2010年11月26日金曜日

石田柊馬の川柳史観

現代川柳の「いま、ここ」を明らかにしようとする場合、現在の短詩型文学の状況に目配りすると同時に、川柳の歴史的展開をも踏まえておくことが必要である。よく言われる言葉で言えば、共時性と通時性の切り結ぶところに川柳の現在があるのだ。そこで問われるのが川柳史観である。「川柳」という単一のものがあるのではなくて、史的展開をふまえた「様々な川柳の可能性」がある。川柳の「いま」を論じるときに、どのようなパースペクティヴをもって現代川柳を捉えているのかが問われることになる。
石田柊馬はそのような「川柳史観」を感じさせる数少ない批評家の一人である。今回は「バックストローク」32号に掲載された「詩性川柳の実質」をもとにしながら、石田柊馬の川柳史観について検討してみたい。
「詩性川柳の実質」は「バックストローク」に連載されている長編評論である。30号・32号では石部明論の形をとりながら、その背後に柊馬の川柳史観が明瞭に読み取れる。一人の川柳人を論じることが、現代川柳の史的展開を論じることとなるのは川柳批評の醍醐味と言ってよいだろう。
さて、柊馬はこんなふうに述べている。

「第一句集から第二句集への道程で、石部は主題を初発点にする書き方を心得つつ、言葉を初発点にする書き方に体重が掛かってゆく。川柳的な共感性の担保であった現実感が、書かれた句語の後追いをすることになる」

石部明の第一句集『賑やかな箱』から第二句集『遊魔系』への展開を、石田柊馬はまずおおざっぱに「主題を初発点にする書き方」から「言葉を初発点にする書き方」へと規定してみせる。「句語の後追い」とは何であろうか。意味があって言葉が書かれるのではなくて、言葉が先にあって意味があとからついてくるような書き方を念頭においていることは間違いない。したがって柊馬は次のように続けている。

「一句の意味性は、句の書かれたあとからついて来るものとなるので、川柳的な飛躍の錘であったリアリズムから作句が解放されたのである。意味性は、句語や言葉と言葉の関係性へ直感的に飛来してくる。つまり、まだ意味性や作者の思いを背負わされていない素の言葉、あるいは、言葉と言葉の関係性が作者のアンテナに触れてスパークする手応えが一句を創り上げる」

「意味なんてあとからついてくるのよ」とは本間三千子の言葉だと伝え聞いている。作品の意味は何かと問われて、本間は意味なんてあとからついてくるのだとタンカをきったのである。言葉には意味があるが、言葉は意味そのものではない。言葉は意味よりももっと広いものであるはずだ。「川柳の意味性」と言われているものは、川柳の持ち味を「言葉の意味」という一点に集中することによって強度なインパクトをめざす一方法だったのである。それを意味という一点に封じ込めてしまうことは、川柳の可能性を限定してしまうことになる。しかし、同時に「意味性」は野放図な「川柳的な飛躍」を制御するための安全弁の役割をも果たしていた。どこへ飛んでいくか分からない言葉の飛躍を制御するために、「意味性」の錘は有効だったのである。少なくとも従来の川柳はそういう書き方をされていた。
それでは「意味の錘」を外したとすれば、言葉はどこへ飛躍していくのだろうか。それはおそらく「言葉と言葉の関係性」の世界へ入っていくのである。

「前句附けというシステム、七七という問いに五七五で答えるルールを書き方の原初とする川柳では、言葉と言葉の関係性に敏感であったはずだが、およそ百年の近代化の中で作者の思いを書くことだけが重視されて、言葉との付き合いの自由を軽視する狭いリアリズムが横行した。しかし古川柳は折口信夫に言語遊戯と断じられるほど、川柳は言語との関係に自由であったはずなのだ」

このあたりから柊馬の川柳史観が明瞭になっていく。前句付をルーツとする川柳が「言葉と言葉の関係性」に敏感であったという指摘は新鮮である。川柳は雑俳の一種と考えられるが、雑俳のさまざまな形式は「言葉と言葉の関係性」によってのみ成立していると言っても過言ではない。それを「言語遊戯」として退け、「作者の思い」の表現に限定してしまったのは「川柳」の特殊事情であり、「近代」という時代の要請である。

