2011年9月16日金曜日

川上三太郎『川柳入門』を読む

9月11日(日)に地元の堺市で「第25回堺市民芸術祭川柳大会」が開催されたので参加してみた。秋は川柳大会のシーズンだから、他の大会とも重なっているようだが、120~130名の出席者があった。席に座って作句していると、さまざまな川柳大会の案内ビラが配られる。その案内ビラの選者と兼題を見て、その大会に参加する気になったりする。情報伝達の方法が古風とも言えるし、人間的とも言える。披講の前に墨作二郎の「お話」がある。川柳大会では選者が選をしている間の参加者の待っている空白を埋めるために「お話」という時間が設定されることが多い。
作二郎は終戦直後の堺の川柳界のことから語りはじめたが、昭和30年ごろの川柳入門書のうち川上三太郎の『川柳入門』(昭和27年・川津書店)を取り上げたのが印象的であった。同書店から発行された入門書シリーズで佐佐木信綱が『短歌入門』を、水原秋桜子が『俳句入門』を書いている。この本については後述する。

「お話」に続いて披講に入る。一つ目は「男」という題。この題では「男とはどういうものか」という常識や「男とはこんなものさ」という穿ちが量産されることになる。文芸性とは次元の異なる価値観によって場が支配されるから、作品はその場だけで消えてゆくし、またそれでよいのだとも言える。川柳の大衆性という一面が胸にせまってくる。当日の作品ではないが、「男」という題でどのような佳作が生まれうるか、頭の中で思い浮かべてみた。次に挙げるのはすでに著名な作品である。

壁がさみしいから逆立ちをする男   岸本水府
男は莫迦で蛇に咬まれたことがない  定金冬二
十人の男を呑んで九人吐く      時実新子
都鳥男は京に長居せず        渡辺隆夫

『川柳入門』に話を戻すと、三太郎は「川柳」を次のように定義している。

「川柳とは原則として人間を主題とする十七音の定型詩である」

この「原則として」は「人間を主題とする」という内容と「十七音の定型詩」という形式との両方にかかっている。例外として「人間を主題としない内容」もあるわけであり、例外として「十七音以上または以下のもの」もある。作二郎は「原則として」に三太郎の狡さがあるという。

「ところでこの人間を主題とする―という事ですが、これは人間のみとせまく取ってはいけません。人間―つまり人間及びそれから生ずる諸種相、生活、その見聞、感情等、一切がふくまれるので、それは大きな内容を持つことになるのであります。つまり、われわれの感懐、見聞がすべて川柳の内容となるのですから、川柳は非常に人間の匂いの濃いものなのであります」

「人間の匂い」という言い方をすると、「人間」よりも広い範囲をカバーできることになる。「原則として十七音の定型詩」というところにも、例外的韻律を認めていることになる。作二郎は「今の言葉が五七五のおさまるだろうか。おさまるとしたら、非常に窮屈である」と言う。
三太郎は川柳を作るには次の二つが必要だと述べている。

ことば―を沢山知って置く事
ことば―を正確に知って置く事

作二郎は震災や原発事故の現状に触れて、「シーベルト」「想定外」などの言葉が飛び交っているが、それらは正確に使われているのかどうかを問いかける。そして、川柳が時代の表現だとすれば、今を生きている人間として震災を書くことは避けて通れないと述べた。

『川柳入門』の第二篇「川柳の鑑賞」では、川柳をコント風に解説してある。たとえば、「夏まつり」というタイトルでは―

「なつかしいわ、くにのお祭―」
「おねーさん、赤ちゃん、まだ?」
「いやななつ子ちゃん―」
「西瓜切ってきたの、とても冷えてるわ」
「ありがとう、本当に久しぶりだわ、この味、おいしいわ」

  《 東京の姉も来てゐる夏まつり 》

こんな調子のコント風解説が続く。このようなスタイルを取ること自体、川柳が大衆文芸・民衆文芸の一面をもっていることを如実に示している。そう言えば、川上三太郎こそ、川柳が詩性と大衆性の二面性をもっていることを身をもって示した二刀流主義者であった。

作二郎が三太郎の『川柳入門』のうち、「ことばをたくさん知っておくこと」「ことばを正確に知っておくこと」の二点を引き合いにだしたことは今日的意味があるだろう。

この日の作二郎の話の中で最も印象に残った言葉がある。

「十年前の作品も今の作品も同じだと言われるのは癪である」

0 件のコメント:

コメントを投稿