2012年7月27日金曜日

俳句と川柳における異界

真夏である。
陽射しが強く明るいが、それだけ闇の部分も濃く深い。

7月7日は麻生路郎の忌日である。路郎忌にちなんで「川柳塔」7月号に「川柳と俳句―麻生路郎の辞世をめぐって―」という一文を寄稿した。周知のように路郎の辞世は次の句である。

雲の峯という手もありさらばさらばです   麻生路郎

「さらばさらばです」と言ってのけるダンディズムは、さすがに路郎にふさわしいと評価の高い句である。しかし、私は、川柳人・麻生路郎の辞世に「雲の峯」という季語が入っていることに、かねがね疑問をいだいていた。そのこととからめて、臨終の路郎の脳裏に浮かんだかも知れない「川柳と俳句」の問題を論じてみた。

伊那の自然を背景にしたドキュメンタリー・フォークロア調の映画「ほかいびと」の上映をきっかけとして、井月のことが再評価されている。
製作協力者の一人・久保田夜虹氏から「伊那路」(第56巻第7号)を送っていただいた。「井月特集号」である。それまで忘れられていた井月の句集が世に出るについては、芥川龍之介の役割が大きかったことが知られている。「伊那で観る映画『ほかいびと~伊那の井月』~」(吉原千晃)では次のように書かれている。

「大正十年(1921)十月、芥川龍之介の主治医でもあった下島勲(空谷)は、『井月の句集』を出版し、はじめて井上井月を世に出した。その後、昭和五年(1930)に高津才次郎と共に出した『井月全集』が以後井月のバイブルとなる。空谷との親交から芥川龍之介は『井月の句集』に跋文を寄せ『このせち辛い近世にも、かう云う人物があったという事が、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある』と評している」

井月を主人公とした小説『井上井月伝説』(河出書房新社)を江宮隆之が書いていて、その序章は「大正七年夏 田端・芥川龍之介宅」である。小説では芥川と下島空谷の間でこんな対話が交わされる。

「いつか私もその井月を小説に書いてみたい。先生の話をお聞きして今、そんな気になっています。それにしても、もっと井月の俳句を読んでみたいものですねえ」
「それが、龍之介さん、多くが散逸してしまいまして……どれほど残っているか」
「それはいけないですよ!」
芥川が大声を上げた。
「はっ?」
「井月の俳句を散逸させたら、井月は過去の彼方に行ってしまいますよ。空谷先生」
「…?」
「だから、先生が井月の俳句を集めて世に出せばいいのですよ」
「井月の句集を?」
「そうです。そうすれば散逸は防げます。井月を未来に残せます。それは空谷先生、あなたの手でやるべき仕事ではないでしょうか?」

『井月の句集』は田端文士村のバックアップで世に出たのである。あと、「伊那路」掲載の「『はいかい僧 中書を訪ね』その後」(下平道子)では、井月長岡藩士説に疑問を呈し、上越市高田の「長岡(なおか)」の当正寺の出自であるという異説が出されている。

さて、芥川龍之介の辞世は次の句だと言われている。

水洟や鼻の先だけ暮れのこる    龍之介

芥川が亡くなったのは昭和2年7月24日である。「水洟」は冬の季語ではないか。
前日の23日、芥川は上機嫌であった。来客が帰ったあと、書斎から降りてきた彼は、叔母のふきに一枚の短冊を渡し、「これを明朝、下島(空谷)先生に渡してください」と言った。短冊には「自嘲」として上掲の句が書かれていた。
この句は元来、大正14年の作で、上五は「土雛や」だったという。それを後に「水洟や」に改作し、「自嘲」という前書きを付けたかたちで知られている。芥川は旧作を辞世として用いたことになる。村山古郷の『昭和俳壇史』には次のように書かれている。
「『土雛や』が『水洟や』に改められ、且つ、『自嘲』の前書が付けられたことによって、この句は写生の句から、自画像的な境涯句に変質した。そして、死の直前、下島勲に残した短冊にこの句が認められていたことによって、この句には凄愴味が加わった」