「戦後の革新派が句会を嫌った理由には、ダンナ芸や膝ポン川柳などの俗物性への批判があったが、俗物性の中にも流れている言語遊戯の性状については思考の対象としなかった。河野春三の言う『人間諷詠』が川柳の近代化であったが、近代化のなかで書かれた佳作は、多くの場合、古川柳から受け継がれた人情という共感要素を現実から抽出したものであり、結果、私川柳の飽和に至って袋小路に突き当たったのであった」

河野春三が「川柳における近代」の代表的存在であったことは、現在の眼から見てますます明らかになりつつある。春三の近代とは川柳における「私」の確立であり、その実質が「人間諷詠」であったのだ。そこから「思いを書く」という川柳観へはわずかに一歩の距離にすぎない。
川柳は近代化を急ぐあまりに大切なものを見落としてきたのではないか。近代的自我の確立というテーゼは「思いの表現」に矮小化されたが、「私」の表現はもっと深く広い領域を含んでいる。石田柊馬の川柳史観をたたき台にして、さらに複眼的な川柳史観を構築することが後発の世代には求められている。

2010年11月19日金曜日

川柳における「宛名」の問題

近頃よく目にする批評用語に「宛名」がある。誰に宛てて作品を書くか、というほどの意味で使われているのだろう。
「現代詩手帖」11月号の「俳句逍遥」で田中亜美は「宛先と宛名」と題して俳誌「傘」の創刊を取り上げている。田中は次のように書いている。

「俳句の宛先はどこへ設定されるのか。その宛名はどこに記されているのか」「作者として俳句を作るとき、読者として俳句を読むとき、宛先と宛名をめぐる消息について、ふと疑念に囚われることがある。〈私〉は誰に向けてそれを発信するのか、それは本当に〈私〉へと送信されたメッセージなのか」

「傘〔karakasa〕」は越智友亮と藤田哲史が創刊し、第1号では佐藤文香の特集を行っている。彼らがウェブではなくて「雑誌」というツールを選んだのはなぜか。それはメッセージを「《効率よく》ではなく、《確かに》伝えたい。そういう気持ちをつきつめた結果、雑誌という形態に拘らざるをえなかった」からだという。
このような「傘」の発行意図について、田中はこんなふうに述べている。

「もしかしたら、それは無限の匿名性と潜在性の海に『一斉表示』するのではなく、作者の〈手〉から、読者の〈手〉へと漂流し漂着するというプライベートなメッセージの伝達のありようが、もう一度見直されている証左なのかもしれない」

たぶん田中の脳裏にはアドルノのいう「投壜通信」のイメージがあるだろう。
「アウシュビッツ以降になおも詩を書くことは野蛮である」とはドイツの哲学者アドルノの有名な言葉である。現代の商業主義に毒された社会の中で、詩の言葉は「投壜通信」のようにどこへ漂着するか分からない。誰かに届くかどうかすら分からないのだ。発信された言葉は誰かに届かなければ意味がないという考え方もあるだろう。だから性急な若者たちは言葉を届けようと必死になる。けれども、いまこの時点で届かなくても、まだ見ぬ誰かが未来において言葉を受け取ることがあるかもしれない。「投壜通信」にはそういう絶望と希望の二重のイメージがこめられている。

「宛名」で思い浮かぶのは、10月16日に東京で開催された「詩歌梁山泊シンポジウム」の第2部「宛名、機会詩、自然」である。報告者・筑紫磐井の論旨はおよそ次のようなものであったようだ(引用は「俳句樹」3号、筑紫の「私的報告」による)。
筑紫は宮澤賢治の短歌と手紙を比較して、賢治の短歌が詩とはつながらないのに対して、手紙の一部分は立派な詩に見えると述べている。「賢治の詩は若いころから熱心にやっていた短歌から生まれたものではなく、手紙を書き連ねる中でほとばしり出た文章の影響を強く受けていた」というのである。そこから筑紫は次のような結論を導きだしている。

