込む感情の底に森はあり青光りする象と出くわす   大橋麻衣子

この歌を彦坂は前衛短歌的レトリックだという。「象」は脳内風景であり、このような書き方をいまの若い歌人はしない。たとえば、笹井宏之のレトリックとは違う。

もう一人のパネラー・川本浩美は当日体調が悪い様子で気の毒だったが、発表の責務を果たされた。レジュメは「オオハシ、大橋を撃て!」というタイトルで、

家族という「関係」―疑わねばならぬもの
社会、他者への視線―悪意の類型化を越えうるか
風景と自己意識―テーマ性の明確さと危うさ
現実と「モノ」、「コト」―不透明さの可能性

について話された。

『JOKER』とは直接関係はないのだけれど、当日、笹井宏之の歌集も鞄に入れて持っていた。笹井が第4回歌葉新人賞を受賞した「短歌ヴァーサス」10号や「新彗星」3号の「追悼・笹井宏之」もたまたま手元にある。今でも気になっているのは江田浩司が「万来舎・短歌の庫」に書いた〈笹井宏之『ひとさらい』を読む〉(2009年1月19日)である。江田浩司はこんなふうに書いていた。

「確かに笹井短歌の特徴には、意外性のある言葉同士の融合による言葉の意味に対する脱コード化の魅力がある。また笹井は短歌という定型詩の内部で脱コード化を行うことの可能性と限界に無頓着な側面を併せ持っている。つまり、笹井の創作は意味の脱コード化が短歌の詩型の機能と相乗的に効果を表す場合と、短歌が意味の脱コード化を行うトポスにすぎない場合の二種類に分けることができる。そして後者の例がこの歌集にはかなり見られる」

こういう指摘は現代川柳にとっても他人事ではないだろう。
そして、江田の指摘はその後深められることもなく、笹井の突然の死によって笹井短歌の検証が実質的に中断してしまったように思えるのは残念な気がする。

二十日まえ茜野原を吹いていた風の兄さん 風の母さん       笹井宏之
「雨だねぇ こんでんえいねんしざいほう何年だったか思い出せそう?」
嫌われた理由が今も分からずに泣いている満月の彫刻師
それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした
野菜売るおばさんが「意味いらんかねぇ、いらんよねぇ」と畑へ帰る
「ねえ、気づいたら暗喩ばかりの中庭でなわとびをとびつづけているの」

短歌誌「ES廻風」第21号を送っていただいた。
『JOKER』批評会の後の懇親会で小中英之の全歌集が出版されるという話を聞いたが、「ES」にもその予告が掲載されている。今秋9月刊行予定、砂子屋書房から。もう没後10年が経過したのである。第一歌集『わがからんどりえ』から。

黄昏にふるるがごとく鱗翅目ただよひゆけり死は近からむ     小中英之
月射せばすすきみみづく薄光りほほゑみのみとなりゆく世界
人形遣ひたりしむかしの黒衣なほいかに過ぎしもわれにふさはし
身辺をととのへゆかな春なれば手紙ひとたば草上に燃す
酔へば眼にゆらぐかずかずかぎりなしあなベレニケの髪もゆらぐよ

2011年6月3日金曜日

田口麦彦は発信する

田口麦彦の新著『アート川柳への誘い』(飯塚書店)が発行された。
川柳×アート×コラムのコラボレーションである。
川柳人にとって活字だけの句集も意味はあるが、一般読者にとっては写真や絵入りの本の方が親しみやすい。田口の前著『フォト川柳への誘い』は川柳×写真×コラムの「フォト川柳」だった。今回はさらに広げて絵画・写真・切り絵・書などを含めた「アート川柳」となっている。
本書には52篇が収録されているが、そのうちの3篇を紹介しよう。

いわしは天へ 金子みすゞにつづく道

清水寺の襖絵「大漁」と取り合わせている。中島潔という独学の画家である。画壇には属さず、清水寺の襖絵46枚を5年間かかって完成させた。どこかで見たことあるように思ったが、昨年5月にNHKの「クローズアップ現代」で取り上げられたという。イワシの大群の中に一人立つ少女は金子みすゞでもあり、画家自身でもある。印象的な絵だ。

昭和史のかなたにハート置き忘れ

渡辺隆夫句集『魚命魚辞』を紹介している。隆夫の句集はこの時評でも取り上げたことがある。田口が引用しているのは次のような句。

 魚命魚辞 また勅語かと朕びびる
 あのころは若く明るい杉葉子
 派遣切りプツリ夜桜お七にも
 テポドンに紅の豚ぶちかまし

田口がこれらの句に反応したことは「昭和」というキーワードによって理解できる。世代的なものもあるだろうが、たぶん二人とも「昭和」とは何だったのかと問いかけているのだろう。

