2016年11月26日土曜日

文フリ東京に行ってマゴマゴする

11月23日、「第23回文学フリマ東京」を見にいった。会場は東京流通センター第二展示場。浜松町からモノレールに乗ってゆく。
文フリ大阪には参加しているが、東京ははじめて。やはり規模が大阪とは違う。会場は一階と二階に分かれていて、それぞれ満員である。一階は全部小説、二階は小説のほか詩歌・評論などで、それぞれ400ブースほど、合計800ブースを越える出店がある。文フリのパンフレットを読むと文フリ大阪の募集数が基本300だから、大阪の倍以上の参加者があることになる。これだけの人々が作品を発信し、それを購入する読者が存在するのは驚きである。
「率」のブースに委託で「川柳カード」と『水牛の余波』『転校生は蟻まみれ』を置いていただいているので、まず「率」のブースに行く。何冊か売れているのが嬉しい。販売の邪魔になってはいけないので、少し離れたところで見ていた。本を手に取ってくれる人もたまにいるが、買わずに机上に戻すことが多く、見ているとはらはらするので心臓によくない。フリーペーパー「SH 3.5」に川柳を掲載してもらった。

気をひいてみる鉄塔の奪い合い  小池正博
これからの東京の孤独はまかせて 我妻俊樹
気象から気候に至り一泊目    宝川踊
信じるゆくゆくは天秤の呼吸へと 瀬戸夏子
視界への脅迫として横に川    平岡直子

これに「現代川柳の世界への招待」として川柳作品28人、ひとり5句のアンソロジー(瀬戸夏子選出)が付いている。宝川踊と初めて会えたのもよかった。

会場を回って、私が買ったのは「象」4号と「東北大短歌」3号。
学生短歌は作品だけの冊子もいいが、評論がいろいろ掲載されている方が彼らの関心のありどころがわかって購買意欲をそそる。「東北大短歌会」など文フリ大阪には出店していないところもある。「象」は日大芸術学部。「象」の特集は「社会詠を詠む」、東北大は「女歌」「連作」についての評論を掲載している。

何しろブースの数が多いので、見落としてしまって後から買えばよかったと思うものもある。事前にツイッターなどでもっと下調べしておけばよかったと思う。
そういう意味では、柳本々々が「ブログ俳句新空間」に「【短詩時評】文学フリマに行こう、家から出ないで-第二十三回文学フリマ東京Webカタログを読む-」という文章を書いているのは興味深かった。柳本は「Webカタログを読む」という視点から文フリをとらえて見せている。フリーペーパーの「RT」は私ももらったので、柳本の挙げているものとは違う句を紹介しておこう。歌人の二人がなぜか俳句を詠んでいる。

オリオンや狩るなら僕を狩ってくれ   龍翔
蜻蛉の眼に映ればわたしひとりじゃない 辻聡之

会場を回っていても川柳の存在感は希薄だ。東京もやはり川柳砂漠なのだろうか。
ただ、注意深く見ていくとブースはなくても委託で川柳が置かれているのがうっすらと感じられる。
「率」が川柳を作っているほか、「みろく堂」のブースで朝妻久美子の冊子が委託されている。「混線」「ミュウミュウ」は持っているので、『きっとすべてはラブソング』を購入。

居場所を見つけられずに壁にもたれて会場をぼんやり眺めながら、川柳はどうやってこの中に入ってゆけばいいのだろうと考えていた。来年5月の文フリ東京にはブースを出すつもりだ。そんなことをして何になると思わないでもないが、私が今までやってきたことだって同じようなものである。五年前に高山れおなが新聞に書いた書評を覚えていて、こんど『水牛の余波』を買ってくださった人もいる。投壜通信のようなものだ。

山種美術館では「速水御舟展」が開催されていた。
「炎舞」を見るのは20年ぶりだろうか。
静かに見ながら、心に期するものが湧いてくるのを感じた。
文フリの翌日、東京は雪であった。
六義園を訪れ、雪のなかで紅葉の景色を体感した。
五十年に一度あるかないかの風景だろう。
歩いていればいろいろな光景に出合うものだ。

