2021年5月28日金曜日

『リバー・ワールド』を連句から読む

川合大祐の第二句集『リバー・ワールド』(書肆侃侃房)は4月に発行されて以来、好評のうちに読まれているようだ。『はじめまして現代川柳』の「ポスト現代川柳」の章に収録されている作者のなかでは、川合に続いて湊圭伍が『そら耳のつづきを』を上梓している。湊については改めて語る機会があると思うので、今回は川合の句集についての感想を書いておきたい。

「川柳は意味で屹立する文芸」だとか「川柳の意味性」ということがよく言われるが、川合の作品に何かの意味をもとめる読み方は無効だと思っている。句集全体の世界観は何となく感じられるけれど、一句一句にどんな意味があるかを探っても何も出てこない。私が興味をもつのは、川合の言葉がどんなふうにして出てくるのかという、言葉の生まれ方・出し方についてだ。
第一章「零頭の象」から「忌日」を使った句を抜き出してみよう。

警棒の長さオスカー・ワイルド忌
鏡割る以上のことを桜桃忌
横綱を言葉で言うと桜桃忌
金の粉あたまはりつくナウシカ忌
ガチャガチャが集まるジャンボ鶴田の忌
失った世界ガソリンスタンド忌

忌日俳句というものがあって、歳時記には「実朝忌」「獺祭忌」「時雨忌」などの忌日が収録されている。忌日を季語として使った句が成功しにくいのは、実朝とか子規とか芭蕉のイメージが強いので、それと何かを取り合わせるときの距離感がとりにくいからだ。

獺祭忌明治は遠くなりにけり
降る雪や明治は遠くなりにけり

この二句のうち「降る雪や」の方が名句として残り、「獺祭忌」が忘れ去られているのは、獺祭忌・子規・明治というイメージの連鎖が当然すぎておもしろくないからだろう。「降る雪」の天象と「明治は遠くなりにけり」の述懐のほうが取り合わせとしては効果的だと言われる。
川合の場合は「桜桃忌」は季語ではないけれど、読者は太宰治のことを当然思い浮かべる。けれども句のなかでは太宰とはまったくかけ離れたことが言われている。「鏡割る以上のことを桜桃忌」はまだおとなしい方で「横綱を言葉で言うと桜桃忌」となるとムチャクチャに飛躍している。「桜桃忌」の意味やイメージは破壊されているから、「横綱を」の方がより川柳的である。川合はさらにエスカレートしてアニメの「ナウシカ忌」、プロレスの「ジャンボ鶴田の忌」を作りだしている。
取り合わせや配合はAとBの二つの言葉の関係性だが、川合はさらに進んでA・B・Cの三つを構築する。たとえば次の句はどうだろう。

春の雪キングコングを和訳する  川合大祐

素材分類でいえば「春の雪」は天象、キングコングは動物(怪獣)、「和訳する」は人情(人間が出てくる句)となる。三行に分けて書くと次のようになる。

春の雪
キングコングを
和訳する

これを連句の三句の渡りへと私流に翻訳してみよう。

春の雪孤島の山に降りしきる
 キングコングの続く足跡
原作を三週間で和訳する

まあ、こんな感じで遊んでみたが、うまくいかなかったので、もう一句お付き合いを。

風死して新体操の卑怯な手   川合大祐

風死して秒針の音かすかなり
 新体操の演技はじまる
卑怯な手使うライバル傍らに

川合の句は文脈がわかれば意味が理解できるというものではなく、言葉の生成と飛躍を楽しめばいいのだと思う。こういう作り方は昔からあって、たとえば天狗俳諧では三人の作者が作った上五・中七・下五を無関係に合わせて一句にする。これをひとりで行えば同じ効果が生まれる。

道 彼と呼ばれる長い新経路  川合大祐

この句は「道」という題があって、その連想で言葉を付けているように見える。雑俳のうち「冠句」に次のような作品がある。

宝石箱 いちどに春がこぼれ出る
羊飼い まさか俺が狼とは
秋の道 ちちははの樹が見当たらず
風光る すでに少女の瞳が解禁

川柳は題詠を基本とするから、最初の言葉からどの方向に連想を飛ばすかが重要になる。川柳の題と連句の前句の間に私はそれほど違いを感じていない。どのような言葉を生成するかというときに、作者の意識のなかにある言葉のストック、一種の辞書が効果を発揮する。川合の場合、哲学用語やサブカルなどと並んで固有名詞が作句の契機になっているようだ。第二章「プレパラート再生法」から人名を使った句を抜き出しておく。