575この水深がぼくに合う

『ハンセン病文学全集』を紹介している。「ハンセン病文学全集」全10巻(皓星社)は2010年7月に刊行された「俳句・川柳」編によって完結した。1980年代半ばに企画され、2002年に刊行が始まってからの長い道のりである。「俳句・川柳」編では田口麦彦が川柳の選と解説を担当した。収録された約4000句は1940年から2003年までに発表された作品群。
「週刊川柳時評」でも昨年の10大ニュースのひとつとして取り上げたことがある。
田口麦彦の著作の中でも重要な仕事のひとつである。

 療園の舗装路焼場へも通じもういいかい骨になってもまあだだよ  中山秋夫
                 邑久光明園(2007年没)
 陣痛の呻きも知らぬ病葉よ  
 波キララ 私もキララ 死もキララ   辻村みつ子 長島愛生園 句集『海鳴り』

田口麦彦は熊本県川柳協会の会長で、「川柳噴煙吟社」副主幹。
現在80歳であるが、川柳とそれに関連したコラムやエッセイ、評論など、これまで約30冊の出版物を出している。そのうちのいくつかを紹介すると、事典形式のアンソロジーとして普及しているのは、三省堂から出ている『現代川柳必携』『現代川柳鑑賞事典』『現代女流川柳鑑賞事典』であろう。『必携』は現代川柳の秀句7000句をテーマ別に分類して収録したもの。『鑑賞事典』は現代川柳人250名の鑑賞一句に各人の代表句10句を添える。『女流川柳鑑賞事典』は女流に特化したものである。

『穴埋め川柳練習帳』(飯塚書店)は穴埋めによって川柳に親しめるようにしている。
川柳入門書として便利なので、私も高校生に川柳を教える際に利用している。次に挙げるのはその一部で、( )に漢字一字が入る(解答は最後に掲載しておく)。

① ( )は瞬間ほうれん草の茹でかげん    畑美樹
② 盆踊り姉の( )( )を踏み続け      峯裕見子
③ 想い出のひと多くみな( )のなか     石曽根民郎
④ 飛行機の昇る角度は( )に似る      時実新子
⑤ 都会の夜 セロリは母の( )に似たり   橘高薫風
⑥ ズンタズンタと( )が戦争から帰る    墨作二郎
⑦ ( )一つ写しても小津安二郎       高橋散二
⑧ ( )を反らすたびにあやめの咲きにけり  大西泰世
⑨ 女さまざま猫の( )を皆持てり      麻生葭乃
⑩ 滅ぶもの美しければ( )へ出る      村井見也子

『地球を読む―川柳的発想のススメ』(飯塚書店)は、地球が直面する諸問題を「川柳」の視点から問いかける。その中に次の一句がある。

津波の町の揃ふ命日

現代の作品ではない。寛延3年(1750年)、慶紀逸によって編集された『武玉川』初篇の短句(七七句)である。「自然と人間とのかかわりを、この一句ほど客観的にとらえたフレーズはないのではないか」と田口は言う。本書の発行は2008年。東日本大震災より以前に発行されている。

あと、私が特に利用価値が高いと思ったのは、『時事川柳入門』(飯塚書店)である。
「いまを写す―現在性」「意見を言う―批評性」「歴史に残す―記録性」の三点から時事川柳をとらえている。本書の刊行は1995年だから、湾岸戦争、阪神大震災や地下鉄サリン事件などが例句として取り上げられている。

書物を通じて一般読書界に川柳を発信しようという志向をもった川柳人は、川柳界では少数派である。さまざまな切り口で川柳を発信し続ける田口麦彦の存在は貴重である。

穴埋め川柳解答
①愛 ②尻尾 ③月 ④恋 ⑤香 ⑥鴨 ⑦雲 ⑧身 ⑨頭 ⑩沖

2011年5月27日金曜日

詩性と大衆性

最初に川柳大会のご案内を二つ。
6月12日(日)に「全日本川柳2011仙台大会」が開催される。震災で開催があやぶまれるなか、予定通り実施されるという。主催は全日本川柳協会。
「川柳ステーション2011」は6月4日(土)開催。青森の「おかじょうき川柳社」創立60年記念大会。

先週書いたことを補足して「杜人」の物故川柳人に触れておく。大友逸星が菊池夜史郎について書いている(「杜人」187号)。昭和27年、「杜人」同人。古武士のような風貌のなかにある諦観的なものを言動の端々に感じさせる人だったという。「川柳で日記を書く。自己凝視、自己顕示に一生を賭ける」という作句姿勢。昭和46年3月、石巻の山林で自死。

透明の海へくらげの溶けんとす    菊池夜史郎
海の色くらげ溶けんとして溶けず

さて、青森から出ている川柳誌に「触光」(編集発行人・野沢省悟)がある。2009年6月には大友逸星川柳人生60年、高田寄生木川柳人生50年の記念大会が開催された。そして、今年、高田寄生木(たかだ・やどりぎ)賞が新設され、「触光」22号に発表されている。各選者の特選句を紹介する。このうち宮本めぐみの作品が「第一回高田寄生木賞」を受賞している。