長くなったが、ここまでは前置きである。
本日は真夏に読むのにちょうどいい新書を紹介したい。倉阪鬼一郎著『怖い俳句』(幻冬社新書)である。ミステリーやホラー小説の作者で俳人でもある倉阪が選んだのだから、怖い句が満載されていることは間違いない。たとえば次のような句。

月涼し百足の落る枕もと     槐本之道

倉阪は次のようにコメントする。
「この呼吸は、図らずも、ある種のホラー映画の作り方に似ています。穏やかな風景で安心させておいて、やにわにぎょっとさせるのは恐怖を喚起する常道の一つでしょう」

俳句を「怖さ」の面から読み解くというアプローチの仕方は新鮮である。けれども、それはからめ手から攻めたというのではなくて、俳句形式そのものに由来するものである。著者は「まえがき」で次のように書いている。

「俳句の怖さは、その決定的な短さに由来します。語数が足りない俳句においては、たとえ謎が提出されても、委曲を尽くしてその謎を解くことができません。逆に、仮に解決めいたものが記されていたとしても、今度は謎が何であったか淵源へとたどることができなくなってしまうのです」
「その結果、なんとも宙ぶらりんな状態が残ります。謎が謎のままに残る小説や詩などもむろんありますが、説明が付与されない不安、ひいてはそこから生まれる怖さということにかけては、俳句の右に出る形式はないでしょう」

こうして選ばれた怖い俳句を挙げてみる。

襟巻の狐の顔は別に在り        高浜虚子
人殺ろす我かも知れず飛ぶ蛍      前田普羅
芋虫の一夜の育ち恐ろしき       高野素十
太陽や人死に絶えし鳥世界       高屋窓秋
半円をかきおそろしくなりぬ      阿部青鞋
セレベスに女捨てきし畳かな      火渡周平
雛壇のうしろの闇を覗きけり      神生彩史
帰り花鶴折るうちに折り殺す      赤尾兜子
13階の死美人から排卵がとどいている  加藤郁乎
きみのからだはもはや蠅からしか見えぬ 中烏健二

別に怖くないという向きもあろう。怖さの感覚は人によって異なっている。では、著者は何をもって怖いというのか。それは阿部青鞋の句についてのコメントによく表れているのではないかと思う。

「阿部青鞋には、不可知の領域にある『原形質のぶよぶよしたもの』に対するまなざしが抜きがたくあるように思われます。私たちが見ているこのまことしやかな世界の裏面には、言語化することができない白い不定形なものがウレタンのごとくに埋められている。その世に知られない構造を直観的に鋭く把握し、平明な言葉に定着させたのが、阿部青鞋の怖い俳句の魅力でしょう」

私の愛唱する中烏健二の蠅の句が取られているのも嬉しいが、「自由律と現代川柳」の章では次の六句の現代川柳が取り上げられている。

首をもちあげると生きていた女    時実新子
指で輪を作ると見える霊柩車     石部明
蛇口からしばらく誰も出てこない   草地豊子
目と鼻をまだいただいておりません  広瀬ちえみ
三角形のどの角からも死が匂う    樋口由紀子
処刑場みんなにこにこしているね   小池正博

石部明の句には異界をとらえるアンテナがあり、広瀬や樋口の作品には現実を変容する川柳の眼がある。「怖い川柳」を私なりに挙げてみようかと思ったが、もう長くなるので止めておく。
私は「写生」という言葉には違和感をもっており、目に見えるものだけがすべてではないだろうと思っているが、倉阪の選んだ俳句は新鮮で、俳句にも広々とした表現領域があることを納得させられた。巻末の文献一覧にあるように、このアンソロジーを編むには膨大な句集を読む必要があったことだろう。
川柳も読むことから始めなければならない。

2012年7月21日土曜日

川柳カードをどう切るか

短詩型文学は実作が中心で「批評」という営為は必ずしも重視されているとは限らない。「批評家」という呼び方には否定的ニュアンスが込められる場合がある。偉そうなことをいうなら自分で作ってみろ、というわけである。小説の場合は作家と批評家の分業が確立されているが、短歌や俳句の場合は実作者が批評も兼ねているから、実作に重点を置く傾向は避けられない面もあるのだろう。特に川柳においては、ひたすら実作あるのみである。