2016年11月18日金曜日

斉藤斎藤歌集『人の道 死ぬと町』

前々回、小津夜景の『フラワーズ・カンフー』について書いたが、小津が自らのブログで高山れおなの『俳諧曾我』を読んだのがきっかけで攝津幸彦賞に応募した、というようなことを書いているのを読み、腑に落ちるところがあった。『俳諧曾我』のうち「フィレンツェにて」では詞書+俳句というかたちで作品が書かれている。また、「三百句拾遺」では『詩経』が使われている。
「屹立せよ一行の詩」というような考え方からすると、作品の前後には何も付けてほしくない、ということになるだろうが、文芸が無から生まれるのではなくて、先行する作品との関係性のなかから生まれるのだとすれば、前書き+句歌というパターンはとても刺激的な光景を生み出すことになる。

斉藤斎藤の歌集『人の道 死ぬと町』(短歌研究社)には単独歌、連作、詞書+短歌、などのさまざまなパターンの作品が収録されていて、読者を飽きさせない。2004年から2015年までの作品が集められていて、まだ完全には読み込めていないが、連作の、特に散文+短歌の部分に注目してみたい。
池田小学校事件の「今だから、宅間守」、大阪での展覧会を見ての「人体の不思議展」なども興味深いが、福島を詠んだ「NORMAL RADIATION BACKGROUND 3 福島」から次のような詞書(前書き)を引用してみる。

「本日司会を仰せつかりました磐梯熱海温泉おかみの会の片桐栄子と申します。福島に降り注いだセシウムは、134と137がほぼ同量と言われています。この曲線をちょっと下げる、もうちょっと下げる、これが除染の実際でございます。福島で生きる。福島を生きる。ならぬことはならぬものです。二年は除染しないでください。でないと川に流れ込んで全部こっち来る。証明できるかどうか議論していて、尿中のセシウムが6ベクレルに上がっていくのを防ぐことができますか。女の子の満足度をとにかく追及したくて東北最高レベルの時給をご用意しました。今なら被災者待遇あり、託児手当支給。逆に元気をもろたわと鶴瓶が家族に乾杯します。人が生み出したものを人が除染できないわけがない。岐阜と神奈川では年間0.4ミリシーベルトも違う、そのくらいの相場感でわたしたちは大好きなふくしまで今このときも生きています。わたしたちはゴジラではありません。和合亮一です。おかしなことを言っていますが本気です。福島はこれからも福島であり続けます。伝えたいことはそれだけです」

一読して分かるように、これは単独の発言や文章の引用ではない。さまざまな発言・メッセージなどを綴りあわせてリミックスしたものである。

短歌誌「井泉」72号のリレー評論「現代に向き合う歌とは?」に荻原裕幸が「現代/短歌をめぐる断章」という文章を書いている。荻原は1970年代まで人々はその時代の「現在」を少なくとも知識として共有していたのに対して、1980年代ごろからそのような共有感がなくなり、その人その人の「現在」がパラレルワールドのように存在している、と述べたあと次のように書いている。
「同じことは、短歌の流れにも生じつつあるように感じる。ニューウェーブ以後、ほぼ四半世紀の間、新しい人があらわれ、新しい作品が注目されても、それらが一連の動きとして、現代の短歌の焦点として認識されることが、きわめて少なくなった。数十年もすれば、短歌史が、歴史ではなく、列記化しそうだ」
そして、荻原は斉藤斎藤の歌集から次の二首を挙げている。

こういうひとも長渕剛を聴くのかと勉強になるすごい音漏れ
大丈夫あなたあの買ったマンションに津波の心配はありません

「注目したいのは『長渕剛を聴く』ことと『津波の心配』とが、ほぼ同じ位相の情報として扱われているこの語り口である。『現代』の題材に向き合って短歌を書いていれば、直面せざるを得ない価値の平準化だ」