樋口由紀子選  林檎はトマトとの関係性を否定する 木下草風
木本朱夏選   焼け跡の次のページにいる蛍    悠とし子
渡辺隆夫選   スーパーの屋根に三割引の月    小暮健一
梅崎流青選   水洗いしれば消えゆくほどの罪   嶋澤喜八郎
高田寄生木選  献体を決めて夕日の中にいる    宮本めぐみ

「川柳塔」5月号は「西尾栞・17回忌特集」。
「栞この一句」のコーナーで、小島蘭幸が次の句を取り上げている。

自我没却という泳ぎ方である    西尾栞

平成2年「第8回夜市川柳大会」の課題吟「泳ぐ」の天位の作品だという。西尾栞は麻生路郎に師事、「川柳塔」主幹をつとめた。次に挙げるような作品が彼の代表作であるが、「自我没却」のような句も作っていることをはじめて知った。

あの晩の風邪よと女嬉しそう   西尾栞
働いた色で夕陽も沈むなり
人恋し人煩わし波の音

川柳誌「バックストローク」34号から。本誌にも伝統的な書き方の句はけっこう多い。

コレクションのひとつ大粒なる泪     広瀬ちえみ
立ちこめる沼気いずれは浄閑寺      山田ゆみ葉

広瀬ちえみの作品は文句なく大衆性をもっている。
ゆみ葉の句は、これぞ古川柳の味である。花又花酔(はなまた・かすい)の「生れては苦界死しては浄閑寺」を踏まえている。

めでたくも飴一粒に収斂す    筒井祥文
抽斗にねむる鉱物はいやらしい  湊圭史

「めでたくも」「いやらしい」の感情語が使われている。
筒井の句。「飴一粒」に収斂する事態がある。それがどのような事態であるかはひとまず置くとしても、「めでたくも」は反語や皮肉とも受け取れる。私はこれを人間の行為はしょせん飴一粒に収斂する程度のものだという皮肉と読むが、飴一粒に収まってめでたいことだと肯定的に読む読者があってかまわないと思う。読みの両義性の問題である。
一方、湊の句について、「いやらしい」は反語ではなく、そのままの意味に受け取れる。

京都の川柳誌「ふらすこてん」(発行人・筒井祥文)15号から、井上一筒の作品をご紹介。

農協の裏の抜糸から戻る         井上一筒
御手付き中﨟ジオラマを掠める
カーナビの隅紅巾の乱終わる
雅楽頭殿めし粒が付いてます

以上の句では、時間と場所が齟齬するような二者があえて取り合わせられている。現代絵画の場合でも一つの画面に時空の異なるものが描かれることは珍しくない。川柳で同じことをやっていけないはずはない。「御手付き中臈」が何でジオラマを掠め取ったりするのだろうと悩まずに、漫画として受け取ればいいようだ。「めし粒が付いてます」は伝統的川柳の発想だが、「雅楽頭」のことにして新鮮味を出している。

高知の「川柳木馬」128号。
同人作品と前号批評、高知県短詩型文学賞受賞作品などで誌面構成されている。同大賞作品の山下和代(「木馬」同人)「かじられた林檎」から何句か紹介する。

きっぱりのできぬ兎の耳を切る     山下和代
かじられた林檎こっそり席に着く
ルート2をひらいて祇園祭かな
耳元のバイリンガルの蚊をたたく

内田万貴が「挑発する句語たち」で書いているように、昨年2010年は「第2回木馬川柳大会」や『超新撰21』への清水かおりの参加など特記すべきできごとがあった。今年になってもその勢いは続き、清水かおりは短歌誌「井泉」39号に巻頭・招待作品を発表している。

それはもう心音のないアルタイル    清水かおり
梅園の返書をなめている姉妹
とめどなく鳥 荒事は木のうしろ
爪を剪るとき水売りの記憶

「川柳木馬ぐるーぷ」は高知の地方集団にとどまらず、「作家群像」など、これまで全国の川柳人に対して発信してきたのが魅力であった。それにしては今号の木馬誌面はややグループ内で閉じている印象がある。よりオープンな発信を期待したい。

今週は川柳諸誌をあれこれ紹介してみた。
川柳は(俳句のルーツである俳諧も)庶民文芸として生成・発展してきたから、「大衆性」「庶民性」は切り離せないものであり、「共感性」「普遍性」がベースにある。詩性と大衆性の間で揺れ動きながら進んでいくのが川柳の宿命なのだろう。
過渡の時代にふさわしく、川柳もまた混沌としている。