義経を十二分間眠らせよ
道長をあまりシベリアだと言うな
サマセット・モームが巨大化する梅雨
パズル解く樋口可南子の庭先で
後方の宗兄弟へ超音波
千年後タモリの墓の祟りにて
弁慶の骨盤ならぶ美術館

その人名が一般的に喚起するイメージからずいぶん離れた内容になっている。疾走する固有名詞。既成概念を裏切り続けるのは楽なことではない。

2021年5月21日金曜日

平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』と川野芽生『Lilith』


平岡直子の第一歌集『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店)が刊行され、話題を集めている。『桜前線開架宣言』(山田航編著・左右社)以来(平岡のファンにとってはもっと以前から)、単独歌集の刊行を待ちわびていたが、歌集の帯文にあるように「この歌集が事件でなくて何だろうか」。歌集がなくても平岡直子には歌人としての存在感があったが、歌集の刊行によって、これまで断片的に読んできた彼女の作品の全貌が立ち上ってくる。

巻頭には連作「東京に素直」が置かれている。文学ムック『たべるのがおそい』創刊号に発表された作品。東京生活の点綴だろうが、表現内容はそれほど素直なものではない。

きみの頬テレビみたいね薄明の20世紀の思い出話  平岡直子

「きみ」という二人称は誰だろう。恋人と読むのがふつうだろうが、「東京」への呼びかけかもしれないとも思う。けれども、それもしっくりしない。頬がテレビみたいに映像化している。20世紀は戦争と革命の時代。「映像の世紀」とも呼ばれるが、すでに「薄明の20世紀」と思い出話化してしまっている。川合大祐の『リバー・ワールド』の巻頭句に「ミニ四駆ずっと思い出だましつつ」とあるが、この川柳では思い出が騙されるものとしてとらえられている。平岡の短歌では「頬」という身体が「テレビ」のように映像化され、20世紀へと広がっていく。思い出は朧化しつつ誰かと語り合うものとして歌われている。

メリー・ゴ―・ロマンに死ねる人たちが命乞いするところを見たい

メリー・ゴ―・ラウンドではなくて、「ロマン」へと言葉をつなげて、ロマンに死ねる人がいるという。現実的には人はすべて死ぬ運命にあるが、ロマンをもっている人は自分の夢を実現できないうちは死んでも死に切れないだろう。だからじたばたして命乞いをしたりするのだが、その姿を見たいというのは一種の悪意なのだろう。

こぼされてこんなかなしいカルピスの千年なんて見たことがない

「カルピス百年」ではなくて、もっとスパンの長い千年である。「見たことがない」というかたちで何かが見えていて、それはかなしいものなのだ。

ああきみは誰も死なない海にきて寿命を決めてから逢いにきて

「記憶を頬のようにさわって」から。喚起力の強い歌なので、映像化したい誘惑にかられる人が多いようだ。「死なない海」なのに寿命を決めてほしいという。「水からも生きる水しかすくわないわたしの手でよかったら、とって」という歌もあり、生と死、記憶と思い出、水と身体、恋のイメージが複雑にからみあっている。

この朝にきみとしずかに振り払うやりきれないね雪のおとだね

「ね。」というタイトルの連作。平岡の作品は少数の例外を除いて口語短歌である。川柳は口語を基本とするから、現代の口語短歌の文体や文末の止めに無関心ではいられないが、ここでは文末の「ね」の使い方が心地よい。あと、「洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音」(「紙吹雪」)などの「~よ」も効果的である。

海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した
三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

前者は2012年の歌壇賞を受賞した「光と、ひかりの届く先」から。
後者は歌壇賞受賞第一作「みじかい髪も長い髪も炎」から。
ともに人口に膾炙している歌なので、ここでは引用だけにする。

「外出」創刊号で平岡は「引き算のうちはよくてもかけ算とわり算でまずしくなっていく」(永井祐)を引いて、「かけ算やわり算によって都合よく情報のサイズを変更したり、正確に復元したりできるかもしれないというのは幻想だと思う。短歌にはたし算しかない。作者にできるのは書き加えることだけで、読者にできるのは歌にさらになにかを書き加えることだけである」と書いている。
『みじかい髪も長い髪も炎』を読んでいると、作品とは直接関係のないさまざまな想念が去来するので、何度も途中でページを閉じて勝手な思いにふけることが多かった。