①賢治の詩の発生は、2人称を宛名とする言説(いってみれば手紙)を契機に発生したものと考えるのがふさわしい。
②短歌の発生は1人称複数(=We)を宛名とする歌謡
③俳句の発生は宛名のない文学・つぶやき

このような筑紫の問題提起には反論もあったようだが、この「宛名」という考え方を川柳に適用するとどうなるか、というのが今回のテーマである。

川柳において「宛名」の問題はこれまで考えられてこなかった。それは自明のことであり、問題視されることはなかったのだろう。
句会・大会では、その場に集まった人々に対して作品が書かれる。もっと正確に言えば、選者に向けて作品が書かれる。宛名は選者ひとりなのである。選者はよしとする作品を句会・大会の場で披講する。選者を通して作品は間接的に参加者に届けられる。作品は共感あるいは反発をもって迎えられる。選者という2人称(You)を通過することによって作品は1人称複数(We)に共有される。
同人誌においても価値観を共有する同人・会員に宛てて作品が書かれる。広く一般読書界に流通することはないから、不特定多数の読者に対する「投壜通信」という感覚はあまりない。
このようにして川柳では、誰に宛てて書くか、どのように届けるか、という問題に意識的になる必要はなかった。宛先人は目に見える範囲に限られていたからである。
けれども、川柳においても自立した作品・テクストが書かれるようになると、それを誰に読んでもらうかという問題が浮上してくる。「どのように書くか」とともに「どのように届けるか」が重要な問題として浮かび上がってくるようになったのである。

ここで観点を少し変えて、「差出人」「宛先人」について考えてみることにしよう。
細馬宏通著『絵はがきの時代』(青土社、2006年)は、誰の目にもふれてしまう姿をしながら個人的なメッセージでもある絵はがきについて興味深い論考を展開している。特に「わたしのいない場所」の章では、差出人と宛先人との関係をめぐってこんなふうに書かれている。

「たとえば、手紙を書いているときに、たまたま宛先人であるあなたが近づいてくる。と、わたしはあわてて手紙を隠そうとする。それは明らかに近づいてくるあなたに向けて書かれているにもかかわらず、わたしはまるで、密会の現場をあやうく見つかりそうになったかのように、必死に手紙を脇にやるだろう。すっかり書き終えてからでなければ、そしてわたしのいないところでなければ、手紙をあなたに読ませるわけにはいかない」

「書くという行為は宛先人の不在によって成立する」というのが細馬のテーゼである。「宛先人に見つめられると、エクリチュールは鈍る。そして、その視線が消えるや、エクリチュールは走り出す。あたかも、宛先人の不在に力を得るように」
では、書くという行為はなぜ宛先人の不在を必要とするのだろう、と細馬は問う。

「差出人は贈り物を用意することによって、贈り物に、自分の存在と相手の不在を刻印してしまう。「差出人(わたし)のいる場所に宛先人(あなた)はいない」。それが、差出人の差し出す謎である」
「書くという行為は、単に既知のできごとを表わすためにここまで多様な形に広がったのではない。それはおそらく、贈与の行為として人々のあいだに広まったのである。でなければ、書くという行為が、なぜ執拗に宛先人の不在を必要とするのかを説明することができない。そしてエクリチュールこそは、謎をかけるのにもっとも適した贈り物だった」

これはたいへん魅力的な考え方のように私には思える。
「わたしのいない場所」「宛先人の不在」という考え方に「座の文芸」という視点を放り込んでみるとどのような事態が生じるだろうか。「座の文芸」では「宛先人の不在」どころではない。宛先人は目の前にいるのだ。けれども、川柳においても「宛先人」の問題は改めて考えられなければならないだろう。
差出人(作者)は誰に宛てて書いているか。それは仲間うちだけにしか通用しない言葉で書かれているのではないのか。また、宛先人(読者)は自分に宛てて書かれたかどうかも定かではない作品を読みかねているのではないのか。
川柳は「投壜通信」から出発しなおさなければならない。