このような状況の中で、最近「批評」ということに関して注目した文章が二つあった。
一つは短歌誌「井泉」46号に掲載された江田浩司の「批評への意志を心に沈めて」である。同誌のリレー小論「短歌は生き残ることができるか」の一環として書かれた文章だが、江田はこんなふうに述べている。

「短歌への否定的な発言が、歌人の内部から生まれる限り、短歌は生き残ることができる。それは、パラドックスでもなんでもない。表現の自然な摂理と言っても間違いではないだろう。短歌の否定論や滅亡論が繰り返し現れるのは、表現としての健全さを短歌が担保しているという証左である」
「自己の創作に基づく、狭隘でエゴイスティックな肯定性が、批評の場で発揮されるだけで、若い世代、来たるべき世代に、希望を与えるような批評が提示されなければ、短歌は伝統芸としての道を歩み続けるだけである」

そのような若い世代に希望を与えた批評として、江田は1975年の岡井隆の批評を例に挙げている。5年の空白期間を経て歌壇に復帰した岡井は短歌時評で次のように書いている。

「実感とか事実とか生活とか、かつて二度も三度もだまされたはずの空手形を信ずるふりをしてみたって、結果のむなしさはわかっているのに、未来が見えなくなると人は、過去をふりかえっては、そのくせ手近なところで藁をつかみたがる」(1975年「読売新聞時評」「歌集評釈のすすめ」)

岡井の文章を引用したあとで、江田は「短歌創作の意志に、自己批評を含む批評の意志が、有機的に結びついていかない限り、短歌の新たな地平は拓かれてはいかない」と述べる。心をうつ文章である。批評性を生命とする川柳が自己自身に対してだけは批評の意志を向けないのは不思議なことである。同人誌「ES」23号には江田の『緑の闇に拓く言葉(パロール)』の近刊予告が掲載されている。楽しみにして待つことにしよう。

二つ目は、「円錐」の編集後記に記された今泉康弘の一文。
「俳句総合誌の作品がつまらないのは、『つまらないぞ!』とハッキリ言わず、ほめ合いに終始しているからだろう。真剣に批判するのはシンドイ。とにかく褒める方が楽だ。そのことを最近になって身にしみて知った」
私はこの文章を「豈」53号に転載された大井恒行の文章から孫引きしているのだが、大井は今泉の文章を引用したあと、「自らも批評だけではなく俳句を書く彼にとって、他者への批評の刃は自らを切りつける。それが冒頭の『真剣に批判するのはシンドイ!』という吐露につながっているのではないか」と述べている。

7月1日に「川柳カード」創刊準備号という20ページの薄っぺらな冊子が発行された。
赤を主体とした表紙に、「SENRYU」のカードがデザインされている。中の一枚には何も書かれていない。
「シャッフルの時代」と言われて久しい。「シャッフルの時代」とは「ジャンル越境時代」ということだろう。短詩型の諸形式をカードにたとえてみると、短歌カード・俳句カード・川柳カードなどがある。従来は、それぞれ独立したジャンル内で作品が読み書きされていたのだろうが、カードをシャッフルするようにジャンルの越境がはじまっているという認識である。
これまで川柳は内向的であった。短詩型の他ジャンルに対して川柳を発信するという意識に乏しかった。もっと川柳というカードを使ってみたい気がする。

発行人の樋口由紀子は巻頭言で、レディー・ガガのシューズをデザインした日本人・舘鼻則孝(たてはな・のりたか)のことを取り上げている。彼は大学の卒業制作の作品を世界中のファッション、セレブ関係者にメールで売り込んだ。それがガガのスタイリストの目にとまって注文が来たという。メールで売り込むこと自体は誰でもできることである。彼が逆に気づかされたのは「意外にみんなやってないんだ」ということだった。この話の後で、樋口は次のように言う。
「川柳にも『意外にみんなやってない』ことがたくさんある。誰でも出来るのに、誰も禁止していないのに、自由にやれるのに、やってないことが山ほどある」