「井泉」の「リレー評論」では、もう一人、彦坂美喜子が「当事者でない者の表現」を書いている。彦坂は震災や戦争などの大きな事件に対して「当事者でない者が、対岸の火事ではないどのような表現が可能か」と問題提起したあと、その可能性として北川透の詩「射影図、あるいは、遙かな二つの地震」を挙げている。そして短歌でこれができるかどうか考えるときに、そのひとつとして斉藤斎藤の歌を挙げている。

みんな原発やめる気ないすよねと言えばみんな頷く短歌の集まり

「『みんな頷く』顔の見えない、その曖昧性こそ、漠然とした原発への肯定と否定が入り混じっている現在の人々の感情に他ならない。ここには問いと答えの情況の記述があるだけだが、現代の、みんなが、抱えている曖昧性にまで言葉が届いていると思う」

荻原と彦坂がそれぞれの視点から斉藤斎藤の歌を取り上げているのは、それだけこの歌集に「現代」が反映しているからに違いない。
さらに川柳に引きつけるならば、柳本々々は「〈感想〉としての文学―兵頭全郎と斉藤斎藤―」(ブログ「俳句新空間」2016年11月11日)で兵頭全郎の川柳と斉藤斎藤にある共通点を見出している。

おはようございます ※個人の感想です  兵頭全郎

「この全郎さんの句が教えてくれるのはこういうことです。〈感想〉とはよく知られているような読書〈感想〉文のような意味の付与なんかではない。そうではなくて、実は〈感想〉というのはそれそのものを「個人の感想」としてしまうことで、〈偏った見方〉であることを引き受け、そしてその〈あからさまな偏差〉によって再定義しようとするものだ、ということなのです」。

この「※個人の感想です」がまったくおなじかたちであらわれているものとして、柳本は斉藤斎藤の歌集のうち「わたしが減ってゆく街で ~NORMAL RADIATION BACKGROUND 4 東京タワー」を引用している。

一九九〇年、バブル崩壊。わたしは高校を卒業する。
一九九三年、就職氷河期突入。
一九九六年、就職活動もロクにしなかったわたしは、大学を卒業してフリーターになった。
高校生の私は、就職はできて当たり前。就活は、10人中8人が座れる椅子取りゲームと思っていた。
しかし大学生活を送るうち、みるみる椅子は減らされてゆき、卒業する頃には10人に三つの椅子しか残されていなかった。*13
  
*13 ※個人の感想です

「一九九三年からの就職氷河期という社会・歴史のなかに投げ込まれているか『私』ですが、そのなかに『10人に三つの椅子しか残されていなかった』という『個人の感想』が出てくることによって、大きな社会の歴史と小さなわたしの歴史が競りあい、そのどちらもが相対化されるようになっています」

斉藤斎藤の『人の道 死ぬと町』は興味深い歌集である。引用したくなるような短歌と散文がちりばめられている。それぞれの読者の問題意識によって作品がさまざまな表情を見せる。現代を代表する歌集に違いない。

2016年11月13日日曜日

尾藤三柳の仕事

10月19日に尾藤三柳が亡くなった。享年87歳。
三柳は「川柳公論」を主宰したほか、『川柳総合事典』の監修、『川柳200年の実像』『川柳入門』『川柳作句教室』などの入門書を通じて川柳の普及に貢献した。川柳界にとって大きな存在であった。

いま三柳の仕事をふりかえってみるとき、彼が「川柳形式の構造」を明らかにしたこと、「川柳史」への展望を開いたこと、「選者」の役割を再認識させたことの三点が特に重要だと思われる。