2010年11月12日金曜日

『麻生路郎読本』

「川柳雑誌」「川柳塔」通巻1000号記念として『麻生路郎読本』が川柳塔社から出版された。500ページを越える大冊で資料的価値が高い。「麻生路郎アルバム」「麻生路郎作品」「麻生路郎文集」「語録」「麻生路郎物語」「人と作品」「著作解題」「年譜」などから成り、川柳六大家のひとり・麻生路郎の全体像を多面的にまとめている。

これまで麻生路郎について調べるには構造社出版の川柳全集・第二巻『麻生路郎』(橘高薫風編)を利用するのが手頃であった。また、大阪市立中央図書館には麻生路郎が寄贈した川柳関係の蔵書がある。当然「川柳雑誌」のバックナンバーもそろっており、初期の「川柳雑誌」の活気に満ちた誌面に接することができる。「川柳雑誌」創刊前後の麻生路郎にはめざましいエネルギーが感じられ、私が特に関心を持っているのもこの時期である。
今回の『麻生路郎読本』で嬉しいのは、東野大八による「麻生路郎物語」が完全収録されていることである。「川柳塔」昭和50年1月号~昭和52年7月号に掲載されたものをまとめて収録している。
東野大八の文章を参考にしながら、しばらく大正期の路郎の軌跡をたどってみたい。

大正4年、路郎と川上日車は「番傘」を脱退し、8月に「雪」を創刊する。「川柳」という呼称を用いず、「新短歌」と称している。大正6年2月の終刊まで19号を発行。
日車は後年、次のように回想している。

「古川柳には、古川柳独特の味いと響をもっている。私たちは久しくそれに浸って川柳作家としての揺籃期を過ごした。だが少年期はやがて迎える青年期の前提である。少年期に『紅い』と映ったもの、それは、伝承的『紅い』であって自己の発見した『紅い』ではなかった。ここに少年期と青年期との間に一つの曲り角がある。その曲り角を意識にとめず一直線に歩みつづけるのも、透徹した一つの道ではあるが、自己に厳しい執着を持つ者にはそれが出来ない。そこに青年期の浮氷が横たわる。路郎と私が手を携えて『雪』を発行したのは、まさに此の曲り角に立った時であった。

  くろぐろと道頓堀の水流る
  行末はどうあろうとも火の如し

こうして路郎の眼は次ぎ次ぎと人生のあらゆる角度に拡がっていった」(「雪の頃―路郎と私」、「川柳雑誌」昭和32年7月)

「行末は」の句は路郎の心意気をよく示しているように思えるが、橘高薫風の調査によると「雪」の中にはないという。また、「くろぐろと」の句は「くろぐろとうき川竹の水流る」の形で「雪」に収録されているということだ。
「雪」終刊の翌年、大正7年7月に「土団子」が創刊される。表紙は小出楢重。創刊号の巻頭言は路郎が書いている。

「現代の柳界は例せば青い玉と赤い玉の時代である」
「青い玉は静的である。池の中の水である。水底に沈殿せる黒い土である。その土に圧せられたる朽葉である。彼等は遂に自己の流れ行く運命をさへ知らないのである」
「赤い玉は動的である。天上に燃ゆる太陽である。世にありとあらゆるものを焼かんとする火である。この故に頗る危険である。しかしながら此の危険のない処に真の革命はない筈である」
「茲に我等は青い玉の上に赤い玉を建設することを宣言する。我が『土団子』は、柳界の平和を打破して、新しい川柳王国を築くために放たれたるピストルの一弾である」

過激な宣言であるが、「土団子」もその年の10月には4号で廃刊になってしまう。
大正8年、路郎一家は萩の茶屋三日路に移り住んだ。『麻生路郎読本』巻頭の「路郎アルバム」の中には半文銭と路郎のふたりが写っている写真が掲載されている。「大正9年の春、大阪市萩の茶屋三日路の路郎居にて。左は半文銭。近所に住んでいたので、頻繁に行き来していた」とある。
やがて新興川柳運動が起こり、半文銭と日車はその中心作家となるが、路郎は同調しなかった。

