2011年6月25日土曜日

雑俳の話―太田久佐太郎と現代冠句

今回は時評ではなくて、雑俳の話をしてみたい。
雑俳の解説書を読むと、前句付をルーツとする川柳は雑俳の一種に分類されている。特に雑俳のうちでも笠付(冠句)は川柳と関係が深い。
川柳作品のうち冠句的手法を用いている作品から話を始めよう。川上三太郎の連作「雨ぞ降る」は川柳人によく知られている。

雨ぞ降る音なし香なし海五月   川上三太郎
雨ぞ降る地を噴きいでて桃咲ける
雨ぞ降るわが子の宿痾言ふなかれ
雨ぞ降る渋谷新宿孤独あり
雨ぞ降るリュックの米をこぼし行く
雨ぞ降る地を傷つけて電車混む
雨ぞ降るけものの如きすとらいき

上五がすべて「雨ぞ降る」で始まっていて、それに対する十二音の展開・ヴァリエーションによってひとつの作品世界を作り上げている。「雨ぞ降る」を冠句における冠(笠題)と同じように捉えることができる。屹立する一句としては「雨ぞ降る渋谷新宿孤独あり」が有名であり、他の句はそれほど印象に残らない。三太郎は「河童満月」「孤独地蔵」「せいぢか」「一匹狼」「恐山」などの連作を作っているが、「孤独地蔵」の場合も上五がすべて同じ、「一匹狼」「恐山」では上五以外に用いる句も混在している。「せいぢか」の場合は上五に用いているが、「せいぢか」が四音なので「せいぢかの」「せいじかに」「せいじかは」というかたちになっている。笠付の分類で言えば「伊勢笠付」に相当する方法である。
冠句と川柳とは出来た作品からだけでは区別することができない。実際、一人の作者が冠句と川柳を並行して作っていることもあるらしい。

筑紫磐井著『近代定型の論理』(邑書林)の第二部「近代雑俳の論理」では、近代雑俳として狂俳・冠句・淡路雑俳・土佐狂句・肥後狂句・薩摩狂句などが取り上げられているが、私が特に興味をもつのは冠句(正風冠句)である。
笠付(冠句)の創始者は京都の堀内雲鼓で、元禄6年にはじめて興行されたという。昭和9年に雲鼓の墓碑が発見され、上徳寺(京都市富小路五条下る)に「日のめぐみうれしからずや夏木立」の句碑が建立された。頴原退蔵の銘文に曰く「冠句ハ俳諧ノ大衆性ヲ最モ要約セル文芸タリ。之ヲ世ニ汎クセルハ雲鼓翁ノ力ニ拠ル。其ノ編セル夏木立ハ実ニ冠句集ノ嚆矢トス。今ヤ冠句ガ大衆文芸トシテ新生面ヲ拓カントスルニ際シ久佐太郎氏等相謀ツテ該集巻頭ノ一句ヲ石ニ勒シ以テ翁ノ業績ヲ顕揚セントス」
太田久佐太郎(明治24年~昭和30年)は神戸に生まれ、10代から川柳に親しんでいたというが、「講談倶楽部」の冠句欄の選を担当するようになったのがきっかけで、近代冠句史に重要な役割を果たすようになった。講談社は創立後「読者文芸欄」を設け、冠句の大衆性に注目して種目の中に取り入れたようである。久佐太郎の回想によるとこんなやりとりであった。

ある時、城月さんがヒョイと頭を擡げて、「君一つ、冠句の選をして見てくれませんか」と云った。私は「へぇ。」と云ったまま俄かには受け兼ねて眼をパチクリさせてゐた。これまで冠句は自分の選であったが社務多忙でどうも落着いて選が出来ない、それでは却って熱心な投稿家諸君に相済まぬわけだから、君代ってやってくれまいかという話。私がまだ煮え切らぬ顔をしてゐるので、察しのいい氏は、「川柳をやったことがあるでせう、その意気でいいんだ」と極めて都合のいいヒントを与えてくれた。(「冠句変遷史」、『現代冠句大概』所収)

