2011年9月11日日曜日

川柳誌にできること、できないこと

少しずつ秋らしい空になってきた。秋は各地で川柳大会が開催される季節である。
この夏から秋にかけて、さまざまな雑誌や句集を送っていただいた。
「江古田文学」77号は「林芙美子・没後60年」特集を組んでいる。昭和26年(1951年)6月、林芙美子は心臓麻痺のために永眠。4月に「浮雲」を完結し、「めし」を連載しはじめたところであった。48歳。神奈川近代文学館では今年10月1日から林芙美子展が開催されるという。
「江古田文学」の特集「林芙美子の現在」では諸家が様々な角度から芙美子を論じているが、その中で浅沼璞が〈吟詠『放浪記』〉を発表しているのが印象的である。浅沼は最初に『放浪記』第三部の一節を引用している。

「速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて忘れてしまうのだ。
 仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る」

就寝時の眠りに落ちきらない頭脳の中では様々な言葉が飛び交っている。川柳人にもベッドから起きて言葉の切れはしを紙に書きつけた経験はあることだろう。浅沼はこの一節から芭蕉の「物の見えたるひかり」を連想し、「思えば芭蕉も芙美子も、宿命的な放浪者であった」と述べている。

放浪のカチウシャたらむ翁の忌   浅沼璞
痴れ人へ突き飛ばさんや扇風機
何喰うてベンチに星の女かな
私の表皮にすぎぬ「放浪記」

特集では「浮雲」について多角的に論じられていて、成瀬巳喜男の映画のことも取り上げられている。成瀬の映画はあまりにも有名であり、私も何度も見ているので、芙美子の原作はもういいやと思って、これまで読んだことがなかった。けれども、この特集によって俄然興味を刺激され、小説を読んでみると、これがとても面白いのである。

さて、振り返って、川柳誌における「特集」の在り方について考えさせられた。無いものねだりかも知れないが、川柳誌において充実した特集は企画しにくいし、成功もしにくいのである。
総合誌・結社誌・同人誌の三種の紙媒体の中で、川柳人にとってなじみの深いのは結社誌と同人誌である。
結社誌は会費を払って自己の作品を掲載してもらうシステムである。したがって、雑誌が届くと自分の作品が掲載されているページを真っ先に開く。高橋古啓は「自分で作った作品を自分で読んでどうするのか。他の人の作品をこそ読むべきではないか」とよく言っていた。けれども、自作を掲載してもらうために会費を払うのであってみれば、まず自作の載っているページを開いて悦に入るのは当然の権利と言えば言えるのである。
同人誌の場合はそれほど極端ではないだろうが、自作の発表の場として作品欄は当然重視される。ただ、川柳誌の場合、経済的な問題もあってページ数がすくなく、同人作品が詰め込まれて掲載されることが多いのは残念なことだ。同人はライバルでもあるから、どんな作品を書いているかに対しては関心があるはずだ。
いずれにせよ、川柳誌の場合、不特定多数の読者が読むのではないから、誌面構成は限定される。商業ベースにも乗らないから、企画や編集の良し悪しもあまり問われない。

ここでもう一冊紹介したい雑誌がある。四ッ谷龍の個人誌「むしめがね」19号である。平成17年に18号が出ているから、6年ぶりの発行である。「むしめがね」は昭和62年に冬野虹と四ッ谷龍との二人文芸誌として創刊。平成14年に冬野虹が急逝したあともゆるやかなペースで発行が続けられている。
本号では「ぶらんこの上の虹」と「四ッ谷龍句集『大いなる項目』」の二つの特集を組んでいる。
特集1ではフランスの作家・俳人ティエリー・カザルスが「ぶらんこの上の虹」のタイトルで冬野虹論を書いている。『セレクション俳人・四ッ谷龍集』の年譜によると、平成12年11月に四ッ谷はパリでカザルスと会っている。
「日本には、俳句を他言語に置き換えることは不可能であり、俳句の翻訳には意味がないと思っている人がいる。そう思う方には、ティエリーの文章をぜひ読んでみていただきたい」と四ッ谷は書いている。

白梅や図書館に気絶してゐる    冬野虹
水に澄むふたつのからだ羊追ふ
メリケン粉海から母のきつねあめ
荒海やなわとびの中がらんどう

「冬野虹がとくに愛読したフランス人文学者の一人に、『夢想の詩学』の著者、ガストン・バシュラールがいた。彼女はこの本を日本語訳で読んでいた。もじゃもじゃの白髯を生やしたこの哲学者は、その著作の中で夢想に重要な位置を付与していた、二十世紀にはまれな思想家であった」
カザルスはこのように述べたあと、「幼年時代のはじめの印象がどのようにして大人になってからの内面生活の素因となりうるか」を説いたバシュラールの一節を引用している。「バシュラールと同様、冬野虹は大いなる夢想家であった。生涯を通して、彼女は自分の『最初の感覚』に深くつながり続けていた」

特集2は四ッ谷龍句集『大いなる項目』。亜樹直(あきただし)と関悦史が書いている。亜樹直(女性)は講談社の青年マンガ誌「モーニング」に連載されているワイン漫画「神の雫」の原作者。四ッ谷とは中学時代の同級生だという。関悦史は俳句界で大活躍中の俳人・批評家。4月の「バックストローク岡山大会」で選者をしていただいたので、川柳界でもおなじみの方も多いだろう。「己からずれ出る激しい振動としての祈り」と題する『大いなる項目』評は、四ッ谷があとがき(ルーペ帳)で書いているように、ティエリーの「俳句の技法は、ひたすら『鼓動』に一致し、同期するところにある」という認識と一致する。すぐれた批評は期せずして一致するのであろうか。

渡り鳥鏡を抜けて来しもあらむ    四ッ谷龍
涼しさのわたしは庭となりにけり
大空を鳩にあずけて薔薇づくり
フルートは雷の妃なり吹けり
山猫は行ったり来たり宗鑑忌

「江古田文学」は350ページに及ぶ大冊で、特集には17人が執筆している。「むしめがね」は70ページの中に作品と批評が充実している。
比較することなどできないが、連想は「これからの川柳誌はどのような方向を目指すべきなのか」という方向に向かってしまう。川柳誌には何ができて何ができないのか。川柳誌にも構想力が求められている。

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