「日車氏は半文銭氏と共に『小康』を出したが、私は日車の強請を断じてしりぞけ、これには参加しなかった」「お互ひ川柳家同志がいかに、可なりとして褒めちぎったところで、一歩社会へ出て見れば、まるで社会から川柳の存在が認められてゐないではないか。これではいけない。ここに眼をつけた私は日車氏等の強請懇望これつとめてくれた友情をも振り切って、社会的な柳誌、社会を対象とする柳誌刊行の計画をすすめたのであった」(「苦闘四十年」、「川柳雑誌」昭和18年2月)

ここで路郎は現実路線へと舵を切ったのである。
新興川柳との路線の違いは田中五呂八に対する次のような言葉にも表われている。

「あなたが『氷原』のために闘っていられる態度、同志のための詩集を出すための努力などに対しては涙ぐましさを感じます。けれども、あなたの評論や創作に対しては僕は唯厳正な一批評家の立場で拝読していることに心づきます」「一体革新の名によって奮闘?をしている人達は気短過ぎる共通性の欠点を持っていると思います。薄っぺらな雑誌すら出たり出なんだりで、社会から川柳に対する従来の誤解を一掃しようなどと考えて見ることすらあまりに虫のいい話だと思います」(「三十年計画―田中五呂八氏に与ふ」)

「川柳雑誌」は大正13年2月に創刊された。以後の歴史は比較的知られているだろうし、『麻生路郎読本』にも詳しく語られている。
河野春三が「詩性と大衆性との中で」で書いているように、路郎は日車・半文銭の新興川柳に同調せず、当百・水府の伝統川柳とも一線を画して、彼の青春性を示す「雪」「土団子」の高踏を自ら捨てて、「川柳の社会進出」のために奮闘したということになる。「詩性」と「大衆性」の中で文学運動を起こそうとしたのだ、と春三は見ている。これはこれで、川柳人のひとつの生き方だろう。
以下、路郎作品を少し書き留めておく。

  俺に似よ俺に似るなと子を思ひ
  君見たまへ菠薐草が伸びてゐる
  酒とろりとろり大空のこころかも
  寝転べば畳一帖ふさぐのみ

麻生路郎の辞世として、次の句が知られている。

  雲の峯という手もありさらばさらばです

路郎の死は7月、俳句には「雲の峯」という季語があるが、川柳人はそのような手は使わない。
死に臨んで俳句の季語に喧嘩を売ったところに川柳人・麻生路郎の面目躍如たるものがある。
一部分しか触れられなかったが、『麻生路郎読本』には路郎とその時代を考えるための様々な材料が満載されている。

2010年11月5日金曜日

くんじろうの川柳

さる10月16日(土)、第10回詩のボクシング全国大会が東京・日経ホールで開催され、くんじろう(竹下勲二朗、「ふらすこてん」「バックストローク」同人、「空の会」主宰)がチャンピオンの座に輝いた。川柳界から新しい朗読ボクサーの誕生である。

くんじろうが三重県代表として出場したのは、阪本きりり(松本きりり)の薦めによる。7月17日(土)に鈴鹿市文化会館で開催された三重県大会のことから改めて報告すると、くんじろうは、1回戦・鈴鹿のJUN、2回戦・ISAMU、3回戦・みおよしきを快調に打ち破り、決勝に進んだ。「にいちゃんが盗った、ぼくが手伝った」「そのへんの石になろうと決めた石」など、くんじろうの朗読は五七五を基本とし、聞き手の共感を得るような語り方である。泣かせるツボを心得ているのだ。そういう意味では、彼の朗読はいわゆる「現代詩」とは無縁である。三重大会でもっとも「現代詩」を感じさせたのは池上宣久という人で、詩のおもしろさと朗読技術の確かさという点では抜きん出ていた。
審査員は現代詩の専門家ではないから、詩の内容だけではなく、朗読者の存在感自体も評価の対象となったようだ。
決勝戦でくんじろうはやまぎり萌と対戦した。やまぎりはこれまで何回か三重大会に出場経験のある、車椅子の障がい者であるが、その朗読には迫力がある。圧巻は即興詩で、先攻のやまぎりには「うどん」という題が、後攻のくんじろうには「そば」という題が出た。やまぎりの即興詩もユーモアを交えたおもしろいものだったが、くんじろうの「そば風呂」の話は落語的ナンセンスと川柳の題詠で鍛えられた技で会場を大いに沸かせた。本人の弁によると「神様が降りてきた」ということである。くんじろうの芸が勝ったということだろう。