口語主流の現代短歌の世界のなかで、文語の現代短歌として注目されているのは川野芽生の歌集『Lilith』(書肆侃侃房)である。
帯文を山尾悠子が書いている。

「叙情の品格、少女の孤独。
端正な古語をもって紡ぎ出される清新の青。
川野芽生の若さは不思議だ。
何度も転生した記憶があるのに違いない」

山尾悠子の小説はまだ読んだことがなかったので、『ラピスラズリ』を手にとってみた。幻想文学は最初に迷宮に引き込まれる冒頭部分が特におもしろい。川野は雑誌「夜想」などで山尾の小説について論じているから、彼女の短歌ともシンクロするところがあるのだろう。
『Lilith』の巻頭は「借景園」の連作である。

羅の裾曳きてわが歩みつつ死者ならざればゆきどころなし
夜の庭に茉莉花、とほき海に泡 ひとはひとりで溺れゆくもの

文語・旧かなである。「死者ならざればゆきどころなし」「ひとはひとりで溺れゆくもの」というフレーズが印象に残る。死者にはゆきどころがあり、ひとは死ぬときは独りなのだという認識である。
「借景園」という場所を設定して、言葉によってひとつの世界を構築している。廃園ではないが一種の閉ざされた空間で、古い藤棚がある。白い蛇が棲んでいて、「わたし」は巫女のような存在(「執政」と言っている)。隣家には惚けた女主人がおり、垣根越しの交流があるが、それも稀だ。雉鳩がやってきて藤の上に巣を作っているが、この藤はやがて取り壊されることになっている。外の世界を微妙に意識させながら、ひとつの閉鎖空間を詠みあげている。
『Lilith』のもう一つの面は「Lilith」のタイトルで歌われている、現実世界への痛烈な批判である。

Harassとは猟犬をけしかける声 その鹿がつかれはてて死ぬまで
青年とわれは呼ばるることなくて衛つてやると言はれてゐるも
魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ

神話のリリスは最初の女性で、イブ以前にアダムの妻だったとも言われる。悪霊たちを産んだ「夜」のイメージがあるが、現代では女性解放運動の象徴としても使われる。アニメではエヴァンゲリオンにも出てくる。
川野は歌集の「あとがき」で「言葉はその臣たる人間に似すぎていて、あまりに卑俗で、醜悪で、愚かです。人間という軛を取り去ったとき、言葉が軽やかに高々と飛翔するのであればいいのに」と書いている。
「世界は言葉でできている」はずなのに、その言葉を専門に使っている人間が醜悪だとしたら、なんと憤ろしいことだろう。現実とは異次元の言語空間の構築と、それを裏切る現実に対する鋭い批評性という二つの方向性。しかもそれを文語で行おうとする川野の短歌はとても刺激的である。

山尾悠子は深夜叢書社から歌集『角砂糖の日』(1882年)を出している。私は実物を見ていないので孫引きになるが、最後に山尾の短歌を紹介しておく。

角砂糖角ほろほろと悲しき日窓硝子唾もて濡らせしはいつ  山尾悠子
腐食のことも慈雨に数へてあけぼのの寺院かほれる春の弱酸

「角ほろほろと」の「角」は「かど」、「唾」は「つ」と読むようだ。「世界は言葉でできている」というのは表現者にとって本質的なことだが、川柳人の私はそこまで言いきれない。川柳には不純な現実と散文性が含まれているからだ。

2021年5月15日土曜日

川柳と連句の日々

しなければいけないことがいろいろ重なって、先週は時評を更新できなかった。以前は複数の用件を同時並行的に片づけることができたが、いまはひとつひとつを処理するのに時間がかかる。衰退がはじまっているのだろう。出来事が断片的に流れてゆくが、こういうときは日記形式で書き留めておくのがよさそうだ。