城月とは「講談倶楽部」の編集主任・淵田忠良。久佐太郎は東京へ出てくる以前、神戸の地元新聞に投句して、ひとかどの川柳家を気取っていたようだ。最初、冠句を川柳より一段下に見ていた久佐太郎は選をするうちに、川柳でも狂句でも俳句でもない冠句それ自身の世界がなければならないことに気づいてゆく。
彼は「講談倶楽部」のほか「面白倶楽部」「キング」「読売新聞」などの選者をつとめ、昭和2年正風冠句研究誌「文芸塔」を創刊した。『現代冠句大概』(昭和4年)の「扉の言葉」に曰く「冠句は今や立派な十七字詩として俳句川柳と共に、三派鼎立の姿で確固たる芸術的地歩を占めようとしてゐる。新時代に台頭せる冠句芸術を味到せんものは、速かにこの扉を開くべし」
次に挙げるのが久佐太郎の作品である。

宝石箱  いちどに春がこぼれ出る    久佐太郎
風立ちぬ 易々となびくを葦といふ
風吹きぬ かげろう日記火蛾落つ音
或る男  村から消えて秋が来る
羊飼い  まさか俺が狼とは

久佐太郎は冠句の題は題詠といっても雑詠と同じだと考えていたらしい。「題詠的創作吟」なのだという。久佐太郎にいたって冠句は近代文学の理念に近づいたものとなっている。
冠句の近代化。筑紫磐井の『近代定型の論理』から久佐太郎以外の作品を紹介しよう。

秋の道  ちちははの樹が見当たらず    麗水
耳澄ます 否定の中に軍靴鳴る       竹男
砂灼ける 悪女となりて滅びんか      寿子
風光る  すでに少女の瞳が解禁     八重子
回想記  振り向けば皆ユダヤの貌     鬼童
窓の海  挑戦の眼へ椅子すすめ      外郎

これらの作者の中には川柳人も混じっているかも知れない。引用したのは文学性のある冠句であって、冠句がすべてこのような詩的飛躍感のある作品というわけではない。ベースにあるのがおびただしい大衆的作品であることは川柳の場合と同じである。

最後に「豆川柳」というものを紹介しておこう。
五七五よりも短い句として『武玉川』の短句(七七句)はよく知られているが、それよりもさらに短い詩形があるとしたら、世界の最短詩ということになるだろうか。
上越地方(高田)の「豆川柳」と呼ばれているものは、七五句である。冠句の題を省略した形にも見えるが、冠句ではなくて七五の独立句だとされている。昭和24年、「柏崎新聞」に発見・報告された。

堅すぎて身がかたまらぬ
下戸の知らない水貰ふ
何の話にも江戸がつく
ええ雨だのう金がふる

2011年6月17日金曜日

白石維想楼小論

この週刊「川柳時評」を毎週金曜日更新にしたのは、この曜日が穴場だと思ったからだが、最近、「詩客」をはじめ金曜日更新のサイトが増え、半ば嬉しく半ば困ったような気分である。「ウラハイ」(「週刊俳句」の裏ヴァージョン)の「金曜日の川柳」もそのひとつ。樋口由紀子が毎週一句を取り上げ、コメントを書いている。相子智恵の「月曜日の一句」と並んで楽しみなシリーズで、俳人に川柳作品を紹介する格好の窓口であろう。
その第1回(5月20日)で樋口が紹介したのが白石維想楼の「人間を取ればおしゃれな地球なり」という句である。今回は維想楼と新興川柳について少し論じてみたい。
まず『新興川柳選集』(一叩人編・たいまつ社、1978年)から、維想楼の作品を挙げておく。

口先の巨人畳の上で死に
ついてくる犬にもあてがないらしい
銃口の迫まるが如く冬が来る
病身な俺は地球の荷物なり
人間を取ればおしゃれな地球なり
いけにへを乗せて地球は空を行く
太陽に追ひつめられて寝ころがり
吊れもせぬ棚へ虚勢の釘を打ち
何の木にも居つかず小鳥木に棲ふ

