2013年12月27日金曜日

俳句Gathering vol.2

12月21日(土)、神戸・三宮の生田神社会館で「俳句Gathering」が開催された。昨年の同じ時期にスタートしたイベントの第2回目になる。昨年の内容が盛り沢山だったので、今年はやや精選されて三部構成になった。

第一部のオープニングは、宅配アイドルとして関西で活動している「PizzaYah!」が登場した。昨年のメンバーのうち2人が卒業して新メンバーに入れ替わり、1人が休業中なので、4人によるステージである。
続く「5・7・5でPON!」は雑俳の一種である天狗俳諧を現代風にアレンジしたもの。紅白2チームに分かれ、1チームは3人。それぞれが上5・中7・下5を別々に作り(お互いが何を作ったかわからない状態)、そのあとで披露する。第1試合は紅チームに岡田由季・松本てふこなどの俳人、白チームに榊陽子・樋口由紀子の川柳人などが選ばれて登壇(あとの方はお名前が分からなくて失礼)。紅チーム「ほろ酔いの血が騒ぎをり冬帽子」、白チーム「着ぶくれてたい焼き食べる一部分」で紅チームの勝ち。第2試合には吹田東や洛南などの俳句甲子園でおなじみの高校生が登壇した。

第2部はクロストーク「俳句vs川柳~連句が生んだ二つの詩型~」で、小池正博・小池康生のW小池による対談と連句実作のワークショップ。
日本の短詩型文学は、和歌から連歌が生まれ、俳諧の連歌(連句)の発句から俳句が、平句(前句付)から川柳が派生してゆくというふうに、すべて連動している。
パワーポイントを使った説明のあと、連句実作に移る。Gatheringの実行委員会のメンバー+W小池であらかじめ歌仙の表六句を巻いておいたので、裏の一句目から始めることにする。捌き手は小池正博。前句「飛び込み台に飛び込めずいる」に対して、会場から即座に12句が集まる。候補作は次の3句。

(付句案1)旧姓に戻りハワイに旅立ちぬ
(付句案2)隣国で死刑執行されたらし
(付句案3)くっきりと海水パンツ日焼あと

付句案1は前句の「飛び込めずいる」という心理的状況から、離婚してハワイに旅立つという具体的な姿を詠んで、一つの決断をした局面を付けている。
付句案2は時事句を詠んでインパクトがある。
付句案3は夏の季語をいれて前句の「飛び込み台」によく付いている。
前句との適度な距離感がある付句案1が選ばれる。

 飛び込み台に飛び込めずいる
旧姓に戻りハワイに旅立ちぬ

今度はこの前句に対して七七の付句を付ける。20句が集まった。みなさん即吟がお得意である。当日の会場では披露できなかったが、付句案を少し紹介しておこう。

(付句案1)ピアスをひとつなくしてしまう
(付句案2)百恵命とかけるレコード
(付句案3)冷蔵庫にはマヨネーズだけ

付句案1はピアスという持ち物を詠んで具体化している。
付句案2は山口百恵という固有名詞を出し、音楽に転じている。
付句案3は「冷蔵庫」(夏の季語)という物に焦点を当てることによって、場面を巧みに浮かび上がらせている。
付句案3が選ばれる。

旧姓に戻りハワイに旅立ちぬ
 冷蔵庫にはマヨネーズだけ

さらにこれを前句にして付句を求めたところ14句集まった。
選ばれたのは「夏帽をとらぬまま言ふさやうなら」の句。ただし、私は新かな派なので、新かなに直して採用させていただいた。

 冷蔵庫にはマヨネーズだけ
夏服をとらぬまま言うさようなら

あと、「制服を被せて仕舞ふ指人形」という句があって、一句独立の句として魅力的だが取れなかったのが気になっている。
ここまでを発句からまとめて紹介しておく。式目などの障りがあるかもしれないが、責任はすべて小池正博にあるのでご容赦願いたい。