5月5日
高松霞と門野優の「連句新聞」がネットで公開される。夏号だから立夏の日に更新。現代連句作品10巻のほかにコラム、トピックスなどが付いている。 堀田季何のコラム「変容する連句」を読む。堀田はこんなふうに書いている。
「連句は変容しつつある。
こう書くと、専門連句人の何割かは眉を顰めるに違いない。どういう意味だと。連句は常に時事や現代語を取り入れてきているが、それは新しさとは違うし、況して変容とは言わない。最近の連句本でも、そこに書かれている式目は、何十年前の連句本のそれとはほぼ変わらない。形式にしても、新しいものはたまに生まれるが、歌仙、短歌行、半歌仙が相変わらず多い。では、こう書こう。
連句は変容しつつある。少なくとも、流行は変わりつつある」
そして、文人俳諧(文人連句)と連句界の連句の関係について、次のように書いている。
「筆者には残念なことだが、東明雅ほど高名だった連句人兼俳文学者の作品でさえ、書店ではさほど出回っていない。これは、商業の原理が連句界と無関係にもたらした流行であり、その流行における連句の在り方が人口に膾炙しているということは、連句人がどう思っても、文人俳諧の俳風が主流になりつつある、連句は変容しつつあると考えるのは不思議ではない。連句結社的(専門連句人的)な連句と文人俳諧的な連句に根本的な断絶がある中、前者が不易のまま、後者の流行が現代の俳風となりつつあるのだ」
堀田は連句界の現状をよく知っているのだろう。堀田の現状分析は正確だから、いやそうではないと反論できないのがつらいところだ。私はかつて次のように書いたことがある。
「私の考えているのは、現代川柳と現代連句との交流ということで、ジャンルを越えた共同制作が連句という綜合芸術の場で可能かどうかということである。俳人・川柳人が連句の座に参加するということはこれまでにもあったが、その際に連句人が無傷の立場で俳人・川柳人に連句を教えるということはありえないだろう。ジャンルが越境するときの擦過傷がそこにはできるはずであり、これまで漠然と「俳句性」「俳諧性」「川柳性」「詩性」などと呼ばれていたものが、軋みあい問い直される。そういう作業を通して、連句の更なる可能性が広がってゆくのではないか。連句にどっぷりと浸っていると、かえって連句が見えなくなることがないとも限らない。ときには他者の視点で連句を眺めてみることも必要ではないだろうか。連句にとっての他者、連句を相対化するための視点を与えてくれるものは、さしあたり隣接する短詩型諸ジャンルにほかならない」(『蕩尽の文芸』「連句と川柳」)
情況は少しも変っていないし、カリスマ的な連句人がほとんどいなくなった現状ではむしろ悪くなっている。私はすでに連句界側の人間なので、堀田のコラムには正しいだけに痛みを感じる。「連句新聞」が何を目ざしているのかについても注視していきたいと思う。

5月7日
本屋B&Bのイベント「現代川柳ってなんだ!?」に参加。
川合と柳本の話をきいているうちに『リバー・ワールド』についての理解が深まった。
この句集についての私の感想は、『スロー・リバー』が実験的なのに対して、『リバー・ワールド』は川柳の書き方を踏まえた正統的な作品だということだ。推薦句として第1章から二句挙げた。

自我捨ててただ晴れた日の紫禁城  川合大祐
泣くときに泣かなかったな仲野荘

自我を捨てる句は句集の中に他にもあるが、この句は完成度が高い。からりと晴れた空。紫禁城という権力闘争の場にも陰影がある。
仲野荘は漫画家のいしいひさいちが住んでいたところ。意味ではなく音のつながりで一句ができている。
トークでは川合と柳本が話し合っている部分がおもしろく、じっと聞き入ってしまう。この句集が三章に分かれているのはそれぞれ五・七・五に対応するので第二章が長いのは「七」だからだとか、『スロー・リバー』が五だとすれば『リバー・ワールド』は七、三部作となる来たるべき第三句集は五に相当するとか、話としては面白いが、あまり真に受けることもない。川合の川柳の三要素だという「喪失・過剰・定型」にしても、それはその通りだろうが、読者は自由に読めばいいだろう。川合と柳本の暴走トークの邪魔をしないように心がけたが、ついよけいなことを言ってしまった部分もあったかもしれない。
川柳は最初の発想(題をはじめとする最初の言葉)からどこまで遠くに行けるか、だと私は思っているので、川合の川柳が三つの言葉からできていることが多いのを川柳の正統的な作り方だと感じる。ただ、それは日常的な意味のつながりとは次元が異なるから、いわば無意識を開放して作句しているようなものだ。無意識の世界に降りてゆくと、いろいろ変なもの、コントロールできないものが現れたりするから、それを作品に定着するには川柳的技術の支えが必要となる。川合には20年に及ぶ川柳の経験があるから、川柳的技術が川合を支えるのではないか。川柳は何も支えないが、虚無を支えるのは川柳的技術しかない。私は何だか中村冨二のようなことを発言していたようだ。