大正10年から大正15年ごろの作品である。維想楼は井上剣花坊に師事、大正9年から「大正川柳」の編集人をつとめ、剣花坊の片腕として柳尊寺を支えた。
維想楼は「大正川柳」119号に「眼覚めたる人魚の笑ひ、新興川柳民衆芸術論」を執筆していて、前掲の『新興川柳選集』にも収録されている。
維想楼は繰り返されてきた「川柳民衆芸術論」の誤謬を指摘して、自身の考えを述べている。維想楼によれば、「川柳を民衆芸術であるという人」の中には、古川柳が純然たる町人の手で作られたから民衆芸術であるという人と、川柳の用語が通俗的だから民衆芸術であるという人とがある。けれども、町人の中にも有閑(富裕)町人階級と無産町人階級とがあったので、古川柳(前句付)は発句と同様に有閑町人階級(通人)によって作られたと維想楼は見る。それを真に民衆の生活を基点とした「民衆芸術」にし、「民衆芸術としての精神」を打ちたてなければならぬというのが維想楼の主張のようだ(この点、少しぼかして書いてあり、論旨がはっきりしない)。「眼覚めたる人魚の笑ひ」という前衛的なタイトルに比べて、現在の目から見て内容がやや平凡なのが残念であるが、「民衆芸術」とか「大衆芸術」とかいうキイワードは現在でも川柳人にとって躓きの石であることに変りはない。
気になるのは、掲出句に見られる暗さ、一種のペシミズムについてである。「人間を取ればおしゃれな地球なり」の裏側には、「病身な俺は地球の荷物なり」という慨嘆があることが分かる。地球全体をポエジーの対象としてとらえるやり方は新興川柳にしばしば見られるところだが、「地球の荷物なり」の感傷性と「おしゃれな地球なり」との間には大きな飛躍がある。維想楼はどのようにしてこの飛躍を成し遂げたのだろうか。

新興川柳期の維想楼についてのまとまった評論に、田中五呂八の「白石維想楼論」(『新興川柳論集』昭和3年、所収)がある。五呂八はこんなふうに述べている。

「自分の家を持たぬ詩人は詩人ではない。芸術は自己表現だという言葉は、言葉として既に常識になっているが、見渡したところ文壇だって詩壇だって、独自の思想と独個の感情を鮮明に把握する一元的な芸術家などは、そんなにゴロゴロ転っているものではない。況や自己の生命が、どんな色彩でどんな生活帯に根を下ろしているかも意識せずに、地球の表面をおどけ廻る既成川柳家に、高い意味の芸術的な個性など、薬にしたいほども無かったのは、天から雨の降るほど当然過ぎる当然である」

「地球の表面をおどけ廻る既成川柳家」とは辛辣であるが、この「地球」という表現自体が新興川柳期のモードでもあった。白石維想楼こそ一元的芸術家・個性的詩人のひとりであると五呂八は言う。五呂八によれば、維想楼は「悲観主義の範疇に置かれるべき作家」である。
「氏の魂は常にすすり泣いている。だが、そのすすり泣きの生活層は、単純なる諦めに根を下しているものではなくして、むしろ、生きる事それ自らを否定するような心持ちの方が熾烈であるだけ、そこにハッキリした思想の余裕を見せている。されば氏の感傷性は、俗に言うロマンチックな夢の嘆きではなくして、矢張川柳家らしい智的な統一体を持ち、その統一が自らを背負い切れなくなった時には、ナマのままで無責任に絶叫して仕舞うほどの情熱を常に蔵している」

「病身な俺」の句は「小主観の詠嘆」「自嘲的」「自己憐憫」であると五呂八はその弱点を指摘している。そのような感傷的傾向の句として、五呂八は次のような作品を挙げている。

床の中まで淋しさが待っている
或時は理智の遣り場に困るなり
誹謗する時は驚くほど多弁
一本の指が罵倒のありったけ
耳底に俺だけの知る鐘が鳴る

これらの「自嘲」「感傷」「苦悩」「自己哀憐」の句に対して『自我経』以後の維想楼の作品は一転機を画しているという。『自我経』というタイトルから、維想楼はスティルナーのアナーキズムの影響下にあったのだろう。

人間を取ればおしゃれな地球なり
乳房から母の綺麗を吸っている
太陽に追いつめられて寝ころがり
ペリウドの一点を蟻湧いて出る
白いきればかり洗って疲れてる

理智は感傷性をどのように押さえるのであろうか。ナマの感傷性は文芸とは言えず、川柳精神とも背反する。それは思わず発する叫びのようなものである。それがいかに切実であろうと、叫びだけでは表現とは言えない。「病身な俺は地球の荷物なり」というルサンチマンと自虐から「人間を取ればおしゃれな地球なり」への高まりの中にこそ、白石維想楼の文学的達成はあるだろう。

昭和37年以後、維想楼は柳号を白石朝太郎に統一した。川柳人・白石朝太郎の軌跡はよく知られている。大野風柳編『白石朝太郎の川柳と名言』(新葉館ブックス)にもある程度書かれている。しかし、白石維想楼=朝太郎の全貌が明らかになるのはまだこれからのことであり、とりわけ私が愛惜するのは新興川柳期の維想楼作品なのである。