秋涼し白き団子に歯を立てり     仲里栄樹
 若き言葉に揺れるコスモス     小池正博
月の夜に楽器いくつも遊ばせて    黒岩徳将
 真空管の重たきことよ    仮屋賢一
投げ込んでだれかに届くボトル瓶   久留島元
 飛び込み台に飛び込めずいる    小池康生
ウ(裏)
旧姓に戻りハワイに旅立ちぬ     岡本信子
 冷蔵庫にはマヨネーズだけ     下山小晴
夏服をとらぬまま言うさようなら   松本てふこ

第3部の句会バトルは昨年と同形式のアイドルと芸人グループによる対戦。芸人グループが昨年のリベンジのため挑戦状をたたきつけたという体裁をとっている。
紅チームのアイドルグループPizzaYah!は活動中の4名に休業中の1人が加わって5名。
対する芸人チームは遠藤朗広ほか男性4名に秘密兵器と称する女の子が加わって5名。俳句甲子園形式で五回戦を戦う。審査員は杉田菜穂・小倉喜郎・松本てふこ・きむらけんじ・三木基史の5名。昨年は4-1でアイドルが勝ったが、今年は3-2の接戦で芸人グループのリベンジは果たせなかった。

最後に席題「雪」の投句に対する審査・表彰と閉会式。
審査員は塩見恵介・津川絵理子・中山奈々の3名。
徳島から参加の連句人・俳人の梅村光明が大賞を受賞。
午後1時半にスタートして6時過ぎまでかかって閉会した。

以上、メモをきちんと取っていなかったので、不完全なレポートになってしまったが、詳しいことは主催者側のブログなどでいずれ発表されることだろう。
このイベントは俳句に興味をもつ人の裾野を広げたいという趣旨のようで、俳人だけを対象にしたものではない。アイドルを呼んだりするのもその一環だろうが、俳人以外の人たちをどれだけ呼び込めたのかは主催者の分析に待ちたいところだ。俳句甲子園のOB・OGや現役の高校生たちも参加していたが、若い世代にターゲットを絞っているのなら、逆に40代以降の人たちが参加しづらくなる。参加者の層が一定している俳句シンポジウムや川柳大会なら話は簡単なのであって、こういう不特定多数を対象とするイベントはむつかしいものだと思った。私自身にとっては俳句甲子園の現役高校生の顔を何人か覚えることができてよい経験になった。

年末、俳句・川柳・連句の諸誌がけっこう届く。
名古屋で発行の連句紙「桃雅懐紙」が60号を迎えた。年4回発行で15年になる。代表(杉山壽子・青島由美男)の挨拶文に「そんな中で考えていましたことは、どのようにして会員を紙面に参加して貰うかでした。毎月の連句興行とは別に、俳諧のテーマについて全員で楽しみあう、ない知恵をしぼるのは、違った意味で楽しみでもありました」とある。
「現代川柳・点鐘の会」(墨作二郎)の年間合同作品集『点鐘雑唱』発行。
『ノエマ・ノエシス』25号、緊急執筆として高鶴礼子が「鶴彬を二度ころさないために―特定秘密保護法案に思う」を書いている。
来年も短詩型文学が実りのある年であってほしい。

1月3日はお正月休みをいただきます。次回は1月10日にお目にかかります。

2013年12月20日金曜日

今年の10句

今年も残り少なくなった。
1年間を振り返って、印象に残っている10句を選んでみた。
今年の10秀というような大げさなものではなく、私にとって愛着のある句を選んでみた。

銅像になっても笛を吹いている     久保田紺 (「川柳カード」3号)

分かりやすい句のように見えるが、よく読んでみると味のある作品である。
まず「銅像」に対する批判や揶揄と受け取れるのは、「笛吹けど踊らず」ということわざがあるからだ。銅像になってもまだ笛を吹いている人物に対するからかいである。
けれども「笛」という楽器がとても好きな人物だったとすると、銅像になってからも好きだった笛を手放さない世俗を超越した姿が思い浮かんでくる。
いずれにせよ、人間を見る目が厳しく裁いているのではなくて、ペーソスを感じさせるものとなっている。