短律は垂れる分け合う空の景       清水かおり
バスタブの豆腐百丁ならどうぞ      平賀胤壽
まなうらにリング善人ばかり見え     丸山進
なぜなぜと偏平足を差し出せり      草地豊子
三日ほど咲いたら雨に負けている     広瀬ちえみ
球体の茶室でさがす膝の向き       兵頭全郎
たくさん食べてペンペン草になるんだよ  松永千秋
整形が済み賑やかな野菜市        小池正博
日に札を透かしてみれば三畳紀      筒井祥文
全世界冗談にする桃二つ         樋口由紀子

10人が各10句ずつ作品を発表している。
これに小池正博の評論「関係性の文芸―川柳という原理について―」が付く。
「関係性」は現代思想のキイ・ワードである。ソシュールの影響を受けたものなら、誰でもこの言葉を使うだろう。
すでに堺利彦の『川柳解体新書』(新葉館・平成14年)には次のように書かれている。

「十九世紀から二十世紀への思想は、『〈実体〉から〈関係〉へ』という大きな転回がありました。ここでいう〈関係〉とは〈相対〉と同義であって、いわばそれまで〈絶対〉的なものとして考えられていたものが、ものごとの関係性を通して相対的に捉えられ、じつは〈実体〉というものはなく、そこにあるのは単にものごとの〈関係〉を通して認知される〈差異〉に過ぎないということがあらわになったわけです」
「〈川柳のまなざし〉は、こうした相対主義思想の遙か以前から〈実体〉を突き崩し、ものごとを〈関係〉として捉えていたと言っては身びいき過ぎるでしょうか」

小池の文章は「関係性」をキイ・ワードにしながら、萩原朔太郎の『詩の原理』にならって、形式論と内容論から川柳を素描している。大きく出たものである。

「川柳カード」創刊号は11月下旬に発行の予定。
9月15日(土)には大阪・上本町で「川柳カード・創刊記念大会」が俳人の池田澄子をゲストに迎えて開催されることになっている。

2012年7月13日金曜日

めでたさも中くらいなり100回目

川柳の時評というものは果たして可能だろうか。
文芸時評・短歌時評・俳句時評は確立されているのに、「川柳時評」が見当たらないのはもの足りないことである。
そう思って「週刊川柳時評」を立ち上げたのが、2010年8月。今回で100回目になる。特に記念というほどでもないが、これまでの記事を振り返って次へ進むことにしたい。

当初の私の計画では「週刊川柳」あるいは「週刊バックストローク」というかたちのウェッブ・マガジンを目指しており、周囲の川柳人に相談してみたが、「そんな無謀なことはやめておけ」と止める人は誰もいなかった。毎号、川柳作品・評論・エッセイなどを掲載するつもりだったのだから、今から考えれば恐ろしい。誰も止めないので、逆にこれは危ないと思い、スキルもスタッフもない状態では無理だという判断をしたのは賢明だったというべきか。企画を縮小して「時評」に特化することになった。
2010年6月ごろのファイルに「週刊バックストローク」のプランが残っている。実現しなかったプランを公開しても意味のないことだが、話のタネとしてご容赦いただきたい。
「週刊バックストローク」創刊号の誌面は五つの部分から構成される。

①作品A 現代川柳(新作) 5句
②作品B 近代・現代川柳 中村冨二 10句
③原稿C 評論またはエッセイ
④時評D 「川柳時評」
⑤連載E

当時、青磁社の「短歌時評」がおもしろく、二人の執筆者が交替で時評を掲載していた。そのイメージで、執筆者が4人なら一人当たり月一回で負担も少ないと思ったりした。時評の内容は次のように考えていた。

①句会・大会レポート
②柳誌評
③句集評・川柳書の書評
④現代川柳の諸問題
⑤月評(今月の展望)