2011年6月10日金曜日

大橋麻衣子『JOKER』―歌集の批評会に行きました

現代川柳について考える際に現代短歌から学ぶことは多い。私自身にとっても、2000年代前半は短歌の批評会や歌会に何回か参加する機会があって、そこからさまざまな刺激を受けることがあった。インターネットの世界でも短歌が一番進んでいて、短歌結社や個々の歌人のホームページを「電脳短歌イエローページ」から検索することができた。最近でこそ「週刊俳句」というウェブマガジンができて、なぜ同じことが短歌でできないのかという声も聞かれるが、以前は明らかに短歌が先行していたのである。
今回は短歌について二、三の話題を語ってみたい。

塚本邦雄が亡くなったのは2005年6月9日であった。今年で6年になり、6月12日には東京の日本出版クラブ会館で「神變忌7回忌シンポジウム」が開催される。司会・魚村晋太郎、パネリスト・藤原龍一郎、堂園昌彦、野口あや子。関西にいるとこういうシンポジウムに行けないのが残念である。

さて、5月28日(土)に大橋麻衣子歌集『JOKER』の批評会に参加した。大橋麻衣子は「短歌人」に所属。第一歌集『シャウト』(2004年)。『JOKER』(青磁社)は第二歌集である。

水面に金魚ぷっかり浮き上がる夫婦が愛と言い張るたびに    大橋麻衣子
振り向けど壁があるのみ鏡面のわが背後には蝶が群れ飛ぶ
倖田來未くずれがホストくずれ連れファミレスで子らを威嚇している
ともにゆく選択肢は与えてくれず去るつもりもなく遠くに牡鹿

批評会の司会は斎藤典子、パネラーは彦坂美喜子・川本浩美。発起人・藤原龍一郎・永田淳も出席。彦坂美喜子は歌集全体の表現の特徴について次のようにまとめている(当日のレジュメから)。

〈「私小説的物語」。近代における事実を重んじ虚飾を否定する自然主義文学とは違う。物語(虚構)を前提として、表現が事実をつくる。事実を書くのではなく、書かれたものが事実を作るということ。その装置として、登場人物、内面表白形式が使われる〉

この歌集を「物語という装置」と位置付けたことが、この批評会の方向性を決定した。前回の『シャウト』の批評会では、現実・事実に還元した読み方が行われ、現実に不満をもつ主婦のはけ口として受け止められる傾向が強かったから、彦坂の規定はいっそう鮮やかだった。短歌が「私の思いの表現」だと考えている人が、書かれていることが事実だと思って立腹するとすれば、それは作品として成功していることになる。

パネラーの話を聞きながら、『JOKER』は「大橋麻衣子」を「作中主体」とする物語なのだろうと思った。
歌物語の場合、詞書があって和歌がある。『JOKER』の場合、書かれていない詞書に当たるのが世間の常識である。ここには「琴瑟相和す夫婦」や「良妻賢母主義」という社会常識に反抗して自己に忠実に生きていこうとする「作中主体」がいる。高村光太郎の『智恵子抄』が光太郎と智恵子の愛の物語と読まれているのとは方向性は違うがこれもひとつの物語なのだろう。ただ「愛を語る夫婦」というような世間常識が現実的にはとうに崩壊しているのだとしたら、それに対するアンチという書き方がいつまで有効なのだろうという疑問も感じてしまう。
これは「大きな物語」ではなくて「小さな物語」である。だから、フェミニズムなどの「大きな物語」とは無縁である。
彦坂の問題提起は「物語という装置の使い方」にあるから「物語を殺す」とか「反物語」なども視野に入っているだろう。「反物語」まで行ったときにどのような短歌表現が生れるのか、興味がある。
藤原龍一郎は、塚本の「馬を洗はば…」という歌では誰も作者が本当に馬を洗っているとは思わないのに、大橋麻衣子に対しては現実に還元して読まれることに疑問を呈していた。
『JOKER』では最初から現実と混同させるような書き方が選択されている。
川柳で似たような例を挙げれば時実新子の書き方になるだろうか。
書かれていることが真実だと読者は思っていたのに、テレビ番組の「徹子の部屋」で「今までの作品の中の私は作り物で、本当の私は夫思いのよき家庭人」と語ったとき、川柳人の多くは裏切られたような気がしたらしい。
大橋麻衣子は本来、技巧の持ち主だという。