着地するたび夢精するオスプレイ    滋野さち (「触光」34号)

政治批判を句にすることはけっこう難しい。状況の表面だけをなでるにとどまってしまうことが多いからだ。
この句は時事句の中でも射程距離が深いところに届いているように感じた。
「オス」という言葉の連想から、擬人化や狂句のように受け取る向きもあるかも知れないが、狂句に仕立てるなら作者は別の表現をとるだろう。凌辱する側の姿を冷徹に描くことによって、凌辱される側の痛みが伝わってくるのだ。

あんたこそ尾崎漁港のシャコである    井上一筒 (「川柳カード」4号)

川柳は一人称または三人称を使うのがふつうだが、たまに二人称を用いた句がある。
「あんた」は読者個人でもあり、人間一般とも受け取れる。
けれども「あんたこそ」と言われると、自分のことを言われているのかとドキリとする。そういう押しつけがましさがこの句にはある。
尾崎漁港は大阪府阪南市にある。釣り場としても有名のようだが、本当にシャコがとれるのかは知らない。

美容院変えた訳など語ろうよ    草地豊子 (「川柳カード」4号)

女性にとって美容院は行きつけの店があるから、そんなに簡単に変えることはないだろう。
谷崎潤一郎の『細雪』に世話好きの美容師(女性)が出てくる。蒔岡家の四姉妹のうち三女の雪子の見合い話を持ち込んでくるのが、行きつけの美容師である。美容院が混んでいるときなどは、ちょっと急ぐからと言って順番を早めてもらったりするのだが、見合いのために上京したとき、東京の美容院ではこの手が通用しなくて長時間待たされるエピソードがある。
この句では、何かの事情があって美容院を変えたのである。ちょっとした感情的な行き違いがあったのかも知れないし、気に入らない髪型を押し付けられたのかもしれない。その訳を女友だちに語っている情景は彷彿とする。
たぶん、こういう状況は美容院に限らない。それまでの習慣や考えを変えたくなるときがあるのだ。
「流される様に出来てる参議院」「この国は高野豆腐が搾れない」など草地豊子には批評性に満ちた作品も多い。

おばあさんがこねこねすると面子が揃う  内田万貴 (「川柳木馬」138号)

おばあさんは何をこねこねしているのだろう。それが何であるにせよ、おばあさんが何かをすると仲間が集まってくる。集まってくるのはおばあさんたちかも知れないし、おじいさんかも知れないが、世代を越えた人々が揃うのかも知れない。このおばあさんにはそういう力がある。
堺利彦は「川柳木馬」の句評で「解らないけど面白い」句として取り上げている。

おとうともあにも羊でつまらない   松永千秋(「井泉」54号)

作中主体は誰なのだろう。弟も兄も羊なのだから、語り手も羊のようだが、羊以外のものが語っているのかも知れない。
羊をメタファーとして読むのではなく、何か別の存在になりたいあるときの心情を表現したものと受け取れる。

音ひとつたてずに人をとりこわす     佐藤みさ子(「MANO」18号)

佐藤みさ子は宮城県在住。
東日本大震災をテーマに詠んだ句のひとつである。
ベースにあるのは作者の怒りであるが、静謐な表現が逆に怒りの深さを伝えてくる。

蒲団から人が出てきて集まった     樋口由紀子 (「川柳カード」2号)

毎朝、人は蒲団から出てきて一日の活動を始める。ごく普通のことだが、この作者が詠むと当たり前のことが当たり前でなくなり、ある違和感をもって伝わってくる。
それぞれの蒲団からそれぞれの人がぞろぞろと出てきて、何かのために集まったのである。改めてイメージしてみると、人間とは変なものである。

冬鳥がいるいる痛くなるほどに   広瀬ちえみ (「川柳カード」2号)

冬はバードウォッチングのしやすい季節である。
夏は葉蔭に隠れているので鳥が見つけにくいが、冬は木の葉も落ちて鳥の姿がよく見える。特に水鳥は池や川に大量に浮かんでいるので、目にしやすい。
この句はたぶん水辺の鴨たちの仲間を目にしたのだろう。