私は全国大会を聞きに行くことができなかったが、堺利彦の報告によると、全国大会でもほぼ事情は同じだったようだ。「バックストローク」の掲示板で、堺は次のように書いている。

〈ところで、試合は、トーナメント方式により行われ、くんじろうさんは、第一回戦では、第8回徳島大会チャンピオンの新田千恵子さんと対戦、私の見た感じでは、どうも、これが事実上の決勝戦のように厳しい戦いでありました。くんじろうさんは、メルヘンチックなストーリの詩を河内の方言も交えてリズミカルに、かつ、郷愁を含んだ軽やかな声で発表。一方の千恵子さんは、歌舞伎の八方を踏むパホーマンスを取り入れ、「カン」の脚韻の面白さを取り入れた言葉の遊びこころと音律の心地良さを合わせた身振りによる詩の発表と対照的でありましたが、結果は、かろうじて、4対3の勝利でありました。
「詩のボクシング」は、初めて観戦しましたが、その審査基準が何かはよく分かりませんでした。詩の内容からすれば、北海道大会のチャンピオンである二条千河さんの詩などは、非日常的モチーフによって人間の根源を衝いていて、どきりとされましたが、審査員の先生方が詩の専門家ではありませんから、あまり難しい内容のものは敬遠されたのかなあと感じた次第です。くんじろうさんの対戦相手である千恵子さんの詩も、ことば遊びの楽しさという点からすれば、高く評価されてもいい内容のものと思いましたが、そこは、連戦琢磨のくんじろうさん、「共感」を誘う落としどころを心得ていて、お涙頂戴式でポイントを稼いだものと感じ入った次第です。これは、川柳で言うところの、選者の傾向に合わせて作品を投句するという「当て込み」と呼ばれるテクニックと同じもので、句会で鍛えたくんじろうさんにとっては、お手のものといえるでしょう〉

くんじろうのルーツである川柳・落語が確固として彼の朗読を支えていることが分かる。
ふだん「バックストロークは嫌いだ」と公言しているくんじろうは、川柳においても共感と普遍性に基づく書き方をよしとしているのだ。そのような彼の方向性は、朗読という観客の反応が直接的に見える場において、きわめて効果的に発揮されたということができる。

「週刊俳句」183号に、くんじろうの川柳「ちょいとそこまで」10句が掲載された。その前半を紹介しておこう。

うどん屋の湯呑みですから箸ですから
茄子ありがとうございます 鰯
ぶかぶかの長靴桃は腐らない
郭まで母を迎えにゆく蛙
ご祝儀にしてはトーテムポールかな

読者に預ける書き方というものが川柳には見られる。1句目、「ですから」何だというのだろう。それは読者にまかされている。もともと「ですから」には深い意味はなく、湯飲みと箸があるだけなのだ。この湯飲みと箸には庶民性の匂いがある。
2句目は手紙形式になっている。差出人は鰯である。食卓に茄子と鰯が並んでいる情景などが思い浮かぶ。この取合せを鰯自身は気に入っているらしい。茄子と鰯の親和力である。
3句目、ドイツロマン派には「長靴をはいた猫」という作品があるが、ぶかぶかの長靴をはいているのは子どもかも知れない。「桃は腐らない」との間に飛躍がある。現実の桃は腐るけれども、永遠を感じさせる桃のイメージだろう。
4句目の「蛙」は喩として常套的で分かりやすいが、5句目の「トーテムポール」には言葉の飛躍がある。
市井に生きる庶民の哀歓をベースにしているが、感情過多の作品に陥ることから救っているのは川柳的飛躍に基づく言葉の切れ味による。くんじろうの川柳の今後の展開に期待したい。

先日、くんじろうは「川柳・北田辺」という句会を立ち上げた。案内文に「おもろい句会になったらええなぁ~」とある。はじめての人にも川柳のおもしろさを伝えたいという熱意が伝わってくるが、川柳の伝道者としてだけではなく、さらにパワフルな彼自身の作品を書いていってほしいものである。