道長をあまりシベリアだと言うな  川合大祐
風死して新体操の卑怯な手

『はじめまして現代川柳』の「ポスト現代川柳」の作者のなかでは、川合に続いて湊圭伍(湊圭史)の句集が書肆侃侃房から近日中に発行される。

5月11日
「当たりの進捗報告ラジオ」を聞く。
いままでもときどき聞いていたが、今回は暮田真名が自分の現代川柳についての考えについてまとまった話をしているので、真剣に耳を傾けた。
本屋B&Bの対談を聞いて、暮田は「島宇宙」という言葉に反応したようだ。これは柳本か川合のどちらかの発言だったと思う。現代川柳はコスモロジーを構築するが、それぞれの作者が自己の世界を追求しているので「島宇宙」になっている、というのだろう。それはそれでいいのだが、一部の先端的な表現者が孤立したところで作品を書いていることにもつながっている。
「川柳スパイラル」11号に暮田は〈「私」の戸惑いから〉という文章を書いている。時実新子を直接知らない世代からの新子批判なのだが、読者の受け取り方には二通りある。ひとつは新子に対する思いもよらない批判が新世代から行われたという驚き。ふたつめは、研究者であればもっと広範囲に新子に対する文献を調べたうえで発言すべきだというもの。時実新子が川柳界に与えたインパクトは大きいから、それを実際に知らないことは弱点にもなるが、作者とは切り離されたテクストによって新子を論じるという強みもある。
「当たり」19号より。
彦星に無断で飾り付けをする  暮田真名
当然にあっ大学生なんです(笑)があっ社会人なんです(笑)になる 大橋なぎ咲

5月14日
「紀の国わかやま文化祭2021」(第36回国民文化祭わかやま)連句の祭典の募吟が締切られる。形式は二十韻。締切直前に応募作品が集中するから、応募数が少ないのではという心配が続き体に悪い。
連句に対する潜在的意欲について。小澤實の「澤」は連句実作を行っている数少ない俳句結社である。
「オルガン」25号の座談会、小澤實の発言より。
「結社で連句をするのは珍しいと思います。俳句が下手になるというのは間違いですけどね。単にそれを言った人が連句を知らないだけでしょう。連句は俳句の母体なので大事にしたいと思っています」

5月×日
前回の時評の最後で伊藤律の作品を紹介したので、もう少し補足しておく。

津軽地吹雪新墓ひとつ呼応せり  伊藤律

句集『風の堂橋』所収。『現代川柳ハンドブック』(雄山閣)の「現代川柳作品100」にも掲載されていて、佐藤岳俊は次のように解説している。
「律は父の三回忌に、句集『風の堂橋』を産んだ。酒を愛し、酒で死に水を取った父の血を自覚する時、その血の中に津軽の地吹雪が荒れ狂っている。律の、父に対する報恩の精神が新しい墓から吹き上がってくる」
伊藤律は泉淳夫の「藍」にも所属していた。「藍」のバックナンバー「泉淳夫追悼」(終刊号、1989年4月)を開いてみると、「鶴」というタイトルで律の作品が掲載されている。

 泉淳夫先生追悼
前前の世にも鶴降るきさらぎの    伊藤律

「前前」には「さきざき」とルビがふられている。この追悼句は泉淳夫の代表作「如月の街 まぼろしの鶴吹かれ」を踏まえている。注目されるのは、その次の二句目に「津軽地吹雪新墓ひとつ呼応せり」が掲載されていることで、そうするとこの句は泉淳夫に対する追悼の思いが含まれていることになる。
「藍」には当時の有力な女性川柳人が参加していたので、紹介する。

どの絵にもわたしがいない冬景色   徳永操(井原)
落ち椿すでに挫折の形して

だんまりの沈丁花なら生き易し    西山茶花(岡山)
春一番氷髪の母を裏返えす

白い翁と憂き身をやつす風の谷    児玉怡子(小田原)
沖へゆく思惟仏の背に雪よ降れ

いのちというダンラク木槿は空の短調 福島真澄(東京)
木槿忌の二時の揺り椅子は揺れき

5月×日
そろそろ「川柳スパイラル」12号(7月25日発行)に向けて準備をしなければならない。
この号のテーマは「女性川柳」である。ゲスト作品・評論は女性の作者・執筆者に依頼している。「女流川柳」という表現はもう使われなくなったが、「女性川柳」という言い方にも問題がありそうだ。そこで特集名を「女性川柳とはもう言わない」とすることに。現代短歌、現代俳句ではどのような表現者が現れているのかも含めて誌面構成をしたい。
2017年5月6日に中野サンプラザで開催したイベント「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」で柳本々々は次のように発言している。
「川柳は瀬戸夏子に出合うことによってジェンダーを自覚するかもしれない」
この言葉をモチベーションにして、12号のテーマに取組んでみたい。