ヒトラーユーゲントの脛毛にチャコはすがりつく   山田ゆみ葉 (「川柳カード」4号)

先週紹介した、チャバネゴキブリのチャコを登場させたキャラクター川柳のひとつ。
「キャラクター川柳」という名称は大塚英志の『キャラクター小説の作り方』にヒントを得て使っている。
ワイマール共和国がヒトラーの第三帝国へと変質していった歴史をチャコは思い出させてくれる。

2013年12月13日金曜日

チャバネゴキブリのチャコ―山田ゆみ葉の川柳

「川柳カード」4号が11月末に発行された。昨年の同時期に創刊されてから一年が経過。巻頭言で樋口由紀子は歌人・笹井宏之の『八月のフルート』を紹介し、同歌集を出した書肆侃侃房による新鋭短歌シリーズについて触れている。このシリーズはあちこちで取り上げられていて、若手歌人たちの作品を短詩型文学の読者に届ける役割を果たしている。
「新鋭短歌シリーズのような叢書を川柳でも生みだしていけないだろうか」と樋口は言うが、そのような企画を実現することは来年に向けての夢だろう。

4号は9月28日に大阪・上本町で開催された「第2回川柳カード」大会の発表誌でもある。昨年の第1回大会にはゲストとして池田澄子を迎え、樋口由紀子との対談が好評であった。今回の佐藤文香と樋口との対談については、以前にこの時評(10月18日)でも紹介したことがある。

同人は23人。書こうとしている世界は一様ではなく、ポエジーもあれば社会批判もあり、各人が目指しているところは異なるが、現代川柳の多様な書き方が見てとれる。
特集「女性川柳人が読む女性川柳作品」では樋口由紀子・清水かおり・広瀬ちえみの三人を、それぞれ山田ゆみ葉・山下和代・酒井かがりが論じている。

12月8日、本号の合評会が開催され、同人・会員13人が集まって、掲載作品について話し合った。同人誌を出せば合評会を開催するのは当然だろうが、回数を重ねるごとに参加者も合評ということに慣れてきたようだ。
同人・会員作品に連作が増えてきている。選者の選を受ける場合は10句の構成を考えて出句しても、選句によってズタズタになってしまうことがあるが、本誌の同人作品のように10句そのまま掲載される場合には、作者の意図が伝わりやすい並べ方をすることが可能だ。そんなこともあって連作が増えてくるのだろうが、成功する場合もあり、それほど成功していない場合もある。連作といっても読者の印象に残るのはそのうちの1~2句なので、単独作10句を並べた方が読者の印象に残る屹立した句になることもある。
連作には様々なものがあって、同一単語を用いた連作、同一文体を用いた連作、同一素材や同一テーマを用いた連作などが考えられる。
俳句における連作は日野草城の「ミヤコホテル」や富澤赤黄男の「ランプ」などが有名である。いま活躍している俳人の中では関悦史の句集『六十億本の回転する曲がった棒』などが思い浮かぶ。
それでは川柳の連作はどのようなものであろうか。
『現代川柳ハンドブック』(雄山閣)の「連作」の項には次のように書かれている。
「連作形式というのは、複数作品による一テーマの多面的追及、もしくは一テーマによる連続作詠であり、それぞれの単句が独立した内容をもっている。独立句としての一句一章が、同時に行間をへだてて響き合い、交感し合って、全体的なハーモニーを奏でつつ、ひとつの作品世界を展開するのが連作表現である。連作は明治の新川柳以後試みられるようになった。ただし短歌、俳句のそれとはおのずから性格を異にしている。作品間の有機的なつながり、並列効果による内容補完という表現形式としての性格は、川柳においては希薄であり、同テーマに寄り添った独立句の一群を連作と称する場合が多い」