2011年5月20日金曜日

大友逸星と「川柳杜人」の歩み

4月に仙台の川柳人・大友逸星がなくなった。
4月9日のブログでも触れた「杜人」初句会の記録で逸星さんの発言を読み、お元気でよかったと思っていた矢先のこと、4月17日に訃報が入ったのだった。中途半端なことを書くとかえってこの巨星の足跡に対して失礼かと思って控えていたが、いま書いておかないともう書く機会も失われてしまうことをおそれ、今回大友逸星の川柳を取り上げることにしたい。

まず『新世紀の現代川柳20人集』(北宋社)から作品を引用する。

血液が欲しくて並ぶ兵馬傭     逸星
炎天の蔦ずるずると日野富子
激安の卵を買えば鶏の貌
生臭いままで終わろう鰯たち
幽霊になった訳など忘れたわ
何をしたのか鉈を洗っている
泡立草のまっただ中の大丈夫 

これが川柳の骨法をふまえた逸星の実力である。「炎天の蔦ずるずると」から「日野富子」への詩的飛躍。「卵」から「鳥の貌」への気味悪さ。「幽霊になった訳など忘れたわ」という自在な口語。そして作品の根底にあるメッセージ性。

大友逸星(おおとも・いっせい)は大正13年、仙台生まれ。昭和23年、「川柳杜人社」同人に。前年の昭和22年にはすでに添田星人が同人になっていた。星・星コンビの誕生。
逸星の川柳は「杜人」と切り離しては語れない。

「杜人」は昭和22年(1947)10月、新田川草(にった・せんそう)によって創刊された。創刊同人は、川草のほかに渡辺巷雨、庄司恒青、菊田花流面(かるめん)。杜人の句会は川草の経営するパン屋の2階でやっていたという。
『現代川柳ハンドブック』(雄山閣)の新田川草の項は逸星が書いている。それによると―
〈川柳の自在性と来たるべき光芒を求めて若い同人を糾合研鑽し、石原青竜刀との「川柳詩、非詩」論争を展開した田畑伯史、スタンダード的名著『現代川柳のサムシング』(昭和62年)の著者今野空白等を輩出する〉
豪放にして繊細、ふてぶてしいまでの行動力と評された新田川草は、深酒の果てに昭和47年死去。
逸星は「杜人」200号記念号(2003年12月)に、かつての同人たちに対する追悼句「弔句曼荼羅」を掲載している。すでに過去となってしまったそれぞれの川柳人の風貌や内面のドラマが一瞬よみがえるようである。

新田川草(ビール党)    川草戻れよ冷やっこいビールだよ
菊田花流面(膀胱癌)    放尿をしに行ったきり空の果て
渡辺巷雨(ジャン名人)   マージャンの音を零してゆく車
菊池夜史郎(日和山で自殺) ともしびを消し早春の風が逝く
田畑伯史(海峡で自殺)   津軽海峡竜巻を登る馬
今野空白(外科医)     ひまわりのどっと崩れて神無月

さて、「杜人」224号に広瀬ちえみが「杜人の星―大友逸星小論―」を書いている。
〈「杜人」創刊号から読んだとき、まっさきに感じたのは逸星の句が強烈なパワーを持ち始めたのは60歳頃からだということだった。ここ20数年の句が輝いているということを逸星に言うと「若いときは食うのに追われていたからな」と返ってくる。〉

広瀬は逸星の句を年代順に紹介している。次に挙げるのは20代から40代の句。「杜人」のバックナンバーから添田星人が抄出したものだという。

(20代)
膝抱けば膝も己といふぬくみ
鳥といふ悲しきばかり気を配り
冬眠すすべては大地の脈となり
娶ろうよ人形ふわり緋をこぼす
犬の尿意が一本杉を廻る

(30代)
缶ビール吹上げた夜汽車の女
此の顔 鋳造されて都会の襞
乳配れば雪に牙あり壜を噛む
如何なる星の下か子を叩く手となりぬ
群盗の一人となりて暁の雲に乗る

(40代)
金、吾、暦、三題噺に笑わぬ妻
夜の螺旋を転げた無理算の顔よ
階段をも一つ降りた握手など
七色の噴水急に嘘をつく
匕首の形に化石する愛か

逸星個人の川柳史と同時に、彼が生きてきた川柳状況の変遷をも同時に感じさせる。
石田柊馬は〈「杜人の星―大友逸星小論―」につづけて〉(「杜人」225号)で、広瀬ちえみの逸星論に続けるかたちで、逸星の20代の川柳について、「まっすぐに、作者の現実の感動がことばとなって、読者の感動に対応している」と述べている。「膝抱けば」の句の「ぬくみ」は、他者と通い合う、誰もが求めていたこの時代特有の「ぬくみ」だったと言うのだ。それは現在の川柳の書き方とは随分異なった位相にある。
30代の逸星は7年間東京へ出たらしい。
この時期の川柳は案外(?)おもしろい。「此の顔 鋳造されて都会の襞」。そして、柊馬が絶唱だという「乳配れば雪に牙あり壜を噛む」。
40代の句。「匕首(あいくち)」「化石」ときて「愛か」につなげる書き方は、現在ではもう書きにくくなっている。現在では言葉がフラットになっていて、一句の中でこういう重たい言葉を三つも使うことができない。ただ、この書き方の遠い残響・ヴァリエーションとして「バックストローク」34号の広瀬ちえみの句「コレクションのひとつ大粒なる泪」を連想することはできるかもしれない。