プランをあれこれ立てるのは楽しいものである。しかし、実現するとなると、10考えたことのうち3くらいできればよいほうである。そういう意味では私はイデア論者なのだ。イデアの世界は美しいが、現実化するとぐちゃぐちゃになってしまうのが常である。その中でどのようにしてクオリティを保つことができるか。「週刊川柳時評」はそういう夢の欠片である。

そもそも「川柳時評」の場合、俳句・短歌のように総合誌が何種類もあるわけではないし、川柳句集が次々に刊行されることもない。題材やトピックスに困るだろうと思っていたが、実際に始めてみると予想以上のことであった。川柳以外の話題も取り上げているのは苦し紛れでもあるが、短詩型文学全体の中で川柳の現在位置をとらえたいというつもりもある。川柳自体の話題を正面から取り上げることができる週は書いていても嬉しい。
毎日50~60のアクセスがあり、月1800程度。100回で30000を少し超えたところである。
アクセス数の多かった記事を紹介する(グーグルではアクセスではなく、ページビューと言っているようだ)。

「難解」問題は権力闘争だったのか(2011/2/4)         773
『番傘百年史』を読む(2010/10/15)                342
『超新撰21』を読む(2010/12/17)                  210
橘高薫風の抒情(2011/4/15)                  165
『麻生路郎読本』(2010/11/12)                  165
くんじろうの川柳(2010/11/5)                    134
川柳・今年の10大ニュース (2010/12/10)           129
句集評ということ―『魚命魚辞』と『アルバトロス』(2011/4/2)  119
春なのにお別れですか(2012/3/30)                  116
大友逸星と「川柳杜人」の歩み(2011/5/20)            109

10大ニュースは2011年にも行なったが、なぜか2010年の分にアクセス数が多い。
タイトルの付け方にもよるのだろう。「春なのにお別れですか」は訃報が続いたのでこういうタイトルにしたが、中島みゆきの歌で検索する人があったのかも知れない。
アクセス数トップの「『難解』問題は権力闘争だったのか」は「俳句の難解と川柳の難解」(2010/8/27)から派生して、関悦史人気にあやかったものである。
あと、自分でも印象に残っているのは次の回である。

川柳における「宛名」の問題(2010/11/19)
柴田午朗の「痩せた虹」(2011/1/7)
白石維想楼小論(2011/6/17)

振り返ってみると、この間、「川柳時評」で取り上げてきた内容は次のように分類できる。

①川柳の本質をめぐる問題(難解問題・言葉派・問答体など)
②川柳史・川柳史観をめぐる問題
③川柳作家論
④大会レポート・川柳の「場」をめぐる問題
⑤その他隣接諸ジャンル・芸術をめぐる問題(連句・雑俳・岡本太郎・映画・落語など)

とはいえ、これらは私の中ではすべて川柳の問題だったことになる。
現前する問題をこれまでの川柳史の流れのなかで適切に掴みとってくることができるだろうか。この時評にもそろそろマンネリズムが忍び寄っている気配である。

二年間の時間の流れも中途半端なものではなく、川柳をめぐる状況も変化してきている。「バックストローク」はすでになく、私自身のこれからの川柳活動は11月に立ち上げる新誌「川柳カード」を中心に展開するつもりである。
今回は100回目ということで楽屋裏の話に終始してしまった。次回から本来の時評に立ち戻りたい。