押え込む感情の底に森はあり青光りする象と出くわす   大橋麻衣子

この歌を彦坂は前衛短歌的レトリックだという。「象」は脳内風景であり、このような書き方をいまの若い歌人はしない。たとえば、笹井宏之のレトリックとは違う。

もう一人のパネラー・川本浩美は当日体調が悪い様子で気の毒だったが、発表の責務を果たされた。レジュメは「オオハシ、大橋を撃て!」というタイトルで、

家族という「関係」―疑わねばならぬもの
社会、他者への視線―悪意の類型化を越えうるか
風景と自己意識―テーマ性の明確さと危うさ
現実と「モノ」、「コト」―不透明さの可能性

について話された。

『JOKER』とは直接関係はないのだけれど、当日、笹井宏之の歌集も鞄に入れて持っていた。笹井が第4回歌葉新人賞を受賞した「短歌ヴァーサス」10号や「新彗星」3号の「追悼・笹井宏之」もたまたま手元にある。今でも気になっているのは江田浩司が「万来舎・短歌の庫」に書いた〈笹井宏之『ひとさらい』を読む〉(2009年1月19日)である。江田浩司はこんなふうに書いていた。

「確かに笹井短歌の特徴には、意外性のある言葉同士の融合による言葉の意味に対する脱コード化の魅力がある。また笹井は短歌という定型詩の内部で脱コード化を行うことの可能性と限界に無頓着な側面を併せ持っている。つまり、笹井の創作は意味の脱コード化が短歌の詩型の機能と相乗的に効果を表す場合と、短歌が意味の脱コード化を行うトポスにすぎない場合の二種類に分けることができる。そして後者の例がこの歌集にはかなり見られる」

こういう指摘は現代川柳にとっても他人事ではないだろう。
そして、江田の指摘はその後深められることもなく、笹井の突然の死によって笹井短歌の検証が実質的に中断してしまったように思えるのは残念な気がする。

二十日まえ茜野原を吹いていた風の兄さん 風の母さん       笹井宏之
「雨だねぇ こんでんえいねんしざいほう何年だったか思い出せそう?」
嫌われた理由が今も分からずに泣いている満月の彫刻師
それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした
野菜売るおばさんが「意味いらんかねぇ、いらんよねぇ」と畑へ帰る
「ねえ、気づいたら暗喩ばかりの中庭でなわとびをとびつづけているの」

短歌誌「ES廻風」第21号を送っていただいた。
『JOKER』批評会の後の懇親会で小中英之の全歌集が出版されるという話を聞いたが、「ES」にもその予告が掲載されている。今秋9月刊行予定、砂子屋書房から。もう没後10年が経過したのである。第一歌集『わがからんどりえ』から。

黄昏にふるるがごとく鱗翅目ただよひゆけり死は近からむ     小中英之
月射せばすすきみみづく薄光りほほゑみのみとなりゆく世界
人形遣ひたりしむかしの黒衣なほいかに過ぎしもわれにふさはし
身辺をととのへゆかな春なれば手紙ひとたば草上に燃す
酔へば眼にゆらぐかずかずかぎりなしあなベレニケの髪もゆらぐよ

2011年6月3日金曜日

田口麦彦は発信する

田口麦彦の新著『アート川柳への誘い』(飯塚書店)が発行された。
川柳×アート×コラムのコラボレーションである。
川柳人にとって活字だけの句集も意味はあるが、一般読者にとっては写真や絵入りの本の方が親しみやすい。田口の前著『フォト川柳への誘い』は川柳×写真×コラムの「フォト川柳」だった。今回はさらに広げて絵画・写真・切り絵・書などを含めた「アート川柳」となっている。
本書には52篇が収録されているが、そのうちの3篇を紹介しよう。

いわしは天へ 金子みすゞにつづく道

清水寺の襖絵「大漁」と取り合わせている。中島潔という独学の画家である。画壇には属さず、清水寺の襖絵46枚を5年間かかって完成させた。どこかで見たことあるように思ったが、昨年5月にNHKの「クローズアップ現代」で取り上げられたという。イワシの大群の中に一人立つ少女は金子みすゞでもあり、画家自身でもある。印象的な絵だ。