そして広瀬の言う60代以降の豊饒。

坂を生み続けるいざなぎいざなみ
天才を水に流したかもしれぬ
戦争は一つの卵しか生まぬ
蠅一匹と弔問に駆けつける
老斑の一つは正倉院らしい
戦争と地震のどちらかに○を

逸星の功績のひとつは後進を育てたことにある。
添田星人と大友逸星による対談「杜人創成期の活気」(「杜人」213号)で、両人は次のように発言している。

星人 考えてみると、杜人というか川草の偉いところは、いわゆる「先生」を作らなかったことだね。ワイワイやりながらも自分が殿様にならないで、みんなと同じ仲間だという意識が強かったんじゃないか。
逸星 杜人はそういう伝統が連綿と60年間続いてきたんだ。同じ目的達成のために上意下達式の組織を作るというグループではなかったね。それぞれ川柳は作るが目的はみんな違うという純粋な「同人誌」なんだよ。

主宰なき自由な川柳グループの精神は残された者たちに受け継がれていくことだろう。

泡立草のまっただ中の大丈夫    逸星
女の子が一人寺からついてくる

2011年5月14日土曜日

渡部可奈子の川柳と短歌

「詩歌梁山泊」によるサイト「詩客」(SHIKAKU)が立ち上げられ、毎週金曜日に更新されている。作品だけでなく、時評が充実していて、「短歌時評」「俳句時評」「自由詩時評」のほか「戦後俳句を読む」のコーナーも設けられている。短歌・俳句・自由詩の三詩型を共時的・通時的に俯瞰しようという壮大な試みである。川柳からは吉澤久良と清水かおりが執筆者に参加している。
「戦後俳句を読む」第1回の1(4月29日)では吉澤が時実新子を、第1回の2(5月6日)では清水が渡部可奈子を取り上げている。ジャンルの移動という点から見れば、新子が短歌から川柳へ移ったのに対して、可奈子が川柳から短歌へと移ったことは興味深い。

清水かおりは「詩客」創刊準備号(4月21日)で次のように書いている。

「昨年、『超新撰』に参加させていただいたことで、一つの自己目標のようなものができた。シンポジウムの資料で触れた、川柳史の縦線と横線の交わりを認識しなおすことである。自分たちの書いているカタチがどこから来たのかを知ることは、現在の川柳作品と向き合う大きな手がかりにもなる。六大家以降、近代史の枝葉が私たちのルーツとなっていく過程を探る必要性を持たずに作品を書いてきた柳人は多い。すでに拓かれた表現であったものに馴染んで書いているといえる。そうした多くの川柳作品に、時間軸という角度のアプローチ点を見つけたい」

そして「社会の変遷を生き抜いた言葉たちを読むことが、どのように現在の作句作業に活かされていくのか、そして、同じ線上で近代川柳史が語られるような、そういう場に少しでも繋がるものを求めていきたい」とも述べている。こういう認識に清水が立っていることは歓迎すべきことだ。
一般に、川柳人の関心は「今・ここ」で作品を書くことに集中していて、川柳形式と自己との関係、川柳史のなかでの自己の位置などに関しては意識的ではない。「川柳史」の流れのなかで「川柳形式」に支えられて作品を書いていることが実感できないのだ。
「戦後俳句を読む」というフレームの中であるとはいえ、現在につながる「戦後川柳」の見取り図を清水がどのように構築してゆくのかが楽しみだ。

第1回で清水が取り上げたのは渡部可奈子の次の句である。

揶揄らしい揶揄一輪 頭の夜明け   渡部可奈子 

「叶うなら抽象の一句で具象万句を超えたい」という可奈子の言葉を紹介したあと、清水は「可奈子が川柳界を離れた理由は計り知れないが、現代川柳の問題点として挙げられる私性についてこの頃すでに感じるところがあったのかもしれない。私性(自己)と言葉(喩)の密着度を個人の思いの強さとする流れは、自己へ求める喩の厳しさと一見地続きであるようで、そうではない。時代を駆け抜けて行った可奈子作品を慕う、私達川柳人が思うのは、そのあたりの彼女の苦悩と可奈子作品が今なお放ち続けている言語の可能性だ」と述べている。

