2021年2月26日金曜日

女性の川柳作品について

和歌の世界では女性の作者の歌が古代から連綿と続いているが、『菟玖波集』を読んでいて女性の連歌作者の存在に目の覚めるような思いがした。

もえわたる夜中の螢をしるべにて
 みさをに物やおもひみだれん     後深草院弁内侍
あしの根のうき身はさぞとしりながら  後深草院少将内侍

弁内侍、少将内侍の祖父・藤原隆信、父・信実はともに肖像画家として知られる。信実の三人の娘は女流歌人として有名で、上から藻壁門院少将、後深草院弁内侍、後深草院少将内侍。弁内侍には『弁内侍日記』がある。二条良基の『筑波問答』には次のように書かれている。「後の嵯峨の御時は、この泉殿にて、御連歌年ごとに、庚申の日は必ず侍しなり。弁内侍・少将内侍などいふ女房連歌師、御簾のうちより紅の袴・衣の妻口押し出だして、香りみちて、心も及ばぬ句ども申し出だされ侍りしかば、人々感にたへず、高声に吟詠せられき」

女性の俳諧については別所真紀子の仕事が挙げられる。『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』(1989年、オリジン出版センター)『「言葉」を手にした市井の女たち』(1993年、同出版)は俳諧の女性史の基本文献である。前者は「芭蕉の女性観」をはじめ凡兆の妻の羽紅、乙州の母の智月、斯波園女などが取り上げられている。後者のタイトルの「言葉」には「エクリチュール」とルビがふられ、谷口田女、五十嵐浜藻などが論じられている。浜藻は別所の俳諧小説の主人公として描かれ、浜藻歌仙帖の連作『つらつら椿』『残る蛍』『浜藻 崎陽歌仙帖』は連句に興味のある読者にお勧めしたい。
あと、上野さち子著『女性俳句の世界』(1989年、岩波新書)は田捨女から細見綾子まで、近世から現代までの女性俳諧・俳句史を通覧するのに便利である。

では、川柳の世界ではどうだろうか。
川上三太郎の著書に『川柳200年』(1966年、読売新聞社)がある。その中の「女性の作品とその動向」という章で、三太郎は次のように書いている。
「戦後、川柳界でのいちじるしい二つの進出があった。一つは時事川柳の再発足で、これは別項に略記した。もう一つはいわゆる女性川柳作家の激増、これである。もちろんこの二つとも戦後にあらわれたのではない。戦後どころか戦前、大正、明治とさかのぼって、江戸川柳の中にすでに発芽していた。ここに女性の川柳作家について私の知っていることは、明治時代すでに彼女たちがいたことで、その中の二、三のかたにはお目にすらかかっている」
このように述べたあと、三太郎は明治36年(1903年)前後の女性作者の句を挙げている。三太郎が挙げているのは次のような作品である(一部省略)。

キューピット矢の払底の度々困り   政女
ぼうぼうと毛のショールから人の首  京子
梓弓元の女房に会つたやう      素梅女
小説で読めば苦学は面白し      倭文子
詩の国へ法師を送る西遊記      はる子
恋に負けやうやく人となりすまし   つる女

少し説明を加えておこう。阪井素梅女(さかい・そばいじょ)は阪井久良岐の妻である。明治37年、久良岐社の同人となる。
 燕の絵アシラヒに雨五六本  阪井素梅女
 俄雨帯を包むが女なり
 美しく化けて公達迷はせる
 梅の精西海へ飛んで千余年
伊藤政女(いとう・まさじょ)は作家の伊藤銀月の妻。自らも小説を書き、『川柳久良岐点』にも句が掲載されている。阪井久良岐は彼女を柳壇のジャンヌ・ダルクと呼んだという。
 虞美人も詩迄詠めると気が付かず  伊藤政女
 付けたりのやうに散花里を訪ひ
 ならばその枕一つは借りたいな
 二人にはつげずわたしは死にました
「虞美人」は司馬遷の『史記』に登場する項羽の愛姫、「散花里」は『源氏物語』の「花散里」の巻、「枕一つ」は「邯鄲一炊の夢」、「二人には」は万葉集の菟原処女(うないおとめ)や謡曲『求塚』など二人の男性から求婚された女性の物語が踏まえられている。
下山京子(しもやま・きょうこ)は岐陽子の名でも知られ、久良岐が「京子果して川柳に天才を有する乎」と驚嘆した才女。関西川柳社の創立にも加わっている。
 同窓会ハズバンド連れ式部来る    京子
 坊つちゃんの留守ラケットが笊になり
 夏座敷当座は心落付かず
 細い雨断頭台に啼く鴉
以上三名は久良岐系であり、明治期の女性川柳はおおむね阪井久良岐の指導下にあったようだ。
次に三太郎は大正時代の女性作家の句を挙げている。