昭和史のかなたにハート置き忘れ

渡辺隆夫句集『魚命魚辞』を紹介している。隆夫の句集はこの時評でも取り上げたことがある。田口が引用しているのは次のような句。

 魚命魚辞 また勅語かと朕びびる
 あのころは若く明るい杉葉子
 派遣切りプツリ夜桜お七にも
 テポドンに紅の豚ぶちかまし

田口がこれらの句に反応したことは「昭和」というキーワードによって理解できる。世代的なものもあるだろうが、たぶん二人とも「昭和」とは何だったのかと問いかけているのだろう。

575この水深がぼくに合う

『ハンセン病文学全集』を紹介している。「ハンセン病文学全集」全10巻(皓星社)は2010年7月に刊行された「俳句・川柳」編によって完結した。1980年代半ばに企画され、2002年に刊行が始まってからの長い道のりである。「俳句・川柳」編では田口麦彦が川柳の選と解説を担当した。収録された約4000句は1940年から2003年までに発表された作品群。
「週刊川柳時評」でも昨年の10大ニュースのひとつとして取り上げたことがある。
田口麦彦の著作の中でも重要な仕事のひとつである。

 療園の舗装路焼場へも通じもういいかい骨になってもまあだだよ  中山秋夫
                 邑久光明園(2007年没)
 陣痛の呻きも知らぬ病葉よ  
 波キララ 私もキララ 死もキララ   辻村みつ子 長島愛生園 句集『海鳴り』

田口麦彦は熊本県川柳協会の会長で、「川柳噴煙吟社」副主幹。
現在80歳であるが、川柳とそれに関連したコラムやエッセイ、評論など、これまで約30冊の出版物を出している。そのうちのいくつかを紹介すると、事典形式のアンソロジーとして普及しているのは、三省堂から出ている『現代川柳必携』『現代川柳鑑賞事典』『現代女流川柳鑑賞事典』であろう。『必携』は現代川柳の秀句7000句をテーマ別に分類して収録したもの。『鑑賞事典』は現代川柳人250名の鑑賞一句に各人の代表句10句を添える。『女流川柳鑑賞事典』は女流に特化したものである。

『穴埋め川柳練習帳』(飯塚書店)は穴埋めによって川柳に親しめるようにしている。
川柳入門書として便利なので、私も高校生に川柳を教える際に利用している。次に挙げるのはその一部で、( )に漢字一字が入る(解答は最後に掲載しておく)。

① ( )は瞬間ほうれん草の茹でかげん    畑美樹
② 盆踊り姉の( )( )を踏み続け      峯裕見子
③ 想い出のひと多くみな( )のなか     石曽根民郎
④ 飛行機の昇る角度は( )に似る      時実新子
⑤ 都会の夜 セロリは母の( )に似たり   橘高薫風
⑥ ズンタズンタと( )が戦争から帰る    墨作二郎
⑦ ( )一つ写しても小津安二郎       高橋散二
⑧ ( )を反らすたびにあやめの咲きにけり  大西泰世
⑨ 女さまざま猫の( )を皆持てり      麻生葭乃
⑩ 滅ぶもの美しければ( )へ出る      村井見也子

『地球を読む―川柳的発想のススメ』(飯塚書店)は、地球が直面する諸問題を「川柳」の視点から問いかける。その中に次の一句がある。

津波の町の揃ふ命日

現代の作品ではない。寛延3年(1750年)、慶紀逸によって編集された『武玉川』初篇の短句(七七句)である。「自然と人間とのかかわりを、この一句ほど客観的にとらえたフレーズはないのではないか」と田口は言う。本書の発行は2008年。東日本大震災より以前に発行されている。

あと、私が特に利用価値が高いと思ったのは、『時事川柳入門』(飯塚書店)である。
「いまを写す―現在性」「意見を言う―批評性」「歴史に残す―記録性」の三点から時事川柳をとらえている。本書の刊行は1995年だから、湾岸戦争、阪神大震災や地下鉄サリン事件などが例句として取り上げられている。

書物を通じて一般読書界に川柳を発信しようという志向をもった川柳人は、川柳界では少数派である。さまざまな切り口で川柳を発信し続ける田口麦彦の存在は貴重である。

穴埋め川柳解答
①愛 ②尻尾 ③月 ④恋 ⑤香 ⑥鴨 ⑦雲 ⑧身 ⑨頭 ⑩沖