渡部可奈子は昭和13年松山市生まれ。昭和32年児島一男の門に入りデッサンを習い、創元会入選。18歳で発病した肺結核が、昭和41年、27歳のときに再発して愛媛療養所に入る。昭和42年、川柳と出会い、川柳グループ「晴窓」に入会。その後「ふあうすと」「川柳ジャーナル」「縄」などを経て「川柳展望」に。句集『欝金記』(昭和54年)を川柳展望社から出している。やがて可奈子は短歌へ。
松山の川柳人に山本耕一路(1906~2005)がいる。昭和20年代に詩性川柳を目指した先駆者だが、川柳界に受け入れられず、現代詩に転向した。昭和60年(1985)に第18回小熊秀雄賞を受賞している。耕一路にしても可奈子にしても川柳という自己表現の器を捨てて他ジャンルに移行したことは残念である。

『現代川柳の群像』(川柳木馬ぐるーぷ)の「作者のことば」で可奈子は次のように書いている。
「川柳のことばと作者の間に隙間があるだろうか。作者のこころとことばを貫通する現実的で肉体的なものが、露わになるほど、両者の密着性が高く、大地へ達するほどの原初性を持ち得るだろうか、と私は考えてみたい」

生姜煮る 女の深部ちりちり煮る
くらやみへ異形の鈴はかえりたし
目撃者 蝉の破調を握っている
物の怪も木の実も四囲をにぎわする
いつかこわれる楕円の中で子を増やす
吊橋の快楽をいちどだけ兄と
小面よ よよと笑えばほどかれん

このときの作家論は細川不凍と行本みなみが書いている。
細川は「痛みの作家・美の作家」で可奈子の境涯句に重点をおいて書き、行本は「言葉の中の女(ひと)」というタイトルで言語論に終始している。
可奈子の作品は境涯派と言葉派の両方から評価されるだけの実質をもっていた。どちらの面を評価するかによって評者の川柳観が問われることにもなる。強固な実存と詩的な言葉の両者を兼ね備えるのは至難のことである。

「川柳ジャーナル」時代、可奈子は2度受賞している。まず、1971年に年度賞を受賞。

致死量とおぼしき暁の真水
雉撃ちの一歩一歩の肉剥がれ
かたぐるま媚びるものらを地に増やす
終末のひとつはりんごひとつは樹
さらって来た子よりも重い髪が罪
みなごろしの唄まんえんの虫世界

1974年には「水俣図」で第三回「春三賞」を受賞している。

弱肉のおぼえ魚の目まばたかぬ
抱かれて子は水銀の冷え一塊
夜な夜なうたい汚染の喉の 必ず炎え
覚めて寝て鱗に育つ流民の紋
つぎわけるコップの悲鳴 父が先
ぬめるは椀か あらぬいのちか夜を転がる
手から手へ屍はまみれゆくとしても
やわらかく骨享くいまし苦海の子
天までの月日の価 襤褸で払う
裸者のけむり低かれ 不知火よ低かれ

この連作について、細川不凍は次のように書いている。
「他者の痛みに接近し、それを理解するには、自らの痛みを通してこそ可能となるものだ。水俣の痛みを、可奈子は自分の中の痛みとして、深く感じ取ったのだ。だからこそ書き得た『水俣図』十句なのである。彼女には、自分の痛みばかりでなく、他者の痛みをも受容し共有できる心的土壌が備わっているのだ」
このような評価の一方で、この連作の社会的テーマと可奈子の資質との間に乖離を感じる批評も当然あってよいだろう。「川柳の言葉と作者とのあいだの隙間」はそう簡単に埋まるものではないのであり、また密着していることが優れた川柳の証しとも言い切れないのだ。清水かおりが指摘している「私性(自己)と言葉(喩)」の問題は一筋縄ではいかない。
そういう意味では、可奈子の資質とモティーフとが完全に一致したものとして、「飢餓装飾」を挙げてみたい。

呱々と祝ぐ 雪片みるみる阿国
名も闇に覚ます 十指の一匹ずつ
手から手へ息せき切ってこがらし 阿国
雪片楽土 手舞い足舞うからす徒党
虫らあがり 手拍子のついぞ哭かぬ
風百夜 透くまで囃す飢餓装束
舷の添い寝のひとつおぼえの青曼陀羅
はやり阿国 はやり神楽のうかうか死す
塚無尽 唯々諾々といのち印す
阿国ぼかしの白き鉄癒ゆきさらぎ裡

「水俣」という社会性が一種のフレームであるとすれば、「阿国」もフレームである。現実とフィクションの差こそあれ、表現者は自己表現の契機を必要とする。ではなぜ「水俣」よりも「飢餓装束」をよしと評価するか。それはひとえに「飢餓装束」という言葉の力にかかっている。
「飢餓装束」は阿国のイメージを用いながら自己の内面性を表現しきっている。フィクションと自己表現が渾然と溶け合っていて、可奈子の代表作と言えるだろう。「風百夜」は屹立した句であるが、この連作の中の一句として読めば更に味わい深いものがある。

短歌に移行してからの可奈子について私はよく知らない。ただ、川柳誌に発表された短歌作品をいくつか読むことができた。「川柳サーカス」「コン・ティキ」から何首か引用しておこう。