踏み込んでならない場所を下に見る  信子
カーテンはいつからかおろされてゐた 茂子
ふと上げた睫毛言葉を待つてゐる   しづ子
死なないで別れときどき逢ひませう  梅子
飲んでほし止めてもほしい酒をつぎ  よし乃

大正時代になると新興川柳運動が起こり、井上剣花坊の柳尊寺系の女性作家が活躍するようになる。井上信子は剣花坊の妻だが、彼女のことはこの時評(2020年7月10日)で触れたことがあるので、ここでは略すことにする。

この色の襟が掛けたい藤の色   三笠しづ子
軟らかに抱いた兎の息づかい
これ以上人形らしくなり切れず
拭はるる涙をもつて逢ひに行く ハッとしたやうに切られた花のふるへ

田中五呂八は「ふたりの女流作家論」(昭和4年5月「氷原」40号)で信子としづ子を並べて論じている。吉田茂子・麻生葭乃についてはここでは触れないが、それぞれ興味深い女性川柳人である。

三太郎の文章に戻ると、女性の作品を挙げたあと、彼は次のように述べている。
「ここで気がつくことは二、三の例外を除くと、句の眼の据えかたが、べつに男性作家となんら変わっていないということである。言いかえれば作者は女性であるが、句は〝おんな〟ではないということである」
「しかし、この時代としてはそうなのが当然で、比率からいっても、男性百に対して女性一ぐらいであるから、句がみんな〝男〟になっているのである。そこで私はいった。『女性の句とは作者が女であるということだけではない。句が〝おんな〟でなければならぬ』と。前掲明治、大正の中のいわゆる例外とされているとよ子、つる女、信子、茂子、しづ子、梅子、よし乃等々のそれらが、例外でなく本命であるようにならなければならぬ。私はそれに努めた。そして戦前、戦後の女性のあらかたは、従来の男の手になる川柳を伝承しているかに見えるが、やがては本来の女性にかえって〝おんな〟の句が撩乱と七彩の虹の橋を架けるであろう」
1960年代当時の川上三太郎の女性川柳に対する考え方がうかがえるが、現在の視点から見て、検討すべきいろいろな問題がありそうだ。
まず、「作者は女性であるが、句は〝おんな〟ではないということ」とはどういう意味だろうか。彼は「句がみんな〝男〟になっている」とも言っている。女性作家が川柳を書くのだから男性作家とは異なる独自の視点が必要だと言いたいのだろう。男性が主流である文芸ジャンルで女性の作者が従来の「男の眼」を通して世界をとらえ、作品を書くということは起こりがちだろう。その場合の「男の句」「女の句」とはどのようなものか。そもそも「男の句」「女の句」というようなものが現代川柳においてありうるのかということも問われなければならない。
三太郎は「従来の川柳」は「皮肉、風刺、洒落」とも言っているから、これらが「男の川柳」の内実というイメージだろう。(ただし、三太郎は詩性川柳に道を開いたひとりでもあるので、彼の川柳観には大きな幅がある。)また、「女の川柳」の本命としてとよ子、つる女、(井上)信子、(吉田)茂子、(三笠)しづ子、梅子、(麻生)よし乃などの名前が挙げられているのも三太郎の川柳観をさぐる手がかりとなる。また、三太郎は戦後の女性作家の句評も行っているので、ふたつ紹介しておく。