まず、「川柳形式の構造」についてだが、三柳は『柳多留』の編者である呉陵軒可有の文芸観として「一章の問答」を挙げている。

母おやハもつたいないがだましよい

『川柳200年の実像』(雄山閣)で三柳はこの句を例に挙げて次のように言う。

「この付句に、一句としての独立内容を与えているのは、対立的な二段構造、いわゆる『一章に問答』である。『~は~』という一章のかたちは古川柳の普遍様式の一つで、この場合、格助詞の『は』は、前後二段を結んで、その上の文が、その下に続く文に対して『問』のかたちになる。『母おやハ』は、だから『母親というものは、どううものかというと』である。その問から引き出されたのが『もったいない』と『だましよい』という対立・矛盾する概念で、これが一句の内容になる。母親は『もったいない』存在であると同時に、『だましよい』存在であるという背反したものの捉え方、それがイロニーであり、諧謔のもとをなしている。これが『一章に問答』の典型である」

三柳が述べているのは古川柳の例であるが、現代川柳はこの基本構造を越えて、答えの部分をイメージに置き換えたり、答えを書かないなどのさなざな展開を見せているのである。現代川柳でも「~は」という句を見ると「は」に川柳性を感じるのは、この問答構造の遠い記憶があるからにほかならない。私は詩的飛躍論者だから、「問答」ではなく「飛躍」という捉え方をすることが多いが、三柳の明らかにした川柳のルーツを忘れたことはない。

次に、「川柳史」への展望についてだが、現代川柳史についての満足できる論考が存在しない現状で、三柳が昭和後期までの川柳史をまとめておいてくれたことの恩恵は計り知れない。特に「難解句」がなぜ生まれたかについて、明治40年代の「主観句」の台頭に起源を求めているのは興味深い。『選者考』(新葉館)では次のように述べられている。

「問答的な二段構造によるアイロニーの磁場を本質としてきた川柳に対して、作者の主観的な感じや気分を『答』とだけ提示して『他人に斟酌』しないという新傾向の発想が、現代につながる『解る、解らない』論争の原点となったことに目を注いでおかなければならないだろう」

句会を中心とする川柳の革新は常に「選者」の問題と関連してきた。私が三柳の著作の中で実践的に重要だと思うのが『選者考』(葉文館出版)である。
「選者は単なる選別者ではなく、同時に批評家であり、選と批評は表裏をなすものであった」
「批評はつねに『在るもの』から『在るべきもの』への憧憬に支えられており、その尺度となるのが、古来の歌式であり、判者自身の造詣を集約した歌論である」

「歌合せ」について述べた部分だが、本質的な洞察を含んでいる。
明治期に川柳の句会がなぜ「互選制」から「任意選者制」へと変化したのかも本書を読めばよく分かる。

私は一時期「川柳公論」に投句していた時期がある。
三柳の師系は酒井久良伎→前田雀郎→尾藤三柳である。
三柳が久良岐と剣花坊の連句について触れていたので、二人の連句作品の全体を知りたいと手紙を出すと、それが掲載されている「川柳公論」第13巻1号を送ってくれた。私はこれをもとに「今なぜ阪井久良伎なのか」を書いたことがある(拙著『蕩尽の文芸』に収録)。

尾藤三柳はもういない。
私たちは彼の残した仕事を乗り越え、現代川柳のさまざまな展開を視野に入れながら、先へ進んでいかなければならないだろう。

2016年11月5日土曜日

小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』を読む

小津夜景はいわゆる俳壇とは無関係なところから登場した。
私が小津夜景の名をはじめて目にしたのは「豈」55号に掲載された「第二回攝津幸彦記念賞・準賞」の「出アバラヤ記」だった。作品は前書(詞書)+俳句の実験的なかたちになっている。句集に詞書を付けるのは高山れおな『荒東雑詩』などで見たことがあるが、小津の場合は哲学的思考がベースにあるように感じられる。
その後の彼女の活躍はめざましい。ネットを中心に実作と評論を発表、今年8月にはブログ「フラワーズ・カンフー」を立ち上げて毎日更新している。
そして、このたび第一句集『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)が上梓された。
帯文を寄せているのは次の両人。
正岡豊「廃園から楽園へ」
鴇田智哉「のほほんと、くっきりと、あらわれ続ける言葉の彼方。今ここをくすぐる、花の遊び。読んでいる私を忘れてしまうのは、シャボン玉のように繰り出される愉快のせいだ」
句集の「あとがき」には次のように書かれている。