ここでは連作の例として、鶴彬の「蟻食い」(昭和12年)を挙げておく。

正直に働く蟻を食うけもの
蟻たべた腹のへるまで寝るいびき
蟻食いの糞殺された蟻ばかり
蟻の巣を掘る蟻食いの爪とがれ
やがて墓穴となる蟻の巣を掘る蟻食い
巣に籠る蟻にたくわえ尽きてくる
たべものが尽き穴を押し出る蟻の牙
どうせ死ぬ蟻で格闘に身を賭ける
蟻食いを噛み殺したまま死んだ蟻

「川柳カード」4号に話を戻そう。本号には連作が何篇かあるが、山田ゆみ葉の「平成の少国民」を取り上げて見たい。

かつてチャコも立派な妲己だったのに
悪い予感を引き寄せチャコはまだ茶バネ
紅衛兵なま温かい水を吐く
紅衛兵もチャコもしゃらしゃら硫酸紙
わにーんわにーんと出動すれば鉤十字
ヒトラーユーゲントの脛毛にチャコはすがりつく
入り組んだ輪ゴムで動く少国民
少国民もチャコも鍵盤のうす黄色
くぐもったチャコの熾火の息遣い
1ミリの時空のズレを掴むチャコ

2句目で「チャコはまだ茶バネ」と言っているから、チャコはチャバネゴキブリなのだろう。チャコは時空を越えて飛びまわる。一種の「狂言回し」の役割を果たしている。
妲己(だっき)は古代中国の悪女である。殷の紂王の妃だったから、権力者の傍らにはべっていたのだ。酒池肉林のエピソードなどで有名である。それが今はゴキブリとなって走り回っている。
チャコは時空を越えて文化大革命期の中国に現れる。紅衛兵の一団に混じっているのだ。「しゃらしゃら」「わにーんわにーん」というオノマトペが何とも言えず、意図的に読者の神経を逆なでする。
ハーケンクロイツと言えば、もちろんナチス・ドイツ。ここではチャコがヒトラーユーゲントの脛毛にぶらさがっている。
日本にもかつて少年少女が「少国民」と呼ばれた時代があった。小学校を国民学校と呼び変え、そこで学ぶ小学生を「少国民」と呼び、軍国主義日本の予備軍として教育した。
山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』は大林宣彦監督の映画「転校生」の原作となったことで知られているが、その山中に『ボクラ少国民』シリーズがある。かつて国民学校で教育された山中は「少国民」とは何だったのかにこだわり問い直し続けている。少国民はヒトラーユーゲントをわが国に当てはめたものだとも言われる。
こうして見てくると、この連作はチャバネゴキブリというキャラクターを設定した「キャラクター川柳」なのである。
「キャラクター川柳」としては、これまで渡辺隆夫による「亀れおん」「ベランダマン」などがあった。渡辺の場合も強い諷刺精神がベースにあったが、今回の山田ゆみ葉も川柳の批評性をベースにしながら、チャコというトリックスターを創始したところが興味深い。批評性は単独では標語や見出しのようなものなってしまって、成功しないことが多い。山田は批評性とキャラクター川柳を結びつけることによって、新たな可能性を切り開いている。チャコは今後もさまざまな地域と時代に出没し続けることだろう。

2013年12月6日金曜日

ゆく川の流れは絶えず―川柳誌逍遥

短歌誌「ES」26号が発行された。今号の誌名は「マナ」である。マナ(manna)とは旧約聖書で神が天から降らせた食物で、カナンの地に着くまでの40年間、イスラエルの民の命をつないだという。マナ(mana)という超自然の呪力をあらわす別語もあるらしい。短歌にはこちらの方が関係深いかもしれない。
江田浩司は次のように書いている。

「飢えることを知らないことと、飢えることをしっていることのどちらがより幸福なのだろうか。言うまでもなく、飢えることを知らないことであると誰もが思うだろう。飢えることのない生活が一生続けば、これほど穏やかな生涯はなく、そこに贅沢を追い求めなければ、静かな幸福がもたらされるだろう。
しかし飢えることを知らない人には、飢えないことの本当の意味はわからない。飢えることを知らなければ、飢えないことの悦びを味わうことはできない。
天からマナが降って来るのは、飢えることを本当に知っている者のみのところではないだろうか。そして、天から降るマナが詩歌としての悦びを分かち与えてくれるのは、飢えることを怖れず、むしろ、飢えることの中に生きることの真の意味を見いだす者に対してではないかと思われるのである」