しようのないひとをふんわり包む笑み  時実新子
「意識してもしなくても、女性の天性の母性本能というものは、男性にさえ向けられるものである。それが漂っているのが感じられるから、この句は微笑の中に読めるのである」

献身の細胞一つ追憶記    福島真澄
「どんなに尽くしても飾っても、いってしまえば人間は単なる細胞にしか過ぎないという。下五の〝追憶記〟のむなしさが言外にあふれて、〝一つ〟という一人称の孤独感を印象づけてくる。この句想を定型にした窮屈さはマイナスである」

現在の眼から見て様々な問題を含みながら、三太郎には女性の川柳人を育てた功績がある。彼は「撩乱と七彩の虹の橋を架けるであろう」と言ったが、その代表的な存在が時実新子だった。

2021年2月19日金曜日

親句と疎句の感覚

今年は2月2日が節分、2月3日が立春だったが、その立春の日にネットで「連句新聞」が立ち上げられた。高松霞と門野優が昨秋から計画していたもので、立春の日に公開されたのは「春号」ということ。10グループの連句作品とトピックス「ひらがなかせん」が掲載されている。季刊になるようで、次号は発句が夏の連句が集められることになりそうだ。四季がそろえば、現代連句のアンソロジーとして貴重なものになるだろう。中村安伸がコラム「連句と時間」を書いていて、次のように言っている。

〈句を付けるにあたって難しく感じるのが、前句の一つ前の句、すなわち打越句との関係である。付句は打越句と関係が「あってはならない」とされていて、これは数ある連句のルールのうちでも特に重要なものである。
しかし、二句の関係を完全にゼロにすることは不可能である。私の解釈では、打越句と前句の関係と、前句と付句の関係が類似のものであってはならないということであり、このルールは「時間」に関係していると思う。〉

念のため用語の説明をしておくと、たとえば次の付合で

A  尻尾ぬらした狐しまった      わだとしお
B 風吹けば吹くまま乱る雪女      別所真紀子
C  繰返し聴く「展覧会の絵」      田倉夕花

Cから見て、Aを打越(うちこし)、Bを前句(まえく)、Cを付句(つけく)と呼ぶ。AB及びBCはひとつの世界だが、AとCは別の世界。即ち、BをはさんでAからCへ転じる。
中村は「場の時間」と「個の時間」の二つの時間について述べているが、ここでは前句と付句の関係について「親句と疎句」という視点で書いてみたい。釈迢空の有名な短歌からはじめようか。

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を 行きし人あり  釈迢空

『海やまのあひだ』のうち「島山」という連作十四首の第一首。作者は次のように言っている。「もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行つた人を推理している訳ではない」(『自歌自註』)
これはどういうことだろう。この歌は三句切れで、上の句葛の花の風景は映像的で鮮やかだ。そこから通っていった人の姿の存在がありありと実感されたのである。この歌の成立は、原因があって結果があるというような因果律や意味のつながりによるものではなく、連想と感覚によって成り立っている。これを連句における発句と脇句との関係と捉えることもできる。上の句と下の句の意味の関連がわかりやすいから、「親句」(しんく)と言えるだろう。                              
次は斎藤茂吉。

たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり    斎藤茂吉

この歌は茂吉の「分からぬ歌」(難解歌)としてよく取り上げられる。
「この一首は、上の句と下の句とが別々なやうに出来て居るために『分からぬ歌』の標本として後年に至るまで歌壇の材料になつたものである。併し、この一首などは、何でもないもので、讀者はただこの儘、文字どほりに受納れてくれればそれで好いのであつて、別に寓意も何もあつたものではないのである。」(「作歌四十年」)
上の句と下の句の意味つながりが一見すると無関係のように見えるのだろうが、茂吉は上の句の「戦争」を下の句で「鳳仙花」にあっさり変えてしまった。意味のつながりが分かりにくく飛躍感があるので「疎句」(そく)になるだろう。
定家は疎句に秀歌が多いと言ったと伝えられる。
親句・疎句は和歌で言うほか、連歌・連句でも言われる。
「歌には親句・疎句とて二つの体あり。連歌にはなきことにや」(心敬『ささめごと』)
ちなみに心敬の疎句としては次の付合が有名。