故郷へ廻る六部は気のよわり   『柳多留』初篇

2012年7月6日金曜日

川柳の根本精神をめぐって―田口麦彦著『川柳入門』

6月30日(土)
「ほかいびと・伊那の井月」がいよいよ今日から大阪でも上映されることになったので、さっそく見に行った。場所は九条のシネ・ヌーヴォ。あいにくの雨。
井月のことは石川淳の『諸国奇人伝』で知ったから、随分以前から井月には関心があった。つげ義春「無能の人」という漫画もある。伊那に山荘をもっている連句人の久保田堅市氏から井月の映画化の話を聞いたのが4年前で、伊那の井月の俳諧史跡を訪ねたのが2008年5月。六道堤や井月墓などは鮮明に記憶に残っている。
監督は北村皆雄。主演は田中泯。北村監督はドキュメンタリー映画を撮り続けていて、民俗学にも詳しいという。ドキュメンタリー・フォークロアという用語もあるらしい。井月に扮する田中泯以外はプロの俳優を使わず、地元の人々が演じている。その表情が自然だ。中には監督の小学校時代の先生や郷土史家などもいるという。
上映後、北村監督と上野昂志(映画評論家)のトークを聞いた。監督は伊那の出身。伊那を飛びだした彼が故郷をどのような気持で映画化したのだろうと考えながら対談を聞いていた。
帰り道、九条の商店街でひとり居酒屋に入る。この街はけっこう呑み屋が多い。居酒屋探訪が楽しめそうだ。

7月1日(日) 
玉野市民川柳大会。雨。
岡山駅から茶屋町乗り換え、宇野駅に着く。
会場には10時40分ごろに到着。投句〆切が11時半。急いで句を書く。
出席者120名くらいで、ひとり二句出句だから250句近い句数になる。そこから平抜き43句、佳吟5句、準特選1句、特選1句。
兼題「模様」の選をする。
いずれ発表誌が出されるが、私が選んだ特選句だけ紹介する。

想い馳せると右頬にインカ文字   内田万貴

7月3日(火)
森田智子の第四句集『定景』(邑書林)を読む。
第一句集『全景』、第二句集『中景』、第三句集『掌景』だから、こだわりのある句集名である。森田は俳誌「樫」の代表。野口裕に誘われて一度句会に参加したことがある。

走馬灯真上から見る無神論  森田智子
コスモスは紀音夫の宇宙風微か
五月くる楽観主義のオランウータン
先に来て凧揚げている待合せ
春愁の感情線に塩を振る

7月5日(木)
田口麦彦著『川柳入門・はじめのはじめ』(飯塚書店)を読む。
田辺聖子の序文「川柳の根本について」では次のように紹介されている。

ここで田口さんは、やさしい文章で説明されてはいるものの、川柳の根本精神をまず提起していられる。氏はそれを「こころざしが必要」という言葉で表現されている。文明批評の精神を根本に据え、人間諷詠を中心にしたものが川柳である、と。

川柳に「こころざし」が必要とはどういうことだろう。
第三章「川柳との出会い」の中に〈 はじめに「こころざし」ありき 〉という部分がある。川柳は短歌・俳句とくらべて文芸価値の低いものなのだろうか、という問題提起のあとで田口は次のように述べている。

私は、そのようなことは決してない―と、信じております。川柳を作るためには、「こころざし」が必要なのです。それも、「人間が生きて行くということは、どういうことなのだろう」と、問いかける強い「こころざし」が出発点になるのです。

そして田口が川柳を書く出発点が語られる。昭和28年6月、九州地方を襲った大水害(6・22熊本大水害)を前にして呆然と立ちすくんだ麦彦は、生きている証しとして川柳を書き始めたという。

水引いて誰を憎もう泥流す   田口麦彦

火災によって無一物となってから「川柳の鬼」となった定金冬二、男性社会に挑戦して独自の世界を切り開いた時実新子、田口の師匠の大嶋濤明のことにも触れられている。
「こころざし」と言われると身を引いてしまうし、私なら「こころざし」という言葉は使わないが、人が川柳をはじめるときの「何か」。それを田口は「こころざし」と呼んでいるのだろう。「それ」があるから川柳を書き続けられるし、さまざまな事情で川柳から離れざるをえなくなっても結局は川柳を捨てられないような何か本質的なもの。そういうものをもっているのが本当の川柳人なのだろう、と考えた。

長靴の中で一ぴき蚊が暮し     須崎豆秋
大宇宙両手ひろげた巾のなか    大嶋濤明
この溝を一緒にとんでくれますか  高橋かづき

7月6日(金)
このブログも今日で99回を数えた。
次週は100回目となるが、ふだん通りに書くか、それともささやかでも何かの特集にするか。そのときの心のままにまかせることにしよう。