飢え求めているものにこそ詩歌の悦びが天啓として与えられる、と江田は言っているようだ。神からのマナを与えられることの少ない川柳の場合はどうだろうか。高齢化や財政難などの様々な理由で、終刊してゆく川柳誌も多い。
「水脈」35号の巻頭に新井笑葉が〈「原流」の軌跡〉を書いている。
北海道の旭川市で発行されていた川柳誌「原流」は、昭和61年1月に創刊、今年の5月(通巻224号)で終刊した。その間に掲載された作品のいくつかを新井の文章からピックアップしておく。

風邪を引くのは横着な猿だ           京野弘
一徹がまだ続いてる死者の硬直         新井笑葉
戦争はいやだと乳房だから言える        進藤一車
詩を書かなくなったバーテンがいる 秋の酒場  大島洋
ニワトリが産みつづけているのは他人      浪越靖政

第1回原流大賞の際に、選者のひとりだった曲線立歩(きょくせん・りっぽ)が特選該当作品なしにしたエピソードが印象に残る。曲線立歩は新興川柳期からの長い柳歴をもち、句集『目ん玉』を残して平成15年に亡くなった。私の愛惜する川柳人のひとりである。
「川柳界の高齢化。一人の柳人が複数の柳社に所属して補われている現実。もはや数の論理から質の論理へ移行する時代に来ている」と新井は締めくくっている。

新しく誕生する川柳誌もある。
熊本市で「川柳裸木」が創刊された。編集・発行人は、いわさき楊子。「裸木」は「らき」と読ませるようだ。この雑誌はメール句会を母体としている。「@くまもとメール川柳倶楽部@」が2年前に発足し、月2回のメール句会が10名ほどの参加で続けられてきた。
「手紙や電話、まして面と向かっては決して言えないメール言語世界が存在する。記録の蓄積もたやすい。あとで深夜に読み返して至福の時をもたらすこともある。この至福というのは作句のモティベーションとしては最高の条件だ」と、いわさきは述べている。
メール句会はクローズドな世界だが、それをオープンなかたちにしようと紙媒体の本誌が発行されることになった。作品をピックアップする。

混ぜるな危険原液のこどもたち     久保山藍夏
少しだけ幸せ遠慮して ずるい     前田秋代
わかってはいないなあんな笑い方    上村千寿
感じるな考えるんだ空燃える      川合大祐
さりげなく立っているのは難しい    阪本ちえこ
かなもちてととくこひふみちれつたゐ  北村あじさい
一堂に集まったのは峰不二子      樹萄らき
地獄絵が楽しそうにみえるのです    いわさき楊子

いわさきから新誌創刊の話を聞いたときは、誰が参加しているのか分からなかったが、川合大祐や樹萄らき(じゅとう・らき)など、以前「旬」で活躍していた人たちがメンバーに入っている。メール句会ではいろいろなつながりが生まれるものだ。
永田満徳、松永千秋などの句評が添えられているのも、作品を読む参考になる。
オープンにするということは批判にさらされることでもあるから、けっこうエネルギーが要るけれども、他者の視線を浴びることは必ず実作に反映してゆくものと思う。

時事川柳も少し紹介しておこう。
「触光」35号(編集発行人・野沢省悟)は野沢の評論集『冨二という壁』の書評を掲載している(枽原道夫)。ここでは渡辺隆夫選の「触光的時事川柳」からピックアップ。

消費税おんぶお化けに進化する    高瀬霜石
元総理もぐらの顔をぬっと出す    伊藤三十六
半世紀ケネディ女史の目尻皺     鶴賀一声

「日本経済新聞」の夕刊、田口麦彦の「現代川柳のこころ」がスタートした。現代川柳の入門講座である。毎週木曜日、4回連載の予定(12月26日まで)。