我が心たれにかたらむ秋の空
 萩にゆふかぜ雲にかりがね    心敬(『新撰菟玖波集』)

連歌の起源や平安時代の連歌について今は触れないが、連歌が流行するにあたって、後鳥羽院と藤原定家の存在が大きい。連歌流行のベースにあるのは三句切れと体言止めだろう。

見渡せば山もと霞む水無瀬川夕は秋となに思ひけむ    後鳥羽院
春の夜の夢の浮橋と絶えして峰にわかるる横雲の空    藤原定家

後鳥羽院の上の句の状景から下の句の述懐(『枕草子』の「秋は夕暮れ」という美意識に対するアンチ)、定家の上の句の源氏物語の雰囲気から下の句の峰に別れてゆく雲の情景(恋)への幽玄と余情。
定家の新風は当初「達磨歌」と呼ばれて非難された。自分だけ悟っていて、他には理解できない歌である。
「今の世の歌をばすずろごとの様に思ひて、やや達磨宗など云ふ異名をつけて譏り嘲ける」(鴨長明『無明抄』)
しかし、現代の私たちの感覚からは定家の歌は難解ではないし、茂吉の難解歌すら連句人にとっては難解でも何でもない。わかりやすいものである。寺田寅彦の次の言葉は、そのことを物語っている。「常に俳諧に親しんでその潜在意識的連想の活動に慣らされたものから見ると、たとえば定家や西行の短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方があらわであり過ぎるような気がするのをいかんともすることができない。斎藤茂吉氏の『赤光』の歌がわれわれを喜ばせたのはその歌の潜在的暗示に富むためであった」(「俳諧の本質的概論」『寺田寅彦随筆集』第三巻、岩波文庫)

付けと転じ、親句と疎句の感覚は連句実作を体験しないとなかなか分からない。付句が疎句ばかりになると連句は解体してしまうので、どのようにバランスをとるかが連句実作の要諦だろう。連句は座の文芸なので、その場に集まらないとできないものだが、コロナ禍のいまは逆にZoomなどのリモート連句の機会が増えているので、興味ある人は連句実作のチャンスがあることとと思う。
鴨長明は『無明抄』のなかで「歌はただ同じ詞なれども、続けがら・いひがらにてよくもあしくも聞ゆるなり」と書いている。藤原定家も「申さば、すべて詞に、あしきもなくよろしきも有るべからず。ただつづけがらにて、歌詞の優劣侍るべし」(『毎月抄』)と同様の考えを述べている。
すべては言葉の関係性の世界なのだ。

2021年2月12日金曜日

吉松澄子と杉野十佐一賞

第25回杉野十佐一賞の大賞を吉松澄子が受賞した(「おかじょうき川柳社」ホームページ)。受賞作は

風船がハーイと言えば空ですね  吉松澄子

題は  (^O^)/  という絵文字である。応募者は作句にとまどったようだが、この絵文字は「ハーイ」という意味らしい。吉松は巧みに句に詠み込んでいる。
なかはられいこの選評を紹介する。
〈特選に推した作品である。風船と空では付きすぎだという意見があるかもしれない。だけど、そこを割り引いても、この句の持つ解放感と爽快感に、そして「ハーイ」という底抜けの明るさに、心を動かされた。だれかの手を離れて青空の奥へ奥へと昇ってゆく風船の映像もくっきりと見えるし、なにより「言えば空」という不思議な決めつけ方にも惹かれる。今年、すべての人が味わった閉塞感を少しのあいだ忘れさせてくれる作品だった〉

吉松の受賞は二度目となる。前回は第23回で、そのときの題は「黒」。

別室の黒羊羹はどうなるの    吉松澄子

吉松は松山の川柳グループ「GOKEN」のメンバー。『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)の中西軒わのページで、私は「GOKEN」について次のように解説している。