錠剤のひとつふたつは寒からむ無数となりて豊饒の致死   「川柳サーカス」18号
動物の死骸(むくろ)を腋にかかへくる男とすれちがいざまの遊魂
机上に置かれ軟体化する帝国の臓腑のやうな夏帽子かな   「川柳サーカス」19号
白塗りの世紀にゲルニカを泛かべ 一ヌケ二ヌケヒト抜ケニケリ
小さき澤こそ深き患部に思ほへて傷より噴くはほうたるの膿  「コン・ティキ」1号
わが気管より翔びたちにけむいっぴきの蛍ほろほろ世に咲くがかに
月球の片欠けの白澤を浸し病蛍など出でましにけり
豊饒のいびつに賭けて今日をかける君にも吾にもふりしきる蛍

「揶揄…」の句を含む、「縄」7号(昭和53年2月)に発表された可奈子の「ほたる狩り」から引用しておこう。

揶揄らしい揶揄一輪 頭(ず)の夜明け
歯牙をも越ゆ 青きつづらの夢みるゆめ
迂闊に魚たりし 背の落暉
発砲つづくかぎり両棲の耳のやから
枯死と決まればつまびき通すほたる狩

「ほたる」を詠んだ可奈子の短歌と川柳を並べておきたい。並べてみたところで、可奈子がなぜ短歌に行ったのかは私にはわからないのだが。

豊饒のいびつに賭けて今日をかける君にも吾にもふりしきる蛍
枯死と決まればつまびき通すほたる狩

確かクレーの日記の一節だったと思うが、「世界が恐怖に充ちていればいるほど、芸術は抽象的になるのだ」という言葉が何だか思い出されるのである。

2011年5月7日土曜日

多武峰連歌ルネサンス

多武峰では山吹の黄が鮮やかだった。
5月1日(日)、奈良県桜井市の多武峰・談山神社で権殿修理落慶大祭が行われ、その関連行事として「多武峰連歌ルネサンス」に参加した。
永正17(1520)年10月16日の「多武峰法楽連歌」(百韻「賦山何連歌」)の懐紙が残っている。それ以来ほぼ500年ぶりの連歌復興を唱えて、談山神社・総社拝殿で歌仙2巻が巻かれたのが3年前の平成20年10月であった。翌21年には「多武峰連歌ルネサンス」と称して5月に開催。昨年は與喜天満宮に場所を移して実施したので、談山神社での連歌(連句)会としては今年で3度目になる。
テレビや新聞などでよく取り上げられる春の蹴鞠祭は4月29日に終わっている(秋にも蹴鞠祭があるようだ)。30日夜は社務所に宿泊させてもらい、法楽連歌にそなえる。多武峰だから連歌と名乗っているが、私たちのは実質的に連句(俳諧之連歌)である。
当日は雨になる。午前11時、権殿からトランペットが鳴り響いた。
落慶した権殿は能の「翁」の発生とかかわる芸能史において重要な場所である。そういうところでジャズの演奏を聴くのはなんだか前衛的だ。
神社でもらった新しい絵馬には翁の面が描かれていて、「摩多羅神」の名が書かれている。摩多羅神は天台宗系寺院の常行堂の後戸(うしろど)に祀られた神で、慈覚大師(円仁)が請来したと言われる。
摩多羅神の名を聞きなれない人でも、京都・太秦の「牛祭」の祭神といえばピンとくるだろう。「後戸の猿楽」という言葉が古来伝えられており、世阿弥の『風姿花伝』にもその伝承が書きとめられているという。
服部幸雄著『宿神論』は芸能信仰の根源にせまる画期的な論考である。宿神といえば、夢枕漠の小説『宿神』を連想する方もあるだろう。
服部幸雄は次のように言う。
「後戸には何か神秘的な神、秘すべきであるがゆえに、その強力な霊の発動を懼れなければならないと観念される秘仏が祀られていたのではなかったであろうか」(「後戸の神」)
そして、金春禅竹の『明宿集』に言う多武峰の「六十六番ノ猿楽」こそ翁面(摩多羅神面)を中心とする行法であったらしい。
私たちはそのような芸能の根源に触れる場のまっただなかにいる。そこにジャズの音が鳴り響いたのである。トランペットとベース、エレクトリック筝によるライブである。
ところで、天台系寺院の常行堂の後戸の神である摩多羅神がなぜ談山神社に?と疑問をもたれる向きもあろう。明治の神仏分離令まで談山神社は多武峰妙楽寺という寺院だった。現在の談山神社の権殿こそ妙楽寺の常行堂にほかならない。