〈「出アバラヤ記」が攝津幸彦賞の準賞となったのを機に俳句を始めてから途方もなく長い二年半が経過した。この間しばしば思い出したのは「前衛であるとは死んだものが何であるかを知っているということ、そして後衛であるとは死んだものをまだ愛しているということだ」といったロラン・バルトの言葉である〉

次にあげるのは巻頭の句。

あたたかなたぶららさなり雨のふる

この句は「たぶららさ」以外何も言っていない。「タブラ・ラサ」は「白紙」であり、ひらかな表記にしている。白紙の状態から小津の俳句がはじまるのだ。

『フラワーズ・カンフー』が送られてきたとき、「出アバラヤ記」の章を読んでみた。何だか印象が違うので、「豈」掲載作品と比べてみると、ずいぶん変更されている。「あとがき」を読むと「新たに編集し直した(出アバラヤ記の改稿含む)」とある。
どのように改稿されたのか。

「ふみしだく歓喜にはいまだ遠いけれど、金星のかたむく土地はうるはしく盛つてゐる。
隠者ゐてジャージ干すらむ秋の園   」(初稿)

句集では前書きは同じだが、句が次の作に変更されている。

跡形もなきところより秋めきぬ

全体を通じて詞書の部分は手直しや追加はあるが、ほぼ初稿のままである。句の方はほとんど入替えられていて、改稿というより別の作品とも受け取れる。たとえば初稿にあった「死ぬまでに出アバラヤ記書いてみやう」という句は抹消され、タイトルにだけ痕跡が残されている。
詞書と句をセットにして読むだけでなく、句を詞書から外して一句として楽しむ読み方もありだろう。あるいは、句を外して哲学的エッセイとして読んでゆくこともできる。いずれにせよ、この作品は俳句が哲学と親和的であることを証明している。

冒頭句「たぶららさ」をはじめとしてこの句集にはふだん俳句では見慣れない単語がいろいろ出てくる。表現者は誰でも自分の心の中に辞書をもっていて、テクストのなかに愛用の語を混ぜてゆく。小津の句集に書物的(ブッキッシュ)な感じがするのは、作者が読んできたおびただしい書物が背後にあるからだろう。プレテクストに基づいた作品も多いようだ。

最後の章「オンフルールの海の歌」。
オンフルールは印象派の画家たちがよく絵を描いた港町である。数年前に短時間だけ訪れたことがある。午後の陽光が建物群を照らして美しかった。エリック・サティの生家もあって、中には入れなかったが少し嬉しい気がした。

蓮喰ひ人ねむるや櫂のない小舟

蓮喰い人か。ホメロスだったかな。
プレテクストの問題。李賀の漢詩に付けた句。八田木枯を主題として詠んだ短歌など、この句集の読みどころは多い。
最後に句集のなかで最も好きな句を挙げておく。

しろながすくじらのやうにゆきずりぬ

しろながすくじらは未了性の海を泳いでいる。

(付)週刊俳句第497号(2016年10月30日)「学生特集号」を読んだ。
大林桂の福永耕二論がおもしろかった。大林とは読書会でいっしょになったことがある。ドイツ留学から帰ってきたところらしくて、現象学やハイデガーの話を少し聞いた。俳句は「鷹」に所属しているそうだ。あと、宮﨑莉々香が「私の好きな五句」について書いている。その中に「川柳的な俳句」という言い方が出てくる。何が「川柳的」かは微妙な問題であり、どうも宮﨑はオチがあるのが川柳だと考えているフシがある。宮﨑は「蝶」のなかで私も注目している若手俳人である。「蝶」は「川柳木馬」とも交流があるので、川柳にも理解があるのかと思っていたが、「莉々香よ、お前もか」と思った。「川柳的俳句」があるなら「俳句的川柳」も存在することになり、互いに自分のもっている陳腐な「俳句イメージ」「川柳イメージ」で相手を矮小化することになってしまうのだ。