〈松山は「俳都」と言われ、正岡子規の出身地であるだけでなく、近年は「俳句甲子園」で盛り上がっているが、実は川柳も盛んな都市なのだ。前田五健という人がいる。伊予鉄道につとめていたが、野球拳の創始者としても知られている。彼は高名な川柳人であった。
  なんぼでもあるぞと滝の水は落ち  前田五健
この五建の名をとった「GOKEN」という川柳グループが松山にある。代表は原田否可立。吉松澄子や高橋こう子、中野千秋・井上せい子など、個性的な川柳人たちが集まっている。中西軒わもその一人だ〉

杉野十佐一は昭和26年に「おかじょうき川柳社」を設立。昭和54年に没するまで初代代表をつとめた。杉野十佐一賞という川柳界のなかで注目を集める賞で、二度も受賞したことは吉松澄子の実力をはっきりと示している。
「川柳スパイラル」掲載作品から吉松の句を抜き出しておく。

さりげないその言葉こそ常套手段    吉松澄子
誰のものですか鎖骨がうつくしい
正統派キャラメル識別番号は
あっそれはむかしのわたしわれもこう
きれいごと並べて遊びたいような
知っていたはずを解凍されちゃった
黒鍵のエチュード ぬけぬけと冬へ
こじらせるそんなつもりはない再会
心中をしようかなんてソーダ水
ぐれなくてよかった一房の葡萄

次に近刊の雑誌からいくつか紹介しておく。
「みしみし」8号(編集・三島ゆかり)は連句誌だが、連衆の短歌・俳句・川柳作品も掲載されている。川柳からは八上桐子が参加。

検査機のなかの気球ときた岬   八上桐子
桔梗切る鋏が夜も切ってしまう

三島ゆかりが〈八上桐子『hibi』を読む〉を書いている。三島は「私は俳人なので川柳の読み方を知っている訳ではない。丸腰で頭から読む」と書いているが、読者としては正当な読み方である。先入観なしに、一行の詩として川柳を読んでもらえばいいと思う。
あと田中槐が「岡井隆の俳句へのヴァリエ―ション」として短歌を書いているのに注目した。

絵の家に寒燈二ついや三つ   岡井隆
「三つ」だとわかつてゐるが「二つ」だと、否、一つだに見ようとはせず 田中槐

最後に「川柳ねじまき」7号から。

琉球硝子の気泡たちにも明日はある   なかはられいこ
きょねんからことしを引いて残るもの
朝がきて空が青くて、なんか、ごめん

なかはらが前向きな句を書いているのが、こんな時代だから救われる。日常に対する愛着。

傘の骨透けてあざらしのまなざし   八上桐子
コロナ来る扁桃腺を乗り継いで    丸山進
古書店の奥まぼろしになる日常    青砥和子
よし今日から君は、だ、になれ    猫田千恵子
留守続くことまぶたをはぐくむこと  二村典子
待っている二月みたいな顔をして   瀧村小奈生

2021年2月5日金曜日

短歌と川柳の交流、新しいステージへ

短歌ムック「ねむらない樹」6号に第三回笹井宏之賞が発表されている。大賞は乾遙香「夢のあとさき」。全50首のうち3首紹介する。

飛ばされた帽子を帽子を飛ばされた人とわたしで追いかけました  乾遙香
わたしとの無言の時間に耐えかねた男の子がかけてくれる音楽
わたしがいたことしか覚えていないというその夢のわたしに任せよう

「わたしがいつか短歌で賞をもらうことがあるなら、それは笹井宏之賞だろうと第一回から信じていました」と作者は〈受賞の言葉〉に書いている。「わたし」と相手との関係性が「わたし」の側から詠まれている。私性と恋と夢。幽玄や余情を現代的に詠もうとすれば、こんなふうになるのかなとあらぬことを思った。
「ねむらない樹」の特集はほかに黒瀬珂瀾、現代川柳の衝撃、アンケート2020年の収穫、『林檎貫通式』を読む、と内容満載。特集3「現代川柳の衝撃」では
樋口由起子「短歌読者のための現代川柳案内 五七五のせかい」
川合大祐・暮田真名・柳本々々・飯島章友・正岡豊・初谷むい(それぞれ川柳5句と短歌5首)
座談会「現代川柳は命綱なしのポエジー」(小池正博・瀬戸夏子・なかはられいこ)
という内容になっている。
「川柳は命綱がなくポエジーだけで生きている」(瀬戸夏子)とか「川柳は上達するのか?」(暮田真名)とか、言ってくれるじゃないのという発言が随所に見られる。