かつて多武峰にひとりの聖が隠棲していた。増賀上人である。
比叡山で修行した増賀は五歳年長の師・慈慧(元三大師)にめぐりあった。慈慧は山門の復興のために権門と手を結び、やがて天台座主の地位に上りつめる。名利を嫌う増賀はそのような師を批判し続けた。
馬場あき子は『発心往生論・穢土の夕映え』で次のように書いている。
「慈慧が任官の悦びを奏上しに参内するという噂をきいて、多武峰に隠棲していた増賀は、まさにすっくと立ち上がった。そして増賀は、その行列の前駆は自分をおいてつとめるものはないとばかりに山を下りた」「ひとたびは訣別した慈慧のもとに、増賀は最後の愛をふりしぼって駆けつけた」
「腰には大きな乾鮭を一尾、太刀のかわりにぶちこみ、これ以上は痩せられない骨と皮ばかりの女牛にまたがり、よたよた、ふたふたと、威儀を正した参内の行列の中に駆けこんできたのである」
痩せた女牛の乗り物は慈慧の居すわった仏界であり、乾鮭の刀は堕落した仏法を守護するための象徴であるという。増賀は慈慧の車わきに寄り添いながら叫び続けた。
「我こそ幼きときよりの御弟子なれ。誰か今日のやかたぐち(車添い)仕まつらん」
牛車の中で慈慧はこれを「かなしき哉。わが師悪道に入りなむとす」と聞き、しかし「これも利生(仏の利益)のためなり」とつぶやいた。
慈慧と増賀。人間の二つのタイプである。
大祭前日の夕刻、社務所から坂を登って増賀堂の跡を訪れた。十年以前に来たときはお堂の柱におびただしい空蝉がぶらさがっていて、いかにも増賀上人の旧蹟であることを偲ばせたが、いま増賀堂はとり壊されてすでになくなっている。

多武峰に天台が広まったのは増賀の影響もあるだろう。
法相宗の興福寺とは対立を繰り返した。
受付の女性との立ち話で、神社の向こう側の高台から神社一帯がよく見える。しかし、神社側からは高台が見えないと言うことだった。
「僧兵が高台からこちらを偵察するためかもしれません」と彼女は言った。
僧兵?
多武峰に僧兵がいたのだろうか。
高台の方へ登ってみた。確かに談山神社が一望できる。花の季節にはもう遅いが、樹齢600年という小つづみ桜(薄墨桜)もある。
延暦寺の末寺だった多武峰は、何度も興福寺から攻められた。その歴史は今も生々しい。

さて、5月16日(月)には権殿内で能の「翁」が奉納される。翁・観世清和、千歳・観世淳夫。「まさに温故の響きが蘇える 能楽の原点を見直す 歴史的な現場に立ち会う」と宣伝ビラにある。入堂料有料(限定100席)。
談山神社発行の「談」(かたらい)のバックナンバーによると、15面の古面が伝存し、そのうち桃山時代のものとされる翁面は特別に面箱があつらえられていて、箱書には「摩多羅神面箱」と墨書がある。絵馬に描かれている面はこれだったわけだ。また、伝承では「六十六番猿楽」で使用する翁面は、能が演じられたあと衆徒が酒に酔うと、それにつれて翁面も自然に赤く染まるという。大量の酒がふるまわれるのは、いかにも多武峰らしい。

談山神社には近畿迢空会が折口信夫没後五十年を記念して建立した歌碑がある。折口には「翁の発生」という文章があり、『古代研究』に収録されている。「私は、日本の演芸の大きな要素をなすものとして、もどき役の意義を重く見たいと思ひます。近代の猿楽に宛てて見れば、狂言方に当るものです」
「三番叟」は「翁」の「もどき」である。
翁に対する三番叟。能に対する狂言。そのような「もどき」の役割を果たすものが芸能や文芸の世界で生れてきたことは興味深い。
その折口が関東大震災の直後に書いた「砂けぶり」という詩がある。
折口は大正12年、2度目の沖縄旅行に行き、その直後に関東大震災が起こった。神戸の海岸で波の色を見ていたとき、不意に次の一節が浮かんできたという。

横網の 安田の庭
猫一匹ゐる ひろさ―。
人を焼くにほひでも してくれ
   さびしすぎる

吉田文憲は〈「砂けぶり」体験の語るもの〉(『顕れる詩』)で、折口の「まれびと」観念の生成と「砂けぶり」を関連づけて論じている。

さて、私たちが巻いた歌仙は神社に奉納されたが、その発句と脇。

 口あけて落花を喰(くら)ふ漢(をとこ)かな
  青きを踏めば出づる言の葉

発句は談山神社の宮司による。
連歌と連句。
RengaとRenkuを総称するものとして英語ではLink Poetry という言葉があるそうだ。
短詩型文学を統一するものは何であろうか。

多武峰というトポスに立つと日本の芸能・文芸の歴史が曼荼羅のように脳裏に生なましく浮かんでは消えて行く。私たちはその末端に生き、文芸を明日につなげていこうとしているのである。もっとも伝統的であることがもっとも前衛的であるという逆説が大和では奇妙に成立している。