「短歌人」2月号に笹川諒が「現代川柳が面白い」を書いていて、『はじめまして現代川柳』のことが紹介されている。笹川は「私が現代川柳に興味を持ったのは、笹井宏之さんのブログ『些細』がきっかけだった」という。2008年6月26日の記事で「『うがち』や『おかしみ』だけではない現代詩にも負けないようなポエジーにあふれた現代川柳たくさんあるのになあ」と笹井宏之が書いているそうだ。

口開けば鳥が飛び出すから黙る   なかはられいこ
どうしても声のかわりに鹿が出る あぶないっていうだけであぶない  笹井宏之

笹川諒はこの二つを並べて紹介したあと、「笹井さんの歌の上の句が、川柳としても成立することに気がついた」という。とっても興味深い。

このところ管見に入ったなかで出色の川柳作品を書いているのが我妻俊樹である。
歌人で怪談作家でもある我妻はもともと巧みな川柳を書いていて、私の手元には『眩しすぎる星を減らしてくれ』という冊子がある。2018年5月「川柳スパイラル東京句会」に彼を招いたときに作ってもらった百句を収録。

沿線のところどころにある気絶  我妻俊樹
おにいさん絶滅前に光ろうか

その後も我妻の川柳はときどき読んでいたが、このたびネットプリント「ウマとヒマワリ12」で彼の作品をまとめて読むことができた。現代川柳の作者の句と比べても遜色がない作品が並んでいる。

書き順を忘れられない町がある  我妻俊樹
あなたにもランプの芯があるはずだ
玉虫と決めたらずっとそうしてる
八階の野菊売り場が荒らされた

「ウマとヒマワリ12」では平岡直子が俳句を書いている。平岡も上質の川柳の書き手であるが、一年前の「ウマとヒマワリ7」の特別対談ではこんなふうに言っていた。
「川柳だったら短歌とは別ファイルではありつつ同じアカウント内で作れるけど、俳句は無理。俳句も慣れてくると短歌と並行して作ることはできるけど、それは単に切り替えが早くなるだけで、同一アカウントとして作れるようになる日は来ないと思う」
短歌と川柳は同一アカウントのなかの別ファイル
短歌と俳句はアカウントが違う
という捉え方である。
もうひとつ、ネットプリント「砕氷船」もおもしろい試みをしている。暮田真名(川柳人)・斉藤志保(俳人)・榊原紘(歌人)のユニットだが「砕氷船」第二号では暮田が俳句を、斉藤が短歌を、榊原が川柳を書いている。ここでは暮田の俳句と「ウマとヒマワリ」の平岡の俳句を並べてみたい。

冬麗それなら鰐を飼うといい   暮田真名(「砕氷船」)
鶴以外すべて逆さの文字になる  暮田真名
寒椿わたしが銃を構えたか    平岡直子(「ウマとヒマワリ」)
冬の滝ゆえきらめいてかまわない 平岡直子

暮田は俳句を書いても自然に川柳になっているし、平岡は俳句の季語に近づきつつ独自の感覚を出していて刺激的だ。
「ねむらない樹」6号の対談でなかはられいこが語っているように、川柳人と歌人との交流は「ラエティティア」以来、一部で続けられてきた。
いま短歌と川柳の交流は新しいステージに入ったようだ。かつて「ジャンルの越境」が言われたことがあったが、「越境」というのは自分のフィールドを守ったうえで、他のジャンルにも手を出してみるというニュアンスがある。もちろん自分のフィールドは大切にしなければならないが、現在はジャンルの定義にこだわるのではなくて、実作を通じて形式の違いを語ることのできる作者が増えてきている。「ねむらない樹」の座談会の最後でなかはられいこは川柳について「荒らされるほど実っていないので、開墾しにきてください。短歌の人たちにも一緒に鍬持ってもらって、耕していけたらいいなと思っています」と言っている。
ほんとうにそんなふうになったら、おもしろいね。